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2005.05.31

続く海外での話題

その1 外人部隊
英国系警備会社に勤務する元フランス外人部隊兵士で、陸上自衛隊にも在籍した日本人の斉藤さんが、イラクで武装勢力に拘束された。戦争を生活の手段にしている者を賛美(?) するかのような取り上げ方をして、一部で報道されていました。

その2 謎のピアニスト
 記憶喪失をした男性が救助され、不思議なことに、映画「シヤイン」のストーリーと同じように、突然、ピアニスト並みの技量でピアノを弾いた話題です。何故こんな話のことで、メデイアが色めき立つのでしょう。

その3 旧日本兵が生存
その1、その2は残念ながら、長続きしませんでした。そこに降って沸いたのが、旧日本兵がミンダナオ島で生存しているとの報道です。この件は、手早く政府が乗り出しました。ジェネラルサントス市入りしていた在マニラ日本大使館員と厚生労働省職員の計5人は30日、同市を離れ、同島のダバオ市に入った。31日、マニラに向かうと報道されています。どうして、政府が乗り出さなければならないのでしょう。

外にもあります。中国と日本の国境のところの石油問題です。

メディアが偶々、乗っかったのか判りませんが、小泉首相にとっては有り難いことです。
JR西日本にとっても有り難いことです。上記三題のうち、二つが戦争関連です。この外に、ちらっと見たテレビに、実物大の戦艦を作って、戦争映画の撮影をしているシーンがありました。これほど、戦争を賛美(?)するかのように、テレビで報道され、小泉首相が靖国神社参拝を強調しますと、日本はおかしいぞと誰でも思うでしょう。
誰かが、自分の考える方向に向けるためにやっているのではないでしょうか?

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2005.05.30

大国主神と八上比売神

No85
米子市街の東を流れる日野川を遡っていくと溝口町がある。その隣町が西伯町です。県道180号線沿いに、〔倭〕がある。ここが昔の大国村です。一方、鳥取市の千代川を15Kmほど遡りますと、支流の曳田川があります。この辺りに住んでいたのが、八上比売神です。

 大国主神の兄弟である八十神と大国主神がどうして、100Kmほども離れたところの八上比売神を知っていたのか分かりませんが、彼女と結婚したいと旅に出ます。大山がどんと坐っていますから、日野川を下り海岸にでて、海岸に沿って千代川を目指したでしょう。
現在の気高町の岬を通りかかったときに、丸裸にされた素兎を見つけ、大国主神は兎に指示を与えます。
その後、千代川を遡ったことが、インターネットで次のように書かれています。
「鳥取市から河原町にはいると、「布袋」「袋河原」と言う地名があります。古に、大国主命が曳田の八上姫にかよわれた時、重い袋をここに置かれたというので「袋河原」、その袋は布の袋であったろうということで「布袋」と名づけられたのではないでしょうか。さらに、恋文を書いたところが「倭文」(鳥取市)。現在の「円通寺」(鳥取市)という地名は、2人が縁を通じた「縁通路」に由来するとか」。
「倭文」は、「しとり」と読み、全国あちこちにありますが、恋文とは関係なく、絹織物と関係があることが分かっています。地名もこのように考えますと楽しいです。
支流・曳田川に入りますと、曳田という集落があります。ここに、売沼神社(メヌマ)があります。ここの由緒には、「「延喜式神名帳」に「八上郡賣沼神社」とある神社でありまして、中世より「西日天王」といっておりましたが、元禄年間よりもとの賣沼神社という名にかはりました。御祭神は「八上姫神」でありまして御祭日は十月一日を大祭としております「古事記」の伝えるところによると、出雲国の大国主神は八上姫神をオキサキになさろうとしてこの因幡国にお出になりました。途中で白兎の難をお救いになりまして、この白兎神の仲介で八上姫神と首尾よく御結婚になりました。この神話伝説は漂着した外地の舟人たちが千代川をさかのぼって、まずこの曳田郷をひらいたことに間違はありません。対岸山麓の前方後円墳を神跡とするのも決して単なることとは云えないようであります」とあります。
大国主神と八上比売神は結婚し、御井神(別名木俣の神)を生みますが、八上比売神社と河ひとつ隔てた対岸にある黒木神社には御井神が大国主命と共に祀られていますから、八上比売神と御井神は、ここで過ごしたのでしょう。
 上に書きました由緒は、最近のものですが、古い由緒には、「由緒に売の文字の上に比があったのを延喜式に脱した」とあったことを田村誠一氏は、「平成古事記」に記しています。延喜式神社に指定されるまでは、「八上比賣沼神社」であったと思われます。
ということは、指定した人が、神社名を変えさせたことになります。


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2005.05.28

古事記を読む  大国主神はどうして兄弟に苛められたか

No84
古事記に従って読み進んできましたが、大国主神が、古事記に占める割合は大きいのに、建国に関わった話はありません。流れを追ってみます。
素兎を助け、兄弟から苛められ、その後、八上比売と結婚。また、兄弟から苛められます。その後、木の国に避難、根の国を訪問します。スサノオの女、須勢理毘売と駆け落ちします。スサノオから結婚は認められ、兄弟を追放します。次は高志国の沼河比売と結ばれます。
八上比売がついに怒るのかと思いきや、須勢理毘売の嫉妬の話があり、おのろけ話があるだけです。
命を懸けて、古事記を書いたにしては、内容が伝わってきません。作者はなにか重要なことを伝えたかったに違いありません。見逃していたのではないか、戻って検討して見ます。

No64 をもう一度確認します。スサノオには、三人の子供が生まれます。
① 八嶋士奴美神(母は稲田姫)
② 大年神 (大山津見神の女の大市姫)
③ 宇迦之御魂神
 八嶋士奴美神から5代目の孫が大国主神です。
父は天之冬衣神。母は刺國大神の女である、刺國若比賣となっています。
大国主神は根の国を訪問して、スサノオの娘の須勢理毘売と駆け落ちします。スサノオの子どもは、上に3人と書きましたから、おかしいことになります。スサノオの長兄である
八嶋士奴美神の5代孫が、大国主神ですから、100歳ぐらい年齢差があります。須勢理毘売は、娘ではなくスサノオの女であるか、古事記のほうに辻褄が合わないから、作為が加えられたかです。日本書紀では、刺國若比賣は登場しません。本文では、大蛇退治のときに、助けた奇稲田姫と結婚して、生まれたのが、大国主神とあります。日本書紀には、スサノオが追放されたときに、息子の五十猛命と新羅の国に行かれたことが記されていて、古事記と異なっています。
スサノオは、駆け落ちした二人を追いかけますが、許して大国村の主になれと言います。そして、兄弟を追い払えと言います。自分の子どもをすべて、追い払えということは、須勢理毘売はやはり、本当の娘でしょう。
八嶋士奴美神から5代目の孫ではなく、八嶋士奴美神の子供ということになります。もう一度、
No64に戻りますと、
① 布波能母遲久奴須奴神
② 深淵之水夜禮花神
③ 淤美豆奴神
④ 天之冬衣神
⑤ 大國主神
となり、5人兄弟の一人となります。それでも、まだ叔母と甥の関係になります。
このように考えますと、宇迦之御魂神の子供を除いても、22人の兄弟がいることになります。

さて、別の角度から検討を加えます。因幡の海岸に兄弟たちと出かけました。大國主神は、
最後に、袋をかついで歩いていました。自分で担いでいたのと、担がされていたのでは大いに違います。身分的に、最下位だったのか、年齢が下位だったのか分かりません。八上比売の奪いあいとなり、八十神から苛められたのか。最下位だったので苛められたのか分かりません。八十神は、大勢の神の意味にとっている人が多いですが、八十という名の神と捉えている人もあります。ここは、22人以上となれば、沢山の神々と取っていいでしょう。
⑥ 苛められた理由の一つに、人種問題があります。大國主神の母が、刺國若比賣です。刺國は、訓でよみますと、刺す国・太陽が照る国に対して、沈む国でしょうか? 中国と朝鮮になります。音では、〔しこく〕となります。この漢字の国は両国にありません。資料には登場しませんが、ユダヤ人が紀元前から、日本に来ていたようです。ユダヤ人関連でも、刺國はありません。同じ時代で無理に比定しますと、〔秦〕があります。一説には、始皇帝は、ユダヤ人の血が流れていると言われています。しかし、秦の国と刺國が同じというのは、無理があるようです。
⑦ もう一度、人種問題で検討します。古事記を眺めますと、イザナギとイザナミが多く割かれています。次は、スサノオです。その子の大國主神です。天照大御神は、大國主神に国を明け渡すように迫ります。スサノオも大國主神も天皇の方から見ると敵にあたります。天武天皇が、由緒正しき人物であることを述べるには、この人たちが、いかに天照大御神と人種が違うことを述べなければならなかったのではないでしょうか?
当時、朝鮮は、馬韓・弁韓・辰韓があり、一番南が辰韓で、後の新羅にあたります。魏志東夷伝の韓伝には、倭人と同様に、養蚕をして倭人に似ていることが記されています。北の高句麗人とは、人種が違ったようです。
   辰韓は辰国から興ったことが、魏志東夷伝の韓伝に記されています。こうなるとスサノオがどこからやってきたかを書かなければなりません。天照大御神も必要です。
 避けて通ることは出来ないようです。
 少し、古事記から離れますが、先ず、スサノオを検討し、次に天照大御神の出自を調べて、何故、大國主神は他の兄弟から苛められたに戻ろうと思います。

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2005.05.27

古事記を読む  須勢理毘売の嫉妬 その3

No83
爾其后取大御酒坏。立依指擧而歌曰。夜知富許能。加微能美許登夜。阿賀淤富久
迩奴斯。那許曾波。遠迩伊麻世婆。宇知微流。斯麻能佐岐邪岐。加岐微流。伊
蘇能佐岐淤知受。和加久佐能。都麻母多勢良米。阿波母與。賣迩斯阿禮婆。那
夜知富許能加微能美許登夜阿賀淤富久迩奴斯那許曾波遠迩伊麻世婆宇知微流斯
麻能佐岐邪岐加岐微流伊蘇能佐岐淤知受和加久佐能都麻母多勢良米阿波母與賣
迩斯阿禮婆那遠岐弖。遠波那志。那遠岐弖。都麻波那斯。阿夜加岐能。布波夜賀
斯多爾。牟斯夫須麻。爾古夜賀斯多爾。多久夫須麻。佐夜具賀斯多爾。阿和由岐
能。和加夜流牟泥遠。多久豆怒能。斯路岐多陀牟岐。曾陀多岐。多多岐麻那賀理。
麻多麻傳。多麻傳佐斯麻岐。毛毛那賀迩。伊遠斯那世。登與美岐。多弖麻都良世
*如此歌。
即爲宇伎由比【四字以音】而。宇那賀氣理弖【六字以音】至今鎭坐也。此謂之神
語也。

そこで、其の后(キサキ)は大御酒坏(オオミサカズキ)を取り、立ち依り指擧(ササ)げて歌われました。  以下、岩波文庫の訳を記します。
八千矛の 神の命や 吾が大国主 汝(ナ)こそは 男(ヲ)に坐(イマ)せば 打ち廻(ミ)る
島の埼埼 かき廻る 磯の埼落ちず 若草の 妻持たせられ 吾はもよ 女(メ)にしあれば 汝(ナ)を除(キ)て 男は無し 汝を除て 夫(ツマ)は無し 綾垣(アヤカキ)の ふはやが下に 苧衾(ムシブスマ) 柔(ニコ)やが下に 栲衾(タクフスマ) さやぐが下に 沫雪(アワユキ)の若やる胸を 栲綱(タクツナ)の 白き腕(タダムキ) そだたき たたきまながり 眞玉手(マタマデ) 玉手さし枕き 百長(モモナガ)に 寝(イ)をし寝(ナ)せ 豊御酒(トヨミキ) 奉らせ。
とうたひたまひき。かく歌ひて、すなはち盞結(ウキユヒ)して、うながけりて今に至るまで鎮(シヅ)まり坐(マ)す。これを神語(カムガタリ)と謂(イ)ふ。

 又もや、良く理解できませんが、前回り少しわかるような気がしますので、判り難い言葉の説明だけ記します。①磯の埼落ちず(?) ②妻持たせらめ(?) ③吾はもよ(?)
④綾垣—アシギヌで作った幕 ⑤ふはやが下(?) ⑥苧衾—からむしのベッド ⑦栲衾--カジの木の繊維で作ったベッド ⑧さやぐが下に(?) ⑨そだたき---しっかりと抱く
⑩たたきまながり(?) –〔まながる〕は 手足をさし交わして抱く ⑪豊御酒(?)—いっぱいの御酒?  ⑫盞結--酒を酌み交わして心の変わらないことを確かめ合う ⑬うながりて---肩にに手を掛け合って、仲睦まじく
 お后は、嫉妬して怒っているのかと思えば、そうでもないのですね。貴方以外に男はいないし、夫もいません。さあ、お酒をいっぱい飲んで、抱き合って寝ましょうといっていることになります。絹はカーテンとして利用されていました。カジの木でできたハンモック状のものに、カラムシで出来たベッドがあったことが分かります。

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2005.05.26

古事記 須勢理毘売の嫉妬 その2

No82
「出雲より將に倭國上り坐して、束裝し立つ時、片方の御手(ミテ)は、御馬の鞍に繋(カ)け、片の御足(ミアシ)は其の御鐙(ミアブミ)に」とありますから、ここでは、間違いなく、「馬」が使われていたことが分かります。
 さて、長歌の部分は、このままでは、意味が判りませんので、岩波文庫を拝借します。
ぬばたまの 黒き御衣(ミケシ)を まつぶさに 取り装(ヨソ)ひ 沖つ鳥 胸(ムナ)見る時 はたたぎも これは適(フサ)はず 辺(ヘ)つ波 そに脱き棄(ウ)て 鴗鳥(ソニドリ)の 青き御衣(ミケシ)を
まつぶさに 取り装(ヨソ)ひ 沖つ鳥 胸(ムナ)見る時 はたたぎも 此も適はず 辺つ波 そに脱き棄て 山縣(ヤマガタ)に 蒔きし あたね舂(ツ)き 染木(ソメキ)が汁に 染(シ)め衣を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも 此(コ)し宜(ヨロ)し いとこやの 妹(イモ)の命(ミコト) 群鳥(ムラトリ)の 我が群れ往なば 引け鳥の 我が群れ往なば 泣かじとは 汝(ナ)は言ふとも 山処(ヤマト)の 一本薄(ヒトモトススキ) 項傾(ウナガ)し 汝が泣かさまく 朝雨(アサアメ)の 霧に立たむぞ 若草の 妻の命(ミコト) 事の 語言(カタリゴト)も 是をば 

どうも頭が良くないのには、ほとほと参ります。何のことがさっぱり判りません。もう少し、砕いて読んでみます。黒い衣で、充分に装うて、水鳥が毛づくろいをするように、袖の袂を手繰り上げてみたりしたが、似合っていないので、波ぎわに脱ぎ棄てました。青い衣で、充分に装うて、水鳥が毛づくろいをするように、袖の袂を手繰り上げてみたりしたが、是も似合っていないので、波ぎわに脱ぎ棄てました。山の畑に蒔いた茜草の根を搗いて、その染め草で染めた衣で、精一杯着飾り、水鳥が毛づくろいをするように、袖の袂を手繰り上げてみたりしますと、此れは宜しいです。愛する妹よ 群れ鳥のように、我が皆と一緒に往ったなら、一匹が飛び立てば、他の鳥も一斉に飛び立つように私が行っても、泣かないと貴方は言うでしょうが、山の麓に生える一本のススキが首を垂れているように、項垂れて 貴方は泣きながら、きっと霧の中にたたずむでしょう。若々しい私の妻の事を語っておこう。
皆さんは、自由に読んで見て下さい。私はこのように読んでみたのですが、大国主神が、旅立に際して、仰々しく馬の鞍に手を掛けて、鐙に足を掛けたままで、言わなければならない内容でしょうか?  黒も青も衣は似合わなかった、茜色の衣は似合った。それだけ妻のために衣を選んだということでしょうか?貴方は泣かないい言うだろうが、 悲しむだろう。此れでは辻褄が合いません。ということは、私の訳が間違っていることになります。
私が注目したいのは、衣をすでに染めていたという事です。自然界にある木の実や葉から採取したものではなく、山の畑に染め木の種を蒔いて、植えてあり、それを搗いて作ると書いてあります。時代は、紀元前のことになります。
この長歌に対する歌がありますから、それを読んでから、もう一度、大国主神の長歌に検討を加えようと思います。

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2005.05.25

魏志倭人伝を読む   倭国大乱

No35
「倭国大乱」という言葉は、魏志倭人伝とは関係ありません。范曄(398-445)が著した中国史書の後漢書に書かれている言葉です。
「桓霊間倭国大乱あり」とあります。岩波文庫の訳本では、「大乱」を「おおいに乱れる」と読んでおられます。大いに乱れるとは、どのようなことでしょうか? 例えば、5つの国が、お互いに乱戦しているのでしょうか? 国数がもっと多くて30ヶ国が乱戦ということでしょうか。僅か、1000人ほどの国が、戦いをしたことを「桓霊間倭国大乱あり」と、国家の歴史書に書くでしょうか? 

やはり、桓霊に対して、倭国が、歯向かったのでしょう。
桓帝が即位したのが、146年です。霊帝が死んだのが、189年です。「倭国大乱」があった年代は、146~189年の間であることは、確かです。仮に桓帝が20歳のときの事件だとしますと、20年ぐらい続いたことになります。166~189年のことです。
一方、朝鮮の古代史〔三国史記〕に、「阿達20年(173) 夏五月、倭国の女王の卑弥呼が使者をよこして礼物を献じた」とあります。記述は簡単で、何のために行ったか判りませんが、使者が行ったことは、確かでしょう。
もう一つの資料です。日本書紀の崇神紀65年に任那国の使者が朝貢してきた記事があります。日本書紀に書かれている年代は、確かではありませんので、何時のことかわかりませんが、崇神天皇の次代に任那があったことは確かです。問題は、朝貢してきたかどうかは、割り引いて考えないといけないと思います。日本書紀は、作者の都合の良いように書いたと思われる所が多いからです。
任那の地は、中国が日本へ軍隊を送るときの、補給地であったのではないかと思っています。崇神天皇は、卑弥呼を通じて、新羅に使者を派遣し、中国の侵略を防ぐために、
任那の地を攻略したのではないでしょうか? 
任那が倭国の国となりますと、中国軍は、補給を断たれます。そうしますと軍人に支給していた鏡は無くなります。これは、軍人が死んだときに是非必要なものです。それまで、本国から送られてきた漢鏡がなくなります。食料もなくなります。そこで、漢人の人は、山に篭城し交戦です。最後には、全滅しますが、その地には、のちに鬼ヶ山とか鬼ヶ城のような名前が付けられました。かつては、そこは、竜王山と名前が付いていたと思われます。吉備の国、福知山の鬼伝説は、このときのものでしょう。日本の記録には、四道将軍の名前を記し、崇神天皇が中国人を攻撃したことを記しています。
すべて、想像になりますが、「倭国大乱」を倭国と中国の戦争だと読めば、その後、歴史は、無理なく説明が付きます。調子に乗りますと、後漢は、倭国との戦争に負けて国が潰れることになります。それほど、絹は国の経済に重要なものであったはずです。歴史書には負けたとは書けませんから、「倭国大乱」と書きました。 蛇足ですが、  桓霊(コウレイ)間に居られた天皇と言う意味で、孝霊(コウレイ)天皇でしょうか?

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2005.05.24

魏志倭人伝を読む   卑弥呼 新羅に使者を使わす

No34
朝鮮の古代史『三国史記』に「倭の女王卑弥乎、使いを遣わし来聘(らいへい)す」とあり、173年に卑弥呼が新羅に使者を出したことが判ります。卑弥呼が、魏の国に使者を送ったのが、238年です。このときは、崇神天皇のときです。天照大神を祭っていた巫女は、天皇家の独身の女性で、崇神天皇の妹だと思われます。このときは、前に述べましたように、難升米が、中国に報告に行くために、卑弥呼の命令で云ったように陳寿は書きました。173年のときは、孝霊天皇の命令で卑弥呼が新羅に使者を送っています。新羅に使者を送ったのは、間違いであるという人も居られますが、これは正しくて、魏の国に使者を送ったのは、間違いだと思います。そのことを述べるために、この号を書いています。
新羅は、日本と同様の苗族ですから、意思が通じ合いますから、孝霊天皇は卑弥呼を通じて福知山の天津から、新羅に使いを送りました。漢族から侵略を共同で防ぐためです。その結果、朝鮮半島に、任那という軍事基地が作られました。そのため、日本における漢族の人は、食料・武器・死者を葬るときに必要な鏡の補給が途絶えることとなります。
孝霊天皇は、大吉備津彦と若建吉備津彦に攻撃を命じます。結果は、漢族の敗北に終わります。一般に考えられている日本史と異なることを書きました。
さて、魏志倭人伝の卑弥呼が、魏の国に使いを出した記事は、確かにもそのように書かれていますが、魏の国のスパイである難升米が、日本の状態を報告するためと、日本を攻撃する全権を依頼するために、帰国したことを陳寿があのような表現をしたのでしょう。魏志倭人伝を読むと題して、書きました所で、「福の字のつく地名」の説明をしました。また、研究と途中ですが、苗族の人が、大量に日本各地にやって来たと思われます。苗族の人は、漢族に負けたことのない民族です。先日、「世界不思議発見」という番組で、雲南省の人たちの映像がありました。苗族ではありませんでしたが、山の中で生活しており、視界すべて棚田という情景でした。標高の差が1000メートルと有りました。こんな所、攻め込んで、自分達のものにしても誰も利用できません。同時に放映されていた村全体が岩ばかりの石頭城を紹介していました。三方絶壁の断崖、家は岩を掘りぬいて造られており、ベッドも岩を掘ったものでした。もう、1000年は住んでいると説明していました。苗族ではありませんが、共通のものを持っていたようです。漢族には、絶対屈服しない。攻められたら、一層山奥へ逃げるだけの人たちです。そのような人たちと同じ人種が、日本人であり、新羅の人であり、海南島・福建省の南部の人たちです。攻められたら逃げはするが、自分からわざわざ、家来になるような外交は、絶対しなかったと思います。173年に卑弥呼が新羅に使者を出したことになっていますが、これは、孝霊天皇が命じたと思われます。
孝霊天皇は二人の子供に吉備征伐を命じたことになっています。 是こそが、「倭国大乱」の一つだと思います。

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2005.05.23

魏志倭人伝を読む   兵用矛、楯、木弓

No33
原文
兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與 タン(人偏に膽の右側)耳、朱崖同。
翻訳
兵器は、矛、楯、木弓を用いる。木弓は下が短く、上が長い。竹ヤリ或は鐵鏃、或骨鏃である。(その他産物風俗の) 有無は、 タン耳、朱崖と同じである。

私の考えたこと
① 兵器がおよそ、貧弱である。魏志倭人伝に後に、国が乱れたとありますが、このような武器で乱れるほどの戦乱にはならないと思います。范曄(398-445)が著した中国史の後漢書には、乱れたではなく、「倭国大乱」と書いています。
遠い海の彼方の倭国が、互いに争っていると、大国である中国の歴史書にどうして、書く必要があるでしょうか? 中国では、皇帝に逆らった戦争に「大」の字をつけたそうです。「倭国大乱」もそのように見ますと、中国と倭国との戦争であったことが判ります。ただ、このような兵器であれば、一ヶ月もすれば決着が付いたはずですが、付かなかったから、倭人伝で記録されたことになります。
② 「所有無與 タン耳、朱崖同」の部分は、短いですが、重要な部分だと思います。
  倭と 耳、朱崖は、その他の部分は、同じだと書いています。省略して有りますが、陳寿は、詳しく知っていたことになります。
タン耳(たんじ)は郡の名で、現在の広東省 県の西北になります。朱崖(しゅがい)も郡の名で、今の広東省瓊山県の東南になります。両方の郡は、海南島にあります。
海南島は、141年に前漢によって、攻略されたことが記されています。こんな島がどうして大切であったか。それは、絹を作っていたからだと思われます。その住民と倭の国が同じ風俗だと書いています。同じ民族であると言い換えても良いと思います。
③ 想像を膨らませますと、 海南島の人たちは、苗族の人ではないかと思います。中国から追われた雲南の人たちの一部が、ここに住み一部は日本に来たかもしれませんが、安住の島から出る理由がありませんから、雲南の人は、直接、日本へやってきたのではと想像しています。

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2005.05.21

魏志倭人伝を読む  種禾稻、紵麻、蠶桑

No32
原文
種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、[糸+兼]緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與タン耳、朱崖同。(タンは人偏に澹の右の部分)
訳文
禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・ケンメンを出だす。 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。 兵には矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。有無する所、タン耳・朱崖と同じ。

① 最も気になる所だけに絞ります。「蠶桑、緝績、出細紵、[糸+兼]緜」です。
 蠶桑は、桑を植え、蚕を飼いでしょうか? 緝績は、糸を紡ぐ。そして、細紵とケン緜を編むということでしょうか? 細紵もケン緜も織り方の一種でしょうか? 
 邪馬台国では、桑を植え,養蚕し糸を紡ぎ、絹の布を織っていたことが記されているだけで十分なのですが、「魏志倭人伝の考古学」という佐原真氏の書物に、次のように書いておられます。
 「中国南部の出土例も、朝鮮半島北部に漢が置いた楽浪郡跡からの出土例も、中国漢代の絹は、きめがこまかい。1cmあたりの縦糸の数は60数本、横糸の数は30数本である。これにたいして弥生の絹は、それぞれ30数本と20数本とずっと粗い。この大差から輸入品ではなく日本製だ、と布目さんは判定するのである」と布目氏の意見を紹介しています。これなら、絹糸は日本製のが悪いのではなく、織り方が悪いのだと思っていましたら、61ページには、「布目順郎さんによると、蚕には、蛹になって眠る回数が三回の三眠蚕と、四回の四眠蚕とがある。三眠蚕の方が幼虫の期間が短く、小さく、糸少く、繊維細く、軟らかく、軽く、染めやすい。右の事実から布目さんは、華中系の四眠蚕がまず日本に入り、遅れておそらく山東起源の三眠蚕がこれに加わった結果だと、みている。」これでは、絹も中国のほうが上だとなります。
 
 私は、この文章を読んで、はじめは びっくりしました。私が、古事記を読み始めてから、一貫して読み続けているスタイルは、古事記は、神話ではなく、すべて実際にあった話であるということです。では、なぜ、訳のわからない神話が書いてあるのか、その点が判らないのですが、古事記を読み続けるほどに、これは正しいなと感じています。実際の話となりますと、多くの人が、日本にやってきました。イザナギ・イザナミ・アマテラス・スサノオ・ツキヨミそして、中国人(漢族の人)です。中国人以外は、中国人に追い詰められて日本に逃げてきた人ばかりです。中国は、朝鮮も半分は占領しました。半分以上かも知れません。最南端の最大の都市が楽浪郡(現在のソウルあたり)ですから、まだまだ南まで勢力範囲があったと思われます。
もう、やっつける国は、日本しか残っていません。魏志倭人伝に、難升米のことが書いてあります。この人物は、注意深く読みますと、占領軍の総司令官です。230年代のことです。注意深く他の書物なども読んでいきますと、107年に漢の国は、日本に軍隊を派遣しています。何のためと言いますと、日本の絹をすべて中国に運ぶためです。この直ぐあとに、「兵には矛・盾・木弓を用う」とあります。これでは、中国に太刀打ちできません。少数の中国人が居れば、日本は征服できたと思われますが、征服しても意味がありません。中国としては、絹だけ頂けばよかったのだと思います。
北九州の大半は、中国人が占拠していました。丹後、吉備、大和など、大きな古墳があるところは、中国人が占拠していたと想像しています。
何故 中国が日本に絹を求めてやってきたかと言いますと、それは、日本の絹の方が、品質が良かったからという、日本に一つぐらい世界に誇れるものがあるのだという願望も助けて、私の日本史が成り立っています。なのに、絹は中国のほうが素晴らしいのだと、日本で一番の絹の学者が太鼓判を押されたのですから、万事休すです。

でも、先ほどの日本語はおかしいですね。日本の絹の方が、良いわけがないという前提にたって、「華中系の四眠蚕がまず日本に入り、遅れておそらく山東起源の三眠蚕がこれに加わった結果だと、みている。」という文章になっています。どちらが先に入ったか判るはずがありません。
吉備王国があったわけでもありません。丹後王国があったわけではありません。出雲王国も然りです。このような地は、絹を巡ってあらそいが、繰り返され、その結果沢山のお墓、立派なお墓が築かれました。その墓から出土する物を比べて、日本の歴史を考えていたのでは、変な方向へいくばかりです。戦争が多いとお墓が多いのは当たり前のことです。立派なものが埋葬してあるから、そこは、高度の文化が発達していたと考えるのは、間違っています。
抜きのことを調べようと思いますと、すべて、布目順郎氏に行き着きます。私は、「華中系の四眠蚕がまず日本に入り、遅れておそらく山東起源の三眠蚕がこれに加わった結果だと、みている。」の文章を読んで、安心しました。
私の少し、強引かもしれない日本史は、まだ、正しいことを立証するために、考えることを続けてもいいのだと思いました。
②「其地無牛馬虎豹羊鵲」は、どのように捉えたらいいのでしょうか? 「馬」は、スサノオが、高天原のアマテラスを攻撃したときに、絹の織物小屋に馬を投げ込んだとあります。これは、紀元前2世紀のことです。「其地無牛馬虎豹羊鵲」は難升米が、自分が見なかったと本国に報告したことが元になっているからだと思われます。
「羊」は、鳥取県の青谷上寺地遺跡から発掘された板に書かれた絵にあります。美作から発掘された陶棺にも描かれていますから、難升米が知らなかったのでしょう。青谷上寺地遺跡は、2000年前の遺跡です。

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2005.05.19

魏志倭人伝を読む   穿其中央、貫頭衣之

No31
原文
其風俗不淫、男子皆露カイ[糸+介]、以木緜招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈[糸+介]、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。
訳文
その風俗は淫でなく、男子は皆露かいし、木綿を以て頭にかけ、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし。 婦人は被髪屈かいし、衣を作ること単被の如く、その中央を穿ち、頭を貫きてこれを衣(き)る。 禾稲・紵麻を種え、蚕桑緝績し、細紵・ケンメンを出だす。 その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし。 兵には矛・盾・木弓を用う。木弓は下を短く上を長くし、竹箭はあるいは鉄鏃、あるいは骨鏃なり。有無する所、タン耳・朱崖と同じ。

①「其風俗不淫」ぽつんと、どうしてこんな言葉が出ているのでしょう。裏を返せば、魏の国は、そうでもないと言うことでしょう。前述に、「婦人淫せず」とありますから、陳寿としては、よほど印象に残ったのでしょう。ここは、男女とも淫でないのでしょう。
②「男子皆露カイ」とは、被り物をしていない? 代わりに頭を木綿の布で巻いている。(ターバンのように? ) 露カイとは、ザンバラ髪のことでしょうか? 木綿は、所謂綿を紡いで作ったものではなく、木を繊維状にして、織ったものでしょう。
③そして、そのターバンは、「其衣横幅、但結束相連、略無縫」であるでしょうか?
  其の衣(布)は横幅(?)で、その端を次々結んで連なっているだけで、縫っていない。
  これなら、被り物をしていることになると思われます。横幅が何を意味するか判らないので、この部分は、良く判らないことになります。
④「婦人被髮屈カイ」は、髪を結っていたことでしょうか? 
⑤「作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之」「單被」がどのようなものか判りませんが、中国語では、存在するのでしょう。しかし、「如」の字が有りますから、似ていると言うだけです。一枚の布のことでしょう。仕立ててあるのではなく、その布の真ん中に穴が開いていて、頭をその穴に通し、被るのでしょう。これは、幅が広いのでできるのですが、普通、布は、横幅が狭く長いものですから、是ですと、身体に巻きつけることになります。單被は、横幅が広くできている布らしいです。
 織物のことは、良くわかりませんが、着物の反物は、私達の肩幅ぐらいです。これは、布を織るときに、縦糸を縦に張っておいて、横糸を右から左へ、次に、左から右へ送ります。従いまして、自分の肩幅より大きいと、一々身体を動かさなくてはなりませんから、幅の広い布は大変です。しかし、織ることができないわけではないと思います。貫頭衣は、男女のことが書いてある?   よく判らないことだらけです。

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2005.05.18

魏志倭人伝を読む   男子無大小皆鯨面文身

No30
原文
男子無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽、東冶之東。

男子は大小の区別なく、皆、面(カオ)に黥(イレズミ)をして、身(カラダ)に文(イレズミ)をしていた。古よりずっと、その国の使が中國に詣ると、皆自ら大夫と称した。夏后小康(夏第六代中興の主)の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍の害を避く。 今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤(ハマグリを捕らえる。文身は亦以て大魚・水禽からの被害を厭う。後やや以て飾りとする。諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右にし、あるいは大にあるいは小に、身分の尊卑によって差あり。その道里を計るに、当に会稽東治の東にある。
 
①「男子無大小皆黥面文身」何故、皆がイレズミをしているのかの理由を、以下に述べている。中国では、蛟龍之害を避けるためであったが、日本では、海に潜ったときに、大魚水禽からの被害を受けないようにするためであった。しかし、今は、飾りであると。

②「今倭水人好沈沒捕魚蛤」は、日本人にとって当たり前のことですが、珍しいから書いたと思われます。問題は、「水人」です。水が上に付く熟語は、いっぱいあります。水雲=水と雲 水火=水と火 (上下のものを並べる) 水害=水による害 水死=水による死(水が原因) 水甕=水をいれる甕、水撃=水面を打つ 水源=水の流れの源(水の後ろに、「の、を、に」の文字を入れると意味が通じるもの) などに分かれます。「水人」は、どの用法にも当てはまりません。
当てはまるものは、水夫と水兵です。両方とも、水は海のことのようです。後ろは、職業らしいです。私と同じように考えられたかどうかわかりませんが、「魏志倭人伝の考古学」の中で、佐原真氏は、「水人」=「海士アマ」と説明しておられます。中国の辞書に「水人」がなければ、日本の海士をみて、言葉を作ったことになります。
それを裏付けるような文章があります。司馬遼太郎氏は、「街道をゆく27」の因幡・伯耆の道において、夏泊(ナツトマリ)というところを訪れ、いろいろのことを書いています。
P123「この潜水漁法ができる漁民は、韓国の済州島の海女と、日本の海士・海女以外にはない。韓国・朝鮮の本土にもその伝統がないのである。中国には存在しない。ただ古代中国おいて、中原(チュウゲン)から異民族視されていた越人(揚子江下流の民族)がおなじことをしていた」司馬遼太郎氏のことですから、その根拠は持っておられての文章だと思います。私もその元になるものを探してみましたが、見つけていません。(内陸の瀋陽出身の中国の人に聞きましたら、「水人」は聞いたことがないし、海女のことは知らないとのことです)
魚を釣ったり、網でとるには水中に入りません。深く潜るには、相当の肺活量がいるのと寒さに耐える身体が必要です。寒いところではなく、南方で発達した漁法であろうと香原志勢という方が述べておられることを「魏志倭人伝の考古学」の中で紹介されています。
このように考えますと、スケールが大きくなって、日本人のうち、何人かは、南方から渡来したとの根拠の一つにもなります。  
③「会稽東治の東にある」会稽の東は、直ぐに海ですから、海を隔てた国ということになります。倭の国は、正確には、真東ではありませんが、会稽から東に向けて船を進めますと、海流の関係で、倭の国に到達です。会稽の東にあるというのは、一応正しいことになります。

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2005.05.17

古事記を読む  須勢理毘売の嫉妬

No81
又其神之嫡后須勢理毘賣命。甚爲嫉妬。故其日子遲神和備弖【三字以音】自出雲將上坐倭國而。束裝立時。片御手者。繋御馬之鞍。片御足蹈入其御鐙而。歌曰。
奴婆多麻能。久路岐美祁斯遠。麻都夫佐爾。登理與曾比。淤岐都登理。牟那美流登岐。波多多藝母。許禮婆布佐波受。幣都那美。曾迩奴岐宇弖。蘇迩杼理能。阿遠岐美祁斯遠。麻都夫佐迩。登理與曾比。於岐都登理。牟那美流登岐。波多多藝母。許母布佐波受。幣都那美。曾迩奴棄宇弖。夜麻賀多爾。麻岐斯。阿多豆都岐。曾米紀賀斯流迩。斯米許呂母遠。麻都夫佐迩。登理與曾比。淤岐都登理。牟那美流登岐。波多多藝母。許斯與呂志。伊刀古夜能。伊毛能美許等。牟良登理能。和賀牟禮伊那婆。比氣登理能。和賀比氣伊那婆。那迦士登波。那波伊布登母。夜麻登能。比登母登須須岐。宇那加夫斯。那賀那加佐麻久。阿佐阿米能。疑理迩多多牟敍。和加久佐能。都麻能美許登。許登能。加多理碁登母。許遠婆
翻訳
 又 其の神の嫡后(オホキサキ)須勢理毘賣命(スセリヒメ)は、甚く嫉妬をしました。そこで、其の日子遲(ヒコジ)の神は和備弖(ワビテ)  出雲より將に倭國上り坐して、束裝し立つ時、片方の御手(ミテ)は、御馬の鞍に繋(カ)け、片の御足(ミアシ)は其の御鐙(ミアブミ)に蹈み入れて、歌われました。
奴婆多麻能(ヌバタマノ) 久路岐美祁斯遠(クロキミケシヲ) 麻都夫佐爾(マツブサニ) 登理與曾比(トリヨソヒ)淤岐都登理(オキツトリ) 牟那美流登岐(ムナミルトキ) 波多多藝母(ハタタキモ) 許禮婆布佐波受(コレハフサハズ) 幣都那美(ヘツナミ) 曾迩奴岐宇弖(ソニヌキウテ) 蘇迩杼理能(ソニドリノ) 阿遠岐美祁斯遠(アオキミケシヲ) 麻都夫佐迩(マツブサニ) 登理與曾比(トリヨソヒ) 於岐都登理(オキツトリ)牟那美流登岐(ムナミルトキ)  波多多藝母(ハタタキモ)  許母布佐波受(コモフサハズ) 幣都那美(ヘツナミ) 曾迩奴棄宇弖(ソニヌキウテ) 夜麻賀多爾(ヤマガタニ) 麻岐斯(マキシ) 阿多豆都岐(アタネツキ)曾米紀賀斯流迩(ソメキガシルニ) 斯米許呂母遠(シメコロモヲ) 麻都夫佐迩(マツブサニ) 登理與曾比(トリヨソヒ) 淤岐都登理(オキツトリ) 牟那美流登岐(ムナミルトキ) 波多多藝母(ハタタキモ) 許斯與呂志(コシヨロシ) 伊刀古夜能(イトコヤノ) 伊毛能美許等(イモノミコト) 牟良登理能(ムラトリノ) 和賀牟禮伊那婆(ワガムレイナバ) 比氣登理能(ヒケトリノ) 和賀比氣伊那婆(ワガヒケイナバ) 那迦士登波(ナカジトハ) 那波伊布登母(ナハイフトモ) 夜麻登能(ヤマトノ) 比登母登須須岐(ヒトモトススキ) 宇那加夫斯(ウナカブシ) 那賀那加佐麻久(ナガナカサマク) 阿佐阿米能(アサアメノ) 疑理迩多多牟敍(キリニタタムゾ) 和加久佐能(ワカクサノ) 都麻能美許登(ツマノミコト) 許登能(コトノ) 加多理碁登母(カタリゴトモ) 許遠婆(コレヲバ)と。

又、長歌になっています。須勢理毘賣命は嫉妬をしました。当たり前です。しかし、男たるものは、これぐらい出ないと、人類は滅亡します。この辺りは人によって考え方は違いますから、この位にして、先に進みます。
「倭國上り坐して」とあります。重大です。倭國とは どこだです。考えておいてください。次回にします。

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2005.05.16

古事記を読む  沼河比売求婚  その2

No80
爾其沼河日賣。未開戸。自内歌曰 夜知富許能。迦微能美許等。奴延久佐能。売迩志阿礼婆。和何許許呂。宇良須能登理叙。
伊麻許曾婆。和杼理迩阿良米。能知波。那杼理爾阿良牟遠。伊能知波。那志勢多麻比曾。伊斯多布夜。阿麻波世豆迦比。許登能。加多理碁登母。許遠婆。
阿遠夜麻迩。比賀迦久良婆。奴婆多麻能。用波伊伝那牟。阿佐比能。恵美佐加延岐弖。多久豆怒能。斯路岐多陀牟岐。阿和由岐能。和加夜流牟泥遠。曾陀多岐。多多岐麻那賀理。麻多麻伝。多麻伝佐斯麻岐。毛毛那賀爾。伊波那佐牟遠。阿夜爾。那古斐支許志。夜知富許能。迦微能美許登。許登能。迦多理碁登母。許遠婆*
故其夜者不合而。明日夜爲御合也。
翻訳 つづいて岩波文庫の翻訳を記します。
ここに其の沼河日賣、未だ戸を開かずに、内自(ヨリ)歌いました。
八千矛(ヤチホコ)の 神の命(ミコト) ぬえ草の 女(メ)にしあれば 我が心 浦渚(ウラス)の鳥ぞ 今こそは 我鳥(ワドリ)にあらめ 後(ノチ)は 汝鳥(ナドリ)にあらむを 命(イノチ) な殺(シ)せたまひそ いしたふや 天馳使 事の 語言(カタリゴト)も 是をば
青山に 日が隠らば ぬばたまの 夜は出でなむ 朝日の 笑み栄え来て 栲綱(タクツノ)の 白き腕(タダムキ) 沫雪(アワユキ)の 若(ワカ)やる胸を そだたき たたきまながり 眞玉手(マタマデ) 玉手さし枕(マ)き 百長(モモナガ)に 寝(イ)は寝(ナ)さむを あやにな恋ひ聞こし 八千矛の 神の命 事の 語言も 是をば 
とうたひき。 故、その夜は合うはずて、明日(クルヒ)の夜、御合(ミアヒ)したまひき。

ぬえ草は、なよなよとした草のようなとの意味で、次のメにかかる枕言葉。このように、言葉の説明がありますが、それを全部読んでもまだ、良く理解できません。それでもおぼろげには判るようですので、このままにして置きます。気になるのは、沼河日賣が越の国に住んでいて、何故遠い越の国まで、結婚したくて行ったかです。出雲に古志という地名がありましたが、ここは国ではないと思います。やはり、以前から交流があったのだと思われます。越の国は越前、越中、越後のどこかと言うことになるでしょう。間に丹後の国があります。この国は、出雲・伯耆の人と相容れない人が住んでいたと思われます。四隅突出型墳丘墓というのがあります。紀元前後~3世紀頃にみられ、分布は岡山・島根・鳥取・富山・福井・石川県に集中しています。このことから、丹後を飛ばして,交流があったことが想像できます。丹後を飛ばすということは、海路を通じて交流があったのだと思います。大国主神は、記録に残る海路交流の一番古い例だと思われます。
 さて、この神話は、日本版のロミオとジリエットです。歌を歌って、恋を訴えますと、戸を開かずに返事を返し、その夜には合わなかったとは、奥ゆかしいというか、現在とは、随分違います。魏志倭人伝に、「婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、諍訟少なし」とありますから、この表記は正しかったことになります。

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2005.05.15

古事記を読む  閑話休題 銅鐸は日本の製品か

No79
銅鐸は、全国で500個ほど見つかっています。神戸市の桜ヶ丘遺跡から見つかった14個の銅鐸は、40cmぐらいの高さです。野洲町の銅鐸博物館に展示されている銅鐸は、大きいものが多く、134cmのものもあります。
よく似たものに風鐸があります。お寺の建物の四隅に吊り下げられているものです。風鈴のようなものでしょう。No35で紹介しました編鐘は、中山王国から出土したものですが、14個で、14の音階を持った楽器です。
銅鐸は、歴史界では、祭祀に用いられたというのが定説になっていますが、可能性が高いというだけのことで、本当のことは誰にも判りません。音を出すために作ったことは確かだと思われます。
何に使ったかは、他の本に任せまして、タイトルの「銅鐸は日本の製品か」について、考えてみようと思います。勉強不足で、よく知らないのですが、1メートルを超えるような銅鐸は、日本にしか無いそうです。日本にしか無いという意味で言えば、日本独特の製品といえると思います。

神戸市立博物館では、桜ヶ丘遺跡の銅鐸を常設室で展示しています、これは、素晴らしいもので、動物の絵が描かれています。完成してから、線で絵を描くのであれば、簡単ですが、浮き上がらすのは非常に難しいと思われます。

私は銅鐸を作っているのをテレビで見ただけですので、詳細は知りませんが、作り方を簡単に説明しますと、仮に1cmの厚さの銅鐸を作るとします。銅鐸が初めからあれば簡単です。銅鐸の周りを粘土で固めます。その粘土の塊を二つに分けて、中の銅鐸を取り出します。もう一度、二つに分かれた銅鐸をくっつけます。中に空洞ができます。その空洞に溶けた銅を流し込みます。
銅が固まったら、粘土をこわして完成です。
 それぐらいは、誰でも知っています。それでは、その空洞に入れる銅はどうするのだと言いますと、熱して銅を溶かします。銅は1083度で溶けるらしいです。溶けた銅を上からしか流せませんから流します。仮に石鹸水を流したとします。うすい石鹸水、濃い石鹸水どのように流れるのでしょうか? 真っすぐに流すと直接下まで落下するもの、横の壁に当たるものいろいろです。泡が出来ると思います。銅では泡はできないでしょうか? 泡が出来たら均一になりません。粘土の容器が冷たいとします。銅を流すしりから、温度は下がります。均一に出来ないと音は安定しません。銅は石鹸水のようにいきません。いくら熱をくわえてもある程度は粘張度があります。水のようにさらさら出ないと、動物の絵のような線のようなものは浮びあがりません。
このように考えていきますと、どんな銅でもいい訳ではないようです。
「古代日本の超技術」志村史夫著から、知恵をお借りします。745年奈良で大仏の建立が始まった。5年の歳月をかけて完成しましたが、鋳造に使われた銅は、490トン、白メ(錫)8.5トン 錬金440キログラム、水銀2470キログラムとあります。銅だけではないということです。当時、銅は貴重品で、全国から集められたと思っていましたが、山口県の長登(美東町)の銅が使われたと紹介してあります。
1988年1月に奈良東大寺大仏殿回廊西側から、200点の木簡が出土し、その内、100点ほどが解読でき、銅の重量や銅を溶かした竈の番号、鋳造に従事した工人の名前、人数が記されていました。『続日本紀』『東大寺要録』などと総合すると推定延べ260万人もの人が、携わったことが判っています。当時の人口の半分相当する人数ですから、いかに大きな国家的プロジェクトであったが判ります。
木簡だけではなく、溶銅塊も出土し、その成分が、銅90.3 砒素3.2 銀.02パーセントがわかっています。
奈良時代には、武蔵、山背、因幡、備中、備後、周防、長門、豊前の銅山が知られていましたが、砒素3.2の濃度が、長登産の銅であるとの決め手になりました。
「古代日本の超技術」では、もっと詳細に書かれていますので、興味のある方は、一読されることをお奨めします。
もう一つ、加えておられることがあります。長門は秋吉台で知られますように、石灰岩の多いところです。ここの鉱山は、砒素という不純物だけではなく、石灰分が多いのが特徴です。この二つがあるために、鋳造するときに、銅はさらさらになって、全体に均一に流れて、隅々まできめ細かなものが出来上がるそうです。
以上は、大仏の話ですが、このような知識は、どうして獲得したのでしょうか?銅鐸の厚さは2ミリメートルぐらいです。大仏を作るときより、流し込むのは難しいと思われます。大仏が出来た年(745)より、800年も前から、銅鐸を作った人はクリアしていたことになります。
確かに、製鉄や製銅のテクニックは大陸から学んだのでしょうが、銅鐸の素晴らしさは、日本人が工夫して出来上がったものだと思います。いくら工夫しても材料が無ければ出来ませんから、これらの事が混ざり合って、その後の素晴らしい仏教美術の花が開いたと思います。
 こんなことを思いながら、神戸市立博物館と滋賀県野洲町の銅鐸博物館を訪問されますと楽しさが倍増します。

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2005.05.14

魏志倭人伝を読む   福の字がつく地名 その3

No29
④日置川周辺には、福の字の付く地名は存在しない。
⑤湖山池周辺 福井2、
⑥千代川の本流には、福和田と高福のみ。 
千代川の支流では、宇戸川—福田、八東川—福本

⑦勝部川 ⑧加瀬蛇川 ⑨黒川 ⑩尾張川 ⑪甲川 ⑫下市川 ⑬宮川 ⑭阿弥陀川
⑮由良川 
⑦~⑮は、50000分の1の地図では、福の字の付く地名は存在しない。河口は潟を形成していなかったようである。
⑯塩見川—福部

兵庫県
① 蒲生川、②陸上川 ③岸田川 ④矢田川 ⑤竹野川 ⑥円山川
以上 福の字の付く地名を発見しない。
京都府
① 川上谷川 ②福田川 ③竹野川 ④野田川 ⑤由良川—福知山 ⑥伊佐津川
⑦野原川
⑤由良川—福知山を除いては、福の字の付く地名を発見しない。

これらの東である福井県は、調べていませんが、塩見川以東、兵庫県・京都府には、福族が入植しなかったことになります。

〇福の字のつく地名を調べるときに、ついでにその周りの地名も調べると別の発見ができます。福族は、稲作と養蚕を持ってきましたから、「田」の字のつく地名も多くなります。これは地図からだけでは判りませんが、目印になる三角形の山があります。
〇福の字はつきませんが、吹浦は福岡、大分、山形にあります。
〇すべてでは有りませんが、福の字はつかないところは、漢民族と言うことになります。このほか、高地性集落・銅鐸・鏡の出土地、古墳などと組み合わせますと、「倭国大乱」の激戦地が浮かび上がります。

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2005.05.13

魏志倭人伝を読む   一大国をもう一度検討

No28
No12にて「一大国をもう一度」とタイトルを付けて書きました。
No12では、「魏の国があったときには、外に、蜀・呉という国がありました。この人たちが興味を持って、日本にやってくることは、困ったでしょう」と書きました。これは、前漢・後漢を通じて中国は、九州を拠点にして、日本から絹を世界に運んでいたという思いが明らかになってきました。
まだ、調べている最中ですが、須玖岡本遺跡・三雲南小路遺跡などは、数多くの漢鏡が出土しています。普通は一枚なのに、この遺跡では、多いということは、この鏡を部下に手渡すほどの高官であったと思われます。その証拠に、この遺跡ではガラス璧が出土しています。また、銅矛や鉄剣も発掘されています。魏志倭人伝には、倭人はこのようなものを持っていないと書いていますから、須玖岡本遺跡・三雲南小路遺跡の住民は、倭人ではなく、漢人であったことになります。この遺跡より有名なのは、吉野ヶ里遺跡ですが、こちらは、墓の多さから見ますと、須玖岡本遺跡・三雲南小路遺跡と時代が異なるか、両遺跡より上の組織であった可能性が大きいです。
以上のことは、このような感触があるという話ですが、絹の元締めを知っていた魏としては、邪馬台国は、自分の勢力範囲であることを書いておかなくてはならないし、詳細を書いておいて、日本にやって来られても困りますから、倭人伝の通りに書いておいては、来ることができないように書いたのだと思われます。
 一大国は、やはり、倭人伝を読んだ人に、一番大きい国だと思わせるために、名づけたのでしょう。その証拠としては、国の大きさは、対馬と壱岐の二つだけです。それも、全く価値のない島で、「多竹木叢林、・・・耕田猶不足食、亦南北市糴」と記し、「方可三百里」です。一番大きい国に属す国でも、たったは方可三百里ですよと書いて興味を抱かないようにしたと思えます。少し、考えすぎでしょうか? その後、国については、広さが書いてありませんから、当たっているかもしれません。
ただ、このような細工だけでは、実際に船で出かける輩が出現するかもしれません。書かれたとおりに行きますと無茶苦茶になっていていけません。そこが、陳寿が狙ったところでしょう。日本人は、未だに騙され続けているのではないでしょうか?
距離がおかしいと、みなさん気付かれて苦労しておられます。私は「一大国」がポイントだと思います。
陳寿は朝鮮の帯方郡から壱岐までは勧告の里の単位即ち、70mを採用しました。これは、壱岐が方300里と書かれていることと、1里を70mにすると実際の数と合います。径が23kmの円形の島だったことに合います。帯方郡から邪馬台国まで、12000里と倭人伝に書かれています。これは、840kmに相当します。ということは、邪馬台国は帯方郡を中心にして、コンパスで円を描いたところに邪馬台国があることになります。
東夷伝に高句麗は遼東より東に千里、方四千里とあり、このときの一里は460mになります。
すべての国は、どの方角にあると書いてあるのに、一大国は書かれていません。皆さんは、勝手に南に末廬国があると考えておられます。陳寿はわざわざ方角を書かなかったのです。千里すなわち、460kmのところに末廬国があると書きました。一大国を中心に又、円を書きますと、末廬国は円周上に有ることになります。
No7~8において、私は末廬国がわからないので、古事記に書かれている奴国から考えました。回り道ですが、No12までかかって、やっと、末廬国は、現在の松江であろうと書きました。ここで、先ほどの「一大国を中心に又、円を書きますと、末廬国は円周上」と比べてください。見事に一致します。
邪馬台国などデーターを本国に報告したのは、何度も登場しました難升米です。難升米の測量技術は正確であったことが判ります。 

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2005.05.12

魏志倭人伝を読む   福の字がつく地名 その2

No27
福浦と福良の地名は、中国の華南地方から、移民してきた人たちの拠点だと述べました。ここを中心に村が、発展していったのでは有りません。船の寄港地、即ち、つぎの所へ行くための水と食料の調達する所だと考えたいです。ここを経由して彼らは、どこへ行ったでしょうか? 彼らが持っていた技術は、養蚕と稲作です。
 私は、彼らが落ち着いた所では、「福」という字をつけたと思っています。それも、急に山の中に村を作ったのではなく、始めは、葦の茂っている潟で、直播の稲作を始めたと思います。「浦」は、普通、海岸線がカーブしているところにつけられているようです。河口であれば、「福江」となります。潟に流れ込む川を遡って、川の近くに村を形成して行ったとも考えられます。
全国の川すべてを調べますと、苗族の人たちが生活をしていたところが、判るはずです。
殆どの人は、魏志人伝にでてくる「奴国」は九州と思っておられますが、私は米子市の日野川一帯だと思っています。スサノオがオオクニヌシに大国をおさめるように命令しますが、大国は大国村のようなもので、この辺りを「是奴国也」と古事記は書いています。
そこで、一番に、日野川周辺を眺めてみます。
①  1.福原 2.福市 3.福岡 4.福成 5.福鎌 6.福永 
支流である野上川を遡りますと、福島 福居 福岡 上流の印賀川には、福寿実 
支流 東長田川には、福頼 福成? などが見えます。
島根県の伯太川 福富
上三行は、このような山の中で、稲作はおかしいですから、スサノオが鬼退治をした神話がありますが、私は「大呂」にあった製鉄所を攻撃したのだと思っています。この製鉄所は、其の前からあったはずです。当時の製鉄がどのような方法であったか判りませんが、盛んであった江戸時代の蹈鞴(タタラ)であれば、膨大な炭が必要です。自然風を利用した登り窯であれば、燃料である木が必要です。ここの福族(仮称)は、そのような仕事に携わったのではと想像しています。
② 淀江町---日野川の少し、東に位置する淀江は、潟であったはずです。
ここには、福岡がありますが、この辺りまで、潟であった可能性があります。ボーリングをすれば直ぐに判ることです。壷瓶山の麓に福頼と福井がみえます。
③ 鳥取・天神川—1.福庭 2.福田(加茂川) 3.福守(国府川) 4.福光(国府川) 5.福吉(鴨川) 6.福山(鴨川) 7.福富(北谷川) 7.福本(北谷川) 8.福吉(加茂川)
これだけ、多いとやはり、関係あることになります。
天神川の東に、東郷池があります。この周りには、福の字のつく地名は見えません。
福庭が近くですが、山の西側で、天神川によってできた土地です。ここには、波波伎神社があります。伯耆を連想させる神社名です。

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ATS―Pの設置義務化決定

「兵庫県尼崎市のJR宝塚線(福知山)の脱線事故を受けて、北側国土交通相は8日、全国の鉄道会社に、新型の自動列車停止装置(ATS―P)など、急カーブでの列車の速度を制御できる設備を義務づける考えを明らかにした」以上は、asahi.comの記事です。これは、本当なのでしょうか? JR宝塚線で義務付けるのであれば、判りますが、一部だけの義務化は、法律的に無理なのでしょうか?
記事の続きを読みますと、義務化をすると企業の負担が増えるので、税制面で援助するとあります。北側国土交通相が出されるのであれば、判ります。税金で賄うことになります。税金はどのように使っても良いかもしれませんが、本当に必要なのでしょうか?
地方都市で、一時間に2本ぐらいしか運転されない所でしたら、税制負担どころで済みません。運賃をあげるしかありません。このような所でしたら、ダイヤ通りに走ってもらえば充分です。数秒を争って運転したもらう必要はありません。乗客の殆どが、少々高くても良いから、スピードを出してほしい。安全に走ってほしいと考えれば、全路線に付ければいいことです。国土交通省で考えることではないでしょう。
これからの日本は、できるだけ自分の行動には、自分で責任を持たないと、すべて、政府がするようでは、借金が増える一方です。
二分ごとに、列車を走らせないと世の中がうまくいかないこと自体がどうかしています。
尼崎に着いた乗客は、数秒以内で乗り降りをしなければならないこと自体がどうかしています。私の娘は、毎日、3回乗り換えて職場に通っていますが、其のうちの1回は、電車を降りて、10秒後には、ドアーが閉まるそうです。本当は、そんなサーカスのようなことをしないで、次の列車は、2分後に来るのですから、次の列車にすればいいのです。
JR西日本だけではなくて、日本人全体がおかしくなっているのでしょう。
ATS―Pの設置義務化は撤回した方がいいのでは?

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2005.05.11

魏志倭人伝を読む   福の字がつく地名

No26
朝鮮の古代の国の戸数に比らべ、邪馬台国の戸数は、何故大きいかを検討します。
田村誠一氏は、「福浦」の地名は、渡来の人たちが、船でやって来たときの港であり、その港を基点に、次々と移動するときの補給港だったと述べています。ニニギの命が、天孫降臨する時にしても、神武天皇が東征されるときも、誰が従ったかとか、誰が死んだとかは、問題になっていますが、一番大切なのは、後方支援である食料です。これなくしては、前に進むことはできません。
着眼は素晴らしいと思います。田村誠一氏は福浦地名をいくつか挙げて説明しています。
この考えを進めますと、邪馬台国に70000戸あったのは、間違いで、邪馬台国までの距離もすべて、10分の1であると藤沢偉作氏は述べておられますが、この考えを進めますと、別に70000戸であっても、どんどん、海外から、渡来したことになりますから、急激に人口が増加しても問題にはなりません。
渡来人はどこから来たかが問題です。中国の福建省の地図(1:740000)を求めて、探しますと、福州市、福安市、福瑤列島を見つけ,インターネットで、寧徳市の福鼎があり、福清という小さな町が見つかります。ヒットした記事の内容に、「日本で犯罪を起こし、逮捕された中国人の約9割が福建省出身で、しかも、福建省出身者の犯罪者の約9割が福清から日本に密入国した人です。つまり、日本で犯罪を起こした中国人の約8割が福清出身のものです」とあります。この記事の真偽は確かめていませんが,この記事から推理しますと、日本にやってくる中国人は,現在でも、大部分は福建省出身と思われます。昔から、伝統的なものと思われます。
漢の時代には,福建省は、閩越とよばれ、狭い地域であるにも関わらず、どの政府からも侵略されなかったと言われています。漢がベトナムまで支配したときでも、徹底して交戦し、従わなかったと言われている種族に、苗族があります。現在の雲南省で勢力を保っていたと思われます。当時、同じように、従わなかったのは、朝鮮半島の新羅、海南島に住んでいた人も同じ苗族であることが、前漢書に記されています。この人たちに対する圧迫は、秦の始皇帝の頃から、始まり、紀元前141年には、絹の生産をしていた海南島は前漢に攻略されました。
従いまして、逃げ場をなくした人々は、日本にやって来たと思われます。この人たちの特徴は、養蚕の技術と稲作の技術を持っていたことです。「福浦」という地名が、ころ良い距離に分布しているところから考えますと、点でばらばらにやってきたのではなくて、日本へ組織的に呼び寄せる人が居たのではないかと思われます。
その人は、誰かといいますと、全国的に、神社で祭られているのは、天照大神と神武天皇です。神武天皇は、熊本県が、一番多く、そのうちの大半が、天草に集中すると云うことは、ここを基点にして、苗族の人を呼び寄せたと思われます。
 全国に存在する「福浦」は、次の通りです。
1. 青森県青森市大字飛鳥字福浦
2. 青森県五所川原市大字梅田字福浦
3. 青森県むつ市川内町福浦山
4. 青森県つがる市森田町中田福浦
5. 青森県北津軽郡中泊町大字福浦
6. 青森県下北郡佐井村大字長後字福浦
7. 青森県下北郡佐井村大字長後字福浦川目
8. 宮城県古川市福浦
9. 宮城県宮城郡松島町松島字福浦島
10. 神奈川県横浜市金沢区福浦1丁目
11. 神奈川県足柄下郡湯河原町福浦
12. 新潟県佐渡市福浦
13. 石川県羽咋郡富来町福浦港
14. 兵庫県赤穂市福浦
15. 島根県松江市美保関町福浦
16. 島根県隠岐郡隠岐の島町北方福浦
17. 広島県呉市天応福浦町
18. 山口県下関市彦島福浦町1丁目
19. 愛媛県南宇和郡愛南町福浦
全部検討したわけではありませんが、古代には、潟であったところが多く、所謂葦原を求めて、入植し稲作をはじめたと想像できます。福浦に似た発音の地名に、「福良」があります。
①福島県 郡山市湖南町福良  猪苗代湖近く
②栃木県小山市大字福良  結城の北
③愛知県 蒲郡市清田町福良   
④兵庫県 南あわじ市福良乙  港
⑤山口県 山口市大字黒川   港から少し離れる
⑥徳島県海部郡海南町浅川字福良  港
⑦高知県須崎市浦ノ内福良     港
⑧高知県宿毛市小筑紫町福良    港
⑨大分県大分市大字福良    少し内陸
⑩大分県臼杵市大字福良    少し内陸
⑪宮崎県東臼杵郡椎葉村大字下福良  山の中・椎葉の近く
⑫鹿児島県指宿市東方中福良   港
⑬鹿児島県薩摩川内市中福良町  少し内陸
これらの所は、地名だけで調べていません。殆ど、海に近いですから、出身地が異なる人の補給地かも知れません。
この考え方の素晴らしところは、入植は青森であっても、新潟であっても同時代に入植が可能ですから、稲作の遺跡が全国何処で、見つけられてもかまわないことになります。以前は、朝鮮を経由して、九州に入ってきた稲作が、どんどん北上したと説明されていましたが、青森で、奈良より古い稲作の遺跡が発見されてもいいことになります。
紀元前141年頃から、神武天皇の晩年、紀元後60年ころまで、続けられたと思います。
1年間に、10000人ずつとして、200年間で、200万人の人がやって来たと考えてもよいことになります。
邪馬台国が、70000戸とあるのは、7000戸の間違いであるというような発想はしなくて済みます。

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2005.05.10

JR西日本脱線事故に思う--報道機関のいじめ

又、報道機関のいつも癖が始まりました。なにか大きな事件が起こりますと、正義の記者の活躍が始まります。誰よりもデーターの蓄積を誇る新聞社やテレビ局のデーターを使って追求が始まります。どこから探してくるのか知りませんが、交通評論家(こんなことでご飯を食べていける人がおられるのですね)なる人を連れてきて、喋らせると聞いている人は、すべて正しいと信じてしまいます。どのような展開になったかは、この二週間で、みなさん良く知っておられるとおりです。
 報道機関は、大きな事件になりますと、報道するのが使命だと思われるのでしょう。私たちが、是だけ報道したのに、(刻々と増える死者の数字を報道時間と数字を挙げて)、テレビを見ていなかった者は悪いと言わんばかりに、避難をしています。JRの人は、その数字を社内に連絡することなく、踏み切り事故だとの報道を続けたと。そのように思っていたのだから仕方がありません。私もテレビはチラッとは、見た記憶がありますが、大きな事故とは思っていませんでした。旅行中の家内から「大阪は大変な事故やね」と言われましたが、「そうらしいな」と返事をした記憶が有ります。そして、確かめるために、寝る前にテレビをつけました。近くに住んでいる私ですら、この調子ですから、
九州や北海道の方でしたら、大変やなとは思っても、報道機関の人ほど、怒りにはならないと思います。
昨日の報道では、70件ほどのJR職員に対するいやがらせが有ったそうです。一番ひどいのは、職員を線路の方へ突き落とそうとしたそうです。こうなると嫌がらせどころでありません。国民をこのような感情に持っていったのは、報道機関でしょう。
 いつものパターンですと、この辺で、JR職員のだれかが、死ぬのですが、死なないのが良くないのでしょうか? 報道は、次第に重箱の隅をつつくようなことまでに、エスカレートしています。
最大の苛めは、報道機関のようです。       H17.05.10

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古事記を読む  根の国訪問  その4

No77
故其所寢大神。聞驚而。引仆其室。然解結椽髮之間。遠逃。故爾追至黄泉比良坂遙望 呼謂大穴牟遲神日。其汝所持之生大刀、生弓矢以而。汝庶兄弟者追伏坂之御尾。亦追撥河之瀬而。意禮【二字以音】爲大國主神亦爲宇都志國玉神而。其我之女爲須世理毘賣。爲嫡妻而。於宇迦能山【三字以音巳】之山本。於底津石根。宮柱布刀斯理【此四字以音】於高天原氷椽多迦斯理【此四字以音】而居。是奴也。
故持其大刀、弓。追避其八十神之時。毎坂御尾追伏。毎河瀬追撥而。始作國也。故其八上比賣者如先期美刀阿多波志都【此七字以音】故其八上比賣者雖率來。畏其嫡妻須世理毘賣而。其所生子者刺狹木俣而返。故名其子云木俣神亦名謂御井神也。

翻訳
其の所で寢ていた大神は、それを聞いて驚いて、その部屋を引き仆(タオ)しました。然し、椽に結んである髪を解いている間に、遠くに逃げました。すると、黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)に追い至り、遙かに望んで、大穴牟遲神は、呼(サケン)で謂いました。「其の汝の所持(ショジ)する生大刀と生弓矢で以って、汝の庶兄弟を坂の御尾に追い伏せて、亦、河の瀬に追い撥(ハ)って、意禮(オレ) 大國主神と為(ナ)って、亦、宇都志國玉神と爲って、其の我の女(ムスメ)の須世理毘賣を嫡妻と爲して、宇迦能山(ウカノヤマ)の山本に於いて、底の石根(イワネ)に、宮柱布刀斯理(ミヤバシラフトシリ)、高天の原に於いて、氷椽(ヒギ)多迦斯理(タカシリ)して居利なさい。是が奴(ヌ)也」
そして、其の大刀と弓を持って、其の八十神を追い避けた時に、坂の御尾毎に追い伏せました。河の瀬毎に追い撥らして、始めて國を作りました。そこで、其の八上比賣は先に期した如く、美刀阿多波志都(ミトアタハシツ)。そして、其の八上比賣を率いて來ましたが、其の嫡妻の須世理毘賣を畏れて、其の所で生れた子を木の俣に刺(サ)し狹(ハサ)んで、返しました。だから、其の子を名づけて、木俣神と云う。亦名は御井神(ミイノカミ)と謂(イ)います。

さあ、根の国の訪問は、終わりました。ここは、重要なことが書かれていますので、字句の解説は止めにして、どこが大切かを記します。
① また、黄泉比良坂が出てきました。ここを黄泉の世界に通じる比良坂と多くの本では、考えられてきましたが、そうだとしますと、三人は、黄泉の国へ行くしかありません。黄泉比良坂は、地名が付いていなかったから、夜見(よるにみえる)比良坂です。日野郡根雨町板井原 に板井原神社があります。祭神は大巳貴神、須勢理比売命とあります。二人は、ここまで逃げてきたのでしょうか。古事記では、大穴牟遲神、須世理毘賣と書かれているものが、大巳貴神、須勢理比売命と書かれています。なぜだと思われますか? 

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2005.05.09

古事記を読む  根の国訪問  その3

No76
於是其妻須世理毘賣者。持喪具而哭來。其父大神者。思已死訖。出立其野。爾持其矢以奉之時。率入家而。喚入八田間大室而。令取其頭之虱。故爾見其頭者。呉公多在。於是其妻。以牟久木實與赤土。授其夫。故咋破其木實。含赤土。唾出者。其大神。以爲咋破呉公唾出上而。於心思愛而寢。爾握其神之髮。其室毎椽結著而。五百引石取塞其室戸。負其妻須世理毘賣。即取持其大神之生大刀與生弓矢及其天詔琴而。逃出之時。其天詔琴拂樹而。地動鳴。
翻訳
是に於いて、其の妻の須世理毘賣は、喪具を持って哭(ナ)いて來ると、其の父の大神は已(ス)でに死んだと思って、出立其の野に出て立ちました。そして、其の矢を持ちて奉る時、家に率いて入って、八田間(ヤタマ)の大室(オオムロ)に喚(ヨ)び入れて、其の頭の虱(シラミ)を取るように命令しました。そこで、頭を見ますと、呉公が多くいました。そこで、其の妻は、牟久(ムク)の木の實と赤土を取って、其の夫に授(ツ)けました。そして、其の木の實を咋(ク)い破り、赤土を口に含んで唾を出すと、其の大神(スサノオ)は、呉公を咋い破って唾を出したと思って、心に愛(?)しく思って寢てしまいました。其の神の髮を握って、其の室の毎椽(?)結び著(ツ)けて、そこに、五百引の石を其の室の戸に取り塞いで、其の妻の須世理毘賣を背負うやいなや、取持其大神の生大刀(イクタチ)と生弓矢(イクユミヤ)及び其の天の詔琴(ノリゴト) を取って、逃げ出す時、其の天の詔琴が樹に拂(フ)れて、地は動き鳴りました。

喪具がどのような物かは書かれていませんが、お葬式の用意をしたので、スサノオは騙されました。それでも尚、八田間(ヤタマ)の大室に入れて頭の虱をとるように命じます。
須世理毘賣は牟久(ムク)の木の實と赤土を大国主命に塗ると、いよいよスサノオは、安心して寝てしまいます。毎椽は軒か柱でしょうか。五百人で引かないと動かないような石にスサノオの髪の毛を結びつけて追って来られないようにしました。そんな重い石をどうして動かしたのでしょうか。疑問はありますが、どうせ作り話ですからということにしておきます。
このページで重要なことは、須世理毘賣が天の詔琴を持っていたという事です。こんな時に琴どころでないのに、持って逃げようということは、貴重なものであったのでしょう。
No9をご覧ください。「天の沼矛」 「天の御柱」 「天の班馬」がありました。「天」は「アメ」と読むのではなく、「テン」らしい。現在の中国の雲南省にあった古い国の名前です。スサノオは、高句麗からやってきたと、前に書きましたのに、高天原で大暴れをした時に、機織小屋に投げ込んだのは、人の馬ではなく、「天の班馬」であったことになります。スサノオは、高句麗から雲南省のテンに亡命してから、天の班馬と天の詔琴をもって、日本にやって来たことになります。

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2005.05.08

古事記を読む  根の国訪問  その2

No75
故隨詔命而。參到須佐之男命之御所者。其女須勢理毘賣出見。爲目合而相婚。
還入。白其父言。甚麗神來。爾其大神出見而告。此者謂之葦原色許男。即喚入而。
令寢其蛇室。於是其妻須勢理毘賣命以蛇比禮【二字以音】授其夫云。其蛇將咋。以此比禮三擧打撥。
故如教者。蛇自靜故。平寢出之。亦來日夜者。入呉公與蜂室。亦授呉公蜂之比禮。教如先故。平出之。亦鳴鏑射入大野之中。令採其矢。故人其野時。即以火迴燒其野。於是不知所出之間。鼠來云。内者富良富良【此四字以音】外者須夫須夫【此四字以音巳】如此言故。蹈其處者。落隱入之間。火者燒過。爾其鼠咋持其鳴鏑。出來而奉也。其矢羽者。其鼠子等皆喫也。
翻訳
故、隨命(ミコト)の詔(ノリ)たまえる隨(ママ)に、須佐之男命の御所(オントコロ)に參り到(イ)たると、其の女(ムスメ)の須勢理毘賣(スセリヒメ)が出でて見えて、目を合わして、相婚して還(カエ)り入りました。其の父に白(モ)うして言うには、「甚だ麗わしい神が來ました 」と。そこで、其の大神は出でて見て、告(ノ)りたまいました。
「此は葦原色許男と謂うのだ」と言って、すぐに喚(ヨ)び入れて、其の蛇の室(ヘヤ)に寢るように命じました。そこで、其の妻の須勢理毘賣命は、蛇の比禮(ヒレ) 以って、其の夫に授(サズ)けて云いまた。「其の蛇が將に咋(ク)おうとすれば、此の比禮を以って三回擧(アゲ)て打ち撥(ハナ)ちなさい」と。
そして、教への如くすれば、蛇は自から靜かになる。平(ヤス)く寢て出でていくでしょう。亦、來る次の日の夜には、呉公(ムカデ)と蜂を室に入れたときに、又呉公蜂の比禮を授け、先の如く教えました。すると、平く出ていきました。亦、鳴鏑を大野之中へ射入りて、令採其の矢を採って来るように命令しました。そこで、其の野に入った時、すぐに、火を以って其の野を迴り燒きました。そこで、出る所を知らないでいると、鼠が來て云いました。
「内は富良富良(フラフラ)  外は須夫須夫(スフスフ)」此のように言いまして、蹈其の處を蹈(フ)むと、落ちて隱れ入る間に、火は燒け過ぎてしまいました。そこで、其の鼠は其の鳴鏑を持って咋って、出て來て奉まつりました。其の矢の羽は、其の鼠の子等が皆で喫ってしまいました。

一目ぼれで、目を合わせただけではないことが判ります。そして、父の須佐之男命に事後報告をしたら、「此は葦原色許男と謂うのだ」と言いましたから、須佐之男命は大国主命を知っていたことになります。大国主命の母が、刺国大神の女で刺国若比売と知っていて(No64にて掲載)、結婚に反対して、大国主命を殺そうとしたのでしょうか。
布切れを振ったり、まじないを唱えると危機を脱することができたことになりますが、
この術は、須勢理毘賣がもっていたことになります。須勢理毘賣は淀江町(旧高麗村)の唐王神社に祀られています。これで、此処が根の堅州国であることが、確定しました。

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2005.05.07

古事記を読む  根の国訪問

No74
長いので、区切りながら読んでみます。
於是八十神見。且欺率入山而。切伏大樹。茹矢打立其木。令入其中即。
打離其冰目矢而。拷殺也。爾亦其御祖哭乍求者。得見即。拆其木而取出
活。告其子言。汝者有此間者。遂爲八十神所滅。
乃違遣於木國之大屋毘古神之御所。爾八十神覓追臻而。矢刺乞時。自
木俣漏逃而云。可參向須佐能男命所坐之根堅州國。必其大神議也。
 翻訳
是に於いて、八十神見て、且(カ)つ、欺(アザム)いて山に率入れて、大樹を切り
伏せて、茹矢を其の木に打ち立て、其の中に入るように命令するやすぐに、
其の氷目矢(ヒメヤ)を打ち離って、拷(ウ)ち殺しました。爾(ココ)に亦、其の御祖
(ミオヤ)は哭(ナキ)乍ら、求めれば、見得てすなわち、其の木を拆(オ)って、取り出
して活きかえらせて、其の子に告げて言いますには、「汝は此間(ココニ)に有れば、
遂に八十神の爲に滅ぼされる所となるでしょう」と言いました。
乃(スナワ)ち、木國の大屋毘古神の御所に違えて遣(ヤ)りました。すると、八十神は
追い求めて至って、矢を刺して乞(コ)う時、木の俣()マタ自(ヨリ)漏れて逃がして、
云いました。「須佐能男命の坐(イマ)す所の根堅州國へ參り向う可(ベ)し。必らず 
其の大神が議(ハカ)り也」と。
意味の判らない言葉・部分
① 茹矢 茹は読み方は、ジョ くらう、ゆでる 意味はやわらかい。岩波文庫では、   
茹矢で〔ひめや〕と読ませています。
     ひめ矢は、木を割るときにつかうクサビとあります。
     「茹矢を其の木に打ち立て」とありますが、クサビを打ち込んでも、その中に人は入れませんから、茹矢はクサビではなさそうです。
      氷目矢は〔ヒメヤ〕と読めます。打ち離って、殺したとありますから、
     ヒメを辞書で引きますと、すずめ目の小鳥とありますから、小鳥を捕るための籠のようなもので、鳥が入ると自動的に矢がでるような仕掛けでしょうか。
② 違えて すれ違うの意味でしょうか。八十神に会わないように。
③ 木國之大屋毘古神 が問題のところだと思います。岩波文庫の訳本では、木國は、和歌山県の紀伊の国となっています。これまで、古事記を訳してきましたが、すべて、出雲、伯耆、因幡あたりのことになっています。和歌山は遠すぎます。
近くで木の字が付くところでは、三木市があります。三木は御木ではなかったでしょうか? 三木市には、〔御坂神社〕があります。三坂社を含めると、八社あり、祭神は、神社によって、いろいろで、葦原志挙乎命・大巳貴命とあったり、播磨風土記には大物主葦原志許男神の名が見えます。

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2005.05.06

古事記を読む  八十神の迫害

No73
例によって、原文と翻訳です。
於是八上比賣答八十神言。吾者不聞汝等之言。將嫁大穴牟遲神。故爾八十神忿。
欲殺大穴牟遲神共議而。至伯岐國之手間山本云。赤猪在此山。故和禮
【此二字以音】共追下者。汝待取。若不待取者。必將殺汝云而。以火燒似猪大石
而轉落。爾追下取時。即於其石所燒著而死。爾其御祖命哭患而。參上于天。請神
産巣日之命時。乃遣キサ{討の下に虫}貝比賣與蛤貝比賣。令作活。爾キサ貝比賣岐佐宜
【此三字以音】集而。蛤貝比賣持水而。塗母乳汁者。成麗壯夫【訓壯夫云袁等古】
而出遊行。

翻訳
是に於いて、八上比賣が、八十神に答えて言うには、「吾は汝等(ナンジラ)の言うことは聞きません。將に嫁大穴牟遲神に嫁(トツ)ぎます」すると、八十神は怒って、大穴牟遲神を殺そうと欲っし、共もに議(ハカリ)て、伯岐國の手間の山本に至って言いました。
「赤い猪が此の山にいます。ワレ、共に追い下ろすので、汝は待っていてうち取れ。もし、うち取らなければ、必らず將に汝を殺す」と言って、火でもって猪に似せた大石を焼いて轉落させました。そして、追い下ろす(石を)受け取った時、すぐに、其の石で焼き着きて死んだ。そこで、其の御祖命(母)が哭(ナ)き患(ワズ)らって、天に参り上りて、神産巣日之命(カミムスヒノミコト)に請(コ)うた時、乃(スナワチ) キサ貝比賣と蛤貝比賣(ウムガイヒメ)を遣(ツカ)わして、作って活きかえさせた。そこで、キサ貝比賣は岐佐宜(キサゲ)を集めて、蛤貝比賣は水を持って母の乳汁を塗れば、麗わしい壯夫(オトコ)に成り、出て遊びに行きました。
意味が良く判りませんね。「必らず將に汝を殺す」と言いました。赤い猪の代わりに、赤く焼けた石を山から落としました。受け止めなければ石は横を落ちていくかもしれませんのに、どうして受け止めたのでしょうか? 受け止めなくても石が当たって死んだと言うことでしょう。猪を捕まえないと殺すという文章があったのでしょう。無理難題であろうが、大国主命は、八十神の命令に従わなければならないほど、立場が弱かったのかも知れません。「必ず 死ぬはずです」
キサ貝と蛤貝と御祖命(刺国若比売)のお乳を混ぜて死体に塗ると生き返るという迷信でもあったのでしょうか? 少なくとも、傷ぐらいには良く効いたのではないでしょうか。

キサ貝比賣と蛤貝比賣は高天原の隣の日野町の根雨神社に刺国若比売と一緒に祀られていました。また、西伯郡手間村大字寺内字久清に赤猪岩神社に大穴牟遅命と刺国若比売命が祀られています。 稗田阿礼は、やはり、こらの神社を訪れたのでしょう。

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2005.05.03

古事記を読む  稲羽の素兎 その3

No72
稲羽の素兎は、神話の形にして、日本書紀の作者をも騙しました。その後、古事記を読んだ日本人すべてを騙しました。学者も騙されました。
 そこで、実際の話は、どういうことなのか、考えてみようと思います。
素兎は、岩波文庫では、「しろうさぎ」と読み仮名がうってあります。「素」は「しろ」と読むのかと疑ってみましたら、漢和辞典(EX-word)「しろし」「もと」「しろ」とあります。それでも納得できず、「字通」を繰りました。
「ソ、しろぎぬ、もと、もとより」とあって、「しろ」の読み方は書いてありません。
つぎのように説明してあります。
糸をそめるとき、束の上部を結んだ部分が白く残される。その部分を素という。
しかし、別のところに、読み方が、記されています。一つは、古訓とかかれているもの、もう一つは、
① しろ、しろぎぬ、むじ
② もと、もとのいろ、もとの状態
③ もとより、まえから、あらかじめ、つね
④ たち、本来の性質、まこと、ただしい、すなお
⑤ むなしい、いたずら、なにも加えない
素を使った熟語がいっぱい掲載されていますが、「白」の意味は、少ないです。

【故爲如教其身如本也。此稻羽之素菟者也】とあります。わざわざ、稻羽之素菟と断ったということは、兎が白かったことをいう為ではないと思います。素(モト)の身体に戻った兎でしょう。
なぜ、拘るかといいますと、兎そして、白いと書かれていますと、本当のウサギのことと捉えます。すんなり、神話に入り、だれも疑いません。
訳の中では、「兎」という漢字を使いましたが、原文では、「菟」になっています。この字も兎と読みます。
もう一つ、注意することは、「淤岐嶋」は、岩波文庫では、注釈に「隠岐の国を指すか」とありますが、古事記では、隠岐と淤岐は別に扱っています。また白兎海岸という所に、白兎神社があります。そのすぐ、近くに淤岐嶋があります。
この島までは、続いていて歩いて渡ることが出来たのだと思います。ある日、潮干狩りに出かけた人が、潮が満ちてきて、帰れなくなった事件があったのではないでしょうか?
この話を取り入れて、神話を作ったことになります。
ここまでの話では、白兎は、当時朝鮮にあった玄菟でしょう。衣服を脱がされて裸になっていました。騙されたのは、和邇村の人で、イザナギの勢力圏ですから、白狄人です。
因幡の八上村の売沼神社に、八上比売は祀られています、元は比売沼神社だったのに、式内社になったときに、売沼神社になったと伝えが残っています。(無理に変え・・。)


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2005.05.02

古事記を読む  稲羽の素兎 その2

No71
故欺海和迩【此二字以音。下效此】言。吾與汝竸。欲計族之多少。故汝者隨其族在悉率來。自此嶋至于氣多前皆列伏度。爾吾蹈其上。走乍讀度。於是知與吾族孰多。如此言者。見欺而列伏之時。吾蹈其上讀度來。今將下地時。吾云。汝者我見欺 言竟即 伏最端和迩 捕我悉剥我衣服。因此泣患者。先行八十神之命以。誨告浴海鹽當風伏。故爲如教者。我身悉傷。
於是大穴牟遲神教告其菟。今急往此水門。以水洗汝身。即取其水門之蒲黄。敷散而。輾轉其上者。汝身如本膚必差。故爲如教其身如本也。此稻羽之素菟者也。於今者謂菟神也。故其菟白大穴牟遲神。此八十神者必不得八上比賣。雖負袋(衣の部分が巾)汝命獲之。

そこで、海の和迩(ワニ)を欺(アザム)いて言いました。「吾(ワタシ)と汝(アナタ)と競争して、どちららかの族(ヤカラ)の数の多少を計(カゾ)えたいと欲す。そこで、汝は隨其の族の在る隨(マニマ)に、悉くを率いて來て、自此の嶋自(ヨ)り氣多の前に至まで皆を列らばせ伏せて渡る。そこで、吾が其の上を蹈んで、走り乍ら讀(ヨン)んで渡る。そこで、吾の族と孰(イズレ)か多いかを知ろう」と言いました。此の如く言いましたが、欺いて列らび伏せているのを見て、吾は其の上を蹈みながら、讀み度り來て、今、將(マ)さに、地に下りるという時、吾は云いました。「汝は我に欺されたのだ」と言い竟(オワ)るや、最後の端に伏せていた和迩(ワニ)が我を捕らえて我の衣服を剥ぎました。此の因により泣き患(ワズ)らっていると、先行の八十神の命が、海の鹽を浴びて風に當って伏せているようにと教えてくれました。そこで、爲如教えられたようにしていますと、我の身は、悉く傷ついてしまいました。
是に於いて、大穴牟遲神其の菟に教え告げました。「今、急いで此の水門に往って、水を以って、汝の身を洗いなさい。即ぐに、取其の水門の蒲黄を取って、敷き散らかして、其の上で輾轉(ネコロガ)れば、汝の身は本(モト) 如く膚は必らず治るでしょう」そこで、教えられた如く爲(ナ)すと、其の身は如本のようになった。此は稻羽の素菟(スウサギ)也。今は菟神と謂う也。そこで、その兎が大穴牟遲神に申すには、「此の八十神は必ず八上比賣を得ることは出来ない。袋を背負っていると雖も汝の命が之を獲るでしょう」と申しました。

日本書紀の作者は、この神話は何のことかわからなかったのでしょうか。それとも、問題にするほどのことはないと思ったのでしょうか? この後、まだまだ続きます。八十神の名前も出てきます。日本書紀に書かなかったということは、これも知られたく無かったのだと思います。知られたくないのであれば、稲羽の素兎の部分は、古事記の方も削除すればいいのですが、削除しませんでした。他愛もない物語だと思ったのでしょう。
この後、八十神が大国主命を苛めます。須佐之男のいる根の国にも行きます。須勢理毘売に出会います。
長い物語ですが、削除しないし、日本書紀で取り上げなかったことは、謎と言ってもいいかもしれません。

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2005.05.01

古事記を読む  大国主命 -稲羽の素兎

No70
有名な白ウサギの神話です。原文と訳文です。

故此大國主神之兄弟八十神坐。然皆國者避於大國主神。所以避者。
其八十神各有下欲婚稻羽之八上比賣之心共行稻羽時。於大穴牟遲神負袋(衣の
部分が巾)。爲從者率往。於是到氣多之前時。裸菟伏也。爾八十神謂其菟云。
汝將爲者。浴此海鹽。當風吹而。伏高山尾上。故其菟從八十神之教而伏。
爾其鹽隨乾。其身皮悉風見吹拆。故痛苦泣伏者。最後之來大穴牟遲神見其菟。
言何由汝泣伏。菟答言。僕在淤岐嶋。雖欲度此地。無度因。故欺海和迩
【此二字以音。下效此】言。吾與汝竸。欲計族之多少。故汝者隨其族在悉率來。
自此嶋至于氣多前皆列伏度。爾吾蹈其上。走乍讀度。於是知與吾族孰多。如此
言者。見欺而列伏之時。吾蹈其上讀度來。今將下地時。吾云。汝者我見欺。言竟。
服。因此泣患者。先行八十神之命以。誨告浴海鹽當風伏。故爲如教者。我身悉
傷。於是大穴牟遲神教告其菟。今急往此水門。以水洗汝身。即取其水門之蒲
黄。敷散而。輾轉其上者。汝身如本膚必差。故爲如教其身如本也。此稻羽之素
菟者也。於今者謂菟神也。故其菟白大穴牟遲神。此八十神者必不得八上比
賣。雖負袋(衣の部分が巾)汝命獲之。

さて、此の大國主神の兄弟は八十神坐(イ)ます。然(シカ)し皆國は大國主神から避けました。その避けた理由は、其の八十神は各人 欲婚稻羽の八上比賣と結婚したい心が有って、稻羽にいった時、大穴牟遲神に袋を背負わせ、従者として率(ヒキ)いて往(イ)きました。そして、氣多の前(サキ)に到達した時、裸の菟(ウサギ)が伏せていました。そこで、八十神其の菟に云いました。「汝は將(マサ)にしなさい、此の海の鹽を浴びて、當風吹いている風に當って、高い山の尾の上に伏せていなさい」と。そこで、其の菟は八十神の教えに從って伏せました。
その内に、其の鹽が乾いてくると、其の身(カラダ)の皮の悉くが風に吹かれて拆(サケ)ました。そして、痛み苦しんで泣きながら伏っていまいすと、最後に來た大穴牟遲神が其の菟を見て、「何由(ナニユエ)に汝は泣いて伏せているのか」と言いました。菟が答えて言いますのに、「僕は在淤岐嶋に在(イ)まして、此の地に渡りたいと欲しましたが、渡る方法が無い」

少し長いので、続きは次回です。
この神話の部分は、日本書紀にはありません。何故無いと思われますか?
このようなことを考えながら、もう一度読み返していただければと思います。古事記の作者は、命を掛けて伝えたいことを書きました。この文章のどこを伝えたかったのでしょう。

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