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2005.06.09

古事記を読む  少名毘古那神と国作り

No92
故大國主神坐出雲之御大之御前時。自波穗乘天之羅摩船而。内剥鵝皮剥。爲衣服。有歸來神。爾雖問其名不答。且雖問所從之諸神。皆白不知。爾多迩具久白言【自多下四字以音】此者久延毘古必知之。即召久延毘古問時。答白此者神産巣日神之御子。少名毘古那神【自毘下三字以音】
故、大國主神が 出雲の御大(ミホ)の御前(ミサキ)に坐す時、波の穗自(ヨリ)天(テン)の羅摩船(カカミフネ)に乘り而(テ)、鵝(ガ)の皮を内剥(ウチハギ)に剥いで、衣服に爲(ナ)して、歸り來る神が有る。ここに其の名を問え雖も答えず。且つ所從う所の諸神に問え雖も、皆、不知と白(モウ)す。ここに、多迩具久(タニクク)が言うてもうすには、「此は久延毘古(クエビコ)が必ず知っている」と。即に、久延毘古を召して問うた時に、「此は神産巣日神(カミムスビヒノカミ)の御子。少名毘古那神(すくなびこなのカミ)です」と答えて申しました。

① 御大は訳本では、〔ミホ〕と読ませています。漢字で美穂岬のようです。現在の地図には、美穂岬はありません。他には、地蔵岬と日御崎しかありません。早見ヶ鼻のように、鼻がつくところも岬ですが、〔ミオ〕に近いものはありませんから、美穂神社のある辺りを古くは、美穂御前と呼んだと思われます。
② 波穗乘天之羅摩船 --波穗は、波が穂のように垂れる様を言うのでしょう。天之羅摩船には、〔アメノカカミブネ〕と振り仮名があります。アメはまだしも、カカミブネは無理です。なぜ このような振り仮名があるかといいますと、日本書紀につぎのような事が、書かれているからでしょう。
「はじめ わが国を平定されたとき、出雲国の五十狭狭(イササ)の小汀(オバマ)にお着きになって食事しようとされた。そのとき、海上に突如として人の声がする。そこで驚いてその声の主をさがされたが何も見えない。不思議に思っておられると、しばらくして一人の小男が白蘞(カガミ)の皮で舟をつくり、鷦鷯(ミソサザイ)の羽を着物にして、潮の流れのまにまに浮んでやって来た。大己貴神はそれを拾い上げて、掌においてもてあそんでおられたところ、ぴょんとはねて大己貴神の頬に噛み付いた」
とあります。そこで、羅摩をカガミと読ませています。羅摩はラマでしょう。ラマは、ラマ教があります。香港島の南にラマ島があります。この島がどうして、ラマという名前がついたか分かりませんが、滇は現在の雲南省ですから、舟で下ってくれば、海岸伝いにラマ島までいけます。羅摩は地名ではないでしょうか? 羅摩で使われていた船で良いのではないでしょうか(チベットでは現在も皮の舟があります)。雲南省あたりの川の深さが良く判りませんが、皮でできた舟であれば、川が浅くても下ることは可能ですし、そのまま、日本まで来ることは簡単であったはずです。4~5日もあれば、到達できたはずです。避難用のボートが皮で作られていると考えればいいです。問題は、多くの人が乗ることが出来ないということです。
③ 鵝(ガ)の皮を内剥(ウチハギ)に剥いで---仮に少名毘古那神が、掌にのるような一寸法師であれば、鵝(ガチョウ)は大きすぎますから、日本書紀では鷦鷯(ミソサザイ)の羽にしました。この鳥は、日本で最も小さい鳥だから理屈にあいます。しかし、古事記では、少名毘古那神は一寸法師とは書いてありません。少名毘古那神は、大国主神が国を平定したときに来たのではなく、二人で国を開拓していったことになっています。一寸法師のように小さくては役に立ちません。
④ 鵝(ガ)の皮を内剥(ウチハギ)に剥いで---鵝はガチョウのことです。どうやら、ガチョウでは洋服を作らなかったとみえ、どの翻訳も、鵝という漢字は、蛾と字を間違ったということで、幼虫の蓑虫の皮で作った服と書いておられます。蓑虫の中の虫を取り出すことを内剥というでしょうか、剥がれない様にくっついているものを取り除くことを剥ぐというはずです。鵝は、やはり蛾の間違いだと言わないで、鵝とすべきです。古代の人は、糸を作って織物を織って衣服を作ろうと思うでしょうか? 普通は、温そうに着ている毛皮や羽をそのまま、身に纏うことを考えるでしょう。問題は、鵝の内臓を取りだとして、皮や羽にしますと、腐ります。腐る前に乾かしますと、ごわごわで着心地が悪いので、なめす必要があります。アルプスで5000年前のミイラが発見されましたが、すでに毛皮をつけていました。鵝で作った衣服があってもなんら不思議ではありません。皮製のボートも然りです。
⑤ 歸り來る神が有る---帰り来るが判らないので、「寄り来る」と翻訳してあります。「帰」には、「寄り」という意味はありません。「帰ってきた」だけです。「帰」の旧字体は、「追」の右の部分の下に「止」、右側は「帚」とかきます。箒をもって、歩いて行くで、結婚する意味があったそうです。それでは結婚しにやってきたのかと考えたくなりますが、誰も正体を知らないと次に続きますから、結婚ではありません。少名毘古那神は滇へ派遣されて帰ってきたことになります。次に、少名毘古那神は神産巣日神(カミムスビヒノカミ)の御子だとあります。神産巣日神はNo4で出てきました、別天つ神五柱の中の一人です。
 少名毘古那神は、波の穗をかき分けて天(テン)の羅摩船(カカミフネ)に乘って、美穂岬に帰ってきたことになります。
日本書紀も合わせて読んでください。大国主神のことは別名があったことと、少名毘古那神が一寸法師であったこと、そして大国主神が大物主であったことが記されていますが、大物主は奈良の大神神社の祭神です。ここで、大国主神と一緒だと宣言したために、祟神天皇のところで、大神神社の神話を作らなければならなくなっています。日本書紀の作者は、少名毘古那神も大国主神も大物主神も書きたくなかったのだと思います。古事記と全く違うことを書いたために、その後、どんどん変な方向へ行くことになりました。

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