« March 2005 | Main | May 2005 »

2005.04.30

古事記を読む  月読命は どこへ行ったのでしょう

No69
イザナギが月読命に行くように命令しましたが、その行き先は、古事記と日本書紀では異なっています。
   古事記----天照大神は高天の原を、
         月読命は夜の食国を、
         建速須佐之男命は、海原を  治めよと命令した。

  日本書紀--天照大神は高天の原を
         月読命は青海原の潮の八百重を
         素戔鳴尊は、天下を   治めよと命令した。

  日本書紀---第十一の一書には、
          天照大神は高天の原を
          月夜見尊は日の神とならんで天を
          素戔鳴尊は青海原   治めよと命令した。
 古事記の原文は、【所知夜之食國矣】 左記のように書かれています。「夜之食國」とはどういう意味でしょうか? 日本書紀の方は、一層意味不明となっています。「青海原の潮の八百重」も判りません。日本書紀の作者も、古事記に書かれている意味が判らなかったのでしょうか? 判ったから、書き換えたのでしょう。元の古事記には、「夜食之国」と書かれていたのではないでしょうか? 「夜食之国」であれば、誰にでも 「夜久野国」と読めて判ってしまうので、「夜之食國」としました。それだけでは、まだ心配で、日本書紀では、「青海原の潮の八百重」にしました。それでは、古事記にかかれている建速須佐之男命の行き先と同じになりますから、日本書紀では、建速須佐之男命は、「天下を治めよ」となっています。いや、是でも古事記が発見されると困るので、日本書紀---第十一の一書には、 月夜見尊は日の神とならんで天を、素戔鳴尊は青海原   治めよと命令したと記しています。

私の心が曲がっているのでしょうか? ここだけではありません。日本書紀は、古事記に書いてあることを知られたくないような部分では、いろいろの手を使って、カムフラージュを試みています。
さて、夜久野町はご存知ですか、京都府の福知山市は有名です。その西隣で、兵庫県と県境に位置します。
月読命が、夜久野に派遣されたとしたら、目的があるはずです。地元に行けば、なにか掴めるのではないかと行きました。存在する神社は、すべて回ってみようと思いましたが、いろいろで手間取り、一泊することになりました。夜久野町の人には、悪いですが、何もない町です。真ん中に牧川が流れ、川に沿って国道9号線が走っています。両側は、山です。 郷土資料館を訪れました。係りの方に、いくつか質問をさせて貰いました。夜久野という地名は、どうして付いたか?
私が期待したのは、月読命を祀る神社が一杯あるだろうとでしたが、有りませんでした。収穫は、次のことぐらいです。
【地名】
 郵便番号簿にみられる地名
 井田、板生 (イトウ)、今西中、小倉、大油子(オユゴ)、末 (スエ)、高内、
 千原 (チハラ) 、直見、額田(ヌカタ)、畑、平野、日置(ヘキ)
 
 地図に記載のある地名(上記以外)
 白井、牧、福谷、山中、稲垣、西ノ谷、中田、金谷、金尾、水坂、 
 奥水坂、田谷垣、現世、才谷、宮垣、垣本、上町、門垣、

 考察---太文字の地名は、日本的な地名ではありません。言い換えます
      と、意味がわかりません。地名をつけたときに、必ず、その土地
      をあらわす文字が使われた筈です。
      額田、日置は、歴史的にある程度判っている地名です。
      この地名は、JR下夜久野駅周辺にあります。
      昔は、この辺りが繁華であったはずです。
大呂は、福知山市ですが、夜久野町の真上にありますから、以前は夜久野かもしれません。日置は、測量や人口を調らべたり、周りの様子の調査をする当時の最高の技術集団ではないかと思っています。綾部市、篠山町にもあります。それだけ大切な土地であったはずです。問題はいつの時代のものか判りません。

【神社】  大歳神社が多い。
       中千原、今西、畑、垣本、桑村、金尾にある。
      一宮神社(額田) 
【山】 鉄鈷山—この山から鉄が出たという話は聞かなかったとのこと。鉄も出ないのに、こんな名前がどうして付くでしょうか?
    郷土資料館で、チラッと捲った冊子に、縄文・弥生時代の遺跡が多かったような気がします。(送って頂こうと思っています)  遺跡が多いということは、人間が沢山住んでいたことになります。又、沢山の人が死んだのではないでしょうか? 隣町の福知山は、古墳がいっぱいであったような気がします。
日本書紀の作者が、何故 月読命が夜久野へ行ったことを隠したかったか理由が判らなければ、夜久野とは断定できません。この後、天照大神の孫の邇邇芸命(ニニギノミコト)が、高天原から、高千穂へ行くことになります。その後、天照大神はどうなったか不明ですが、福知山市の大江山の麓の皇大神社に月読命と天照大神が祀られていますので、ここに来たのではないかと思われます。天照大神の出自のところで述べたいと思います。

| | TrackBack (0)

2005.04.29

古事記を読む  月読命はどこから来たか

No67
月読命の名前を覚えておられますか? イザナギが黄泉の国から帰ったとき、身体が穢れたから、禊をします。そのときに、生まれた神は一杯ですが、特に優等生が三人いました。三貴人といわれた人の一人です。月読命は、古事記では、「ツキヨミ」と読んだようです。日本書紀では、古事記と同じにするのが嫌だったので、無理矢理に、月読尊、月弓尊、月夜見尊と表記しています。「ツキヨミ」と言ったらしい証拠が、「月夜見尊」でわかると思います。どう読むのか、頼りないですが、頼りないところがミソです。
ここの部分は、田村誠一氏の文章をそのまま頂戴しないと私の頭では追いつきません。平成古事記---P44より

月読命は月支国から亡命      
韓伝にも月支国が登場します。この月氏は西域の仏教壁画で有名な敦煙付近で栄えていたウイグル人で紀元前170年頃、匈奴に滅ぼされました。この国の人民は西に逃げましたがシルクロードをユダヤ人が往来しているので東に文化が高い国があることを知って、王の月読命だけは隠岐に渡来していました。辰韓とありますが秦韓のことで秦韓はユダヤ人が住んでいた地域です。月読命が仏教の国から渡来した証拠は蒜山高原の周囲の山と統治を命令された但馬の山の名前を仏教の須彌山(スミセン)と同じ様にセン又はゼンと発音することです。例えば蒜山(ヒルゼン)、大山、鳥ケ山、氷ノ山、扇ケ山等は山をセンと発音します。更に蒜山高原には仏ケ仙と仏がつく地名が残りました。海上保安庁の海流図によると対馬海峡に達した黒潮は隠岐と島根半島の間を流れています。対馬海峡まで来て偏西風を利用すれば安全に山陰沿岸に間違いなく来られます。隠岐に渡来してここに先ず民族毎のコロニーを作りました。伊耶那岐命・伊耶那美命だけが三貴人より一足早く渡来していたのです。伊耶那岐命は隠岐で国生みの国土計画を実施に移したのです。

以上ですが、何故、月氏の一族かという根拠の一つとして、NHKの番組にあった「大宮踊り」のことをあげておられます。
これまた、全文を掲げます。
 大宮踊り
現在は8月5日にヒルゼン中福田の福田神社で踊られている。無形文化財に指定されている。のんびりした一風変った踊りである。
福田神社はもと太宮大明神と呼ばれていた。古代に大宮と、大の字がつくのは、最高か天子を意味する。大山は山のトツプである。大礼、大葬、大典ぱ天子に関することである。
大和の三輪大明神以上に格式が高いものと思えてならない。
NHKのシルクロード、音楽の旅は、天山山脈のクチヤから、日本の宮廷音楽が来たことを教えてくれた。
放映を見て、クチヤの踊りは大宮踊りと同じことを見出した。
クチヤの楽器と一緒に踊りが来なければおかしい。雅楽の舞はクチヤから伝はったと考えられる。ヒルゼンを通って都にもたらされたことと考えられる。
天の岩戸で神々が踊ったのが大宮踊りだった筈だ。2000年踊カつづけられた、大宮踊りの歌の文句は、天子の子が踊るとなっていた。

以後、私の考えたことを書きますと、
私は、「大宮踊り」も、「NHKのシルクロード、音楽の旅」も見ていませんから、何一つ言えませんが、No25「山をセンと読む山」 において、記しましたように、所謂仏教伝来以前に、蒜山高原周辺に、仏教を信仰する人が、住んでいたことは確かです。
 それでは、仏教は中国や朝鮮に何時頃、伝わったのか調べてみました。手っ取り早く、インターネットだけで検索しましたら、殆ど掲載されていません。どうやら よく判っていないらしいです。紀元前後のことらしいです。私は紀元前300年頃かと思っていましたが、知識不足でした。仏教はが中国に伝わるには、南からのルートと北からのルートが考えられますが、天山山脈の近くにあった月支国に、仏教が中国を通って伝播したとは考えにくいですから、やはり北から伝わったと思われます。わざわざ、仏教を伝えるために、危険な砂漠を通ってくるとは考えられません。この時、すでに、シルクロードが機能していたと思われます。
月支国は紀元前170年頃に国が潰されて、人々は、西の方へ逃げたような文章がありましたが、よく判っていません。絹は中国も作っていましたが、私は日本からの絹が優秀だったから、この時代にすでに、ヨーロッパに絹が運ばれていたので、月氏は、日本の様子は知っていたと思われます。よって、日本に来た可能性は、大きいです。また、三貴人に選ばれたということは、月支国の文化が高かったことでしょう。
現在のところ、150~190年ぐらいの間で、仏教国はほかにありません。田村氏は、月支国の王である月読命だけが、日本にきたように書いておられますが、それでは、楽器と踊りが伝わらないでしょう。また、あちこちに「セン」と呼ぶ名前の山は付かなかったと思います。

| | TrackBack (0)

2005.04.28

魏志倭人伝を読む   魏志倭人伝における戸数

No25
戸数の「戸」の字は、もともとは、「扉」であったろうと考えました。扉は、両開きの戸ですから、大きな戸です。潜り戸も戸ですが、扉とは言いません。本にしておられる方の多くは、3~5人と推定しておられます。中には、15人ぐらいの方もおられます。秦の始皇帝の時代に、戸籍が作られたことが、どこかで読んだような気がします。魏志倭人伝は、秦の始皇帝よりずっと後の時代ですから、伊都国は、「千余戸あり」と書いてありますから、中国でいう戸籍上の「戸」だと思われます。現在ですと、一人で住んでいても一戸です。私は、3~5人でも,15人でもいいと考えます。15人は、困る人がおられます。邪馬台国は、七万余戸です。15に70000を掛けますと、1050000人です。此れでは、邪馬台国が福岡としますと、105万人で溢れかえります。二階だての家が建っていたことになります。当然、15人ではなく、3人だろうと少なく見積もります。3掛ける70000で、21万人です。私の町の2倍です。私の町は、2階どころか、10階建てもあります。
 こうなると、「70000戸」は、中国人特有のオーバーに表現しているのだとか、新しいアイデイアが生まれてきます。
別のヒントがあります。
「東行不弥国に至る百里。官を多模といい、副を卑奴母離という。千余家あり」とあります。「家」になっているということは、実際に家が1000軒ほどあるのを見たことになります。しかし、戸籍上の戸数は知らないということです。従って、「家」と「戸」は同じではないことが判ります。
 倭人での他の部分を検討します。
「その会同・坐起には、父子男女の別ない。人は酒が好きである。大人の敬するところをみると、ただ手を打って跪ずいて拝する代わりをする。その人は長生きで、あるいは百年、あるいは八、九十年。風習では、国の大人はみな四、五婦、下戸もあるいは二、三婦、婦人は淫せず、やきもちをやかず、盗みかかすめず、訴えごとは少ない・・・」
これを書いた人は、中国人で、自分の国にないことなので、印象深く感じ、書き記したと思われます。
① 家族が坐をともにするとき、父子や男女の別は無かった。
② 尊敬する人に対するときは、跪かないで、手を打ちお辞儀をしたのでしょう。タイの国の両手を合わせる仕草でしょうか?
③ 100,年生きる人もあり、80,90年の人もある。
となると家族構成は多くなります。3世代としますと、5~6人にはなります。
⑥ 国の大人はみな四、五婦、下戸もあるいは二、三婦、婦人は淫せず、やきもちをやかず、盗みかかすめず、訴えごとは少ない。これは、一夫多妻と読むべきでしょう。中国もこのような風習はあるが、婦人は淫して、やきもちをやいて、盗みもし、訴えごとが多い。なのに、日本では立派?である。このものの見方は、男性から見たものでしょう。
  一夫多妻ではなく、男は、戦争や狩りに出かけていないことが多い。高地性集落でも勤務があるから、婦人の数が多いという考え方も可能です。
 このころは、弥生時代も終わりの頃ですから、稲作にとっては、女性が重要であったのではないでしょうか?  これも考慮にいれますと、家族は、6~8人となります。

| | TrackBack (0)

2005.04.27

魏志倭人伝を読む  魏志倭人伝の数字は正しいか

No24
難升米にこだわって、文章を書いてきました。難升米が単に、丹後の豪族であるのであれば、鬼退治をしただけですが、中国が派遣した陸軍の司令官であると意味が全く違ってきます。卑弥呼が魏の国に使節を送ったのでは有りません。
 日本海から、大和に進軍するには、道は二つしかありません。瀬戸内海を通る。もう一つは、宮津に上陸し、僅か海抜100メートルしかない高原を通り、加古川を下りますと難なく、瀬戸内海に出ることが出来ます。その他のルートは、魏志倭人伝にあるとおり、邪馬台国までは「水行10日陸行1月」とあります。どこからか関係なく、九州の北岸に到着してから、陸行1ヶ月もすれば、九州を出てしまいます。そこで、どうしても邪馬台国が九州にあってほしい人は、陳寿が書き間違ったのであろうという推察をすることになります。東と書く所を南と書いた。「水行10日陸行1月」は、水行10日または、陸行1ヶ月であると解釈するとか、「水行10日陸行1月」は、「水行10日陸行1日」の間違いであるというように、魏志倭人伝の単純なミスであるという論調になります。

軍隊が、進軍するときに最も重要なものは、食料・兵隊・侵略する相手の情報です。
難升米は、敵の本拠地以外は、すべて調査したはずです。本土も一周したようです。方角は、東南などは苦手であったかもしれませんが、東西南北は、正確であったことは、「新しい古事記の読み方」の中で、高尾山の例を挙げて私は説明しています。間違えることなどありません。
当然、数字も正確であると考えないと、自分は、邪馬台国が九州だとか、奈良だと決めてしまうとどうしても、数字が間違っていることになります。
難升米は、こうした情報を集めて、本国に報告に帰ったことになります。
卑弥呼は、魏の王から、銅鏡100枚のほか、いろいろ拝受したとあります。難升米も貰ったと書いてあります。
ただ、変な文章がありました。「難升米牛利渉遠道路勤労」意味が判りませんので、そのままにしておきましたが、難升米と牛利が、遠路であるので、苦労をしたのでぐらいの意味でしょうか。これでは、「勤」の意味が入っていません。ここは、中国の道路か、日本の道路かわかりませんが、軍隊が通れるように草を刈るとか、川沿いではなく、間道の整備をしたという意味ではないでしょうか。難升米と牛利は、日本に戻るまでに、6ヶ月の日があったことが書かれていますから、中国の道路だったかもしれません。
一大率を置いた国は、難升米がある程度掌握していた国であることになります。30ヶ国のうち、どの国が詳しく書かれているか。どこが詳しくないかを調べます。詳しいところは、同じく難升米の勢力範囲であったことを知ることができます。

| | TrackBack (0)

2005.04.26

魏志倭人伝を読む   漢委奴国王の金印

No23
福岡県志賀島で見つかった「漢委奴国王」の金印は、『後漢書東夷伝』に記載されている印綬と言われています。東夷伝には「 建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見」と記載されています。紀元後57年のことです。
漢(の王)が倭(の国)の国王に与えた金印ということで、「カンノワノナノクニノオウ」と読むそうですが、このように読んだかどうか判らないので意味の無いことです。
問題は「委」の字だと思います。魏志倭人伝にも、漢字は「倭」が使ってあり、238年に「今汝を以て親魏倭王と爲し、金印紫綬を仮し」という言葉があります。倭王と書いてあるのに、金印にわざわざ、「委」の字を使うのは、不自然です。倭という字は、知らない人でも、委という字は、誰でも知っています。委任、委員は直ぐに、思い浮かべる熟語です。「委任した」でいいはずです。おかしいと思って、私は「倭」の字について調べました。No2をもう一度、読んで下さい。「倭」は中国の文献もあまり見当たりません。漢字であることは間違いないようですが、日本のことを言うのに、わざわざ作ったような漢字でした。なよなよした。ペコペコする。腰の低いというようなあまり、印象の良いものではありません。(委奴国をイト国と読むのだという説もあります)
「漢が奴国に委任した国王」です。奴国は古事記に書かれている国です。「漢委奴国王」の金印は、蛇紐があり、金で出来ています。同じように、蛇紐の金印には、雲南省晋寧県で出土した「滇王之印」があります。これは、石寨山古墳群の中の墓から発掘されたことが判っています。また、この金印は紀元前109年に前漢の武帝が滇王に下賜したもの(『史記・西南夷列伝』に記載)と推定されています。魏志倭人での方は、238年ですから、随分年月が開いていますから、刻印の形態は違っています。
「晋帰義氐侯」・「魏率善氐仟長」・「晋烏丸帰義侯」・「晋鮮卑帰義侯」・「帰趙侯印」などの印鑑が残っていますが、一番前の文字は、与えた国の名前であることが判ります。次は、受け取った国の名前または、職種、次はよく判りません。その時の出来事でしょうか? 氏名でしょうか? このように眺めると「滇王之印」の文字は、他の印綬に当てはまりませんから、「滇王之印」は、滇王が自分で作って使用していた可能性はあります。
 横道にそれますが、中国の印鑑は、段階が確立していたようです。皇帝の印は、虎紐(紐は印鑑の持つところ)の玉璽、皇太子・将軍等は、亀紐で金。中級官吏は亀紐で銀製。下級官吏は鼻紐で銅製。印鑑に布の紐が付いていたようで、皇帝は朱、その他紫、黄色など、階級が色によって定めがありました。異民族の匈奴は、一番手強かったらしく、皇帝と同じで対等であることを示して、匈奴の機嫌をとって、玉璽になっています。西域の烏孫は、金印紫綬で日本と同格です。どうやら、日本を重要視していたようです。
 この辺りの様子を書き出して見ますと、
紀元32年  高句麗、後漢に従う
  36年  中国南方の異民族、後漢に従う
  37年  白馬羌という勢力、後漢に使節送る
  38年  西域2国、後漢に従う
  44年  韓国の人、後漢に従う
となります。次は日本に照準が合されていたと思います。
  57年  日本、光武賜より印綬を貰う。
 私が気になるのは、「滇王之印」が蛇紐の金印で日本と同じことです。滇国は紀元前109年、日本は、紀元後57年です。166年も差が有りますが、私は日本の絹が、紀元前109年頃には、すでに、ユダヤ人の手で、雲南省を経由してヨーロッパに運ばれていたのではないかと想像しています。その絹をめぐって、神武天皇が出兵することなり、奴国にいた神武天皇は、先ず、九州を攻略、瀬戸内にいた漢人を征伐後、奈良の御所市の柏原に宮を定めます。これが、西暦1年です。これを西暦1年と定めたのは、世界共通の年の基準が必要としたユダヤ人だと思われます。紀元後57年は、神武天皇の晩年と言うことになります。
『後漢書東夷伝』の107年に、倭の国王帥升等が生口を献じて謁見を求めた。後漢の桓帝・霊帝の頃(紀元147~189年)、倭は大いに乱れ、国どうしの勢力争いが続き、統一者が出なかったとありますが、「倭は大いに乱れ」たのは、国内同士の国の争いもあったかもしれませんが、日中戦争が100年以上も続いていたことになります。
あまりにも横道にそれましたので、238年の難升米の頃に話にします。
魏志倭人伝に「正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拜假し、ならびに詔を齎し、金帛、錦ケイ、刀、鏡、采物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す」とあり、印綬を渡したことが書かれています。
正始4年に「率善中郎将の印綬を壹拜す」と有りますから、率善中郎将が印綬を受けたことが判ります。「魏率善氐仟長」という印が残っていますから、「魏率善中郎将」という印字があったと思われます。
239年に印綬を受け、また、240年に又、受けたことになっています。何回受けてもいいようなものですが、238年はお土産も印綬も詳しく書かれています。「金印紫綬を授与。難升米を率善中郎将とし、牛利を率善校尉とすると決め、銀印青綬を授与」とあり、難升米の物まで、詳しく書かれています。240年は、「正姶元年、太守弓遵遺建忠校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拝假倭王、幷齎詔賜金・帛・錦・罽・刀・鏡・采物」と簡単に書かれています。
「奉詔書印綬詣倭國」と詔書と印綬を奉ったとのみ書いています。同じことを書けば、これはどうしてだと直ぐに見破られてしまいますから、陳寿は、簡単に書きました。
このような状況から、はじめの12月の船は沈没したと想像してもいいことになります。その時の金印はどうなったか? 勿論、海のなかです。後の便で受け取ったものは、以外に卑弥呼の墓である箸墓古墳から出てくるはずです。問題の銅鏡100枚も海の中です。100枚をもう一度造るのは、大変で、340年には間に合わないので、日本で作り、景初4年とした話は、前に述べました。

| | TrackBack (0)

2005.04.25

魏志倭人伝を読む  籠神社の位置

No22
このページのタイトルをどのように付けようか迷った。難升米から急に籠神社です。関係がないようですが、大いに関係があるのです。丹後には、元伊勢と称される神社が、三つあります。どの神社も証拠があるのではなく、自分の神社が元伊勢であると宣言しておられます。本当は、一つしかないと思うのですが、これを宣言すると神社の格が上がると思っておられるからだと思います。特に、全国の式内社の神社は、どの神社も式内社であることに、誇りを持っておられるようです。朝廷から認められていた古い神社であると。籠神社は、元伊勢だと宣言しているから、変だと思いました。元伊勢であるなら、天照大神が祀っていないと駄目なのに、祀ってはありますが、なぜか、付け足しのように祀られて、主祭神は彦火明命となっています。だから、私は、難升米はスパイであり、籠神社は、その元に組み込まれていた。そんな位置にいたのだと思いました。
本当の元伊勢は、大江町の皇大神社で、そこで、天照大神のお守りをしていた巫女が、卑弥呼であり、崇神天皇の妹であると確信しました。それゆえ、死後は、崇神天皇の御陵の隣に、葬られました。箸墓古墳がそうです。
籠神社については、なに一つ知りません。金久与市著の「古代海部氏の系図」という本を持っていることと、平成17年3月21日に籠神社へ行ったときのインスピリーレーションのみです。そんないい加減な知識ですから、話半分にして読んでください。
 No21において、天孫降臨に際して、天照大神は、最初に天忍穂耳命を派遣したとかきました。天忍穂耳命とは誰であるか知っておられますか?  天照大神の子供です。ところが、天孫降臨した天忍穂耳命は、賑わしくて手に負えないと言って帰ってきます。次は、天忍穂耳命の弟の天菩比神を使いに出しますが、大国主命が気に入って、三年経っても帰ってきません。天若日子と続きます。結果は、天忍穂耳命の子供の邇邇芸命が降臨することになりました。この辺りの古事記は、読んでいませんので、訳が判らないのですが、天菩比神は天の安の河で、速須佐之男と天照大神が誓約をしたときに、天照大神の息吹の中から生まれた五人の一人ですが、私はそのときに、家来になったと思っています。その子供の建比良命は、今は出雲の国造ですよと、注意書きをしています。ということは、漢人ですよと警告したと思っています。
このように、眺めますと、魏志倭人伝を読むときは、古事記と日本書紀をはずしては、正確に読めないことが判ります。
その上に、とんでも無いものが出てきました。1999年10月31日に籠神社に伝わる宮司の海部氏の系図が公表されました。この系図は、本物であることが認められて、国宝になっています。もう一つは、漢鏡が二つ伝わっていて、これも国宝に指定されました。
籠神社の祭神は、いっぱいありますが、主となる神は、彦火明命です。古事記によりますと、天照大神の孫は、邇邇芸命と彦火明命ですが、籠神社の系図では、彦火明命は第三子となっており、五人いる事になっています。
よく判りませんが、何故、このときまで、公表されなかったのかという事になります。
金久与市著の「古代海部氏の系図」のあとがきに、「今更ながら丹波降臨系の神話と神々を公開し、世間に知ってもらっては、天皇家に迷惑をかけることになる」と先代の宮司の海部穀定氏が話しておられたと書いています。
海部氏の先祖が、天照大神の孫の彦火明命であることが、確認されたのがどうして、天皇家に迷惑をかけるのか、理解できずに、この本は、ろくに読まずに本棚に収まっていました。籠神社の主神が、彦火明命であることは、伝承されていたことですし、漢鏡があることも分かっていたことです。出雲の国造も絶対口外してはならないと語り部だけで、言い伝えられている話が、司馬遼太郎の本に紹介されていました。籠神社も公表されていない部分が有るのだと思います。これが、世の中に知れると、「天皇家に迷惑をかける」のだと意地悪く考えました。
公表されてから、誰一人指摘する人がいないということは、問題にしてはいけないのかも知れません。
私の想像を、また書きます。
問題は、二つの鏡にあるのだと思います。息津鏡と辺津鏡の二面で、一つは中国の前漢・もう一つは、後漢時代のものです。樋口隆康氏(京都大学名誉教授・奈良県立橿原考古学研究所所長と説明あり)の鑑定によれば、辺津鏡は、約2100前のもの、息津鏡は1950年前のものです。この鏡のことは、海部氏系図の中の一つ「海部氏勘注系図」に書かれており、歴代の宮司の代替わりごとに、口伝えで言い伝えられたことが判ります。
 この本を買ったときは、別に不思議にも思いませんでしたが、ここ数年、漢の鏡や、発掘されて鏡を見ていますと、どうしても気になることがあります。鏡が粉々に割れているのが多いこと。割れたものをつなぎ合わせても、一枚の鏡にならないもの。本の欠片が出土しているものがあることです。勿論、割れていないのもありますが、割れていないのは、数枚埋葬されているように思います。神戸市の西求女塚古墳のように、石室が地震で崩壊下のであれば、鏡は割れますが、普通は、割れないでしょう。どうして割れているかとなりますと、誰かが割ったことになります。
前漢鏡や後漢鏡の殆どは、土の中から見つかっています。籠神社の鏡のように伝世されたものは、珍しいそうです。前漢鏡や後漢鏡は伝世するものではなく、墓に埋めるものだと考えると無理がありません。
 中国では、鏡を副葬するそうです。(調べていません) 生きているときに、使ったかもしれないが、死んだら自分は、前漢鏡を使用していた漢人ですよと誇らしく埋葬したのだと思います。軍人は、死ぬのは覚悟していますから、この鏡は自分では作らないで上の人から頂戴したのではないでしょうか?  辺津鏡は、約2100前のものとすると彦火明命が漢人から貰ったことになります。漢人の部下になったということです。この手の鏡は、殆ど、九州から出土していますから、九州には邪馬台国はなく、漢人が住んで支配していたことになります。その最大のものは、佐賀県の吉野ヶ里遺跡ではないかと思いますが、九州の遺跡をこれからすべて、チェックする必要があります。
この話は、天皇家で、語り告がれていたと思われます。公表するとこの話であれば、迷惑どころか、籠神社の立場は悪くなります。これが戦前であれば、全部没収されたと思います。公表できない部分があることを知っておられたから、公表されなかったことになります。
本当は、昔の話は誰にもわからないので、どうでもいいように思いますが、これで、前漢鏡はどのような意味があるのか、丹波・丹後にどうして、墓が多いのか、難升米がどうして難儀をしたのか、その話を魏志倭人伝はどのように伝え、古事記がどのように伝え、日本書紀がどのように伝え、籠神社がどのように伝えたかを比較し調べると面白いことが発見できると思います。
 籠神社へ行ったときのインスピリーレーションのことは書きませんでした。籠神社には、奥宮の真名井神社があります。ここへお参りしたときに、「あれー」と思いました。
時間のある方は、挑戦してください。

| | TrackBack (0)

2005.04.24

魏志倭人伝を読む  難升米とはどのような人物か――5

No21
難升米とは、変な名前です。陳寿は、難升米が難儀をしたので、難の字だけ当て字にしたのでしょうか? 中国の他の資料に当たってみましたが、名前はありません。
天照大神は、古事記にはどこへ行かれたというようなことは、全くかかれていません。
しかし、天孫降臨に際して、まず、天忍穂耳命を派遣します。このときは、「還り上りて、天照大神に申したまいき」とありますから、天照大神は高天原に居たことになります。ところが、続く文章に、「ここに高御産巣日神と天照大神の命もちて、天の安の河の河原に八百萬の神集へに集へて・・・」とあります。「命もちて」の意味がよく判りませんが、天照大神と高御産巣日神は遠くにいたから、「命もちて」との表現になっているのではないかと考えました。そこで諸々の神が相談して、天菩比神を葦原の中つ国に派遣します。天菩比神は三年たっても帰ってこないので、天照大神と高御産巣日神と諸々の神と相談して、天若日子を差し向けます。この部分の文章には、「命もちて」が有りません。この時は、天照大神と高御産巣日神は、高天原に戻っていたのでしょうか?   
天若日子は下照姫と結婚して、八年経っても帰りません。また、高御産巣日神と諸々の神と相談して、鳴女に決定します。このときの表現にも、「命もちて」はなく、高天原に居たことになります。
天若日子の所に行った雉の鳴女は、矢で打たれます。その矢は、高天原の天照大神と高御産巣日神に届き、その矢は、天若日子のところに、Uターンして、天若日子はその矢で死にます。次は、建御雷神を派遣する相談をしますが、ここにも、「命もちて」は有りません。「命もちて」の表現は、後2ヶ所出てきます。探してください。
「命もちて」という表現は、高天原にいなくて、命令したときと考えても良さそうです。
留守の間、どこに居たかといいますと、大江町の天座ではないかと想像しています。ここは、天照大神が月読命を派遣した夜久野町の東隣です。ここは、天座は御所で、福知山市にある「天照」の地名が、住まいまたは、別荘と想像を膨らませています。
この地より、少し東に行きますとも綾部市があります。
下の表は綾部市の遺跡の数を表しています。豊里地区 410の内、383件が古墳です。
物部地区は、225件の内、202件が古墳です。

豊里地区  物部地区   志賀郷地区  中筋地区 綾部地区 古美地区     計
 410     225       45        68     56     164      968   

西八田地区 東八田地区 山家地区  口上林地区 中上林地区 奥上林地区
  76     55       19     32      52          27       261
    
 486    280       64     100      108        191        1229 

郷土資料館の学術員の方に、物部町は物部氏と関係ありますかと質問しましたら、全く、関係ありませんと云われました。それでは、この古墳の多さはなんですか とはお聞きしませんでした。私は、このときの天照大神を守る軍隊であったと考えました。
この墳墓の多さは、並では有りません。私のコンピューターに、墳墓の名前などを入力していますが、未だに完成しません。
元の原稿には、この次に、物部地区の古墳の分布図があるのですが、上の表と同様に、うまく貼り付けることができませんので、省略します。

どこを掘ってもお墓といった感じです。300年いや、400年と戦争が続いたのだと思います。
綾部市の例を挙げましたが、福知山市・加悦町・野田川町、軒並みに古墳ばかりです。
この多さを説明しようとすれば、地元の方は、天国のような国があったように書いておられますが、戦争が繰り返されたことがわかります。それほど戦争をするに値する大切なものがあったことになります。丹後・吉備に共通するものは、絹です。このページは、難升米の話は、書きませんでしたが、難升米が中国本土から、絹の確保を命じられたと考えても良いとでしょう。
丹後王国・吉備王国などと呼ばれていますが、パラダイスがあったのではないと思います。

| | TrackBack (0)

2005.04.23

魏志倭人伝を読む  難升米とはどのような人物か――4

No20
陳寿は、景初二年と誤魔化して、船の沈没を隠したつもりでしたが、とうとう見つかりました。見つけたのは私ではありません。田村誠一という方です。前述のようなストーリーを書いておられましたが、私は信じることが出来ませんでした。こつこつ、現地に行って、調べてきましたが、鳥取県の墳墓数が多いことと、丹波、丹後の墳墓数が多いことは、このようなことでないと、今後、いくら、発掘が進んでも説明は付かないと思います。
ところで、難升米は、その後、どうなったのでしょう。魏志倭人伝の方は、なにも書かれていません。日本書紀のほうには、玖賀耳之御笠が、日子坐によって、殺されたことが記されています。古事記の方は、なにも書かれていません。崇神天皇にとって、不名誉なことですから、書かなかったと思います。歴史書とは、そういうものであると考えて読まないととんでもない間違いをします。その後のことは、魏志倭人伝には、
「其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼興狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遺倭載斯・烏越等詣郡、説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等、因齋詔書・黄幢、拝假難升米、爲檄告喩之。
 卑彌呼以死、大作冢、径百餘歩、狥葬者奴碑百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女臺與年十三爲王、國中遂定。
 政等以檄告喩臺與。臺與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、途政等還、因詣臺、辭上男女生口三十人、貢白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雑錦二十匹」
倭の女王卑彌呼は、帯方郡の長官が変わったこともあって、拝謁に行ったことになっています。この部分は、狗奴國男王と卑彌弓呼が元から、不和で、諍いばかりしていることを報告したことになっていますが、実際は、難升米が自分を司令官に命じてもらうために行ったことがわかります。狗奴國男王と卑彌弓呼は、隣りです。喧嘩などしていないはずです。
福知山の天津まで、崇神天皇の勢力範囲であったのに、その後、ここは、難升米の勢力範囲に落ちます。その証拠は、天津の近くに、川を挟んで、南有路と北有が有ります。「有路」は中国の言葉です。天津は、漢人の手に落ちたことがわかります。
「卑彌呼以死、大作冢、径百餘歩、狥葬者奴碑百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女臺與年十三爲王、國中遂定」は、よく取り上げられているところです。卑彌呼は殺されたしかないと思います。そのようなことを書くわけにはいきませんから、死んだだけの記述になっています。「臺與」は、「イヨ」と読まれていますが、「トヨ」です。現在、大江町に外宮において、祀られている豊受神がそうです。後に、伊勢神宮の外宮にも祭られることになります。
「臺與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、途政等還、因詣臺、辭上男女生口三十人、貢白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雑錦二十匹」とあり、大夫率善中郎將掖邪狗等二十人を送り届けたことになっています。この中に、難升米の名前がありませんから、戦死したものと思われます。 陳寿は、魏の国が負けたことは、少しも書きませんでした。古事記も書きませんでした。

| | TrackBack (0)

2005.04.22

中国のデモに思う

古事記に書かれている神話は、すべて、実話であると考えて歴史を読み取りますと、日本民族は、漢民族に迫害された少数民族の寄り集まりであることが判ります。
 古くはチベットや雲南からの人が隠岐に逃れてきて住んでいる間に、現在の日本語に近いものが形成されたと思われます。紀元前3世紀には、中山王国の亡命者がやってきました。高い文化を有していた人たちですが、漢民族にあっという間に滅ぼされて記録は少ししか残っていません。
 つぎに、秦(漢民族ではないらしいです)に国を滅ぼされた周の王子、天照大神がヒルゼンに来ました。月読命は天山山脈から揚子江を下ってきました。スサノオの命は北朝鮮を漢に占領されて亡命して来ました。(この三人は、イザナギの子供で、三貴人と呼ばれています)
天照大神は雲南の漢に圧迫された稲作民をデルタ地帯に入植させるように命令しました。彼らは、少しずつやってきたのではなく、計画的に何十万人とも思える人たちが、日本海沿岸のデルタ地帯にやって来たようです。そのため、稲作は、西から徐々に青森まで伝わったのではなく、似たような時期に稲作が始ったと思える稲作の遺跡が各地で発見されています。
漢民族に迫害された少数民族とは、どうして判るのだということになりますが、 迫害の仕方が、徹底していたのではないでしょうか? どこも忽然として国が消滅していて、詳しいことが判りません。雲南の人たちは、迫害を受けても征服されたという記録がありません。征服されなかったのでしょう。それでは、雲南の人たちに記録がのこっているはずです。しかし、殆ど残っていないそうです。字が発達していなかったとも考えられますが、徹底的に、迫害を受けたのかも知れません。
中山王国の亡命者は、イザナギとイザナミではないかと思っています。その後に、日本で起こった歴史的事実と考古学的なものは、漢民族と迫害された少数民族との戦いであったと考えると、銅鐸のなぞ、三角縁神獣鏡の謎、神武東征の謎、あらゆる謎がすべて氷解します。
それでは、現在の日本人はといいますと、その頃に、戦っていた漢民族の人と、混成人種との寄り集まりということになります。2000年経っても、カッとなって怒る人と、辛抱する人とに別れます。さて、あなたは、漢民族の末裔とおもわれますか? それとも、迫害された少数民族の末裔と思われますか。どちらかに属しますが、仲良くやっていきたいものです。
怒る方は、今の中国のデモを見れば判ります。怒らない人は、しぶしぶ、損を覚悟で、中国を撤退することになると思います。

| | TrackBack (0)

2005.04.21

魏志倭人伝を読む  難升米とはどのような人物か――3

No19
⑧ 240年 太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國にやってくる。239年の12月に「今以絳地交龍錦五匹・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹、答汝所献貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・眞珠・鉛丹各五十斤」に書かれている通り、山ほどの土産を持ってきたと書いたのに、なにも書いてありません。やって来た使者は、「建中 校尉 梯儁」です。校尉は以前にでてきました。位です。梯儁は個人名です。建中は役職です。なんの役か判りません。
詔書の内容は、「制詔親魏倭王卑彌呼。帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米・衣使都市牛利、奉汝所獻男生口四人・女生口六人・斑布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻。是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫、装封付帯方太守假授。汝其綏撫種人、勉為孝順。汝來使難升米・牛利渉遠、道路勤勞。今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還」。
上の一行目は、私があまりすべて書くと読まれる皆さんが大変だろうと要約して書きました。原文を掲載します。
「太守弓遵遺建忠校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拝假倭王、幷齎詔賜金・帛・錦・罽・刀・鏡・采物。倭王因使上表答謝恩詔。」
梯儁は拝假倭王(卑弥呼)とありますから、謁見できなかったのではないでしょうか? 持参したものは、「幷齎詔賜金・帛・錦・罽・刀・鏡・采物。」とあるのみです。高価なものを持参したのですから、書けるだけ詳しく書くのが当たり前です。前のときと同じものを持ってきたのでしょう。全く、同じものを書いたら、「おかしいな」と怪しまれるので、簡単に書きました。
⑨ 陳寿は、「景初二年六月」とわざと、一年前の年の出来事のように、「景初三年六月」を「景初二年六月」と書いたのだと思います。沈没したというような不名誉のことは、書きたくなかったのだと思います。
⑩ 「景初四年」の銘入りの鏡が、福知山から発見されました。このような年号は無いのに、現実にあるのでいろいろ騒がれました。このようなケースは、殆ど間違って製作したということになっています。その根拠は、「陳」という字だけが、裏向きになっているからです。勿論、外にも理由があると思いますが。
もう一度、おさらいです。「皇帝は、景初三年(239)の正月早々に亡くなっています」ということは、240年の仮に正月3日に亡くなっているとしますと、景初三年(239)の12月は、景初三年です。月が替わって、1月1日は、歳が変わりますから、景初四年(240)です。そして、1月4日から、正姶元年です。(これは間違っているでしょうか?)  三角縁神獣鏡にせよ、「景初四年」の銘入りの鏡にせよ、このタイプの鏡は、中国では出土していないそうです。ところが、魏志倭人伝の239年のところには、お土産として、「銅鏡百枚」とありますから、銅鏡が出土するたびに、それは、卑弥呼が貰った銅鏡だと新聞では騒がれ、とうとう、400枚を超えるようになりました。そうなると、卑弥呼が貰った銅鏡だと云っておられた方は、いまさら、訂正する訳にはいきませんから、それは、魏の国が、日本の卑弥呼専用に作ったので、中国には無いのだと説明しておられます。私は、三角縁神獣鏡は、これからまだまだ、発掘されると思います。これは、卑弥呼に渡したのではなく、卑弥呼をめぐって、難升米と日子坐との激しい戦争で、戦死者がでることを予想して、100枚の銅鏡を用意したのだと思います。ところが、船が沈没したために、急遽「景初四年」の銘を入った銅鏡を、日本で製作したために、作った段階で、「景初四年」の正月までに必要と思い、製作したと思われます。従いまして、この種の銅鏡は、今後、出ないと思います。
⑪ 金印は、どうなったでしょう。勿論、海の藻屑となりましたが、又、作られたと思います。
⑫ 243年「倭王、また使大夫伊聲耆・掖邪狗等八人を遣わす。掖邪狗等、率善中郎将の印  
   綬を壹拜す」とあります。 難升米は位があがったのです。魏への使者は、伊聲耆・掖邪狗に変わりました。そして、245年には、 難升米は実質的に、黄幢をもたらして、軍隊を指揮するように命令しています。

| | TrackBack (0)

2005.04.20

歴史共同研究を提案

【町村外相抗議に】   読売新聞4月18日のトップ紙面のタイトルです。町村外相さん、抗議をするとは、大したものだ と思って、記事を読んでいきますと、「中国政府はこれまで、一度も日本国民に申し訳ないことはしてない」と謝罪を拒否。それどころか、日本はもっと歴史を勉強せよと云われた。そこで、町村外相は、〔歴史共同研究〕を提案した。李外相は了承した。
〔歴史共同研究〕なんて、誰が言い出したのでしょうか? 歴史の知らない人の云うことだと思います。いや、考え方はいろいろあるのだから、それも良いのだと言われる人もあるでしょう。私は、今〔魏志倭人伝〕を読んでいます。僅か、2000文字ほどの中国の歴史書ですのに、書かれている文章の解釈は、よくもこれほどあるなと思われるほどあります。魏志倭人伝でもそうであるのに、〔邪馬台国はどこにあった〕となると、日本人同士でも、まとめることなど不可能です。
魏志倭人伝は、魏の国のときに、陳寿という人が、著した中国の国史です。そのようなものに、正しいことなど書かれているわけがありません。利害関係のない記事は、正確だと思いますが、自国に都合の悪いことは、書いてないか、書いてあっても詳しくないように書くか、嘘のことを書くかです。そんなあやふやなものを元にして、両国で共同研究など出来るわけがありません。
出土したものを、両国で研究することは可能です。例えば、出土した鉄製品が、何時ごろ作られたものであるとか、その鉄はどこで採取されたものであるというようなことは、共同で出来ますが、その製品は、誰がどのような目的で作ったかとなると、共同ではできません。別に、情報をすべて公開して、それぞれ、考えることが大切です。中国のように、中国の歴史を一つに、決め付けてしまうことは間違っています。

まさか、歴史の学者がアドバイスをしたのではないでしょうね。

| | TrackBack (0)

2005.04.19

魏志倭人伝 奴国~邪馬臺國

No8を掲載するのを忘れていました。これを読んで頂きました後に、No9の 邪馬台国はどこだをもう一度お読みください。

No8
原文
東南至奴國百里。官曰兇馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。
南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。
翻訳
東南に行くと奴國百里に至る。官を兇馬觚と言う。副を卑奴母離と曰う。二萬餘戸有る。
東行すると不彌國百里に至る。官を多模曰う。副を卑奴母離と曰う。千餘家有る。
南に行くと投馬國に至る。水行で二十日。官を彌彌と曰う。副を彌彌那利と曰う。五萬餘戸ばかり。
南に行くと邪馬臺國に至る。女王の所であり都である。水行十日、陸行一月。官に伊支馬が有り、次は彌馬升と曰う。、次に彌馬獲支と曰う。、次に奴佳鞮と曰う。七萬餘戸ばかり。

考えたことを書きます。
4ヶ所を並べるとよく判ります。先ず、国の名前。距離または掛かる日数。官職名。戸数。
4ヶ国へ至るには、すべて末盧国を基点にするのでしょう。
奴國と不彌國とは、南北(?)に並ぶ、隣同士の国で、同じ人種(官職名が同じ)です。ただ、戸数が奴國は20倍です。不彌國は、奴國からできた新しい国でしょう。国が接しているなら、一緒になればいいですから、間に大きな河があるか、山があるはずです。
水行二十日というのがよく理解できません。仮に、上流から下流に下るのであれば、海を航行するより早いです。投馬國と邪馬臺國は、正確に南としますと、投馬國は邪馬臺國に飲み込まれてしまいます。やはり、この2国も隣同士なのでしょう。
注目すべき点は、邪馬臺國でしょう。女王がいること。戸数が最高の70000戸であることです。

さて、愈々、私も邪馬臺國はどこにあったかの論争に加わろうと思います。加わるにあたって、少しだけ皆さんの意見を読んでみました。何故「少しだけ」かと言いますと、大きく分けて邪馬臺國は奈良に有ったと九州にあったとどちらでもないとに分かれます。よくもこれだけ有るなと思われるほどあります。江戸時代、「新井白石」が「邪馬台国」畿内説を唱え、「本居宣長」が
 九州説を唱えて以来、現代まで続き、素人の私までが新説を述べようと言うのですから、全部読むことは不可能に近いと読まないうちから結論付けて私の新説(沈説となるかも?)を述べます。少し読んだ知識を眺めますと、No7で述べたように、方角・距離は、まともに考えた人は、すべて駄目になっています。畿内説は大和に到達できなかったり、九州は海の中に出てしまったりです。

| | TrackBack (0)

2005.04.18

朝日新聞を知る

朝日新聞社は、昭和51年9月25日に『邪馬台国』という本を発行しました。そのあとがきによりますと、昭和51年2月9日より4月10日まで、文化面に52回にわたって連載されたとあります。その記事の焼き直しの本です。
読者を馬鹿にした文が、18ページの「邪馬台国出版ブーム」です。他の出版者の人が喋った形をとって、「邪馬台国」と本のタイトルに入れると売れるという記事を書いています。かくして、あなたもこの本を買いましたといわんばかりです。このような調子の文章を朝日新聞の読者は読まされたのですが、その後、朝日新聞の売れ行きが落ちたわけではありませんから、読者は理解・納得されたのでしょう。
巻末に、「お世話になった人」の一覧があります。さすが、朝日新聞社です。87人からコメントを得て、それに加えて、膨大な書物を読んで、シリーズが構成されています。自分たち(新聞記者 )の研究はどこにあるか探していませんが、新聞と同じ形式です。名前を挙げて、その人は、どう云ったか、それに対して他の人は、どのように反論したか。両方の意見を述べて、一見フェアのように見えますが、その後、訳のわからない論法を展開しています。何のことか判らないでしょうから、実際の文章を掲載します。

論争の全面展開
小学校訓導から新聞記者になりさらに京都帝大文科大学教授となった内藤湖南は、明治四十三年、「卑弥呼考』という論文を発表した。明治以後の学説が、卑弥呼を熊襲または筑後、肥後あたりの女曾とし、大和朝廷の女王ではないしとしている点を批判し、倭人伝に登場する地名を九州から遠江までの地名と解釈した。この範囲を大和朝廷がすでに支配しており、その勢力で及んでいたとした。また卑弥呼は天照大神の社を大和から伊勢に移したという垂仁天皇の皇女倭姫命である、と考えた。
ほとんど同時に、東京帝大教授白鳥庫吉は『倭女王卑弥呼考』という論文を発表した。それによると、倭人伝の当時の九州は南北二大勢カに分かれており、北が女王国で南が狗奴国だった。卑弥呼はヒコミコト、狗奴国の男王卑弥弓呼はヒコミコトという尊称であり、固有名詞ではない。卑弥呼は狗奴国との戦争で死に、その国力は衰えた。そのうえ後ろだてになっていた魏の楽浪、帯方郡が滅びた。このため中国地方まで勢力を伸ばしていた大和朝廷が、一気に北九州を支配下におさめた。
東洋史学の二大権威が、まっ向から対立する形になった。以後、東大系の九州説と、京大系の大和説の論争が、現在まで続いている。今日的な読み方では、朝鮮半島南端に早くから倭の勢力が及んだとする内藤説は「帝国主義的」である。また、実際、朝鮮を植民地化した「日韓併合ニ関スル条約」は、内藤論文発表の直後の明治四十三年八月に調印された。しかし、白鳥の学問の「帝国主義的」性格も、内藤と甲乙をつけがたい。白鳥や、その説を支持した津田左右吉が、植民地経営の国策会社 南満州鉄道に協力して「南鮮歴史地理」の研究を進め、多大の業績を挙げたことは、かくれもない事実である。
帝国大学教授とは、そういう存在だった。そのことを、いま名指しで避難しても仕方がない。けれども、邪馬台国論争の根っ子に、このような性格がひそんでいることは、歴史の教訓として見落とすわけにはいかない。

以上です。この項は、まだまだ続きますが、図書館で読んで頂ければと思います。説明は要らないと思いますが、感想を少し。
① 二人の教授の論説の説明に、444字を費やしています。(説明など、正確にできるわけがありません)
② 残りに、371字です。
③ 「東洋史学の二大権威が、まっ向から対立する形になった」
  本当に、二人は東洋史学の二大権威なのでしょうか? まっ向から対立する形になったのは事実でしょうか?
④ 東大系の九州説と、京大系の大和説の論争が、現在まで続いているというのは、新聞記者の考え方でしょうか? お世話になった方の意見でしょうか? 参考にした本に書いてあったのでしょうか? このような新聞社らしい学説(?)を元にして、以後の論法が成り立っています。

このような意地悪い視点で新聞を読むと、新聞記事は、半分しか取り込んだらいけないことになると自分に言い聞かせています。(そのくせ、この本を買ってしまった。帯に、「学界の最先端をゆく諸成果を総合した邪馬台国論の決定版」とあったからです)

| | TrackBack (0)

2005.04.17

魏志倭人伝を読む 難升米とはどのような人物か――2

No18 
 続けて気になったことを記しておきます。
③難升米は、天子に会見するときは、帯方郡の太守である劉夏を通さないと駄目であること。
太守のほうが、位が上である。
④難升米、天子へのお土産に、男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を差し出し、帰途土産を貰っています。差し出したほうが、貧弱に思えますが、男生口四人、女生口六人の方が値打ちがあるのでしょう。中国では捕虜ということらしいですが、北朝鮮がスパイを日本に派遣するために、多くの日本人を攫っていったのと同じことなのでしょう。この頃、魏の国は、公孫氏との戦で手一杯であったと思いますが、日本に対して布石を打っていたと思われます。

⑤往復の年月に注目してみます。
239年6月 難升米は中国へ。 男生口四人、女生口六人を連れて報告へ。
239年12月 卑弥呼を親魏倭王と認め、金印紫綬を授与。難升米を率善中郎将とし、牛利を率善校尉とすると決め、銀印青綬を授与。
240年 太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國にやってくる。
243年     倭王、また使大夫伊聲耆・掖邪狗等八人を遣わす。掖邪狗等、率善中郎将の印  
         綬を壹拜す         
245年     倭の難升米に黄幢を賜い、 郡に付して假授せしむ。
247年     太守王キが、新しく任官した。倭の女王卑彌呼、狗奴國の男王卑彌弓呼と素より  
和せず。  そこで、倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。難升米は黄幢を受ける。
卑弥呼は、皇大神社にて、天照大神を祭っていました。この神社は、摂社は天手力雄命社 栲機千々姫命社が祭られ、末社には、熊野神社 三女神社以下八十社が祭られて、複雑な事情があったことがわかります。魏志倭人伝には、卑弥呼の側に、1000人の巫女が居たとかかれていますから、このようなことと、関係があるかもしれません。
6月に難升米を派遣したことになっていますが、卑弥呼が本当に天照大神の末裔とすれば、古い話ではありますが、天照大神は、中国の人に追い立てられて日本にやってきた人ですから、中国へ対等の立場であれば、まだしも、朝獻することを求めたなど考えられません。難升米が勝手に報告に行ったとすれば、少ない土産も納得できます。
 では、なにを報告に行ったか。現状報告ぐらいであれば、部下を使いに出せばいいです。
この点を探って見ます。
京都府峰山町の大田5号墳から方格規矩四神鏡で、「青龍三年」銘をもつ鏡が出土し、話題になりました。この鏡には同じ鋳型で作られた同笵鏡が2面知られており、本例は3例目になります。「青龍三年」は中国・魏の年号で西暦235年にあたります。仮に、西暦500年に、この鏡を作る理由はありませんから、西暦235年に作られ、これを所持していた漢人が、所有しており、死去にともなって漢人の風習として、埋葬のさいに副葬されたと思われます。大田5号墳の被葬者は、この鏡を西暦235年以前にもらって、または自分で作って所持していたか、死亡してから、近親のものが、235年の銘を入れて作成、副葬したと思われます。この頃は、丹後一帯は漢人の勢力が強い地域になっていたと思います。
⑥「卑弥呼を親魏倭王と認め」とは、おかしなことですね。卑弥呼が使者を派遣すれば、誰でも親魏倭王と認めるのでしょうか? 認める認めないの話は、常に利害が絡むものです。なになに賞などを授与するときには、必ず、私は、賞はほしくないと断る人が出てきます。ほしい人にとっては、売り込む必要があります。この場合は、難升米が売り込むことになります。難升米の期待通りであったかどうか判りませんが、243年には、率善中郎将の位を貰い、245年には、黄幢を貰っています。ただし、直接の家来ではありませんから、帯方郡を通じてしか受け取れません。
黄幢とは、黄色い旗のことでしょうか? 中国で黄色の旗といえば、皇帝の色・軍旗ではないでしょうか? 戦争の総司令官として認められたということです。スパイであった難升米はとんとん拍子で出世しました。でもなぜ軍旗が必要だったのでしょうか? 
⑦続きは、項を変えて記します。私の想像だからです。
 難升米は、スパイであり、半分卑弥呼を抱え込んで、丹後地方を支配していました。しかし、南進・西進をストップさせるために、月読命を夜久野町へ派遣し、それでも怪しくなってきましたから、天照大神が自身が福知山に進出し、一時、平静が保たれていましたが、天照大神の死後、漢人の勢いが強くなります。漢人の目的は、全国の絹を独り占めにするのが目的ですから、天皇に接近し、政権の交代をさせるか、傀儡政権を作るかどちらかです。235年は、崇神天皇の時代です。(そんな馬鹿なとの声がいっぱい出ると思いますが、この話は後日にします) 奈良におられた崇神天皇は、次第に危険を察知し、吉備の国に避難します。天皇代行は、倭迹迹日百襲姫です。難升米は、天皇の本拠地に乗り込むわけにいきませんから、卑弥呼を人質に幽閉します。そこで、助けに崇神天皇が出てくる。そこで捕らえるという作戦です。そうなりますと、卑弥呼は崇神天皇の妹ということになります。赤の他人ではこの作戦は成り立ちません。
これは大変な作戦です。スパイに任せておけることではありません。この作戦を指示したのは、京都府峰山町から青龍三年の字が入った鏡が発掘されました。235年です。この持ち主が命令した可能性があります。仮に青龍米とでもしておきます。
崇神天皇おびき出し作戦は、魏の国から、青龍三年の名が入った鏡を受け取った青龍米は、本国の命令で赴任します。235年から始められたと思われます。難升米と二人で、作戦の遂行をしますが、うまくいかず、卑弥呼を幽閉して、その報告をするために、喪中でもあるのに、本国へ旅たちます。
幽閉したことが、崇神天皇に知れることとなり、天皇は、狗奴國の軍隊の長官であり、崇神天皇の弟の日子坐に、難升米を討つことを命じます。戦乱状態となります。青龍米は戦いで戦死します。何の権限も無い難升米は、こうした様子を報告することになります。
難升米は6ヶ月もなにをしていたのでしょう。最も、危険とおもわれる12月に日本に戻ってきます。そのときは、難升米を率善中郎将であり、牛利は率善校尉の位を貰って帰ってきます。
ここまでのストーリーで随分間が飛んでいます。崇神天皇が、どうして危険を感じて吉備に避難しているのか? 卑弥呼を幽閉はどこに書いてあるのか?
さて、愈々、クライマックスです。日本に到達したはずの船は、日本の近くで、沈没しました。
いくら、想像でもひどいストーリーではないかと思われるでしょう。続きは、次号にします。

| | TrackBack (0)

2005.04.16

日本は真面目に歴史を見直す必要がある

今回の中国の暴動と云ってもいいような抗議デモを見て、中国はおそろしい国だと思いました。
デモを政府が煽っておいて、自然発生したといい、現実に日本大使館が襲われたのに、日本政府が間違っているからだと、堂々と反論しました。留学生が殴られたのは、実際の映像がないので、私は確かめる術がありませんが、少なくとも大使館がおそわれたということは、日本政府が襲われたことになります。理由はともかくとしても、大使館の警備をしていた警官は、デモ隊を阻止する素振りぐらいはすべきでした。
 本当に鬼のような顔をして罵倒を浴びせるシーンがありましたが、なにに対してあのようなことをするのでしょうか? 日本が常任理事国に入ることに対する抗議のデモですが、そのようには、みえませんでした。恐ろしい国民です。

① 朝日新聞は、南京で30万人を殺したといいますが、本当に殺したのかどうか、調べる必要があります。
② 慰安婦の問題も逃げないで、調べる必要があります。
③ 戦争は、いつの時代も悲惨なものですが、私は、日本軍が、人間とも思えないような殺戮を 朝鮮と中国・台湾とそして、東南アジアで繰り返してきたと聞かされてきました。
  本当なのか、今のうちに調べる必要があります。早くしないと何時までも、中国のような言い方になると思います。

今回、デモと平行して日本製品の不買運動を宣言しました。アメリカでよくありましたね。繊維製品の不買運動・三菱自動車の不買運動のときは、大きなハンマーで自動車を叩きつぶす映像が今でも頭に残っています。
現在は、BSEの牛の検査を緩めて、牛を購入するようにアメリカ政府は圧力を掛けています。日本の獣医師は、帯広の獣医師の自殺まで出すぐらいに、日夜頑張って、100パーセントの検査システムを作り上げましたから、100パーセント方式でやりますといっていますが、世界で100パーセントしている所はありません。日本は間違いだと主張しています。又、不買運動だと脅しています。
不買運動の歴史を調べる必要が有ります。日本は、世界に対して、不買運動をしたことがあるでしょうか? 私のように、一年間は、中国製品は買わないで置こう。5年間は、中国旅行はしないで置こうと胸に秘めた人はあったかもしれませんが、デモで行動を示す気配もありません。日本人は、本当に次々とおそろしいことをしてきたのでしょうか?
中国は、日本人を鬼のように言いますが、逆ではないでしょうか?
鬼に関する伝説と地名が残っています。私は、残っている所には、中国人が住んでいたと思っています。そこに住んでいてえらい眼にあった人々が、鬼が住んでいると表現したのだと思っています。
一番有名なのは、京都府の大江町の鬼です。全国で一番という鬼の資料館がつくられていまして、見てきましたが、間違っているなと思いました。鬼が住んでいたという大江山の麓に、皇大神社があります。元伊勢といわれ、内宮とも呼ばれています。
現在の伊勢が出来る前に、ここで、天照大神をお祭していたことになっています。どうして、このようなところで祭っていたか、今調べている最中ですが、このことは、日本書紀に崇神天皇の頃のことだと書いてあります。しかし、日本の歴史学会の人は、天照大神は伝説の人で、実在していなかった神さんで、普通に言われてきました皇祖神であると考えていません。
わたしは、天照大神は実在の人で、天照大神があの地で住んでいたからこそ、ずっと、その末裔が皇大神社のところでお祭りをしていたのだと思っています。それが、有名な卑弥呼ですが、卑弥呼は、巫女に卑しいという〔卑〕をつけたものです。
卑弥呼は、どのような人か、魏志倭人伝に書かれています。『呪術を行い、多くの人がその占いを信じていた。年はとっていたが、夫はおらず、弟が補佐して政治を行っている。
女王となってから彼女を見た者は少なく、1000人の女を召使いとして近侍させている。ただ男が一人だけいて、飲食を給仕し、彼女の命令を伝えるため居所に出入りする。宮室・やぐら・城柵をおごそかに設けており、常に番人がいて、武器を持って守っている』
こんなおかしなことを日本人は、ずっと、そのまま、信じてきたのです。どうして、見た人はいないのでしょうか。1000人も女が居たのに、男は一人だけだったとは?
やぐら・城柵を設けて、この中に閉じ込められていたのです。誰が閉じ込めていたか、それは、「難升米」という魏の国の占領軍司令官によってです。『呪術を行い、多くの人がその占いを信じていた』たったこれだけの言葉を信じて、日本人は、卑弥呼が、呪術で民衆を惑わしながら国を治めていたと解釈していました。
私のこのような考え方は、殆どの人は間違っているといわれるでしょう。しかし、大江町の周りには、膨大な古墳が有ります。加悦町・綾部市・福知山市です。それに加えて、丹後半島の大きな古墳群を説明しようとすれば、中国人と他の人たちとの戦争があったと言わないと説明がつきません。吉備、伯耆の国も、古墳が多いです。多いという表現は間違っています。多すぎます。ここも、古代に戦争が繰り広げられた所です。
このホームページで、私は「古事記を読む」と「魏志倭人伝を読む」を書いています。
読んでご自分で確かめてください。綾部市の物部という町は、天皇の軍隊の居留地であったと思います。どれほど、すごい戦争があったか、古墳の数が示しています。「難升米」は、最後は大江山に立てこもり、殺されたのでしょう。何故かと言いますと、古事記には、何も書かれていませんが、日本書紀には、玖賀耳之御笠が、日子坐によって、殺されたことが記されています。名前は違いますが、玖賀耳之御笠は、魏志倭人伝に書かれている難升米のことだと思います。そして、大江山の鬼がすんでいた伝説になったと思います。

鬼畜のように日本人をののしっていますが、逆であることがわかります。古代の歴史は、いいとしても、第二次世界大戦の歴史は、調べ直さなければなりません。しかし、調べて教科書に書けば、中国は、「間違ったことを書いている。教科書を訂正せよ」というのですから、おそろしい国です。

| | TrackBack (0)

2005.04.15

魏志倭人伝を読む 難升米とはどのような人物か

No17
この人物の名前をなんと読むのでしょう。だれにも判りません。私は「ナンショウベイ」と読んでいます。この人物のことは、魏志倭人伝に載っています。
その部分の翻訳
景初二年六月(238)、倭の女王は、大夫難升米等を遣わし郡(帯方郡)に詣り、天子に詣って朝獻することを求めた。太守劉夏、使を遣わし、将って送って京都に詣りました。
その年十二月、詔書して倭の女王に報じて言われるには、「親魏倭王卑彌呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米、次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉り以て到る。汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢獻す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王と爲し、金印紫綬を仮し、装封して帶方の太守に付し假授せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。
 汝が來使難升米、牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将と爲し、牛利を率善校尉と爲し、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、絳地交竜錦五匹、絳地スウ粟ケイ十張、絳絳五十匹、紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百牧、眞珠、鉛丹各五十斤を賜い、皆装封して難升米、牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。
正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詣書・印綬を奉じて、倭國に詣り、倭王に拜假し、ならびに詔を齎し、金帛、錦ケイ、刀、鏡、采物を賜う。倭王、使に因って上表し、詣恩を答謝す。
 その四年、倭王、また使大夫伊聲耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口、倭錦、絳青ケン、緜衣、帛布、丹、木 、短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壹拜す。
 その六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、 郡に付して假授せしむ。
 その八年、太守王キ、官に到る。倭の女王卑彌呼、狗奴國の男王卑彌弓呼と素より和せず。倭の載斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書、黄幢をもたらし、難升米に拜假せしめ、檄をつくりてこれを告喩す。
 卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。徑百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑彌呼の宗女壹與、年十三爲るを立てて王となし、國中遂に定まる。政等、檄を以て壹與を告喩す。
 壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って臺に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大勾珠二牧、異文雑錦二十匹を貢す。

①「景初二年六月」という文字から始まっています。景初二年は間違っています。なぜかといいますと、魏の明帝は景初二年の12月に発病し、景初三年(239)の正月早々に亡くなっています。昭和天皇が亡くなられたのは、昭和64年1月7日です。直ぐに、平成元年1月8日ということになり、昭和64年と平成元年はだぶります。ところが、中国では、斉王芳が即位しました。
新皇帝が位を継承したその年はそのまま先帝の年号を踏襲するという、漢の武帝以来の慣例に従い、引き続いて景初三年の年号が使われました。
その後、文章に、「其年十二月」のことが書かれており、「正始元年」のことが続きます。正始元年は景初四年のことになりますから、「其年十二月」は景初二年の十二月ではおかしくなり、「景初二年六月」は間違いであることになります。どの書物でも、間違いを指摘して、景初三年の書き間違いだと指摘されています。言い換えると勘違いであると。
間違いではなく、陳寿がわざと書いたと考えますと、ここに書かれた内容は随分変わったものになります。想像を膨らませて進めます。
②何故 陳寿は景初三年を二年と書いたかは後にしまして、景初三年のこととして、進めますと、
景初三年六月に倭の女王は、難升米等を使者として帯方郡に行き、天子に参って会見することを願い出ました。帯方郡の太守である劉夏は使を都に遣わして、難升米等を送って都にいきました。
景初三年十二月に卑弥呼宛に、書をしたためた。その内容は、あなたは、遠いにもかかわらず、大夫難升米、次使都市牛利を使者として送り、男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を持参し朝貢した。この忠孝に対して、あなたを親魏倭王と認め、金印紫綬を付け、梱包して帶方の太守に仮の形で渡しました。以後、勉めて孝順にするように。
これに加えて、難升米と牛利への処遇が書いてあります。「遠きを渉り、道路勤労す」とその理由が書いてあります。遠きを渉りは海を渡ってきた、道路勤労すは、長い道を苦労して歩いてきたぐらいでしょうか? 処遇は難升米を率善中郎将とし、牛利を率善校尉とすると決め、銀印青綬を引見の上、渡し帰国させました。そして、お土産になにを渡したかが書かれています。
難升米と牛利が難儀してやってきたから、労いの言葉とかお土産を渡すのであれば、解りますが、率善中郎将と牛利を率善校尉の役割を与えるのは、間違っています。この職を命じました。二人は、魏の国の家来であることを公表したようなものです。この職がどのようなものであるか私には判りません。二人とも率善と書いてありますから、難升米は率善という職域の中郎将という肩書きでしょう。率善がどのようなものか判りませんが、魏志倭人での別のところに、「女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を檢察せしむ。諸國これを畏憚す。」という文章があり、一大率の総元締めのようなものでしょうか? 諸國これを畏憚すとありますから。憲兵隊のような怖い存在だったのでしょうか。
難升米は大夫難升米とありますから、卑弥呼の重要な部下であったはずです。にもかかわらず、魏の天子から命令を受けています。現在でいえば、スパイのようなものです。
魏志倭人伝の冒頭の言葉は、「倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国、漢時有朝見者、今使訳所通三十国」とあり、今使訳所通三十国とは、言葉が通じるところと思っていましたが、一大率が置かれ、中国に支配されていたことがわかります。
原文を次に記しておきます。挑戦してください。
原文
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。
 其年十二月、詔書報倭女王、曰、「制詔親魏倭王卑彌呼。帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米・衣使都市牛利、奉汝所獻男生口四人・女生口六人・斑布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻。是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫、装封付帯方太守假授。汝其綏撫種人、勉為孝順。汝來使難升米・牛利渉遠、道路勤勞。今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹、答汝所献貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・眞珠・鉛丹各五十斤、皆装封付難升米、牛利、還到録受。悉可以示汝國中人、使知國家哀汝。故鄭重賜汝好物也」
 正姶元年、太守弓遵遺建忠校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拝假倭王、幷齎詔賜金・帛・錦・罽・刀・鏡・采物。倭王因使上表答謝恩詔。
 其四年、倭王復遺使大夫伊聲耆・掖邪狗等八人、上獻生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木?・短弓矢。掖邪狗等壹拝率善中郎將縛印綬。
 其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。
 其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼興狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遺倭載斯・烏越等詣郡、説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等、因齋詔書・黄幢、拝假難升米、爲檄告喩之。
 卑彌呼以死、大作冢、径百餘歩、狥葬者奴碑百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女臺與年十三爲王、國中遂定。
 政等以檄告喩臺與。臺與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、途政等還、因詣臺、辭上男女生口三十人、貢白珠五千孔・青大句珠二枚・異文雑錦二十匹。

| | TrackBack (0)

2005.04.14

民族意識と朝日新聞

さて、これから書くことは、正しいとは限りません。歴史が好きで、日本の歴史のことについて、知識を吸収していくと中国や朝鮮を抜きに出来なくなって、仕方なく両国の歴史も少し勉強するようになりました。そして、次第に民族というものは、強固な結びつきが何時までも続くものだと考えている所です。
昨日、散髪屋さんに行きまして、流れてくるラジオを聴いているうちに寝てしまったのですが、頭に残ったものがありました。
確か、こんちゃんという人だと思いますが、えらい立腹で、「朝日新聞は、おかしい」と盛んに合い方の人と喋っていました。日本の常任理事国入りに対して、数万人とデモが行われて、日本大使館が襲われました。それは、日本が、歴史を正しく見直さないで、中国に謝らないからだと政府は言っています。朝日新聞社は、社説で 〔小泉首相が、靖国神社に参ったりするからだ〕と主張していると。こんちゃん曰く、〔靖国神社と常任理事国入りとデモとは関係ない〕と。
私は朝日新聞を取っていませんので、〔朝日 中国 理事国〕で、Googleで検索したら、asahi.com: 日本の常任理事国入り、中国ネット上に1千万人反対署名 ...が、トップにヒットした。膨大なファイルがある中で、トップに出たということは、一番読まれた数が多いので、トップになったはずなのに、クリックしますと、ファイルがありませんと出ます。
上のキーで、検索し、ヒットしたファイルは96600あります。そのうちの10個が画面に表示されますが、上の二つはファイルを開らくことが出来ません。
あんた何様?日記 というファイルも開らくことが出来ません。
asahi.com: 日本の常任理事国入り、中国ネット上に1千万人反対署名 ...が出来ないのは、朝日新聞社が、これは拙かったとおもって、消去したのでしょう。
あんた何様?日記が開けないのは、よほど、厳しいことを書いたか、偶然、事故があったのでしょう。私は、ファイルが消されてたのだと思います。そこで、この文章を書くつもりになりました。
何故思ったかは、又の機会にします。こんちゃんの言動を信じるならば、堂々と朝日新聞は、日本政府が間違っていると批判したらしいです。それが正しいと思ったのですから、別に構わないでしょう。今に限ったことでは有りません。日本軍は、南京で30万人を虐殺したと報道を続けています。その最大の証拠は、虐殺のシーンで、子供が泣いている写真が上げられていましたが、数年前に、偶然、その写真が全く関係の無い写真であることが判ったときでも、弁解はしないで、今でも虐殺を主張しています。靖国神社参拝のことも、批判を続けています。
何故、このように朝日新聞のみが、中国よりの主張をするかということを考えられたことがありますか?
私は、タイトルに書きました〔民族意識〕の所為だと思います。朝日新聞社には、何人の人がおられるのでしょう? 僅かだと思います。この人たちが、数千万の人の意識を、社説という名の文章で変えてしまうのです。現在の中国も同じです。11億の膨大な人が住んでいます。100人ぐらいの小さなグループをまとめるのに、どれだけ大変であるか、皆さん経験されているはずです。11億の人をまとめようとしたら、何回でも同じことを言うことによって、洗脳するしか有りません。靖国神社はちょうど手ごろな話題です。常任理事国入りのいい話題が発生しました。インターネットは、どこの誰かわかりません。中国政府は関係ないといってますが、関係あるでしょう。朝日新聞ですら、人のファイルを消すことが出来るのですから、煽ることはわけありません。止めようと思えば、中国政府は止めることは出来たはずです。デモを煽って、人々が止まらなくなったところで、本題の領土問題です。石油の資源問題。これは、国民が一団となれるテーマです。悪い奴は、外国人だ。特に、日本人だ。中国国内の不満は、これで解消です。
このようなことは、中国にとっては、正しいことです。私の知っている所では、2000年来、このようなことを繰り返してきた民族です。日本人などと威張っていますが、日本人の5、6割は中国人だと思っています。その中でも、特に、中国の民族度が残っている人が、朝日新聞を経営しているのだと思います。
同じような考え方の方が読者になっておられますから、朝日新聞が、中国寄りの記事を書いても、読者の方は別に違和感は無いはずです。
朝日新聞社は、社説に書いたのですから、堂々と論を張ればいいはずです。ただ、朝日新聞は、世論がきついかなと思うと、論を張らずに沈静するのを待つようです。
先日、NHKとのトラブルがありました。はじめは、えらい勢いでした。このままでは、国会議員は辞職に追い込まれると思っていましたら、旗色が悪くなりました。じっと、嵐が頭の上を通るのを現在でも待っています。もう、同業者はなにも言いませんから、忘れ去られると思います。
2000年経っても、血というものは、消えないのが判ります。AとBの血を持つ人が、結婚しても、新しい血にはならないのです。残念ながら、民族意識は、日本だけではありません。アメリカでも、中近東でもこれから永遠に続くことだと思います。
H17.04.14
追伸、朝日新聞を応援している方、私のホームページは、壊さないでください。

| | TrackBack (0)

魏志倭人伝を読む 邪馬臺國はどこだ その6

No16
もう一度「其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王」の文章です。
奴国の南で、不屬女王の特別の地域です。中国からの指令で伊都国に赴任していた難升米という人物が、日本のことを調べて本国の魏に報告をしていました。狗奴國は天皇の軍隊がいて、近寄ることが出来なかったようで、狗古智卑狗という官職はわかったのみで、家が何軒あるか分からなかったのだと思います。本当は、魏と通じている国は、30あると書いたのですから、30の国の詳細を書いても良いのですが、8つのみです。書きたく無かったところもあったのでしょう。ここまで、読んで頂きますと、狗奴國は久米郡であることが判ります。奴国の南であっています。
「邪馬臺國はどこだ」と6回にわたって書いていますが、日本の資料には、ここだというものはありません。魏志倭人伝に書かれていることと日本のその頃の状況が、すべて合致すれば、邪馬臺國かは吉備であることは、否定できないと思います。

もう一つあります。
No6の⑤において、「世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐」は重要と書きました。
また、地図を用意してください。国土地理院の50000分の1の福知山の地図です。1時間ほど眺めていますと、変わった名前が見えてきます。上の方に、由良川が見えます。もう少し、大きい地図で眺めますと、長い川であることがわかります。実際に行ってみますと、ゆったり流れているのが判ります。傾斜が緩やかだからです。西に向かって流れていた由良川は、綾部市を通り、福知山で大きく北に向きを変えます。何分、広範囲のところから集めた水ですから、洪水になりますと、ここでは氾濫したと思われます。地名は「荒河」と付いています。古いほど地名は、その土地を表わしています。荒河と何鹿とは、どちらが古いか判りませんが、福知山市と綾部市一帯を昔は、何鹿郡と云ってました。読み方は「いかるが」です。奈良の斑鳩は、字は違いますが、同じ読み方です。奈良盆地のすべての川は、法隆寺のところで集まり、大和川一本に流れ込みます。奈良で一番標高の低い所のはずです。そうでないと水は集まりません。当然、ここでは洪水が起こります。「怒る」「活かる」の意味を含むのでしょうか? 故人となられましたが、辻保治氏は、全国の「イカルガ」地名を集め、地図をつけて発表されました。すべてに共通するのは、川が曲がっていたり、川合になっている所に名づけられていました。
続けて、読みにくい地名を探してください。
上から、上天津、天田、土師、天照、与戸、多利,久良部、鴨。山では城山、高龍寺山。ついでに、等高線にも目をやってください。
今、問題にするのは、「上天津」と「東勅使」です。天津は中国にある港の名前です。この辺りは、中国の人がいっぱい住んでいました。日野川の上流に「天津」という地名がありましたが(毎日新聞社大正14年発行の分県地図)、現在の地図ではなくなっています。ここは、大国村倭に近く、倭国の外港であったはずです。「天津」は今のところ二つしか見つけていません。
福知山の「天津」まで来た外洋船は、この港で小さな船に乗り換えて、竹田川を遡ります。緩やかな川です。兵庫県に入りますと「東勅使」というところに到着です。ここに、中国の特使を接待していたはずです。それから、加古川を下り、瀬戸内海に出たと思われます。
東勅使の辺りは、分水嶺になります。この辺りに降った雨は、日本海と瀬戸内海に流れ込みます。普通分水嶺の海抜は高いものですが、ここは日本で一番低い分水嶺ではないかと思います。昔は道が出来るときは、平地であればまっすぐに、傾斜地であれば、川に沿ってできます。分水嶺が標高2000mもあれば、誰も通りません。通るとすれば、誰かに追いかけられた時だけです。日本海側から、瀬戸内へ行くには、最も楽なコースであったと思われます。
丹後を含めて丹波(福知山周辺)では、何時の頃か判りませんが、はじめのうちは、いろいろの人種が入り混じって生活していましたが、次第に漢人の勢力が強くなったと思われます。西への進出を防ぐために、イザナギは月読命を夜久野町へ派遣しました。天照大神は、福知山市の天座に自ら出動し、高天原との間を何度か行き来したことが、古事記から想像できます。そして、漢人の南下を食い止めようとしました。
 一方、狗奴國の軍隊の長官は崇神天皇の弟の日子坐です。崇神天皇の妹である卑弥呼は、はじめの間は、皇大神社で、多くの巫女に囲まれて天照大神をお祭りしていましたが、難升米に幽閉され捕虜となります。そこで、倭迹迹日百襲姫は、日子坐を福知山へ派遣します。難升米は、卑弥呼が魏の国に大使を派遣したときの責任者として魏志倭人伝に名前が見えます。福知山には、玖賀耳之御笠の伝承があります。福原会下山人著の「多紀郷土史話」には、玖賀耳之御笠は海外から侵入してきた凶賊で日子坐王に攻められて逃げ回って最後に殺されたことを紹介しています。高句麗人であったことも書かれています。魏から派遣されたスパイの役目をしていた人と思われますが、高句麗人であったために、信用され高官として活躍していたのです。このことから、難升米と玖賀耳之御笠は同じ人物としていいと思います。
 伝説や地名ばかりをつなぎ合わせたものは、学問的に認められません。映画のストーリであれば面白いかも知れませんが、誰も見向きもされないと思います。
 大筋を書きましたので、間をすべて埋めていきます。間をうめてもまだ納得できないところが沢山出てきます。それは何故かと言いますと、魏志倭人伝は書かれていることが、すべて正しいことにして考える方、日本書紀がすべて正しく、古事記は信用できないと考えられる方は、理解することができません。そのために、古事記をもう一度読んでください。他の人が読み下された文章は駄目です。私が「新しい古事記の読み方」とのタイトルで古事記を読むことに挑戦しています。参考にして頂いてもいいですが、私は全くの素人で、読み始めて6ヶ月です。原文で必ず読んでください。神話と云われている部分が神話ではなく、大陸から追い出された人ばかりが四苦八苦しながら、日本人になっていく様が描かれています。
魏志倭人伝は、このあとも続きます。平行して読み進めながら、中国人がみた日本を読み取っていきます。
地図を眺めていて気が付かれたことがありましたら、応援してください。

| | TrackBack (0)

2005.04.13

魏志倭人伝を読む 邪馬臺國はどこだ その5

No15
崇神天皇が、なぜ危険な状態であったかは、複雑ですから、別の機会に書くことにして、どこに避難していたかを記します。西大寺の近辺の地図を眺めてください。国土地理院の津山西部が見やすいです。
 なにか見つかりましたか? 
「近衛殿」「高座」があります。「近衛殿」には近衛兵がいたのでしょう。「高座」は天皇が居られた所でしょう。ここは、昔は美作国・久米郡です。元は、伯耆国に久米郡がありました。神武天皇が居られたところです。天皇が居られないのに、近衛兵だけが居ることはありません。神武天皇は、東征に日向浦(境港の真北)を出発される前まで住んでおられたところです。
その後、久米郡は美作国に移りました。神武東征は伝説ということになっていますが、その伝説の中に、吉備に八年間駐留したとあります。日向浦を出た軍隊は、九州の漢人を征伐するために向かいました。吉野ヶ里をはじめとする一帯の漢人の拠点です。その後、東征に向かいますが、瀬戸内海は、すべて漢人の拠点であったと思われます。海岸に沿って、びっしりと並ぶ高地性集落の大部分は、そうであったと推察しています。軍隊でもっとも必要なものは、だれでも兵士と武器と考えますが、本当は食料です。第二次世界大戦で、日本が負けたのは、後方支援が無かったからです。あまり遠くまで進んだからです。神武天皇は、苗族を屯田兵として入植させました。どれぐらいの人がやってきたか判りませんが、相当数であったと思っています。入植するにあたって、向かいいれる港が必要です。
それは、熊本の天草ではないかと考えています。その根拠を次に記します。
昭和15年の皇紀2600年の事業の一環として、当時の内務省が、所管の府県社のうち、神武天皇を祀る神社の調べ、一覧表にしたものがあります。その資料によりますと、411社のうち、多い県を書きますと、熊本70、広島37、岡山32、福岡16、宮崎15、鹿児島15となっています。
そのうち、熊本県は、天草だけで44社にのぼります。勿論、この神社がすべて神武東征のときからあったとは云いません。また、神武天皇がここへ行かれたとも云いません。しかし、神武天皇の部下か、入植した人たちが、後の世に祀ったことは確かでしょう。
広島、岡山は、行宮が作られたところです。広島は埃宮、岡山は高嶋宮です。ここで、食料を増産したのですが、人が居たのではありません。そこへ入植させてから作りましたから、長い月日が掛かりました。魏志倭人伝の頃には、投馬国は50000戸で、邪馬臺國は70000戸という膨大な戸数(この二国だけで、朝鮮より多くなっています)となりました。
福岡16、宮崎15、鹿児島15も多い理由は判りませんが、鹿児島・宮崎を回った人もいたということでしょうか? 

| | TrackBack (0)

2005.04.12

魏志倭人伝を読む 邪馬臺國はどこだ その4

No14
倭迹迹日百襲姫は、岡山市内の岡山神社に祀つられています。外には、香川県高松市に田村神社と船山神社があります。後の世に、倭迹迹日百襲姫は四国に渡ったという伝説がありますから、両神社のことを考えると本当の事かもしれません。主神で祀られているときは、住んでいたか、通過したか何らかの関係があった筈です。岡山の吉備津神社や吉備津彦神社には、相殿に倭迹迹日百襲姫が祀られています。これは、この地に住んでいたのではなく、大吉備津彦の姉にあたるからでしょう。岡山にある神社の祭神を詳細に調べれば、「倭」の字がつく神を見つけることが出来るはずです。吉備津彦神社には大倭迹々日稚屋比賣命ガ見えます。吉備津神社には倭飛羽矢若屋比賣命が見えます。この神社の近くに、「倭」があった証拠です。
岡山神社は式内社ですので、夜麻登登母母曾姫と書かれていた祭神が、倭迹迹日百襲姫と書き改められたかもしれません。
 古事記の仁徳天皇の所に、后の黒比売を吉備まで追いかけていく話が載っています。
『天皇上幸之時。黒日賣獻御歌曰。夜麻登幣迩。爾斯布岐阿宜弖。玖毛婆那禮。曾岐袁理登母。和禮和須禮米夜』
意味は 「倭方に 西風吹き上げて 雲離れ 退(そ)き居りとも 我忘れめや」と殆どの方が、翻訳されています。それも、本文に「夜麻登」とあるのに、わざわざ倭と書いて、しかも、奈良の倭と断っておられます。断るということは、外の倭と間違われたら困るか。知らない人に親切に教えようとの心遣いかのどちらかでしょう。
吉備に、現在でも「大倭ヤマト」という地名があります。歌った場所は、吉備ですから、吉備の大倭と考えるのが、普通です。目の前の雲が風のために、千切れていく様を見ながら、歌ったのです。遠い奈良の大和のほうへ向かって吹いていると考えるのは、無理でしょう。吉備の大倭は、仁徳天皇の頃は、夜麻登と読んで、そこに住んでいる人の名前の前には、「夜麻登」と付けて呼んでいたことになります。そんなことは、少し前までは、普通のことでした。横町の一郎さん。本町の一郎さんと云うように。
 それでは、夜麻登登母母曾姫は、ここで何をしていたのでしょう。ここは邪馬臺國ですから、女王です。本当は、崇神天皇が政治・祀りごとを行うのですが、崇神天皇は危険な状態でしたので、避難をしていました。崇神天皇の妹の卑弥呼は、伊都国で、天照大神を祀っていました。政治は、男の国造が行っていました。支配は夜麻登登母母曾姫です。

| | TrackBack (0)

2005.04.11

古事記を読む 大蛇退治の後のスサノオ

No66
製鉄所の男たちは、男ばかりの世界だったのでしょうか? 男ばかりではなくとも女性の人数は少なかったと思われます。麓までおりてきては、略奪結婚とでもいうか、攫って行くことが多かったと思います。
さて、製鉄所を襲撃したことは判ったのですが、その後、この製鉄所はどうなったのでしょう。スサノオが引き続き製鉄をしたのでしょうか?
No64の一部を採録します。

「其の速須佐之男命は、宮を造作す可(ベ)き地を、出雲國に求めて、須賀の地に到り坐(マ)して、「吾は此地に來て、我の御心は須賀須賀斯(スカスガシ)」と言われました。其の地に宮を作り坐(マ)した。それで、其の地を今では須賀と云う也」とありますから、大呂には留まらなかったとおもいます。約束通り、スサノオは櫛名田比売を娶って須賀に落ち着いたのでしょう。
「須賀」という地名がどこにあるかといいますと、大原郡大東町須賀というところに、「須我神社」あり、須佐之男と稲田姫命が祀られています。きっと、ここの須賀に住居定めたのだと思います。
この製鉄所を人共に、壊滅させたのであれば、この製鉄の技術は途絶えたことになります。その後、200年ほどすると、No65で述べました製鉄所が生まれてくることになります。五色塚古墳のときと同様です。古墳にしても、製鉄所にしても、次第に高度に発達したという考え方は、可能性は強いが、100パーセントでないことを知らないと大きな間違いをする可能性があります。
 この後、スサノオは、もう一度古事記に登場しますが、スサノオ自身はどのような活躍をしたという記事は見えません。大国主命に国を明け渡したようです。このことは、後に取り上げますが、スサノオが行きたいと言っていた根の堅州あたりを大国主命に明け渡したようです。そうであれば、この当たりは、大国主命を祀った神社があるはずです。現在のところ、調べていません。鉄を作るのが得意であったとか、米を作るのが得意であったとかが判ればいいのですが、後になって、スサノオは京都の八坂神社に祭られるようになります。ということは、京都にも進出下とも考えられますが、京都に撤退したとも考えられます。撤退で有れば、鳥取県には、スサノオを祀る神社は少ないはずです。ところが、現在(H16.12.06)の鳥取県だけで、スサノオを祀る神社が、次のページだけあります。これは、昭和9年の調査による鳥取県神社誌に掲載されているものですから、京都の八坂神社から勧請したという神社もあるかもしれません。全く関係ないのに、スサノオを祀るということはありませんから、長年、スサノオは尊敬されていたと考えるべきしょう。 この表から見ますと、鳥取県からは撤退したとは思えません。

鳥取県におけるスサノオを祀った神社
 素盞鳴尊と表記されているスサノオは、日本書紀による表示です。日本書紀を作った人の支配を受けていたと思われます。スサノオの表記がいろいろあるのも、注目してください。なぜか? です。
一覧表にうまく出来ませんでしたので、リンク先の表を見ていただいてもいいです。〔リンク先
神社名   表記 神社名 表記 神社名 表記
荒神社 素盞鳴尊 茂田神社 素盞鳴尊 岩淵神社 素盞鳴尊
中谷口神社 素盞鳴尊 小畑上神社 素盞鳴尊 荒神社 素盞鳴尊
来見野神社 素盞鳴尊 荒神社 素盞鳴尊 岸野神社 素盞鳴尊
荒神社 素盞鳴尊 下津黒神社 素盞鳴尊 花原神社 素盞鳴尊
東井神社 素盞鳴尊 荒神社 素盞鳴尊 山上神社 素盞鳴尊
池田神社 素盞鳴尊 水分神社 須佐之男命 谷口社 素盞鳴命
貴布禰神社 素盞鳴命 鷹狩神社 須佐之男命 赤波神社 須佐之男尊
田岡神社 須佐之男命 笹尾神社 須佐之男命 津野神社 須佐之男命
福園神社 須佐之男命 賀茂神社 須佐之男命 東谷神社 須佐之男命
金山神社 素盞鳴命 片野神社 須佐之男神 品治神社 速須佐之男命
湯所神社 須佐之男命 萬田神社 素盞鳴尊 小西谷神社 須佐之男命
東大路神社 素盞鳴尊 西大路神社 素盞鳴尊 久来神社 須佐之男神
越路神社 須佐之男神 八幡宮 素盞鳴命 眞幡木神社 素盞鳴命
太田神社 須佐之男命 手見神社 素盞鳴尊 金比羅神社 素盞鳴命
温宇井神社 須佐之男命 篠坂神社 須佐之男神 毛谷神社 須佐之男命
郷原神社 須佐之男尊 三谷神社 素盞鳴尊 今在家神社 須佐之男尊
徳吉神社 須佐之男尊 釜口神社 素盞鳴尊 渡一木神社 素盞鳴尊
袋河原神社 素盞鳴命 都波只知上神社 素盞鳴尊 小畑神社 素盞鳴尊
弓河内神社 須佐之男尊 高藤神社 素盞鳴神 市谷神社 須佐之男神
郡家神社 須佐之雄神 福井神社 須佐之男神 隼神社 須佐之雄神
西谷神社 須佐之男神 見槻神社 須佐之雄神 志子部神社 須佐之男神
荒神社 素盞鳴尊 布留多知神社 素盞鳴尊 島神社 須佐之男尊
荒武神社 素盞鳴尊 南神社 素盞鳴尊 日埜田神社 素盞鳴命
荒神社 素盞鳴尊 横田神社 素盞鳴尊 茂田神社 素盞鳴尊
岩淵神社 素盞鳴尊 中谷口神社 素盞鳴尊 小畑上神社 素盞鳴尊
荒神社 素盞鳴尊 若桜神社 素盞鳴尊 来見野神社 素盞鳴尊
荒神社 素盞鳴尊 岸野神社 素盞鳴尊 根安神社 素盞鳴尊
荒神社 素盞鳴尊 池田神社 素盞鳴尊 明辺神社 素盞鳴尊
下津黒神社 素盞鳴尊 谷口社 素盞鳴尊 花原神社 素盞鳴尊
荒神社 素盞鳴尊 貴布禰神社 素盞鳴尊 山上神社 素盞鳴尊
山田神社 素盞鳴尊 鷹狩神社 素盞鳴尊 東井神社 素盞鳴尊
 まだまだ有ります。

| | TrackBack (0)

2005.04.10

古事記を読む スサノオが襲撃した製鉄所

No65
No62で、八俣大蛇は製鉄所のことだと書きました。このような話は、考古学界ではお話になりません。何故お話にならないかといいますと、現在までにわかっている鉄の遺跡は殆ど、6世紀ころ以後ということになっています。最近、どんどん更新されまして、BC200の遺跡カが見つかっていますが、普通はそんなに古くないと考えられています。少し例を挙げますと、岡山県総社市・千引かなくろ谷遺跡は、6世紀後半。岡山県久米町・大蔵池南遺跡は、6世紀後半。広島県庄原市・戸の丸山遺跡は弥生中期後半。岡山県・津寺遺跡は、200~340年。広島県三原市・小丸遺跡は、西暦200年などです。

小丸遺跡とくらべても 300年の隔たりがあります。
茨城県結城郡八千代町の尾崎前山遺跡は、縄文、弥生、平安の複合遺跡ですが、製鉄炉、付属施設、住居跡、出土した土器から判断して、8~9世紀後半と言われています。この遺跡から、出土した木炭を学習院大学の木越邦彦氏がカーボン14法(放射線炭素測定法)で測定したら、紀元前170年であったとのことです。仮にこの紀元前170年を採用しますと、八俣大蛇の製鉄所と同じになります。尾崎前山遺跡は縄文、弥生、平安の複合遺跡であると、なにを以って決められたのか判りませんが、もし、紀元前170が正しいとしますと、判定に1000年もの誤差があります。発掘の詳細が欲しいところです。
横田に近い町をあげますと、広瀬・仁多・大東・吉田村・安来市があります。かつての製鉄所があった所ですが、現在でも踏鞴製鉄が行われ日本刀が作られています。日本の製鉄技術は進んでいますが、日本刀になる玉ハガネは、砂鉄を木炭で還元する方法でないと作ることは出来ません。踏鞴製鉄の踏鞴は、足ふみによるフイゴを言い、フイゴで風を送ることによって鉄をつくる方法ですが、踏鞴の技術が伝わる前は、自然通風を利用して作られたと思われます。この技術を伝えたのは、中山王国から渡来した金山彦で美作の一宮である中山神社(チュウザン)に祀られています。

スサノオの剣が、切ったときに折れたということは、大蛇の剣の方が、品質が良かったということです。戦いは、八俣大蛇は製鉄所の従業員との戦いになり、スサノオの剣が折れたということです。田村誠一氏は、八つの煙道が、一つの太い短い煙道になって、赤い火を噴いていたと書いておられますが、その根拠として、現在でも、茨城県の日立鉱山の煙道が山の斜面に設けられていて、その煙突が短くて太くて、山の頂上にありますと書いておられます。きっと、茨城県まで見に行かれたのだと思います。
私も雲南市吉田村の踏鞴製鉄の後を見に行ってきました。踏鞴製鉄は古くからあったと想像されますが、改良を加えられ、現在では最高と思われる製鉄装置になっていることが語られています。その装置を見てきましたが、江戸時代のものであって、5~6世紀のものではありませんでした。
この装置を見て思ったことは、製鉄は、現在でもいろいろの面で大変らしいです。もう一つの欠点は大量に作れないことです。 八俣大蛇の製鉄所であれば大量に作れたのではないかと思います。

| | TrackBack (0)

2005.04.09

古事記を読む 速須佐之男命の大蛇退治  その3

No64
故是以其速須佐之男命。宮可造作之地求出雲國。爾到坐須賀【此二字以音。下效此】地而詔之。吾來此地。我御心須賀須賀斯而。其地作宮坐。故其地者於今云須賀也。
茲大神初作須賀宮之時。自其地雲立騰。爾作御歌。其歌曰。
夜久毛多都。伊豆毛夜幣賀岐。都麻碁微爾。夜幣賀岐都久流。曾能夜幣賀岐袁

於是喚其足名椎神。告言。汝者任我宮之首。且負名號稻田宮主須賀之八耳神。故其櫛名田比賣以。久美度迩起而。所生神名謂八嶋士奴美神【自士下三字以音。下效此】又娶大山津見神之女。名神大市比賣。生子。大年神。次宇迦之御魂神【二柱。宇迦二字以音】
兄八嶋士奴美神。娶大山津見神之女。名木花知流【二字以音】比賣。生子。布波能母遲久奴須奴神。
此神。娶淤迦美神之女。名日河比賣。生子。深淵之水夜禮花神【夜禮二字以音】
此神娶天之都度閇知泥(上)神【自都下五字以音】生子。淤美豆奴神【此神名以音】
此神娶布怒豆怒神【此神名以音】之女。名布帝耳(上)神【布帝二字以音】生子。天之冬衣神。此神。娶刺國大(上)神之女。名刺國若比賣。生子。大國主神。亦名謂大穴牟遲神【牟遲二字以音】亦名謂葦原色許男神【色許二字以音】亦名謂八千矛神。亦名謂宇都志國玉神【宇都志三字以音】并有五名

長いですが、一気に読み進みます。
そこで、是を以って、其の速須佐之男命は、宮を造作す可(ベ)き地を、出雲國に求めて、須賀の地に到り坐(マ)して、「吾は此地に來て、我の御心は須賀須賀斯(スカスガシ)」と言われました。其の地に宮を作り坐(マ)した。それで、其の地を今では須賀と云う也。
茲(ココ)に大神が初めて須賀宮を作られた時、其の地自(ヨリ)雲が立ち騰(ノ)ぼりました。そこで、御歌を作られまして、その歌は、「夜久毛多都(ヤクモタツ) 伊豆毛夜幣賀岐(イズモヤヘガキ) 都麻碁微爾(ツマゴミニ) 夜幣賀岐都久流(ヤヘガキツクル) 曾能夜幣賀岐袁(ソノヤヘガキヲ)」

是に於いて、其足名椎神を喚(ヨ)んで、告げて言われるには、「汝は、我が宮の首に任ずる」
且(マタ)の名を負せて、稻田宮主須賀之八耳神(イナダノミヤヌシスガノヤツミミノカミ)と號(ナヅ)ける。そして、其の櫛名田比賣を以って。久美度迩(クミド)に起こして、生める神の名は、八嶋士奴美神(ヤシマジヌミノカミ)と謂(イ)う。又、大山津見神の女(ムスメ)、名は神大市比賣を娶(メ)とり、生んだ子は、大年神。次に、宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)。(二柱)
兄の八嶋士奴美神が大山津見神の女である木花知流比売(コノハナシルヒメ)を娶って生んだ子は、布波能母遲久奴須奴神(フハノモジクヌスヌノカミ)。
此の神が、淤迦美神(オカミノカミ)の女である名は、日河比賣(ヒカワヒメ)を娶って、生んだ子は、深淵之水夜禮花神(フカブチノミズヤレハナノカミ)。
此の神が天之都度閇知泥(アメノツドヘチネノカミ)神を娶って生んだ子は、淤美豆奴神(オミヅヌノカミ)。
此の神が布怒豆怒神(フノヅノノカミ)の女である名は、布帝耳(フテミミノカミ)神を娶って生んだ子は、天之冬衣神(アメノフユキヌノカミ)。
此の神が刺國大神(サシクニオオカミ)の女である名は、刺國若比賣(サシクニワカヒメ)を娶って生んだ子は、大國主神。亦の名は大穴牟遲神(オオムヂノカミ)と謂う。亦の名を葦原色許男神(アシハラシコヲノカミ)と謂う。亦の名を八千矛神(ヤチホコノカミ)と謂う。亦の名を宇都志國玉神(ウツシクニダマノカミ)と謂い、合せて五つの名がある。

長かったですね。
はじめに、二つ確認しておきます。
①「夜久毛多都(ヤクモタツ) 伊豆毛夜幣賀岐(イズモヤヘガキ) 都麻碁微爾(ツマゴミニ) 夜幣賀岐都久流(ヤヘガキツクル) 曾能夜幣賀岐袁(ソノヤヘガキヲ)」
この歌は、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」と岩波文庫の古事記には、書かれています。何のことか私には理解できません。八俣大蛇のときと同様に、また、「八」が沢山でてきます。ここも又、宿題です。
②「久美度迩(クミド)に起こして、」この後ろに、「生める神の名は」とありますから、同じく岩波文庫の古事記の訳では、「隠所(クミド)に起こして」と書いて、これでは、読者が判らないであろうと、注釈が付いています。「寝所で性交をはじめて」とありますが、これは、親切すぎます。「起」は、熟語で、発起などがありますから、「久美度にはじめて」でいいと思います。是で判らない人は,良いのでは?

ややこしいので、整理のつもりで行を変えたのですが、判り難いので、もう一度。
スサノオは二人の人と結婚して、「八嶋士奴美神と、大年神と宇迦之御魂神」の三人の子供をもうけました。
長男に布波能母遲久奴須奴神が生まれました。孫です。
この孫の子が、深淵之水夜禮花神です。曾孫(ヒマコ)です。
その孫の子が、淤美豆奴神です。玄孫(ヤシャマゴ)です。
その孫の子が、天之冬衣神です。これはなんと言うのでしょう。
その孫の子が、大國主神です。 
 速須佐之男命から六代目のが、大國主神です。
この生まれた子供たちは、出雲でうまれたのでしょうか? 
日河比賣の日河は、生まれた地名を著すのではないでしょうか。布波能母遲久奴須奴神の布波も地名。宇迦之御魂神の宇迦も。天之冬衣神の天もです。天(テン)は中国雲南省。刺國若比賣の刺國は、これまた、外国の地名(国名)でしょう。
このように考えると、布帝耳神の布帝も外国の名前かもしれません。
深淵、淤美、大國は、出雲にある地名かもしれません。 
この辺りの思索は、別に譲ることにします。

| | TrackBack (0)

2005.04.08

古事記を読む  速須佐之男命の大蛇退治 その2

No63
原文
爾速須佐之男命詔其老夫。是汝之女者。奉於吾哉。答白恐亦不覺御名。爾答詔。吾者天照大御神之伊呂勢者也。【自三字以音】故今自天降坐也。
爾足名椎、手名椎神。白然坐者恐。立奉。
爾速須佐之男命。乃於湯津爪櫛取成其童女而。刺御美豆良。告其足名椎、手名椎神。汝等釀八鹽折之酒。且作迴垣。於其垣作八門。毎門結八佐受岐【此三字以音】毎其佐受岐置酒船而。毎船盛其八鹽折酒而待。
故隨告而。如此設備待之時。其八俣遠呂智。信如言來。乃毎船垂入己頭。飮其酒。於是飮醉。死由伏寢。爾速須佐之男命。拔下其所御佩之十拳劔。切散其蛇者。肥河變血而流。故切其中尾時。御刀之刄毀。爾思怪。以御刀之前刺割而見者。在都牟刈之大刀。故取此大刀。思異物而。白上於天照大御神也。
是者草那藝之大刀也【那藝二字以音】

少し、多いですが、頑張って読んでみます。
速須佐之男命は、其の老夫に詔(ミコトノ)りされて、「是の汝(ナンジ)の女(ムスメ)を吾に奉(タテ)まつるか」
応えて申すには「恐れながら御名を知りません」と。そこで答え詔(ノ)りたまえられました。「吾は天照大御神の伊呂勢(イロセ・同母弟)の者也。今天より降りたところです」と。
足名椎(アシナヅチ)と手名椎(テナズチ)神は、「然坐者恐(居るのも恐れ多い) 立て奉つりましょう(ムスメを差し上げ)」と申しました。
そこで、速須佐之男命は、すぐに其の童女を湯津爪櫛に取り成して(姿を変えさせて)、御美豆良(ミズラ・御角髪)に刺して、其の足名椎と手名椎の神に、告げられました。 「汝等(ナンジラ)は、八鹽折の酒を釀造し、また、垣を作り迴ぐり、其の垣に八っ門を作り、門毎に、八つの佐受岐(サズ゙゙キ)を設置し、其の佐受岐毎に酒船を置いて、船毎に、其の八鹽折の酒を盛って待ちなさい」と。
そのように告げて暫くして、このように備(ソナエ)を設けて待っていると、其の八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)が、言ってたように信じて(?)来ました。すぐに、己の頭を船毎に垂らして入れて、其の酒を飮みました。是を飮んで醉い、死んだような状態で寝てしまいました。そこで、速須佐之男命は、其の御佩(ハカ・下げている)する十拳劔(トツカノツルギ)を抜いて、其の蛇を切り散らかすと、肥河は血に變って流れました。そして、其の中の尾を切った時、御刀の刄が毀けて、そこで、怪(オカシ)いと思って、御刀の前(サキ)で以て刺し割(ワ)って見ると、都牟刈(ツムカリ)の大刀が在りました。そこで、此の大刀を取って、異物だと思って、天照大御神に白(モウ)し上げました。
是は草那藝之大刀(クサナギノツルギ)也。

〔佐受岐〕は〔桟敷〕のことです。宴会ができるような広い場所も桟敷ですが、仮の棚のようなものも言うらしいです。ここでは、酒船を置く棚でしょう。
物語の内容は有名ですから、ここに書かれていることで難しくはありません。
大切なことは、名前を老夫に聞かれたら、「吾は天照大御神の伊呂勢(イロセ・同母弟)の者也。今天より降りたところです」と返事をした事です。天照大御の名前を出せば、判るぐらい天照大御神は有名であったのでしょうか? 追放になったのですから、こうは言わなかったと思うのですが、古事記の作者がこのように書いたとすると、天照大御神と須佐之男命の間は、それほど、険悪の間ではなかったことになります。誰かが、古事記の前の部分(爪を剥いで追放などと)を書き換えたというのは、穿ち過ぎでしょうか。
次に、気になることは、八俣遠呂智・八鹽折・八つ門を作り、門毎に、八つの佐受岐と八が付きます。勿論、頭が八つですから、後はすべて八でないと辻褄が合いませんが、八になにか意味があるような気がします。八百萬神・八百屋・八百八橋などは、八に多いという意味があります。古事記に出てきた八としては、八尺の勾玉・八拳須(ヤツカノヒゲ)・八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)・大八島国・八尋殿・八尺鏡・八十神です。眺めていてもなにも閃きません。

又、ありました。〔此の大刀を取って、異物だと思って、天照大御神に白(モウ)し上げました〕
〔異物〕は、変な物、尋常でないもの、怪しげな物という意味ぐらいでしょうか。重要なことと思ったから、天照大御神に報告したことになります。
ということは、その後の二人は、敵同士ということでもないはずです。
今後がたのしみです。
もし、敵同士になっていなければ、私の穿った味方ではなく、誰かが古事記を書き換えたことになります。 「新しい古事記の読み方」のタイトルではじめました。このような所が、これからも一杯出てくると思います。おかしいと思われるところありましたら、教えてください。

もう一つ付け足します。古事記原文では、
【肥河變血而流】 この部分の肥河は、現在の斐伊川のようです。
No62 に有ります【降出雲國之肥(上)河上在鳥髮地】の肥(上)河は、(上)が入っています。古事記の作者は別の川を考えていたはずです。No62において、肥(上)河は、現在の日野川かもしれませんと書きましたが、日野川の上流に鳥上山がありますから、これが正しいようです。

| | TrackBack (0)

2005.04.07

古事記を読む  速須佐之男命の大蛇退治

No62 速須佐之男命の大蛇退治
又、須佐之男命の有名な神話の部分です。少し長いので分けて解読です。
故所避追而。降出雲國之肥(上)河上在鳥髮地。此時箸從其河流下。於是須佐之男命。以爲人有其河上而。尋覔上往者。老夫與老女二人在而。童女置中而泣。爾問賜之汝等者誰。故其老夫答言。僕者國神。大山(上)津見神之子焉。僕名謂足(上)名椎。妻名謂手(上)名椎。女名謂櫛名田比賣。亦問汝哭由者何。答白言。我之女者自本在八稚女。是高志之八俣遠呂智【此三字以音】毎年來喫。今其可來時故泣。爾問其形如何。答白。彼目如赤加賀智而。身一有八頭、八尾。亦其身生蘿及桧榲。其長度谿八谷峽八尾而。見其腹者。悉常血爛也【此謂赤加賀知者今酸醤者也】

さて、追放されて、出雲國の肥の河の上流の鳥髮の地に降りました。この時、お箸が河を流れ下ってきました。そこで須佐之男命は、其の河の上流に、人がいると思って尋ね覔(モ)とめて上って往くと、二人の老夫と老女がいて、二人の仲に童女を置いて泣いていました。「汝等は誰か」と問われますと、其の老夫が答えて言うには、「僕は國の神です。大山津見神(オオヤマツミノカミ)の子ですよ。僕の名は足名椎(アシナズチ)と謂(イ)う。妻の名は手名椎(テナズチ)と謂う。女(ムスメ)の名は櫛名田比賣(クシナダヒメ)と謂います」 亦、問う「汝は何の理由で哭(ナ)いているのか」。 答えて白(モ)して言うには、「私の娘は、元八人の幼い子がいました。そして、高志(コシ)の八俣(ヤマタ)の遠呂智(オロチ)が毎年来て喫(ク)ってしまいました」「今が来るときなので泣いています」と。 その形は如何かと問いますと、「その目は赤加賀智(アカガチ)の如くで、身が一つなのに、頭が八つあり、尾が八つあります。 亦、身体には蘿(コケ)と桧と榲(スギ)が生(ハ)え、その長さは八つの谷峽と八つの尾根に度(マタ)カがっています。其の腹を見れば、どこもかしこも血で爛(タダ)れています」【此に赤加賀知と謂(イ)うのは、今の酸醤(ホオズキ)なり】  以上が、私の翻訳です。
出雲國の肥の河の上流の鳥髮の地とあります。肥の河は、斐伊川のことでしょう。(日野川かもしれません)どんどん登っていきますと、大呂(島根県横田町)に着きます。この近くに船通山(1142m)の麓に、鳥上(トリガミ)があります。これが古事記にある鳥髮と思われます。手元の大まかな地図では、大呂は六本ぐらいの道が集まっていますから、その当時は、八つぐらいあったのでしょう。古事記では、【高志之八俣遠呂智】と書かれている【八俣遠呂智】が【八俣の大呂】であることが判ります。
古事記のどこを読んでも大蛇とは書いてありませんのに、いつの間にか大蛇となり、大蛇退治になっています。「大蛇」を「オロチ」と読むようになったのはいつ頃からなのでしょうか。このように眺めてきますと、地名「大呂」は、その時代からあったと思われます。
稗田阿礼は、やはり横田町の大呂も訪れたと思われます。そして、スサノオがここの製鉄所を襲撃した話を聞いたのだと思います。その製鉄所は跡形もなく、全山が製鉄工場のようになっている話を聞いたのだと思います。この製鉄所は、踏鞴製鉄より進んでいたと思われますが、稗田阿礼が行ったときは、それを守る者はなく、過酷な製鉄所に嫁ぐものは無いため、略奪結婚が行われていたと考えられます。素晴らしい推理ですが、これは、私の物ではなく、田村誠一氏の推理です。
氏の推理をそのまま、続けます。
ここの製鉄所の構造を説明します。山の中腹に胴体が一つあります。その胴の上には、八つに分かれた煙突状のものがあります。一番上には、目のように見える真っ赤なホオズキのようなものがありました。ここから、温度を知るため、中の様子をみたのでしょうか?
加賀智は出雲の方言で、すり鉢のことですので、すり鉢状になっていて、そこから、炎が噴出していたのかも知れません。 胴の下にも、八つの部分があり、恰も尾のようでした。山ですから、その背に当たるところには、コケが生え、杉や桧が生えていました。お腹の部分は見ることは出来ませんが、血が出て、真っ赤に爛れているようになっていたでしょう。
陶器を焼く釜に、登り窯というのがあります。山の傾斜に窯を作り、高温を作り出す装置です。登り窯には、八つの頭も八つの尾もありませんが、この製鉄所はあったのでしょう。
コケや杉や桧が生えているのですから、地中深く、穴が開けてあったのではないでしょうか? 溶鉱炉に当たる部分は、上の方でしょう。上に行くほど高温になったのではないでしょうか? そして下の八つの部分から、鉄が流れ出てきたのではないでしょうか。
地中深くから、この製鉄所が発見されるかもしれません。
ここの人たちは、素晴らしい品質の鉄を生産していたと考えられます。この鉄を使って、素晴らしい切れ味の良い刀を作り、腰に下げていました。この後、古事記は続きますが、スサノオは、彼らをやっつけ、その刀を取り上げます。この刀が草薙の太刀と呼ばれるものです。現在でも、この辺りで作られる鉄は、日本刀にされています。
鉄を作るためには、膨大な木や炭が必要です。これを運ぶために、川が使われ、そしてそこを船が通りましたので、山の名前に、「船通山」が付けられました。少し、調子が良すぎるでしょうか? 地名はその場所で利用する人が誰にでも判るように付けますから、案外合っているかもしれません。
話変わって、地名「大呂」ですが、下記のように五ヶ所確認しています。

県 町名 東経 北緯 標高
1 島根 仁多郡横田町 133-07 35-11

2 島根 簸川郡佐田町 132-42 35-12

3 鳥取 八頭郡智頭町 134-17 35-16

4 京都 中郡峰山町

5 京都 福知山市 135-05 35-21-41.5 107m

あたかも、北緯35度11分~21分の間に、鉱脈があるかのように、「大呂」は並んであります。福知山市は、現地にいってきました。大呂に住んでおられる加藤さんにお話をお聞きしましたところ、昭和の初め(?) 田に鉄分の多い水が流れこみ、護岸をして流れを止めようとしたが停まらなかったとの話を聞きました。その辺りと思えると所を探しましたが、判りませんでした。中郡峰山町は現在でも、鉄ではなさそうですが、鉱山があり会社も存続しているようです。 

| | TrackBack (0)

2005.04.06

魏志倭人伝を読む  No12 他の諸国

原文 
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。

女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の旁國は遠絶で、詳細を得ることができない。次に斯馬國有り。次に己百支國有り。次に伊邪國有り。次に郡支國有り。次に彌奴國有り。次に好古都國有り。次に不呼國有り。次に姐奴國有り。次に対蘇國あり。次に蘇奴國有り。次に呼邑國有り。次に華奴蘇奴國有り。次に鬼國有り。次に為吾國有り。次に鬼奴國有り。次に邪馬國有り。 次に躬臣國有り。次に巴利國有り。次に支惟國有り。次に烏奴國有り。次に奴國有り。此れ女王の境界の尽きる所なり。その南に狗奴國有り。男子を王とする。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡(帯方郡)より女王國に至ること萬二千余里。
① 女王國より以北に次の国があると列記してあります。一番北が、奴国とあります。No8において奴国は、米子平野だと書き、邪馬臺國は、吉備の西大寺あたりだと書きました。ということは、上に書かれた国は、岡山と鳥取にすべてあるということになります。一部が現在の地名に当てはまり、その国の特徴を現している所を地図を眺めながら、探してください。
② 「其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里」は、重要だと思われます。「其南有狗奴國」の其の南とは、奴國の南です。国名は、狗奴國といい、男子の王がいて、わざわざ、邪馬臺國の支配下にはないと断ってあります。ということは、他の国は支配下にあったことでしょうか? 
③ 復習しておきますと、No6おいて、「伊都国」について触れました。
  「有千餘戸、世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐」とあり、ここは、岡山から遠いのにも関わらず、「皆統屬女王國」と書かれ、支配を受けていたことが判ります。
④「自郡至女王國萬二千餘里」も重要です。朝鮮半島のソウルの辺りが、魏が支配していた帯方郡です。そこから、邪馬臺國(岡山)まで、萬二千餘里とあります。一里は、ほぼ70mになります。「萬二千餘里」は、いい加減な数値とすれば、すべてが無になります。
   この70mという数字は、朝鮮の一里の数値です。「萬二千餘里」を採用しますと、九州も大和も当てはまらなくなります。陳寿は、中国と朝鮮の数値を混ぜながらつかったのでしょうか? そうとすれば、どこかにキーが隠されているはずです。

| | TrackBack (0)

2005.04.05

中国?  日本政府を批判

中国南部の広東省深セン市で3日、日本政府が目指す国連安全保障理事会の常任理事国入りに反対する抗議デモが行われました。

「歴史を忘れるな 事実を認めろ」というスローガンのもと、大規模な抗議デモが行われたことを新聞は報道しています。一部の地域では日本製品の不買運動などが起こり、反日感情はより一層強まっていることを書き添えています。
 
 詳しいことは、新聞社に任せて、どうして、日本が 常任理事国入りするのを嫌がるのでしょうか? もっと、詳しく中国政府に聞くことはできないのでしょうか?
「歴史を忘れるな」とは、誰れに向かって言っているのでしょうか? 政府の要人に対して云っているのでしょうか?  日本人全体について云っているのでしょうか?
一度、中国で、中国人にインタービューをして、日本史について質問をしてはどうでしょうか? ついでに、中国の歴史について質問してください。
 次の文章は、中国の正史に書かれていることです。
紀元32年  高句麗、後漢に従う
   36年  中国南方の異民族、後漢に従う
   37年  白馬羌という勢力、後漢に使節送る
   38年  西域2国、後漢に従う
   44年  韓国の人、後漢に従う
   57年  日本、光武賜より印綬を貰う。
 周りの国を攻撃して、すべて、自分の国の支配下においたことを自慢気に書き残しています。日本は、海があったためか、57年に挨拶に行ったことになっています。 こんな頃、日本もなにもあったものではありません。自分の身が危ないと思った人が、自分は従いますから、よろしくお願いしますと、ベンチャラを言いに云っただけです。
しかし、私の調べた所では、紀元前から、中国は日本へ侵出し、九州の北半分を支配下におきました。その中国人と戦争をしたのが、神武天皇です。その後、幾人かの天皇が、九州に攻めています。その後、238年ころには、魏の国が、日本支配を試みたが、司令長官の難升米は殺され、丹後半島から追い出されています。自分たちは負けたことは、書かないで勝ったことばかり、正史に書いてきましたから、どれほど、自分たちは素晴らしい人間であるかばかり思っているのでしょう。
しかし、終に、日本を自分たちの思うままにすることに成功し、日本書紀の編纂を行います。この人たちの時代がいつ終わったのが、何時のことなのか、日本人ですら知りません。何時までも、自分が中心だという「中華」という文字を国の名前にしていることこそ、恥じるべきでしょう。歴史始って以来、ずっと、他人を征服することで、成り立ってきた国には、日本に「歴史を忘れるな」など云う資格がありません。

| | TrackBack (0)

2005.04.04

魏志倭人伝を読む  No13 一大国をもう一度

 No6において、一大国に拘ったのですが、その後、あまり進展していません。考えたことを忘れないうちに書いておきます。
次に魏志韓伝の一部を記します。
韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。辰韓者、古之辰國也。馬韓在西。其民土著、種植、知蠶桑、作緜布。各有長帥、大者自名爲臣智、其次爲邑借、散在山海間、無城郭。

有爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國、大石索國、優休牟涿國、臣濆沽國、伯濟國、速廬不斯國、日華國、古誕者國、古離國、怒藍國、月支國、咨離牟廬國、素謂乾國、古爰國、莫廬國、卑離國、占離卑國、臣釁國、支侵國、狗廬國、卑彌國、藍奚卑離國、古蒲國、致利鞠國、冉路國、兒林國、駟廬國、内卑離國、感奚國、萬廬國、辟卑離國、臼斯烏旦國、一離國、不彌國、支半國、狗素國、捷廬國、牟廬卑離國、臣蘇塗國、莫廬國、古臘國、臨素半國、臣雲新國、如來卑離國、楚山塗卑離國、一難國、狗奚國、不雲國、不斯濆邪國、爰池國、乾馬國、楚離國、凡五十餘國。
大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸。

倭人伝と随分違います。距離も方角も一切ありません。これが書かれたころは、現在のソウルの辺りに、魏の国の日本でいう県がありました。帯方郡です。南與倭接とありますから、韓の南に倭の国が有りました。倭が、日本の大和の古称と一致するかどうかわかりませんが、一致するのでしょう。
不彌國があります。日本にもありました。末廬国から東へ100里の所です。朝鮮の不彌國の人が、日本に来て、不彌國と名前をつけた可能性はあります。字本来の意味を書きますと、「彌」は遠くまで届く、行き渡る、広く端まで行き渡るです。それに「不」が付くいていますから、行き渡っていない国となります。開発されていない国とも取れますが、以前は旺盛であったが、勢いが無くなっている国の意味も有るかもしれません。朝鮮の人が、不彌國と呼んでいたとは限りません。
「一」の字がつく国は、一離國と一難國です。「一」は「壱」ではなく、何故「一」なのでしょうか? わからないことは飛ばすことにしまして、「一」は一番目か一個のどちらかでしょう。一つにまとめる意味もありそうです。「離」は離れると減るがあります。一番人が離れて行って寂びれた国。一難國は、一番難がある国。
あまり良い評価では有りませんが、各国の状況を述べたものと思います。
③ 「大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸」大きい国で、万家、小さい国で數千家です。合計しても十萬餘戸とありますから、日本より少なかったことが判ります。
魏の国は、朝鮮を制覇したと思っているのでしょう。
魏志倭人伝を解釈する上で、この韓伝よりも倭人伝のほうが、ボリュームが多いから魏の国が日本を重要視していると書いてあるものを見ましたが、この時点では、別の意味で重要視していたことになります。(まだまだ、これから役に立つと)
全部検討したわけではありませんが、中国人の名前の付け方は、一部はその国の音からとり、一部は意味があるのではないてしょうか? 

さて、問題の「一大国」です。「壱岐」の壱は拝借し、「大」に意味があるのではないでしょうか? 大きくもないのに、「大」と書いて、一瞬、「一番大きい国」と思わせる。
思わせてどうしたいのだと考えますと、いろいろ考えることが出来ます。私はあまり他の国の人にというか、中国人に読んだときに、訳がわからないなと思わすだけで十分ではないかと思います。
魏の国があったときには、外に、蜀・呉という国がありました。この人たちが興味を持って、日本にやってくることは、困ったでしょう。中国人は、紀元前から、九州に来て日本の絹を集めて中国に運び、ヨーロッパに輸出していました。
一番大きい国が、大した国でない。魏志倭人伝には、「至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴」と書いてありました。本当に、この通りであったかもしれませんが、一大の国でこの程度ですよ。もっと、外のことも考慮に入れますと、オーバーに言いますと、軍事秘密的な部分を感じます。それ故に、方角は書かなかった。

④ 一大国と関係ありませんが、韓伝に「有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。辰韓者、古之辰國也」とあります。中国は、一つの国とみなして「韓」と書いていますが、「有三種」とあり、人種が違うのだと書いています。馬韓は、「知蠶桑、作緜布」とありますから、日本と同じ人種かも知れません。
⑤ 「大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸」ここに書かれている家と戸は別のはずです。どう違うのかわかりません。家という字は、上の部分が屋根で、下が豚です。
  戸は数を数えるときに使います。
  東夷伝の中に、烏丸について書かれた部分が有ります。「遼西烏丸大人丘力居、衆五千餘落、上谷烏丸大人難樓、衆九千餘落」似た表現と所ですが、こちらは「衆」が前にあり、後ろに「落」が有ります。なぜ使い分けているのでしょうか。
⑥ 全体に倭人伝にくらべて、蔑む漢字は少ないように思えます。

| | TrackBack (0)

2005.04.03

止まらぬ国の借金 751兆円

確か「止まらぬ国の借金」のタイトルで、ホームページに書いたなと思って、インターネットで検索したら、4件ヒットしました。止まらぬ国の借金について、あまり関心が無いことが判ります。私が書いたのは、平成14年10月18日のことです。その4件のうち、2件が私のものです。あれから、2年半の間に、ホームページに書いた人は、おられないということです。国の借金など、どうでも良い人ばかりだと言えます。

今回、751兆円に増えたとの報道がありました。国の借金と言うものがどういうものか知りませんが、この額は国債の合計だけでしょうか?  県や市町村の借金はどれぐらいでしょうか? 返すことは不可能です。一人当たりの借金額が、580万円? のように書いてありましたが、全人口で割って計算したものです。751兆円は、誰が返すのかといいますと、お金がある人が返します。15歳までの人は返せないでしょう。高齢の方も返せないでしょう。この方々を引きますと、1億人もいないはずです。
 
どうしたら返すことができるか考えてみました。私に限って云いますと、死ぬ間際まで働いても返せません。と言うことは、私は死ぬのですから、良いことになります。
政府には、いくらでも手があります。例えば、「円」は止めればいいと思います。「ドル」に似た「ドン」にします。政府は、新札に交換するときは、今の1200円を出せば、1000ドンと交換して貰えます。日本人は、仕方がないなと飽きられます。10年に一回こうすれば、借金は返すことが出来ます。日本人は、それでもいいですが、外国の人は、黙っていないでしょうね。どうせ、円の価値は、ここ最近で見れば、120円から100円ぐらいの間を動いているのですから、株が下がったのと同じです。そんな気配が予測できたら、皆がドルやユーローに変えるだけのことです。貧乏人は、変えるお金も有りませんから、問題ありません。問題は中流の人たちです。間違いなく財産を減らすことになります。
金持ちの人は、当然心配ありません。どうすれば良いか、すでに知っておられるからです。
どれぐらいのスピードで国民が新札にかえるか、どれぐらいタンス預金をしているかなど、この間の新札でデーターが揃ったと思います。

| | TrackBack (0)

2005.04.02

No11 邪馬臺國はどこだ その3

魏志倭人伝 ----No11 邪馬臺國はどこだ その3
愈々、邪馬臺國です。
「南に行くと邪馬臺國に至る。女王の所であり都である。水行十日、陸行一月。官に伊支馬が有り、次は彌馬升と曰う。次に彌馬獲支と曰う。次に奴佳鞮と曰う。七萬餘戸ばかり」
No10の②の投馬国と同様に、末盧国の南に位置する邪馬臺國に行くには、方法が二通り考えられます。

①水行十日、陸行一月と書いてある通り、先ず水行10日して、陸行一月であれば、投馬国へ行くときと同様に、日野川をのぼり、溝口町で舟を降りて、白水川に入ります。イザナギが禊をした「大河原」を通過し、内海峠を越えてヒルゼン高原です。ここは、私が「新しい古事記の読み方」において、述べています「高天原」です。このルートは、紀元前180年ごろから、利用されていたルートだと思います。蒜山からは、旭川が、岡山市までつづきます。このルートはすべて、川を下れないと思いますから、陸行となっていますが、一月も掛かりません。

②水行十日、陸行一月の順序にこだわらないと、末盧国から陸路倉敷に出て天神川に沿って遡れば、人形峠です。超えたところが吉井川です。直ぐに舟に乗ればいいのですが、船乗り場は、奥津温泉のところでないでしょうか? 
 現在は岡山市に併合されましたが、古都がありました。この近くに浦間茶臼山古墳があります。この古墳の特徴は、前方後円墳で、方の部分が八の字に開いています。これと同じ形式の墓が、奈良の桜井市の大神神社と崇神天皇の御陵の間にある箸墓古墳です。同古墳は宮内庁が倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)墓として陵墓指定し、発掘ができないことになっています。全長が280m。一方、浦間茶臼山古墳は138mで、吉備にある古墳の最大のものです。資料が手元にありませんので、確かなことは判りませんが、全長だけで比較すると、ほぼ、半分の大きさです。外に、全方部が八の字に開く古墳には、中山大塚古墳・元稲荷古墳があります。相似形ということは、同じ設計者または関係者が作ったと考えられ、また、埋葬されている人も何らかの関係があると考えた方が、無理が無いと思います。
  私は、箸墓古墳が卑弥呼の墓で、浦間茶臼山古墳が倭迹迹日百襲姫の古墳だと思っています。ところが難儀なことに、宮内庁だけではなく、箸墓古墳の地元にある橿原考古学研究所も、すべて、この墓は、4世紀の後半ということにしています。ところが、卑弥呼が生きていたときに、魏の国に使いを出したと魏志倭人伝に書かれているため、卑弥呼は3世紀の人です。100年もずれていますから、卑弥呼の墓であるはずが無いことになっています。倭迹迹日百襲姫の表記は、日本書紀に書かれている表記で、これでは、名前がなにを意味しているのか判りません。だれでも名前をつたときには、意味があったはずです。古事記には、「夜麻登登母母曾姫」とかかれています。これは、「夜麻登 登母母曾姫」と切って読みます。姫と有りますが、女王です。
 夜麻登に住んでいた登母母曾姫です。  

| | TrackBack (0)

2005.04.01

がんばれ ライブドア  その6

ニッポン放送がソフトバンク・インベストメントに株の大半を5年間貸すことに決定したことが報道がされました。これは、違法ではないらしいですが、私は違法だと思います。
こんなことが許されるのであれば、世の中、無茶苦茶です。
会社に何事も起こっていないときに、企業同士の提携を強化する意味で、株の持ち合いをするのであれば、解りますが、貸すのです。もう、数日で、株の名義も正式に、ライブドアになることが決まっているのに、役員会で決定するのは、許されないでしょう。役員会で、ビルも施設も、アチヤラカチヤンカという会社(架空です)に貸してもいいことになります。契約をどこかの会社が乗り込んできたときは、アチヤラカチヤンカ社は、ビルも施設も返さなくてもいいことにしておけばいいです。6月の株主総会に、ライブドアが役員を送り込んだら、株も施設も他の会社のものになります。
 私が馬鹿なのでしょうか?
どうせ こんなことしか考えないから、何時までもうだつがあがらないのですが、おかしな話です。
このニュースを聞いたときに、「がんばらなくて良いよ ライブドア」のタイトルで書こうかなと思っていましたが、産経新聞は、なりふり構わず、堀江がいかに悪い奴かを記事にしています。テレビも同様です。
 ライブドアが乗り込んできたら、どうしますかと踏み絵を突きつけられた出演者は、どちらかの返事を強要されました。もう、嫌になるほど出演している人ばかりが、私は出演しませんとカメラに向かって喋っているのですが、カメラは面白いですね。心から言っていないのが直ぐに判ります。
 北尾吉孝氏は、「大人の解決方法」を知っていますと、自信満々ですが、少し、品が無いですね。あれを見ていると、がんばれ ライブドア と又、云いたくなります。
価値がなくなったフジテレビは、どちらにしても、ソフトバンクにやられます。そのときは、もう見たくも無いタレントが、また、画面に現われることになります。
 爺さんばかりのどうでもいい話を聞かされることになります。

| | TrackBack (0)

No10 邪馬臺國はどこだ その2

日野川の流域を地図で眺めてください。宗像があり、三崎という地名があります。この辺りまで、海であったと思われますから、もう少し、南下したあたり一帯を奴国といったのではないでしょうか? その都はもちろん、大国主命がいた大国村倭です。
魏志倭人伝には、末盧国から東南に100里で奴国とありますから、奴国から西北100里の所に末盧国があることになります。問題は、100里がどれほどの距離かです。現在の日本では1里は4kmですが、韓国でも、中国でも時代によってまちまちでどれを採用したらいいか判りません。
東夷・高句麗伝のはじめに、「高句麗在遼東之東千里」と有ります。魏志倭人伝と同じ作者が書いた文章ですから、同じと考えますと、高句麗と遼東の間の距離がわからないのですが、400kmぐらいでしょうか? 1里あたり、400mとなります。
 中国でも、当時どのような数字であったのか正確には判らないそうですが、インターネットに、換算表が掲載されていましたので、記しますと、秦・前漢は498.6m、新・後漢は414.0m、魏・晋は433.8m、北魏は502.2m、隋は531.0m、唐・五代は559.8mとありました。
奴国から、西北に100里ということになりますと、松江(松浦?)が、第一候補になります。松江が末盧国(4000戸)としますと、東に100里のところが、不弥国(1000戸)です。福江町の東で、大山の麓になります。現在の東伯郡です。壱岐から末盧国までの方角は書かれていませんが距離は1000里です。この部分が軍事機密外としますと壱岐から400kmとなり、ほぼ距離が合います。他の国を順次考察します。
① 伊都国—陸行500里にして、至る。1000余戸。世々王あるも皆女王国に統属す。
500里は、200kmです。丹波です。中心は、京都府大江町にある元伊勢と言われる内宮(皇大神社)のある辺りです。丹波は、後に丹後に分かれます。(丹後王国?)
② 投馬国---南へ水行20日。50000余戸。南へ川ばかりといいますと、日野川と高梁川しかありません。JR伯備線が、この川に沿って走っています。それこそ、古代から使われていたルートです。作山古墳・造山古墳など巨大な前方後円墳がひしめき合ってあります。(吉備王国?) 高梁川の河口にかっての玉島市があり、げんざいの倉敷市です。私は日野川も高梁川も知りません。日野川は流れが緩やかですが、高梁川は、こんな川を上ったりできるのかと思われるところがあると思います。きょうとに保津川があります。現在、亀岡市から京都の嵐山まで、急流くだりを楽しむことができます。凄い急流です。乗った舟は元のところへ運ばなければなりませんが、現在はトラックで運んでいます。急流ですが、最近まで、舟を両岸から引っ張って亀岡に物資を運んでいました。勿論、亀岡の物も京都の嵯峨に運びました。現在の亀岡の船乗り場の近くに穴太寺があり、もっと、上流に遡りますと、丹波です。

| | TrackBack (0)

« March 2005 | Main | May 2005 »