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2004.12.29

古事記に石上朝臣麻呂は関わったか

No21
古事記の編纂を試みたのは、天武天皇です。そのときの最高位の家来は、石上朝臣麻呂と藤原不比等です。前者が左大臣、後者が右大臣です。左大臣の方が、位が上ですが、どちらがどれ程実力があるのか判りません。両人とも、古事記と日本書紀の編纂に、全くかかわらなかったことは無いと思います。そこで、二人はどのように関わったかを知るために、どのような人であったのか調べることにしました。
藤原不比等は、藤原鎌足の二男で、708年に右大臣になっています。調べようと思いましたが、資料は膨大に上りそうですし、本もいっぱい著されていますので、止めにしました。

そこで、石上朝臣麻呂です。この人は、どこの出であるのか判らないらしいです。素性が良く判らないのに、どうしてこのように最高位についたのか、記紀とははなれても興味をそそられる人ですが、私の知った範囲で記します。
天智天皇の死後(天智10年12月3日)、天皇の弟の大海人皇子と天智天皇の子の大友皇子との間で皇位継承問題がおこります。大海人皇子は皇位を譲って、吉野に引き籠ります。しかし、その後、壬申の乱と呼ばれる戦になり、大友皇子は負けて自害したということになっています。
 「ただ物部連麻呂と12人の舎人が、最後まで皇子に従った」と日本書紀に記されています。 (天武元年7.23 672年) この物部連麻呂が、後の石上朝臣麻呂です。
文献上では、天武5年(676)遣新羅使に任命されています。 その時の官位は、大乙上です。 (26段階あるうちの19位)  同年2月にも新羅から2人の遣新羅使が帰国していますが、大使の大伴連国麻呂は、小錦上(10階)ですから、官位が低いのに、なぜか任命されています。いかに、天皇から認められたかが判ります。
ただ、遣唐使にしても遣新羅使にしても、天皇が認めたとは限りません。先のページで天武天皇は暗殺されたかと書いた私には、686年に亡くなられる10年前のことですから、この時すでに、大切なことは、側近の手ですべて行われていたかも知りません。
物部と名が付いているから、一族とは言えるとは限りませんが、壬申の乱のときに、登場する物部氏は、大海人皇子に従い、東国での蜂起にも参加した物部雄君と近江朝の臣・物部首日向と大友皇子の舎人だった物部連麻呂との三人です。同じ一族とすれば、両側に分かれて戦ったことになります。そして、大友皇子の舎人だった物部連麻呂は、敵の天武天皇の左大臣になったのですから、よく理解できません。
石上朝臣麻呂は、717年3月3日、日本書紀の完成を見ないで、78歳でなくなっています。
ただ、『続日本紀』に、「……左大臣正二位石上朝臣麻呂年七十八帝深悼惜焉爲之罷朝詔遣式部卿正三位長屋王……、」(天皇は、深く悼惜し、そのために朝政を休まれた」という)とありますから、元明天皇は悪い印象を持っておられなかったと思えます。
しかし、日本書紀は、嘘を書いたのかも-------それを知るためには、まだまだ時間がかかりそうです。 

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