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2005.03.31

国会図書館長の給与は高いか

「年間給与を129万円減額 4月から国会図書館長」これは、新聞記事のタイトルです。129万円も減らされて、可哀相にと思って、内容を読むと、3041万だった。他の人の金額に比べて、多すぎるというのが理由です。
それにしても、他の人の金額はどうでもいいですが、私と比べると嫌になるほどの差です。
先日、嫌だというのに、我が家の屋根に上らせてくれという可愛いセールスマンがやってきました。雨漏りするまで、屋根は修理をしないと頑と断ってきたのですが、周囲の家は、すべて新しい家に立ち代り、古いのは我が家一軒だけ。それだけに、10日に一人は、屋根が傷んでいますよと声を掛けてきます。そこで、登るだけと許可を出したら、3人の青年が、登って浮いている瓦を修理したり、穴の開いているところに、なにかをつめてくれて、1000円でした。後日、撮影しておいたビデオを持ってやってきて、見せてくれました。私は怖がりで、梯子は5,6段しかよう登らないのですが、ビデオをみてびっくり。屋根から10センチほど、モルタルがはがれ、大きいのは、5センチぐらい穴が開いています。殆どの瓦はヒビがあり、割れているのがいっぱいです。費用を計算してもらったら、消費税を入れて、230万円となりました。どう見ても、1500万円もしない家に、230万円は高いのですが、お願いすることにしました。金額のことではないのです。私のこのケチ臭ささを考えています。
仮に、私が国会図書館長になったとしたら、みみっちい図書館になると思います。素晴らしい図書館だそうですね。一度は、国会図書館へ行ってみたいと思っています。図書を見るためでは有りません。建物・施設を見るためです。1000年でも残る図書館を作ろうと思えば、私のようなものでは、いくら一生懸命考えてもお話になりません。このように考えると高くてもいいのではないでしょうか? 
 私は、ここ3年ほど前から、何故、景気が回復しないのかと考えていますが、どうやら、私のような貧乏人が多くなったからかも知れません。西部の堤氏は、くそみそに叩かれ、犯罪人になってしまいました。悪いことは悪いのですが、天皇陛下より、立派なお墓を作るぐらいの人でないと素晴らしい発想は出来ないのではないかと思っています。
「年間給与を129万円減額 4月から国会図書館長」と書いたのは、新聞社です。
新聞記者の給料を上げてやらないと、自分より高額の収入を得た人は、次々叩くことになります。
景気が立ち直らないのは、私の所為ではなく、新聞社の所為かもしれません。
 それにしても、屋根の修理代、230万円は痛いなあ~。
 150円の割引券を持って、「王将」のらーめんでも食べてきます。

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竹島問題を思う

-歴史を学ぶ大切さ最近、中国政府と韓国政府の日本への攻撃が強くなっています。両政府の主張の根底をなすものは、日本人は、もっと歴史を勉強すべきだということです。どれ程、日本は、昔(AD2,3世紀?)から、自分たちの国の世話になってきたかを反省すべきである。反省をしないばかりか、侵略を繰り返し、其のことをなんら悪いと思っていない。その証拠に、竹島は日本の領土だというし、未だに、賠償をしていない。日本側の一部指導層の歴史観が間違っていると指摘し、歴史教科書を非難しています。
一歩譲って、なるほど、一部指導層即ち、一部の政治家が間違っているとしても、歴史教科書を両国の思うように書き換えるわけには行かないでしょう。そうすることが正しいのであれば、両国も教科書を書き換える必要があることになります。
中国は、日本を侵略主義者のように、声高で叫んでいますが、日本の歴史を調べてますと、紀元前から、侵略を続けているのは、中国です。中国は日本だけではなく、朝鮮への侵略も続けてばかりです。そのことに気が付いた朝鮮は、当時に戻して、現在の国の朝鮮の北方の領有権を中国に訴えています。
239年当時、魏の国は現在のソウルに、帯方郡を置いていました。今でいう日本の県のようなものですが、植民地のようなものだったと思われます。ここが、その中心ですから、もっと、南まで支配されていたことになります。この頃、すでに、日本は、殆ど中国に占領されていたと言って過言ではありません。当然朝鮮は、どんどん追い立てられて、多くの人が日本に逃げてきました。712年に天武天皇が、古事記を作ろうとした時には、中国人が、支配を完成させていました。そのダメ押しとて、日本書紀をつくり、古事記をほうむりました。勿論、多くの朝鮮人も、日本の高官にいたことは事実でした。程度の低い日本人を助けるために、中国と朝鮮が力を貸したという考え方は、間違っています。そんな余裕など、当時の人にあるわけはありません。どの時代の人も、生きていくの必死であったのです。祟神天皇のときには、日本でなにか大変なことがあり(伝染病か) 大半の人が死にました。その一年まえには、中国でも一年に続けて二人の皇帝が死んでいます。日本からの避難民が朝鮮へも押しかけたことが記録に残っています。そんな昔のことを持ち出して、感謝をしろというほうがおかしいのです。朝鮮は、日本に避難民を受け入れて貰ってので、逆に感謝をすべきです。こんなことを書いていますが、現在の日本人の大部分は、中国人と朝鮮人だと思います。
中東でも、何千年前からの歴史を持ち出し、譲ることを知りません。歴史を正しく知らないからです。
政治・経済も大切ですが、政治家は歴史を学び、中国と朝鮮に毅然と日本の主張をすべきです。                            H17.03.30

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2005.03.30

魏志倭人伝 邪馬臺國はどこだ

No9
 結論を先にかきますと、吉備にありました。これを知ったからと言って、いい加減に読まないでください。No7で書きましたように、一大国から次の国への方向が書いてありません。それと、すべて、狗邪韓国1000里で、対馬国。1000里で一大国。1000里で末盧国となっていますが、距離を測らなくても目測で、距離は違います。そこで、この辺りは、皆さんにお任せしまして、私は古事記のほうから迫ります。
 大国主命は、スサノオの娘の須世理毘賣を引き連れて、スサノオから逃げるシーンがあります。そして、逃げ果せます。スサノオは諦めて、他の兄弟神である八十神を追い散らして国を作れと叫びます。その国の名前が、「奴国」です。この部分の原文を掲げます。
「故其所寢大神。聞驚而。引仆其室。然解結椽髮之間。遠逃。故爾追至黄泉比良坂遙望 呼謂大穴牟遲神日。其汝所持之生大刀、生弓矢以而。汝庶兄弟者追伏坂之御尾。亦追撥河之瀬而。意禮【二字以音】爲大國主神亦爲宇都志國玉神而。其我之女爲須世理毘賣。爲嫡妻而。於宇迦能山【三字以音巳】之山本。於底津石根。宮柱布刀斯理【此四字以音】於高天原氷椽多迦斯理【此四字以音】而居。是奴也。」

ここに書かれている「奴国」と魏志倭人伝に書かれている「奴国」が同じとは限りません。同じであると仮定しますと、奴国は何処だと言うことになりますが、詳しくは最初から古事記を読まなければ理解できません。
要所だけを記しますと、大国主命は、須佐能男命の坐(イマ)す所の根堅州國を訪れ、須世理毘賣に一目ぼれをしますが、須佐能男命の許しを得ることができなくて、駆け落ちします。
問題の根堅州國ですが、須勢理毘賣は淀江町(旧高麗村)の唐王神社に祀られています。須勢理毘賣が住んでいたから、神社に祀られています。淀江町一帯が、根の堅州国と考えていいと思います。天の詔琴を持つ須勢理毘賣を担いで須佐能男命から逃げたと書いてありますから、淀江町よりそう遠くは無いはずです。
日野川を上って行きますと、溝口町があります、目を西の方へ移しますと、西伯町があります。この町は、以前大国村と呼ばれたところです。大国主命と兄弟は、ここに住んでいましたが、ある日、兄弟全員で、因幡の八上村(現在の河原町)をめざします。男たちにとっては、大きな目的がありました。この地方の豪族の娘の八上比売(ヤカミヒメ)と結婚することが夢でした。その途中に、裸にされた白ウサギに出会うことになります。
このような話が、古事記では延々と続き、須勢理毘賣との出会いとなります。出会ったときの名前は、大穴牟遲神でしたが、須佐能男命から大国の主になれと命令され、ここに宮殿を建てて、大国主命を名乗ることとなります。宮殿を建てたところは、大国村字倭です。この倭の名前が、後に岡山の大倭の地名になり、日本の国名になっていきます。
「倭」も「大倭」も詳しい地図には掲載されています。  続く

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2005.03.29

一大国から末廬国への方角

No7
帯方郡をでて、狗邪韓国、対馬、一大国と方角と国への距離、国の大きさなどが次々書かれています。外にその地の官職名も書かれていて、魏の国の人がみたら、その国の人は、どこの出身か直ぐに判ったと思います。
読解力が無いので正確には判りませんが、魏志倭人伝の作者・陳寿は、日本のことだけではなく、韓国のことや烏丸鮮卑のことも記しています。さっと、目を通してみましたが、それほど、方角や距離のことは書かれていません。

 少し、魏志倭人伝から離れて、風土記のことについて書いてみます。
時の政府によって、各国は、その土地の地方誌を提出するように命じたらしい。「らしい」というのは、直接、そのような命令書は残っていないからです。続日本紀の和銅六年(713)の五月のところに、「・・・畿内七道諸国の郡郷の名は、好き字をつけよ。その郡内に生ずる銀・銅・彩色・草木・禽獣・魚虫などの物は、具さに色目を記録し、また、土地の肥塉、山川・原野の名号のいわれ、古老の相伝うる旧聞・異事・・・」とかかれ、報告するように通達が出たことが書かれています。ここに、「風土記」という言葉はありません。扶桑略記という書物の、同じ和銅六年の五月のところに、「諸国郡郷の名に好字をつけ、風土記を作らしむ」という記述があるので、風土記は、713年につくるように全国に通達されたと見ていいと思います。
古事記ができたのは、712年です。その翌年のことですから、古事記よりもっと、詳しい正確なものをつくろうという考えも成り立ちます。当然、全国から報告があったと思われますが、現在、残っているものは、常陸、播磨、出雲、肥前、豊後の五国の風土記のみです。この五つのうち、完全に残っているものは、出雲風土記のみです。常陸は略本であり、播磨、肥前、豊後も欠脱の多いものとなっています。いろいろの書物に書かれている各国の風土記に書かれていたであろう記事を逸文と称して、残されているのみです。
完全に残っている出雲風土記を読もうと、分厚い「風土記」岩波書店(日本古典文学大系)を求め、読み始めましたが、ダウンです。なにが面白くないかと言いますと、はじめから、距離と方角と神社名ばかりです。数ページ読んで現在中断です。
しばらくして、魏志倭人伝を読み始めました。全く、同じ様式です。私は、これは、両方とも、軍事機密だと思いました。これほどのこと、何処が機密だと思われるでしょうが、この魏志倭人伝は、だれが見ても良い資料だと思います。
このような見方で、韓国のことや烏丸鮮卑のことを流し読みしましたところ、距離や方角は書かれていません。これらの国は、国というものの、中国が支配して、距離など書く必要が無かったのだと思います。
又、話が飛びますが、シーボルトというドイツ人がいます。シ現在のドイツ連邦共和国バイエルン州ヴュルツブルク市の医学者の家に生まれました。その後、ヴュルツブルク大学医学部の時代には、医学ばかりでなく、動、植物学や民族学なども学びました。1823年、シーボルトは、出島のオランダ商館医として、長崎に派遣されました。確か、軍医だったと思います。そのシーボルトは、人間的にも素晴らしい人で、日本人は、シーボルトが望むことには、自分から進んで日本のものを持ち寄りました。シーボルトは、そのすべてをドイツに持ち帰りまして、日本を正確にヨーロッパに紹介した人となっています。シーボルトは、幕府の要請で、江戸へ旅たつことになりますが、そのときの日記が残っています。各港で、碇をおろすだけでなく、その土地の位置を測定し、海の深さまで測定したことが記されています。絶大なる信頼を得ていたシーボルトですが、日本地図を許可無く所持していたことで、スパイ容疑で国外追放となります。世界各国が、アジアの国々に進出していたときのことですから、軍医であっただけに、結果的には、日本に関する情報をこの頃、正確に収集した唯一の人ではないかと思います。
話題は、とんでもないところに行きましたが、このように考えますと、どこに何人が住んでいて、その村まで、距離はいくらかという情報は、軍事上もっとも大切なものです。
韓国のことや烏丸鮮卑は、方角・距離を書かず、日本は書いたと言うことは、魏の国とって、大切なことであったと思われます。魏志倭人伝に書かれていることは、日本に来た旅行者の話を寄せ集めたもののように考える人がありますが、このような時代の中国の歴史書に、だれが旅行記など書くでしょうか?
このように論を進めますと、書いてある方角は、勘違いだとか、距離を間違ったのだという説をしておられる方は、何故、そのような考えになるかと言いますと、「一大国」は、「壱岐国」しかない。「末盧国」は、現在の「松浦」と決めて、だれも疑わないからです。「一大国」から、同じく「南」へ1000里いった所に、「末盧国」があることになります。この辺りが、このような調子ですから、邪馬台国が判るわけありません。奈良だと言う人、九州だと言う人、岡山だと言う人、説はいっぱいあります。どの説でも、誰にも害はありませんから、どうでもいいようなものですが、そこに国があるのは、いいのですが、九州説の人が正しいとしますと、魏志倭人伝に書かれている九州北部だけで、100万人近い人が住んでいたことになります。現在、あちこちで、次々新しい発掘が行われ、発見が報道されます。発掘された墳墓数から、推察すると全国で、500万人ほど住んでいたのではという変なことになります。これから、どのような考古学的、新発見があっても耐えれるような理屈が成り立たないと意味がありません。
 そこで、私が、新説を考える気になっています。

はじめに戻って、陳寿は、国家の中心となる国史の編纂に携わりました。正しい歴史書を書いたと思うのは、間違いです。中国に役立つように、書いたはずです。
「末盧国」がどこにあるか、判らなくしたのでしょう。案の定、現在の日本中の学者が研究しても解決できていないのですから、陳寿の思う壷です。陳寿は墓の中から喜んでいると思います。
                           H17.03.23 記す

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2005.03.28

五穀の起源

No61
高天原を追われた速須佐之男命は、お腹が減って、大氣都比賣神(オオゲツヒメノカミ)に物乞いをします。原文と私の訳を記します。

又食物乞大氣都比賣神。爾大氣都比賣。自鼻、口及尻。種種味物取出而。種
種作具而進時。速須佐之男命立伺其態。爲穢汚而奉進。乃殺其大宜津比賣
神。故所殺神於身生物者。於頭生蠶。於二目生稻種。於二耳生粟。於鼻生小豆。
於陰生麥。於尻生大豆。故是神産巣日御祖命。令取茲。成種。

又 食物を大氣都比賣神(オオゲツヒメノカミ)に乞(コ)いました。鼻、口及び尻自(ヨリ)、種種(シュジュ)の美味しい物を取り出して而(テ)、種種作り具えて進呈する時、速須佐之男命は其の状態を立ち伺がって、汚(ヨゴレ)て穢(キタナ)くなっている為、進み出て、すぐに、其の大宜津比賣神を殺しました。そこで、殺した神の身に生まれた物は、頭には蠶が生まれ、二つ目には、稻種が生まれ、二つの耳には粟が生まれ、鼻には小豆が生まれ、陰部には麥が生まれ、尻には大豆が生まれた。そこで、神産巣日(カミムスビ)の御祖命(ミオヤノミコト)は、茲を取るように命令して、種と成るようにしました。

大氣都比賣神が折角、美味しい食べ物を出してくれたのに、汚らしいといって、速須佐之男命は殺してしまいました。いくら神話ノストーリーと言え、ひどい仕打ちですが、上流社会において、このような精神構造が、700年頃は普通であったとみるのは、厳し過ぎるでしょうか? やはり、構成上死んで頂かないと神話にならないということにしますと、古事記の作者が伝えたかったことは、
速須佐之男命の生きていた時代は、きっと、蠶、稻種、粟、小豆、麥、大豆がすでにあったということでしょう。
速須佐之男命が大氣都比賣神に会ったところは、高天原ではありません。従いまして、高天原では蠶を飼ってはいなかったのでしょうか。機織小屋はありましたから、絹を持ち込んで、絹織物は存在していたことを表現しています。よく、高天原における神々の想像図に、白い着物を着た絵が描かれていますが、材料は絹であったでしょう。脚の部分を紐でくくった図は、どこから伝わったのでしょうか。中国の福建省の民族衣装が似たいるという話を耳にした記憶があります。
また、稗田阿礼が廻った中に、食物の神さんとして、大氣都比賣神がどこかで祀られていたのだと思います。大氣都比賣神は日本書紀では、保食神(ウケモチノカミ)と書かれています。
保食神が祀られている神社をいくつか挙げておきます。
天穂日命神社(氣高郡大郷村) 矢矯神社(氣高郡吉岡村) 杉森神社(八頭郡大村)
稲荷神社(八頭郡西郷村) 神馬神社(八頭郡西郷村) 

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2005.03.27

魏志倭人伝  伊都国まで

No6
千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。又渡一海千餘里至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
翻訳
千余里で対馬国に至る。その大官を卑狗といい、副を卑奴母離(ヒナモリ)という。住んで居る所は絶島で、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿(トリシカ)の道の如し。千余戸有り、良田無く、海の物を食べて自活し、船に乗って南北に市糴(シテキ)する。
 又南に一海を渡ること千余里、名づけて瀚海(カンカイ)という。一大國に至る。官をまた卑狗といい、副を卑奴母離という。方三百里ばかり。竹木叢林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せど、なお食足らず、また南北に市糴す。
また一海を渡る千余里、末盧国に至る。四千余戸あり。山海に浜(ソ)うている。草木茂盛し、行く前(サキ)人を見ず。好んで魚鰒(ギョフク)を捕らえ、水深浅となく、皆沈没してこれを取る。
東南に陸行五百里、伊都國に到る。官を爾支といい、副を泄謨觚・柄渠觚という。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使が往来し、常に駐る所なり。

考えたこと
① 対馬と一大国は大官を卑狗といい、副を卑奴母離という。同じ人種の人たちらしい。
② 伊都國は官を爾支といい、副を泄謨觚・柄渠觚という。対馬とは、出身が異なるかもしれない。
③ 方三百余里---「方」の字は、普通は正方形の形を言います。島の形ですから、凡そ四角と見て、三百余里は、その周りの距離と考えていいでしょうか? 一辺が、三百余里四方ということでしょうか? こちらですと、周りは一千二百余里となります。壱岐は直径23Kmの島ですから、周りが、3倍して約70 Kmです。一里は約60mということになります。周りが三百余里としますと、一里は約230mです。
④ 一大国は、日本の資料にありません。何故無いのでしょうか? 現在の日本では、一大国は壱岐国ということで誰も疑問を持ちません。魏志倭人伝より後の梁書には、一支国とありますから、こちらの方が壱岐国に近いですが、「岐」は「キ」と読み、「支」は「シ」ですから、あまり近いとはいえません。一大国は、当時どのように発音したのでしょうか? 「イチター」「イッタイ」ぐらいでしょうか? 日本に残っている「壱岐」は、「イキ」です。日本で、このように発音しているのを聞き違えたで片付けることはできないのではないでしょうか? 一大国は、島の大きさが記されています。「方可三百里」とあります。対馬は「方可四百餘里」ですから、対馬の方が大きいです。人家は、対馬が「有千餘戸」、壱岐は、「有三千許家」ですから、壱岐のほうが大きいという意味で、一大国と表記したのでしょうか?
ずっと時代が下りますと、壱岐は、石田郡と壱伎郡に二分され、石田郡には石田、物部、特通、箟原、治津の鄕がありました(高山寺本)。聖武天皇の天平八年(736年)二月(旧暦)、阿倍朝臣継麻呂を遣新羅大使に任命、四月、継麻呂等は天皇に拝謁し、六月に出発しました(続日本紀、万葉集)。雪連宅麻呂はこの一行に加わっていましたが、壱岐で病死し、その墓が印通寺西北に残されています。このことに関連して、万葉集が残っていて、石田のことを「伊波多」と表記されていますから、「イハタ」と呼んだことがあるようですが、倭名抄の読みは伊之太(イシタ)です。この読み方ですと、梁書にみられる「一支国」の「イシ」の音が出てきます。
私は「一大国」にこだわってきたのは、「大」という字は、地名では、偉大なるとか、大王とかをあらわしているように思うからです。魏志倭人伝の作者である陳寿には、何か意図するものがあったのではと考えています。
対馬から一大国にいたるには、方角が書いてあります。末盧国から伊都國には、東南と書いてあります。以下も方角が書いてあります。国の大きさも、書いてあるのは、壱岐と対馬だけです。
陳寿は、一大国を正確に書きたく無かったのではと推察しました。いつか、その推察が正しいかどうか考えたく思います。
               
⑤ 「有千餘戸、世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐」
  この記述は、重大です。
伊都國にいたって、初めて、「世有王」とあり、王が居ることになっています。しかし、実質的には、「皆統屬女王國」とあり、女王国が支配しているとあり、「郡使往來常所駐」
とあり、中国(帯方郡)の使いが来て、駐在するところだと書いてあります。中国の支配力も一部あるということです。

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2005.03.26

イザナギの墓 その3

No60
No59の航空写真をご覧ください。海岸線に対して、直角ではなく、少し角度があります。少し、東に行きますと、2号線より海に突き出た地所があります。もっと東に行きまして、神戸を過ぎますと、国道2号線と43号線が海岸に平行して走っています。両国道が交わるところが「味泥」という地名です。湿地帯で泥状になっていたと思われます。ここに、敏馬神社が高台にあります。五色塚古墳と同じくらいの高さがありますから、境内の近くまで水面がきていたと思われます。ここの海岸線から2号線までは、結構距離があり、ずっと、傾斜があります。3000年ほど前は、2号線の近くまで海であったと思われます。
義経で有名なヒヨドリ超えの北に高尾山があります。淡路島の多賀に、伊弉諾神社ガ有ります。この二点を結んだ線上に、五色塚古墳があります。古墳の縦の軸は、この線と同じ方向です。これほど、ビタリとなっているものを偶然で済ませるのは、正しくないと思います。此処だけであれば、偶然でよいですが、前に述べました高尾山はすべての場所と関連があります。滋賀県の多賀も同様のことが言えます。
仮に、五色塚古墳がイザナギの墓ということになりますと、困ります。イザナギが200年生きていたとしても、お墓は一世紀の初めとなります。
全国に、170m以上の前方後円墳は50を越えますが、五色塚古墳は大きい方から39番目になります。ものの考え方としては、初めは小さいものが作られ、次第に大きいものが作られるようになった考えます。初めに、大仙陵古墳が作られ、次第に小さい古墳になったと言えば誰も信用しないでしょう。
前方後円墳に類する古墳が作られるようになるのが、3~7世紀と言われています。
普通に考えますと、小さい古墳は初期、競い合って次第に大きくなって、費用がかかり過ぎて、次第に小さくなっていくと考えますと、五色塚古墳のように大きい古墳は、真ん中の4~5世紀と言っておけば間違いありません。
五色塚古墳には石棺が無いとしますと、墓を後日に作りなおしたと考えられます。しかし、私は紀元後一世紀でも、中山大国の人であれば、可能であったと思います。山を円錐状にするのはお手のものでしたし、測量も得意であったと思われます。文化は、次第に発展していったと思われていますが、そうとは限りません。高度な文化があったが、急激に衰退した例は、一杯あります。ペルーのナスカの地上絵というのがあります。単純な線画があるだけですが、あまりにも巨大であるため、誰がなんのために書いたか判っていません。どう考えても、あの絵の上を飛んだ人がいたと考えるしかありません。大きな凧を作って飛んだのであろう辺りが現実的ですが、命をかけてどうしてしなければならなかったと考えると、やはり、安全に空を飛ぶ技術があったとしても悪くはありません。こうなると映画の世界ですが、前方後円墳は、初めにどんと大きなものが出来たといっても良いとなりますと、古墳時代の謎は減るし、楽しくなります。
かくして、五色塚古墳はイザナギの墓であるの結論が導かれます。

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2005.03.25

神の世界の貧富

20・21日の連休に、京都府加悦町・野田川町・岩滝を訪れ、宮津市にて一泊。丹後歴史資料館・国分寺跡にて、暫し強い春風に吹かれながら、阿蘇海を遠望し、2000年前のことをいろいろ想像し、一時を過ごしました。
加悦町・野田川町の訪問の一番の目的は、両町にある古墳の実態を調べるためです。お隣の綾部市、福知山市には、発掘された古墳が多いように思うからです。ただ多いだけではなく、桁違いに多いと思います。それがどうしたのだと言われそうですが、多いということは、普通に亡くなられたのではなく、戦争が頻繁に行われたと考えました。
加悦町は、高台に立つと見渡せるほどの広さに、250個の墳墓があります。野田川町は、よく分かりませんが、看板を目当てに郷土資料館を探しもとめましたら、入ったところに倭文神社の祭礼の案内の大きなパンフレットが貼ってあり、ああ、この町は、昔は絹で栄えたのだなと嬉しくなりました。資料館におられた二人の方とお喋りをしていましたが、養蚕の話は、全くご存知ありませんでした。しかし、資料館に展示されているものは、絹を織る道具が大半で、京都西陣の織物を引き受けていたことを証明していました。町民である年配の男性の方は、元気の無くなった織物の町を嘆き、1200年祭を迎える倭文神社も、ええ加減なことで、勝手にだれかが言っているだけだろうなどと、少々やけっぱちに話しておられましたが、「そんなことありませんよ。1200年どころか、間違いなく、2000年前でも、この地は絹の産地、又は集積所だったのですよ」と言いましたら、「そんな話、始めて聞いたな」と、何度も繰り返されて明るい顔をされました。
資料館の直ぐ近くの大きな森が、倭文神社ですので、寄ってみました。加悦町と野田川町は、今はでこそ、別の町ですが、1200年前は、一つの村だったと思います。豊かであった証拠に、大きな蛭子山古墳と白米山古墳問いう前方後円墳があります。
倭文神社は、落ち着きのあるどっしりとした神社でしたが、一人もいないためばかりではなく、何故か、ここには神様がおられましたが、住民が離れていくような感じを受けました。
翌日、天橋立の付け根に当たるところにある籠神社(コノジンジャ)を訪れました。こちらの立派さには驚かされました。金ぴかの神社です。こちらは元伊勢と呼ばれ、伊勢神宮が、現在の伊勢の地に作られる前に、天照大神を祭っていたと言われている式内社です。祭神は、彦火明命です。誰か知っている人は、少ないと思います。なのに、お参りされる人は多いらしく、駐車場の入り口には、三人の係りの方がおられて、600円を支払うことになりました。境内と同じぐらいかと思えるほどの駐車場は、それだけの参拝者があるから作ってあるのでしょう。10分ほどで参拝は終わりましたが、600円は高いなと思ったのは、私だけでしょうか? 籠神社奥宮真名井神社にも足を伸ばしましたが、昨年の23号の台風の被害を受けた山のなかに、こちらも神の名前を書いた立派な標柱が立てられ、こちらは人の存在はなく、神の存在が、薄いように感じられました。
予定を変更して、丹後半島を周り、京都府京丹後市丹後町宮小字宮谷の竹野神社(タカノ)に行きました。驚いたことに、入り口の右に、「竹野神社」、左には、「斎宮神社」と表示がありました。竹野神社の祭神は、天照皇大神です。相殿の斎宮神社の祭神は、垂仁天皇に仕えた竹野媛てす。 こんなことを言ったら、村の人に叱られるかも知れませんが、この神社には、人も神もおられない感じがしました。
隣にある神明山古墳は、前方後円墳で蛭子山古墳より巨大なものです。この古墳の上から、日本海を眺めていますと、当時は、海が古墳の真下まで来て居り、潟を形成し、ここの住民は大陸と貿易をし、冨を蓄えていたのではと考えました。太陽の光はポカポカ暖かいのに、春の風は冷たく、早々に降りました。こちらが、本当の元伊勢ではないかと思いながら、何故か悲しい思いでいっぱいでした。
宗教法人に、税金を使うのはいけないらしいですが、悲しい思いでいっぱいになる神社はどんどん増えています。
間違いははやく正さないと取り返しの付かないことになります。公金で、神社を維持する必要があります。                      H17.03.25

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2005.03.24

魏志倭人伝---至對馬國

No5
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里始度一海、千餘里至對馬國

翻訳  郡より倭に至るには、海岸に循(シタガ)って水行し、韓國を歴(ヘ)て、乍(アルイ)は南し乍(アルイ)東し、その北岸狗邪韓国に到る七千余里、始めて一海を度(ワタ)る千余里、對馬國に至(イタ)る。

この文章で感じたことを書きます。この文章で2回目です。一回目も二回目も掲載した原文は僅かです。こんな少ない漢字の文に、私の知らない漢字があります。読むことも出来るのですが、自分の知っている知識で解釈しようとすると意味が通じないのです。「從郡至倭」の部分では、「郡」はNo4にありました帯方郡の郡です。「至」は到達するの至でしょうが、それなら、「到」と書いてあるはずです。至=到かどうか確認する必要があります。 「倭」は、No2 で調べました。古代における日本の呼称です。「從」は、「従」の古い字です。意味は従うです。辞書を引きましたら、〔意読〕と書いてあり、そこに「より」があります。
魏志倭人伝は中国の正史です。しかも、晋の時代に書かれたものです。同じ漢字でも時代によって意味が異なるかもしれません。「從」という字が、中国では、どのような使い方をしているか、他の文章で確認する必要があります。
そのようなことは、素人の私に出来るわけがありません。それでは、魏志倭人伝を読むことは、中止しなければなりません。それも嫌ですから、私のへ理屈を並べて、誰がケチをつけようがわが道を行くということにします。

正確に読もうとしますと、五月蝿いようですが、中国ではどのように読んだかが基準になります。

① 從郡至倭---曹操の言葉に、「憂従中来」という言葉があります。「憂い、中ヨリ来タル」と読むようです。従うの後ろに来た文字(中)が、従はより・からの意味になり、その後ろにあるものは、起点を表しています。中国では、従を「より」の意味で使っていたことが判ります。
② 循海岸水行--「循牆而走」--牆(カキ)に循りて走る(左伝)  「そう」と読みます。沿うと同じ。
    水行は、水上をゆくこと。水の流れ行くこと。
   よって、海岸に沿って水行するとの訳になります。
③ 歴韓國---「歴」は、漢字源には、レキ(漢)・リャク(呉)があり、〔意読〕へる と記載されています。元は軍行においてすぎる、軍の行歴とするところ。すぎる。経験する。えらぶ。ならべる。まばら。熟語には、歴階、歴観、歴険、歴史、歴試、歴事、歴代、歴任、歴歴など。雰囲気としては、ひとつひとつとか、ずっと、てんてんと続いているような意味で使われています。
「へて」という漢字は、「経」と書きますが、こちらは、まっすぐ、通過するときに使い、「歴」は、あっちこっち曲がりながらとか、てんてんと寄り道しながら通過するときに使うようです。漢字の止まるの部分は、足を表し、郡の関係する漢字です。
④ 乍南乍東、到其北岸狗邪韓國---③の「歴」の意味が、テンテンと移動、そして、乍南乍東で、南へいったり、東へ行ったりして、狗邪韓國に到達したのでしょう。 魏志伝の韓伝に、韓国は、西と東は海に接していて、南は倭に接していると書いてあります。海岸に沿って移動しますと、韓国だけでなく、倭も通過することになりますから、韓国のの陸地を通過したのでしょうか。しかし、それでは、途中で韓国に上陸して、何度も南へ行ったり東へ行くことは、地図の上ではいけますが、実際に道を歩きますと、北に逆戻りしたり、西へも行くことになるでしょう。韓国が支配下にあるのであれば、通過できますが、そうでなければ、襲われるでしょう。その上、狗邪韓國でまた、船を調達しなければなりません。あちこちの港に寄りながら、南に行って、次は東へ行って狗邪韓國に到達すると解釈するのが無難のようです。
⑤ 七千餘里--帯方郡から狗邪韓國までが七千餘里です。
⑥ 始度一海、千餘里至對馬國--「度」は渡ると使うようです。海を渡って、千餘里進むと對馬國に至る。 

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2005.03.23

イザナギの墓 その2

2
左上が明石海峡です。海岸から少し入ったところに国道2号線。その右に、電車が2本走っています。国道2号線と電車には、2mほどの段差がありますから、昔は国道のところは海だったと思われます。墳墓は大きすぎて、後円部しかカメラに収まりません。
この大きい天皇級の墳墓が誰の墓か判っていません。兵庫県では最大の前方後円墳です。神戸市は、10億円もかけて、築造当時の姿に復元しました。誰の墳墓かわからないから可能になったことです。写真に写っていませんが、10cm大の丸い川原石が、葺きつめられています。その数、2233500個と推察されています。是ぐらい大きい古墳ですと、多くは宮内庁の管理下にあって、元の姿に復元などとんでもありません。墓の上に登ることすらできませんが、ここは登ることが出来ます。写真が小さいので、見えませんが、2200個の埴輪が並べられています。墳丘は三段に作られていまして、各段の境に並べてあります。頂上は円形になっていますが、その周囲に埴輪があります。
 No57をもう一度見てください。出土品が僅かしかありません。詳しい発掘状況はわかりませんが、概要を記した冊子には、石室が発見されたとは書いてありません。石室は、有るかも知れませんし、無いかも知れません。どうして、築造が4~5世紀と決定されたか判りませんが、大型の前方後円墳は、この頃が大部分だから、そのようにされたのかも知れません。ある本に、ここから14個の銅鐸が出土したと書かれていましたが、神戸市発行の冊子には、書かれていません。銅鐸はあったが、紛失してしまったのか、初めから無かったのか知る術がありません。
 さて、話題は全く別のものになります。
日本書紀に、仲哀天皇の死に際し、カゴ坂王・忍熊王が謀りごとをしたという記事があります。『新羅を討たれた翌年二月、皇后は群卿百寮を率いて、穴門の豊浦宮に移られた。天皇の遺骸をおさめて海路より京に向かわれた。そのときにカゴ坂王・忍熊王(仲哀天皇の御子)は、天皇は亡くなられたし、皇后は新羅を討たれ、皇子が新たに生まれられたと聞き、密かに謀っていうのに、「いま皇后は子があり、群臣は皆従っている。きっと共に議って幼い王を立てるだろう。吾らは兄であるのに、どうして弟に従うことができようか」と。そこで偽って天皇の為に陵を造るまねをして、播磨に行き山陵を明石に立てることとし、船団をつくって淡路島にわたし、その島の石を運んだ。人毎に武器を取らせて皇后を待った。』と。
仲哀天皇の墓ですから、大きさから見て不足はありません。又、明石とありますから、これ以外にはありません。カゴ坂王・忍熊王の反逆のことは、古事記にも書かれていますが、古墳を築いたとはかいてありません。その作戦の一つとして、五色塚古墳をつくると称して、カムフラージュに利用したとすると、本当のお墓で無いから、出土品が無いのは、うなづけます。意外と本当の話かもしれません。古事記は、天皇家の醜い争いのことは書きたく無かったのかもしれません。真実はわかりませんが、仲哀天皇の墓と言われているものは、大阪府藤井寺市に存在します。何分、カムフラージュですませるような大きさのものではありません。
 古事記のむこうを張って、日本書紀の作者は作り話をかいたのではないでしょうか。
そうだとしますと、この墳墓はなんだとなります。仲哀天皇のおられたのはいつか判りませんが、350~390年頃となっています。日本書紀が出来たのは、720年ですから、この時には、すでに、五色塚古墳は存在したが、全く誰の古墳か判らなかったと思われます。日本書紀は、その後、神功皇后は明石を通らずに難を避けて、和歌山の方へ廻りますが、船がぐるぐる廻って進めなくなりましたので、武庫の港へ行って占いますと、天照大神が教えていわれるのに、「わが荒魂を皇后の近くに置くのは良くない。広田国(摂津国広田神社の地に置くのがよい」と。山背根子の女、葉山媛に祭らせた。また稚日女尊(天照大神の妹)が教えていわれるのに、「自分は活田長峡国(摂津国生田神社)に居りたい」と。それで海上五十狭茅に祭らせた。また事代主命が教えていわれるのに、「自分を長田国(摂津国長田神社の地)に一祠るように」と。葉山媛の妹の長媛に祭らせた。表筒男・中筒男・底筒男の三神が教えていわれるのに、「わが和魂を大津の渟名倉の長峡に居さしむべきである。そうすれば往来する船を見守ることもできる」と。そこで神の教えのままに鎮座し頂いた。それで平穏に海をわたることができるようになった。
 と記し、広田神社、生田神社、長田神社、住吉神社の誕生の経緯を述べています。

うらを返せば、広田神社、生田神社、長田神社、住吉神社は、720年には存在していましたが、どのような縁起があるのかわからなかったのだと思われます。何もかも、一気に解決なるように、日本書紀の作者は、この物語を作ったと思われます。
肝心のイザナギの墓のことは、一言も述べずで、紙面を費やしましたので、次回にします。 

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2005.03.22

閑話休題-2 不老長寿の国 日本

No58
紀元前200年頃、秦の始皇帝は、宇宙からでも見える万里の長城を築き、攻める者がいなくなるほど、大きな帝国を築きました。そして、死後の世界であるお墓には、実物大の兵士である八千からなる兵馬俑を初めとし、いろいろの物に囲まれて生活できるように準備をしました。そのような所に住むよりも不老長寿を考えるようになり、徐福という人に、不老長寿の薬を探し求めるように命令しました。日本の各地に徐福が来たというこの話は、伝説として残っていますが、中国では本当の話として残っています。

「漢書」伍被伝に「 徐福をして海に入り、仙薬を求めしむ。多く珍宝・童男女三千人、 五種・百工を薺して行かしむ。徐福は平原大沢を得、止まりて王となりて来らず」とあります。始皇帝は、三神山の一つである蓬莱が、東海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされる霊山にあると考えていたようです。それは、日本・台湾あたりを考えていたのかもしれません。
 私が気になるのは、徐福のことではありません。始皇帝がどうして、日本あたりに、不老長寿の国があることを知ったかです。簡単です。日本へ行って見て来た人がいたからです。確かだと思ったから、「多く珍宝・童男女三千人、 五種・百工を薺して行かしむ」となったと思います。
神武天皇は127歳。孝昭天皇は、114歳。孝安天皇は、137歳。此のあたりは欠史時代と呼ばれ、こんなに長生きは馬鹿げていますから、作り話と言うことになっています。崇神天皇120歳。垂仁天皇は140歳。すべて、日本書紀から数値です。
この時代も実際に無かったとなりますと、ずっと、作り話だとなりますから、辻褄を合わせるために、いろいろの説が披露されています。一番ひどい例は、此の頃の日本は、春夏秋冬で一年であることを知らないので、春の収穫で一年、秋の収穫で又、一年、都合、外国の一年を二年だと思っていたというのもあります。
日本だけではありません。何処まで正しいか判りませんが、百済の古爾王は120歳。
新羅の逸聖尼師今は100余歳。高句麗の太祖大王は119歳。駕洛国の首露王葉158歳となっています。これは極一部です。
辻褄あわせで、年数を調整したと考えるのもいいですが、本当に長生きしたと考えるのも悪くありません。日本人は長生きと思ったということは、中国は調べていませんが、これほど長く生きなかったのでしょう。
 理由はいろいろあると思います。魏志倭人伝に書かれている日本には、武器らしいものがありません。紀元前200年頃は、戦争もしないで平和に過ごしていたのでしょう。
最大の長生きの源かも知れません。連戦と長城築きは国中にストレスを生じせしめ、発生した活性酸素は、あらゆる病気を増加させたのではと思います。
 そこで、イザナギ、イザナミ、天照大神、スサノオなどの渡来人の訪問ラッシュとなりました。

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2005.03.19

イザナギのお墓

No57
イザナミのお墓は何処にあったか覚えておられますか。比婆山です。イザナギのお墓もありますが、どこにも書かれていません。イザナギは近江八幡の白王に行きました。その隙を狙ってスサノオが天照大神を襲撃し、失敗して天高原から追い出されます。
イザナギはこれから後、古事記にはでてきません。イザナギは中山王国からやってきましたと書いてきましたが、納得できない方が多いと思います。あまり、拘っていますと、古事記から離れますので、最後に、「イザナギのお墓」を書いて終わりにします。

イザナギの一族は、日本に上陸してからは、どんどん発展していく過程において、目印の山には、例えば高尾山というような名前をつけました。ただ、付けるだけではなく、山の形を成形して二等辺三角形になるようにしました。誰がみても直ぐ判る様にです。
蒜山の御所と思われる日留宮を基準にすると、その他の位置は、常に東西南北に位置するような所を定めています。そんな馬鹿なことは無いと思われる方はおられるでしょうが、彼らにすれば、山を削って成形することぐらい、難しいことではなかったようです。その上、通信システムが完備していたと思われます。

土木工事が得意であった一例として、イザナギのお墓をみて頂ければと思います。

お墓の位置は、神戸市垂水区にあります。直ぐ近くに明石大橋がかかっていまして、少し神戸よりです。現在、五色塚古墳と呼ばれています。はじめは、現在のように大きなものでなく小さなものであったかも知れません。神戸市教育委員会の発表では、4~5世紀の古墳となっています。
概要を記します。
【墳丘の大きさ】
 五色塚古墳は,墳丘の全長194m,兵庫県下最大の前方後円墳で,墳丘は3段に築かれている。各段の斜面には葺石が葺かれ,墳頂と各段のテラスには埴輪がたて並べられ,墳丘の周囲には,空濠がめぐらされている。
  墳丘の各部分の寸法は、下記の表の通りです。 単位メートル
         
五色塚 全長 後円部径 くびれ部幅 前方部幅
上段 150 72 18 34
中段 170 100 37 53
下段 190 125 66 81


【出土品】
    鰭付円筒埴輪、朝顔形円筒埴輪、蓋形埴輪、------墳頂・上段テラス・中段テラス。
    子持勾玉4例。----------西くびれ部上段テラスで出土。
    土師器の壺、高杯。------後円部頂上。
    軟質の碧玉製合子片。----後円部頂上。
    須恵器杯。--------------東くびれ部下段の斜面から。
    鉄斧-------------------下段と東マウンドから出土。
    
    出土品は、円筒埴輪は、全体で約2200本と膨大であるのと、その他の出土品が極端に少ないことが、五色塚古墳の特徴である。 埴輪の出土状態は別に記します。

【葺き石】 この古墳の最大の特徴は、葺石が表面に出ていることです。先に葺石のことを記します。3段に築かれた墳丘の斜面を葺いてあります。
 
〔葺石のおおきさ〕下段は径5~10cm程度の円礫。
          上・中段は径15~30cm程度の円礫。
〔葺石の石質〕  下段は、層古生系のチャート、硅石などが最も多く、若干の砂岩、流紋岩、花崗岩系の礫やまれに硅化木の礫も含まれている。
          上・中段は花崗岩閃緑岩が最も多く、黒雲母花崗岩、サヌカイトも若干含まれる。
〔葺石の産地〕  下段の石は、垂水礫層中の礫の組成と一致する。付近の海岸・河川と思われる。
         上段・中段の葺石の産地は、まだ確実な地域を突き止めていないが、と断りながら、地質学的には、淡路島が有力であるらしい。
         それに加えて、『日本書紀』神功皇后摂政元年春二月の条には、
〔葺石の数・重量〕古墳全体で2233500個・2784トンと記されているが、復元に際し、数えられた わけではない。
         その根拠が概要に記されている。数地点において、1平方m当りの個数を計測。上段平均70個・220kg、中段70個・220kg、下段240個・80kgに達することが判明し、計算上の数値である。
         (数量的には、不足したであろうが、どこから持ってきた石で、何割ぐらいあり、その石はどの部分の修復に使われたかは記されていない)
是だけでは、ただの前方後円墳です。では、何故、イザナギの墓と言えるのかは、次回にします。

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2005.03.17

イザナギのお墓

No57
イザナミのお墓は何処にあったか覚えておられますか。比婆山です。イザナギのお墓もありますが、どこにも書かれていません。イザナギは近江八幡の白王に行きました。その隙を狙ってスサノオが天照大神を襲撃し、失敗して天高原から追い出されます。
イザナギはこれから後、古事記にはでてきません。イザナギは中山王国からやってきましたと書いてきましたが、納得できない方が多いと思います。あまり、拘っていますと、古事記から離れますので、最後に、「イザナギのお墓」を書いて終わりにします。

イザナギの一族は、日本に上陸してからは、どんどん発展していく過程において、目印の山には、例えば高尾山というような名前をつけました。ただ、付けるだけではなく、山の形を成形して二等辺三角形になるようにしました。誰がみても直ぐ判る様にです。
蒜山の御所と思われる日留宮を基準にすると、その他の位置は、常に東西南北に位置するような所を定めています。そんな馬鹿なことは無いと思われる方はおられるでしょうが、彼らにすれば、山を削って成形することぐらい、難しいことではなかったようです。その上、通信システムが完備していたと思われます。

土木工事が得意であった一例として、イザナギのお墓をみて頂ければと思います。

お墓の位置は、神戸市垂水区にあります。直ぐ近くに明石大橋がかかっていまして、少し神戸よりです。現在、五色塚古墳と呼ばれています。はじめは、現在のように大きなものでなく小さなものであったかも知れません。神戸市教育委員会の発表では、4~5世紀の古墳となっています。
概要を記します。
【墳丘の大きさ】
 五色塚古墳は,墳丘の全長194m,兵庫県下最大の前方後円墳で,墳丘は3段に築かれている。各段の斜面には葺石が葺かれ,墳頂と各段のテラスには埴輪がたて並べられ,墳丘の周囲には,空濠がめぐらされている。
  墳丘の各部分の寸法は、下記の表の通りです。 単位メートル
         
五色塚 全長 後円部径 くびれ部幅 前方部幅
上段 150 72 18 34
中段 170 100 37 53
下段 190 125 66 81


【出土品】
    鰭付円筒埴輪、朝顔形円筒埴輪、蓋形埴輪、------墳頂・上段テラス・中段テラス。
    子持勾玉4例。----------西くびれ部上段テラスで出土。
    土師器の壺、高杯。------後円部頂上。
    軟質の碧玉製合子片。----後円部頂上。
    須恵器杯。--------------東くびれ部下段の斜面から。
    鉄斧-------------------下段と東マウンドから出土。
    
    出土品は、円筒埴輪は、全体で約2200本と膨大であるのと、その他の出土品が極端に少ないことが、五色塚古墳の特徴である。 埴輪の出土状態は別に記します。

【葺き石】 この古墳の最大の特徴は、葺石が表面に出ていることです。先に葺石のことを記します。3段に築かれた墳丘の斜面を葺いてあります。
 
〔葺石のおおきさ〕下段は径5~10cm程度の円礫。
          上・中段は径15~30cm程度の円礫。
〔葺石の石質〕  下段は、層古生系のチャート、硅石などが最も多く、若干の砂岩、流紋岩、花崗岩系の礫やまれに硅化木の礫も含まれている。
          上・中段は花崗岩閃緑岩が最も多く、黒雲母花崗岩、サヌカイトも若干含まれる。
〔葺石の産地〕  下段の石は、垂水礫層中の礫の組成と一致する。付近の海岸・河川と思われる。
         上段・中段の葺石の産地は、まだ確実な地域を突き止めていないが、と断りながら、地質学的には、淡路島が有力であるらしい。
         それに加えて、『日本書紀』神功皇后摂政元年春二月の条には、
〔葺石の数・重量〕古墳全体で2233500個・2784トンと記されているが、復元に際し、数えられた わけではない。
         その根拠が概要に記されている。数地点において、1平方m当りの個数を計測。上段平均70個・220kg、中段70個・220kg、下段240個・80kgに達することが判明し、計算上の数値である。
         (数量的には、不足したであろうが、どこから持ってきた石で、何割ぐらいあり、その石はどの部分の修復に使われたかは記されていない)
是だけでは、ただの前方後円墳です。では、何故、イザナギの墓と言えるのかは、次回にします。

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2005.03.15

天照大神、天の岩屋戸に避難 その2 

No56
続きです。
於是天照大御神以爲怪。細開天石屋戸而内告者。因吾隱坐而以爲天原自闇。亦葦原中國皆闇矣。何由以天宇受賣者。爲樂。亦八百萬神諸咲。
爾天宇受賣。白言。益汝命而貴神坐故。歡喜咲樂。如此言之間。天兒屋命、布刀玉命指出其鏡。示奉天照大御神之時。天照大御神逾思奇而。稍自戸出而。臨坐之時。其所隱立之天手力男神。取其御手引出。
即布刀玉命。以尻久米【此二字以音】繩控度其御後方。白言。從此以内不得還入。故天照大御神出坐之時。高天原及葦原中國自得照明。
於是八百萬神共議而。於速須佐之男命。負千位置戸。亦切鬚。及手足爪令拔而。神夜良比夜良比岐。
私の訳を続けます。
 是に於いて天照大御神は怪しく思って、天石屋戸を細く開けて内から告げられますには、「吾が隱れ坐(マ)して因(ヨ)り、天の原は、自(オノヅカ)ら闇(クラ)くなっていました。また、葦原中國もまた、皆な闇くなっていましたと思っていたのに、何に由(ユ)え以(モ)って、天宇受賣は、樂しく為(シ)、また、八百萬神も諸(モロモロ)咲(ワラ)っているのか」と。
そこで天宇受賣が白(モウ)して言われるには、「汝の命に益(マ)して貴(トウト)き神が坐ます。だから、歡喜して咲って樂しんでいます」 此の如く言っている間に、天兒屋命と布刀玉命が其の鏡を指(サ)し出して、天照大御神に示し奉(タ)てまつると、天照大御神は逾(イヨイヨ)奇(アヤ)しいと思って、そっと、戸自(ヨリ) 出(イ)でて、臨(ノ)ぞみ坐(マ)す時、其所(ソコ)で隱れ立っていた天手力男神が、其の御手を取りて引き出しました。
即(スグニ)  布刀玉命が尻久米(シリクメ)繩を以(モ)って、其の御後(オンウシロ)の方に度(ワタ)し控えて、申されて言われるには、「此より以内に還(モド)って入ってはいけませんぞ」そこで、天照大御神が出で坐すと、高天原及び葦原中國は自然と照り明るくなりました。
是に於いて、八百萬神は共に議(ハカリ)て、速須佐之男命に千位の置戸を負わせ、又、鬚を切り、手足の爪を拔くように命令し、神夜良比(カムヤラヒ)夜良比岐(カムヤラヒキ)。

① 千位の置戸の意味がわかりません。
② 尻久米繩は注連縄のようなものです。注連縄を垂らして範囲を示したようです。
③ 神夜良比は、神の社会からの追放。
天の岩屋戸は、蒜山高原の岩倉山の中腹にあります。岩倉山は元々、磐座山であったのでしょう。その麓に茅部神社がありますが、天照御大神が、天磐座大明神として祭られています。
中蒜山の中腹にある日留宮(御所)と天岩屋戸を結んだ直線上に神社はありますが、その入り口に日本一の石造の鳥居があり、日留宮に向かって650メートルの桜並木があります。日留宮の真南に城山(天香山)があり、城山と天の岩屋戸は同緯度にあります。 すべて実在の地名です。 天の岩屋戸へ行きましたが、途中でダウンし、確認できませんでした。

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2005.03.13

天照大神、天の岩屋戸に避難

No55
少し長いですので、二つに分けてみます。それでも、長いので、覚悟を決めて読んでみたいと思います。
故於是天照大御神見畏。閇天石屋戸而。刺許母理【此三字以音】坐也。爾高天原皆暗。葦原中國悉闇。因此而常夜往。於是萬神之聲者狹蝿那須【此二字以音】皆滿。萬妖悉發。
是以八百萬神於天安之河原。神集集而【訓集云都度比】高御産巣日神之子。思金神。令思訓金云加海尼】而。
集常世長鳴鳥。令鳴而。
取天安河之河上之天堅石。取天金山之鐵而。求鍛人天津麻羅而【麻羅二字以音】科伊斯許理度賣命【自伊以六字以音】令作鏡。
科玉祖命。令作八尺勾〓之五百津之御須麻流之珠而。
召天兒屋命、布刀玉命【布刀二字以音。下效此】而。内拔天香山之眞男鹿之肩拔而。取天香山之天之波波迦【此二字以音木名】而。令占合麻迦那波而【自麻下四字以音】天香山之五百津眞賢木矣。根許士爾許士而【自許下五字以音】
於上枝。取著八尺勾〓之五百津之御須麻流之玉。於中枝取繋八尺鏡【訓八尺云八阿多】於下枝取垂白丹寸手青丹寸手而【訓垂云志殿】此種種物者。布刀玉命布刀御幣登取持而。天兒屋命布刀詔戸言祷白而。天手力男神。隱立戸掖而。天宇受賣命。手次繋天香山之天之日影而。爲鬘天之眞拆而。手草結天香山之小竹葉而【訓小竹云佐佐】於天之石屋戸伏汚氣【此二字以音】而。蹈登杼呂許志【此五字以音】爲神懸而。掛出胸乳。裳緒忍垂於番登也。爾高天原動而。八百萬神共咲。
 長いことに加えて、私の下手な翻訳となります。
是に於いて天照大御神は、畏れて判断するに、天の石屋を閉じて、籠もられました。そうしますと、高天原皆暗くなり、葦原中國も悉く、闇となりました。此のことに因(ヨ)りて、夜ばかりになりました。是に於いて萬(ヨロズ)の神の聲は、狹蝿(サハエ)成すよう、そこら中、滿ちあふれました。萬(ヨロズ)の妖(ワザワイ)が、悉く發生しました。
是を以って、八百萬神は、天の安の河原に、神集い集って、高御産巣日(タカヒムスヒ)神之子と思金神(オモヒカネノカミ)に、考えるように命じました。
常世の国の長く鳴く鳥を集めて鳴かせた。
天の安河の河上にある天堅石を取ってきて、天の金山の鐵を取ってきて、鍛人天津麻羅(カネノアマツマラ)を探し求めて、伊斯許理度賣命(イシコリドメノミコト)に鏡を作るように命令しました。
玉祖命(タマノヤノミコト)に科して、八尺の勾たまの五百津(イホツ)の御須麻流(ミスマル)の珠を作るように命令した。
天兒屋命(アメノコヤネノミコト)と布刀玉命(フトダマノミコト)を呼んで、天の香山(カクセヤマ)の眞男鹿(マオシカ)の肩を内抜いて抜いて天の香山の天の波波迦(ハハカを) 取って、占らないなかなはしめて、天の香山の五百津眞賢木(イホツマサカキ)を 根許士爾(ネコジニ)許士而(コジテ)、
上の枝に、取著八尺の勾たまの五百津の御須麻流の玉を取り著(ツ)けて、中の枝には、八尺鏡を取り懸け、下の枝には、白丹寸手(シラニキテ)、青丹寸手(アオニキテ)を取り垂でて、此の種種(クサグサ)の物は、布刀玉命が布刀(フト)御幣登(ミテグラト)取り持ちて、天兒屋命は、布刀(フト)詔戸(ノリト)言祷(ゴトホキ)白(モウシ)て、天手力男神は、立戸の掖(ワキ)に、立ち隱れて、天宇受賣命(アメノウヅメノミコト)は、天の香山の天の日影を手次(タスキ)に繋(カ)けて、爲鬘天の眞拆(マサキ)を鬘と為(ナ)して、天の香山の小竹(ササ)の葉を手草に結んで、天の石屋戸(イワヤト)に汚氣(ウケ)伏せて、蹈登杼呂許志(フミトドロコシ)て、神懸(カミガカリ)して、胸乳(ムナチチ)を掛け出して、裳緒(モヒモ)を番登(ホト)に忍(オ)し垂らしました。そこで、高天原が動くほどに、八百萬神共が咲(ワラ)いました。

最近、原文を読むのは無理だとの声が多くなりました。出来るだけ、原文に残っている漢字を使い、意味が通じるように訳してみました。訳のみ読まれた方は、最後にもう一度挑戦していただければと思います。細かいことは、止めにして、流れをもう一度辿ってみようと思います。
出場した神の名前を並べてみます。
① 高御産巣日(タカヒムスヒ)神之子と思金神(オモヒカネノカミ)--此の二人は、頭脳がよいと思われる神です。そこで、長く鳴く鳥を集めて鳴かせた。昔は鶏の声で目覚めたようです。頭が良い割には、大した考えともおもえません。
② 鍛人天津麻羅に鉄を作らせ。
③ 伊斯許理度賣命に鏡を作らせる。
④ 玉祖命には御須麻流(ミスマル)の珠を作らせた。
⑤ 天兒屋命に占いさせ祝詞をあげさせる。
⑥ 布刀玉命に布刀御幣を持たせる。
⑦ 天手力男神は戸の傍に立たせる。
⑧ 天宇受賣命は神懸りして、裸でおどる。
   天の岩屋戸事件は、高天原でおこった事件です。上に書きました神さんは、ヒルゼン高原の近くに住んでいた神と思われます。現在でも、近くの神社で祭られています。
鍛人天津麻羅--吉瀧神社(気高郡勝部村楠根) 少し遠くから求めました。金山という地名がヒルゼンの少しにしにあります
天兒屋根命—---茅部神社(真庭郡川上村西茅部)・徳山神社(真庭郡川上村徳山)
          茅部の近くに祝詞という村があります。ここに祝詞神社があり、この神社の祭神です。現在は茅部神社に合祀されています。
天手力男神--- 徳山神社(真庭郡川上村徳山)・大津神社(久世町)
天宇受賣命--- 建部神社(真庭郡二川村藤森)
伊斯許理度賣命-中山神社(津山市)
布刀玉命---天太玉命の名前で宗形神社(西伯郡成実村)に。
稗田阿礼は、ヒルゼン高原を歩き、祀られている神を収集し、神話を作ったと思われます。

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2005.03.12

がんばれ ライブドア その5

「新株」差し止め の請求が認められた。
どちらが勝っても、日本の行く末には、大した問題ではなかったが、裁判所が、正しく判断しないようでは、日本はお終いだなと考えていました。7割ぐらいの割合で、フジテレビが勝つと思っていましたが、首相のコメントを聞いていますと、政府は加担しなかったことがわかります。

今日のテレビは面白いですね。どの局も関連番組を組んでいました。年配の人の意見として、堀江さんは、どのようにテレビ界に協力していくのか、はっきりといわないのが良くありません。これからも具体的に発表するべきです。とコメントしていました。この世界は、今までのように、具体的なものは、提示することは出来ません。全て、頭の中にあるものです。堀江さんもある程度は描いているでしょうが、どんどん変っていくものです。
頭に描いているものを理解など出来ません。具体的に、提示しますと、「そんなことは、当社では、前から考えていたことです」と言います。アイディア商品を考案したら、特許を取らないとアイディアだけでは、お話になりません。

コンピューターの能力が高まってきましたから、此れまでの価値観では、世の中についていけません。
それ故に、裁判は、堀江さんにとっては、不利だと思いましたが、どこまで理解されたか判りませんが、裁判結果は、日本を救うものになると思います。

テレビのコメンテーターで、堀江さんに応援するような発言をしたのは、一番の高齢者の元蔵相の塩川さんだけですから、驚きです。そりゃそうでしょう。 フジテレビに加担しない発言をして、今後、フジテレビから声がかかると思う人はいません。
誰でも、損得で考えていいと思います。

正しいことは、なにかは いつも後になってしか判りません。
ライブドアが正しかったかどうかも 勿論わかりません。 

人間、顔がよくないのはあきません。

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2005.03.11

スサノオ 大暴れ  その2

No54
②「離天照大御神之營田之阿」の部分の「離」の漢字が問題です。「阿」は意味がなく、音だけと注がありますから、「ア」です。「阿」を訳本は、田の畔と解釈しておられます。漢和辞典には、意読として、1.おか 2.くま 3.おもねる とあります。 1のおかが畔に当てはまりますが、ここは音だけですから、「ア」です。營田の「ア」とは、仮に畔としても、日本語になかったことになります。稲田を伝えた人も「ア」と言っていましたが、漢字もなかったのでしょう。
六月晦大祓祝詞のなかに、天つ罪ガ有り、その中に「畔放(あはな)ち」ガ有ります。
原文がありませんので、確かめようがありませんが、「畔放」 でもまだ、「あはな」とは読めませんが、「畔放」で畔を壊すことを意味する熟語だと思えばいいことになります。
要は、畔は日本に入ってきたばかりであったことが判ります。
また、高天原では、田があったことが判ります。
②「埋其溝」 その溝を埋めたとありますから、畔の横に溝があったことになります。もっとも、この表現は、古事記が作られたときの知識かもしれません。
③ 「屎麻理【此二字以音】散」の部分の「理」です。「理」の読み方は「リ」のみです。ここはどうしても「キ」と読んで、撒き散らしと取りたいところです。当時は、「まりちらし」と言ったことになります。
④「如屎。醉而吐散登許曾【此三字以音】我那勢之命爲如此」の部分に「如」が二つ出てきます。翻訳(岩波文庫)を記します。
「屎如(クソナ)すは、酔ひて吐き散らすとこそ、我(ア)が汝弟(ナセ)の命(ミコト)、かく為(シ)つらめ」
「屎如(クソナ)すは」とは、どういう意味なんでしょう。 どう読んでも「如く」は、「した」としか読めません。「如」には「する」という意味はありません。折角、翻訳ですが、この部分全体の意味が判りません。
⑤次は、「坐忌服屋而」の「忌」です。翻訳(岩波文庫)を記します。
「忌服屋(イミハタヤ)に坐(マ)して」読者が判らなかったらいけないので、「忌服屋」の注釈が欄外にあります。「清浄な機屋」とあります。「忌」に、「清浄」の意味があるのでしょうか。
⑥梭衝陰上而死【訓陰上云富登-- 梭で陰上(ホト)を衝いて死んでしまったとあります。陰上とは、女性の陰部のことですが、いくら衝いても痛いだけで死にません。古事記には、このことが外でも出てきます。陰部は重要な部分だと思われていたのでしょう。もっと、重要な部分は心臓であることを知らなかったようです。
⑦スサノオは、大暴れをしましたが、先に述べました六月晦大祓祝詞のなかの天つ罪を犯しています。祝詞に書かれている罪は、
畔放(あはな)ち・溝埋(みぞう)み・樋放(ひはな)ち・頻蒔(しきま)き・串刺し・生け剥ぎ・逆剥ぎ・屎戸(くそへ)です。このうち、四つを行っています。特に、「逆剥ぎ」で一人死んでいます。スサノオは大罪を犯してでも、天照大神を殺すつもりだったのでしょう。そこで、天照大神は天岩戸に避難することになります。  
⑧ スサノオは馬を持っていた---騎馬民族?

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2005.03.10

がんばれ ライブドア   その4

なにも判らないが、「がんばれ ライブドア」とのタイトルで、書いたのが、2月25日です。其の文の最後に、「頭のいい人が、この話をこねくりまわしてフジテレビが勝つことになるのでしょう」と締めくくっています。
 昨日、フジテレビの会長が、勝ち誇ったような顔をして、勝利宣言をしました。238人(?)の協力株主の人に、感謝の気持ちを表した後、持ち株数が3分の1になり、拒否権を行使できる立場になったと表明されました。その発表するのに、メディアの席を200もフジテレビは用意をしたと報道されていました。この席には、ライブドアの人は入れてもらえたのでしょうか? 一般の人は入れて貰えたのでしょうか?
おかしな話です。
今回の事件(?)は、メディアが一介の青年に乗っ取られると、メディアがこぞって、大騒ぎをしているのが判ります。私が読んでいるのは、読売新聞ですが、降りかかる火の粉を払うのに一生懸命です。間接的に外国の資本の影響を受けても良いのか?  国がこのようなことに放っておいたから,このようなことになったのだ。いろいろ意見が書いてあり、当のテレビもそのような論調です。
 おかしな話です。
大きな団体は、ほとんど、株式会社で成り立っています。ということは、株主の会社です。会社の将来の方針は、株主の意見が反映されるのは、当然です。其の部分に、外国資本がどうのという考えは間違っています。国会議員の一人が、「お金があればなにをしてもいいというのは、間違っている」というような発言をしていましたが、これもおかしいです。
「四季報」という株式会社の情報を書いた本があります。これは、誰でも読めるものですが、其の中に、其の会社の持ち主が書いてあります。どの会社も外国人が株主がいます。大きな優秀な会社ほど、外国人が占める株主の率が高くなっています。お金のために、人を殺してまで、ほしがるお金、を手に入れた人(こんな言い方変でしょうか)が、もつと増やしたくて、優秀な会社にお金を投資して、増やそうと思って株主になります。そのお金を使って、もつと、増やそうとするのが、株式の仕組みです。資本主義の根幹をなす部分を、金持ちが日本を乗っ取るとかいう発想は、間違っています。

ライブドアの堀江さんは、全部敵であるメディアに出演して、自分の意見を述べようとしておられます。どの番組だったか忘れましたが、女性のアナウンサーが、「次の10の質問に答えてください」と云って、手にしたメモを声高(威圧的に)読み上げます。ということは、このアナウンサーが考えた設問ではなかったのでしょう。三つ目ぐらいまでは、まじめに答えていた堀江さんは、怒って、このままでは、帰ると言い出しました。それほど、ナンセンスな質問の連続でした。それほど、馬鹿にされても、これからのテレビには、ITが必要であり、面白い世の中にしたいと発信しておられます。
 それに対して、具体的になにをするのだとメディアは尋ねます。具体的に言えるわけがありません。言えばすぐに、メディアが自分でするに決まっています。だから、なにも一度会って話をすれば判ってもらえると思うと述べていますが、乗っ取りの相手と話などする気はありませんと断言しています。それどころか、具体的な考えがないから、単に、会社を乗っ取ろうとしたのだと攻めています。攻めることによって、裁判を有利に導こうということでしょう。
人間は、殆ど損得で動くものです。それを批判するのは間違っています。はじめに書きました「238人(?)の協力株主」も、そうした方が得だからしただけです。

気の毒ですが、この事件に関する限り、堀江さんのほかは、全部敵です。結末は、堀江さんの負けでしょう。
同じ負けるにしても、きれいに負けてほしいですね。しかし、勝負はわかりません。神のみが知る部分がありますから。
がんばれ。ライブドア。
がんばれ。堀江さん。

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2005.03.09

スサノオ 大暴れ

No53
誓約(ウケイ)に勝ったスサノオはなぜか 高天原で大暴れします。どの書物をみても、この暴れたことが中心になっていますが、高天原を具体的に書いてあるのは、古事記では此処ぐらいです。そのつもりで、読んで頂ければと思います。また、漢字の羅列です。

爾速須佐之男命。白于天照大御神。我心清明故。我所生之子得手弱女。因此言者。自我勝云而。
於勝佐備【此二字以音】離天照大御神之營田之阿【此阿字以音】埋其溝。亦其於聞看大嘗之殿。屎麻理【此二字以音】散。故雖然爲。天照大御神者。登賀米受而告。如屎。醉而吐散登許曾【此三字以音】我那勢之命爲如此。又離田之阿埋溝者。地矣阿多良斯登許曾【自阿以下七字以音】我那勢之命爲如此登【此一字以音】詔雖直。猶其惡態不止而。轉。天照大御神。坐忌服屋而。令織神御衣之時。穿其服屋之頂。逆剥天斑馬剥而。所墮入時。天衣織女見驚而。於梭衝陰上而死【訓陰上云富登】

さて、又私の下手な訳でも書いてみます。
「爾」の漢字嫌ですね。 字典をひいてみましたが、ここの訳に合う言葉が見つかりません。
全体に影響ありませんから、「そして」ぐらいにしておきます。
そして、速須佐之男命は、天照大御神に申されました。「私の心が清明でありましたから、私の所には、生まれた子は、手弱女でした」「この言いかたに因(ヨ)りますと、自のずから、私が勝ったと宣言します」
勝ちさびたので、天照大御神の營田の阿(ア)を離ち、其の溝を埋め、亦其見聞きする大嘗の殿に屎をまり散らしました。 そのようなことを為すと雖(イエ)ども、天照大御神は、登賀米(トガメ)をしないで告(ツゲ)ますには、「屎の如く見えているが、醉って吐き散らかしたのであろう。我が那勢(ナセ)の命がこのようなことをしたのだろう。又、他の阿を離ち溝を埋めたのは、土地をきっと、アタラシクするは、我が那勢の命が此の如くしたのであろう」と、素直に詔(ミコトノ)りされたが、猶、其の惡態は止まらず、転がるように増えた。忌(イ)やな予感を感じながら服屋にいて、神御衣を織るように命令している時、其の服屋の頂きに穴があき、天の斑馬を逆剥に剥いで、そこへ墜ちて入ってきた時、天の衣の織女は見て驚き、梭(ヒ)で陰上(ホト)を衝(ツ)いて死んだ。
さて、気のついたことを順に記します。
① 誓約(ウケイ)で判断のところで書きましたように、速須佐之男命は、男子五人を生んだから勝ちだと言っていましたのに、天照大御神がそれは、私のものから出来たから、私の生んだものだと言ったとありました。しかし、此処では、女子を生んだから、速須佐之男命の勝ちだと言っています。それも元気のいい女子が誕生したのであれば、勝ちと宣言してもいいですが、手弱女だったとあります。手弱女とは弱い手の女とあります。何のことか判りませんが、良い印象はありません。やはり、此の部分は、手が加えられたと見るべきでしょう。 

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2005.03.07

ウケイ(誓約)で判断 その3 

No52
もう一つ残りました。三人の女子です。その名は、多紀理毘売命、田寸津比売命、市寸島比売命です。
この三人も近くからやってきました。日本書紀では、筑紫の胸肩君たちの祭る神であると書かれています。福岡からはるか離れた孤島の宗像大社に三人は祀られています。こんな離れたところに三人が住んでいたはずはありません。日本書紀ではいろいろの伝説を載せていますが、最後の一書に、「葦原中国の宇佐嶋に降された。いま海の北の道の中(朝鮮半島への海路の中)に鎮座しておられる。」と書いてあります。天照大神は、海を守るように三人を住めないようなところに派遣したのでしょうか。もともと、ここに住んでいたのでしょうか。そして、この神をお祭しているのは、筑紫の胸肩君だとあります。胸肩は胸形・宗像・宗形とも記し、筑前国宗像郡の豪族、宗像神社の宮司の家です。天武十三年朝臣の姓を賜るとあります。この時は、八色の姓を定めたときで、日本書紀には姓を賜った人がいっぱい掲載されています。きっと、権力に従った人は、姓を賜ることになったのだと思います。朝臣の姓がどれ程の勝ちがあったのか判りませんが、きっと、位は高かったのでしょう。それだけに、胸肩君たちが宗像神社を祭ることは重要な任務であったと思います。
古事記から離れますので、古事記に戻ります。
三人は、ヒルゼン高原の近くに住んでいたはずです。米子市に宗像という地名があります。
以前は、西伯郡成實村大字宗像字向塔です。郷社ですが、式内社の宗形神社があります。
祭神は、田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命です。この外、21の神が、相祀、合祀されています。これらの神は、近くに祭られていた神々です。多くあるということは、宗形神社が最後まで残ったということです。
この神社は、稗田阿礼が立ち寄ったと思います。そして、三人の神さんの名前があったから古事記に取り入れたのでしょう。式内社に指定した人は、大国主命とこの人たちとが関係あることを知られたく無かったと推察します。まだ、登場しませんが、大国主命が、この中の一人の多紀理毘売命と結婚しています。そこで、多紀理毘売命は、田心姫命に書き換えました。同時に、多紀理毘売命、田寸津比売命、市寸島比売命を田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命に変え、日本書紀にも、田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命と書きました。九州に「宗像神社」を作り、その祭神は、田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命です。

古事記に「多紀理毘売命は、胸形の奥津宮に坐す」とあります。米子市に奥谷があります。この辺りまで、当時は海がきていて、谷とありますから、海から少し入ったところに、奥津宮があったのかもしれません。ここより少し南に、三崎という地名があります。「胸形君等のもち斎く三前の大神なり」とある「三前」が「三崎」かもしれません。
古事記から離れようと思いながら、又、九州になりますが、九州のほうは、「宗像市」にあり、宮は一番遠い宮は、沖の島の沖津宮で、田心姫神が鎮座します。次は、宗像郡大島に中津宮が鎮座し、湍津姫神が祭られています。 宗像郡玄海町田島に鎮座する辺津宮は、市杵島姫神をお祭します。三つの宮をあわせて、宗像大社といい、沖津宮は、全島史跡で、 天然記念物になっています。近年、この島から十二万点に及ぶ古代祭祀神宝が出土し、出土品はすべて国宝・重要文化財に指定となり、米子の宗形は、そばにも寄ることが出来ません。
先に述べましたように、三人の女子が、日本書紀の述べるように、天照大神の命令で、福岡に降臨したのであれば、伯耆の国にいた大国主命との結婚はなかったでしょう。

宗像大社のホームページをみますと、次のように書かれています。
「宗像大神をおまつりする神社は全国に六千余社ありますが、当社はその総本山であります」
おかしいですね。天照大神を祭ってあるのであれば、判ります。スサノオを祀ってあるのでも判ります。二人はイザナギとイザナミから生まれたことになっているのですから、天孫族の直系です。
多紀理毘売命、田寸津比売命、市寸島比売命は、確かに、天照大神とスサノオから生まれましたが、二人の諍いを誓約で解決しようとしたときに、生まれたことになっています。
皇室の加護のもとに延々と存在し続けている式内社ですら、天照大神を祀る神社は皆無に近いのに、なぜ、宗像大神をおまつりする神社は全国に六千余社もあるのでしょうか?

このような部分が今後、一杯出てくるでしょう。私のものの考え方がおかしいのかもしれませんが、日本書紀には、どうしても無理があるように見えます。無理を承知で、古事記やその他に書かれていることを否定するために、日本書紀が作られたように思えてなりません。

タイトルの「ウケイ(誓約)で判断」 から、随分外れてしまいました。
次は、益々おかしな話がつづきます。スサノオは誓約によって、疑いが晴れたのに、大あばれをする話になります。危険に思った天照大神は、天の岩戸に隠れることになります。
神話でもっとも有名なところだと思います。お手元に、古事記があるようでしたら、私の珍説が頭に入らぬうちに、自分で古事記を読んで頂ければと思います。
神話ではなく、実際の話であればどのようなことがあったのかと考えてください。

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2005.03.05

ウケイ(誓約)で判断 その2 

N051
天照大神は、スサノオの十拳剣を三つに折って、口の中に入れて噛み砕いた。スサノオは、天照大御神の左の御角髪にある八尺の勾聰の五百箇の御統の珠を口に入れて噛み砕いたとあります。また、右の御角髪に纏かせる珠を噛んで生まれたのが五人の男子です。
どうして、お互いのものを食べなければならないのか、すっきりしません。
場所は天安河だと書いてあったのに、剣を洗ったのは、天の真名井です。塩釜の地下水が噴出しているところです。吹き棄つる気吹のさ霧とは、どのようなことを云うのでしょう。勢いよく吹いたということでしょうか。そうすると狹霧となったというのです。剣をいくら噛み砕いても霧状にはなりません。狹霧は、ものすごく細かい霧ということでしょう。孫悟空のようにその細かいものが、多くの孫悟空のクローンと化したというのであれば、判りますが、五人の男子に生まれ変わったとは、神話にしても意味が通りません。
 ここは、日本書紀の作者は古事記に書かれていることの意味が判らないので、男子が生まれた方が勝ちと付け加えて、意味が通るように書き換えたのでしょう。
現実的なことで、どのようなことが考えられるかといいますと、
天照大神は、スサノオの剣を手にして、霧の濃い中で、「さあさあ、集まってください。私の持っているものをほしい人は」と言って、口笛をふきました。すると集まってきたのは、三人の女子でした。同じく、右の御角髪に纏かせる珠と御統の珠を手にして、「さあさあ、集まってください。私の持っているものをほしい人は」とスサノオが言いますと、五人の男子が集まりました。
そこで、天照大神は、私の勝ちだといいました。何故かといいますと、集まった五人は、私の持ち物である珠がほしくて集まったのだから、私の子供だといいました。

そこで、スサノオは自分の方が、人数が多かったのだから、私の勝ちと思ったのに、天照大神が五人は私の子供だというので、怒って大あばれをしたというストーリーでないと神話にもなりません。スサノオが勝ったなどと何処にも、書いてありません。スサノオが勝ったのであれば、「私のほうが正しかったでしょう」と言って、帰るのが普通です。
普通は、子供が生まれるときは、男女の数は、半々です。なのに、上手く女子三人と男子六人に別れたのもおかしなことです。どちらが勝つか負けるかは、力が強いか弱いか、頭が良いか悪いか、人数が多いか少ないかなどが、普通の考え方です。男子が生まれた方が、勝ちとなると、此の当時は、男子の方が、少なかったから値打ちがあつたとか、当時の社会は男子中心の社会であったなどの屁理屈を述べなければなりません。

そんなことより、大切なことは、古事記の作者は、此の部分で何が言いたかったのだといいますと、
① 三人の女子とは
  多紀理毘売命は、胸形の奥津宮に坐す。
市寸島比売命は、胸形の中津宮に坐す。
 田寸津比売命は、胸形の辺津宮に坐す。
名前とおられる場所を書き残すためでしょう。 この三人は、稗田阿礼が、この近辺の神社を調べたら、祀られていたのでしょう。
 五人の男子は
  正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命。
天之菩卑能命
  天津日子根命
  活津日子根命
  熊野久須毘命
です。同じく、この五人も祀られていたのでしょう。
この八人の名前を使って、神話を作ったことになります。
日本書紀の作者は 意味が判らないので、辻褄があうように物語をかえました。古事記の真似と思われてはいけませんから、この八人の名前は、すべて漢字を変えました。
どのようにしたか、ご覧ください。

多紀理毘売命(古事記) -----田心姫、田霧姫命
田寸津比売命-------------湍津姫
市寸島比売命-------------市杵嶋姫

 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命------正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊
天之菩卑能命-------------------天穂日命
  天津日子根命-------------------天津彦根命
活津日子根命-------------------活津彦根命
  熊野久須毘命-------------------熊野櫲樟日命

どのように読むかといいますと、多分、同じだと思います。同じにしておけば、で何処は同じと読むほうは思いますのに、これだけ徹底して変えたということは、神社のほうに伝えられている祭神名も日本書紀と同じように書き換えたと思います。(この件は、後日調査しようと思います) それだけ、古事記の話を取り入れているのに、同じにしたくなかったということは、どのように理解したらいいのでしょうか。

② この三柱の神は、胸形君等のもち斎く三前の大神なり。
此の部分がわかりません。三前は三崎、御崎、岬いろいろあります。 やはり 「ミサキ」と読むのでしょう。他は宿題です。

③ 天菩比命の子、建比良鳥命、こは、上菟上国国造、下菟上国国造、伊自牟国造、津島縣直、近江国国造等が祖なり。
次に天津日子根命は、凡川内国造、額田部湯坐連、倭田中直、山代国造、馬来田国造、道尻岐閇国造、周芳国造、倭淹知造、高市縣主、蒲生稲寸、三枝部造等が祖なり。

私は③の部分が最も、大切な所だろうと思います。なぜかと云いますと、この同じ部分が日本書紀ではどのように書かれているかといますと、
天穂日命—出雲臣・土師連たちの祖先である。
天津彦根命—これは凡川内直・山代直たちの祖先である。

出雲臣と出雲国国造とは、どのように違うのでしょうか。出雲臣が出雲国の国造になったのであれば、同じことですが、国造は地方の高官です。現在で云えば、知事みたいなものでしょうか。
古事記の作者にしてみれば、地方の国造は、それぞれ天つ族であると好き勝手に吹聴しているとでも言いたかったのでしょう。皆さん、そうではありません。出雲国国造、上菟上国国造、下菟上国国造、伊自牟国造、津島縣直、近江国国造等は、建比良鳥命の系列なのですよ。ウケイのときに集まってきた人たちですよと駄目押しをしたのだと思います。日本書紀の作者は、全部削除するのは、気が引けたのか、地方のことはなにも載せていません。天穂日命は出雲臣・土師連たちの祖先であるとだけ記しています。

以上が、古事記の作者が是非とも言っておきたかったことですが、今度は、私が付け加えて起きます。
日本書紀は天穂日命が出雲臣の祖先だと記していますが、古事記では天菩比命の子、建比良鳥命が、出雲国国造の祖先だと記しています。ということは、建比良鳥命(タケヒラトリ)の親が天菩比命(アメホヒノミコト) です。この天菩比命は、天(アメ)ガ付いていますから、天孫族だとおもっていました。天照大神が、大国主命(オオクニヌシノミコト)に豊葦原中国を明け渡すように交渉する役として、派遣した神です。古事記には、「すなわち大国主神に媚び附きて、三年に至るまで復奏(カヘリゴトマヲ)さざりき」とありますから、大国主命の味方について戻りませんでした。この話は紀元前の話ですが、今(古事記編纂時)では出雲国国造は、天菩比命の子、建比良鳥命の子孫がやっていますと。気に入らないのでしょう。皆さんだまされてはいけないのですよと言いたげです。
 建比良鳥命が漢人であることは、小野妹子が遣隋使として派遣されて時のことを書いた遣書にも伺えますが、国内資料としては、天武天皇4年4月14日のところに、「外国の人で官人として出仕しようと思う者は、臣、連、伴造の子、および国造の子ならば許すこととする」とあります。私が使っている現代訳本の「日本書紀」井上光貞は、「とつくに」と振り仮名をして、(京・畿内以外の国)と書いていますが、周りの人が、中国人で締められていたのですから、「外国」をわざわざ、 (京・畿内以外の国)と断らなくても、外国(ガイコク)でいいと思います。勝手に自分の都合の良い出自を述べるものも現れたであろうから、815年に「新撰姓氏録」という本が編纂されています。 しかし、成績がよければ良いというのが、天武天皇の4年の記事です。

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2005.03.04

ウケイ(誓約)で判断

No50
イザナギが近江の多賀へ移ったのを知って、天照大神を攻撃しました。天照大神に詰問されると、スサノオは、ただ挨拶に来ただけだと弁明しました。その言葉が正しいかどうかをウケイ(誓約)で判断しようということになります。
少し、多いですが、原文を掲載します。多いですので読み飛ばして貰って結構です。

故爾各中置天安河而。宇氣布時。天照大御神先乞度建速須佐之男命所佩十拳劍。打折三段而。奴那登母母由良迩【此八字以音。下效此】振滌天之眞名井而。佐賀美迩迦美而【自佐下六字以音。下效此】於吹棄氣吹之狹霧所成神御名。多紀理毘賣命【此神名以音】亦御名謂奧津嶋比賣命。
次市寸嶋(上)比賣命。亦御名謂狹依毘賣命。次多岐都比賣命【三柱。此神名以音】速須佐之男命。
乞度天照大御神所纏左御美豆良八尺勾聰之五百津之美須麻流珠而。奴那登母母由良爾。振滌天之眞名井而。佐賀美迩迦美而。於吹棄氣吹之狹霧所成神御名。正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命。亦乞度所纏右御美豆良之珠而。佐賀美迩迦美而。於吹棄氣吹之狹霧所成神御名。天之菩卑能命【自菩下三字以音】亦乞度所纏御鬘之珠而。佐賀美迩迦美而。於吹棄氣吹之狹霧所成神御名。天津日子根命。又乞度所纏左御手之珠而。佐賀美迩迦美而。於吹棄氣吹之狹霧所成神御名。活津日子根命。亦乞度所纏右御手之珠而。佐賀美迩迦美而。於吹棄氣吹之狹霧所成神御名。熊野久須毘命【并五柱。自久下三字以音】於是天照大御神。告速須佐之男命。是後所生五柱男子者。物實。因我物所成。故自吾子也。先所生之三柱女子者。物實因汝物所成。故乃汝子也。如此詔別也。故其先所生之神。多紀理毘賣命者坐胸形之奧津宮。次市寸嶋比賣命者坐胸形之中津宮。次田寸津比賣命者坐胸形之邊津宮。此三柱神者。胸形君等之以伊都久三前大神者也。
故此後所生五柱子之中。天菩比命之子。建比良鳥命【此出雲國造。无邪志國造、上菟上國造、下菟上國造、伊自牟國造、津嶋縣直。遠江國造等之祖也】次天津日子根命者【凡川内國造、額田部湯坐連、<茨>木國造、倭田中直、山代國造、馬來田國造、道尻岐閇國造、周芳國造、倭淹知造、高市縣主、蒲生稻寸、三技部造等之祖也】


ここには、コメントを書かないでください。あまりにも多いコメントが書かれますので、コンピューターが駄目になると思います。 【楽しい人生】は、閉鎖をしようと考えています。 長いこと ありがとうございました。

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2005.03.03

がんばれ ライブドア  その3

日本放送やフジテレビは公共性のある会社だから、普通の会社とは違う。とメディアでは、語り記事にしている人が見られましたが、公共性とはどういうことでしょうか?
不思議な言葉です。これを主張すればなんでも通る雰囲気があります。
例えば、台風や地震があったときに、何時、何処に避難するのか。避難した人にどのように、誰が状況を伝えるのか。政府がするといってもテレビ・ラジオ・新聞を使わないと方法はありません。この辺りは公共性といってもいいと思います。間接的に外国資本が入っていると、これらのことは出来ないのか? 出来るとおもいますが・・・。
外国が攻めてきた場合。現在のところ、可能性のあるのは、中国と北朝鮮です。其のときは、正確に様子を伝えるのは、やはり、メディアであると思いますが、政府の手の内を性格に報道したのでは、敵にやられてしまいます。いかに、嘘の報道をして国民も敵も騙すかということが重要になります。其のとき、外国資本が入っていると報道ができなくなるでしょうか? 出来なくなるかもしれません。それでは、困りますから、政府のいう通りに動くメディアである必要があります。何のことはありません。第二次世界大戦のときの、ラジオ局と新聞社です。
先日、大阪・寝屋川市で中学校に卒業生が入り、先生を殺傷する事件が発生しました。
猛烈な勢いで、報道しました。これは、一般国民に知らせる義務感からでしょうか? 公共性のなせることでしょうか? 国民は知っていてもいいですが、知らなくてもいいのです。あれだけ報道されますと、北海道の平和な中学校でも、職員会議が開かれたと思います。そして、なにもしないでいますと、もし、同様なことが起こったときに、新聞に叩かれますから、会議を開いたことを記録に残し、門のところにインターホーンを設置、お金のあるところは、誰も見ないテレビ撮影装置を付けられたことでしょう。
事件が起こった中学校では、さぞ、大変であったでしょう。連日会議。そして、危険だから、下校登校時は、先生が付き添うことに決定。結果、先生くたくた。精神的に参られたから、精神カウンセラーを呼んで、治療することになった。どうして、先生が付き添う必要があるのでしょう。心配である親が、送り迎えをすればいいのです。あれだけ報道すれば、学校とすれば、失敗は赦されないと考えるしかないでしょう。公共性どころか、世の中をずたずたにしていることが判ります。
 公共性が必要なメディアは、日本に二つぐらいでいいのではありませんか? フジテレビには、従業員は何人おられるのでしょうか? サンケイグループには、何人おられるのでしょうか? どれほど、優秀な人がおられるのでしょうか? 日本の将来を引っ張って行く人が、夕刊 フジのようなものを毎日、製作するでしょうか?
全体を眺めると、公共性を前面に出すほどのことをしてこられたのでしょうか?

国民、皆で公共性について、考えてみてもいいと思います。
公共性のないラジオ・テレビ局があってもいいでしょう。

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スサノオ、天照大神を攻撃する

No49
久しぶりに古事記原文に戻ります。 少し量が多いですが、区切りのいいところまで一気に掲載します。               
故於是速須佐之男命言。然者請天照大御神將罷。乃參上天時。山川悉動。國土皆震。爾天照大御神聞驚而。詔我那勢命之上來由者。必不善心。欲奪我國耳。
即解御髮。纒御美豆羅而。乃於左右御美豆羅。亦於御鬘。亦於左右御手各纒持八尺勾たま(璁)之五百津之美須麻流之珠而【自美至流四字以音。下效此】曾毘良迩者屓千入之靭【訓入云能理下效此。自曾至迩者以音】比良迩者附五百入之靭。亦所取佩伊都【此二字以音】之竹鞆而。弓腹振立而。堅庭者。於向股蹈那豆美【三字以音】如沫雪蹶散而。伊都【二字以音】之男建【訓建云多祁夫】蹈建而。待問。
何故上來。爾速須佐之男命答白。僕者無邪心。唯大御神之命以。問賜僕之哭伊佐知流之事故。白都良久【三字以音】僕欲往妣國以哭。爾大御神詔。汝者不可在此國而。神夜良比夜良比賜。故以爲請將罷往之状。參上耳。無異心。
爾天照大御神詔。然者汝心之清明何知。於是速須佐之男命答白。各宇氣比而。生子【自宇以三字以音。下效此】

ここに於いて速須佐之男命が言う。「それでは天照大御神のところに行って説明しよう」天高原に参上する時には、山川悉(コトゴト)く動き、國土は皆、震えました。天照大御神はこれを聞いて驚き、言われるのに、「上り来る我が那勢命が上り来る理由は、良くない心に違いない。我が国を奪おうと欲(オモ)っているのだろう」
直ぐに、髪を解いて美豆羅(ミズラ)に結って、すなわち、左右とも美豆羅にも、御鬘に於いても。左右の御手に各々八尺勾玉の五百個の美須麻流(ミスマル)の珠をまき付けて持って
曾毘良(ソビラ)には、千入る靭(ユギ)を背負い、比良(ヒラ)には五百入る靭を附け、伊都(イツ)の竹鞆をぴたりと取りつけ、弓腹を振り立てて、向きあう股が絡みつくほど動かすと、
堅い庭は、雪を蹴散らか飛沫のようになった。伊都の男建(オタケビ)をあげて、足踏みをして待ち、問いました。
「何故 上って來たのか」、速須佐之男命、答えて白(モ)うすには、「僕は邪心はありません。唯、大御神之命を以って、僕が哭き伊佐知流(イサチル)の事を問い賜まわれたので、白(モウシ)都良久(ツラク)、『僕は妣の國に往きたくて、哭いています」と申しました。すると大御神は『汝は此の國に在るべからず』と詔りたまわれて、神やらいやらい賜りました。ここに、將に罷り往く様子を報告する為に、参上しました。異心はありません」と。
そこで天照大御神は詔(ミコトノ)りされて、「然(シカ)らば、汝の心の清明は何にしたら知ることができるか」と。ここに於いて速須佐之男命が答えて申されるには、「各(オノオノ)が宇氣比(ウケイ)をして、子を生みましょう」と。

四苦八苦しながら、訳してみました。解らないところが一杯です。原文の太字が意味不明の部分です。学生時代の英語の試験のとき、これぐらい単語がわからないときには、判っている単語だけをつなぎ合わせて、日本語を作りました。殆ど、バツとなりましたから、この訳も駄目かもしれません。

美豆羅は、角髪とも書き、鬘とも書きます。古事記では、両方書かれています。ということは、別のものなのでしょう。前には、左右の御美豆羅と書いてありますから、埴輪などに見られる耳の近くで輪を作った髪の結い方でしょう。鬘は、その他の部分となりますが、後に考えられる所といえば、頭の上で丸く結ったのでしょう。戦いのときの髪の結い方なのでしょうか? 八尺の勾玉とは、どのようなものでしょうか。戦をするのに、手に巻きつけたのでは邪魔になります。大将はきらびやかに飾り付けるだけで、あまり戦はしなかったのでしょうか。五百津は、多いという意味のことでしょうか。続く千入之靭も、五百入る靭も、多いことの表現と思われます。亦所取佩伊都之竹鞆而の鞆は、肘当てのようなものでしょうか? 弓腹振立而--- 弓の真ん中を持って強く振ったということでしょうか? 堅庭は、字の意味通り堅い庭なのでしょうか。その庭が、蹴散らかされて飛び散る雪のようになったという意味でしょうか。

このように、判らないことだらけを羅列しても正しい文意はつかめません。

血相を変えてという表現がありますが、速須佐之男命は凄い意気込みで、天照大御神のところへ行ったことは確かのようです。その様子を、山川悉動。國土皆震と記していますから、勢いだけではなく、本当に地響きがしたのかもしれません。ということは、人馬の軍隊であったかもしれません。その音を聞き、天照大御神は最大の準備をして、それだけで収まらず、じっとして居れなくて手足を動かし通しで、速須佐之男命を待ちます。
「何しに来たのだ」と問い詰めると、「別れの挨拶にきました」と。「それが、本当であることはどうしたら私にわかるのか」と速須佐之男命に聞くと、「各(オノオノ)が宇氣比(ウケイ)をして、子を生みましょう」と。

この最後の宇氣比の意味が判りません。 続いて、宇氣比について古事記は続きますので、そちらにまわそうと思います。
速須佐之男命と天照大御神の両者の立ち振る舞いからしますと、速須佐之男命が天照大御神を攻撃するために、高天原に攻め上ったのは間違いないでしょう。天照大御神の凄まじい戦姿を見た速須佐之男命は、急遽、別れの挨拶に来たと弁明したのでしょう。

速須佐之男命が、泣き叫んだのは、初めからこのような筋書きを考えていたからではないでしょうか。 此の話は、このままにして、先に読み進んでみます。

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2005.03.01

閑話休題--1

9月25日に書き始めてから、休まず、つっぱして来ましたので、古事記と関係ないことを書いて見ます。
歴史のことで判らない事はいっぱいありますが、一番不可解なのは、資料から見ますと、中国・朝鮮と日本とは、雲泥の差が有ります、又、魏志倭人伝に書かれている日本人(倭人)が所有する武器ですと、戦士が500人もおれば、倭人を皆殺しに出来ます。天皇を殺すことも難しいことではありません。多くの渡来人がやってきたはずなのに、 日本人はインカのように全滅しなかったことです。
魏志倭人伝には、当時100の国があり、互いに戦争をして国が大いに乱れていたことになっています。渡来人が100の国ぐらい平定するのに、一年もかからないと思います。 

普通に考えた疑問に納得のいく説明ができない限り、現在の日本の歴史の捉え方は間違っていることになります。
上のことと関連しますが、天皇の皇居は、私が入ることは難しいと思います。それほど、厳重に兵隊が守っているわけでは有りませんが、入ることは困難だと思います。一人ぐらい侵入する人がいても良いと思います。誰もいません。侵入すれば歴史に残ることになります。
奈良の平城京は、少しずつ復元されています。朱雀門に沿って塀はあります。きっと、平城宮の周りは塀があったようです。長安を参考にして作られたことになっていますが、長安は、大きな城壁によって、町全体が囲まれています。平城京も周りに城壁があったという話は聞きません。藤原京、難波京、平安京 すべて同じです。
現在の皇居は、江戸城だったから、濠はありますが、皇居には防御施設がありません。

どのように考えたらいいのでしょうか。
普通の家ですと、ドロボウがいくらでも入るのに、どうして皇居に入いらないのでしょうか。本当は入っているのですが、恥じになるから発表しないだけでしょうか。
本当は、入っても仕方が無いのだと思います。何かを盗んだとします。これは皇居にあった品物だと売るわけにもいかないし、自慢して他人に話しもできないし、中にいる人を殺しても仕方がないし・・・。
このように考えますと、天皇に執って代わっても、なに一つ得になることは無かったのだと思われます。ただ、天皇が自分の言うことを聞かないときは、天皇を交代させる必要は生じたのだと思います。
それにしても、初めの頃の日本人は、字も知らなかったことになっています。
渡来人が感心するほど、素晴らしい生活をしていたと考えないと、上に書いたようなことでは説明がつかないと思います。歴史の捉え方が、どこか間違っているのでしょう。                          

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