2009.11.13

久米国

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第5話 古代史と大江山  
 久米国
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天孫降臨の時ニニギの命を護衛した一人が天津久米命である。美作の国の久米郡の地名はここから出た筈である。
 四天王の所で述べたが、住居は現在の湯原町の社の天王の地名の所だった。久米国への交通の要衝である。古代には流れの緩い、川原が道である。社川をさかのぼって、目木川を下れば久米国だった。
 神武東征には久米歌として、久米のつわものが活躍している。しかし解説は全て久米国の存在をしらないから誤りを犯している。
 みつみつし久米を地名としないで個人名にすることは、和歌として、おかしくないか。
 久米国は魏志倭人伝でも、狗奴国として、認めている。しかも伊都国が戦争をしかけて敗けた、つわものの国である。
男王が居ったことも中国の記録には書かれた。この男王とは神武東征に活躍した大久米の命の子孫だった。前稿の久米国は古事記で認知されたことになる。

546


私の疑問---私の持っている1:170000の地図では、社川をさかのぼっていきますと、山の中に入ってしまいます。そして、800,mを超える山を越えますと、目木川に到達しますが、これでは、久米国への交通の要衝であるとは言えません。
現地へ行くとよくわかるかもしれません。

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2009.11.11

蒜山か日留山か

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第5話 古代史と大江山  
  蒜山か日留山か
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ヒルゼンは三方を大山・蒜山国立公園に囲まれている。
 次の図は津山市史の縄文時代の古墳分布である。
544


東北に著しく古墳が密集した所が、ヒルゼンである。
 ヒルゼンは岡山県のチベットと現在も云はれている所だ。3月は雪に埋れ、火山灰のため農作物育たない所だ。
 この様な環境に、美作の国の縄文時代の古墳の大部分が集中している。縄文後期に高天原があった証拠の一つである。
 このヒルゼンの北に座っている(そびえていない)1200米の山が蒜山である。前稿で蛭山とした。これも間違いではない。
 しかし佐竹先生の〝神代遺跡考〟の副題「日留山が高天原」の日留山が、大和言葉であって正しい。
 先日も朝日テレビが朝日で黄金色に映える蒜山を放映した。盆地だから先づ蒜山に朝日があたる。
 夕日が最後まで照らす文字通りの日留山だ。
古代に蒜山の漢字位不釣合はない。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  45ページ

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2009.11.09

ヒルゼンの地形(2)

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第5話 古代史と大江山  
  ヒルゼンの地形(2)
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ヒルゼンは東西20キロ、南北10キロの高原とPRされている。ここに現在でも8000人のしか住んでいない。過疎地帯だから2000年昔がまだ残っていると申上げたい。
 宮廷雅楽はシルクロードの天山山脈のクチャから来たが、ヒルゼンにはクチャの踊りが大宮踊りとして、2000年伝えられた。
 ここは近世までブナの原生林だった。ブナ林の林相は近くの大山で見当がつく。
 縄文時代に天照大神が、この広大なヒルゼンの太古湖底だった、葦が繁った沼地に稲作を始めて導入した。
 日本中に稲作が普及したのは、思金の神が、57年に漢に使いを出して、稲作移民を、大量に全土に導入したからである。
 ヒルゼンでは稲作が出来なかったので倉吉の高千穂に降りた。ヒルゼンは3月雪に埋もれ、しかも火山灰で作物が全く育たなかったのである。
 地形は理想的だった。見てくれはよかったが地味までは考えなかったのである。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  43ページ

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2009.11.07

ヒルゼンの地形(1)

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第5話 古代史と大江山  
  ヒルゼンの地形(1)
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2000年以上昔になぜヒルゼンを選んだかの認識が先づ必要である。小生は何回か都として立地条件が最高の所を選定したと述べた。
 鎌倉幕府と同様に要害の条件を充している。実際に大山・蒜山高原を、つぶさにご覧いただくに限る。東京からはいささか遠い。しかし考え様によっては、東京からは、最も安楽に行ける所だ。
 夜行寝台で倉吉か米子で降りて、たっぷり一日遊んで、又寝台で帰ればいかがか。
 余談はさておいて九州の阿蘇ならご存じの人が多いからこれと比べて見たい。
 別府から来れば緩やかなスロープを登り切って阿蘇谷(地図では谷です) に急降下だ。
 ヒルゼンはこれと全く反対で、例えば海近くの倉吉から急坂を550米近く登ったら、緩やかなスロープを下ることになる。
 蒜山は1200米だが周囲はこれよりは、はるかに低い山が囲んでいる。阿蘇谷と同じ位の高度でしかも耕作出来る面積は2倍位あるだろう。高度は約500米である。

私からのひとこと
 このページの文章は、自信に満ちた文章だなと思いました。高天原はヒルゼン高原だったと云う仮説の証拠となるものを外の部分で発見されたのだと思います。
 「余談はさておいて」と書きながら、田村氏の日本の旅が始まります。実際に行かれたのではなく、地図の上で、ヒルゼン高原に、阿蘇に、鎌倉にと、旅をされたと思います。
 
案の定、ヒルゼンの地形は、都としての条件を満たしていると再発見され、その喜びが文章に現れているように思います。
 
では、実際に、ヒルゼンを車で走ってください。山また山で、クタクタになります。
 それは、走り回っても見えてきません。
 ヒルゼンに行きますと、一番高いところに登ってみますと、いろいろのことが直ぐに解ります。
 古事記の最初の部分を読んで、次はイザナギとイザナミが中蒜山の5合目に造ったオノコロ島に登ってください。 
 今は、紅葉は終わっているかもしれません。昨日は大山の雪景色が報道されていましたから・・・・。

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2009.11.05

遣漢使(4)

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第5話 古代史と大江山  
 遣漢使(4)
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次に中国に使いを送ったのは、239年である。卑弥呼の使いと称して、難升米が行った。この時は魏の時代になっていた。
 これは別稿で述べたが崇神天皇を倒すためだった。246年狗奴国(久米国)に戦いをいどんだ。
 結局崇神天皇のヒコイマスの命に逆に滅ぼされて、古事記から難升米はクガノミミの御笠だったと足がついた。
 1007年の遣漢使の結果はゲリラが投馬国に大量に送りこまれて、倭国大乱に発展し、邪馬台国(西大寺ヤマトとの、高梁川を挟んでの紛争になった。
 これは孝霊天皇の御世に吉備国平定として報ぜられた。難升米は卑弥呼共立と出たらめの報告を、魏の皇室に行った。
 卑弥呼共立は190年頃となっている。難升米のの創作だからウヤムヤだが大差はないらしい。
 中国の史書によって、はなくも日本の古事記の年代考証の役にたったのである。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  41ページ

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2009.11.03

資料38  資料 宗形神社

鎮座地・現住所 鳥取県米子市宗像298番
http://www.jinja.in/single/86069.html

境内説明板によれば
由緒
 ご祭神 田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命 ほか十八神
*三女神は天照大神・素盞嗚命の御子神

例大祭 五月三日
例 祭 十一月三日
歳旦祭 一月一日・大祓祭 七月丗一日・新嘗祭 十一月廿三日

創建年代は不詳であるが、往古宗像氏族が、祖先神である宗像三女神を奉じて九州からこの地に来着し、これを斉祀したのが起源と伝えられている。
平安初期の斉衡三年(八五六)に宗形の神に神階五位上が増叙された旨、文徳実録(日本六国史の一)に所載されている。
醍醐天皇の延長五年(九二七)に勅撰された延喜式神祇の巻に、伯耆国六社(会見郡では胸形神社と大神山神社)の一として、国幣小社に列格されている。
戦国時代には武将の崇敬篤く、尼子晴久は、弘治二年(一五五六)に、宮ノ谷の山頂に鎮座していた社を現在地に遷して新しく社殿を建立し、社領三百石を寄進した。吉川元春(毛利元就の二男)は、更に社領一二〇石を加増寄進すると共に、太刀及び兜(典型的桃形の逸品で社宝として所蔵)を奉納した。中村伯耆守は、社殿修造用材百本を寄進した。
蕃政の世には、歴代の因伯藩主の崇敬篤く、当社を蕃の祈願所に指定し、制礼の建立や池田家々紋を幕・提灯に使用方を裁許し、池田慶徳は自ら社参祈願を行った。
社名は、宗形(文徳実録)、胸形(延喜式)、宗像(明治初年まで)、宗形(明治四年以降)と変遷を重ねて現在に至る。
一、御神徳
延喜式内郷社宗形神社は、平安の古より国史、文献に名を連ね、千数百年の歴史を有する当地方の古社であり、会見郡の鎮守宗像庄の大社として尊崇され、海陸交通・厄除開運の守護神として御神威高く、又虫封じの神としても霊験顕著でその名が高い。
一、神社と古墳
神社を中心として周辺に密集分布する宗像古墳は、県下有数の古墳群であるが、これは当地方が、古くから神社との関り合いの中で生成発展して来たことを物語るものであり、往古の社会・文化探求上で重要遺跡として斯界の注目を集めている。

上の由緒は、何時書かれたものか分かりませんが、次のものは、昭和9年に造られた鳥取県神社誌に書かれた由緒です。

宗形神社   郷社 
 鎮座地 西伯郡成実村大字宗像字向塔  
http://www.jinja.in/single/86069.html

現住所 鳥取県米子市宗像298番
祭神 田心姫命、市杵島姫命、湍津姫命、武甕槌命、日本武命、表筒男命、中筒男命、底筒男命、誉田別命、伊弉諾尊、伊弉冉尊、大日霎尊、素盞鳴尊、大国主命、倉稲魂命、天児屋根命、天太玉命、猿田彦命、鈿女命、阿蘇彦命、保食神、月読命
由緒
 創立年代不詳ならざれども、文徳実録に斉衡三年八月乙亥加伯耆国従五位下宗形神従五位上とあり、又延喜神名式に伯耆国会見郡胸形神社とある旧社にして、古来上下の崇敬殊に篤く、弘治二年尼子晴久社殿を建立し社領三百石を寄進せりと云不、其の後吉川元春右の社領の外に百二十石を増進し、太刀二振り兜一刎を寄進せしが、中村伯耆守一忠当国を領するに及び社領悉く没収せらる、旧藩主池田慶徳幕提灯を寄進せられ、慶応三年には親しく参拝せらる、旧藩時代には社殿の修理営繕に際しては会見郡内の高割を以てなせり、明治初年郷社に列せられ、同四十年二月三日神饌幣帛料供進神社に指定世良る古昔鎮座の地は現社地より北三丁余の宮の谷といふ所にして本宮と呼ぶ、本殿ありしと伝ふる山頂の地には数多の小石あり、中腹に清ありてごふ井戸といひ断水することなし、弘治二年四月三日成実村大字日原字中尾山鎮座無格社住吉神社(祭神 表筒男命、中筒男命、底筒男命 )同村大字石井字要害鎮座無格社石井神社(祭神 誉田別命 )  同村大字奥谷字谷奥山鎮座無格社熊野神社(祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、大日霎尊)  同村大字美吉奥屋敷鎮座無格社上飯生神社(祭神 素盞鳴尊)  同村大字同字屋敷前田鎮座下飯生神社(祭神 大国主命)  同村大字長田字笠頭鎮座無格社陽田神社(祭神 素盞鳴尊)の六社を合併す。
 古昔当社の祭神今の大字長田に(宗像と隣接せる所にして当時この辺まで入海なりしと云ふ)海路御来着宗像の地に鎮座せられしと云ひ、御着船の地を今に船塚と称へ御舟は石に化したりと云伝ふ。

例祭日  4月15日
建造物 本殿、幣殿、拝殿、神楽殿、祭器庫、随神門
境内坪数 1862坪
氏子戸数 230戸

どちらに書いてあることが正しいのかは、私には、調べようがありませんが、気の付いたことを記します。
①境内説明板ですから、仕方がありませんが、「ほか十八神」と書いてあります。一神 数に 相違があります。

②どうして、「ほか十八神」として、まとめられたのでしょう。鳥取県神社誌の方を見ますと、少しはその理由が分かります。「ほか十八神」の神がどこから来られたかは分かりますから、これを糸口にして、調べるとその経緯が分かるかもしれません。
 何か複雑なことがあった証拠です。

③神社の方は、*三女神は天照大神・素盞嗚命の御子神 と書いておられますが、これは間違っています。古事記では、三人は、素盞嗚命の子供となっています。

④一番重大なことは、「創建年代は不詳であるが、往古宗像氏族が、祖先神である宗像三女神を奉じて九州からこの地に来着し、これを斉祀したのが起源と伝えられている」
と境内の説明には書いてあります。
 この説明によれば、九州からここへ遷されたものであると書いてあります。

私は逆で、鳥取県米子市宗像から、九州の宗像に遷されたと思っています。そのことは、この資料を見る前に、随分前に書いています。
【胸形神社と宗形神社】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1419.html
 この記事は、九州のことを調べていましたら、宗像神社に突き当り、調べていたら、宗形神社となりました。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1413.html に関連の記事を治めています。

これらをもとに、次の記事を書いています。似たようなものですが、よろしかったら、読んでください。
No 229 胸形神社と宗形神社 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-26
No 230 米子の宗形神社は古い神社
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-27

今回は、由緒と云うものは、当てにならないと云う所を見て頂く積りで書きました。現在は、米子の宗形神社は、九州の宗像神社を遷座したものだと思っておられますが、昭和9年のときは、そのようなことは 書いてありませんから、僅か、50年でこのように変るのです。
 どちらにせよ、現地に行かれることが大切です。九州と米子と両方です。全国に6000もあると云いますから、全部しらべますと、面白いことが発見出来るとおもいます。

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2009.11.02

遣漢使(3)

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第5話 古代史と大江山  
  遣漢使(3)
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57年の次の遣漢使葉107年である。売国奴ニギハヤヒの命が捕リョを160人も、献上したのである。
 ナガスミヒコから、神武に寝返りすること事態からしてケシカラン。しかも天照大神の墓の埋葬品を盗んだとしか考えられない。
 この天つ瑞をもって神武の勝チ目がはっきりしてから寝返ったのである。
 ニギハヤヒの命は何としても神武を滅ぼしたい立場の人間だ。漢の応援をたのみに使いを出したと考えたい。捕リョ160人とはナガスネヒコの兵隊ではないか。
 何を頼んだかは別の所で述べたが、ゲリラの導入である。高地性集落の発生と、投馬国が遣漢使を送ったあとの現象だ。
 従って107年は神武東征から、ほどなくの期間と考えたい。
 天孫降臨から50年かかって東征完了ならば不合理のない年月である。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  40ページ

参考に
高地性集落 (未完成です)
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page299.html

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2009.11.01

遣漢使(2)

漢倭奴国王の金印がある以上この印を押す紙があった筈だ。一般にはまだ漢字は導入されてない。
 従ってこんなハンコの紙切れを見て感激する日本人は居らない。これは移民を集めるために使用して始めて威力は発生する。要するに中国向けに使用する筈だった。
 しかし不幸にして、これを運んでいた船は難破し、金印は志賀島に漂着した。
 日本国内の変化は、縄文から弥生にかけての古墳が何所に多く発生したかを見ればよい。
全て米が取れるデルタ地帯か盆地である。
 そしてその近くの村には福や神、宮、田等のつく地名が、かたまっている。
 この種の古墳に天神山、稲荷山、銚子山、蛭子山等同名の地名が付いたものが多い。
 鹿児島から日本海岸の能登半島にまで、略等間隔に福浦や福江の名のつく補給港が点在している。
 目じるしに三角形の山が城山として、各地にあることも計画性の証拠である。

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  39ページ

私から一言----この文を読んでどのように思われましたか。
[漢倭奴国王の金印がある以上この印を押す紙があった筈だ。]当たり前のことですが、重要なことだと思います。こんな簡単なことを頭にいれておいて、漢倭奴国王の金印を見に行ってください。もちろん、本物は見ることはできませんが、偽物は見ることができます。
 偽物は、いくら見ても感動しません。 ということは、そのものの、値打ちを知っている人にしか、値打ちがありません。 それが解かりますと、ここに書いてある文章の意味が解かります。田村氏は、[この種の古墳に天神山、稲荷山、銚子山、蛭子山等同名の地名が付いたものが多い。
 鹿児島から日本海岸の能登半島にまで、略等間隔に福浦や福江の名のつく補給港が点在している。
 目じるしに三角形の山が城山として、各地にあることも計画性の証拠である。]の文章を書くまでに、どれほど、毎日、毎日、ルーペを手に地図を眺められたことでしょう。

今、本物のものが、陳列されています。奈良の正倉院展です。もし、感動しなかったときは、そのものは、いくら国宝と言っても国宝に値しないものです。 絹製品があるそうです。 前に陣取って、眺めてきてください。この絹を求めて、漢倭奴国王の金印がやってきたと考えます。

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2009.10.31

遣漢使(1)

こんな言葉もあってよいだろう。漢の時代には先方の記録では57年と107年に二回日本から使いが行った。
 万里の波とうを超えて行くからには、特別の理由が必要である。何かのたのみ事があるから行った筈である。
 何を頼みに行ったかは、それ以後の国内変化を見出すことだ。誰が使いを出したかは、国内で利益を得た人を探すことだ。
 57年の遣唐使は思金命が出したと考えたい。天照大神は隠とんしたのだから、使いを出す理由も利益も考えられない。
 ニニギの命は幼少だから思金命は摂政だったのである。天照大神の、葦原の中州国を開拓するには、漢の移民の導入を思付いた。
 中州国すなはちデルタ地帯は無人地帯だったので、計画移民である。占領ではない。
 この申出に際しては自己紹介に天照大神は呉野太伯の後衛だと述べたから、漢の皇室は感激して漢倭奴国王印をくれたのである。
 従って57年は天孫降臨直後であり、奴国誕生の年と考えたい。 

田村誠一著  昭和56年4月3日発行  38ページ

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2009.10.29

八岐の大蛇 八俣之遠呂智 八岐の大呂地

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  第5話 古代史と大江山  
 八岐の大蛇 八俣之遠呂智 八岐の大呂地

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スサオの命は蒜山を追はれて、俣野川から日野川をさかのぼった。
 古事記に出てくる肥之河を、出雲の中央を流れる斐伊川とするのはおかしい。
 タイトルの中央が、原文で右は小生の意見である。古事記で、オロチは蛇が使用されている。
 沢山道が集った横田に、大呂は現存している。八岐の大呂地でよい筈だ。
 日野川から、さかのぼるのが最も楽なルートである。
 ここには現在も日達金属の日本刀用玉鋼の工場が動いている。ただしタタラ方式だ。
 しかしスサノオの命の時代には山の斜面に沢山の煙道を山の頂上まで導いて、煙突の作用をさせていた。
 古事記が胴が赤くただれ、胴にスギ等が生えていた。目が赤く輝いていたと書いている。
 現在の日本鉱業の日立鉱山は全く同じやり方だから、2000年昔にすでに省力の最新製鋼所があったことになる。タタラは労力の多く必要な後世のやり方である。


私からの一言----ここの文は、歴史学会で表彰に値する文章だと思います。八俣之遠呂智に行きたいですが、体力と金力がなくなって行けません。 京都の大呂は行ってきました。

八岐の大呂地にかかれてある記事は、大蛇を退治した話になっていて、その結果、スサノオが助けた翁のむすめと結婚したことになっていますが、本当は、イザナギが蹈鞴による製鉄より素晴らしい方法で、製鉄していたことを太安万侶が、800年後に古事記に書いたことになります。大蛇の尾の中から出てきたことになっていますが、すばらしい太刀であったことは、草薙の太刀の名前で、天照大御神に報告したと記しています。
 
ここの話は、日本書紀の作者も、現在の歴史家も理解できなかったために、神話にされてしまいましたが、天皇家が、強かったことの証の一つだと思います。
 [天皇家の軍隊]http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/1294830/
にスサノオのことを書きますので、合わせて読んでください。


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