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2005.03.26

イザナギの墓 その3

No60
No59の航空写真をご覧ください。海岸線に対して、直角ではなく、少し角度があります。少し、東に行きますと、2号線より海に突き出た地所があります。もっと東に行きまして、神戸を過ぎますと、国道2号線と43号線が海岸に平行して走っています。両国道が交わるところが「味泥」という地名です。湿地帯で泥状になっていたと思われます。ここに、敏馬神社が高台にあります。五色塚古墳と同じくらいの高さがありますから、境内の近くまで水面がきていたと思われます。ここの海岸線から2号線までは、結構距離があり、ずっと、傾斜があります。3000年ほど前は、2号線の近くまで海であったと思われます。
義経で有名なヒヨドリ超えの北に高尾山があります。淡路島の多賀に、伊弉諾神社ガ有ります。この二点を結んだ線上に、五色塚古墳があります。古墳の縦の軸は、この線と同じ方向です。これほど、ビタリとなっているものを偶然で済ませるのは、正しくないと思います。此処だけであれば、偶然でよいですが、前に述べました高尾山はすべての場所と関連があります。滋賀県の多賀も同様のことが言えます。
仮に、五色塚古墳がイザナギの墓ということになりますと、困ります。イザナギが200年生きていたとしても、お墓は一世紀の初めとなります。
全国に、170m以上の前方後円墳は50を越えますが、五色塚古墳は大きい方から39番目になります。ものの考え方としては、初めは小さいものが作られ、次第に大きいものが作られるようになった考えます。初めに、大仙陵古墳が作られ、次第に小さい古墳になったと言えば誰も信用しないでしょう。
前方後円墳に類する古墳が作られるようになるのが、3~7世紀と言われています。
普通に考えますと、小さい古墳は初期、競い合って次第に大きくなって、費用がかかり過ぎて、次第に小さくなっていくと考えますと、五色塚古墳のように大きい古墳は、真ん中の4~5世紀と言っておけば間違いありません。
五色塚古墳には石棺が無いとしますと、墓を後日に作りなおしたと考えられます。しかし、私は紀元後一世紀でも、中山大国の人であれば、可能であったと思います。山を円錐状にするのはお手のものでしたし、測量も得意であったと思われます。文化は、次第に発展していったと思われていますが、そうとは限りません。高度な文化があったが、急激に衰退した例は、一杯あります。ペルーのナスカの地上絵というのがあります。単純な線画があるだけですが、あまりにも巨大であるため、誰がなんのために書いたか判っていません。どう考えても、あの絵の上を飛んだ人がいたと考えるしかありません。大きな凧を作って飛んだのであろう辺りが現実的ですが、命をかけてどうしてしなければならなかったと考えると、やはり、安全に空を飛ぶ技術があったとしても悪くはありません。こうなると映画の世界ですが、前方後円墳は、初めにどんと大きなものが出来たといっても良いとなりますと、古墳時代の謎は減るし、楽しくなります。
かくして、五色塚古墳はイザナギの墓であるの結論が導かれます。

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