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2004.12.31

古事記の第一巻は神話ではなかった

少し早いかもしれませんが、古事記に書かれています神話といわれている部分は、神話ではないらしいことがお解りいただけましたか? 国生みのところで、島の名前が書かれており、その又の名がその島を統治した人の名前だと解釈しました。勿論、古事記を書いた人にとっても、この時代のことは古い事ですから、すべてが本当のことではないでしょう。ある島のことは確かだと思います。そのことよりも、イザナギとイザナミという人が実際にいたということです。
 実際に居たということを証明しようとしますと、古事記と日本書紀を使うわけにはいきません。ところが、これから古事記を読み進んでいきますと、益々、神話というか実際の話であり得ない話がいっぱい出てきます。この話をそのまま御伽噺のように読んでも構わないと思います。ただ、それでは天武天皇が刻々と殺されていく自分を見つめながら、古事記の編纂を決意し、調査を命じられた稗田阿礼が、残っていた文書を調べて、それを元に太安麻侶と二人で決死の思いで、ずばりと言わないで伝えようとしたことが伝わらなかったことになります。先に、書きました「残っていた文書を調べて」は正しくありません。稗田阿礼は、神話にでてくる地域一帯を歩き回わらないと書けないような表現をあちこちでしています。
相当、調査をした上でできた古事記だと思います。神生みに書かれているようなことを記した本は存在しなかったと思います。調査の結果でしょう。
これから先、イザナギとイザナミだけではなく、天照大神・スサノオ・月読命など、次々と出現します。古事記を神話と受け止めますと、ストーリーが語ることだけを読む人の感性で受け止めることになります。そうしますと、この人達は、ドラマの配役に過ぎません。
スサノオは、無茶なことをする男だ、天照大神は最高神であるくせに駄々をこねて、天の岩屋戸にこもるとは大人気ない。いや、そんなスサノオだから魅力的なのだ。このような見方でいきますと、古事記をもっと膨らませて、小説にもなり映画にもなります。

さて、私の場合はえらいことになりました。神話ではないとなりますとイザナギとイザナミは、どこから来たのか、元々日本に住んでいたのか、疑問はいっぱいです。天照大神・スサノオ・月読命は、イザナギとイザナミが生んだことになっています。神話ですと、ハイそうですかで終わりですが、実話となりますと、そうであるのか、実際は子供ではないとか次第に複雑になっていきます。
はじめに、「少し早いかもしれません」がと書きましたが、古事記には神話はないのだと思って読まないと不明な部分がありますので、以後、古事記を読むことと登場人物の解明を平行しながら、進めたいと思います。
 そのためには、古事記と日本書紀はあまり役に立ちません。外の角度から眺めてみようと思います。一番は、地名です。次は神社です。次は外国の文献です。そして、遺跡です。この四つから得られるものを、「古事記を読む」の間に、挟んでいきますから、頭を混乱させられないように読んで頂ければと思います。

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2004.12.30

気持ちを織り込んだ俳句

俳句には 気持ちを織り込んだものが一杯あります。気持ちは、その人の心に秘められたものですから、他の人には、判りにくいものです。

次の二句は、ホトトギス・平成16年7月号の同じページに掲載されていたものです。

① その日まで内緒の切符春隣      眞木礼子  ホ16-7-94
② 風邪の妻声かけてやるほかになく  久保康輔  ホ16-7-94

①の俳句です。 切符と春隣は関係ないのですが、作者の心の中では、大いに関係があるのです。事実、春は隣にあるのでしょう。しかし、切符を使う日まで、作者にとっては、もう春が来たようなものです。その切符は内緒にしておくのだということによって、春隣が一層感じられるから不思議です。

②の 風邪の妻声かけてやるほかになく
 このような俳句は、無くなってしまう俳句だと思います。おとこはも食事ぐらい作れるようになるからです。
 この俳句は、作者の気持ちをそのまま、十七文字にされました。

 この句を見て、女性は何だとと思われたでしょう。
 私は、この句の外に、男性のすまないなという気持ちが隠されていると思います。
 男性にしか判らない俳句だと思います。
 このような状態になって夫婦喧嘩をされたご家庭は多いと思います。
 妻が風邪をひいて食事の世話が出来なくなったとき、どうされますか? 妻は食事どころではありません。では、夫はと言いますと食事は作れません。そこで、「私は外で食べるから心配 いらないよ」などと言おうものなら、「心配などしていません」。食べられないくせに、夫が自分 ほうっておいて、食事に行きます。
 そこで、夫婦喧嘩。悪くしますと、離婚騒動に発展するかもしれません。

 作者は 口に出して、よう言わないので、俳句を通して、奥さんに伝えようとされたのだと思います。
 こんな十七文字で通じたのでしょうか。
 頑張って、なにかを作られたほうが良かったのではないでしょうか? 

現在、若い夫婦は、両方とも食事を作ることが可能ですから、こんな俳句にはならないでしょう。

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2004.12.29

古事記に石上朝臣麻呂は関わったか

No21
古事記の編纂を試みたのは、天武天皇です。そのときの最高位の家来は、石上朝臣麻呂と藤原不比等です。前者が左大臣、後者が右大臣です。左大臣の方が、位が上ですが、どちらがどれ程実力があるのか判りません。両人とも、古事記と日本書紀の編纂に、全くかかわらなかったことは無いと思います。そこで、二人はどのように関わったかを知るために、どのような人であったのか調べることにしました。
藤原不比等は、藤原鎌足の二男で、708年に右大臣になっています。調べようと思いましたが、資料は膨大に上りそうですし、本もいっぱい著されていますので、止めにしました。

そこで、石上朝臣麻呂です。この人は、どこの出であるのか判らないらしいです。素性が良く判らないのに、どうしてこのように最高位についたのか、記紀とははなれても興味をそそられる人ですが、私の知った範囲で記します。
天智天皇の死後(天智10年12月3日)、天皇の弟の大海人皇子と天智天皇の子の大友皇子との間で皇位継承問題がおこります。大海人皇子は皇位を譲って、吉野に引き籠ります。しかし、その後、壬申の乱と呼ばれる戦になり、大友皇子は負けて自害したということになっています。
 「ただ物部連麻呂と12人の舎人が、最後まで皇子に従った」と日本書紀に記されています。 (天武元年7.23 672年) この物部連麻呂が、後の石上朝臣麻呂です。
文献上では、天武5年(676)遣新羅使に任命されています。 その時の官位は、大乙上です。 (26段階あるうちの19位)  同年2月にも新羅から2人の遣新羅使が帰国していますが、大使の大伴連国麻呂は、小錦上(10階)ですから、官位が低いのに、なぜか任命されています。いかに、天皇から認められたかが判ります。
ただ、遣唐使にしても遣新羅使にしても、天皇が認めたとは限りません。先のページで天武天皇は暗殺されたかと書いた私には、686年に亡くなられる10年前のことですから、この時すでに、大切なことは、側近の手ですべて行われていたかも知りません。
物部と名が付いているから、一族とは言えるとは限りませんが、壬申の乱のときに、登場する物部氏は、大海人皇子に従い、東国での蜂起にも参加した物部雄君と近江朝の臣・物部首日向と大友皇子の舎人だった物部連麻呂との三人です。同じ一族とすれば、両側に分かれて戦ったことになります。そして、大友皇子の舎人だった物部連麻呂は、敵の天武天皇の左大臣になったのですから、よく理解できません。
石上朝臣麻呂は、717年3月3日、日本書紀の完成を見ないで、78歳でなくなっています。
ただ、『続日本紀』に、「……左大臣正二位石上朝臣麻呂年七十八帝深悼惜焉爲之罷朝詔遣式部卿正三位長屋王……、」(天皇は、深く悼惜し、そのために朝政を休まれた」という)とありますから、元明天皇は悪い印象を持っておられなかったと思えます。
しかし、日本書紀は、嘘を書いたのかも-------それを知るためには、まだまだ時間がかかりそうです。 

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2004.12.27

神々の生成 その2

既生國竟。更生神。故生神名。大事忍男神。次生石土毘古神。【訓石云伊波亦毘古二字以音下效此也】次生石巣比賣神。次生大戸日別神。次生天之吹(上)男神。次生大屋毘古神。次生風木津別之忍男神【訓風云加邪訓木以音】次生海神。名大綿津見神。次生水戸神。名速秋津日子神。次妹速秋津比賣神【自大事忍男神至秋津比賣神并十神】

以下翻訳
既に国を生み竟(オ)えて、更に神を生んだ。 その生まれた神の名は、大事忍男神(オオコトオシヲノカミ)です。次に生れたのは、石土毘古神(イワツチヒコノカミ)。次に生れたのは、石巣比賣神(イワスヒメノカミ)。
次に生れたのは、大戸日別神(オオトヒワケノカミ)。次に生れたのは、天之吹(上)男神(テンノフキオトコノカミ)。
次に生れたのは、大屋毘古神(オオヤビコノカミ)。次に生れたのは、風木津別之忍男神(カゼキツワケノオシヲノカミ)。次に生れたのは、海の神。名は大綿津見神(オオワタツミノカミ)。次に生れたのは、水戸神(ミズトノカミ)。名は速秋津日子神(ハヤアキツヒコノカミ)。次は妹速秋津比賣神(いもハヤアキツヒメノカミ) 。
【大事忍男神より秋津比賣神まで并せて十神】

此速秋津日子速秋津比賣二神。因河海持別而生神名沫那藝神【那藝二字以音。下效此】次沫那美神【那美二字以音。下效此】次頬那藝神。次頬那美神。次天之水分神【訓分云久麻理
下效此】次國之水分神。次天之久比奢母智神【自久以下五字以音下效此】次國之久比奢母智神【自沫那藝神至國之久比奢母智神并八神】次生風神名志那都比古神【此神名以音】次生木神名
久久能智神【此神名以音】次生山神名大山(上)津見神。次生野神名鹿屋野比賣神。亦名謂野椎神【自志那都比古神至野椎并四神】
以下翻訳
此の速秋津日子と速秋津比賣の二神は、河海因り、持別(カ)けて、生んだ神の名は、沫那藝(ナギ)神。次は次沫那美(ナミ)神。次が次頬(ホホ)那藝神。次が頬那美神。次は天之水分(ミズクマリ)神。次は國(クニ)之水分神。次は天之久比奢母智(クヒザモチ)神。次は國之久比奢母智神。次に生れる風の神名は志那都比古(シナツヒコ)神。次に生れる木の神の名は、久久能智(ククチ)神。次に生れる山の神の名は、大山(上)津見神。次に生れる野の神の名は、鹿屋野(カヤノ)比賣神。亦の名は、野椎(ノヅチ)神と謂う【志那都比古神より野椎まで、并せて四神】  
〔持別(カ)けて、〕の意味が解りません。

此大山津見神野椎神二神。因山野持別而生神名天之狹土神【訓土云豆知下效此】次國之狹士神。次天之狹霧神。次國之狹霧神。次天之闇戸神。次國之闇戸神。次大戸惑子神【訓惑云刀比下效此】次大戸惑女神【自天之狹土神至大戸惑女神并八也】
以下翻訳
此の大山津見神と野椎神の二神は、山野因り、持別(カ)けて、生んだ神の名は、天之狹土(サヅチ)神
次は、國之狹土神。次は、天之狹霧神。次は、國之狹霧神。次は、天之闇戸(クラド)神。次は、國之闇戸神。次は、大戸惑子(オオトヒコ)神。次は、大戸惑女(オオトトヒヒメ)神 
【天之狹土神より大戸惑女神まで、并せて八神】

次生神名鳥之石楠船神。亦名謂天鳥船。次生大宜都比賣神
【此神名以音】次生火之夜藝速男神【夜藝二字以音】亦名謂火之炫毘古神。亦名謂火之迦具土神【加具二字以音】因生此子。美蕃登【此三字以音】見炙而病臥在。多具理迩【此四字以音】生神名。金山毘古神【訓金云迦那下效此】次金山毘賣神。次於屎成神名。波迩夜須毘古神【此神名以音】次波迩夜須毘賣神【此神名亦音】次於尿成神名彌都波能賣神。次和久産巣日神。此神之子謂豐宇氣毘賣神。【自宇以下四字以音】故伊邪那美神者。因生火神。遂神避坐也【自天鳥船至豐宇氣毘賣神并八神。】
以下翻訳
次に、鳥之石楠船(イワクスブネ)神を生んだ。亦の名は、天鳥船と謂う。次に大宜都(オオゲツ)比賣神を生んだ。次に火之夜藝速男(ヒノヤギハヤオ)神を生んだ。亦の名は、火之炫(ヒノカガ)毘古神と謂う。亦の名を火之迦具土(ヒノカグツチ)神と謂う。此の子を生んで因り、。美蕃登(ミホト)見炙(ヤカヘ)而(テ)病み臥(フセ)り。多具理迩(タグリニ)(嘔吐)して生れた神の名は、金山(カナヤマ)毘古神。次は金山毘賣神。次に屎して成った神の名は、波迩夜須(ハニヤス)毘古神。次は波迩夜須毘賣神。次は、尿をして成った神の名は、彌都波能賣(ミツハノメ)神。次は和久産巣日(ワクムスヒ)神。此の神の子は、豐宇氣毘賣(トユウケビメ)神と謂う。よって、伊邪那美神は、火の神を生むことに因り、遂に神避りされました。
【天鳥船より豐豐宇氣毘賣神まで、并せて八神。】

 凡伊邪那岐伊邪那美二神。共所生。
 嶋壹拾肆嶋。又神參拾伍神【是伊邪那美神未神避以前所生。唯意能碁呂嶋者。非所生。亦姪子與淡嶋。不入子之例。】
以下翻訳
凡べて、伊邪那岐と伊邪那美の二神が、共に生んだ所は、島は一十四島、神は參拾伍神。
【是は伊邪那美神が未だ、神避する以前に生んだ所。 唯、意能碁呂嶋は、生んだ所に非ず。亦蛭子と淡嶋は子之例には入れず】

このページでは、作者は何を伝えたかったのでしょう。ここに挙げられた神は、例えば、水分神であり、野山の神であり、霧の神です。すべて、自然界にあるものに神が宿ると考えているのでしょう。
か思えば、鳥之石楠船神や豐宇氣毘賣のように。なんの神か判らないような神の名も見えます。
島は14島、神は35神の神に治めさせたのでしょう。又の名がない所には、元々、住んでいた者に、治めさせたのでしょう。
【是は伊邪那美神が未だ、神避する以前に生んだ所。 唯、意能碁呂嶋は、生んだ所に非ず。亦蛭子と淡嶋は子之例には入れず】は、前にもありました。 是非とも言いたかったのでしょう。

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2004.12.26

北朝鮮と暗殺

便利な世の中になったものです。「北朝鮮と暗殺」をキーワードにして、インターネットで検索しますと、一杯記事が出てきます。
福島民有新聞、朝日新聞、東京新聞、日刊スホーツ、日刊スポーツ九州、毎日新聞
サンケイスポーツ、東亜日報、国際トピック、産経WEB。
 読売新聞社と日本経済新聞社がありません。なぜないのでしょうか? 
報道の要旨を記しますと、
北朝鮮の金正日総書記の長男、金正男氏が先月、訪問先のオーストリアで暗殺される寸前だったことが分かった。正男氏と2人の異母弟との間で後継者争い・・・。

全部読みますと、ニュースの殆どが、韓国の通信社の聯合ニュースから出ていることがわかります。本当に暗殺計画があったのでしょうか? あったことは確かなのでしょう。
計画者は、他の二人の兄弟、またはその近辺の者を匂わせていますが、私は、韓国の聯合ニュースの関係者が怪しいとおもいます。

北朝鮮は、愈々最終に近づいていますが、どうなって終わるのでしょうか。金正日総書記は、どうしても死んで頂かないと収まらないでしょう。これまでに、どれ程の国民を殺してきたのでしょうか? 多ければ多いほど、高官は、死刑または服役となるでしょう。そんな国を引き継ぐ息子たちがいるでしょうか?

このように単純な疑問を並べるだけで、暗殺騒動は、だれかが仕組んだとしか思えません。金正日総書記だけでは無く、この一家が消えることを望むものは、一杯でしょう。
その一番は、韓国です。二番は中国です。三番はアメリカです。アメリカは三番にしましたが、ひょっとすると一番かもしれません。話は飛びますが、イラクの件は、アメリカの失敗です。人間としてしてはいけないことをしています。その罰として、毎日、アメリカ人が死んでいきます。テロとの戦いだと大声を上げて、イラクとの戦争を始めましたが、ビルを日本壊されて、判断力を失っていたのでしょう。アメリカは北朝鮮でも同じ過ちをしようとしているのかもしれません。こんなニュースは大概、アメリカ発ですのに、今回は韓国発です。アメリカの仕業だとおもわれないように、韓国経由なのかもしれません。どの国が、暗殺を計画するにしても、この方法が一番、お金も命も少なくて済みます。
相続争いのように、世間に思わせておいて暗殺するのでしょうか? 

ここまで、推理小説を解くように、バカな私は考えたのですが、読売新聞社と日本経済新聞社が、なぜ報道しないのかが判りません。

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2004.12.24

神々の生成 その1

既生國竟。更生神。故生神名。大事忍男神。次生石土毘古神。【訓石云伊波亦毘古二字以音下效此也】次生石巣比賣神。次生大戸日別神。次生天之吹(上)男神。次生大屋毘古神。次生風木津別之忍男神【訓風云加邪訓木以音】次生海神。名大綿津見神。次生水戸神。名速秋津日子神。次妹速秋津比賣神【自大事忍男神至秋津比賣神并十神】

ここらで、文章の読み方に拘ってみようかと思います。自分で読んでください。漢字を使って意味が通るように並べれば良いです。国文学の専門家から叱られるかもしれませんが、国語などと言い出したのは最近のことです。いろいろの文章を並べて、ある規則的なことを発見して、日本語はこのように書いたり、喋るのが正しいのだという言い方が学問です。ところが必ず例外が出てきます。折角、文法を覚えて、その通りに理解したのに、例外ばかり、試験の問題に出されて尽く間違いだといわれ、30点などという屈辱的な英語の点数を毎回頂戴し、次第に英語が嫌になったことを思い出します。
日本語では、主語―動詞―述語。このお話です。
〔これは 一本のペン です。 一本のペンです、これは。 一本のペンです。 〕
三つの文章は、本当は、全部意味が違います。仮に、二人が居て、もう一人の人に、これがペンですと伝えようとするときは、距離が離れていたら、「これ」ではなく、「あれ」です。自分が手にしていたり、直ぐ近くにあったら、「これ」です。しかし、判ればいいのです。なぜか瞬間に判ると思えば、「あれも、これ」も使いません。文法を使いますと、、主語はなくなります。
〔一本のペン です〕 この文章は、書き言葉です。何人いても、第三者に状況を伝えることが出来ます。
〔一本のペンです これは〕 この文章は、言った人は、「一本のペンです」を先に言いたかったのです。判らなかったらいけないから、「これは」と付け加えたことになります。
〔 一本のペンです〕 主語がなくなりました。

しかし、このような説明で分類できません。そのときに、もし、ある言葉を強く言ったとします。その時は、その言葉を強調したかったことになります。こんなこと言い出しますと、〔話し言葉〕を〔書き言葉〕に正確に直すことは、不可能ということになります。
翻訳とは、翻訳者が文章全体の流れから、書いた人の言いたかったことを、翻訳を読んでいる人に、正確に伝えることだと思います。
外国のものの日本語への翻訳は、なんのことやら判らないものが多いです。(私にだけかもしれませんが) 
さて、古事記の翻訳に戻ります。
〔既生國竟〕  既に国を生み竟(オ)えて、英語の直訳のようにしますと、正確には、〔既に国を生むことを竟(オ)えて〕となるでしょうが、初めの方が、頭に、自然に入ります。
〔更生神〕更に神を生んだ  翻訳本の訳は、「更に神を生みき」 「更に、生んだ神を」でいけないのかというと、構わないと思います。ただ同じような表現が出てきたときは、同じように訳すのがいいと思いますが、そのときに全体の流れから、変えたほうが、理解しやすければ、それでいいのです。自分のために読んでいるのであれば、そのほうが良いと思います。
少なくとも、私の頭は、「更に神を生みき」とかいてあると、本当は、文章は続いているのですが、切れてしまいます。
「故生神名。大事忍男神」  「故」の字は、書いてありますから、訳したいです。
意味が良くわかりませんので、
①故 生まれた神の名は、大事忍男神。  
この翻訳ですと、勝手に生まれたようにも受け取れます。主語が無いからです。
主語は、イザナギとイザナミです。 このまま、「生まれた」をつかいますと、尊敬の意味を表す「生まれる」になるかも知れません。しかし、原の漢字には、尊敬を表す漢字はありません。

②故 生んだ神の名は、大事忍男神。  これは、上のような恐れはありません。

③生まれた神の名は 故 、大事忍男神。 これも悪くは有りませんが、 故の字は、後ろに続く文章には表れません。
訳本は、「生める神の名は」となっています。こうすれば、①②のような気遣いは要りません。しかし、読み直してみると、「なんのこっちゃ!」です。
ということで、②がいいのではと思いますが、「故」が、訳せていません。岩波文庫の翻訳者は、「故」とかいて、「かれ」とルビを打っておられます。「なんのこっちゃ! 」です。 こんなこと知らないのかと言われそうですが、知らないのです。「故」を辞書で調べてみましたが、当てはまる言葉がありません。「故(ユ)えに」 「だから」のような接続詞なのでしょう。 しかし、この言葉では、私の頭は拒絶します。「そこで」ぐらいにするか、訳さない方が自然です。

次生石土毘古神。【訓石云伊波亦毘古二字以音下效此也】
次に生んだのは、石土毘古神。〔石の訓(ヨミ)は伊波(イハ)と云  亦(マタ)毘古二字は音を以って 以下此に效(ナラウ)  也(ナリ)〕   ----ということで、石土毘古神は、イハツチビコノカミと読む
 読むのは イワ ツチですが、意味はイシとツチの神のことだと思います。

以下 この調子で、読んでください。

次のページで、私も頑張って翻訳した文章を書きます。それを読んでください。そして、自分のほうが上手く訳せていると思われたらいいと思います。
しかし、全体で、古事記の作者が、何を言いたかったのかなと考えたときに、意味が掴めれば、翻訳した醍醐味が判ると思います       

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2004.12.23

老後は映画館の傍で住もう

一昨日 宮崎駿 監督の「ハウルの動く城」を見てきました。一言で言いますと、面白かった。映画つくりに使われた意気込みを感じさせられました。私は60歳を過ぎていますから、料金は1000円です。1000円であれだけ楽しませてくれたら安いものです。
最近、どんどん郊外に住む人が増えています。もっと、離れて田舎に老後の暮らしを求める人も増えました。映画の好きな人は、映画館の傍で、小さくても安い家があればいいなと考えました。私が行きました映画館は、最近流行のもので、映画館が9つもあるところです。毎週でも見ることが出来ます。もっと、年齢が進みますと車ではいけません。そばですと、暑い夏など、クーラーの利いた最終の映画を観て過ごすのもいいものでしょう。
このように考えますと、文楽の好きな人は、大阪南の劇場の前辺りに、安価な住まいが出来れば最高でしょう。

私は、図書館をよく利用します。先日、大阪市の中央図書館に行き、「鳥取県神社誌」のコピーを取りにいきました。私の住まいは郊外ですから、電車で乗り換えると、4回の乗り換えです。そこで、車にしました。始めての図書館で、止めてからコピーを取るまでに、1時間かかって、駐車料300円でした。150枚ほどコピーするつもりが、時間がなく、50枚ほどで帰ってきました。「鳥取県神社誌」は、大阪・兵庫県にもなく、国会図書館でコピーを依頼しようと思っていましたが、こちらは、コピーが手にはいるのに、時間がかかります。
中央図書館は、すばらしものでした。しかし、府立図書館ですと、蔵書数は一段と増えます。隣に家を持てば、自分の図書館のようなものです。図書館のまわりに、ワンルームマンションを建てれば、売れるのではないでしょうか? 
老後は、郊外もいいですが、都心も素晴らしい。そして、老後は映画館の傍で住もうとなります。

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2004.12.22

大八島国の生成 その3

 次は、筑紫嶋です。
筑紫國は白日別、豐國は豐日別、肥國は建日向日豐久士比泥別、熊曾國は建日別を派遣しました。すべて、「別」です。高天原から遠いところへは、別天神を派遣したことになります。外様大名です。
伊岐嶋・天比登都柱。生津嶋・天之狹手依比賣。佐度嶋。大倭豐秋津嶋・天御虚空豐秋津根別。
また、佐度嶋は、人が書かれていません。ということは、佐度嶋もイザナギの直轄地だと見ることができます。
大倭豐秋津嶋は、岩波文庫では「大和を中心とした畿内の地域の名」と書いておられます。そして、わざわざ断って、「本州の呼び名でない」と書いておられます。それでは、本州はいつ出てくるのだといいますと、出てきません。「大」は、素直に偉大なるという意味でしょう。最後に締めくくりとして、一番大きな本州を持ってきたことになります。
そして、念を押して、これこれの島を 【大八島国】というと、作者は述べています。

然後還坐之時とは、どういうことでしょうか? 訳本は「然(シカ)ありて後(ノチ)、還(カヘ)ります時」と書いておられます。なんのことか解りません。何処からかの帰りに、吉備兒嶋・建日方別。小豆嶋・大野手(上)比賣。大嶋・大多麻(上)流別。女嶋・天一根。知訶嶋・天之忍男。兩兒嶋・天兩屋。
折角、別天神で安心していましたのに、天一根、天之忍男、天兩屋の新しい人間が登場しました。お手上げです。しかし、この三人に共通のことは、「天」がついていることです。
天はテンではないかの話を書きました。今の中国の雲南省の先祖です。苗族といわれた人たちです。
大嶋は、大三島、女嶋は国東半島のところの姫島、知訶嶋は長崎の五島列島でしょうか?
兩兒嶋は、訳本では長崎の男女群島とされています。二人島ではなく、やはり、双子と読むのでしょう。 あまり大きさが違うと双子になりません。
この島の別名は 天兩屋となっています。天の両屋です。両屋の意味が良くわかりませんが、「天」は、「テン」すなわち、苗族なのでしょう。
中国に攻められた苗族は、降参することは無く、今でも特別自治区となっています。その一部の人は海南島・福建省・新羅・日本へと移住したと見られ、福建省では、「福」の字がつく地名が見えます。福州、福鼎、福清、福安などです。
日本でも「福浦」「福良」があります。下関の彦島、その北が福江です。益田、温泉津、島根半島、隠岐、能登半島、十三潟、下北半島、相馬市にも見つかります。この地名は、苗族の人が入植したときの港、そして、その後進出するときの補給港になったところではないか思えます。デルタ地帯に多いのですが、その近くには、「宮」の付く地名も多くみられます。
鳥取県大山町の宮内と京都府大江山は北緯35度27分で同緯度にあります。
鳥取県大山町の宮内と岡山県笠岡市の高島とは東経が同じです。その同じ東経上に、高島のすぐ北に神島があります。神島は「こうのしま」と読みます。
岡山県は「神」の字が付くところか多いです。しかも、その読み方が難しいのが特徴です。別の機会に述べますが、すべてユダヤ人と関係が有るように思えます。
神島と伊勢の内宮を直線で結びますと、線上に淡路の多賀が位置します。多賀には、イザナギを祭ったイザナギ神社があります。それがどうしたと言われそうですが、イザナギも苗族も測量が得意であったようです。急に、ユダヤ人が出てきましたが、彼等は、日本どころか世界中で商売をして移動してきました。自分の位置が簡単にわかる方法を身につけていないと出来ないことです。
この高島は、何処まで信頼できるかわかりませんが、遺跡がたくさん残っています。
 島内北東部には、神武天皇が高島滞在のおり吉凶を占ったとされる神ト山があり、その山頂には、巨大な自然石で建てられた高島行宮遺跡碑があります。
このように眺めてきますと、イザナギにとっては、重要な二つの島であったことが分かります。

【大八島国】のことを、作者はどのように言いたかったか又、考えて見ます。
二人の神さんが、結婚して【大八島国】を生んだのだ。神さんだから、日本の島々を生んだのだ。どうして、日本の国が出来たのか、「上手いこと言ったな」と神話に感心しているようでは、命を掛けて古事記を編纂した人が泣こうというものです。
ただ 八つの島を記しただけではありません。大王が、征服した島々を上げ、わざわざ「大」の字を付けたことになります。

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2004.12.21

北朝鮮はミサイルを発射するか

発射する可能性は大いにあると思います。北朝鮮の問題は、一杯ありますが、どのように解決するのでしょうか? 間違いないのは、日本はなに一つようしないでしょう。中国やアメリカがいろいろの手を使って処理する。なにもしないで崩壊を待つ。どのように考えても金正日氏が死なないことには、解決しません。仮に、中国が必ず、命を助けるからと保障しても無理でしょう。独裁者が政権を明け渡して命が助かったことがありません。

 横田めぐみさんの遺骨だといって、他人の骨を渡すのであれば、まだ許されますが、5人の骨を混ぜたとなれば、人間のすることではありません。骨の変換を求めていますが、返して貰ってどうするのでしょうか? 日本は、鑑定を国際機関に依頼すべきです。一部は中国と韓国に依頼すべきでしょう。
しかし、このように追い詰めていくと、金正日氏の逃げ場がなくなります。北朝鮮の国民ですら、殺してきた人間です。どうせ死ぬなら、一番にくい日本にミサイルを落とすことが、北朝鮮のずっと、抱いていた念願です。このように考えても間違いではありません。横田めぐみさん一家が、立腹されるのは解りますが、拉致被害者の問題では無くなってきました。
「経済封鎖は宣戦布告とみなす」と脅されて、政府は、固まってしまいました。政府どころか、新聞社まで固まってしまいました。その証拠に、連日、金正日氏のことが掲載されていましたのに、全くありません。それどころか、昨日・今日はあるか無いか判らないような、「金正男暗殺未遂」というようなことを報道して、国民の目を反らそうとしています。

もっと、前向きに考えないといけないのではないでしょうか? もし、ミサイルを飛ばすとしたら、何処へ飛ばすでしょうか? 皇居・国会・首相官邸・自衛隊・米軍基地でしょう。
皇居以外は、いくらでも人間の代わりがいますから、大丈夫ですが、実際問題としたら、国会開催中で、全員死んだら困ります。10名ぐらいずつ、交替で出張させて、非常の際の準備をすべきでしょう。自衛隊も日本の自衛隊をすべて攻撃することは不可能ですが、準備はすべきでしょう。伊丹市に第三師団があります。行ってみました。いつもより少し自動車が少ないかなと思いましたが、歩哨を増やしたわけでなし、人の出入りが増えたわけで無しです。きっと、第三師団にはなにも命令がされなかったのだと思います。いや、命令されたが隠密に行動をしているのかもしれません。
小泉首相には悪いですが、攻撃されても、後に続く人は一杯います。問題は、皇居でしょう。代わりの人は居られません。ここは、暫く避難して頂くしかないと思いますが、要請されたのでしょうか? 
なにも準備をしていなくても、着々と戦争への準備をしていると報道して、北朝鮮にプレッシャをかけることぐらいはしないと、国民は安心できません。


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2004.12.20

大八島国の生成 その2

淡道之穗之狹別嶋の前に「子」の字があるので、解決していませんが、田村氏は、「子」は「根」と書かれていた古事記を、藤原朝臣在判が書き換えたと考えておられます。根淡道之穗之狹別嶋という名前の島です。何処に比定するにしても、一番に書いてあるということは、一番大切な島です。
二番目に出来た島は、伊予の二名島です。
〔伊予の二名島〕が分かりません。その後に続く文章から、四国のことであることは、間違いありません。ここの文をそのまま、読めば、四国全部はまだ、把握していなかったが、伊予一帯を二つの部分からなる島だと考えられていたことになります。イザナギの部下が、剣山と石鎚山に登山して周囲を見て発見したのでしょう。
屋島と室戸岬が出っ張っています。東側を粟の国です。西側の今治半島と石摺岬の間が愛媛、南側の室戸岬と石摺岬の間が土佐、北側の屋島と今治半島の間が、讃岐です。剣山と石鎚山に景色を見る為に、登ったのではないでしょう。当然山を基準に測量をしたのだと思います。そして、次々と部下を派遣したと思われます。
どれ程、その測量が正確であったかは、別のページで書いてみます。
派遣された人の名前に、比賣・比古・別がありますが、別は男性ではないかと考えています。〔別天神〕とありましたように、天神と違う人を派遣したのではと。
(どのように考えても自由です。ただし、別天神としたら、その後の土佐国に他の国と違ったところがあるとか、別に関係ある人物が出たというようなことが無いと言いぱなしに成ります。)
三番目は、隱伎の三子嶋です。
隠岐島の地図を広げてください。大きな島後と島前の二つからなっています。島前は西島・中島・知夫里島からなっています。隱伎の三子嶋とは、島前のことを言うのでしょう。ここへは、天の忍許呂別を派遣したと書いてあります。では、島後はイザナギとイザナギが最初にやって来た島で、部下に任せず、自分で統治していたのでしょう。今後、イザナギと関係あると思われる所に出現する「高尾山」の一号が、島後に存在します。
島後を出たイザナギは、島根半島に上陸しました。そして、島後の真南にある山に「高尾山」と名前をつけました。不自然なほど整った三角形の高尾山が、米子空港から見ることが出来ます。三角形の山は、当たり前と思われる方が多いと思いますが、地球の褶曲運動による山は、三角形にはなりません。ある所から、見れば真ん中が高くなっていますが、どの方向から見ても三角形に見えるとすれば、噴火によるものしかありません。島根半島の高尾山が、地質学的に、噴火によるものでないとすれば、人が加工したことになります。何処から、誰がみても目印になるようにです。そして、次に考えられることは、狼煙台に使ったのではないかということです。そのためには、お互いに山が見えなくてはなりません。インターネットで、大山ばかり登っている方、お二人に笛吹き山(大山の南側)から高尾山が見えるかどうか、お尋ねしました。 米子と岡山市の方でしたが、残念ながら、お一人は高尾山をご存知でなく、一年に何回も大山にのぼり、写真も撮りますが、島根半島のほうを見たことがないとの返事でした。見えますと、次は蒜山高原まで狼煙を上げて通信することが出来ます。笛吹山へは自分で登るしかありません。 

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2004.12.18

淡道之穗之狹別嶋 その2

淡道之穗之狹別嶋は、島の名前ですが、前ページで、問題ありと書きました。子をつけて、
子淡道之穗之狹別嶋 が島の名前です。
子淡道之穗之狹別嶋となり、淡道が子と穂の間に収まりました。子は米子の子。穂は穂先の穂と考えると、子淡道之穗は、子から穂へ伸びる道、しかも、ふあふあの道ということになります。パズルのようにも思えますが、太安万侶が、序文において、
「上古の時、言意並びに朴(スナオ)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し。すでに訓によりて述べたるは、詞(コトバ)心に逮(オヨ)ばず、全(マタ)く、音をもちて連ねたるは、事の趣更に長し。ここをもちて今、或るは一句の中に、音訓を交へ用ゐ、或は一事の内に、全く訓をもちて録(シル)しぬ。・・・・・」 このように、いろいろ難儀をしたことが書かれていますが、その中の一つではないかと思います。

日本書紀にも国生みの個所があります。古事記と同様に、次々、国が生まれます。しかし、子淡道之穗之狹別嶋はありません。
日本書紀には、本文と言ってよいかどうか判りませんが、編集者が正しいと思った(?)事柄を述べ、ほかに 次のような書物がありましたというように書かれています。日本書紀は、この国生みの部分に相当力を入れたようです。一書といわれているものが、十もあります。古事記は、日本書紀を参考にして編集されたと言われる方もありますが、もし、正しいとすれば、日本書紀の編集者は、子淡道之穗之狹別嶋の存在は隠しておきたかった事になります。
書かれてある順番に上から一覧にしています。

元の原稿は、この部分に大きな一覧表があるのですが、上手く入りません。
又、考えてみたく思います。日本書紀の一書から十書までに出てくる島の名前が見やすいように抜粋し並べただけです。

両児島は、日本書紀にはありません。前ページで記しましたように、高島と神島は、ユダヤ人と苗族に関係ある島です。それに対して、日本書紀の編集のトップにあった人は、藤原不比等と石上朝臣麻呂です。この二人が子淡道之穗之狹別嶋と兩児島を外したとは断定できないが、可能性は大きい。この二人の出自を調べる必要がありそうです。

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2004.12.17

ドンキホーテーといじめ

昨日、テレビをみていましたら、ドンキーホーテーの社員と名乗る人を、皆でつるし上げている場面が、放映されていました。ドンキーホーテーとは、小売業の会社の名前です。ここ連日、あちこちの店舗が放火され、とうとう従業員が三人焼死されたお店です。
 テレビはある消防署が記者会見をしたときの様子を放映しようとしているらしいのですが、消防署員が、はじめに、変なことを言っています。すごい緊張し様相で、「この中に、ドンキーホーテーの関係者はいませんか」という場面があって、その後、ドンキーホーテーの社員と見られる男性の顔をチラチラする部分を付けて、誰かわからない人が、厳しく詰問し、その社員が平謝りに謝っているシーンです。どうやら、1時間ほどして社員の正体が判ったようです。
 記者会見の場ですから、報道関係者以外の人は、シャットアウトしたのは、当然らしいです。報道できないことがあってはいけないからだそうです。世間に公表できないような、そんな重要なことを発表するのであれば、始めから発表しなければ良いと思いますが・・・。

今回の放火事件の報道はおかしいですね。
消防署は、全国のドンキーホーテーを調べたら、この会社は、159件(?)消防法(?)に違反しており、とんでもない会社であるような報道が連日されていました。例えば、階段に商品を積んでいたと言うものです。それ見ろ、そんな違反ばかりしているから、放火されて死亡者がでるのだというような雰囲気があります。こんな状態ですから、会社とすれば、記者会見は大いに感心があったと思われます。「この中に、ドンキーホーテーの関係者はいませんか」と断ったということは、はじめから、この会社をいじめるような発言をするつもりがあったのでしょう。
消防署は、火を消すのが仕事ですが、予防するのも仕事でしょう。これほど毎日のように放火されているのでしたら、予防策を考えるのが当然でしょう。本当はパトロールをしていないが、パトロールをすることに決まった。警察と会合をもったとか、犯人にプレッシャーをかけることをしたのかと言えば、放火事件で忙しいドンキーホーテーに査察だと言って、手間を取らせています。
こうすることによって、お客さんが、安全に避難できることは大切ですが、今回はお客さんは避難できています。死亡したのは、一度非難しながら、客が心配になって、もう一度調べに入った従業員が死亡されています。

私は嫌な放映を見てしまいました。 

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2004.12.16

淡道之穗之狹別嶋はどこだ

① 「天神の御所に曰す」とあります。訳本は、「天つ神」と「つ」を入れて、「あまつかみ」と読まそうととしておられます。これは正しいかどうか判りません。ただ、言えることは、古事記のはじめから登場した神は多くありません。この外に「天つ神」が居ることにするのかハッキリしません。今までに登場した神々だとしますと、「身を隠された神」を除きますと、
宇比地迩神・妹須比智迩神
角杙神・妹活杙神
意富斗能地神・妹大斗乃辨神
淤母陀流神
妹阿夜訶志古泥神
是だけの神です。さて、この神たちは、果たして、御柱の周りをどのように廻ったら正しいのかしっていたのでしょうか。知っていたとしますと、同じところの出身者ということになります。どこの出身かは、後に譲ります。 こうしたことを調べた上で無いと「天神」をどのように読むかは断定できません。

②「淡道之穗之狹別嶋」は、訳本ではどのように訳しておられるかと言いますと、「淡道の穗の狹別嶋」です。これは、どこの島か判らなかったのだと思いましたら、注釈に「淡路島」と書いておられます。淡路島というには、淡路島に存在する字は、「淡」と「島」だけです。「淡」と「島」の間に、六文字もあります。これを淡路島とするには、無理があります。これなら、水蛭子と淡嶋の創生のページに出てきた「淡島」を淡路島にすべきです。 大八嶋のことを述べた部分に書かれている島の名前ですから、翻訳者としては、なにがなんでも、ここは淡路島と比定したかったと思います。そのために、水蛭子と淡嶋の創生における「淡島」は、不明とせざるを得ませんでした。
この嶋には、名前が無かったのだと思います。無いときはどうするか。古事記の作者は、高天原がどこにあるのか、地名を言うわけに行きませんでしたから、高天原がどのようなところかを記しました。覚えておられますか? 採録します。
「次國稚如浮脂而。久羅下那洲多陀用幣琉之時 如葦牙因萌騰之物而」  ***クラゲなすです。

それでは、「淡道之穗之狹別嶋」も同じ調子で読みます。
淡道です。淡は、漢字の意味からせまりますと、 あわい 、あっさり。これでは なんのことか判りません。 淡を使った熟語には、 淡海・これは淡水の淡です。淡路・どうして淡路というかわかりませんが、古事記にすでに、粟国がありましたが、粟国へ行く路が素直ですが、そうであれば、神戸の方からなぜ言うのかが説明つきません。後ほどイザナギが淡海の多賀へ行く話しが出てきます。
このように考えますと、「淡」は「あわい」ぐらいしか残りません。
以前に登場して頂きました田村誠一氏は、次のように解釈をしておられます。私の解釈も加えて島の名前に迫ります。
イザナギとイザナミは、はじめ隠岐島に渡来し、島根半島に渡った。その頃は、半島ではなく島でした。それは島の一番高いところに登ればすぐに分かることです。地図を広げてください。出雲大社のあるところは、つながって半島になりました。一方北の方は、米子市から境港に向かって、夜見の濱が伸びています。現在では、幅は相当広いものになっています。当時は、潮の満ち干きにより、消えてしまったり、道が出来たのだと思われます。この様子を表現したが、「淡」です。「道」は、辞書をひきますと、沢山ある中で、一番に「ある方向に伸びるみち」とあります。境港の付近は、現在のように、接近していなくて先の方が、ススキの穂のように大きくなっていたのではと思われます。島根島(島根半島)は、南北に山が走っていて、島を南北に別けている狭い島です。
先のほうが「穂」に見えたということは、稗田阿礼は、大山または笛吹き山辺りから、島根半島を眺め島の名前にしたと思います。このように、実際に行かないと分からないことです。古事記は、日本書紀の真似をしたのではないことが分かります。 以上の説明に当てはまる地名の第一候補は、島根半島になります。

②それに加えて重要なことは、大八嶋の中で,「淡道之穗之狹別嶋」のみが、別名がありません。
それだけ重要なポイントだと思います。なぜ、亦の名が無いとおもわれますか?
^他の嶋は、亦の名があります。生まれたのが嶋ばかりなのに、亦の名は狹手依比賣とか、天御虚空豐秋津根別と、どうやら人の名前のようです。比賣は女性で、別は男性かも知れません。
イザナギとイザナミは次々と部下を派遣して、その土地を治めさせたのだと思います。実質的に治めたかどうか別にして、部下を全国に派遣したことは確かでしょう。
このように考えると、「淡道之穗之狹別嶋」は、部下を派遣しなかったのです。

直ぐに、ピンときませんか?

「オノコロ島の造成」に戻ってください。二人は、オノコロ嶋を作りました。次に、
「水蛭子と淡嶋の創生」に戻ってください。ここで、二人は、水蛭子と淡嶋を生んだとあります。
「これも亦、子の例には入れません」と書いてありました。
この意味が解明できたことになります。部下を派遣したか、しなかったかで古事記の作者は言い伝えを正確に表現したことになります。

これから後にも、初めて現れるところでは、詳しく状況を説明しています。
随分、先になりますが、有名な「天孫降臨」の場面があります。
ニニギノ命は、天児屋命らを従えて、「竺紫の日向の高千穂のくじふる嶺」に降りまさしめしと有ります。竺紫、日向、高千穂のすべてを地名捉えて翻訳するために、訳が分からなくなっています。
山の上降りたというのは確かですが、竺紫、日向、高千穂が揃ったところがありません。
この場面にいきつくのは 何時のことでしょうか? こじ付けでも構いません。竺紫の日向の高千穂というところの訳よりはましだと思います。 宿題にしておきます。  
【問題あり・淡道之穗之狹別嶋の前に子があります。他の島に子はありません。】

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2004.12.15

地震と木造建築

今年は 近年で最大の地震が新潟県で起こりました。多くの木造の住宅が被災された様子をテレビで放映されました。それにも増してコンクリートで固めた道路や新幹線の施設が破壊されました。まだ、記憶に残っている京阪神の地震でも、これまた、コンクリートを積み重ねたビルが、沢山崩壊しました。
日本は、有史以来、この地震とともに過ごしてきたのだなと改めて思いました。是ではいくら頑丈な石で建物を作っても、100年も持たないことが判ります。紀元前から、中国や朝鮮からの渡来人が、石の文化を伝えたでしょうが、城山の礎石としてぐらいしか残っていません。
地震に対して、木の建物は強いのかと言えば、そのようなことは無いと思います。日本は地震だけではなく、台風の通り道にもありますから、木の建物は一層駄目と思われますが、現在残っているふ古い建物は、法隆寺があります。これはもう、1300年ぐらいになるでしょうか。 そりゃ、何度も作り変えているからだと思われるかも知れませんが、いくら作り変えても1300年も持たないと思います。日本では、江戸時代の建物でしたら、数え切れないほど残っています。中国でも朝鮮でも古い建物は、それほど残っていないと思います。良く似た環境の台湾でも、古い建物は旅行していても気が付きませんでした。
創建当時のままですと、奈良の薬師寺の東塔があります。養老2年(718)に現在地に移されたとありますから、1300年になります。五重塔で現存するのは、京都の東寺のものです。一番背が高く54.8mあります。残っていないものでは、奈良・東大寺の七重塔が約100メートルあり、奈良の香具山の近くにあった大官大寺は、九重塔で、100メートル以上あったと言われています。今までに、どれぐらいの塔が作られたか判りませんが、500は超えるらしいですが、地震で倒れたものは皆無だそうです。
ということは、600年代には、すでに、倒れない塔を立てる技術が完成していたことになります。
立てる技術だけではなく、それが1300年倒れないで残っていると言うことには、驚くばかりです。五重塔は、中は殆ど人が入れません。木組みばかりです。倒れない工夫は、木組みにあることは間違いありません。法隆寺のほうは、中に空間があり人が利用できます。使われている材木は、勿論組まれていますが、ある部分には釘が使われています。私が使っているスノコがあります。まだ、使い始めて40年にしかなりませんが、全部腐って、三度ぐらい打ち直しています。我が家の方は50年になりますが、いっぱい釘が使われています。見えないところの釘は、全部腐って要を成していないと思います。地震が来ればひとたまりもありません。法隆寺の釘は、使ったときと変わらなくて、錆びていないそうです。600年には、腐らない釘を作る技術があったのと、素晴らしい鉄があったという事がわかります。
我が家の家の柱ですが、もう桧のにおいはしませんが、立てられたときの同じだと思います。カンナをかければ、桧のにおいはすると思います。50年ではまったく変わらないことが判ります。
言い換えますと、木は生きているのです。薬師寺の東塔も生きています。
なぜ 生きているのでしょうか? 木は、普通は根から水分を吸収するのですが、建築に使われた柱は、表面から水分を吸収していることになります。晴れれば蒸発し、雨が降れば、水分を吸収して生き続けます。従いまして、表面にワックスをぬったり、ペンキを塗ると100年はもっても、1000年はもたないことになるのだと思います。
湿度の多い日本だから、木の文化が定着したのだと思いました。
木造建築は、木組みと腐らない釘と塗装を使わない建築で、地震にも強い、風化にも強いものとなるのではないでしょうか・

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2004.12.14

大八島国の生成  その1

分量がお多いので、少しずつに分けてみます。
原文 (句読点は、仮につけただけで、所謂、是によって文が切れるわけではありません。つける場所によって意味が変わることになります)
 於是二柱神議云。今吾所生之子不良。猶宜白天神之御所。即共參上。請天神之命。爾天神之命以。布斗麻迩爾【上。此五字以音】ト相而詔之。因女先言而不良。亦還降改言。故爾反降。更往迴其天之御柱如先。於是伊邪那岐命。先言阿那迩夜志愛袁登賣袁。後妹伊邪那美命言。阿那迩夜志愛袁登古袁。

是に於いて、二柱の神が協議して云われるのには、「今吾が生んだ子は良くなかった。猶(ナオ)、天神の御所に聞くのが宜しいだろう」と。 直ぐに一緒に参上して、天神の命(ミコト)に教えを請いました。そこで、天神の命は、フトマニ爾(ニ)にト相(ウラナイ)て、詔りたまいし。「女が先に言ったから良くなかった。もう一度、帰り降りて改めて言いなさい」 そこで、反り降りて、更に其の天の御柱を先きの如く廻って往(イ)きました。是に於いて、伊邪那岐命は先に「阿那迩夜志愛袁登賣袁あなにやし、えをとこを」と言いました。その後に、妹伊邪那美命が「阿那迩夜志愛袁登古袁あなにやし、えをとめを」と言いました。
続いて原文です。
如此言竟而。御合。生子淡道之穗之狹別嶋【訓別云和氣下效此】次生伊豫之二名嶋。此嶋者身一而有面四。毎面有名。故伊豫國謂愛(上)比賣【此二字以音下效此】。讚岐國謂飯依比古【此四字以音】粟國謂大宜都比賣【此四字以音】土左國謂建依別。次生隱伎之三子嶋。亦名天之忍許呂別【許呂二字以音】次生筑紫嶋。此嶋亦身一而有面四。毎面有名。故筑紫國謂白日別。豐國謂豐日別。肥國謂建日向日豐久士比泥別。【自久至泥以音】熊曾國謂建日別【曾字以音】 此のように言い竟(オ)えて、御合しました。
そして、生まれた子は淡道の穗の狹別嶋です。――1
次に生まれたのは、伊豫の二名嶋。----2
此の嶋は、身が一つですが、面が四つ有ります。すなわち、伊豫國は愛(上)比賣(エヒメ)と謂い、讚岐國飯依比古(イヒヨリヒコ)と謂い、粟國は大宜都比賣(オオゲツヒメ)と謂い、土左國は建依別(タケヨリワケ)と謂う。
次に生まれたのは、隱伎の三子嶋。---3
亦名は天の忍許呂別(オシコロワケ)。
次に生まれたのは、筑紫嶋。----4
此嶋も亦、身一にして四つの面が有ります。面毎に名が有ります。すなわち、筑紫國は白日別と謂い、豐國は豐日別と謂い、肥國は建日向日豐久士比泥別と謂い、熊曾國は建日別と謂う。
続いて原文です。
次生伊岐嶋。亦名謂天比登都柱【自比至都以音訓天如云】次生津嶋。亦名謂天之狹手依比賣。次生佐度嶋。次生大倭豐秋津嶋。亦名謂天御虚空豐秋津根別。故因此八嶋先所生。謂大八嶋國。
然後還坐之時。生吉備兒嶋。亦名謂建日方別。次生小豆嶋。亦名謂大野手(上)比賣。次生大嶋。亦名謂大多麻(上)流別【自多至流以音】次生女嶋。亦名謂天一根【訓天如天】次生知訶嶋。亦名謂天之忍男。次生兩兒嶋。亦名謂天兩屋。【自吉備兒嶋至天兩屋嶋并六嶋】
次に生まれたのは、伊岐嶋です。---5
亦名は天比登都柱と謂う。
次に生まれたのは、生津嶋です。---6
亦名は天之狹手依比賣と謂う。
次に生まれたのは、佐度嶋です。----7
次に生まれたのは、大倭豐秋津嶋です。----8
亦名は天御虚空豐秋津根別と謂う。
このように、、此八嶋を先に生むことに因って大八嶋國と謂う。

然(?)の後、還り坐すときに、生まれたのが吉備兒嶋です。-----1
亦名は建日方別と謂う。
次に生まれたのは、小豆嶋です。-----2
亦名は大野手(上)比賣と謂う。
次に生まれたのは、大嶋です。-----3
    亦名は大多麻(上)流別と謂う。
次に生まれたのは、女嶋です。-----4
    亦名は天一根と謂う。
次に生まれたのは、知訶嶋です。-----5
亦名は天之忍男と謂う。 
次に生まれたのは、兩兒嶋です。-----6
    亦名は天兩屋と謂う。
 【吉備兒嶋より天兩屋嶋で、合計六嶋】

如何でしたか? 古事記を読むのが嫌になられたのではないでしょうか? 私の訳文と原文を合わせながら、読んでください。すでに、そうして頂いたと思いますが、本当は、プロの訳文をここに、書きたいところですが、全部書きますと、著作権で訴えられると思います。私が持っている岩波の文庫本は、1991年9月の発行で、第46刷発行とあります。現在は70刷を越えるでしょうか? これは、ベストセラーズだと思います。このようなものを全文記しますと、本を買わなくてもいいことになります。
という次第で、訳本の転載はやめようと思います。
ところが、プロの訳本と、考えながら訳している素人の私と全く意味が異なるところが多いのです。
そこはどこかという事を記していきますと、文章の流れが悪くなりますので、ここら辺りで私と同様の
「古事記」倉野憲司校注を買い求めて頂ければと思います。(岩波文庫黄の1-1 No620) です。定価620円です。 買い求められますと、原文と私の訳文と岩波の本とを比べることになります。
このような作業をしますと、倉野憲司氏が、日本史をどのように把握されていたかが、素人目にもすぐに理解できます。この面では、新しい楽しみが増えます。

続きは、ページを変えて記します。  タイトルは、「淡道之穗之狹別嶋はどこだ」です。

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2004.12.12

天武天皇は暗殺されたか ??

日本書紀より、天武天皇近辺の人々の病気・死亡の記事を抜粋しました。

3年2月27日    紀臣阿閉麻呂     死亡  壬申のときの部下
4年6月       大分君恵尺      死亡  壬申のときの部下
5年6月       四位栗隈王      死亡  壬申のときの部下
           物部雄君連 突然発病 死亡  壬申のときの部下
5年7月       村国連雄依      死亡  壬申のときの部下
5年8月       大三輪真上田子人君  死亡  壬申のときの部下
5年9月       坂田公雷       死亡  壬申のときの部下

7年4月       十市皇女   とつぜん発病 死亡
7年9月       三位若狭王
8年2月3日     紀臣堅摩呂      死亡  壬申のときの部下
8年3月6日     兵衛の大分君稚見       壬申のときの部下
8年3月9日     吉備大宰の石川王   死亡

8年5月5日  吉野の会盟

8年6月26日    大錦上大伴杜屋    死亡
8年7月17日    葛城王        死亡
8年8月25日    大宅王        死亡
9年5月21日    小錦下秦造網手    死亡
9年5月27日    小錦中 星川臣摩呂  死亡
9年7月05日      犬飼連大伴    見舞う 
9年7月20日    飛鳥寺の弘聡僧    死亡
9年7月23日    小錦下三宅連石床   死亡   壬申のときの部下
9年7月25日    納言兼宮内卿五位舎人王  発病 死にかける
9年7月26日    舎人王        死亡
9年9月27日    桑内王       自宅で死亡
9年11月10日    皇后  発病  平癒
9年11月16日    恵妙僧を 見舞う
9年11月17日    恵妙僧        死亡
9年11月26日    天皇 発病 平癒
10年2月29日    阿倍夫人(天智天皇の嬪) 死亡   681年
10年2月30日    小紫位当摩公豊浜    死亡
10年8月11日    大錦下上毛野君三千(ミチヂ)  死亡
11年1月18日    氷上夫人(天皇の夫人)  宮中で死亡
11年2月       小錦下舎人連糠虫      死亡 壬申のときの部下
11年3月       土師連真敷         死亡 壬申のときの部下
11年6月12日    殖栗王            死亡
11年7月9日     小錦中膳臣摩漏     病気
11年7月18日    小錦中膳臣摩漏        死亡 壬申のときの部下 
11年8月28日    日高皇女(草壁皇子の女)  病気
12年6月3日     大伴連望多          死亡 壬申のときの部下
12年6月6日     高坂王            死亡
12年7月4日     鏡姫王(藤原鎌足の室)     病気
12年7月5日     鏡姫王            死亡
12年8月2日     大伴連男吹負         死亡  壬申のときの部下
12年5月19日    直大参当麻人広麻呂      死亡
14年9月24日  天皇健康が優れない  大官大寺・川原寺・飛鳥寺で誦経させる685年
14年10月8日  オケラを煎じさせる
14年10月10日  束間温湯に行幸しようとする
朱鳥元年3月6日    直大参羽田真人八国   病気に    (686)
朱鳥元年3月25日                死亡   壬申のときの部下
朱鳥元年5月9日   侍医の百済の人億仁  病気 死にそうになる
朱鳥元年5月16日  体の調子が悪いので、祈願を依頼する
朱鳥元年5月24日  天皇病気重くなる
朱鳥元年9月9日  天皇 死亡         116日で死亡   686年

〇 この表から考えたことを記しますと、
① 天皇が具合が悪くなりはじめたのは、14年9月24日。ほぼ 一年後に死亡
② 病気が重くなって死亡までの記事が全く無い。
③ 天武5年から急に死亡者が増える。
④ 殆ど、壬申のときの部下であり、この部下には、位を増やしている。大切な部下ばかり15名が死亡した。信頼於ける部下が殆ど(?) 死んだか。
⑤ 6月、7月、8月、9月の死亡が多い。
⑥ 突然死亡というのがあります。 人間なかなか突然には死にません。普通は、何か作為があると考えます。

以上のことから推察できることは、これらの内、多くの人は、毒殺されたと思えます。
しかも、毒物の種類は、6月~9月に効果を発揮する毒物(毒草)が想像されます。
天武天皇は、 8年5月5日の辺りで、変だと思われ、吉野における会見となります。
14年9月24日自分の身体の調子が悪くなり、古事記の編纂を稗田阿礼に命じたと思われますが、日本書紀には、勿論記されていません。
14年10月10日に束間温湯に行幸しようとする記事があります。なぜ 果たせなかったか理由は書いてありません。631年に舒明天皇が、647年に孝徳天皇が兵庫県の有馬温泉に行幸されていますが、其のときの人数は、少なくとも100人、多ければ400人になろうかと思われます。この際、行幸道が問題です。武庫川が使われたと推察できます。この川の両岸にある神社名は、天皇にとって安全な神社ばかりです。
このようなことを考慮すると、ちょいと温泉というわけには行きません。
行けなかった理由は不明ですが、私は部下が居なかったのが大きい理由ではと思います。
仮に、毒殺だとしますと、病気重くなってから、116日で崩御されています。飲む量によりますが、気づかれないようにするには、是ぐらい日数が必要な毒草となります。天智天皇も似たような日数で崩御されていますから、毒殺された可能性があります。
〇 川嶋皇子、忍壁皇子(オサカベ)、広瀬王、竹田王、桑田王、三野王、大錦下上毛野君三千(ミチ)、小錦中忌部連首(オビト)、小錦下安曇連稲敷、難波連大形、大山上中臣連大嶋、大山下平群臣小首以上は、日本書紀の編纂にかかわったと見られる名前ですが、誰も死んでいません。

8年5月5日  吉野の会盟とは、この日、吉野宮にお出ましになり、6日に草壁皇子尊、
大津皇子、高市(タケチ)皇子、河嶋皇子(天智天皇の皇子)、忍壁(オサカベ)皇子、芝基(シキノ)皇子(天智天皇の皇子)を集めて、千年後でも事がおこらないようにしたいと思うと述べ、皆に、事をおこさないように誓わした。
 千年どころか、直ぐに事が興りそうであったから、このような会合が持たれたことになります。

もっと 他のところから、可能性があるか調べる必要があります。
可能性があれば、日本書紀の編纂に携わった人は、天皇の反対勢力の人達であり、それ故に、天武天皇は、古事記の編纂を、字にしないで、頭の中に仕舞って置くように稗田阿礼に命じた意味が解明されることになります。
そのためには、天智天皇より前からの歴史を正しく知ることが必要になりますが、その最大の資料が日本書紀ですから、日本書紀は勿論のこと、手が加えられたであろう古事記も、書かれていることをそのまま、読んだのでは正しい歴史を知ることが出来ないと思います。

こんなことを何時まで述べても、切がありません。
また、イザナギとイザナミの国作りに戻りたく思います。

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2004.12.08

なぜ 天武天皇は古事記と日本書紀を同時に作る気になったか

前に Ⅱで天武天皇がなぜ古事記を作る気になったかと題して記しました。古事記だけではなく、日本書紀も作る気になっていたようです。天皇在任中に出来なかったのですが、この辺りの様子を頭に入れておきたく思います。

天武10年2月25日の日本書紀に次の記事があります。
「天皇皇后共に大極殿に居(オハ)します。親王諸王及諸臣を喚びて、詔して曰はく、朕、今更に律令を定め、法式を改めむと欲す。故に倶(トモ)に是の事を修めよ。膳れども頓(ニハカ)に是の務(ツトメ)を就さば、公事闕(コウジカク)ること有らむ。人を分(ワカチ)てまさに行うべし」とあり、日本書紀の編纂ではなく、律令の編纂に取り掛かっています。

天武10年3月16日(681年)の日本書紀の記事に次の文があります。
「天皇大極殿に御す。川嶋皇子、忍壁皇子(オサカベ)、広瀬王、竹田王、桑田王、三野王、大錦下上毛野君三千(ミチ)、小錦中忌部連首(オビト)、小錦下安曇連稲敷、難波連大形、大山上中臣連大嶋、大山下平群臣小首に詔して、帝紀及び上古(イニシエ)諸事を規定せしむ。大嶋子首親ら筆を執りて以て録す」
 位がよく判りませんが、皇子・王などが付く人が並んでいますから、相当大掛かりなメンバーで歴史書の編纂を始めた様子がわかります。
ただ、是が古事記であるとも日本書紀であるとも書いてありませんから、なにを編纂するつもりになったか判りませんが、記紀は、712年と720年に完成していますから、どちらかでしょう。古事記は、古事記の序文に稗田阿礼に命じたとなっていますから、上記の記事は日本書紀の記事だと思われます。
直木孝次郎氏は、「古事記と日本書紀の謎」(学生社発行)の中で、どうして、天武天皇が同時に二つの歴史書編纂を考えたかという疑問に二つの説があると述べています。

(1)大がかりにやろうとしたら、有力氏族が、自分の先祖をできるだけ書いてもらおうなどの意見がでて、なかなかまとまらないなど困難なことが出た。そこで、業を煮やした天皇が、それでは私が作ると古事記の編纂をはじめた。

(2)はじめ小規模に稗田阿礼を相手に出発したが、個人の力では およばず、大規模な仕事に切り替えた。
二つであるなら、私の説を3つ目に加える気になっています。
日本書紀の14年9月24日に、天皇の健康優れなくて、大官大寺・川原寺・飛鳥寺で誦経させた記事があります。この頃に自分の身体に不安を感じた天皇が、古事記の編纂を思い立ったのではないかと考えています。
その根拠は、幾つかありますが、天武天皇は暗殺され、686年に崩御されたのではと考えるからです。   

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2004.12.07

天之御柱とは どのようなものでしょう

記紀の訳本では、アマの、アメのミハシラと読んでいます。本当はどう読まれていたか判りません。しかし、アマと読むのと、テンと読むのとでは意味が違ってきます。そのことは、さて置いて、現在「御柱」が残っているところを眺めてみます。

大きく分けて二つです。
①天御柱神、国御柱神という神のなかにある「御柱」です。この神の別称は、志那都比古(級長津彦)神(シナツヒコノカミ)、志那都比売(級長津姫)神(シナツヒメノカミ)、級長戸辺命(シナトベノミコト)とあり、イザナギとイザナミの間に生まれた神とあります。
   「延喜式」の「龍田の風神祭」の祝詞によれば、崇神天皇の御代に龍田の風神が現れ、以来、大雨洪水による不作の年が続いた。どんな神が災いを招いているのか占いをした天皇の夢に現れたその神は、自らを天御柱神、国御柱神と名乗り、不作の災いを除くために龍田の宮を造って祀ることを要求したという。
   以上のことから、この神々は、風神で、国生みのころよりずっと、後に出現した神のようです。

② 御柱という言葉は、4つの神社で残っています。それについて、記してみます。
出雲大社 ・伊勢神宮・諏訪大社 ・貫前神社です。
(ア)出雲大社
出雲大社は、大社造りと称される社殿を有し、本殿の大きさは、10.9m四方で、高さは24.2mで、9本の円柱が、大きな屋根を支えています。その真ん中の柱を、心の御柱と呼んでいます。
この柱は、本来の柱としての役割を持っていますが、この柱だけを心の御柱、他の柱は、宇豆柱とよんでいます。本殿の中心となる柱には違いありませんが、この柱に神が宿っていると考えたのでしょうか?
(イ)伊勢神宮
こちらも心御柱と呼んでいます。長部日出雄著「天皇はどこからきたか」に、いろいろ調べた上で、伊藤ていじ氏の書物を借りて、次のように書いています。
【建築史家伊藤ていじ氏の、すこぶる興味深い論文『謎を秘めた伊勢神宮の建築」(旭屋出版刊)『伊勢神宮』所収)によって、それがどのような謎であるのかを説き明かしてもらおう。
じっさいに見た人が稀な「心御柱」は、檜の柱で、現在のものは内宮で長さ六尺、太さが九寸
、…。「九寸とはいささか太すぎるようにみえるが、とにかくそう風聞されている」と伊藤氏は
いう。】 ようは誰にも真相は判らないということでしょう。
心御柱を伐り出す「木本祭」は、神宮の域内で、夜間に行われ、それを建てる「心御柱奉建
祭」も秘事として夜間に行われる。すべて、非公開で、しかも、夜間にのみ行われるというのは、尋常ではありません。しか、伊勢神宮でもっとも、重要な行事といううわさになっています。
伊勢神宮は、20年ごとに遷宮されることは、有名ですが、現在たっている正宮の横に、前の社殿が立っていた所があります。次の遷宮の時の敷地(古殿地)になりますが、ここに小さな小屋が立っています。その名前を「心御柱覆屋」というそうです。中をうかがい知ることは出来ませんが、その名前からすると、御柱があるのでしょう。
一方、正殿の方のご神体の真下に、心御柱が、埋められており、別のデーターによれば、地上3尺3寸、地中は、2尺とあります。正殿は高床式ですから、見えるはずですが、見た記憶がありません。
こうなると、心柱は2本あることになりますので、調べておきますと書くもものの、きっと、判らないと思います。公開されないところを見ると知られたくないのだなと変に勘ぐってしまいます。
出雲大社と違うところは、柱の役割は全くないということです。
伊勢神宮は、建築様式は神明造りと言われ、他の神社では、使用することが禁止されています。しかし、丹後半島にある籠神社は神明造りで、心御柱もあるそうです。
(ウ)諏訪大社
  諏訪大社は、上社(本宮と前宮)と下社(春宮と秋宮)があり、それぞれに二つの社があり、合計4つの神社の総称です。各4つ神社の境内の4ヶ所に、直径1m、長さ16mほどの大木が立てられます。柱の建て替えは6年に一度です。
諏訪大社以外でも、御柱祭はおこなわれています。諏訪大社と同様に、申、寅の年におこなわれます。
立ケ花(穂崎神社)、柳沢(日高見神社)、北永江(永江神社)、上田市下之郷(生島足島神社) 
(エ) 貫前神社は未調査

諏訪大社は今年見る機会を得ましたが、柱を切り出すところから、柱を立てるまでお祭が延々と続くのですが、そのエネルギーには圧倒されました。町民全員が、祭りに参加する、しかも、祭りの準備は数年前から始まり、全国に散っている人々が戻ってくるエネルギーはどこからくるのでしょうか?
古事記に見られる天之御柱は、生活の出発点のように思えました。

日本書紀にも「御柱」のことは記されていますが、御殿を建てた後に、御柱を立てるようになっています。記紀が作られたときには、すでに、御柱の意味が判らなくなっていたのではないでしょうか?
古事記の作者は、その意味を知っていたのだと思います。日本書紀の作者は、尽く内容は同じようなことですのに、古事記と違うように書いています。ここは、順序を変えてはダメなところです。

イザナギが言った「あなにやし えをとめを」の「えをとめを」は、判りますか? 私は大阪
ですので、すぐ判りました。「ええおとめ」でしょう。「ええ」は「良い」です。
イザナギは関西弁の通ずるところに居たことになります。
(可愛川と書いて、「エノカワ」と読みます。可愛いをエエという言い方があることがわかる)

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2004.12.05

水蛭子と淡嶋の創生

其嶋天降坐而。見立天之御柱。見立八尋殿。於是問其妹伊邪那美命曰。汝身者如何成。答曰吾身者成成不成合處一處在。爾伊邪那岐命詔。我身者。成成而成餘處一處在。故以此吾身成餘處。刺塞汝身不成合處而。爲生成國土奈何【訓生云宇牟下效此】伊邪那美命答曰然善。爾伊邪那岐命。詔然者吾與汝行迴逢是天之御柱而。爲美斗能麻具波比【此七字以音】如此云期。乃詔汝者自右迴逢。我者自左迴逢。約竟以迴時。伊邪那美命先言阿那迩夜志愛(上)袁登古袁【此十字以音下效此】後伊邪那岐命言阿那迩夜志愛(上)袁登賣袁。各言竟之後。告其妹曰。女人先言不良。雖然久美度迩【此四字以音】興而。生子水蛭子。此子者入葦船而流去。次生淡嶋。是亦不入子之例。

一段と漢字の量が増えました。量に恐れず少しずつ解読しようと思います。この部分は、大変重要なことが書かれています。岩波文庫の訳本には、「二神の結婚」となっています。古事記の作者がなにを伝えたいのかと考えるとき、タイトルのことを伝えたかったのだと思います。
それでは、出発です。
「其嶋天降坐而。見立天之御柱。見立八尋殿」
「其の島に天降りまして、天の御柱を定めて、八尋の御殿を見立てました」
訳としては、難しいところはありません。ただ、納得の行かないところがあります。天降るということは、天から降りてくることを言います。其の島とは、オノコロ島のことで、天上にある高天原に出来た島のはずです。其の島に天降ったということは、おかしいことになります。
イザナギとイザナミは、高天原にオノコロ島を造成したはずです。「天降」の天は、天上の天ではなく、ありがたくもと言うぐらいの意味でしょう。同じアマクダルでも、天下るとかきますと、意味がまたことなってきますが、上から降りてくるのですから、語源は、天降るでしょうか。
次が解りません。天之御柱は、日本書紀では、「ミハシラ」と読むように書いてあります。
わざわざ 注釈をつけたということは、普通は、「ミハシラ」とは読まないのでしょう。
「御柱」は、一般には使用しませんが、伊勢神宮に心の御柱、諏訪神社には御柱、こちらは「おんばしら」と呼び、使われています。「見立」は、普通は品定めするとかに使いますが、柱ですから、「見」は抜いて、立てるだけにしたいところです。
以後、岩波文庫の翻訳を記し、全体の内容を把握して貰います。
  その島に天降りまして、天の御柱を見立てて、、八尋殿を見立てたまひ
き。ここにその妹伊邪那美命に問ひたまはく、「汝が身は如何に成れ
る」とひたまへぱ、「吾が身は、成り成りて成り合はざる処一処あり。」と
答へたまひき。ここに伊邪那岐命詔りたまはく、「我が身は、成り成りて
成り余れる処一処あり。故、この吾が身の成り余れる処をもちて、汝が
身の成り合はざる処にさし塞きて、國を生み成さむと以爲ふ。生むこ
と奈何。」とのりたまへぱ、伊邪那美命、「然善けむ。」と答へたまひき。
ここに伊邪那岐命詔りたまひしく、「然らぱ吾と汝とこの天の御柱を行
き廻り逢ひて、みとのまぐはひ爲む。」とのりたまひき。かく期りて、
すなはち「汝は右より廻り逢へ、我は左より廻り逢はむ。」と詔りたま
ひき。、約り竟へて廻る時、伊邪那美命、先に「あなにやし、えをとこを。」
と言ひ、後に伊邪那岐命、「あなにやし、えをとめを。」と言ひ、各言
ひ竟へし後、その妹に告げたまひしく、「女人先に言へるは良からず。」
と告げたまひき。然れどもくみどに興して生める子は、水蛭子。この子
は葦船に入れて流し去てき。次に淡島を生みき。こも亦、子の例に
は入れざりき。

解ったような解らないような訳ですが、御柱は、八尋の御殿を立てるために必要なのかと思った
ら、その後、どうやら、セックスをはじめる時の儀式に必要らしいことが推察できます。
そして、生まれたのが、水蛭子と淡島です。

それでは、私の解釈を続けます。
於是問其妹伊邪那美命曰。汝身者如何成。答曰吾身者成成不成合處一處在。
 是に於いて 其の妹伊邪那美命に問うて言うには、「汝の身(カラダ)は如何(ドノヨウニ)成っているか
答えて言うには、「成り合わせようと何度しても、成り合わない処が一ヶ処あります」

爾伊邪那岐命詔。我身者。成成而成餘處一處在
そこで伊邪那岐命が言われるのには、私の身は、成り合わせようと何度しても、成り余る処が一
処あります。
故以此吾身成餘處。刺塞汝身不成合處而。爲生成國土奈何【訓生云宇牟下效此】伊邪那美命答曰然善
  それ故此の吾が身の成り余る処を以(モ)って、汝の成り合わない処を刺し塞ごう。国土を生む為に、どう思いますか。伊邪那美命が答えて言うには、「善(イイ)です」
爾伊邪那岐命。詔然者吾與汝行迴逢是天之御柱而。爲美斗能麻具波比【此七字以音】  ここに伊邪那岐命が詔りたまわれるには、然(シカ)らば吾と汝とで、是の天之御柱の周りを廻って逢い、美斗能麻具波比(ミトノマグワイ)をしましょう。
如此云期。乃詔汝者自右迴逢。我者自左迴逢。約竟以迴時。伊邪那美命先言阿那迩夜志愛(上)袁登古袁【此十字以音下效此】後伊邪那岐命言阿那迩夜志愛(上)袁登賣袁。各言竟之後。告其妹曰。女人先言不良。
かく期(?)りて すなはち「汝は右より廻り逢へ、我は左より廻り逢はむ。」と詔りたまひき。、約(チギ)
り竟(オ)へて廻る時、伊邪那美命、先に「あなにやし、えをとこを。」と言ひ、後に伊邪那岐命、「あ
なにやし、えをとめを。」と言ひ、各言ひ竟へし後、その妹に告げた。「女人が先に言うのは良くな
い」
雖然久美度迩【此四字以音】興而。生子水蛭子。此子者入葦船而流去。次生淡嶋。是亦不入子之例。
然かし、くみど(?)に興して生める子は、水蛭子。この子は葦船に入れて流し去りました。次に淡島を
生みました。これも亦、子の例には入れません。

これで訳は終わりですが、「あなたの身体はどのようになっていますか」「成り合わせることができないところがあります」セックスに必要な道具と方法を具体的に述べています。
この部分は無くてもいいです。しかし、この部分は、日本書紀でも必要と見たか、古事記の真似をしたか判りませんがあります。男の元の部分と女の元の部分があると書かれています。必要も無いのに、なぜ詳しく書いてあるのでしょうか?
はじめ、日本書紀の書き方に比べて、古事記はうまいこと表現したなと感心しました。而成餘處一處在  「成成」は、成り成りては、どんどん大きくなってと解釈して感心したのですが、女性のほうにも書かれていまして、私の勇み足と言うことが判りました。
美斗能麻具波比とあります。美斗は御処(ミト)のことでしょうか? 麻具波比は、辞書を引きますと、「目交」とあります。元の意味は、好きで目と目が合うことですが、どうやらセックスのようです。「交」の含むセックスに関する熟語を辞書で求めますと、交合、性交、交接、媾交があります。当時、このような言葉はなかったのではないでしょうか? 行為自体はあり、麻具波比(マグワヒ)と言っていたが、詳しく説明をしたのだと思います。古事記では、初めての所には、地名がありませんから、その場所の状況を詳しく書いています。そして、地名がわりにしています。(例、高天原) 
セックスは子供を作るための儀式のようなものですが、セックスのたびに、御柱の周りを廻るわけではありませんが、物を作るときは、御柱の周りを廻る儀式を行うのです。と言うことを述べているのでしょう。そのルールを間違いますと、蛭子を産むような失敗をするという話を混ぜながら、水蛭子の誕生と淡島の誕生を語っています。水蛭子が子供で、淡島が島というところが理解できませんが、そのまま、前に進めることにします。
御柱は、避けて通ることは出来ませんので、項を改めて述べることにし、水蛭子と淡島です。

水蛭子(ヒルコ)
完成されていない赤ちゃんのことでしょうか? お寺に行きますと、よく水子供養という言葉を見ることが出来ます。水蛭子の蛭が抜けたように見えますが、同じことかどうか判りません。
葦船に乗せて流したとあります。無茶なことをするようにも思えますが、海軍などでは、水葬という儀式もありますから、無茶と言い切ることは出来ません。
もっとも、この時の水蛭子は、流れて海に出たことになっています。ある人に拾われて育てられます。そして、兵庫県の西宮の祭神になられたという伝説があります。西宮のえべっさんです。蛭子と書いてエビスと読みます。エビスはこの字のほかに、恵比寿、夷、戎、夷、恵比須、胡があります。
字の形から考えますと、なんだか外国から到来した雰囲気があります。
中国に苗族という人達がいます。其の中のトウ族という人達の国の始まりに、二人の夫婦が、水蛭子を生み、国土を作っていく神話が伝えられています。(諏訪春雄Webの記事)  苗族の人の風俗には、日本とよく似たところが多いので、日本に初めてやってきた人は、苗族の人の可能性が大きいとも言われています。

淡島
岩波文庫の説明では、所在不明となっています。なぜかと言いますと、二神は次々と島を生むことになります。そして、一番に生んだ島の名前が、淡道の穂の狭別島です。これを淡路島としているため、淡島が宙に浮いてしまいました。
古事記の作者は、他の島と切り離して、この部分で、水蛭子と淡島を示しました。そして、「これも亦、子の例には入れません」と断り書きを入れたのですから、所在不明で逃げては駄目だと思います。
淡島こそ、淡路島のことです。
いっぱい子供が生まれましたが、オノコロ島と水蛭子と淡島は子供に入れません。特別な子供ですと述べています。この部分が作者の一番に言いたかったところだと思います。

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2004.12.04

俳句を楽しむ--おでんの俳句

俳句を作り始めて、まだ、二年にもなりません。 「おでんの俳句」は昨年の四月に多くのおでんの俳句に接して、感動したときの文章です。多いですので、分けて掲載します。全国のみなさんのおでん好きと俳句好きが伝わればと思います。

私は俳句を作り始めて、二ヶ月ほどです。俳句は、作れそうで作れません。そこ
で、先人の作品を真似しようと読むことにしました。
下記の「おでん」の俳句は、俳句雑誌<ホトトギス 15年4月号> の若水集(稲畑廣太郎
選) にありました俳句です。掲載するに当って、ホトトギス社の許可を得ていませ
んので、作者のお名前は、削除しました。 作者のお住まいは掲載しました。
先ずは、どのような俳句が入選したのか・・・・ご覧ください。   H15.04.25

人情と云ふ重みある串おでん       高知 
串おでん馬手弓手にはコップ酒      高知  
妻として恋人としておでん食ぶ      神戸 
おでん屋に浮世の時間忘れけり     神戸 
おでん屋にさみしがりやの顔並び    神戸 
ビル谷間おでん屋台のけふの位置   岩見沢 
おでんやの夫婦いはくのありさうな    岩見沢 
おでん屋の雲のかけらになる湯気か  小樽  
屋台透け星澄む路地のおでん酒     東京 
呉越とてしばし休戦おでん酒       東京 
おでん屋を出れば星降るビル谷間    東京 
おでん酒女将にほの字なりし日も    吹田 
碁敵とおでんに夫を預け来し       茨木 
人生のおほよそ見えておでん酒      茨木 
狭さうに食べねばおでん美味くなし    神戸 
おでん食べれぱ肩叩き易くなる      神戸 
赤い灯になつておでんが招きをり     神戸  
おでん屋のこぼす昔の灯色かな      神戸 
おでん屋の頭上阪神電車過ぐ       神戸 
独りでは酔へさうもなきおでんかな    神戸


家庭のおでんの句もありましたが、屋台のおでんの句だけにしました。住所を見てください。私が散らばらして掲載したのではありません。初めから、順番に並べました。北海道から四国、東京、大阪、神戸と、あちこちにおでん屋さんが健在であることが判ります。

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2004.12.03

オノコロ島の造成

少し、量が多いですが、先ず原文を書きます。
於是天神諸命以詔伊邪那岐命伊邪那美命二柱神。修理固成是多陀用幣流之國。賜天沼矛而。言依賜也。故二柱神立【訓立云多多志】天浮橋而。指下其沼矛以畫者。鹽許袁呂許袁呂迩【此七字以音】畫鳴【訓鳴云那志】而。引上時。自其矛末垂落之鹽。累積成嶋。是淤能碁呂嶋【自淤以下四字以音】

「於是天神諸命以詔伊邪那岐命伊邪那美命二柱神」 この部分の訳です。 漢字をすべて、並べて文章にしますと、
「是れに於いて天神の諸の命を以って、伊邪那岐命伊邪那美命二柱神に詔(ミコトノリ)して」となるでしょうか? もう少し、やわらかく書き直して、「ここに於いて天神のもろもろの神たちで、伊邪那岐命と伊邪那美命の二柱神に言いました」とぐらいにしたく思います。

問題は、天神です。いままでに、出てきた神は、五柱と神世七代の15人の神さんだけです。私の古事記の読み方からしますと、天神(天つ神か)は、10人だけです。
そのうち、五柱の神さんは、身を隠されました。神世七代のうち、国之常立神と豊雲野神の二人も身を隠されました。残っている神は、伊邪那岐命と伊邪那美命を除くと、8人の神となります。解らないのは、「神」ではなく、なぜ「命」なのでしょうか? 「命」は、「ミコト」と読ませてあることが多いですが、この読み方が正しいかどうかわかりません。この違いは究明すべきですが、宿題にします。

次は
「修理固成是多陀用幣流之國」です。是だけの漢字を使って意味が通るように並べ替えてみます。 「是の多陀用幣流之國(漂へる国) を修理し固くなるように成しなさい」 「この漂える国を固くなるように作り変えなさい」 どのように書き換えてもあまり、違いは生じない部分です。

 「賜天沼矛而。言依賜也。故二柱神立【訓立云多多志】天浮橋而」
「天沼矛を賜いて、言依を賜い也」なんのこっちゃです。天沼矛がわかりません。言依がわかりません。今度は宿題にしないで、挑戦です。
「天沼矛」は「天沼の矛」か「天の沼矛」に分けることができます。「天沼の矛」ですと、天沼という名前の矛となります。矛は、武器です。まだ 戦いどころではありません。天沼がまた、困りますので、
「天の沼矛」の方を採用します。(岩波の本もそうしています。ところが、注釈の欄に、玉で飾った矛とあります) 沼と矛と分けては駄目なのでしょう。後ほど、「天の御柱」とか「天の真名井」とか「天之狭手依比売」というように、「天」のオンパレードです。これは、「天つ神」の天を付けて、強いて訳せば「ありがたい」とか「正真正銘」のとでも訳せるでしょうか。尊称の言葉ですから、訳さないことにすれば、今後、この悩みから開放されます。「沼矛」とはなんでしょうか。沼で使用する矛となれば、武器ではなく、スコップのようなものでしょう。すこし、荒っぽいですが、スコップということにします。
古事記では 後に、天の詔琴、天の班馬が出てきます。これらに共通するとは、後ろに書かれてあるものは、名詞です。天から持ってきた沼矛、詔琴、班馬です。天(テン)とは、現在の中国の雲南省の古代の国の名前ではないかと思われます。 漢字は サンズイ偏に眞です。読み方は 「テン」です。テンの国から、沼矛、詔琴、班馬を連れて日本へやって来た人達が、日本を作ったと考えられます。よって、「テンのヌマホコ」と読むべきです。高天原のところで、この天は、阿麻と読むようにと注釈がありました。だから、「天の真名井」や「天の浮橋」は、「あまのまない」と読むべきです。

「言依」という熟語はあるのでしょうか? 「依頼」という言葉に使われるように、頼むとか、頼るとかの意味のようです。「タノム・タヨル」となりますと、「頼む」の漢字になりますが、「依」も「頼」も頼るだとおもわれます。「言依」は、言葉でお願いするぐらいの意味でしょう。
訳を続けます。
「そして、二柱の神は、 天浮橋に立って」
以前に橋について調べたことがありますが、文献にでてくる橋では、最初のものです。昔はあまり橋をかけるという発想はなかったように思われます。日本では、川幅が狭く流れが急であるため、しばらく待てば川を渡れたからではないでしょうか。木の橋は、古くから作られ利用されたでしょうが、石橋の歴史は古くはありません。
浮き橋は、浮いている橋です。この浮橋の袂に立ってという表現は、国を作るときにあったのではなく、古事記を書いた人が、高天原から見て、何もないところに見えるものは、ふあふあ浮いている雲を見立てて、浮いている橋と表現したのだと思います。普通、雲海と呼んでいるものです。橋と表現したということは、橋の向こうにも山があり、高天原の橋の向こうにも山があったことになります。(富士山を当てはめるとしますと東側はあてはまりません)
中蒜山の麓から100mの位置のところ雲海が朝に出来るそうです。この位置を御所に定めたことになります。
「指下其沼矛以畫者。鹽許袁呂許袁呂迩【此七字以音】畫鳴【訓鳴云那志】而」
 「其の下を指し沼矛を以て書きますと、塩がコオロコオロと書き鳴らす」 「書鳴」は「かきならす」勢いよくかき回すことでしょう。
「引上時。自其矛末垂落之鹽。累積成嶋。是淤能碁呂嶋【自淤以下四字以音】」
「引き上げた時、其の矛自(ヨ)り垂れ落ちる塩」「累積して成れる嶋」「是がオノコロ島です」

日本列島で最初にできた島が、オノコロ島であると宣言しています。塩が溜まって出来たとは、どういうことでしょうか? そのような馬鹿なことはありえません。いくら、伝説にあったと考えるにしても、古事記ができた700年頃に考え付く話ではありません。オノコロ島の造成にさいして、塩が関係あったと言うことでしょう。
日本人は、四方を海に囲まれていますから、塩といえば、海からと考えますが、普通は岩塩のことです。中蒜山の麓に、「塩釜」と地図に書かれたところがあります。以前は塩釜の冷泉と言われていましたが、現在は泉から大量の水が湧き出し、旭川の源水になっています。今流行のミネラルウォーターとしてペットボトルに詰めて売られていました。
神戸市北区に有馬温泉があります。この有馬の周辺に、「塩」の字がつく地名がいくつかあります。西宮市の名塩、宝塚市の塩尾、三田市にもあったように思って、いろいろ理由を探していましたら、神戸市の西側に入り口があり、内海の形で、三田や名塩のあたりまで、海が広がっていた図を見たことがあります。塩という字がつく、地名はやはり塩と関係があると考えてもいいでしょう。塩釜の水は、飲んだところ塩分が多いようには思えませんでしたが、紀元前は、塩分を含んでいたのかも知れません。御所を作るときに、土を固めるのに、塩分を含んだ塩釜の水が必要だったのだと田村誠一氏は述べておられます。
古事記では、海の塩になっていますが、「修理固成」の中に、固めるとありますから、実際に固めるのに使われたのかも知れません。其のときに、天の沼矛を使用したのは言うまでもありません。

田村誠一氏は、オノコロ島は、中蒜山の中腹に見られる平らな部分だと書いておられます。中蒜山の五合目に「日留神社」があるというので、確かめるために登ってきました。神社はなくて、小さな祠がありました。いつからあるものか確かめようがありませんが、日留宮と呼ばれているそうです。五合目まで登るのが、私には限界で、青息吐息で到着しまして、御所のあった平地を確かめないで下山してしまいました。


「オノコロ」が解りませんが、「島」は、海にある島とは限りません。日本にいっぱい島と名のつくところがありますが、あるもので囲まれたところを島と名づけた可能性はあります。
私の住んでいる町には、「白島ハクノシマ」「坊島ボウノシマ」という大字名の町があります。勿論、海とは関係ありません。従いまして、「オノコロ島」は、山の上にあってもいいことになります。イザナギとイザナミは、二人して、はじめに、「オノコロ島」を作ったことになります。                        
愈々、イザナギとイザナミの結婚生活がはじまります。


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