2009.07.09

古事放談 5-3

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 5-3
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伯耆には日野川があり、出雲に斐伊川がある。高天原が蒜山高原にあるためには、この二つの川が登場しないことにはおかしい。
 しかも日野川の場合には「之」が必要である。先づ日本書紀では「簸河」と「簸之河」と使い分けがしてある。
 古事記では「肥河」と「肥上河」となって「之」の代りに小文字で上の字が加えてある。
 明らかに二つの別々の河があった。スサノオ命が遡ったのが、「之」又は「上」のつく河でこれなら日野川になる。
 蛇を切って血で赤く染った川は斐伊川だ。この蛇とは製鉄の職人のことと考えればよい。更に中山王国とイザナギ命との関係で述べたが蛇と呼ばれたのは中山王国から来た職人と考えたいのである。
 高天原が蒜山高原だとすれば、スサノオ命が高天原から追放されて、遡った川は日野川でこの上流に鳥上山は現存している。
 「八俣之遠呂地」と原文にあったのを「八岐の大蛇」と解説している。これは「八岐の遠呂地」で元来地名だった。大呂は現存する。

参考に----地名 大呂 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page268.html

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2009.07.08

古事放談 5-2

古事記の解説書は例外なしに「亀の甲」に乗って来たと書いたので神話になった。
 原文には「亀甲」と書かれている。「之」を間に必要とする時には、不必要な位の所にまで「之」が書き込まれていた。
 この「亀甲」の地名が米子の東を流れる日野川の川口近くと吉井川の上流の津山の錦織の近くに見付かる。これこそ亀甲が使われていた証拠である。
 古事記には当時島だった島根半島が登場しないことはおかしい。従って「子淡道之穂之狭別島」が島根半島だと申し上げた。ここに「之」の使用例がある。
 この島が倭人伝の末蘆国で通称松江国だつたのである。ここから亀甲に乗りかえて天津村(西伯町)までやって来た。
 従って日野川の下流に亀甲の地名があり、船はここで作られたことだろう。
 「之」が重大な誤解の基になったのが「伊勢大神之宮」である。崇神天皇の妹はここを拝き祭ったと原文に書かれていた。しかし解説書は「伊勢の大神の宮」と三重県にした。


参考に---亀甲のことは、日本書紀も古事記にも書かれています。神武天皇の所にです。
ここに書かれてある亀甲の取扱方で、歴史が神話になったと考えてみました。
(最も、日本書紀では、亀甲とはかいてなくて、「艇」と書いてあります。訳本では小舟になっています
)
No574神武東征(23) 豊国の宇佐(24)  艇と亀甲
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2009-05-30から5回にわたって書いています。この亀甲に乗って来たのが、日本書紀では珍彦とされています。
珍彦のことも次から、5回にわたって書いています。

No569神武東征(18) 豊国の宇佐(19) 珍彦
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2009-05-22 日本書紀が、古事記をみて作られたのですが、いかに、苦労したかが分かると思います。

それは、誰にも気が付かれませんでしたから、神武天皇は神話で、実在しなかった天皇とされています。

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2009.07.06

古事放談 5-1

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 5-1
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魏志倭人伝には水行10日とか陸行1ヶ月の文字が見える。
 古代には隣の集落との間には原生林の中を抜けなければならない道は存在しなかったと考えたい。
 交易が必要な時代でない限り、常時人が往復しない限り林の中の道はすく消える。けもの道が役立ったことだろう。
 古代には流れが緩い川と山の尾根を組合わせた所をいざと云う時に歩いたと考えたいのである。緩い川には川原があり、川は浅くて横断も楽だし、川の中でも渡れた。更に両岸からロープで船を引張れば大量の品物も運べたのである。
 この時に利用された船が亀甲とは前後がない船で伝馬船のことだ。
 神武天皇東征の時に古事記では神戸の和田浦(現在の和田岬)明石海峡のための水先案内がやって来た。
 この水先案内は亀甲に乗って釣りをしながら現れたのである。

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2009.07.05

古事放談 4-9

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-9
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古墳時代の前期、中期、後期と云われてもはたして何天皇の御世だか分からない。考古学と歴史学の接点が見付からない位おかしな話はないが古墳の年代が絶対年でない限り、アベコベに接点があったらおかしいのである。
 古墳から出土した漢の銅鏡と古墳時代が200年も違うこと位不思議なことがあるだろうか。
 弥生時代の遺跡で同じ様な土師器が出ればなぜ同期であり、古墳で中国と日本書紀で同年代の漢の銅鏡が出ても同時期と云ってはいけないのである。
 古墳から出た刀は北鮮と同じでも、北鮮は
長期に中国の植民地だった以上中国の武器と呼ぶべきではないか。
 将軍は中国人で、帯方郡と同じ様な占領政策が、帯方郡が独立して高句麗となった以降も河内で行われていたのである。
 魏志倭人伝で魏と使訳通じる所30余国と書かれたのは、全国に分布した例えば三角縁神獣鏡が出土した所が候補地と考えたいのである。

一言---古墳から出土した漢の銅鏡と古墳時代が200年も違うこと位不思議なことがあるだろうか。

どうしてこのようになるかとて言いますと、紀元前から、人々は、関東から九州まで、多くの人が行き来していたのに、そのように思わないから、土器は、同じところから動かないと思っているからです。出土した土器でその遺跡の存在した時代を決める考え方は、止めませんと、外国から日本の歴史は認められないと思います。

 同様に、世界の人が、日本へやってきていたのに、あまり認めたくありません。

昨日、奈良の西大寺でイスラム陶器が見つかりましたが、つぎのようなタイトルになります

国内最古イスラム陶器、奈良・西大寺で出土
「海のシルクロード」で平城京へ
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20090704-OYO1T00313.htm?from=top

「海のシルクロード」は勿論あったでしょうが、証拠は残っていません。中国から雲南を通って、ビルマ経由の方は、絹が運ばれていた証拠は残っています。

古代の人は、世界中を移動していたと考えませんと、世界史に置いていかれます。

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2009.07.03

古事放談 4-8

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-8
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河内には藤原が定めた式内社が113社あった。この神社には戦前の官幣大社、国弊大社の様に国から幣帛料が出されたのである。
 河内の113社の氏子に国から幣帛料が出されたことになる。
これは伯耆の6社、安芸の3社に較べれば異常に多い。
 実は式内社には天皇を祀った神社は全く含まれてなかったのである。
 雲南系氏子が居る神社には幣帛料は全く無くて高句麗人のスサノオ一族と素生が全く分からない祭神の神社に幣帛料が出されていたのである。
 河内ではニギハヤヒを祀った4社と藤原の先祖天児屋命を祀った4社以外は神社の所在さえ分からないのが半数だった。
 異民族を祀った神社に天皇と同じ鹵簿行列で参拝するだろうか。
 雲南系神武天皇の敵ニギハヤヒと藤原の先祖の天児屋命とは同一民族と考えてよい。
 一言主神が倭の五王でないことには謎は解けない。倭の五王は中国のために忠節を尽くしたと奏上した記述が中国に残ったのである。
 河内は中国の植民地時代が二度あったのだ。

一言---書いてあることが理解できましたか。理解できない方は、全部ご自分で確認されますと、解ります。
①河内には藤原が定めた式内社が113社あった
②戦前の官幣大社、国弊大社の様に国から幣帛料が出された
③伯耆の6社、安芸の3社に較べれば異常に多い
④河内ではニギハヤヒを祀った4社と藤原の先祖天児屋命を祀った4社以外は神社の所在さえ分からないのが半数だった
⑤一言主神が倭の五王でないことには謎は解けない
 古事放談4-3  http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/06/4-3-5a19.html
 と雄略天皇の所を読んでください。

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2009.07.02

古事放談 4-7

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-7
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古事記は天皇が必至の思いで書き残した記録である。従って中国人の不比等を刺激しない様に書かれている。
 又書きたくても書けなかったことを非常に多いものと思われる。重要なこと程書かれてないものとして、裏を読むことである。
 雲南系雄略天皇は暴君だと云われているが雲南系日本人の為にたたかってくれたのである。
 葛城山中で雄略天皇は一言主神と遭遇して恐怖を感じ、一言主神に頭を下げたのである。
 一言主神が登って行った葛城の山中にニキハヤヒを祀った鴨習太神社があった。
 ニギハヤヒとは雲南系神武天皇に征伐された人である。日本書紀と古事記を注意深く読めば、従来ナガスネヒコが悪者扱いされて来たことはアベコベだったことが常識があれば判断出来る。
 藤原が後世定めた式内社には天皇一族は全く除外されていた。藤原は雲南系天皇の敵で11世紀までは日本は中国の占領下にあったのである。


一言---このページ大切なことです。この文章を書かれた田村氏は、ご自分は、雲南系日本人の様に考えておられるようです。田村という苗字がいつのころから付けられたか判りません。殆どの平民は、明治になってから名前を持った。それまでは、苗字だけだったとい知ったかぶりに云われる人がありますが、そうでもないでしょう。江戸時代の過去帳などは溢れるほど全国に残っていますから、全部、コンピューターに入れて公開すれば分かることです。(個人情報を主張して実現不可能とおもいますが)
 昔は隣なり村に行かないで育った村だけで一生を過ごしたと思われていますが、大きな間違いでしょう。2000年前であっても、日本中を駆けづり回っていたことが判ります。
 
日本史を考える時に、「藤原が後世定めた式内社には天皇一族は全く除外されていた」ということは、重要なものと思われますが、田村氏が主張されて10年以上なりますが、誰一人として、賛成する人はおられません。
 当然です。現在でも、日本を治めている人は、中国系の人たちです。認めるわけにはいきません。しかし、否定しますと、日本史は謎ばかりで成り立ちません。

田村氏が言われるとおり、歴史に学問など必要ありません。
〔従来ナガスネヒコが悪者扱いされて来たことはアベコベだったことが常識があれば判断出来る〕は、正しいことです。
 現在、政治が混乱しているのは、当り前のことです。これまで持っていた利権が通用しなくなったからです。

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2009.07.01

古事放談 4-6

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-6
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崇神天皇は東北までの中国の基地を掃討して「初国治らしし天皇」と呼ばれた。しかし九州、四国は天皇勢が船を失ったので景行天皇の御世に討伐が行われた。
 しかしこの時全国に中国人、北鮮人の敗残兵が残ったのである。
 応神、仁徳天皇は一時敵に侵略された摂津河内に都を移して、巨大な前方後円墓を築いて敵に天皇の勢力を誇示した。
 この御陵に従事したのは敗残兵だったと考えてよいだろう。しかし天皇には軍隊がなかったのである。
 敗残兵を収拾したのが倭の五王である。河内は再び北鮮兵に布陣されてしまつた。 河内だけを考えても主権者はこの様に何代も変わったと考えるべきである。
 従って古墳や遺跡の年代が絶対値でないことには古墳時代と云われても漢の将軍、雲南系天皇、倭の五王? と入り乱れて歴史は謎につつまれることになる。
 漢の勢力が最も強かった時代の吉備の造山古墳が最もデラックスでよかったのである。

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2009.06.30

古事放談 4-5

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-5
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河内の前方後円墓に阿蘇の石棺が納められていた。これは〝吉備古代史の未知を解く〟に書かれている。
 吉備の巨大古墳には阿蘇の石も、四国讃岐の火山石も高砂の竜山石も生駒の二上山の石までが使われていた。
 これは一時期九州も四国も飾磨も河内も支配していたのは共通の侵略者で漢の軍隊だったと考えてよい。この本拠が吉備だった。
 漢は180年頃には衰亡して2本の補給が途絶えた。この時漢から銅鏡が来なくなって三角縁神獣鏡を九州で作りだした。
 この時まで占領されていた吉備、飾磨(しかま)、美作(みまさか)、伯耆を孝霊天皇の御世に奪回して、強力な防備態勢を敷いたのである。
 漢が滅びて魏になると丹波に中国軍の基地を築いた。ここは山城、河内から最後には奈良の一部を残した大和まで侵略して来たのである。
 この時の軍隊は中国の植民地帯方郡の北鮮兵が主力だった。この軍隊を240年代に崇神天皇が撃破したのである。

一言---河内の前方後円墓に阿蘇の石棺が納められていた。
吉備の巨大古墳には阿蘇の石も、四国讃岐の火山石も高砂の竜山石も生駒の二上山の石までが使われていた。大阪府高槻市の今城塚古墳も阿蘇の石棺と言われています。
〝吉備古代史の未知を解く〟に書かれています。

読んだからといって、上に書いてあることは分かりません。阿蘇のピンク石は特別であることが判ります。

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2009.06.29

古事放談 4-4

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-4
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河内は北鮮人に侵略されていたとして、如何なる矛盾が生じるだろうか。
 文物は朝鮮から渡来したと云われる。これ位間違った判断を起こさせるものはない。
 北鮮と南鮮は古代には敵味方の関係だったのである。この状態は現在も似ている。
 北鮮は中国の植民地だったので支配者は中国人だった。
 河内はこの北鮮と同じ状態に置かれていたのである。一言主神すなはち倭の五王は中国人と考えればよい。この中国の将軍は前方後円墓に葬られ、副葬品に銅鏡を必要とした。
 北鮮人は軍隊である。小隊毎に集って生活しないことには何時雲南系日本人に襲われるか分らないのである。
 軍隊である以上食糧を自給しなくて良かった。集落を作って稲作等に不自由を来たしても差支えなかった。
 昭和57年9月9日の新聞には紀の川の北岸に7棟もの5世紀の倉庫群が出土したと大々的に報道された。
 これこそ河内の北鮮軍の補給庫である。

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2009.06.28

古事放談 4-3

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倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 4-3
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雲南系雄略天皇と同じ鹵簿行列で葛城山に登って行ったのは一言主神である。
 同じ雄略天皇の時倭の五王の一人が中国の宋の皇帝に、自分達の先祖は中国皇帝のために忠節をつくして来ましたと使者を出して奏上している。
 なぜ 学者達は雲南系の雄略天皇や仁徳天皇を倭の五王の一人にして、日本を中国扱いにしないと気がすまないのだろうか。
 魏志倭人伝に書かれた漢の武帝等に征服された所に居った雲南系日本人がなぜ中国皇帝に忠節を尽くしたと云えるのだろうか。
 一言主神こそ倭の五王の一人だとすれば、雄略天皇天皇が恐怖を感じた謎は解けるのである。
 河内には方形周溝墓が多い。なぜ集落をなした遺跡が見付かるのだろうか。
 雲南系日本人は水の近くに住居を設けた方が稲作に好都合である。反対に集落を作っては日常作業に不便ではないか。
 方形周溝墓の主は雲南系日本人ではなくて北鮮人であり異民族だと考えれば、河内は侵略されていたことになる。

一言---〔方形周溝墓の主は雲南系日本人ではなくて北鮮人であり異民族だと考えれば〕が正しいとしますと、えらいことです。全国、北鮮人であり異民族だらけであることなります。だけど、全国の方形周溝墓を調べる必要があります。
 6月15日、福井県の小浜市へ行ってきました。国分寺跡の近くに、府中という地名があります。国府があった可能性があります。ここで、平成20年に「小浜府中石田遺跡」が発掘されました。
http://www.pref.fukui.jp/doc/maibun-c/hakkutuitiran_d/fil/032.pdf ここには、弥生中世と書いてありますが、此の地は、海抜が2mです。近くの和久里でも3mですから、紀元元年の頃は、海だったのではないでしょうか? まだ、小浜市の歴史は、なんとも言えませんが、この古い頃は、どのような所であったか、考える材料にはなります。

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