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2004.12.08

なぜ 天武天皇は古事記と日本書紀を同時に作る気になったか

前に Ⅱで天武天皇がなぜ古事記を作る気になったかと題して記しました。古事記だけではなく、日本書紀も作る気になっていたようです。天皇在任中に出来なかったのですが、この辺りの様子を頭に入れておきたく思います。

天武10年2月25日の日本書紀に次の記事があります。
「天皇皇后共に大極殿に居(オハ)します。親王諸王及諸臣を喚びて、詔して曰はく、朕、今更に律令を定め、法式を改めむと欲す。故に倶(トモ)に是の事を修めよ。膳れども頓(ニハカ)に是の務(ツトメ)を就さば、公事闕(コウジカク)ること有らむ。人を分(ワカチ)てまさに行うべし」とあり、日本書紀の編纂ではなく、律令の編纂に取り掛かっています。

天武10年3月16日(681年)の日本書紀の記事に次の文があります。
「天皇大極殿に御す。川嶋皇子、忍壁皇子(オサカベ)、広瀬王、竹田王、桑田王、三野王、大錦下上毛野君三千(ミチ)、小錦中忌部連首(オビト)、小錦下安曇連稲敷、難波連大形、大山上中臣連大嶋、大山下平群臣小首に詔して、帝紀及び上古(イニシエ)諸事を規定せしむ。大嶋子首親ら筆を執りて以て録す」
 位がよく判りませんが、皇子・王などが付く人が並んでいますから、相当大掛かりなメンバーで歴史書の編纂を始めた様子がわかります。
ただ、是が古事記であるとも日本書紀であるとも書いてありませんから、なにを編纂するつもりになったか判りませんが、記紀は、712年と720年に完成していますから、どちらかでしょう。古事記は、古事記の序文に稗田阿礼に命じたとなっていますから、上記の記事は日本書紀の記事だと思われます。
直木孝次郎氏は、「古事記と日本書紀の謎」(学生社発行)の中で、どうして、天武天皇が同時に二つの歴史書編纂を考えたかという疑問に二つの説があると述べています。

(1)大がかりにやろうとしたら、有力氏族が、自分の先祖をできるだけ書いてもらおうなどの意見がでて、なかなかまとまらないなど困難なことが出た。そこで、業を煮やした天皇が、それでは私が作ると古事記の編纂をはじめた。

(2)はじめ小規模に稗田阿礼を相手に出発したが、個人の力では およばず、大規模な仕事に切り替えた。
二つであるなら、私の説を3つ目に加える気になっています。
日本書紀の14年9月24日に、天皇の健康優れなくて、大官大寺・川原寺・飛鳥寺で誦経させた記事があります。この頃に自分の身体に不安を感じた天皇が、古事記の編纂を思い立ったのではないかと考えています。
その根拠は、幾つかありますが、天武天皇は暗殺され、686年に崩御されたのではと考えるからです。   

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