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2005.02.28

スサノオはなぜ泣いたのでしょう その2 

 私は赴任先が気に入らないのだと思いました。倉吉には、すでに漢人がいるため、やっと逃げてきたのに、又漢人と戦をするのが嫌だ。赴任地では、自分の経験を生かせない。天照大神は水田を得意としたが、自分は稲作が苦手だ。

いろいろ考えましたが、その前に倉吉の一帯はどのような処であるのか知るほうが先だと思いました。鳥取は、6500の遺跡というか墓地が発掘されたと、どこかで読んだことがあります。これを全部調べれば相当詳細が判るのですが、手間を省きました。インターネットに掲載されている青谷上地寺遺跡と妻木晩田遺跡を調べました。
両方とも、紀元前50年ぐらいから村が形成されだし、弥生の中ごろが最盛期であったように書かれています。ということは、スサノオが隠岐に20歳で来たとします。そして40歳ぐらいの頃の話だと仮定しますと、紀元前140年ぐらいのことになり、両遺跡とも存在しなかったことになります。
それでも 尚食い下がって紀元前140年ころに、両遺跡があったことにします。青谷上地寺遺跡では水田跡が見つかっていますから、倉吉でも海岸の近くの湿地帯であれば稲作は可能です。妻木晩田遺跡は丘陵地帯ですから、稲作は多分行われていなかったと思われます。ただ、ここはまだ10分の1しか発掘されていませんから、これから何が出てくるか判りません。
妻木晩田遺跡の最大の特徴は、四隅突出型墳丘墓が見つかっていることでしょう。
この墓は、山陰地方特有といわれていましたが、広島県三次市南畑敷町から北は富山県富山市金屋まで、98件見つかっています。(島根大学ホームページより) 
四隅突出型墳丘墓は広範囲にあるともいえますが、この範囲でのみ活躍した人たちのお墓ともいえます。
この墓に埋葬されたのは、イザナギの系統の人かと思いましたが、銅鐸が出ていませんので違うようです。イザナギの系統ですと、銅鐸を使わなくなったとしても、銅製品がでてもいいように思います。石積みが前方後円墳に比べれば、あまりにも簡単ですから、この遺跡は現在考えられている年代より、100年ほど遡るのではないでしょうか?

私の期待する年代では有りませんでしたから、グチのようなことを記していますが、両遺跡にどのような人が住んでいたかもわかりません。
スサノオはなぜ泣いたのか判らないのが結論です。

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2005.02.27

がんばれ ライブドア  その2

フジテレビの会長と日本テレビの社長とライブドアの社長の顔を見ただけで、誰が正しいいかなんて、無責任なことを書きました。
そこで、私も少しは、勉強することにしました。
① ライブドアという会社は、売上高が、300億円(儲けではありません)の企業です。
その企業が、800億円の資金を調達した。そこがおかしい、その詳しい事情を説明しろというのが、フジテレビです。その胡散臭い部分を裁判で明らかにしたい。読売新聞は、2月26日の朝刊で、「攻防」というタイトル関連記事を書いています。書き出しは、「ライブドアによる日本放送株買い集めには理解できないことが多い」という書き出しで始っています。素人の私でもよく判るのに、どこが解らないのでしょう。

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このページは、途中までです。 あまりにもコメントが多くて、コンピューターが壊れる寸前です。 上記より以下は削除しました。

コメントは書きこまないでください。

【楽しい人生】のブログは、近日中に閉鎖しようと思っています。 長いことありがとうございました。

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2005.02.26

妻木晩田遺跡

No46
妻木晩田遺跡は、紀元前から出来始め、卑弥呼の時代ころまで栄えた遺跡と考えられています。古墳時代前には殆ど生活の形跡が見られなくなります。位置は鳥取県大山町と淀江町にまたがる晩田山丘陵全域です。現在全体の10分の1ぐらいの発掘が進んでいます。
発掘状況
平成12年 
① 環壕の内側の壁を高くするための工夫、土盛り発見。2000年前に作られた。
② 約1900年前には、環壕が埋まっていた
平成13年
① 竪穴住居跡--最盛期を迎える弥生時代後期後半(1900~1800年前)のものと考えられます。
② 環濠 --弥生時代後期後半(1900~1800年前)には、すでに窪地のような状態になり、ゴミ捨て場となった。多くの遺物(土器や石器)が出土。
平成14年
① 弥生時代後期中葉から後葉(約1900~1800年前)の家の跡が9棟。
② 縄文時代の落とし穴
平成15年 平成16年 不明

地域別発掘状況
妻木山地区では、紀元前後から約300年の間に造られた竪穴住居跡156棟、高床倉庫とみられる掘立柱建物跡など217棟。妻木晩田遺跡全体でみつかっている建物跡の約1/3にあたることから、この遺跡が最盛期だった時代の生活の中心的な場所?
洞ノ原地区西側丘陵(標高約90m)の頂部を円形に取り囲む大きな空堀。弥生時代後期初頭(1世紀中頃)に掘られたと考えられています。
洞ノ原東側丘陵(標高約110m)には、弥生時代後期初頭(1世紀)~後期中葉(2世紀前葉)にかけて造営された25基の墳墓発見。このうち山陰地方特有の四隅突出型墳丘墓とわかるものは11基確認。
仙谷地区 四隅突出型墳丘墓2基を含む7基の墳墓発掘。弥生時代後期前葉(2世紀前葉)~後期中葉(2世紀中葉)に造営。貼り石をもつ方形の墳丘墓である仙谷3号墓からは、20基の埋葬施設が見つかる。
妻木新山地区 竪穴住居跡88棟、高床倉庫とみられる掘立柱建物跡などが152棟が見つかる。
松尾頭地区 弥生時代中期後葉(紀元前1世紀後半)の竪穴住居跡が見つかっています。中国製の青銅鏡の破片が出土。
松尾城地区 2世紀後半の竪穴住居跡から青銅鏡の紐の破片が出土。

どのような人たちが住んでいたか考えてみます。
① 青谷上寺地遺跡と違うところは、丘陵地帯であるので、稲作には適しません。水田の遺構は現在のところ見つかっていない。
② 四隅突出型墳丘が見つかっているところから、青谷上寺地遺跡の人たちと違う人たちと思われます。
③ 環濠が深いので、攻められることに気を使ったが、深さが浅いのと空堀であるので、攻撃をあまり受けなかったのではないでしょうか? 弥生後期には、必要なくなったようである。しかし、環濠の形は、吉野ヶ里遺跡と同様のⅤ字形である。
④ 鏡が出ていないので、漢人ではないようである。
⑤ 松尾頭地区から弥生時代中期後葉(紀元前1世紀後半)の竪穴住居跡が見つかっていますから、唐王に住んでいたスサノオと同じ民族かもしれない。
馬の骨が出土すれば、可能性は大きいが、人骨・動物の骨の報告はありませんから、断定は出来ません。

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2005.02.25

がんばれ ライフドア

ライブドアがどのような会社か知らない。
堀江社長も どのような人か知らない。

フジテレビの会長も知らない

知らないのに、タイトルのようなことを書くのは、不謹慎ですが、
テレビで見る限り、二人の顔の表情の違いは驚くほど、はっきりしています。

新株を大量に発行して、その株をフジテレビが買うのであれば判りますが、だれにも売らないで、その株を買う権利のみをフジテレビに与える。頭の悪いものが考えてもおかしい話を、堂々と出したものの、心の中では自分は、正しいことをしていないなという苦渋に満ちた顔なのでしょう。
頭のいい人が、この話をこねくりまわしてフジテレビが勝つことになるのでしょう。

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2005.02.24

青谷上寺地遺跡に住んでいた人たち

No45
板に描かれた羊の絵ですが、此の頃、日本には、羊がいなかったと魏志倭人伝に書かれていますが、間違いでしょう。骨は出ていませんが、羊の絵は、二例目です。美作の陶器製の棺おけに、羊と羊飼いの姿が描かれています。美作で葬られた人は、羊をつれて青谷に上陸し、天神川を遡り、ヒルゼンを通り美作へ行ったのかも知れません。

線でもって描かれた船の絵です。装飾を凝らした大型船を中心に、同型の小型船3隻が続き、さらに船形の異なる中型船2隻を従えた、少なくとも大小6隻の船からなる船団が描かれています。この絵がいつ頃描かれたか不明ですが、2000年前としますと、この時、すでに大陸と行き来をしていたことになります。
150年も遡れるかどうか判りませんが、徐福が、3000人を率いて渡来又、イザナギ、天照大神、月読命、スサノオも、大勢の人を引き連れてやって来た可能性がでました。この遺跡の年代は、出土した土器で判定されたと思いますが、どこの遺跡も100年ほど遡らないと他のことと話が合わないように思っています。ところが、青谷上寺地遺跡では、貨泉が4枚見つかっています。西暦14年以前には、この貨幣は無かったのですから、西暦14年以後に持ち込まれたと考えるのが普通です。

次は、水田跡が見つかっていますから、稲を作ることを知っている人たちが住んでいたことになります。イザナギは、元遊牧民ですから、イザナギの系統ではないでしょう。スサノオは後ほど、古事記に出てきますが、天照大神を襲ったときに、馬を屋根の上から放り投げていますから、騎馬民族の可能性があります。
銅鐸の破片が一枚見つかっていますが、1メートルもある見る銅鐸の一部ですから、銅鐸を使っていた人たちではないと思われます。きっと、どこかで見つけたものを宝物のように所持していたのでしょう。
鏡 6面出土ですが、これも穴が開けられていますから、宝物のように持っていたのだと思います。
この鏡が、全国から出土しています。墳墓からの出土が多いのですが、割れているのと割れていないものに分かれています。埋葬されている人の傍に置かれています。棺おけの中、外とにまた分かれます。枚数が一枚のばあいとか、奈良の黒塚古墳のように、23枚も出土している例もあり、何のためか、いろいろの説が出ています。鏡は資料館に展示されていますが、鏡の方を上にした展示は一例も見たことはありません。普通に平らで姿が映るのか、真ん中がへこんでいるのか知りたいのに、展示は裏の模様ばかりです。生存中はやはり利用していたと考えるのが普通です。そして、一番大切にしていたから、死後傍に置いたと。鏡は日本製もありますが、初めのころは、中国から持ち込まれたようです。中国では、死んだら鏡を一枚、お墓に納めたと言われていますから、自分が中国人の証の意味もあったのかも知れません。そうしますと、日本から、出土した鏡は中国人が持っていたと考えるのが無理がありません。
そのようなことを云いますと、馬鹿にされると思います。では、九州は殆どの古墳から出土していますから、全部中国人かと云われそうですが、そうですというのが、無理がありません。日本に中国人がいなかったと思い込むことが間違いだと思います。
此の話は、数行の文章で片付くものでは有りませんので、又の機会ということにして、
青谷上寺地遺跡に住んでいた人は、どうやら中国人というか、漢人ではなかったように思います。

最後は、環濠と殺傷痕の見られる人骨です。
この二つは、資料集めをしている最中で、完成していません。何故かといいますと、初めは、佐賀の吉野ヶ里遺跡の環濠とか大阪の池上曽根遺跡、奈良唐古遺跡は、実際に行ってきました。すべて規模が大きいことは共通していました。少しずつ調べていきますと、環濠を持った集落は沢山あることが判りました。これとは別に高地性集落というのがあります。こちらはどうやら、攻撃されるのを高いところから監視をして未然に防ごうという施設らしいです。大阪府だけでも随分沢山あります。瀬戸内海に沿ってもあります。このすべてを調べて判断しないとなんとも云えない状況です。
このような結論をまっているわけにはいきませんので、環濠と殺傷痕の見られる人骨から推察してみようと思います。
環濠とは、聞きなれない言葉ですが、集落を上から見たとき、環(わ)の形になっているから付けられた名前のようです。濠の数が9つのもの、深さが深いもの、空堀のものいろいろありますが、外敵から防ぐ施設です。盗られるものが村の中にあるから攻撃されるのでしょう。稲作が始まると貧富の差がでて、貧しいものが財産を持っている者から奪うのだと学校で習ったように思います。米を作っていない者が、作っている人から奪うことはあるでしょうが、作っている者同士が奪うことは無いでしょう。厳重に環濠を作ってあるほど、盗られたくなかったということです。青谷上寺地遺跡では、90人ぐらいの人が、埋葬された風ではなく出土し、その中、4人の人の身体に武器がささったままであったということは、武器を抜いてあげる余裕も無いほどであったと推察できます。ここの環濠には、板が立てかけられ、何重にも防護していたのに、襲撃されたことになります。それだけ、大切なものを持っていたと言えるでしょう。
 大切なものとは、なにが考えられるでしょう。漆、絹、鉄、銅、水銀のようなものが考えられます。しかし、こうした物は、すべて、外国からもたらされたと言われています。このうち、一つぐらい日本の特産品だと考えるのは間違いでしょうか? 戦国時代のように村同士の争いでしょうか?
攻撃を避けるだけでは、生きていけません。同等以上に戦わねばなりません。時には、先に攻撃する必要もあります。このように考えますと、青谷上寺地遺跡の周辺は、住みにくかったかもしれません。

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2005.02.23

青谷上寺地遺跡

青谷上寺地遺跡は青谷平野のほぼ中央に位置し、日本海まで直線距離にして1kmです。
当時は、入り江を形成して良港であったと思われます。発掘は1998年から始まり、2004年は、6月から11月まで続けられています。

出土品
① 鉄製工具---270点あまりの鉄器、鉄片が出土。鋳造鉄斧は、破片や再加工したものを含めても、20 点近くしか出土していない。これらは、中国・朝鮮から持ち込まれたと思われる。
② 木製容器 ----きれいな製品。
③ 木製高坏 
④ 蓋付き容器 
⑤ 木材多数--今から2000年前に護岸材に使われた板。長さ2.6m、幅70cmと大型で、弥生時代のものとしては最大。
⑥ 箱形の琴---完全な形で残っていた。琴の糸は何だったのでしょうか? (絹?) 
⑦ 琴の横板に書かれた絵-----五匹の動物が描かれていますが、三匹は狐のように口が尖っている。右二匹は、角が曲がって、羊のようです。
⑧ サメを描いた木製品---サメは群れをなして泳いでいる様子が描かれています。古事記に書かれている〔因幡の白兎〕は、サメの泳ぐ様を知っている作者が、ワニにして、創作したのかも知れません。
⑨ 編み物—現在でも通用するような複雑な編み方のものです。
⑩ 占いに使った骨---全国最多の220点出土。
⑪ 漁猟具—鹿の骨や木製の精巧なもの。
⑫ サメを描いた土器—波の上に躍り出た様子が描かれています。
⑬ 殺傷痕の見られる人骨――銅鏃が骨に刺さったままのものが、4点出土。
⑭ 脳。
⑮ 脊髄カリエスを患って死亡した人の骨。
⑯ 溝に蓋をし、そのときの板材。---長さ3mの範囲で確認されました。溝は、長さ8m以上、幅は50㎝程、深さは20~30㎝程で、溝の両壁面は横板を杭で止め、護岸されています。
⑰ 水田を耕す道具 
⑱ 貨泉---前漢を滅ぼして西暦8年に新を建国した王莽(おうもう)が、それまで流通していた五銖銭(ごちゅうせん)を廃した後、いくどかの貨幣改革を経て西暦14年に新たに鋳造させた貨幣---4点出土。少なくとも、西暦14年以後に此の地にもたらされた貨幣であることから、時代がほぼ確定できる。もっとも、200年後誰かが持ち込んだという可能性は無いことはありません。
⑲ 大型船が描かれた木製品
⑳ 銅鐸--破片が4点。高さが1mほどもある銅鐸の破片。見る銅鐸であった。山陰地方での銅鐸は、伊豆もなどで出土しているが、見る銅鐸としての出土したのは初めて。
⑳-1 鏡---6面出土。日本製の「重圏文鏡(じゅうけんもんきょう)。穴があけてあり、ペンダントのように使用してか? 「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」中国製。外に、文様のない日本製の鏡で、直径が4.9cmあります。弥生時代後期後半の溝から出土。破片ばかり。すべて、破片ばかりです。
この破片が、遺跡の中で壊されたのか、破片として遺跡に持ち込まれたのかはわからない。
⑳-2 土器、壺、甕、高坏 ---多数
その他 膨大な出土品が、ホームページに写真入りで公開されています。
上に書きましたデーターは、最近書かれたものばかりです。どのように判断するか難しいところですが、紀元前200年ころに遡るように思われます。
⑳-3 環濠  環濠内には、杉板で作られた矢板が打ち込まれていた。1900年ほど前から作られたようである。
⑳-4 大規模な護岸施設  遺跡周辺では、クイを打ち込んで2m 超える板で護岸を作っている。
⑳-5 水田跡。

⑦と⑲は線刻の絵ですが、気になります。

次回 これらを元に、青谷上寺地遺跡には、どのような人たちが生活していたのか想像して
見たく思います。
⑦の羊の絵ですが、此の頃、日本には、羊がいなかったと魏志倭人伝に書かれていますが、間違いでしょう。骨は出ていませんが、羊の絵は、二例目です。美作の陶器製の棺おけに、羊と羊飼いの姿が描かれています。美作で葬られた人は、羊をつれて、青谷に上陸し、天神川を遡り、ヒルゼンを通り美作へ行ったのかも知れません。
⑲は、装飾を凝らした大型船を中心に、同型の小型船3隻が続き、さらに船形の異なる中型
船2隻を従えた、少なくとも大小6隻の船からなる船団が描かれています。この絵がいつ頃
描かれたか不明ですが、2000年前としますと、この時、すでに大陸と行き来をしていたこと
になります。
150年も遡れるかどうか判りませんが、徐福か゛3000人を率いて渡来・イザナギ、天照大神、月読命
スサノオも、大勢の人を引き連れてやって来た可能性がでました。
この遺跡の年代は、出土した土器で判定されたと思いますが、どこの遺跡も100年ほど遡らないと他
のことと話が合わないように思っています。ところが、青谷上寺地遺跡では、貨泉が4枚見つかって
います。 

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2005.02.22

大栄町の高千穂は、古代はどのような所だったか

No43
タイトルの古代とはいつ頃のことかといいますと、勿論、スサノオが泣きわめいていたときのことです。 紀元前190年頃のことです。
 資料も何もありません。そこで考えるだけにします。ヒルゼン高原は、イザナギが最高に良いところだと思って住むところに定めたところです。水は豊富で、葦が一杯繁っていましたから、水田に適していると思ったのでしょう。盆地で敵からの攻撃を受けにくいことも重要なポイントになります。奈良も、京都も同じ条件を満たしていました。
 その証拠に、ヒルゼン高原は、田の字がつく地名が沢山あります。当時は、米が穫れたのかもしれませんが、多分駄目だったでしょう。
では、大栄町の高千穂は、米を作るのに適していたのかといいますと、私は現在以上に米は採れなかったのではないかと思います。大山の裾野ですから、米は無理だと思いますが・・・。

スサノオは大山町の唐王というところに居ました。唐王は淀江の東北4kmに位置します。淀江は、当時大淀廃寺の極近くまで、入り江になっていたと思われます。素晴らしい港であったようです。中国から日本を目指してきますと、一番は、出雲ではないでしょうか。 島根半島の美穂。次は淀江。次は東郷池(古代には中海であつた? ) でしょうか ? 勿論、小さな船で来れば、どこでも上陸できたと思いますが、中国に戻るためには、風を待つために、長期間、安全な港に停泊する必要があります。3~4世紀頃ですと、壱岐—九州の航路もあったでしょうが、紀元前となりますと、淀江または東郷池から直接、中国をめざしたのではないでしょうか? または、陸伝いに九州まで行き、中国を目指す航路もあったと想像します。

イザナギが高千穂の地がほしく思ったのは、稲を植えるところが欲しかったのではなく、淀江か東郷池の港がほしかったのではないでしょうか? 淀江のすぐ東に、日本で最大の遺跡が見つかっています。妻木晩田遺跡です。もう一つは、 青谷上地寺遺跡です。
この遺跡に、すでに他の人たちが住んでいたので、真ん中に降臨したのか、降臨してから、この二つの遺跡に住みだしたのか、判断は難しいところです。
両遺跡のことは、私には全く判断できませんので、鳥取県埋蔵文化財センターのホームページより、データーをお借りしまして、両遺跡の様子を記してみようと思います。
 
スサノオは、淀江潟を挟んで東に妻木晩田遺跡(むきばんた)があり、西側に住んでいましたので、大栄町の高千穂なら、直ぐ、傍なのになぜ、嫌だと泣いたのか判りません。スサノオが住んでいたと思われる唐王が間違っているのかも知れません。
二つの遺跡から、新たな展開が広がるかも知れません。
青谷上地寺遺跡と妻木晩田遺跡を調べてみます。

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2005.02.21

イネのプラントオパール

岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から、イネのプラントオパールが大量に見つかり18日、灘崎町教育委員会が発表しました。 この時期のプラントオパールが大量に見つかるのは全国初らしいです。この発表に対して、見つけたことに対しては、敬意を表明しながら、小林達雄国学院大教授は、「縄文時代の中期や前期に、断続的にイネが入ってきたとしても不思議ではない。重要なことはイネがあったかなかったではなく、あったとしても縄文経済や食生活に影響を与えなかった点だと」述べておられます。(共同通信記事より)このようなコメントでいいのでしょうか? 新聞記者の受け取り方に間違いが無いとすれば、暗に、稲作が行われていた証拠にはならないように述べておられます。
プラントオパールの数は土壌1グラム中2000-3000個と数が多かったことイネのほかにキビ、ヒエ、小麦など雑穀類のプラントオパールも検出されたということから、栽培されていたと考えるのが、普通でしょう。これまでに考えられていた縄文時代後期(約4000年前)を2000年もさかのぼると、稲は弥生時代からという考えは、大幅に修正しなくてはなりません。一生をかけて研究に打ち込んでこられた方にとっては、いまさら修正不可能なお話です。高天原は蒜山高原に、邪馬台国は、岡山県にあったのではないかと思っている私にとっては、自信を深めるニュースでした。
蒜山高原で、稲の栽培をしようとしたイザナギが蒜山高原に入植したのが、紀元前2世紀、その証拠に、古事記において、スサノオが大暴れをしたときに、田の畝を壊したことが書かれていますが、この事件は、神話ではなく、このときは、当然、畝を作っての稲の栽培が行われていたのだと心強くしています。科学が進歩するということは、良い事もあるものです。

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2005.02.20

スサノオは なぜ 泣いたのでしょうか

  No-42
泣く様は、古事記に「速須佐之男命は命ずる所の国をよう治めませんでした。髭を拳し八つ分ほど伸ばしながら、泣いてばかりでした。其の泣く状態は、青山が泣き枯れて枯山の如なり、河海は悉く泣き乾いてしまった。是を以って惡神の音は、あたかも、狹蝿の如な音で滿つるようで、萬物の禍が一度に發生しました」と書かれています。「青山が泣き枯れて枯山の如なり、河海は悉く泣き乾いてしまった」とは、どういうことでしょうか? 酷い様であったということでしょう。理由を尋ねると大したことではありません。亡き母の住む処へ行きたいというだけです。亡き母ですから、自分も死ぬしかありません。
「不治所命之國而」とありますから、一度は赴任先に行って、治めようとしたがよう治めなかったということでしょう。此のあたりも数行抜けているように思われます。治めることが出来なくて、「亡き母の住む処へ行きたい」と思っただけでしょう。
 どうして 治めることが出来なかったのでしょうか。その前にスサノオはどこへ派遣されたのでしょうか?
イザナギもスサノオも隠岐島に到達した可能性が大きいです。なぜなら、イザナギが禊をしたとき、三貴人が生まれて、イザナギが喜んだとあります。このとき、初めてであったのであれば、貴人であるかどうか判りません。以前に親交があったから、スサノオが王であることを知っていたのです。隠岐島を離れたスサノオは、根之堅州國で母と共に住んでいました。現在の淀江の西のあたりです。イザナギは、多くの島を生み、それぞれの島には、部下である神を派遣していました。今回、三貴人を派遣するに当たって、是非とも必要だから、派遣したことになります。それは、倉吉平野だと思われます。

古事記の解読が、まだそこまで進んでいませんが、有名な天孫降臨という言葉があります。高天原から、神さんが地上に降り立れれることになります。その場所が、〔高千穂〕です。普通は九州ということになっていますが、天上の世界から降りて来られるのであれば、高千穂が日本の何処にあっても構いません。富士山の麓だ、四国だとみなさん、いろいろの場所を云っておられます。私の場合、高天原がヒルゼン高原だと書きました。これでは、九州は遠すぎます。
鳥取県の地図をご覧ください。20万分の1の地図でも、大栄町に〔高千穂〕があります。
〔高千穂〕は、どうして名前がついたと思われますか? 高は、高いことです。 千は多い意味。穂は、稲の穂とか、槍の先の意味です。総合しますと、槍のように尖ったところが、多い高い山という意味でしょう。大山は見る場所によっていろいろの姿を見せてくれます。大栄町から見える大山が高千穂に見えるところに、〔高千穂〕という地名を付けたのでしょう。
 この場所は、重要でしたから、スサノオを派遣したのに、スサノオは、よう治めませんでしたので、後に他の人が降臨することになります。
では、どのように重要であったのかを探ってみます。
次回は、〔大栄町の高千穂は、古代はどのような所だったか〕です。

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2005.02.19

倭人は帶方の東南大海の中

『魏志倭人伝』の冒頭原文は
 「倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国、漢時有朝見者、今使訳所通三十国」です。
翻訳
倭人は帶方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳を通ずる所三十國。 
わずか此れだけの文章ですのに、いろいろの解釈が成り立ちます。大切なことは、「倭人」をどのように捉えるかだと思いました。前回に述べましたように、「倭人」は、背の低い、腰の低い人たちと思って名付けたと思われます。侮辱の意味は無かったと思われます。
不明の部分を考えます。
①「帯方」は朝鮮半島に前漢武帝が設置した4郡の一つ。現在のソウルの辺りといわれています。
② 使訳の「使」には、次のような意味があります。
  つかい、使する、祭りの使者
  つかう、つかわす、命ずる
  させる、しむ、せしむ
  召使
  もし、仮設
使訳は、通訳と辞書にあります。この言葉に似たものに、使駅があります。この言葉も通訳のことだと辞書にありますが、宿場で文書を伝達するとの説明もあります。
通訳がいる宿場のようなものが設置されていて、そこへ通じる国は、今は三十國ということでしょう。三十の國が漢まで挨拶に行ったのではないでしょう。
③ 山島に依りて國邑をなす とはどういう意味でしょうか? 山や島が境界になって、国や村が形成されているとの意味でしょうか。
④ 旧百余國は、昔は百余國あった。(現在はそれほどありません)。そのとき、漢に朝見する者あり。 今は、魏の施設である使駅を通じて、魏と接する国は、三十國である。言葉を変えると魏の国のいうことを聞く国は、三十國である。これは、無理でしょうか? 無理ではないと思います。
なぜかと言いますと、『後漢書』倭伝には、次のようにあります。
 倭在韓東南大海中、依山嶋為居、凡百余国。自武帝滅朝鮮、使駅通於漢者、三十許国。
『後漢書』は、後漢の時代のことを茫曄(398~445)が書いた書物です。時代は三国志の時代より前のことですが、『魏志倭人伝』より後に書かれたことになります。太文字の部分が、異なりますが、茫曄はその頃に合うように変えた可能性が大きいです。

倭人という言葉は、上記以前にもあることが、岩波文庫(青401-1)に書かれてます。
①『前漢書』巻28下・地理志・燕地の条 (後漢の班固32~92撰)に
「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」(楽浪の海中倭人あり、分かれて百餘國となる、歳時を以て来たり獻見する) この文章が正しいとすれば、倭人は紀元前に存在したことになります。
② 『山海経』(撰者不詳)の海内北経の条に
「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す」
③ 『論衡』(後漢の王充撰)に
「周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸を貢す」(巻八・儒増篇)
「暢草倭衡より献ず」(巻13・超奇篇)
「成王の時、越常雉を献じ、倭人暢を貢す」
岩波文庫(青401-1)の著者石原道博は、①~③を上げたが、③は「周代の倭人にかんする知見とは考えられぬから、」と述べ、紀元後のことのみ信用するように書いておられます。
しかし、紀元前も倭人はいたと考える方が正しいのではないでしょうか?
〔鬯艸—香草〕〔暢草--?〕〔暢--?〕

朝鮮の人に叱られるかもしれませんが、後漢~魏の頃は、ソウルの辺りは中国領だったことになります。当然、次はもっと南まで攻め、続いて日本を視野に入れていたに違いありません。
「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す」の文や「周の時、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸を貢す」は、受け取り方それぞれですが、どこの国が何処に属しており、どこの国が貢ぎ物を持ってきたが書かれています。持ってこようが持ってこなくてもいつかは、自分の国にしようと考えたはずです。秦の始皇帝が、徐福を日本に派遣したのが、紀元前200年です。周であろうが、漢の時代であろうが、日本を攻める野心は、海など問題なかったと思われます。

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2005.02.17

地名 高尾山

 高尾山がイザナギと関係があるとは断定できません。しかし、断定するといろいろのことが説明できます。
アボック社の〔地図でみ見る日本地名索引〕によって、高尾山を検索しますと、77件ヒットします、これが全てではないし、この中には、ダブって検索されているものもありますから、逆に少なくなるかも知れません。ただ、全国に沢山あることは、事実です。東北にはありませんから、イザナギ族は、当初は関東(八王子市)までだったのかも知れません。意識して、全国的に山を決めて名前を付けたと考えられます。
次の高尾山だけ、掲載します。


県名 地域名 北緯 東経
1 島根県 隠岐島後 36-16-25 133-13-19
2 島根県 島根半島 35-33-26 133-14-33
3 兵庫県 神戸市 32-42-14 135-07-54
4 京都府 丹後半島 35-37-40 135-09-12
5 東京都 八王子市 35-37- 139-33-18
一応、山頂の経度・緯度としましたが、正確ではありません。

① 調べたのは 5つですが、全体に言えることは、イザナギ族の人たちが、隠岐島後から出発して、全国に散って行ったのですが、ただ、行った先で山に高尾山と名前を付けただけではないということです。彼等は、その後、この高尾山を目印にして、移動をしました。
 その根拠は、この5つの高尾山には、全て関連があるからです。次に一つずつ見ていきます。
②隠岐島後と島根半島の高尾山です。東経がほぼ同じです。山全体で見ますと、南北に並んでいます。
③神戸市と丹後半島の高尾山です。東経がほぼ同じです。南北に並んでいます。
④丹後半島と八王子市の高尾山です。緯度がほぼ同じです。東西に並んでいます。

この高尾山と蒜山の日留宮を基準にして、いろいろ定めた可能性があります。
イザナミのお墓・イザナギのお墓・淡路の多賀・滋賀県の多賀などです。
例えば、島根半島の高尾山と淡路島の多賀を結ぶ線上に城山がある。 大山の南にある毛無山と、滋賀県の多賀を結ぶ線上に、城山がある。この城山の真北に日留宮がある。

これほど、沢山の例が偶然には起こりません。イザナギでなくても誰かがしたことは確かだと思います。

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2005.02.14

淡海に行ったイザナギ  -40

淡海に行ったイザナギ                   -40
 スサノオを追放したイザナギは、「淡海の多賀に在す」と古事記にあります。日本書紀では、「すべての事業を終えられてお隠れになることになった。そこで幽宮を淡路島に作って静かに長くおかくれになった」(中央公論社編 日本書紀より)
 これだけ、イザナギはすべて終わったと断定していますから、日本書紀の作者としては、終わらさないと拙かったのかもしれません。古事記では、此のあたりの文章に消去されたところがあると書きましたが、日本書紀と比較しての推理です。古事記のある訳本では、古事記が、淡路と書き間違ったのであろうとなっていました。
 淡路島は、イザナギの幽閉の地ではありません。もう一度、古事記の初めに戻ってください。古事記の作者は、二度も、子供に入れない島を記しています。言い換えますと、統治を人に任せなかった所です。淡路島は、幽閉の逆の出発になったところです。
 日本書紀が、どうして幽閉の地にしたかったか気になるところですが、いつかのことに譲るとして、「淡海の多賀に在す」の多賀を探りたく思います。
 
 近江八幡市の50000分の1の地図を見てください。昔、島であった所が、すぐに分かります。琵琶湖に近いところに、長命寺というお寺があります。長命寺は山の頂上にあります。この山の東側に、「白王町」という町があります。この町の南に八幡山があります。その南側に、「多賀町」「宮内町」があります。イザナギとは関係ないかもしれませんが、「船木町」があります。船木という地名は、なにか判りませんが、私が気になる所に出現する地名で古い地名だと思います。イザナギと多賀という地名は関係ありそうです。淡路島の多賀には、イザナギが祀られている神社があります。滋賀県犬上郡にある多賀神社にもイザナギが祀られています。ここの多賀は、北緯35度10分にあります。No8で、那岐山のことを記しました。此の山はイザナギと関係ありそうですが、この山の位置が北緯35度10分です。神戸市北区にヒヨドリ超えがあります。その少し南に高尾山があります。那岐山と近江八幡の多賀と高尾山を結びますと、那岐山と近江八幡を底辺とする二等辺三角形が描けます。
毛無山と犬上郡の多賀を結びますと、那岐山と近江八幡の多賀とを結んだ線と平行になります。それがどうしたと云われそうですが、イザナギ一族は、高尾山を基準にしていたことは、確かのようです。そして、それぞれの地名間では、南北・東西の位置関係は拘ったようです。古事記に書かれている多賀が、間違いでないとすれば、どちらかの多賀になりそうですが、長命寺のところの多賀の可能性が大きいです。なぜならば、
 「白王町」です。白狄人の王であるイザナギは、「白王」と名づけたのでしょう。
そして、直ぐ近くに、多賀という地名も付けました。この多賀の意味が判りません。
 ついでに、「白王町」の東に目を移してください。2000年も遡らなくても、安土町があります。ここも地図でみますと、首が細くなった半島です。織田信長はここに城を構えました。 多賀神社は、後日、那岐山と同じ位置に造られた事になります。

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2005.02.12

倭人とは

「魏志倭人伝」と書いてきましたが、正式には、晋の陳寿という人が書いた『三国志』巻30・東夷伝・倭人の条をさします。陳寿は、233~297年の人ですから、仮に、20歳ぐらいのときに、この書を書いたとしますと、紀元後250年頃の日本の様子を書いたことになります。景初二年に倭の女王が魏の王に使いを出したことが書かれています。これは、西暦238年のことですから、ほぼ 同じ年代のことをその時代に生きていた陳寿が書いたことになりますから、少しの歪曲があるかもしれませんが、「魏志倭人伝」の記述された文章には、正しい部分があるのではないかと思われます。
 『魏志』のなかに、『魏略』にいわく・・・。という注があるということは、『魏略』という本を参考にして、『魏志』を書いたことは判ります。『魏略』に、すでに倭人という言葉が使われていたのかも知れませんが、それを確認していると、切りがありませんので、『魏志』からのみ、出発して検討を加えます。
私は、倭人という言葉の倭の字に、見下すというか侮辱する意味があるものと思っていましたが、No2 で調べましたように、「倭」は、残っている熟語は少なく、残っているものは、例えば、倭寇というように、日本の意味で使われています。(正確に言うと、日本だけではなく、朝鮮の南の端に住む人も倭人と呼んだようです) 又、元々あった背が低いという意味の「矮」となよなよしているとか、腰が低いという意味の「委」という字から、日本人のために作ったのではないかと思われる「倭」という字を使って、日本人のことを「倭人」と呼んだように思われます。日本人が織っていた絹織物を彼らは、「倭文」と書き、日本人は、「しづはとり」と表現していたので、「倭文」は、「しとり」とか「しどり」と読むようになったと思われます。
腰の低いことが良いことか悪いことか判断できませんが、外交官に限らず、現代でも日本人は、背が低く、腰が低くいので、250年頃の日本人は、そうだったのでしょう。
そのことが、陳寿には、印象的であったからこそ、倭人伝に書き残したと思われます。
 倭人は、中国の書物では、『隋書』以前に使われ、『新唐書』以後は、日本になっている。
「日本」は、日本人自身が言い出したような記事がありますが、「倭人」はなにも明記されていませんから、中国人が勝手に名付けし、呼称したと思われます。

陳寿は、当時の日本の様子を誰から、耳にして「魏志倭人伝」をかいたのでしょうか?
:ずっと、後世のマルコポーロの『東方見聞記』のように、旅行者のような人がいたのでしょうか?  中国は、為政者が変わっても、常に外部に向かって発展していた国ですから、軍事的に情報を集めていた者がいたのではないかと疑ってみるのも一つの考え方だと思います。
こんなことも考えながら、「魏志倭人伝」を読み進めてみます。

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2005.02.09

 スサノオ大いに哭く 

 タイトルに慟哭の哭を使いました。これは、身体を揺さぶるほど泣くことを言いますが、スサノオは、それ以上に激しく泣きました。古事記の原文に戻ります。

故各隨依賜之命。所知看之中。速須佐之男命。不治所命之國而。八拳須至于心前。啼伊佐知伎也【自伊下四字以音。下效此】其泣状者。青山如枯山泣枯。河海者悉泣乾。是以惡神之音。如狹蝿皆滿。萬物之妖悉發。故伊邪那岐大御神。詔速須佐之男命。何由以汝。不治所事依之國而。哭伊佐知流。爾答白。僕者欲罷妣國根之堅州國故哭。爾伊邪那岐大御神大忿怒。詔然者汝不可住此國。乃神夜良比爾夜良比賜也【自夜以下七字以音】故其伊邪那岐大神者。坐淡海之多賀也。
はじめの部分だけ、岩波文庫から訳を記します。
「故、各々(オノオノ)依(ヨ)さしたまひし命(ミコト)の随(マニマニ)に、知らしめす中に、速須佐之男命、命(ヨ)させし国を治(シ)らさずて、八拳須心(ヤツカヒゲムネ,)の前(サキ)に至るまで、啼きいさちき。」
なんのことか全くわからない。解らない私が馬鹿といえば、それまでですが、これではお話になりませんから、私流に訳してみます。
〔故各隨依賜之命。所知看之中〕意味不明につき、飛ばします。いや、飛ばさずに無理やり訳すことにしましょう。
そこで命(ミコト)の命ずるままに、従いました。看て知っているのに、速須佐之男命は
命ずる所の国をよう治めませんでした。髭を拳し八つ分ほど伸ばしながら、泣いてばかりでした。其の泣く状態は、青山が泣き枯れて枯山の如なり、河海は悉く泣き乾いてしまった。是を以って惡神の音は、あたかも、狹蝿の如な音で滿つるようで、萬物の禍が一度に發生しました。
そこで、伊邪那岐大御神は、速須佐之男命に詔りされました。「汝は、何の理由があって、依頼された国を治めないで、泣いてばかりいるのだ」それに、答えて云われるには、「僕は妣(ハハ)の國の根之堅州國へ罷りたくて、哭いています」それを聞いて、伊邪那岐大御神は、大へん怒って、「然らば、汝は此の国に住むべからず」と云われました。乃(スナ)わち、カムヤラニヤラヒされました。其の伊邪那岐大神は、坐淡海の多賀に坐ます也。
〔カムヤラニヤラヒ---神の世界から駆逐された〕 〔妣は 死んだ母〕

此の部分、少し訳が怪しいですね。スサノオは、海原を治めるように命じられたのに、治めないで泣いてばかりいました。理由を聞くと、母の住む根之堅州國へ行きたいとのことでした。イザナギはそれを聞いて、大層立腹しスサノオに出て行くように云って、自分も淡海の多賀に行ってしまいました。大筋は、このようなところだと思います。
スサノオに出て行くように命令したのに、なぜ、スサノオが淡海の多賀に行ったのか、ここも誰が書いてあったことを抜いたのでしょう。根之堅州國の説明があったのでは?

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2005.02.07

徐福は日本へやって来たのか

No37
イザナギは中山王国の出身であると断定しました。なにも証拠がないのにです。〔イザナギとイザナミはどこから来たか〕において 徐福のことを少し書きました。こちらは、日本の資料には残っていませんが、中国の資料には残っています。
 徐福とは どのような人であるのか、中国の資料を中心に、少し記します。

中国の始皇帝は紀元前三世紀ごろ、秦という大帝国を打ち立てた。北方に万里の長城を築き、都には阿房宮という大宮殿を建造し、死後も兵馬俑で有名なお墓を造った。なんでも、可能にした始皇帝にも意のままにならないものがあった。「死」である。
 そこで、徐福なる人に、不老長寿の薬を求めてくるように命じた。

以上のことは、次の文献に記録が見られます。
  「史記」秦始皇本紀(BC219年)薺の人徐市ら言う、海中に三神山あり、蓬莱、方丈、瀛洲と曰い、僊人これに居る。童男女と之を求むることを得ん。
 「史記」秦始皇本紀(BC212年)始皇・・乃ち大いに怒りて曰く・・徐市ら費すこと、巨万を以って計うるも、終に薬を得ず。
 「漢書」伍被伝(一世紀) 徐福をして海に入り、仙薬を求めしむ。多く珍宝・童男女三千人、五種・百工を薺して行かしむ。徐福は平原大沢を得、止まりて王となりて来らず。
 「呉書」孫権伝(一世紀) 秦始皇帝、方士徐福を遣わし、童男童女数千人を率いて海に入り、蓬莱神山及び仙薬をもとめしむ。亶州にとどまりて還らず。世々相承けて数万家あり。(亶州を種子島と周辺を比定する見解がある。)
 「義楚六帖」(後周) 今に至りて徐福の子孫皆「秦」氏と言う。
この文献をみても、何処にも日本に来たとは書かれていません。「亶州にとどまりて還らず」とありますが、亶州がはたして、どこにあるかが決め手になります。
不思議なことに、日本各地に徐福が来たという伝説が残っていて、「徐福伝説」と名づけて、多くの人が詳しく調べインターネットにも公開されています。それによりますと、以前は、単なる伝説と思われていましたが、中国の方での、調査では、徐福という人は、実在の人であることも判って来たそうです。

もし、除福が、日本を目指してやって来て、上陸したとすれば、記録に残っている一番古い来訪者になると思います。
私がもっとも、注目する所は、
① 時が BC212年であること。
② 童男童女数千人を率いて
特に、「童男童女数千人を率いて」です。
徐福が帰ってこないので、皇帝は怒ったとありますから、薬を探しに出かけたのは確かでしょう。しかし、子供も、女も全てであるということは、移民を目的にしていたと思われます。初めての土地に、数千人の人を連れて行くわけがありません。ある程度のことは判っていたはずです。特に、この国では、長寿の人がごろごろいたのでしょう。
きっと、この国には、不老長寿の薬があるに違いないと考えたのでしょう。
 日本の記録に残っている天皇の長寿は、作為があるとか、間違っているとかが、常識になっていますが、100歳ぐらいの人は、一杯いたのかもしれません。

 悪く考えると、移民ではなく、侵略だったのかもしれません。 
 漢書には、徐福が王になったとありますから、意外とイザナギにすると、時代だけから考えると相当します。しかし、それでは、その後話の辻褄が合いません。

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2005.02.06

イザナギは中山王国の出身か  その3 

如何でしたか? イザナギは白狄人で中山大国からやって来たと思われましたか。
白狄人は、所謂人種を表しているわけではないようです。中国人は、自分たち以外の人を蔑む漢字を使って呼んでいます。「狄」は、獣程度の火を使う人間という意味でしょうか。漢字字典では、犬+火で、火で犬を追い払うとあります。北狄は、北方の異民族とありますから、白狄は、白い北狄となります。肌の色は白くなさそうです。意味は判りませんが、「白」に意味がありそうです。
 このようにあまり拘っていますと、古事記から離れていきますので、止めにしますが、
先に述べましたように、イザナギが何処から来たかを追求しますと、一番は、追い立てられた人達でしょう。中国の歴史を少し覗いただけですが、戦国時代は、つぶれた国はどうやら多そうです。勉強して、一つずつ潰していくしかありません。
 それにしても、逃げるところは、元遊牧であれば、どこへでも行けたであろうに、日本にやってきたとすれば、難儀して津軽から渡った白狄人とすれば、もう一度、津軽に戻ろうとして、隠岐島に漂着したと思っても不思議ではありません。
 遊牧生活をしていて、中山大国を築いたのが、前530年、滅びたのが前296年です。僅か 200年の間に、周王朝や周りの国の文化を吸収して、これほどの王国を作ることができるのか。もし、元にそのような素質があったのであれば、戦後の日本の発展を見れば、可能だと思われます。白狄人が、仮に前600年~700年に、津軽から渡ったとすれば、可能かもしれません。
青森県の三内丸山遺跡を訪ねました。この遺跡は、1500年間も続いた村の後です。ポンペイの遺跡までとはいきませんが、すでに、立派な村が営まれていたことが判っています。私は村だと書きましたが、そのとき買い求めた本のタイトルは「縄文都市を掘る」になっています。著者は発掘主任の岡田康博氏です。この本によりますと、前5500年~前4000年の縄文遺跡となっています。子供と大人と別々に埋葬されていますし、現在のものに近い漆製品があり、その上、武器がないことが特徴でしょう。平和な文化の進んだ村であったと思います。それが、どうして、忽然と無くなったのでしょうか?
気候の変化、海面の低下、伝染病が発生したなどです。どれであっても、全員死ぬことはないとなりますと、一番は、日本列島を南下したと考えるのが普通ですが、かれらが、もし、大陸と行き来していたとすれば、大陸に逃げたかも知れません。
現在の歴史界では、このような話は全く受け付けません。中心をなす考古的なものは、考古学と呼ばれて、素人は入れません。発掘されたもののみから、歴史を考えるために、新しい発見がありますと、ころりと歴史が書き換えられることが多くなっています。
今のところ、イザナギが中山大国からやって来たということは、正しいということにして、新しい考古学の発見があるたびに、私の仮説が、少しずつ真実となっていくように期待しています。
素人にしか許されない特権です。 決定----イザナギは、中山王国の王様でした。


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2005.02.05

恥ずかしくないのか 松下電気産業さん

松下電器産業が「アイコンの機能についての特許権を侵害された」とジャストシステムを相手に、裁判に持ち込んだ。
松下電器産業が発明した部分を侵害して、ジャストシステムがソフトを作ったというものです。
ジャストシステムは、「一太郎」で有名なワープロソフトを作ってきた会社です。四国の片田舎で作り続けて、今なお、挑戦しています。あまりにも短期間で、バージョンアップをされるため、お金が続かなくて使用をやめましたが、日本の国語辞書?(ワープロの)の草分けでしょう。
松下電器産業は、裁判をしなくても勝つことができます。発明であると言うのであれば、ジャストシステムに、あの部分の使用料を請求すれば良いのです。
松下電器産業は、コンピューターに出遅れました。従いまして、社員の多くが、ジャストシステムの一太郎の世話になって成長してきたと思います。

あんなものを発明というから、つまらない商品を売ることになります。

その1 お風呂の湯船の掃除は、腰を屈め手が冷たいものです。それを自動でしてくれる道具を発明(?)しました。新しい製品が出来ると買ってくださいと持ってくるお店の人がいます。いつも世話になっていますから、お付き合いで買いました。10000円でした。道具が自動でしてくれるのではありません。掃除機の先に、ブラシが付いていて回転します。器具を持っているとそのブラシが湯舟を洗ってくれるというシロモノです。家内は2回ぐらいつかったでしょうか? なぜ使わないか? 重すぎてありゃ しんどいわ。

その2 今度は商品名を書きます。
「携帯ハンドスキャナー」品番 KX-FS10N
筆箱ぐらいの大きさのもので、活字の文章の上を撫でますと、文章を読み取ってくれます。この商品の優れてところは、図書館で本を読んでいて、5行ほど、コピーしたいときに、スキャンしますと、無料でコピーできます。自宅に帰ってから、コンピューターに取り込ますと、OCRをしてくれて、いちいち打ち直さなくても、利用できる。
新聞の広告をみて、直ぐに買いました。いざ使ってみると静かな図書館で、エラーの警告音がなってばかりで、ろくろく使用できません。相当練習しますとスキヤンできるようになりましたが、OCRが未完成で使い物になりません。それでも、辛抱して使用していましたが、直ぐに電池が無くなり、コピーした方が安いことになりました。
 何分、5万円もしたのですから、辛抱して使っていましたが、コンピューターを買い換えたら動かなくなりました。WINDOWS-XPでは動きません。WINDOWS-XPには対応していません。

WINDOWS-XPでも動く修正のソフトを作るべきですのに、未だに作っていません。使い物にならないことを認めたようなものです。
この発明品は、詐欺のようなものです。今回のことが認められるのであれば、私は松下電器産業を訴えます。

それにしても、このような発明を認めた特許庁もおかしいですが、裁判所もおかしいです。
少なくとも、私は今後、松下電器産業の製品は購入しません。

恥ずかしくないのか ともう一度言いたいです。

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イザナギは中山王国の出身か  その2

(5)編鐘 14点 周王朝の礼楽制度を取り入れたらしい。14個の編鐘は、小から大まで、すべて大きさが異なり、吊るすようになっている。

(6)黒色陶器 ---容器です。形は鼎、豆、壺、碗などですが、使われていた食器を模倣して死者の持ち物とした工芸品です。特徴は、表面を漆で塗ったように黒光りをし、装飾された模様は複雑で黒色陶器のなかでも王様であると解説されています。

(7)金銀製首輪の猟犬骸骨 2体
 シェパードぐらいの大きな犬で、埋葬者の愛犬であろうか。中国王国の犬は,北犬といわれ有名であったらしい。

以上、図録のうち、イザナギと関係ありそうなものだけ、ピックアップして見ました。
以下、どのように関係あるのか記してみます。
(1) すべて銅で作る。また、鉄で作るのは、難しいことではないと思います。融点の異なる物質をつなぎ合わせるのは高等技術だと思います。それ故に、日本にやってきた他の民族のリーダーになれた。
(2) 銅鐸に書かれた絵がどうして、幼稚なのか理解に苦しむほどですが、この作品では、猿などは生き生きと作られています。図録の説明では、龍が二匹いるように書かれていましたので、そのように書きましたが、写真で見る限り、蛇と思われます。蛇を大切にしていたと思われます。ヒルゼン高原には、大蛇、蛇ヶ乢、加勢蛇川とあまり地名になじまない蛇地名があります。
(3) 三匹の虎がいます。日本には、虎はいませんから、虎の名前がつく地名は特別なものです。徳島県神社誌を調べますと、熊野神社が多いことがわかります。この周辺にイザナギの部下が派遣されました。初めての土地に行きますと、一番に高い山に登りますと、全体が判ります。一番に白狄人は、剣山に登って測量をしたでしょう。四国が4つの部分からなることを知り、そのことが古事記に記されています。測量の結果、真東にある山に、虎ヶ峰と名前を付けました。虎ヶ峰は剣山と熊野本宮を結んだ線上にあります。同じ線の上に高尾山(イザナギ一族の目印の山・きれいな三角の山)があります。この線上だから、虎の名前を付けたのでしょう。
(4) 黄玉佩には緒を付けるようになっています。古事記には、イザナギが着けていたことになっています。日本の墓からは、所謂玉が数珠のように繋がって、多数出土していますが、転載したものは、龍ですが、外に、人物・蛇・蛙・亀・虎・蝉・蚕・鳳の透かし彫りの玉器が沢山出土し、きわだった特色だと書かれています。
(5) 編鐘 14点は、14個であるところが、気になりました。現在の音楽は、ドレミファソラシと7つの音で成り立っています。明らかに、その倍の数です。形はやや異なりますが、銅鐸は、現在祭祀に使われたとの意見が主流を占めていますが、銅鐸が、14個で出土したところは、日本でも二ヶ所ありますから、大いにイザナギ族と関係があるように思われます。犬の生理は、7の倍数が関係あります。7で発情が始まり、14で終了。63で生まれます。犬の好きな白狄人は、当然知っており、その正確さには驚いていたでしょう。人の生理も7に関係がありそうです。彼等が、仏教を知っていたかどうか判りませんが、死んでからでも、7が関係してきます。
7は動物が、本来持っている正しいリズムかもしれません。
(6) 黒色陶器は、中山大国の特産物ではないそうです。
  解説書には、「原始社会の晩期の山東龍山文化遺跡からは、表面の黒く光る胎質の薄い一種の黒陶が出土している。河南省輝県の戦国時代の墓葬からも一群の黒陶器が出土した」とありますが、全く同じものかどうかわかりません。中山大国のそれは、美しい形、高い芸術性、精細な装飾文様がいずれのものより優れていると書いています。
  解説書では、制作課程も詳しく書かれています。ただ、問題は、「・・・それを更に加減し煙でいぶし焼きして制作したため、この種の陶器の表面は漆のように真っ黒くて光っている・・・、」とあります。いぶしたら、黒光りがするかもしれませんが、表面だけでしょう。割った中を知りたいものです。
  漆は実際に塗られていたのではないかとか知りたいことはいっぱいですが、それよりも大切なことは、これと同じものが、日本にもあるということです。
   津軽の亀ヶ岡遺跡と八戸市の是川の歴史資料館と南郷村の個人の資料館に存在します。こちらも、実物は見ていませんが、写真で見る限り、中山大国のものより、色が薄いですが、黒色陶器です。
  こちらは、葦の腐植土でできた土でつくると黒い陶器が出来るそうです。
  田村誠一氏は、イザナギが、中山大国から移民であるというだけでなく、津軽に住んでいた縄文人が、忽然と居なくなったときと、中山大国が建設された紀元前530年がほぼ、一致するから、縄文人は中国に移動し、遊牧生活をした後、中山大国のところで定住したと述べています。あまりにも、突拍子な考えですが、楽しいストーリーだと思います。それゆえ、「中山」という日本名となっていると。
(7)  金銀製首輪の猟犬骸骨です。 ペットブームの日本ですが、金銀の首輪をつけている犬はいるでしょうか? 犬が好きだったイザナギ一族は、あちこちに、「犬」がつく地名を作っていきました。隠岐には犬来と犬町。ヒルゼン高原には犬挟峠と犬畑。高原で最高峰の毛無山と同じ緯度で、近江の犬上郡があります。ここは、イザナギが、住んだところで、多賀神社があります。イザナギにとって、第二の都でした。   

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