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2004.11.26

高天原は蒜山だった 

古事記のはじめの部分を読まれて感想はいかがでしたか。 五人の神さんが陽春の高天原をめざして登ってくる様子を想像して頂けましたか。
 これは私のオリジナルではありません。
『神代遺跡考』という本を出された人があります。それは、昭和3年、勝山中学の英語の先生で教頭であった佐竹先生です。「高天原は日留山高原だった」の副題がついていたそうです。当時は、このような本を書くことは、国から認められず先生は、京城中学のヒラ教員に格下げされました。この本を五十年後に、中塚貴志という人が復刻され、それを読んだ田村誠一(故人)という人が、国の処置に怒りを覚えることになります。私に言わせれば、気の狂ったように、全国を車で走り回り、佐竹先生が書かれたことを確かめることに没頭されます。
この田村誠一が書かれた本には、〔岡山県真庭郡川上村福田〕という住所が書かれています。田村氏は、蒜山高原の住民だったのです。
蒜山の中腹には、現在は、ブナはありませんが、ごく最近までブナの原生林があったことを書いておられます。少し長いですが、その全文を記します。
「新大地を開発しようとして三人の独身の神が高天原にやって来ました。大山・蒜山国立田公園の蒜山高原は広い諏訪湖の半分位の面積の水田か広がっていて、この水田は海抜五〇〇米てす。周囲を一干米級の山か囲んでいて要害の土地です。水田の周囲はなたらかな高原で東西.二〇粁、南北一〇粁の広大な盆地です。太古の時代には盆地は湖水て、一ケ所が切れて旭川となって流れだしました。湖水の湖底が平坦で古代には葦が茂っていました、これが豊葦原の国です。高原地帯は全部ブナの原生林におおわれていました。この林は近くの大山の南壁の原生林から想像できる様に日中薄日が刺していました。水田の面積に応じて津山藩が年貢米を割り当てていました。日照時間が少なくて高冷地のため米の収穫が少ないと事情を訴えても役人が聞いてくれません。最後には百姓一揆まで起きて沢山の人が打ち首になった悲しい歴史があります。米が収穫が少ないのは水田に絶えず冷たい水が流れ込むためと分かって、古老に聞いた所では四年かかって、ブナの原生林を全部焼き払いました。現在の高原にはフナは全く見られないのはこのためです、この蒜山高原は天ツ神が開国した高原たから高天原と呼はれました。高天原に関係がある地名や物等はすべて天をアマと発音します.例えは高天原の雲海は天の浮き橋、旭川の源流の塩釜の泉は天の真名井、鉄は天の鉄山と書いて天の文字をアマと読みます。」
一度、ブナの原生林はないが、古事記に書かれている情景は、経験できます。一度蒜山高原にいってくださいと言っておられます。田村氏の翻訳によりますと、クラゲが漂う様子は、山の中腹で、ブナの木に残った雪の様で、麓の様子は、葦が日に日に、伸びていく様だと言っておらせます。
 「高天原は蒜山だった」かどうかは、私はまだ確かめていませんが、2000年も昔であれば、殆どが、このような状態であったのではないかと思われます。
その代表は、奈良盆地でしょう。
奈良には、下つ道、中つ道、上つ道の三本の大きな道が南北に通っています。これに平行して東の山側に、「山の辺の道」と呼ばれている道があります。農道のような狭い道ですが、古くから歩かれていた道のようで、私は奈良盆地全体が湿地帯であったときの湖岸にあたるところではないかと想像しています。亀の瀬付近で断層による陥没が生じ、湖水の水は現在の大和川になって流れ出ます。6000年ほど前の水面は70mの辺でありましたが、2500年頃には、50m辺に低下、その後、どんどん低くなって、人々が住むようになりました。古くは、唐古・鍵遺跡に見られる環濠集落であり、現在では当時の湖底が奈良市街を形成しています。奈良の川はすべて、もっとも低い所に流れ、いつも氾濫を繰り返したことでしょう。一箇所に集まるところは、法隆寺のあるところで、地名は斑鳩となっています。全国で「イカルガ」という地名を調べた人に、辻 保治氏(故人)がおられます。辻氏は、川が集まったところにこの名前が多いことを述べておられます。川が「怒る」から、このような名前がついたのでしょうか。それにしては、漢字は、斑鳩であったり、鵤で、鳥の字が見えます。
京都も南の部分は、池がありました。
現在広大な葦の原をみるには、釧路湿原や尾瀬において見られますが、山に囲まれて攻撃を受けにくいとなりますと、このように眺めていきますと、古事記が現した高天原は、神話の世界ではなく、建国を志した人々が、外的から攻められなくて食料を確保できるところを探しながら、見つけたところが高天原であったと思われます。
蒜山高原は都にするには、適当な土地の一つと考えてもおかしくありません。

現在、高天原は九州の日向であるという説が有力です。はじめに書きましたように、佐竹先生の左遷で見られるように、国の権力で歴史が定められた時期があったことは事実です。戦前一時期、古事記を読むのを禁止されたときがあったことをどこかで見たような気がします。
古事記が生まれてから、1300年も経っているのに。
古事記が編纂されて、500年後にやっと、見つけられたということは、古事記に読まれたら困ることが書かれていたと考えるべきだと思います

古事記にかかれた高天原は、クラゲが漂うように見え、葦がいっぱいあるところであれば、候補地になります。奈良盆地も一級の候補地です。富士山の裾野であってもいいのです。
ただ、その後に古事記に書かれたことが、すべて説明がつかなくては、候補地とはなり得ません。
以下、このことも念頭に入れて、古事記を読んでいこうと思っています。

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