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2005.01.31

イザナギは中山王国の出身か

中山王国、聞かれたことがありますか? 地図を見て頂いた方が早いですが、地図をよう載せませんので、説明します。北京のすこし南西280Kmぐらいのところに石家荘市があります。そこから、西北40Kmのところに太行山がありその麓に平山県というところにあります。 
 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page384.html
http://o-mino.la.coocan.jp/page157.html
上のアドレスに地図を掲載しました。

中山をどのように読むのか判りません。「チュウザン」でしょうか? 「ナカヤマ」ではないと思います。中山王国は、燕と趙と斉に囲まれた国です。左上に 「戦国時代地図」とあるように、戦争が頻繁に行われた時代です。前475年―前221年の辺りを云うらしいです。小さな国が、戦国七雄(秦、燕、趙、斉、楚、魏、韓)と呼ばれる国に、次々併合されていきました。中山大国は趙に滅ぼされました。前296年です。
この頃の私の知識は、燕、趙、楚という国名は、見たことがあるなという程度です。
そこで、文物展の冊子に説明文より、その大部分を拝借して、紹介しようと思いますが、文を書かれた方は、「劉来成」となっています。中国の方だと思いますが、中山大国の資料が少なくて、よく判っていないと書いておられます。
 そこで、私の考えを交えながら、紹介をすすめます。
地図のなかで、四角で囲まれた漢字は、国の名前のようです。全部一字です。中山王国だけが、二文字です。日本の県名は、二文字か三文字です。日本に似ているということです。インターネットで、「王国」で検索しますと、この外にもあるようです。そして、王国の前の文字が、二文字もありましたから、別に珍しいのではないのかも知れません。
しかし、地図に見られるような広大な国は、中山王国だけです。
冊子7ページより
《中山王国はもと中国の陜西北部にいた白狄人(ハクテキジン)が春秋戦国時代に建てたものである、と歴史家は一般に考えている。『世本』には、「中山の武公は顧に居し、桓公は霊寿に徙(ウツ)る」と書かれている。顧は現在の河北省の定県であり、霊寿は現在の石家荘地区かの霊寿県からあまり遠くないところにあった》・・・・・・《遊牧を生業とする白狄の部族が春秋時代に西北部から河北の北部に到達するともに、北から南に向かって発展し、保定や石家荘の一帯に定住して国家を樹立したのである》
《1974年から平山県の三汲公社一帯で、大規模な考古学的な調査・発掘を行った結果、戦国時代の王都であった霊寿城の遺跡と何代かの王陵を発見した》
この文章から見られるように、文章を書いている劉来成氏も、「歴史家は一般に考えている」というほどに、確かなことは判らないということです。発掘に携わった方ですら、このような表現になるほど、知られていない民族であるといえます。
 発掘は4年にわたって行われました。例に漏れず、この遺跡も盗掘にあっていましたが、19000点の文物が収集されました。
 予談ですが、それから、僅か7年後に東京国立博物館は、文物展を開いていますから、博物館の力は凄いなと思いました。
文物展とは聞きなれないものですが、出展されていたもののうち、中山王九鼎の一番目に「鉄足大鼎」があり、その胴の部分に、銘文が77行刻まれ、その字数は469字で戦国時代の銘文では最高のものです。三本足の鼎は、肉類を似た礼器で、周時代の礼制では、天子が使う鼎は九鼎と定まっていましたから、この「鉄足大鼎」は位の高い人が使用したことが判ります。
その他の遺物は、文字がありませんが、沢山のことを教えてくれます。私は残念ながら、
文物展は見ませんでしたので、冊子を古書店で買い求めました。出展それた一部が写真で公開されていますので、この写真から、考えたことを記します。

(1) 鉄足大鼎 ---鉄足とあります。三本足で、鉄製です。肉などの材料が入るところは、銅製です。別々に作って、上に置くだけですと、簡単ですが、融解温度の異なるものをつなぐのは、どうするのでしょうか。そんなもの簡単だと一言で終わる気もします。先に、下の部分を作って、完成してから上の銅の部分を作ればいいことになります。先日、NHKのテレビで、大阪の鋳物師(?) さんが、銅鐸の製作を試み、大騒ぎをしている映像がありました。銅鐸どころのものではないと思われます。技術か格段上と思われます。
(2) 銀製頭部男子像燭代台---青銅・銀   通高66.4 重11.6kg
これこそ 写真を転載したいのですが、したら叱られるでしょうね。男子の背の高さは、20センチぐらいです。両手を横にのばし、竜をつかんでいます。ロウソクを建てる部分は、二ヶ所で、左手の竜は、横にのびて、途中から首を上にもたげて、男子の肩の辺りに、燭台があります。横に伸びている竜を、その下で、とぐろを巻いているもう一匹の竜が、首をのばして、横に伸びている竜を支えています。
右手の竜は、昇っていき灯柱に繋がりますが、そこに猿がいて、竜と戯れている構図になっています。最上階は、お皿の状態になっていて、そこにローソクが立てられます。男子頭部は、銀製ですが、髪、顔、着ている着物、宝石をはめられた目など、本当に精細に作られています。
(3) 十五連盞燭台
  全体は樹枝状に作られており、其の枝の先にロウソクを立てるようになっています。高さは80cmの小さなものなのに、その枝の上に、鳥が止まっていたり、数匹のサルが戯れています。中心と幹には龍。下にはサルにえさを与えている人がつくられており、サルには表情が見えますから、素晴らしいものです。日本では、銅鐸に線で鹿が描かれていると注目されていますが、文化の差を感じさせます。
(4) ? 龍形黄玉佩 (?の字は 草カンムリ+ナベブタ+真ん中に 百 左に正、右に犯の右の部分+その下に 変の下の部分  クイと読むらしい?)
 黄玉。長さ6.1 幅2.8 重さ9g
身をくねらせる龍。両面は雲文で飾られる。背に綬にかける孔がある。
古事記に、「御頚珠の玉の緒もゆらに取りゆらかして」という部分がありましたが、
上のようなものも、黄玉ということを知っていただくために掲載したかったのですが、写真をよう載せません。 黄玉佩とあります。

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2005.01.28

イザナギとイザナミはどこから来たか

イザナギとイザナミはどこから来たかに取り掛かろうと思います。この二人に限りません。天照大御神・月讀命・建速須佐之男命も、海外からやってきました。
 このような話は、外国の文献にも、日本の文献にもありません。だから、判らないでは、古事記に書かれていることは、神話で終わってしまいます。これから後、いくら考古学が前進しても、この部分に関しては、土の中からは語ってくれません。 そこで相当無理なところが生じてきますが、これまで、読み進んできたところでは、間違いは無かったと思っています。 となれば、彼等が何処からかやって来たことは間違いないでしょう。
 ただ、地続きであれば、いくらでも来ることができますが、何分大きな日本海という障害があります。偶々、船が難破してたどり着いたということはあるでしょうが、いくら文化に差があるにしても、日本を動かすことは出来ません。
 順序だてて考えてみることにします。彼等は、日本へ来たかったのだと思います。その理由はとなります。大きく分けて二つです。日本が素晴らしかったので、来たかった。日本へくるしかほかに方法が無かったです。
前者は、伝説だといわれていますが、秦の始皇帝のときに、徐福という人に、不老長寿の薬を見つけて来いと始皇帝に命じられたということになっています。伝説ですが、中国の記録にあるそうです。紀元前200年の頃のことです。このとき、男女そして、年齢もまちまちの人が、3000人ほど出かけたことになっています。こんなに多くの人を送り出したということは、日本についての知識があったということになります。
このことは、別の機会に書くことにします。もう一つは、ある民族が、他の民族に滅ぼされるケースです。現在のように、ミサイルなどの兵器を使えば、全員殺すことは、可能ですが、ある者は逃げることになります。所謂亡命者です。私は日本の歴史すら、知りませんでしたから、中国などなおさら知りません。俄かに、インターネットから、中国の歴史を調べました。
中国よりもっと、遠くで古い時代に、追われた人達に、ユダヤ人がいます。10の氏族がいたそうですが、その内の一派が、中国にも来て、そして日本にも来た形跡があります。それは、地名として残っていると思われますが、日本の歴史では、地名は全く無視されています。
 常に中国の圧迫を受けながら、現在でも屈しない人達がいます。現在の中国の雲南省に住む一部の人です。苗族と呼ばれています。福建省の人達もそうです。天山山脈の近くにいた大月氏の人もそうです。 このように眺めていきますと、まだまだあると思います。
 先にあげました徐福がイザナギとイザナミだということにしますと、一番、後が楽になるのですが、
日本には、徐福がきたという伝説の地はいっぱいあります。一番有名なところは、和歌山県です。
ここが本拠地としますと、イザナギとイザナミがいた高天原が和歌山ということになって、以後説明に無理が生じます。
後々まで、つじつまが合う国を発見されました。発見者は、度々登場しました田村誠一氏です。
国の名前は、「中山大国」です。
私の考えも交えながら、「中山大国」を紹介します。

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2005.01.27

倭という字

倭を分解すると、人と禾と女になります。
① 禾は、あわ。いね。禾科(カホン)の植物、または穀物の総称と辞書にあります。
象形文字で、しなやかに穂がたれた低い粟の姿から出来た文字です。
② 禾に女が加わり、委です。しなやかに力なく垂れる様子。
  委は字音は、い(ゐ) 意読は、ゆだねる(ゆだぬ)/ まかせる(まかす)/ すてる(すつ)/
  おちる(おつ)/ すえ(すゑ)/ つまびらかに
  意味---カシオのEX-wordには
ゆだねる(他人のいいなりになる)。 / まかせる(なりゆきのままになる)。
すてる(手を離してほっておく)。 / おちる(ためておいてある)。
曲がりくねったさま。 / すえ(曲がりくねった端)
つまびらかに。細かい末端まで。
「字通」には—
委は稲魂を被って舞う女の形で、その姿のしなやかなさまをいう。--形声
意味はしたがう、低い姿勢。/ 倭遅は、はるかに連なるさま/ わが国の古名。

同声には、萎、痿、逶、があり勿論、すべて「い」と読み、すべて意味は、しなだれて、ぐんにゃりしているさまです。
「矮」――「わい」意味は、短くて曲がっているさま。
中国でも、「倭」を使った熟語は、少ないらしく、「倭遅」しか掲載されていません。
中国の資料に掲載されているのは、「倭奴」「倭寇」「倭種」「倭漢」「倭刀」「倭人」
とあり、すべて、倭の字は、日本の意味で使われています。案外、「倭」の字は、日本人を現すために作られた漢字かも知れません。

③ 委に人偏がついています。倭になります。
漢和辞典をひきますと、字音は 「わ」と「い」です。
「名付け」として、 かず しず まさ やす やまと が掲載されています。慣例として、このようにも読むということです。 倭を「やまと」と読むのは、知っていますが、字典には、「わ」と「い」だけです。 倭文と書いて、「しとり」「しどり」「しずり」と読みます。べつの漢字で書きますと、静織(しどり)です。

  呉織と漢織と書いて、「くれはとり」「あやはとり」と読みます。呉は「くれ」漢は「あ
や」ですから、織は「はとり」と読むことになりますが、漢和辞典では、「しき」「しょく」「おる」しかありません。
この二つは、呉の国の織物・漢の国の織物という意味でしょう。倭文は倭の国の文(織物)という意味になります。
ただ、日本書紀の応神天皇の37年春のところに、日本からの求めに応じて「呉の王は、工女(ヌイメ)の兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人の婦女を与えた」という記事が載っています。大阪府池田市に呉服(クレハ)神社があり、「呉織・穴織」の二人が祀られていますから、記事に見られることは実際にあったと思われます。となりますと、「呉織」は、工女の名前ということになります。
④ 全国に倭文神社はたくさんありますが、鳥取県には、二ヶ所あります。その一つは、旧の住所で、東伯郡北谷村志津にあります。
  茨城県那珂市静字帝青山に、静神社があります。祭神は、織物の神である建葉槌命
  となっています。
  滋賀県余呉町と木之本町の境に賤ヶ岳があります。木之本側の麓に、大音の集落があります。ここも絹織物があったのかどうか調べていませんが、絹からお琴の糸が作られています。「賤」は「しず」と読みます。
  このようなことから、元々、絹のことを日本では、「しづまたは、しつ」と読んでいたのではないでしょうか?  


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2005.01.26

三貴人の誕生 その2

No15にて、「山をセンと読む山」と題して、山の名前を紹介しました。センと読む人は、限られたところであることが判ります。
三ページに分布図を載せました。センと読む山は、隠岐・佐渡島にあります。そして、後は、島根・鳥取県に集中していました。山という字を「セン」と読む人達が、大陸からやってきました。鳥取のある場所に漂着し、その後、次第に、住むところが、広がっていったと考えられますが、上陸地点だと考えますと、外の県には、殆ど漂着しなかったことになります。
 彼等が、最初にやってくるときに、行き当たりばったりで来たかも知れませんが、ある程度は、知っていたと思われます。
大陸から来るときは、地図を眺めただけでは、壱岐の島は真ん中にあり、距離も壱岐を通るのが、一番短距離のように思われます。そのため、誰でも九州へやって来たと考えたいところです。しかし、潮の流れを横切ってきますから、相当漕ぐか、帆の力を借りないと、到達できません。大陸の南部の方を出発しますと、潮の流れに乗りますと、きっと、距離は長くなりますが、漕がなくても、隠岐島から佐渡島の間ぐらいに漂着すると思います。掛る日数も2日もあればいいのではないかと思います。 調子のいいことを書きましたが、プロに聞けば直ぐに判ることです。そうでなければ、壱岐島や九州にも上陸しているはずです。三人の貴人たちは、意図してか、意図しなかったかわかりませんが、似たようなところに着いたのではないでしょうか?
イザナギも天照大御神・月讀命・建速須佐之男命も全員、隠岐島に上陸したのではないでしょうか? まだ、調べてはいませんが、あの小さな島に、187もの神社があります。神社が多いということは、自分の先祖を祀る人が、いろいろの人種であったとも考えられます。さて、一緒にいるだけでは、貴人かどうか判りません。 きっと、どこの国の出か、そこで何をしていたか お互いに知るようになったと思います。もし、言葉が異なれば、はじめは、片言の言葉ですが、そのうちに、全員の間で通じる言葉が生まれたかもしれません。これが日本語の元になったかもしれません。
  このように考えませんと、禊の場にやって来た三貴人が、貴人であるかどうか判断できません。イザナギの判断では、天照大御神を一番良い高天原に決めました。それぞれの赴任地(?) その理由などを含めて探ってみようと思います。そのためには、どうしても彼等がどこからやって来たのか、そして、どのような技術をもっていたのか、何人ぐらいでやって来たのかなどが重要になってきます。
結論だけ記しますと、三人の神さんは次のところへ行くように命じられました。
① 天照大御神は、ヒルゼン高原の高天原です。
② 月讀命は、京都府夜久野町に派遣されました。 その後、天照大御神はその北の大江町へ本拠地を移します。
③ 建速須佐之男命は、海原へ行くように命じられました。現在の倉吉平野になります。建速須佐之男命の本拠地は根の堅州国です。 

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2005.01.25

ウイルスは恐ろしいか

この文は、「新聞記事」--「脅威? ノロウイルス」の続きです。

前回の福山市のノロウイルスの話はどのように思われましたか?
あんなこと書いたら、福寿園から叱られるかもしれません。しかし、私は、福寿園が間違っていたとは思いません。福寿園がすべての病気について、保健所に報告していたら、どうなるでしょう。報告をうけた保健所は対応しなければなりません。なにか恐れがあるだけで、すべての病院が報告をしていたら、保健所の機能は麻痺します。

あの事件は、新聞記者の知識不足でしょう。ウイルスのことを知らないとあのような報道になります。
今回、「ウイルスは恐い?」としました。新聞記者の方は、きっと、そう思われたのでしょう。私も恐ろしいものだと思っています。しかし、あのような騒ぎ方をするほど恐ろしいものではないと思います。
ウイルスとはどのようなものかご存知ですか? 私は頭の中では知っているつもりですが、正体を見たことはありません。教科書的に書きますと、ウイルスは光学顕微鏡(普通の顕微鏡)では見えません。それほど小さなものですから、細菌と同様に、微生物と呼んでいます。
小さいウイルスの代表に、ポリオウイルスがあります。これなどは、長さの単位を使いますと、30ナノメーターよりまだ小さいそうです。1ミリの1000分の1が、1ミクロン、その又、1000分の1が1ナノメーター(間違ってないかな?) から、私には、体感できない、理解できない大きさです。
 小さいということは、当然構造は簡単になります。構造が簡単ということは、ウイルスが出来ることは、限られてきます。ウイルスの弱いところは、自分ではエネルギーを作れないということです。誰かから、エネルギーを貰わない生きていけません。自分だけでいたのでは増殖も出来ません。生きているものにしがみ付いてのみ、生きていける生物です。
 その代わり、シブトイところがありまして、生きているものであれば、何にでもしがみ付いて生きていきます。人間は勿論、すべての動物、昆虫でもそうです。植物にも付きます。細菌にまでつきます。
そりゃ恐ろしい連中です。
ところが、見方を変えてみます。動物に付いたら、いくらでも増えるのかといいますと、増えません。(ひょっとすると、ここのところは間違っているかもしれません) どんどん増えたらどうなりますか? その動物は死にます。どんどん、死んだら、そのウイルスは生きていくことが出来なくなります。だから、どういう仕組みになっているのか知りませんが、ある程度、発生しある程度死んだら、病気は収束するものです。テレビを見ていましたら、一生懸命、トイレなどを消毒液で拭いておられましたが、拭かなくても病気は収束したと思います。
この事件の前は、鳥インフルエンザでした。ウイルスは野鳥からきたという説がでて、えらいことになったなと心配しました。鶏舎に積もるぐらい薬剤を撒いていましたが、野鳥にまでするとなると、あたり一帯消毒薬だらけです。そうこうする内に、下火になり、報道も下火になると鳥インフルエンザ事件は終わりました。勿論、病気の方は今でもアチコチで出ていると思います。
このウイルスに効く薬はありませんから、予防はワクチンになります。しかし、本当にワクチンが必要なのかは、考えてみるというか検討する必要があります。
というのは、ウイルスには、何千万という種類のウイルスがあります。全部ワクチンなど作れません。ウイルスをすべて人間の手で処理しようとするのは、人間の驕りです。ウイルスはどんどん増えないように、神がすべて決めていると考えるのが、いいかもしれません。そうなると、人間の方の免疫力を高めるしかありません。
H17.01.25


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2005.01.24

三賢人の誕生

大切なところみつかりましたか? もう一度、原文の登場です。
此時伊邪那伎命大歡喜詔。吾者生生子而。於生終得三貴子。
即其御頚珠之玉緒母由良迩【此四字以音。下效此】取由良迦志而。賜天照大御神而詔之。汝命者。所知高天原矣。事依而賜也。故其御頚珠名謂御倉板擧之神【訓板擧云多那】次詔月讀命。汝命者。所知夜之食國矣。事依也【訓食云袁須】次詔建速須佐之男命。汝命者所知海原矣。事依也。
読んでみます。
此の時、伊邪那伎命は、大歡喜して詔(ミコトノ)りして、「私は子を生んで生んで、終わりに生んだところで、三貴人を得ました」。-----次の文に繋がりません。ここは元々あった文章が削除されたと思われます-----すなわち、御頚珠の玉緒 もゆらに取りゆらかして 賜天照大御神而(に)賜いて詔りされて「汝命(ナンジミコト)は、知っている所の高天原ですよ」。事依を賜わりました。その御頚珠の名を、御倉板擧之神(ミクラタナノカミ)と謂う。 (事依をコトヨサシテと訳本では読ませています。命ずるで良いと思います)
次に、月讀命にいわれるのには、「汝命は、所知の夜之食國ですよ」と命ずるものなり。
次に、建速須佐之男命に云われて 「汝命は、所知の海原ですよ」と命ずるもの也。

ざっと、目を通しますと、伊邪那伎命は、最後に、大貴人を得て大変喜んで、三人に治める場所を指定し命じたことが判ります。
ところが、殆どの訳本は、この部分の訳が出来ないために、今後の訳も筋が通らないものになります。三貴人と書いたすぐ後に、建速須佐之男命がとんでもない神だったので、追放したことになっています。三貴人ですから、結末は、三人が日本国を発展させて、神武天皇に結びつかないと古事記を作った意味がありません。ところが、それどころか、神武天皇などは居なかった。それに続く、八代の天皇も、「欠史八代」と呼ばれ、現在の歴史の世界では、実存しなかったという流れになっています。
この部分は、このような意味でも重要な部分だと思います。
私は、後世の人が、読んでも意味が判らないようにした人がいたのだと思います。

そこで、この部分の文章を読むときは、大胆に想像力を働かせて読まないと駄目だと思います。
私の読み方(というものの、主体のなる部分は、田村誠一氏のものです)を記す前に、岩波文庫に書かれてある注釈を記しておきます。

月読命(ツクヨミノミコト) ----  月の神とあります。 月の神なのに、どうして「ツクヨミ」と読むのでしょう。「ツキヨミ」でいいと思います。
建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト) ---- 勇猛迅速に荒れすさぶ男神の意。嵐の神。
御頚珠-----首飾りの玉。
汝命(イマシミコト)-----あなた。親愛と敬意が含まれている。
御倉板擧之神(ミクラタナノカミ)----倉の棚の上に安置する神。---理解できない。
夜之食國----夜おさめる国。即ち、夜の世界。食すは治める意。

さて、この注釈を読んで、もう一度、読んでください。何のことかわかりますか? 判らないところは判らないで置いて読んだ方がまだ、判ります。この注釈では、一層判らなくなります。
このようなことはどうして起ったかと言いますと、岩波文庫の編集者は、「高天原」を実在しない、「天上」の世界ということにしたためだと思います。こうなると解釈は 愈々、神話にしなければ一貫性が保てません。
そこで、夜之食國は、夜おさめる国となります。夜おさめる国とは何のことでしょう。「食」がないと、楽でした。「夜の国」となります。「食」がありますから、どうしても訳さなければなりません。いろいろ考えたら、「食」という字に、「治める」という意味があったのでしょう。
ところが、建速須佐之男命はお手上げです。説明もしておられません。建速須佐之男命は、「海原」に命じられました。 おかしいですね。前の二人は、現実にない世界に命じられました。なのに、「海原」は現実に存在する「海」のことです。海が荒れないように今も昔も、関係者は願いますから、建速須佐之男命に、行ってもらって、荒れる海を沈めて貰うのであれば、判りますが、勇猛迅速に荒れすさぶ男神を派遣してどうしようというのでしょうか?

今度は、私の説明になります。
この三人の神は、外国からやってきました。 これが、最大のヒントです。そして、伊邪那伎命が、顔を洗っていたら、やって来た三人をどうして、「貴人」だと判断したか。

また、宿題にします。いろいろ考えるのは自由です。楽しいアイデァが浮べば 、古事記を読み始めたことに値打ちが出るというものです。

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2005.01.21

禊祓いと神々の生成

前回の 禊祓いと神々の生成 その2 の前の文章が抜けていました。
この文の後で、改めて その2を読んでください。

又もや、原文です。
是以伊邪那伎大神詔。吾者到於伊那志許米(上)志許米岐【此九字以音】穢國而在祁理【此二字以音】故吾者爲御身之禊而。到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐【此三字以音】原而。禊祓也。

故於投棄御杖所成神名。衝立船戸神。次於投棄御帶所成神名。道之長乳齒神。次於投棄御裳所成神名。時置師神。次於投棄御衣所成神名。和豆良比能宇斯能神【此神名以音】次於投棄御褌所成神名。道俣神。次於投棄御冠所成神名。飽咋之宇斯能神【自宇以三字以音】次於投棄左御手之手纒所成神名。奧疎神【訓奧云淤伎下效此訓疎云奢加留下效此】次奧津那藝佐毘古【自那以下五字以音下效此】次奧津甲斐辨羅神【自甲以下四字以音下效此】次於投棄右御手之手纒所成神名。邊疎神。次邊津那藝佐毘古神。次邊津甲斐辨羅神。右件自船戸神以下。邊津甲斐辨羅 神以前十二神者。因脱著身之物。所生神也。

於是詔之。上瀬者瀬速。下瀬者瀬弱而。初於中瀬隨迦豆伎而滌時。所成坐神名。八十禍津日神【訓禍云摩賀。下效此】次大禍津日神。此二神者。所到其穢繁國之時。因汚垢而。所成神之者也。次爲直其禍而所成神名。神直毘神【毘字以音。下效此】次大直毘神。次伊豆能賣【并三神也伊以下四字以音】次於水底滌時。所成神名。底津綿(上)津見神。次底筒之男命。於中滌時。所成神名。中津綿(上)津見神。次中筒之男命。於水上滌時。所成神名。上津綿(上)津見神【訓上云宇閇】次上筒之男命。此三柱綿津見神者。阿曇連等之祖神伊都久神也【伊以三字以音。下效此】故阿曇連等者。其綿津見神之子。宇都志日金拆命之子孫也【宇都志三字以音】其底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者。墨江之三前大神也。

於是洗左御目時。所成神名。天照大御神。次洗右御目時。所成神名。月讀命。次洗御鼻時。所成神名。建速須佐之男命【須佐二字以音】右件八十禍津日神
以下。速須佐之男命以前十四柱神者。因滌御身所生者也。

この項は、退屈なので、翻訳をやめようと思っています。空白をおいて、四ヶ所に分けました。例によって次々と神が生まれるのですが、「成」と「生」が混ざっています。気になるので、太文字にしました。
上二行、ご自分で読んでください。禊祓いをした場所が書いてあります。
岩波文庫の翻訳では、〔竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原〕となっています。そして、注釈に、場所不明となっています。こんなに〔の〕を入れたら、どこか判りません。
〔阿波岐原〕は、〔淡き原〕でしょう。最後が、地名ではなく、草が少ない原だといっていますから、前にある文字は、すべて、その場所を形容する文字と考えられます。竺紫は筑紫に似ていますが、字が違います。この部分を飛ばして、先に進みます。
二段目は、十二の神が生まれたことになっています。
縦に並べ替えます。
  杖----  衝立船戸神
  帯----  道之長乳歯神
  嚢----  時量師神
  衣----  和豆良比能宇斯能神
  褌----  道俣榊
  冠----  飽咋之字斯能神
  手纏(左)-奥疎紳、奥津那褻佐毘古神、奥津甲斐辮羅神
  手纏(右)--邊疎神、邊津那塾佐出比古神、邊津甲斐辮羅神
三段目は、
次に、中つ瀬に堕り潜きて、身を滌いでいるときにやって来た人の名前を14人挙げています。
  汚垢によりて成れる神------- 八十禍津日神、大禍津日神
  禍を直さむとして成れる神--- 神直毘神、大直毘神、伊豆能売神
  水の底に滌ぐ時に、成れる神-底津綿津見神。底筒之男命
  水の中に滌ぐ時に、成れる神-中津綿津見神。中筒之男命
  水の上に滌ぐ時に、成れる神-上津綿津見神。上筒之男命。
     三柱の綿津見神は、阿曇連等の祖神なり
     底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、 墨江の三前の大神なり。
  左の御目を洗ひたまふ時に成れる神--天照大御神
  右の御目を洗ひたまふ時に成れる神--月読命
  御鼻を洗ひたまふ時に成れる神------建速須佐之男命
合計26名の部下ができたことになります。
  
底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神は、笛吹山の中腹の大河原神社に祭られています。底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命は吉原神社に祭られています。
夜見のヒラ坂で追ってから逃れたイザナギは、大坂を通り、白水川にでて、大滝へと進んだことになります。
イザナギが居たところには、大王の〔大〕と〔白〕がつくことが多いようです。このルートは、もともと、イザナギが利用していたルートで、津綿津見神と筒之男命は、この地で働いていたのだと思われます。禊祓いをしているところに、たまたまやってきたのであれば、神社として残らないと思います。其のときの子孫の方が、ずっと、神社のお守りをしておられることになります。
此れで終わりですが、初めの〔到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐【此三字以音】原而〕です。森林が尽きた所が〔竺紫〕です。日向は太陽の当たるところです。この辺りは、かつて、日光村と呼ばれた所です。白水川の上流は、沢になっています。僅かな草が生えている状態が、阿波岐原(淡い河原)です。そこに橘の木が垂れ下がって、小さな門のようになっているところを潜ったのでしょう。形容詞を並べて表現したことになります。 

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2005.01.19

禊祓いと神々の生成 その2

再度、前回の三段目を記します。
於是詔之。上瀬者瀬速。下瀬者瀬弱而。初於中瀬隨迦豆伎而滌時。所成坐神名。八十禍津日神【訓禍云摩賀。下效此】次大禍津日神。此二神者。所到其穢繁國之時。因汚垢而。所成神之者也。次爲直其禍而所成神名。神直毘神【毘字以音。下效此】次大直毘神。次伊豆能賣【并三神也伊以下四字以音】次於水底滌時。所成神名。底津綿(上)津見神。次底筒之男命。於中滌時。所成神名。中津綿(上)津見神。次中筒之男命。於水上滌時。所成神名。上津綿(上)津見神【訓上云宇閇】次上筒之男命。此三柱綿津見神者。阿曇連等之祖神伊都久神也【伊以三字以音。下效此】故阿曇連等者。其綿津見神之子。宇都志日金拆命之子孫也【宇都志三字以音】其底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者。墨江之三前大神也。

是に於いて詔りたまわれました、「上瀬は瀬ガ速いし、下瀬は瀬が弱い。」
 初めに、
中瀬に隨い、かずいて滌(ソソ)いだ時、成られた神の名は、
八十禍津日神。
大禍津日神。
この二つの神は、其の穢繁國(すごく穢い国)へ到ったときに、汚垢(ケガレ)に因って成った神です。
次は其の禍(ワザワイ)を直す為に出来た神の名は、
  神直毘神
  大直毘神
  伊豆能賣
次は 水の底に滌ぐ時に出来た神の名は、
  底津綿(上)津見神
  底筒之男
次に中に於いて滌ぐ時に出来た神の名は、
  中津綿(上)津見神
  中筒之男命
次に水上に於いて滌ぐ時に出来た神の名は、
  上津綿(上)津見神
上筒之男命
此の三柱の綿津見神は、阿曇連等の祖神といつく神です。阿曇連等は、其の綿津見神の子、宇都志日金拆命(ウツシヒガナサク)の子孫也。 其の底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、墨江の三前(ミサキ)の大神也。

見ての通りで、上、中、下の名前の神さんを挙げるために、川の流れの上流、中流、下流をもってきて、語呂あわせをしただけのようです。だけど、神の名前が言い伝えられてあったために、川の話をつくったのではないでしょうか?
綿津見神、筒之男とは、何でしょうか。綿津見神は、海を司る神。筒之男は津、船が停泊するところを司る神と訳本に注釈がありますが、なぜ、海に関係ある神が、大山の麓にまつられているのでしょうか? 字句だけで、解釈するとこんな説になるでしょう。 検討の余地があります。

それより、もっと、重大なことが、次に書かれています。
於是洗左御目時。所成神名。天照大御神。次洗右御目時。所成神名。月讀命。次洗御鼻時。所成神名。建速須佐之男命【須佐二字以音】右件八十禍津日神
以下。速須佐之男命以前十四柱神者。因滌御身所生者也。
是に於いて
① 洗左御目時 所成神名------ 天照大御神
② 洗右御目時、所成神名------ 月讀命
③ 次洗御鼻時、所成神名------ 建速須佐之男命
  右(上に書かれた)の件  八十禍津日神以下から速須佐之男命以前までの十四柱神は、御身を滌ぐに因って生れる所の者也。

ここに書かれた十四柱神は、此れまでに生まれた部下ではなく、上級の部下として、別に特別に記録し、後世の人に伝えようとしたのでしょう。古事記が編纂されたとき、すでに、ヒルゼン高原周辺の神社に,祭られていたのだと思います。改めて、どの神が、何処で祭られていたか調べたく思います。稗田阿礼は、きっと、すべての神社を訪れて、記帳もし、記憶もしたと思います。
その記憶をするときの覚える方法として、左目からは、天照大御神が。右目からは、月讀命。御鼻からは建速須佐之男命と物語作って覚えたのでしょう。 学校の試験の前に、連想ゲームのようなものを作って暗記をした経験は誰にでもあると思います。
こんな馬鹿げた伝説が生まれるわけがありません。 記憶するために、作られた物語であるのに、日本書紀の作者たちは、古事記を参考にして、同じ物語を採用しました。勿論、少しずつは作り変えています。

次の部分は、漢字の数は少ないですが、大切なことが書かれています。
此時伊邪那伎命大歡喜詔。吾者生生子而。於生終得三貴子。即其御頚珠之玉緒母由良迩【此四字以音。下效此】取由良迦志而。賜天照大御神而詔之。汝命者。所知高天原矣。事依而賜也。故其御頚珠名謂御倉板擧之神【訓板擧云多那】次詔月讀命。汝命者。所知夜之食國矣。事依也【訓食云袁須】次詔建速須佐之男命。汝命者所知海原矣。事依也。

読むことに、挑戦してください。どこが大切か見つけてください。

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2005.01.18

イザナミの墓・比婆山

比婆山は、全国にいくつあるか調べていませんが、現在のところ
下記の四ヶ所を確認しています。不思議なことに、それぞれ、古事記に出てくる比婆山は自分の町の比婆山だと主張されており、御所とまで称するお墓が存在します。広島県の場合は、山の名前だけでなく、郡の名前にもなっています。
イザナミが仮に、九州にいたとしまして、どうして広島のような遠いところで、しかも山の中に葬ったのでしょう。他の三ヶ所は島根県です。やはり、島根県が妥当なところでしょう。
廣島県に比婆山を持ってきた人は、どうしても島根県では困ったのでしょう。
明治政府によって八雲村の岩坂陵墓参考地が指定されています。また、古事記の「黄泉の国」のところで、問題にした最後の行の伊賦夜は現在の東出雲町揖屋のあたりとされていますが、ここには揖夜神社が鎮座し主祭神はイザナミが祀られています。島根県の中でも、横屋の比婆山の可能性が高いように思います。

それでは、どうして、伯太町横屋の比婆山が正しいのか、理由を述べてみます。
日野郡阿毘縁村宮下に熊野神社があります。この神社の由緒にイザナミを葬った比婆山を別名御墓と称したという伝説があるということを記しています。
26号、27号で、原古事記を復元して、イザナギはイザナミのお見舞いに行ったと記しました。そして、イザナミは入院していたと。その入院先が 日野郡溝口町の「御墓原」だと田村誠一氏は言っておられます。以下、補足しながら、紹介します。
伯太町横屋の比婆山より東に移動しますと、会見町を通過して、日野郡溝口町の「御墓原」があります。古事記の記事を読んで、ここがイザナギとイザナミが逢った所だろうと後世の人が町に名前を付けたのでしょうか。このような例は奥州の会津にもみられます。古事記にあっただけでなく、熊野神社の由緒にもあるように、地元になんらかの伝説が残されていたのだと思います。
次は、下記の表です。つぎの二つのことが判ります。
① 島根半島・高尾山と島根県能義郡伯太町横屋は南北に並びます。
   麓には、比波山神社があります。
②岡山県真庭郡・日留宮と島根県能義郡伯太町横屋は、東西に並びます。
日留宮はイザナギとイザナミが最初に御所に定めたところです。國生みは、ここから始まりました。(9号オノコロ島造成を参考にしてください)
それがどうしたと云われそうですが、イザナギとイザナミに関係する場所は、すべて、南北、東西に関係があります。どれ程遠く離れていても位置を正確に把握する能力を持っていた集団であったと思われます。それだけでなく、東西南北にこだわった種族だと思います。

ヒルゼン高原(日留宮)—笛吹山(ノロシ台)—御墓原(入院先)—比婆山(お墓)


 所在地             東経     北緯
1  広島県比婆郡西城町   133-03-41  35-03-47
2  島根県八束郡八雲村  133-04-37  35-21-57
3  島根県八束郡鹿島町(佐太神社境内)  133-00-03  35-30-46
4  島根県能義郡伯太町横屋  133-14-47  35-18-41




 隠岐島後・高尾山  133-13-19  36-16-25

 島根半島・高尾山  133-14-33  35-33-26

 岡山県真庭郡・日留宮  133-41-15  35-18-41

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2005.01.16

人気者島田伸介

テレビ界の人気者であった島田伸介が暴行事件を起こして、一時テレビ出演を自粛していた。自粛ではなく、吉本興業によって出演停止させられていた(?)。何故このように思うかといいますと、この会社は社員がトラブルを起こしたときは、助けることが無いように思うからです。これまで、大勢の人がトラブルを起こしたでしょうが、あまりホローした話を聞かない。大物では、横山やすし、横山ノック。
横山ノックの場合、最近無くなった社長が一度、復帰もありうるようなコメントを発言し、新聞に報道されたが、新聞の勢いにまけて、その後擁護はしなかった。もっとも、擁護をしてもするほど上手くいかないようです。芸能界の人気者は、普通の人がよう言わないことを言うから、人気があります。言い方を変えますと、一般に常識といわれている事を言わないで、非常識なことを言うと、聞いている人は気がはれるのでしょうか? どんどん人気がでます。
普通の人が彼らと同じことを言うと、不愉快に感じることを彼らは、上手に表現します。
 島田伸介が駄目になったら、現在は細木数子が大人気です。占いから、どんどん発展して最近は、世の中の間違いをすべて正しくしています(?)。そのときに、間違っている人をくそみそに罵ることによって、自分の正しさをアピールしています。島田伸介と少し、パターンは違いますが、このように人気者になる人の共通するところは、クソミソに言っておいて、これ以上言ってはいけないところで止める技術(?)があることです。引き際の良さだとおもいます。もう一言付け加えると嫌らしく感じる手前で、止めるところだと思います。
「お宝なんでも鑑定団」という番組でしたか? 出演者は、数百万円すると思っているお宝を持ってきて、鑑定してもらいます。番組をみていますと、恰もその場で鑑定しているようですが、その前に調べて結果が判っています。それを知っていて番組を進行しているのか、知らないで司会を務めているのか判りませんが、伸介は出演者をクソミソに言います。、数百万円のものが、3000円ということもあります。テレビを見ている人は、楽しいですが、ご本人は楽しいわけがありません。馬鹿さ加減を全国に好評するようなものです。それでも、出演者が無くならなくても番組は続いています。これは、伸介の力が大部分だと思います。人の心を傷つけることを言いながら、相手が本気で怒る一歩手前で止めるタイミングを知っているからです。
今回のトラブルは、そのタイミングを間違ったということです。
頭を殴っただけではなかったのでしょう。それ以上に言葉による暴力を加えたのでしょう。
そうでなければ、被害者はあれほど立腹しなかったはずです。
神岡竜太郎も人の心を踏みにじるようなことを言いながら、人気があった芸人です。彼の場合は、一歩手前で止めるに加えて、言葉をオブラートで包むような表現をしていました。
彼は芸能界から一切手を引きました。口の悪いところが売り物ですから、悪くなくなったら、駄目だということを知っていたのでしょう。
島田伸介は復帰しましたが、もう面白くないでしょう。自分ほど、凄い者はいないのだと有頂天になっているところが面白いのに、ふにゃふにゃと謝ったのですから、もう面白くありません。引き際の良いのが売り物なのに、又出てきました。きっと、駄目でしょう。
横山やすしは、謝っても謝っても口先だけで、トラブルを繰り返しました。その代わり、世の中の重圧に耐え切れずに、死にました。
細木数子は大したものです。このようなことを知っているのか、しばらくすると引退(?)するようなことを発言していました。
人気者の宿命でしょうか?

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2005.01.14

イザナミを追って黄泉の国へ--2

見舞いに行ったということを頭において、読んでいきたいと思います。そうしますと、訳のわからない部分が少し緩和されます。ただし、黄泉の国は、「夜見の国」すなわち、月夜の晩に見える国、すなわち、夜見国に置き換えてください。
原文です。
是欲相見其妹伊邪那美命。追往黄泉國。爾自殿騰戸出向之時。伊邪那岐命語詔之。愛我那迩妹命。吾與汝所作之國未作竟。故可還。爾伊邪那美命答白。
悔哉。不速來。吾者爲黄泉戸喫。然愛我那勢命【那勢二字以音。下效此】入來坐之事恐故。欲還。旦具與黄泉神相論。莫視我。如此白而。還入其殿内之間。甚久難待。故刺左之御美豆良【三字以音下效此】湯津津間櫛之男柱一箇取闕而。燭一火。入見之時。宇士多加禮斗呂呂岐弖【此十字以音】於頭者大雷居。於胸者火雷居。於腹者黒雷居。於陰者拆雷居。於左手者若雷居。於右手者土雷居。於左足者鳴雷居。於右足者伏雷居。并八雷神成居。

訳です。是に其妹伊邪那美命に相(ア)って見たくなって、夜見の國へ追って往きました。
そこで殿の縢戸より出で向かった時に、伊邪那岐命が語って言われるのには、「愛しき我が汝妹の命、吾と汝とで作っている国は、未だ作り竟(オ)へていません。還(カエ)ってください」と。そうしますと、伊邪那美命は答えへ申されます、「悔しいです。速く来なかった。私は黄泉の戸を超えました。しかし愛しい我が汝夫の命が、入って来られる事は恐ろしい。故、還ろうと欲(オモ)います。しばらく、黄泉の神と相(ア)って論んじてきますから、私を見ないでください」
このように申して、その殿の内に還り入った間、甚だ久(ナガ)くて待ち難くおもった。故、左の御角髪に刺せる湯津津間櫛の男柱一箇取り外して、一つに火を燭して、殿に入り見られました時、蛆たかれころろきて、頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、并せて八はしらの雷神居りました。

殿の縢戸より出で向かった時 の意味が良く判りません。殿とありますから、縢戸という戸があるのでしょう。その前に来たときにというぐらいの意味でしょうか? この戸から入ってしまうと、不治の病ですから、出ることは出来ないのでしょう。だから、我が夫に入って欲しくないと思ったのでしょう。しかし、黄泉神に相談してきますと云ったのでしょう。
湯津津間櫛の男柱は意味不明です。櫛のことですから、両端の太い部分と真ん中の部分しかありませんから、細い部分のことでしょう。折りやすいからという理由のみです。湯津津間櫛は特別に意味のある櫛でしょうか?
蛆たかれころろきて、 漢字「斗」を訳本はでは、「こ」と読んでいますが、辞書には、「ト」「ツ」「トウ」しかありません。「斗」には,戦うとか、にわかにとの意味がありますが、ここでは、音だけだと注釈にありますから、「ト」「ツ」ということになりますが、どれにしても意味が通じません。蛆がたかっていたということにします。
日本書紀では、蛆が沸いている上に、とんでもない雷神が、伊邪那美命に乗っかっていたように書いてあります。そうではなく、八人の雷神が、伊邪那美命の世話をしていたのでしょう。雷神は京都の賀茂大社の祭神です。イザナギと賀茂大社を祭った人達は、同族の人でしょう。 米子から境港までは弓状になっているためか、弓ヶ浜といいます。しかし、元々、夜見ヶ浜とも云いました。中ほどに、夜見神社もありますから、この辺り一帯を夜見の国と言っていた可能性があります。大山の南側にある笛吹山から夜に見える一帯を夜見の国といい、その向こうには、夜になるとスサノオが八頭の大蛇を退治したという「大呂」の製鉄所の火の明りが、見えていたのではないでしょうか?
話がそれましたので、翻訳に戻ります。

於是伊邪那岐命見畏而。逃還之時。其妹伊邪那美命言。令見辱吾。即遣豫子母都志許賣【此六字以音】令追。爾伊邪那岐命取黒御鬘投棄。乃生蒲子。是[才庶]食之間逃行 猶追亦刺其右御美豆良之湯津津間櫛引閉而投棄。乃生笋等。是拔食之間逃行。且後者。於其八雷神。副千五百之黄泉軍。令追。爾拔所御佩之十拳劍而。於後手布伎都都【此四字以音】逃來。猶追。到黄泉比良【此二字以音】坂之坂本時。取在其坂本桃子三箇持撃者。悉逃返也。
爾伊邪那岐命告桃子。汝如助吾。於葦原中國所有宇都志伎【此四字以音】青人草之落苦瀬而。患惚時。可助告。賜名号意富加牟豆美命【自意至美以音】最後其妹伊邪那美命。身自追來焉。爾千引石。引塞其黄泉比良坂。
其石置中。各對立而。度事戸之時。伊邪那美命言。愛我那勢命。爲如此者。汝國之人草。一日絞殺千頭。爾伊邪那岐命詔。愛我那迩妹命。汝爲然者。吾一日立千五百産屋。是以一日必千人死。一日必千五百人生也。
故号其伊邪那美神命謂黄泉津大神。亦云以其追斯伎斯【此三字以音】而。號道敷大神。亦所塞其黄泉坂之石者。號道反大神。亦謂塞坐黄泉戸大神。故其所謂黄泉比良坂者。今謂出
雲國之伊賦夜坂也。

ここで、伊邪那岐命は見て畏れ而(テ)、逃げ還(カエ)ろうとした時 伊邪那美命は云いました。「私を恥ずかしい思いをさせた」と。直ぐに、子母都志許賣(シモツシコメ)を遣わして、追うように命令しました。そこで、伊邪那岐命は、黒御鬘を取って投げ棄てますと、蒲子になりました。これを拾い食べている間に、逃げました。猶、追ってくるので、またその右の御角髪に刺してある湯津津間櫛を引き抜いて投げ棄てれば、笋に変わりました。これを抜き食べる問に、逃げて行きました。且後には、その八はしらの雷神に、千五百の夜見軍を副へて迫わせました。そこで御佩せる十拳剣を抜きて、後手に振りつつ逃げ来ましたが、なほ迫ってきて、夜見の比良坂の坂本に到りし時、その坂本にある桃子三箇を取って待ち、撃つと、悉に逃げ帰りました。
そこで、伊邪那岐命、その桃子に告げられて、「汝、吾を助けしが如く、葦原中國に現らわれるあらゆる青人草の、苦しき瀬に落ちて患(ワズラ)い惚(オモ)った時、助けなさい」と告げました。名を賜(タマ)いて意富加牟豆美命(オオカムヅミノミコト)と名づけました。
最後にその妹伊邪那美命が、自分一人で追って來ました。そこで、千引の石をその夜見の比良坂に引き塞(フ)さいで、その石を二人の中に置きて、向かいあって立って、事戸を度す時、伊邪那美命は云いました。「愛しき我が汝夫の命よ、此のようなことを為すのであれば、汝の国の人草、私は、一日千人絞殺するでしょう。それに対して、伊邪那岐命は申されました。「愛としい我那迩妹命よ。汝が爲すならば。私は一日に千五百の産屋立てましょう。」と云われました。是以後一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生れるようになりました。
そこで、伊邪那美命を號ナヅけて夜見津大神と謂う。また云わく、その追いしきしをもって、道
敷大神と號(ナヅ)くという。またその黄泉の坂に塞(フサガ)ります黄泉戸大神ともいふ。
故、それ謂わゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂う。

事戸を度す時 の部分の意味が不明です。
追いしきし の部分の意味が不明です。

翻訳の最後、三行が前の文と続いていません。特に、最後の太線の部分は、意味が不明です。どうして、急に出雲のことになるのでしょうか? 謂わゆる黄泉比良坂と書かれているところを見ると、有名な坂なのでしょう。

古事記だけで精一杯ですので、日本書紀まで頭が廻りませんが、この部分は、日本書紀にもあります。ざっと目を通しただけですので、正確ではありませんが、日本書紀の文章からは、伊邪那岐命がお見舞いに行った解釈などは全くできません。黄泉の国へ行った神話でも、別に構わないのですが、伊邪那美命のまわりには、鬼どもであるように、雷神が書かれています。雷神はべつに悪者ではありません。
この辺りをどのように考えたらいいでしょうか?
古事記を見た日本書紀の作者は、やはり全面的に、真似をしたのだと思います。そして、古事記は処分したのだと思います。古事記どころか、日本書紀に書かれている、他の一書なる書物は、全く存在していないということは、元々無かったか、あったが処分されたのでしょう。
古事記は、712年に完成し、その後、歴史上から消えてしまいます。812年に見つかったことが「弘仁私記」に記されています。 その後、又、消えてしまい。現在は、最古といわれている真福寺本という写本が残っています。この写本に、奥書なるものが付いています。書いた人は、
正二位行権大納言兼右近衛大将  藤原朝臣在判です。 どのような人かは、調べていませんが、その一部を記します。
 本云此書難得之由人以称之就中於中巻者家旡之只在鴨院文庫云々而不慮得之好文之至歟自愛之其時?煩虐病宿執之餘予校之深納函内恥莫外更弘長三年五月廿七日記之
1263年のことです。 この人が書き換えた可能性もあります。  〔? の字は人べんに、棄〕
〔夜見国〕を〔黄泉国〕と書き換え、それに伴って、修正を加えました。 其の無理が最後の三行です。  これは伯耆の国の出来事を書いていますが、日本の始めが伯耆では困ったのではないでしょうか?

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2005.01.13

猛威? ノロウイルス

広島県福山市の特別養護老人ホームで、入所者がノロウイルスが原因とみられる下痢や嘔吐(おう・と)などの症状を訴えて死亡したと報道されました。新聞社の威力は凄いです。11日の読売新聞には、県別に患者数が掲載されています。3516人です。同じウイルスでもインフルエンザはもっと患者数が多いとおもいます。従って、高齢者の方は、やはりインフルエンザで死亡された方は多いと思います。問題は、ノロウイルスというウイルスは初めて耳にしましたが、ずっと、存在したもので、2003年は発生はゼロであった報道がありました。報道を見る限りでは、それほど脅威である病気ではなく、普通の対応で、殆ど治っているようです。
気の毒なのは、牡蠣の業者です。12日の朝のテレビ番組では、あたかも牡蠣が原因のように番組が組まれており、牡蠣の料理の方法まで、解説していました。牡蠣の一番安全な季節なのに、これで食べる人は減るでしょう。
殆どが、治る病気であるのに、「福山福寿園」だけで七人も死亡したのは、福寿園の対応が悪かったことは間違いないでしょう。特に、治療の仕方が良くなかったと思われます。しかし、この部分は、証拠が無いために、報道では取り上げていません。他の施設への警鐘にはなりましたが、一般国民には、不安を与えただけの報道になったように思います。

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2005.01.12

魏志倭人伝を読む

古事記を読み始めて、3ヶ月を過ぎました。読む方針は、古事記に書かれていることをそののまま、読むように心がけてきました。より正確に読むために、地名、考古学の助けも借りました。日本書紀も利用しました。この外に、外国に残る文献があります。中国と朝鮮です。(私の頭では無理だと読みませんでしたが、古事記を正確に読むためには、必要であるように思えてきました)
中国には、正史が28ありますが、その内、日本のことが書かれているものは、18あります。その内、資料的価値のあるものは(石原道博氏が考えられ、)、『三国志』『後漢書』『宋書』『隋書』の倭国伝を載せたものが、岩波文庫から出版されていますので、買い求めました。

少し読んだだけで嫌になるほどのことが書かれています。少しずつ読んで、この本の助けを借りながら、自分で、『魏志倭人伝』を読んでみようと思います。
これに頭を突っ込みすぎますと、古事記が読めなくなりますので、古事記と関連するところのみと私の興味のあるところだけにしようと思います。
 スタートは私も初めてですから、皆さんもご自分で読まれたらいいと思います。

私の魏志倭人伝に対する態度は、次のようなものです。
人間だれでも、話をするにしても文章にするにしても、必ず、自分の都合の良いことは話したり書いたりしますが、都合のわるいことは隠そうとします。『魏志倭人伝』は陳寿(233~297)によって書かれた中国の正史です。中国にとって気に入らないことは書かなかったであろうと考えます。この時の中国がどのようなものであったか知りません。「それなら、中国史を勉強してからにせい」と言われそうですが、そんなことをしていたら、私の命が足らなくなりますので、大胆に読んでいこうと思います。

さて、『魏志倭人伝』は、「倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国、漢時有朝見者、今使訳所通三十国。 従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国」という文章で始まります。全部で2000字ほどらしいです。

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2005.01.10

イザナミを追って黄泉の国へ

イザナギは、イザナミを追って黄泉の国へ行きました。神話の中では、物語になっている部分です。ここでは、今までの手法を変えて読んでみようと思います。
先ず、岩波文庫の訳文を全文掲載します。
 
ここにその妹伊邪那美命を相見むと欲ひて、黄泉國に追ひ往きき。ここに殿の縢戸より出で向かへし時、伊邪那岐命、語らひ詔りたまひしく、「愛しき我が汝妹の命、吾と汝と作れる国、未だ作り竟へず。故、還るべし」とのりたまひき。ここに伊邪那美命答えへ白ししく、「悔しきかも、速く来図手。吾は黄泉戸喫しつ。然れども愛しき我が汝夫
の命、入り来ませる事恐し。故、還らむと欲を且く黄泉神と相論はむ。我をな視たまひそ。」とまをしき。
かく白してその殿の内に還り入りし間、甚久しくて待ち難たまひき。故、左の御角髪に刺せる湯津津間櫛の男柱一箇取り闕きて、一つ火燭して入り見たまひし時、蛆たかれころろきて、頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、并せて八はしらの雷神居りき。
ここに伊邪那岐命、見畏みて逃げ還る時、その妹伊邪那美命、「吾に辱見せつ。」と言ひて、すなはち黄泉醜女を遣はして追はしめき。ここに伊邪那岐命、黒御鬘を取りて投げ棄つれぱ、すなはち蒲子生りき。こをヒロひ食む間に、逃げ行くを、なほ追ひしかば、またその右の御角髪に刺せる湯津津間櫛を引き闕きて投げ棄つれぱ、すなはち笋生り
き。こを抜き食む問に、逃げ行きき。且後には、その八はしらの雷神に、千五百の黄泉軍を副へて迫はしめき。ここに御佩せる十拳剣を抜きて、後手に振きつつ逃げ來るを、なほ迫ひて、黄泉比良坂の坂本に到りし時、その坂本にある桃子三箇を取りて、待ち撃てぱ、悉に逃げ返りき。ここに伊邪那岐命、その桃子に告りたまひしく、「汝、吾を助け
しが如く、葦原中國にあらゆる現しき青人草の、苦しき瀬に落ちて患ひ惚む時、助けべし。」と告りて、名を賜ひて意富加牟豆美命と號ひき。
黄泉比良坂に引き塞へて、その石を中に置きて、各対ひ立ちて、事戸を度す時、伊邪那美命言ひしく、「愛しき我が汝夫の命、かく為ば、汝の国の人草、吾一日に千五百の産屋立てむ。」とのりたまひき。ここをもちて一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生るるなり。

最後にその妹伊邪那美命、身自ら追ひ來たりき。ここに千引の石をその黄泉比良坂に引き塞へて、その石を中に置きて、各対ひ立ちて、事戸を度す時、伊邪那美命言ひしく、「愛しき我が汝夫の命、かく為ば、汝の国の人草、吾一日に千五百の産屋立てむ。」とのりたまひき。ここをもちて一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生るるなり。故、その伊邪那美命を號ナヅけて黄泉津大神と謂ふ。また云はく、その追ひしきしをもちて、道敷大神と號くといふ。またその黄泉の坂に塞ります黄泉戸大神ともいふ。故、それ謂はゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂ふ。
以上です。 読み仮名を入れませんでしたから、読みにくかったと思います。その分、一生懸命読まれたのではないかと思います。
翻訳を読まれて判りましたか? 「黄泉國に追ひ往きき」はいいですが、黄泉國とはどこか。

「黄泉の坂」とはどこか。いちいちあげると何のことかわからなくなります。神話なのだから判らなくてもいいのだと解釈すれば良いかもしれません。本当は、わかるように書かれていた古事記をだれかが、わからないように書き改められたからだと思われます。
黄泉の国のことは、私も詳しいことは知りません。ぼんやりと、死んだら三途の川を渡っていく世界ぐらいに思っています。川を渡ったら帰ってくることは出来ないと思っていましたら、古事記が出来たころは、帰ってくることができたのでしょうか?
NO24「迦具士神を切った時に生まれた神」の中ほどに、「神避りした伊邪那美神は、出雲國と伯伎國の堺の比婆山に葬りました」という文章があります。比婆山に葬ってから、黄泉國へいくのでしょうか? 逆ですね。黄泉國へいかれたので、亡骸を葬ることになります。

では、この部分はどのように解釈したらいいのでしょうか?  小説で言えば、「比婆山に葬りました」の後にありますから、回想シーンのようなものです。それも、まだ、死んでいないイザナミをお見舞いに行ったときのことだと思います。
そのときの様子は、現代風に言えば、化膿が進んでいるイザナミを見たのでしょう。ただ、おかしい点はあります。なぜイザナミは、神避りをしなければならなかったかといいますと、「伊邪那美神は、火の神を生むことに因り、遂に神避りされました」という文章がありました。火の神の名前は、火之迦具土神です。陰部に火傷をして病気になったとありました。こんな馬鹿な話はありません。現代の病気に当てはめると、お産のときのことですから、産褥熱がでたのでしょう。現在ではあまり無いでしょうが、30年も前ですと、いっぱいあった病気です。この病気のために、陰部に化膿がみられることはあり得ますが、当時は、伝染する病気と思われていたのではないでしょうか?
そこで、イザナミは、隔離入院をさせられていたのでしょう。
 では、何処に入院していたのかが問題です。比婆山は、現在あちこちに存在しています。一番有名なのは、広島県の比婆山です。日本書紀に書かれているからです。古事記では、出雲國と伯伎國の堺となっています。イザナミが住んでいたのは、九州であれば、九州の近くでしょう。神話であれば、距離は関係ありませんが、廣島の比婆山は少し、遠いように思われます。
前に述べましたように、イザナミはヒルゼン高原に住んでいました。後ほど出てきますが、イザナギが黄泉國から帰ったときに、禊(ミソギ)をします。其の場所は、大山の西の麓にあります。比婆山のすぐ東の場所です。入院先は、この比婆山と禊の場所との中間が理想的です。
 理想過ぎるような地名があります。「会見町」です。古事記に「妹伊邪那美命を相見むと欲ひて」とあるのみで、資料はありませんが、昔から、この地方にイザナギがイザナミに会いに行ったという伝説があり、この町の名前が付いたのかもしれません。   

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2005.01.08

スマトラ沖地震とインド

自然の驚異は、いろいろのところで見ることができます。災害を引き起こす点では、この度のスマトラ沖地震は最たるものの一つでしょう。被害の状況は、日によって数字が変わります。死者は、一日で数万人も増加します。ということは、前日の報道はでたらめであったことになります。なぜ、このようなことになるかといいますと、被害の範囲が広いことと、住民が、どこで何人生活していたか判っていなかったためだと思われます。
 その出鱈目の数字をもとに、各国は、援助の仕方を決定しています。
インドでは、現在何人の方が亡くなっておられるのか知りませんが、早い時期に、9000人の報道がありました。その時点で、インド政府は、各国からの援助を断っています。理由は、自分の国で処理できると思います。と書かれていました。インドという国は、一番素晴らしいと思いました。自分たちの死は、自分たちで処理できるということです。壊れた家を建て替えるとか、道路を修理するとかの話ではありません。大勢の人が死んだということは、悲しいことですが、人類はそのようなことを延々と繰り返して生きてきました。
 その悲しみをどのようにして乗り越えてきたかといいますと、何時死んでも悔いがないような生活を日ごろからしているということでしょう。幸い死ななくても、続いておこる災難に対しても、自分で処理できるということだと思います。

随分前ですが、ガンジス川のほとりで、死を迎える老人の姿をテレビで見ました。遠い自宅からガンジスまで、随分遠かったと記憶します。家族に支えながら到達した宿舎では、床に持参した毛布を敷いて、死の日を待っていました。莫大なお金を使って待つものの、なかなか死期が訪れません。お金もなくなってきたので、皆でまう一度帰宅することになりました。光景をうまく表現できませんが、このようなことであったと思います。死ぬことは、インドの人にとっては、それほど重要なことではないように思えました。間違っているかもしれませんが、人の命は、長く続くもので、死後は6億年もあるようなことが書いてあったような記憶があります。こうなると生きている時間は瞬間です。少々の難儀があっても、すべて自分で処理していくのが本当かも知れません。
インドの人は、他の国と違うやり方で、処理をしておられることと思います。 合掌

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2005.01.06

山をセンと読む山

山という字をセンと読む代表は、鳥取の大山です。有名だけに、
このような山は、日本中どこにでもあると思われるでしょうが、70そこそこです。
下に、その一部を記します。

あさなべわしがせん 朝鍋鷲ヶ山 鳥取・岡山 あられがせん 霰ヶ山 岡山
いいもりせん 飯盛山 鳥取 いおうせん 医王山 鳥取
うまつきせん 馬着山 島根 うまみせん 馬見山 島根
おうぎがせん 扇山 岡山 おうぎのせん 扇ノ山 鳥取
おおがせん 大鹿山 島根 おぐりがせん 小栗ガ山 鳥取・岡山
かさつえせん 笠杖山 岡山 かつたがせん 勝田ヶ山 鳥取
かながやせん 金ヶ谷山 鳥取・岡山 かみだいせん 上大仙 鳥取
からすがせん 烏ケ山 鳥取・岡山 きのえがせん 甲ヶ山 鳥取
ぎぼしゅせん 擬宝珠山 鳥取 きょうらぎせん 京羅木山 島根
きんぷせん 金峯山 島根 くまがせん 熊ヶ山 島根
こうせん 高山 岡山 こうりょうせん 孝霊山 鳥取
こんごうせん 金剛山 新潟 ささがせん 笹ケ山 岡山
しもだいせん 下大山 鳥取 しょうのかみせん 庄ノ上山 岡山・兵庫
しらすせん 白髪山 岡山 すがのせん 須賀ノ山 兵庫・鳥取
すずりがせん 硯ケ山 岡山 せんじょうせん 船上山 鳥取
ぞうせん 象山 鳥取 だいがせん 大ケ山 岡山
だいしゃくせん 大釈山 岡山 だいせん 大山 島根・鳥取
だいみせん ダイミ山 岡山 たかおせん 高尾山 島根
たこうせん 田幸山 兵庫 たまらずせん 不溜山 岡山
だんとくせん 檀特山 新潟 ちくろせん 竹呂山 兵庫
つぐろせん 津黒山 鳥取・岡山 つるぎがせん 剣ケ山 鳥取・岡山
つるぎのせん 剣ノ山 徳島 つるぎのせん 剣ノ山 愛媛
てらおせん 寺尾山 島根 てんがせん 天が山 岡山
とうせん 東山 島根 どうどうせん 道々山 岡山
てんがせん 天が山 岡山 ななかせん 七霞山 和歌山
にんにくせん 忍辱山 奈良 のだがせん 野田ケ山 鳥取
はっとうじせん 八塔寺山 岡山 はっとせん 八十山 鳥取
はなちがせん 花知山 岡山 はんこうせん 半甲山 岡山
ひがしせん 東山 鳥取 ひのきがせん 檜ケ山 島根・岡山
ひょうのせん 氷ノ山 兵庫・鳥取 ぶどうざわせん 葡萄沢山 福島
ほしせん 星山 岡山 ぼだいせん 菩提山 奈良
ほのみせん 穂見山 鳥取 みせん 弥山 奈良
みせん 弥山 鳥取 みせん 弥山 島根
みせん 弥山 広島 みせん 弥山 山口
みねじみせん 峯寺弥山 島根 みみすえせん 耳スエ山 岡山
やはずがせん 矢筈ケ山 鳥取 よこおせん 横尾山 島根
わかすぎせん 若杉山 鳥取

「山」は「やま」「サン」「ザン」「セン」と読みます。「サン」は漢音。「セン」は呉音です。どう違うのか判りませんが、少なくとも、山という字を「セン」と読んでいる人達か、山を「セン」と読みたい人達が、そのように名づけたと思われます。

可能性の強いのは、「弥山」が五ヶ所あります。これは、仏教の方の「須弥山」から来ていると思われます。仏教における聖地です。聖地から、「須」を外して、聖地として大切にしていたのかも知れません。
「山」の前にある文字の殆どが、訓よみで、所謂、なぜ重箱読みになっているのかが判りません。前の名前が、すべて仏教と関係があれば、仏教を信じている集団といえます。

次のページに分布図を載せました。(この部分は、別のホームページに記載したものです)
特徴は、センと呼ぶ山が、佐渡島と隠岐島にも見られます。この一族は、両方の島に上陸したようです。
次に、殆ど島根県と鳥取県です。後は、大まかに言って、日本海側です。朝鮮・中国から来たと考えていいかと思います。順序からいいますと、先ず、隠岐島に上陸、その後、島根県と鳥取県に住んだようですが、廣島・岡山・兵庫まで進出したようです。
奈良にもあるのをどのように説明するかです。

いつごろ、やってきたとか、なんと言う民族かは、是だけでは断定できませんが、大山の周りに、ある民族が住んでいたことは、確かです。ここを中心に広がっていったと云えるでしょう。
ヒルゼンの周りには、気になる地名がいっぱいです。
犬・蛇がつく地名。神がつく地名。田の字がつく地名。その地名一つを調べたからと言って、すべてが判るわけではありませんが、全部を線で結びますと、いろいろのことが浮びあがってきます。順次、取り上げてみます。

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2005.01.05

資源国・日本

お正月は、普段より少し時間がありましたので、日頃考えないことを考えてみました。私の考えは、間違っているかも知れませんが、「ゆとりある教育」は間違っていたのではないでしょうか? もう少し長い目で見なくてはいけないのかもしれませんが、新聞報道によれば、児童・学生の能力は、世界的にみるとどんどん低下し、英語の力は、最低に位置するらしいです。数学も然りです。
「ゆとりある教育」が、10年後には、学力は最低ではあるが、素晴らしい人間を作るかといいますと、怪しいように思えます。子供たちが、見て育つ大人が、次第におかしくなっているからです。
このままでは、経済的にも、韓国・中国に追い抜かれるのは、時間の問題のように思えます。経済と政治は大いに関係ありますが、あまり、経済に頭を突っ込みますと、この点に振り回されます。政治は個人では出来ないことを、しかも 長期間で物事を考えていくことが大切なのに、地震やスマトラ沖地震の処置に振り回されています。
 そこで、私が政府に代わって考えてみようという発想になりました。

この辺まで、書きますと後読んでいただけないような気がしないでもないですが、後は簡単で短いですから、続けて読んでください。
無い頭を使って考えますに、どれだけ技術が進歩しようが、経済が発展しようが、その基になるものは何かといいますと、資源です。
日本には、資源がないといわれ続けてきましたが、現在日本は、アメリカに次いでの消費国でしょう。言い換えますと、資源を使い続けています。この資源をすべて残しておきますと、その内に、日本は一番の消費国になります。
例えば、紙です。現在、紙は木から作っています。コンピューター化進みますと、紙は必要ないように言われましたが、きっと、増え続けていると思います。中国などはどんどん木を切ることになるでしょう。木をきると洪水が多くなります。洪水が運んだ土砂は、海に流れ込みます。海草は全滅になります。そこで棲んでいた魚はいなくなります。中国人は以前の日本人のように、世界に魚をとりに出かけるでしょう。日本沿岸の魚は、彼らによって取られてしまうことになります。日本は、魚の養殖の技術が上達してきました。養殖した鮭などは、公海を泳いでいるからと言って、横取りされては溜りません。日本から、放した鮭が、どのように回遊してくるのか、調べて、日本近海で魚をとらないような条約を結ぶべきでしょう。紙から離れてしまいましたが、紙の原料である木は、日本に有り余るほどありますが、このように考えると木を切るわけにはいきません。使った紙は再生するばかりではなく、保存し海外に輸出すべきです。鉄も同様です。使った資源は、すべて保存し輸出すべきです。ただ、鉄は酸化してなくなってしまいますから、保存の技術の確立が必要です。日本の周りは、すべて海です。海からエネルギーをとる技術は、何年経っても、お金が掛かろうが必要なことでしょう。重水素をつくりだす技術です。
以上、政府にしてほしい私の夢です。日本を資源国に。

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2005.01.04

迦具土神を切った時に生まれた神

又、少しずつ分けて読んでいきます。
 故爾伊邪那岐命詔之。愛我那迩妹命乎【那迩二字以音下效此】謂易子之一木乎。乃匍匐御枕方。匍匐御足方而。哭時。於御涙所成神。坐香山之畝尾木本。名泣澤女神。故其所神避之伊邪那美神者。葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也。

これより訳文
 ここに、伊邪那岐命は、「愛しき我がナニモの命を、子の一木に易しなあ」といわれて、乃(スナワ)ち、御枕の方へ匍匐(ハラバ)い、御足方に匍匐って哭(ナ)いた時、御涙に於いて成った神は、香山の畝尾の木本に坐(イ)まして、泣澤女神と名づけた。そして、
神避りした伊邪那美神は、出雲國と伯伎國の堺の比婆山に葬りました。

〔子の一木に易しなあ〕の部分が何のことか判りません。雰囲気では大切なところです。易は、「かえる」「かわる」「やすらか」「かろんず」「おさめる」と辞書にありますが、どれも当てはまりません。一木は、一本の木になったということでしょうか? 墓標?

於是伊邪那岐命。拔所御佩之十拳劍。斬其子迦具士神之頚。爾著其御刀前之血。走就湯津石村。所成神名。石拆神。次根拆神。次石筒之男神【三神】次著御刀本血。亦走就湯津石村。所成神名。甕速日神。次樋速日神。次建御雷之男神。亦名建布都神【布都二字以音下效此】亦名豐布都神【三神】次集御刀之手上血。自手俣漏出。所成神名【訓漏云久伎】闇淤加美神【淤以下三字以音下效此】次闇御津羽神。上件自石拆神以下。闇御津羽神以前。并八神者。因御刀所生之神者也。

そこで、伊邪那岐命は、御佩(ハカ)せるところの十拳劍を抜いて、其の子迦具士神の頚を斬った。其の御刀前(サキ)の血に著(ツ)いた血が、湯津石村に走り就いて、出きた神の名は、石拆神(イワサクノカミ)。次は根拆神(ネサクノカミ)。次は石筒之男神(イワツツノヲノカミ)【三神】 次に著御刀の本のところに著(ツ)いた血も亦 湯津石村に走り就いて、出きた神の名は、甕速日神(ミカハヤヒノカミ)。次に樋速日神(ヒハヤヒノカミ)。次に建御雷之男神(タケミカヅチノヲトコノカミ)。亦の名は、建布都神(タテフツノカミ) 亦の名は、豐布都神【(トヨフツノカミ)三神】 次に集御刀の手上(テガミ)に集まった血。自手俣(テマタ)自り漏れ(くき)出でて、できた神の名は、闇淤加美神(くらオカミノカミ)。次に闇御津羽神(クラミツハノカミ)。
上の件、石拆神自り以下、闇御津羽神以前、并せて八神は、御刀に因りて生れる所
の神なり。

所殺迦具土神之於頭所成神名。正鹿山(上)津見神。次於胸所成神名。淤縢山
津見神【淤縢二字以音】次於腹所成神名。奧山(上)津見神。次於陰所成神名。闇山津見神。次於左手所成神名。志藝山津見神。【志藝二字以音】次於右手所成神名。羽山津見神。次於左足所成神名。原山津見神。次於右足所成神名。戸山津見神【自正鹿山津見神。至戸山津見神。并八神】故所斬之刀名。謂天之尾羽張。亦名謂伊都之尾羽張【伊都二字以音】於

殺した迦具土神の頭から成れる神の名は、正鹿山津見神(マサカヤマツミノカミ)、次に胸から成れる神の名は、淤縢山津見神(オドヤマツミノカミ)、次に腹から成れる神の名は奧山津見神(オクヤマツミノカミ)、、次に陰部から成れる神の名は、闇山津見神(クラヤマツミノカミ)。
次に左手から成れる神の名は、志藝山津見神(シギヤマツミノカミ)。次に右手から成れる神の名は、羽山津見神(ハヤマツミノカミ)。次に左足から成れる神の名は、原山津見神(ハラヤマツミノカミ)。次に右足から成れる神の名は、戸山津見神(トヤマツミノカミ)。
【正鹿山津見神より戸山津見神まで、。并せて八神】
斬りし所の刀の名は、天之尾羽張と謂う。亦の名を伊都之尾羽張(イツノヲハバリ)と謂う。

疑問点 どうして殺された迦具士神から、次々、子供(?)の神が生まれなければいけないのか。 前後に、八神ずつ断りを入れているということは、それぞれの集団に意味があるのでしょう。訳本の解説には、後者は、「刀剣制作の順序を述べたものである」とあります。理由が述べられていません。
ここは疑問だけにして、そのうち閃くのを待つことにします。

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2005.01.02

地名 毛無山

毛無山は全国に分布しますが、北海道から廣島の間にしかありません。
読み方は、すべて 〔けなしやま〕です。

毛は人間の毛だと思われます。あそこの山には、毛のある人が住んでいると毛のある人は言わないでしょう。毛のある人が毛の無い人が住んでいる山だと呼んでいたと思われます。
いつの頃かわかりませんが、例えば、岡山県中和町の毛無山辺りに、毛のある人(蝦夷?)が住んでいて、毛深い人が毛の少ない人より多かったから付いた名前だと思われます。
この名前は、音・漢読みではありませんから、すでに、現在の日本語に近い読み方がこの地で使われていたと考えられます。

以下、全国の分布を記します。 同じ山がダブっていることがあります。

府県名   経度          緯度
北海道 139度30分 42度17分
北海道 140度03分 42度07分
北海道 140度27分 42度05分
北海道 140度32分 41度55分
北海道 140度54分 43度09分
北海道 141度01分 43度08分
北海道 141度00分 41度50分
青森 140度28分 40度30分
青森 141度06分 41度16分
岩手 141度09分 40度06分
岩手 141度46分 39度46分
宮城 140度38分 37度57分
秋田 139度45分 39度53分
新潟 139度45分 36度52分
山梨 138度42分 35度31分
長野 137度56分 35度28分
長野 138度29分 36度53分
静岡 138度32分 35度24分
鳥取 133度31分 35度13分
島根 134度05分 35度25分
島根 132度52分 35度05分
島根 133度04分 35度04分
岡山 133度45分 35度14分
廣島 132度21分 34度45分
廣島 132度56分 35度03分
廣島 133度03分 35度00分

全員毛深い人ばかりですと、この地名は付かないでしょう。南限が廣島あたりだとしますと、九州から廣島にかけて急激に、毛の少ない大陸の人が入り込んだと考えられます。現在は、毛深い方は、沖縄と北海道に多くおられます。

今、私はヒルゼン高原の近くの毛無山が気になっていますが、上の表で一番顕著なのは、北海道です。北海道の毛無山は、すべて函館です。
山に毛無山と名づけたのは、勿論時代は違いますが、同じ系統の人だと思われます。山の近くには、毛の少ない人が住んでいて、周りは毛の多い人が住んでいたと考えますと、毛の少ない人は、どんどん北上した。または、青森あたりで上陸した人が函館まで進出した。いろいろ考えられますが、それより、北へは行かなかったのでしょう。
推察ばかりになりますが、想像は広がります。
しかし、この僅かな情報は、どこかで結びつくように思われます。

地名の次回は、「山をセン・ゼンと読む山」です。地図で探しておいてください。

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