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2005.06.30

古事記を読む  葦原中国の平定 鳴女を遣わす

No104
原文
故爾天照大御神、高御産巣日神亦問諸神等。天若日子久不復奏。又遣曷神以。問天若日
子之淹留所由。於是諸神及思金神答白可遣雉名鳴女時。詔之。汝行。問天若日子状者。
汝所以使葦原中國者。言趣和其國之荒振神等之者也。何至于八年不復奏。
訳文
そこで、天照大御神と高御産巣日神と亦、諸の神等は問いました。「天若日子は久しく復(カエ)り奏(モウ)さない。又、曷(イズ)れの神を遣わして、天若日子が淹(ヒサシク)留(トド)まる所由(ユエ)を問おう」と。是に於いて諸神及び思金神(オモイカネノカミ)は、「雉(きじ) 名は鳴女(ナキメ)を遣わす可(ベ)き」と答えて白(モウ)された時、「汝が行ったときに、天若日子に問う状態は、『汝を葦原中國に使わした所以(ユエ)は、其の國の荒振神等を、言趣(コトム)け和するように也。何(イ)かに、八年にるまで復命しないのか』と問いなさい」と詔りされました。

① 天照大御神はワンマンではなかったことが判ります。合議制であるし、武力ではなく、荒振神等を、言趣(コトム)け和するようにとの方針です。
② このようなときに、雉を使いに出すという説話がどこかにあるのでしょうか?
原文
故爾鳴女自天降到。居天若日子之門湯津楓上而。言委曲如天神之詔命。爾天佐具賣【此三字以音】聞此鳥言而。語天若日子言。此鳥者其鳴音甚惡。故可射云進。即天若日子持天神所賜天之波士弓。天之加久矢。射殺其雉。
訳文
そして鳴女が天より降り到ると、天若日子が居る門湯津(トユツ)の楓の上で、天神の詔(ノ)りたまわれた命(ミコト)の如く、婉曲に言いました。爾(ココニ)、天佐具賣(アメノサグメ)はこの鳥の言うことを聞いて、天若日子に語って言いました「此の鳥は其の鳴音は甚く惡い。故に射る可し」と言いながら進み、即に、天若日子が天つ神から賜った所の天之波士弓と天之加久矢を持って、其の雉を射殺しました。

①「居天若日子之門湯津楓上而」の部分は、訳本では「天若日子の門なる湯津楓の上に居て」となっています。「湯津楓」を「枝葉が茂っている楓」となっています。なんのことか解りません。どうせ解らないのであればと、「門湯津楓」を一つのものとしました。楓で門のような形にしてあるのでしょう。その木に止まって口上を述べたのでしょう。
③ 天之波士弓と天之加久矢が、No102に書かれていた天之麻迦古弓と天之波波矢と全く違っています。「天神所賜天之波士弓と天之加久矢」とありますから、天つ神から貰ったことは確かですが、どのような意味があるのか判りません。

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2005.06.28

古事記を読む  天若日子、下照比賣と結婚

No103
 前のページへ戻らなくていいように、訳文を書いておきます。
是を以(モ)ちて、高御産巣日神(タカムスビノカミ)、天照大御神 亦、諸(モロモロ)の神等に問いました。「葦原中國に遣わした所の天菩比神(アメノホヒノカミ)は久しく復(カエ)り奏(モウ)さず。亦、何(イズ)れの神を使いにすれば吉(ヨイ)でしょう」と。
爾に、思金神(オモヒカネノカミ)答えて白(モウ)されるには、「可遣天津國玉神(アマツクニタマノカミ)の子である天若日子(アメノワカヒコ)を遣わす可(ベキ)です」と。故爾(ソコデ)以って、天之麻迦古弓(アメノマカコユミ)と天之波波矢(アメノハハヤ)を天若日子に賜って遣かわしました。是に於いて、天若日子が其の國に降り到ると、即(スグ)に大國主神之女である下照比賣を娶って、亦、其の國を獲(エ)ようと慮(オモイハカ)って、至于八年に至まで、復奏しませんでした。

③天菩比神が帰ってこないので天若日子を派遣することになります。天若日子)は、岩波文庫では、このように振り仮名がありましたので、(アメノワカヒコ)と書きましたが、又、天の若日子です。「アメ」ではなく、「滇」の出身です。何のために派遣するのかと言いますと、蒜山高原は、稲が取れません。葦原中國の田がほしいのです。稲作を持ち込んだ「滇」の出身の天菩比神に続き、天若日子に決定します。日本書紀では、両者は、天穂日命と天稚彦とあります。日本書紀の作者は、大国主のところでは、あまり書かなかったのに、ここの部分は、自分と同族であったのでしょうか? 詳しく書いています。滇の出身と思っていたが、違ったのかも知れません。
③天若日子を派遣するときに、今度は武器を持たせています。
天之麻迦古弓と天之波波矢です。「天」の次に「之」が入っていますから、「滇」の麻迦古弓と波波矢です。これまでに、滇の製品が出てきました。「天の沼矛」です。ほかにも探してください。
④天若日子が降り到るやいなや、大國主神の娘の下照比賣と結婚しました。政略結婚でしょうか? 「其の國を獲ようと慮って」とありますから、そのつもりだったのでしょう。しかし、丸め込まれて八年も復命しませんでした。
⑤最後になりましたが、葦原中國です。一般に、天孫降臨は天上から天孫が降りていくことを言います。天上はどうみても空の上にあるように思われています。神話ですから、少々の矛盾は平気のようです。教えられた方も、文句の一つ言う人もありません。天上ではなく、蒜山高原です。両方とも割りと穏やかであったようです。天若日子は八年も音沙汰なしです。天菩比神の年月も入れると、葦原中國を平定しようとしてから、10年は経っています。蒜山高原は開墾前は,葦が茂っていました。そして、「稲」も取れないのに、「田」の字が付く、地名がいっぱいです。このようなことから推察すると、はじめは、葦原を改良するところから米を作ったと思われます。日本海側で、もっとも広い平野で葦原であったと思われるところは、倉吉平野です。ここが、葦原中國であったと思われます。

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2005.06.26

古事記を読む 芦原中国の平定---天若日子

No102
原文
是以高御産巣日神、天照大御神亦問諸神等。所遣葦原中國之天菩比神。久不復奏。亦使何神之吉。爾思金神答白。可遣天津國玉神之子。天若日子。故爾以天之麻迦古弓【自麻下三字以音】天之波波【此二字以音】矢。賜天若日子而遣。於是天若日子降到其國即娶大國主神之女。下照比賣。亦慮獲其國。至于八年不復奏。

翻訳
是を以(モ)ちて、高御産巣日神(タカムスビノカミ)、天照大御神 亦、諸(モロモロ)の神等に問いました。「葦原中國に遣わした所の天菩比神(アメノホヒノカミ)は久しく復(カエ)り奏(モウ)さず。亦、何(イズ)れの神を使いにすれば吉(ヨイ)でしょう」と。
爾に、思金神(オモヒカネノカミ)答えて白(モウ)されるには、「可遣天津國玉神(アマツクニタマノカミ)の子である天若日子(アメノワカヒコ)を遣わす可(ベキ)です」と。故爾(ソコデ)以って、天之麻迦古弓(アメノマカコユミ)と天之波波矢(アメノハハヤ)を天若日子に賜って遣かわしました。是に於いて、天若日子が其の國に降り到ると、即(スグ
)に大國主神之女である下照比賣を娶って、亦、慮獲其の國を獲(エ)ようと慮(オモイハカ)って、至于八年に至まで、復奏しませんでした。

検討を加えます。
① 高御産巣日神(タカムスヒノカミ)の名前は覚えておられますか?  No4(別天つ神五柱)の二番目に出てきます。その部分をかきだすと、
「天之御中主神(テンノミナカヌシ)です。その次にやってきたのは、高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)。そして、神産巣日神(カミムスヒノカミ)でした。この三人は、独身者で、そのうちに、身を隠しました」
次はNo93 において、少名毘古那神の親であると言って出てきます。
No4に戻ったついでに、高御産巣日神という神を考えてみますと、「身を隠しました」とありましたが、外国や日本のあちこちに行ったのではなくて、高天原にいて、天照大御神より位が上だったようです。(天照大御神より前に記述されています)その子供の少名毘古那神は、外国に行っていたようで、天之羅摩船に乗って帰ってきました。(No92参照)
 高御産巣日神と神産巣日神の二神の名前を見比べてください。高御--産巣日神と神--産巣日神です。毎日、古事記を後ろに前にと繰っていますと、長い神の名前と名前の前に「神」の字が付くのが気になります。私は長い名前の神の前の部分は出身地ではないかと思えるようになっています。この二神の場合、「高」が地名ではないかと。神産巣日神の「神」はユダヤ人を表しているのではないかと。天皇の名前にも「神」の字が付く場合は、同じではと。また、そのうちに調べようと思っています。
②葦原中國に天菩比神を使いにやります。天菩比神は覚えておられますか? No50をごらんください。スサノオが「天照大御神の左の御角髪に纏かせる八尺の勾聰の五百箇の御統の珠」
を貰って、口の中に入れて噛み砕き、息吹きをすると五にんの神があらわれました。その中の一人が、「天之菩卑能命」です。天と菩卑能命の間に、「之」が入っています。菩卑能命は「天」=「滇」の出身です。
この文章のもう少し、後に「天菩比命の子、建比良鳥命、こは出雲国国造、上菟上国国造、下菟上国国造、伊自牟国造、津島縣直、近江国国造等が祖なり。」の文章を載せています。「建比良鳥命、こは出雲国国造」を言いたいのですが、建比良鳥命の親は、天菩比命だと警告しています。この号のはじめの部分をみてください。天菩比神は、天菩比命と表記が違います。同じ、古事記の中で、作者は使い分けていることが分かります。その天菩比命は、天照大御神が大国主のもとに使いに出したら、寝返ってしまったトンデモない男ですよ。その子供の建比良鳥命が出雲国国造をしているのですから、皆さん、注意してください。No50で、付け足したように警告文があったことになります。

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2005.06.24

古事記を読む 葦原中国の平定---天菩比神

No101
原文
天照大御神之命以。豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者。我御子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命之所知國。言因賜而天降也。
於是天忍穗耳命於天浮橋多多志【此三字以音】而詔之。豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者。伊多久佐夜藝弖【此七字以音】有那理【此二字以音。下效此】告而。更還上。請于天照大神。
爾高御産巣日神天照大御神之命以。於天安河之河原神集八百萬神集而。思金神令思而詔。此葦原中國者。我御子之所知國。言依所賜之國也。故以爲於此國道速振荒振國神等之多在。是使何神而將言趣。
爾思金神及八百萬神議白之。天菩比神。是可遣。故遣天菩比神者。乃媚附大國主神。至于三年不復奏。
訳文
 天照大御神の命(ミコト)を以って 「豐葦原(トヨアシハラ)の千秋長五百秋 (チアキノナガイホアキ)の水穗國(ミズホノクニは、我御子(ワガミコ)である正勝吾勝勝速日天忍穗耳命之所知國(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)の知らす国ぞ」と言(コト)よさしたまひて、天降(アマクダ)したまひき。
ここに天忍穗耳命は、天の浮橋に多多志(立って)詔りたまひしく、「豐葦原の千秋長五百秋之水穗國は、伊多久(イタク)佐夜藝弖(騒ぎて)有り那理(ナリ)」と告げて、更に還(カ)えり上りて、天照大神に請(モウ)されました。
そこで、高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)と天照大御神の命が思われて、天の安の河の河原に神を集めますと、八百萬神が集って、思金神(オモイカネノカミ)はみなに考えるように命じ、言われました。「此の葦原の中つ國は、我御子のよく知っている所の國、言依(コトヨサ)したまへりし國也。故(カレ)、この国に道速振荒振(チハヤフルアラフル)國つ神等の多(サワ)なりと以爲(オモ)ほす。これ何(イス)れの神を使わして、言趣(コトム)けん」といわれました。ここに、思金神及八百萬神は、議(ハカ)って申されました。「天菩比神。是可遣(これをツカワスベシ)」。そして、遣天菩比神を遣わしますと、すぐに大國主神に媚び附きそって、三年に到るまで、不復奏(カヘリゴトモウサザリキ)。
 ややこしい訳文になりました。意訳した部分や翻訳本のままの部分が混ざったものです。
疑問の部分を書き出して考えてみます。
①豐葦原の千秋長五百秋の水穗國---豐葦原は、豊かな葦の生える原(肥沃な湿地帯)でしょう。秋は収穫の季節です。千の秋、それより五百多い秋ということで、何年でもいっぱい収穫できる豊かな葦原を持つ稲作の国。
②正勝吾勝勝速日天忍穗耳命---正勝吾勝勝速日の部分は、天忍穗耳命を褒め称える修飾語。では意味はとなりますと、困ります。お預けです。
③言よさしたまひて---言明されて。自身を持って言い切る。
④更に還(カ)えり上りて---偵察に行かれて、戻ってこられたのでしょう。
⑤言趣けん----前後の関係から考えますと、武力ではなく、言葉で説得しようぐらいです。
⑥道速振荒振(チハヤフルアラフル)國つ神等---よく判りません。
⑦不復奏―--帰ったと申さなかった。三年過ぎたら帰ってきたのでしょうか?
天菩比神は 何者でしょうか?

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2005.06.22

古事記を読む    紀元

No100
紀元とは、年数を数える際の起点となる年を言います。普通はキリスト紀元(西暦)を言います。
 どの国にも、その国の始まりを表す紀元があります。例えば、
1.ローマ建国紀元---------紀元前753年
2.フランス共和紀元---フランス革命を紀元とする。1789年。
3.仏暦紀元---------------釈迦が入滅した年から。スリランカ、ミャンマー  紀元前544年を仏滅紀元元年。釈迦が入滅した一年後から紀元。タイ・カンボジア・ラオス。紀元前543年を仏滅紀元元年。
4.神武天皇即位紀元--神武天皇即位の年を紀元とする。紀元前660年。
5.中華民国暦----------1912年が元年
その他、ヒジュラ暦(イスラム歴)、ペルシア歴(イラン歴) などいっぱいある。

3,4のように、正確には紀元が判らないものもあるが、最も判らないものは、キリスト紀元(西暦)です。元年は、キリストが生まれた年ではありません。キリストが何時生まれたか正確なことは誰にも判りません。
正確でもないものを、現在では世界中で基準にして使っています。

西暦紀元は6世紀のローマの神学者によって算出されました。紀元0年が無く、元年(1年)より始まるのは、当時、まだゼロの概念が西洋に伝わっていなかったからで。この暦法はなかなか受け入れられず、西洋で一般化したのは15世紀以降と言われています。
ということは、キリスト教を信じる国で共通して用いられていたのではないことが判ります。
では紀元元年は、誰が決めて誰が使っていたのでしょう。
「新しい古事記の読み方」の元になっているのは、田村誠一著の「燦然と輝いていた古代」ですが、この書物の追加篇89ページに、田村氏は、「西暦は神武紀元」のタイトルで、西暦元年は、神武天皇が橿原で平和宣言した辛酉の正月のことだと記しています。

辛酉は、干支の一つで、「しんゆう」又は「かのととり」と読み、60年に一回巡ってきます。辛酉は政治的変革が起こるとされ、これを辛酉革命という。特に1260年に一度の辛酉の年には、国家的大変革が起きるとされた。推古天皇9年(601年)がその年に当たり、この年の1260年前である紀元前660年に神武天皇が即位したものとされた。
 日本書紀の編集者は、ただ此れだけで、660年前にしたわけではないでしょう。もっと大きな理由があったと思われますが、このことは、もっと、後のこととして、660年もどうして、ずらしたのでしょう。天皇の年齢が多すぎるところでは、干支がずれないように、60歳多くしました。古事記にはない、神功皇后のページを挿入しました。
100号記念に、「西暦は神武紀元」の結論だけ書いてみました。 古事記を読み進みますと、これは間違いであるとは言えなくなります。

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2005.06.20

古事記 大年神の神裔 その2

No99
羽山戸神娶大氣都比賣神【自氣下四字以音】生子。若山咋神。次若年神。次妹若沙那
賣神【自沙下三字以音】次彌豆麻岐神【自彌下四字音】次夏高津日神。亦名夏之賣神。次秋毘賣神。次久久年神【久久二字以音】次久久紀若室葛根神【久久紀二字以音】
 上件羽山戸神之子自若山咋神以下。若室葛根以前。并八神。
翻訳
羽山戸神、娶大氣都比賣神(オオゲツヒメノカミ)を娶(メト)って、生んだ子は、若山咋神(ワカヤマクイノカミ)。次に若年神。次に妹若沙那賣神(イモワカサナメノカミ)。次に彌豆麻岐神(ミヅマキノカミ)。次に夏高津日神(ナツタカツヒノカミ)。亦の名は、夏之賣神(ナツノメノカミ)。次に秋毘賣神(アキビメノカミ)。次に、久久年神(ククトシノカミ)。次に久久紀若室葛根神(ククキワカムロツナネノカミ)。
上件羽山戸神の子より若山咋神以下。若室葛根以前(ヨリサキ)。并せて八神。

又、神の名前ばかりです。 羽山戸神と大氣都比賣神の間に、
①若山咋神 ②若年神 ③妹若沙那賣神 ④彌豆麻岐神 ⑤夏高津日神
⑥秋毘賣神 ⑦久久年神 ⑧久久紀若室葛根神
の八人の神が生まれたと書かれています。
No97 の天知迦流美豆比賣の子供は、10人いました。その中の一人が羽山戸神です。
10人の内の一人だけを書きとどめて置く理由が判りません。

No97とNo98は、大年神の末裔が書かれているのみです。古事記の作者は、是非、書いて置きたかったはずです。No91大国主の神裔も神の名前だけです。
考え方は、二通りです。
大国主神の末裔は、天皇家の血筋ですよ。反対に天皇家の反対勢力ですよ。だから、今後、この人たちの末裔には、注意をしてください。
大年神と大国主神は、スサノオの子供です。

もう少し、元にもどりますと、イザナギが禊をしたときに、現われたのが「三貴人」です。天照大御神・月読神・須佐之神です。仲良く国を治めよとイザナギから命令されましたが、スサノオは従わずに、追放されます。スサノオには子供が三人いましたが、そのうち、大国主神だけ、特別に子供の名前を書いています。
やはり、大年神と大国主神が、詳しくかかれているということは、書いて置きたかったことになります。日本書紀は、この二人のことは、殆ど書いていませんから、書きたくなかった。出来れば、抹消したかったのかもしれません。大年神と大国主神のみ詳細に書かれている理由が見つからないということは、他の神も詳細があったのに、何年後かに、誰かが消したのかもしれません。大国主神の母は、刺若比売で苗族の血縁。 大年神の母は神太市比売で、ユダヤ系の血縁だから、書いておきたかった。???。

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2005.06.18

古事記を読む  少名毘古那神 よもやま話

No98
① 大国主と少名毘古那神の二人を一緒に祀った神社は、東北から四国までで70座ほどあります。これをどのように考えたらいいのでしょう。少名毘古那神が外国からやって来たときに、ラマ船にのって、鵞鳥の羽を使った服をきたと考えましたが、鳥の羽は利用できますが、なめして皮にしますと、毛が抜けてしまいます。蛾の皮を蚕の繭と考えますと、諸国を歩いて養蚕と稲作を広めたことになります。
 水戸の大洗海岸の大洗磯前神社。酒別磯前神社。山形県の出羽三山神社。米沢市の一宮神社などに、二人が祀られています。
② 大洲市に少名彦神社があります。次の由緒が書かれています。
  「肱川を渡ろうとされた少彦名命は激流にのまれて溺死された。土地の人々が『みこがよけ』の岩の間に骸をみつけて丁重に「お壷谷」に葬った。その後御陵を設けてお祀りしたのがこの神社である。少彦名命は医学・養蚕・酒造等の神様で県下は勿論のこと高知県、九州方面から参拝者も多い。命の神体を祀ってあるところは全国に多数あるが終焉の地は当地といわれている」
① で養蚕を書きましたが、この由緒には、医学と酒造もあります。これはどこからわかるのでしょう。日本書紀も古事記にも書かれていないことです。
③ 出雲風土記に二人で飯石郡多彌郷に巡回してきて、稲の種を播いたとあります。陸稲を広めたのでしょう。
④ 三輪神社 西伯郡大和村大字小波字東岡畑(旧表示)に、大物主命と速須佐之男命と少名毘古那命が祭神です。すべて大国主神と関係ある人達です。どれぐらいの期間かわかりませんが、この土地と関係があったと考えてもいいです。
⑤ 配志和神社--中里字根岸九番地 旧奥州街道沿(ホームページ 小野寺啓氏作より )
  天明六年(AD1786)九月、菅江真澄の「はしわのわかば続」には、配志和神社の天孫降臨の祭礼の事が書かれている。その中に『根岸という処にお着きになると、少彦名の神がお出迎えになって、こうしてどんどんお進みになり、お帰りの道でも少彦名の神がお送り申し上げる』とある。小野寺氏は、次のように述べておられます。「県神社庁登録八五九社中で少名彦神社を名乗っているのは、ここだけである。この神が合同されているのは、四十二社(うち、主神六社)土地神・氏神の社に多く、国土・領内鋳護と薬師神社のように、病気療養の神として祭られている」
⑥ 大阪の道修町にある少名彦神社は、薬の町の守り神です。神農さんと呼ばれ、今は11月の22日と23日にお祭が行われます。お祭では、笹に張子の虎を頂くことになりますが、江戸時代に流行ったコレラと関係があるそうですが、何故虎なのか判りません。薬の神さん・範囲を広げて医学の神さんということでしょうか?
⑥ 出石神社---兵庫県高砂市阿弥陀町生石171 
祭神---大穴牟遲命、少毘古那命  
祭神を大国主神と書かずに、大穴牟遲命と書かれています。式外社。巨大な石造物が御神体。『播磨国風土記』の印南の郡大国の里の條に出てきます。

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2005.06.15

古事記を読む  大年神の神裔

No97
故其大年神、娶神活須毘神之女、伊怒比売、生子。大國御魂神。次韓神。次曾富理神。次白日神。次聖神【五神】。又娶香用比賣【此神名以音】生子。大香山戸臣神。次御年神【二柱】。又娶天知迦流美豆比賣【訓天如天亦自知下六字以音】生子。奧津日子神。次奧津比賣命。亦名大戸比賣神。此者諸人以拜竃神者也。次大山(上)咋神。亦名山末之大主神。此神者坐近淡海國之日枝山。亦坐葛野之松尾。用鳴鏑神者也。次庭津日神。次阿須波神【此神名以音】次波比岐神【此神名以音】次香山戸臣神。次羽山戸神。次庭高津日神。次大土神。亦名土之御祖神。【九神】
 上件大年神之子。自大國御魂神以下。大土神以前。并十六神。
翻訳
さて、其の大年神(オオトシノカミ)、神活須毘神(カムイクスビノカミ)の女(ムスメ)、伊怒比売(イノヒメ)を娶(メト)って生んだ子は、大國御魂神(オオクニミタマノカミ)。次に韓神(カラノカミ)。次に曾富理神(ソホリノカミ)。次に白日神(シラヒノカミ)。次に聖神(ヒジリノカミ)【五神】。又、香用比賣(カヨヒメ)を娶って生んだ子は、大香山戸臣神(オオカガヤマトオミノカミ)。次に御年神(ミトシノカミ)【二柱】。
又、天知迦流美豆比賣(アメチカルミズヒメ)を娶って、生んだ子は、奧津日子神(オクツヒコノカミ)。次に奧津比賣命(オクツヒメノカミ)。亦の名は大戸比賣神(オオベヒメノカミ)。此は、諸人の以ち拜(イツ)く竃神(カマノカミ)也。次に大山(上)咋神(オオヤマクイノカミ)。亦の名は、山末之大主神(ヤマスエノオオヌシノカミ)。此の神は、近っ淡海國の日枝山に坐(マ)し、亦、葛野(カヅノ)の松尾に坐して、鳴鏑(ナリカブラ)を用(モ)つ神也。次に庭津日神(ニワツヒノカミ)。次に阿須波神(アスハノカミ)、次に波比岐神(ハヒキノカミ)、次に香山戸臣神(カガヤマトオミノカミ)。次に羽山戸神(ハヤマトノカミ)。次に庭高津日神(ニワタカツヒノカミ)。次に大土神(オオツチノカミ)。亦の名は、土之御祖神(ツチノミオヤノカミ)。【九神】
 上の件の大年神之子。大國御魂神より以下、大土神より前は、并(アワセテ)十六神。

少し、整理してみます。誰と結婚したのか。
① 伊怒比売—大國御魂神、韓神、曾富理神、白日神、聖神の5人
② 香用比賣—大香山戸臣神、御年神の2人
③ 天知迦流美豆比賣—奧津日子神、奧津比賣命、大山(上)咋神、庭津日神
阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神
大土神の10人 【九神】のありますから、一神、多すぎます。
遡って、スサノオには、三人の子供がいます。
① 八島士奴美神--------大国主神(母・刺国若姫)-----新羅---苗族
② 大年神
③ うかの御魂
棒線を使って表示しないと判りにくいですね。No91とNo97は、大国主神と大年神の末裔が列挙されているのみです。どうして、二人の一族を書かねばならなかったのでしょう。

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2005.06.14

古事記を読む 少名毘古那神と久延毘古

No96
No92に逆戻りです。少名毘古那神がラマ船に乗って現われたときに、何者であるか誰も知りませんでした。久延毘古が知っていました。古事記が書かれた時には、山田の中で、案山子として立っていました。
どうして、このようなことが書いてあるのでしょうか?
先代旧事本紀という書物があります。その序文によると、推古天皇の二十八年(620)に勅によって、聖徳太子が蘇我馬子とともに撰定したものとされます。しかし、実際の成立年代は、平安初期と考えられ、偽ものだという説もあります。この書物の先代旧事本紀卷第四の地祇本紀のなかに、次の文があります。

大己貴神之平國矣.行到於出雲國之御大御前而且當飲食之時,海上忽有人聲.乃驚而求之,都無所見. 于時,自浪穗乘天蘿摩船而有一箇小男,以白蘞皮為船,以鷦鷯羽為衣.亦內剝鵝皮剝為衣服.隨潮水以浮到于大己貴命所.而取置掌中而翫之.則跳囓其頰.乃恠其物色,爾雖問其名,不答.且雖問所從諸神,皆為不知.
 爾,多邇且久白言:「此者久延彥必知之.多邇且久者,蟾蜍也.」即召久延彥問時,答曰:「此者神皇產靈神之御子-少彥名神.」故爾白上於天神之時,神皇產靈尊聞之曰:「吾所產兒凡有一千五百座.其中一兒最惡,不順教養,自指間漏落者.必彼矣.故與汝葦原色男為兄弟,宜愛養矣.」即是少彥名命是也.
 所謂久延彥者,於今者山田之曾富騰者也.即,案山子,稻草人也.此神足雖不行而盡知天下之神者也.

古事記と異なる部分を取り出しますと、「自浪穗乘天蘿摩船而有一箇小男」「以白蘞皮為船」
「以鷦鷯羽為衣」 「多邇且久者,蟾蜍也」  蟾蜍はヒキガエルのことです。蘞はあつめるという意味です。岩波文庫に書かれている注釈は、すべてここから取られたと思われます。先代旧事本紀は偽ものであると言われだしたのは、江戸時代で、私にはよく判りませんが、日本書紀と古事記と古語拾遺の本をもとに作られたとの説があります。古事記を参考にしたにしても、先代旧事本紀を書いた人は、古事記のままでは意味が通らないので、「谷蟆」という漢字は使わないで、「蟾蜍」にしたことになります。
久延毘古がなぜ 曾富騰(案山子)として田んぼにあるのか説明がありません。中国の華北において、現在では、案山子はないそうです。案山子はなんでも知っているという伝承を伴って、稲作が伝わったと考えられます。
久延毘古は米子市内の目組神社に祭られています。少名毘古命はその近くの粟島神社に祭られ、村の名前は彦名村です。伊勢の苗代神社の祭神は、少名彦名命です。蒜山高原の苗代の地名の近くの徳山神社にも祭られています。少名毘古命は、苗族の人たちからいろいろの事を学んで帰国したと思われます。久延毘古は米子市内に住んでいたのでしょう。

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2005.06.13

古事記を読む  少名毘古那神と国作り その4

No95
少し長いですが、田村氏の本から、抜粋です。
【大国主が少名彦を失って「吾一人では国をよく治められない、誰か吾とよく国を治める神はないかしら」と思案しておりました。この時海を照らして美保崎から現れた神が大物主で伯耆に渡来しました.この神に相談しますと「我が前を治めれぱ吾共に相作り成さむ.然らずぱ国なりがたし」と告げました。
それには「吾を倭の青垣の東の山上にいつきまつれ」と告げられ、これはキリストを敬えと同じです.これが御諸の山上の神だと書いてあります。周囲が山に囲まれた大国村倭の眞東の山は大山です。大国村の北隣は天津村で日御崎神社がある所の地名が三崎です。従って御崎が正しいつで藤原が工作しました。
この近くに諸木の地名があり、御崎と諸木を結んだ一直線上の大山のしかも山上にふさわしい場所に大神山神社があります。これで御諸の山の謎が解けました。
大和の三輪山は藤原が偽装目的で作ったので本物は伯書の大山の大神山神社でした】

少し無理があるようにも思いますが、地名ではなく、山に名前を付けるときは、いろいろ考えたと思います。以前に「高尾山」(No41)の紹介をしましたが、位置と方角は正確に判断できる人たちでしたから、田村氏の推理は全く否定するわけにはいきません。御諸の山の山が大山だったと断定すると奈良の三輪山や大神神社(ミワジンジャ)は何だとなります。「藤原氏が偽装目的で作った」という過激な文章になりますが、今後、古事記を読み進めていきますと、このように考えると日本書紀と古事記がどうして、書いてあることが違うのかとか、日本書紀はどうして、同じ地名や人名なのに、漢字表記をすべて変更したのかが理解できると思います。
大物主神は、その後、大和に住むことになります。普通は奈良の大和と言うことになっていますが、神さんですから、奈良の三輪山に祭られているとあるだけで、住んでいたことになっていません。本当は、神さんではなく、人間ですから、住んでおりその後、大国主神のアドバイス役をしています。

私はNo94の2で、「海を光して依り來る神」を、大物主神のことだと書いていますが、古事記には書いてありません。田村氏も勝手に、大物主神だとして話を進めておられます。祟神天皇のところに、似たような表現があるので、そのように解釈しました。
このような記事では、必ず神の名前が書かれていたのに、ここでは書いてありません。元々、書いてなかったのか、書いてあったが、誰かが削除したと思われます。
字に書かれているように、実際は「大物」で「主」のような存在だったのではないかと思われます。その割には、正体は、古事記の作者にも日本書紀の作者にも判らなかったのでしょう。

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2005.06.11

古事記を読む  少名毘古那神と国作り その3

No94
於是大國主神愁而告。吾獨何能得作此國。孰神與吾能相作此國耶。是時有光海依來之神。其神言。能治我前者。吾能共與相作成。若不然者。國難成。爾大國主神曰。然者治奉之状奈何。答言吾者伊都岐奉于倭之青垣東山上。此者坐御諸山上神也。

翻訳
ここに大國主神は愁いて、言われました。「吾獨(ヒトリ)して何(イカ)に能(ヨ)く此の國を作り得ようか。孰(イズレ)の神と吾(ワレ)と能く此の國を相(アイ)作ろう耶(ヤ)」と。是の時、海を光らして依(ヨ)り來る神がありました。其の神が言われるには、「能く我が前を治めるならば、吾は能く共に相作り成しとげよう。若(モ)し、不然(シカラズ)ば、國は成り難(ガタ)いでしょう」と言われました。爾に、大國主神が曰(モウ)されますには、「然(シカラ)ば、治め奉てまつるには、奈何(イカ)なる状態がいいでしょう」。「吾をば、伊都岐奉于倭(ヤマト)の青垣の東の山上に、伊都岐(イツキ)奉れ」と答えて言われました。此は御諸山(ミモロヤマ)の上に坐す神なり。
① 有光海依來之神---このフレーズが最大の難点です。訳本では、海を光(テ)らしてとあります。海が明るくなったのですが、その神の所為で明るくなったのでしょう。仏像に見られるような後光があったということでしょうか? 後光ではなく、神自身が輝いていたということでしょうか? 単に、神々しく思えたということの表現でしょうか?
② よく判りませんので、別の角度から眺めて見ます。神が光を発するわけがありません。古事記を作った人は、なにを読者に伝えようとしたのでしょうか? 大國主神より実力のある人が、現れ、その人の力で大國主神は、国を開拓することができた。この神さんは、祟神天皇の御世に民の半分以上が死ぬような事態になったときに、夢に現われたことになっている神さんです。現われただけではなく、祟神天皇に宮中で祀っている天照大御神を追い出すように命令しています。
奈良の大神神社に祭られている大物主という神さんです。偉大な神であったことが判ります。
③ 私はなにをしたら良いでしょうかと、この神に訊ねましたら、
「吾者伊都岐奉于倭之青垣東山上」と答えました。「私を倭の青垣の東の山の上に斎き祭れ」と。御諸山の上に坐す神だと断っています。(大物主)とは書いてありません。
 訳本では、倭は大和のこと。御諸山は奈良の三輪山のことと書いています。
④ この神さんは、海の向こうから輝きながらやってきました。美穂の岬です。それがどうして、奈良の三輪山に祀るのでしょうか? 倭がどうして大和になるのでしょうか。大和は、大国主が住んでいた大国村にあります。
この倭の東の山とは、大山のことになります。さて、大山のことを御諸山と呼んだかどうか判りませんが、田村誠一氏は、次のような文を書いて推察しておられます。次回に、
少名毘古那神と国作り その4として記します。

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2005.06.10

古事記を読む  少名毘古那神と国作り その2

No93
故爾白上於神産巣日御祖命者。答告。此者實我子也。於子之中自我手俣久岐斯子也【自久下三字以音】故與汝葦原色許男命爲兄弟而。作堅其國。故自爾大穴牟遲與少名毘古那。二柱神相並。作堅此國。然後者。其少名毘古那神者度于常世國也。故顯白其少名毘古那神。所謂久延毘古者。於今者山田之曾富騰者也。此神者足雖不行。盡知天下之事神也。
翻訳
ここに、神産巣日の御祖命(ミオヤノミコト)にもうし上げると、答えて告げられました。「此は實の我子也。子の中に於いては、我の手の俣より久岐斯(くぎし)子がいた。だから、汝と葦原色許男命は兄弟となって、其の國を作り堅めよ」と言われました。
故にそれからは、大穴牟遲と少名毘古那と二柱神を相い並んで、此の國を作り堅めました。然て、その後は、其の少名毘古那神は、度于常世國(トコヨノクニ)に渡りました。そして、其の少名毘古那神を顯わし白した所謂、久延毘古(クエノヒコ)は、今は山田の曾富騰(ソフド)也。此の神は足を使えないと雖ども、盡く、天下の事を知っている神也。

① 神産巣日の御祖命—親である神産巣日でしょうか。
② 久岐斯—翻訳本では、「漏きし」と書いて、「くきし」と振り仮名があります。漏れると表現しますと、手の俣から漏れるぐらいですから、一寸法師となったのでしょう。
手から離れていったぐらいの意味ではないでしょうか。
③ 少名毘古那神---どうして「那」が撞いているのでしょう。よく判りません。
④ 常世國へ渡っていったということは、川があって、その向こうでしょうか? やはり、海の向こうに行ったのでしょう。
⑤ 山田の曾富騰---山田の案山子と翻訳本にあります。どうして、突然、山田の案山子なのでしょう。少名毘古那は誰も知らなかったのに、久延毘古は知っていました。だから、その後、久延毘古は物知りだといわれたのであれば、判りますが、歩けなくなって山田の中で、一本足で立っています。天下の事は何でも知っているとあります。やはり、なにか抜けているのでしょう。
または、曾富騰が、案山子だとの解釈が間違っているかです。

もとに戻って考えてみます。古事記を作る目的は、天皇家の歴史が、歪められているから、それを正すことです。それと案山子とどのような関係があるのか理解できません。
それにしても、この時代から、雀を追い払うことは大切なことであったらしく、この知識を知っていた所から、日本人の先祖はやって来たようです。さて、雲南省の苗族は、案山子を使っているのでしょうか?
確認の必要がありますが、どうして調べればいいものでしょうか?

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2005.06.09

古事記を読む  少名毘古那神と国作り

No92
故大國主神坐出雲之御大之御前時。自波穗乘天之羅摩船而。内剥鵝皮剥。爲衣服。有歸來神。爾雖問其名不答。且雖問所從之諸神。皆白不知。爾多迩具久白言【自多下四字以音】此者久延毘古必知之。即召久延毘古問時。答白此者神産巣日神之御子。少名毘古那神【自毘下三字以音】
故、大國主神が 出雲の御大(ミホ)の御前(ミサキ)に坐す時、波の穗自(ヨリ)天(テン)の羅摩船(カカミフネ)に乘り而(テ)、鵝(ガ)の皮を内剥(ウチハギ)に剥いで、衣服に爲(ナ)して、歸り來る神が有る。ここに其の名を問え雖も答えず。且つ所從う所の諸神に問え雖も、皆、不知と白(モウ)す。ここに、多迩具久(タニクク)が言うてもうすには、「此は久延毘古(クエビコ)が必ず知っている」と。即に、久延毘古を召して問うた時に、「此は神産巣日神(カミムスビヒノカミ)の御子。少名毘古那神(すくなびこなのカミ)です」と答えて申しました。

① 御大は訳本では、〔ミホ〕と読ませています。漢字で美穂岬のようです。現在の地図には、美穂岬はありません。他には、地蔵岬と日御崎しかありません。早見ヶ鼻のように、鼻がつくところも岬ですが、〔ミオ〕に近いものはありませんから、美穂神社のある辺りを古くは、美穂御前と呼んだと思われます。
② 波穗乘天之羅摩船 --波穗は、波が穂のように垂れる様を言うのでしょう。天之羅摩船には、〔アメノカカミブネ〕と振り仮名があります。アメはまだしも、カカミブネは無理です。なぜ このような振り仮名があるかといいますと、日本書紀につぎのような事が、書かれているからでしょう。
「はじめ わが国を平定されたとき、出雲国の五十狭狭(イササ)の小汀(オバマ)にお着きになって食事しようとされた。そのとき、海上に突如として人の声がする。そこで驚いてその声の主をさがされたが何も見えない。不思議に思っておられると、しばらくして一人の小男が白蘞(カガミ)の皮で舟をつくり、鷦鷯(ミソサザイ)の羽を着物にして、潮の流れのまにまに浮んでやって来た。大己貴神はそれを拾い上げて、掌においてもてあそんでおられたところ、ぴょんとはねて大己貴神の頬に噛み付いた」
とあります。そこで、羅摩をカガミと読ませています。羅摩はラマでしょう。ラマは、ラマ教があります。香港島の南にラマ島があります。この島がどうして、ラマという名前がついたか分かりませんが、滇は現在の雲南省ですから、舟で下ってくれば、海岸伝いにラマ島までいけます。羅摩は地名ではないでしょうか? 羅摩で使われていた船で良いのではないでしょうか(チベットでは現在も皮の舟があります)。雲南省あたりの川の深さが良く判りませんが、皮でできた舟であれば、川が浅くても下ることは可能ですし、そのまま、日本まで来ることは簡単であったはずです。4~5日もあれば、到達できたはずです。避難用のボートが皮で作られていると考えればいいです。問題は、多くの人が乗ることが出来ないということです。
③ 鵝(ガ)の皮を内剥(ウチハギ)に剥いで---仮に少名毘古那神が、掌にのるような一寸法師であれば、鵝(ガチョウ)は大きすぎますから、日本書紀では鷦鷯(ミソサザイ)の羽にしました。この鳥は、日本で最も小さい鳥だから理屈にあいます。しかし、古事記では、少名毘古那神は一寸法師とは書いてありません。少名毘古那神は、大国主神が国を平定したときに来たのではなく、二人で国を開拓していったことになっています。一寸法師のように小さくては役に立ちません。
④ 鵝(ガ)の皮を内剥(ウチハギ)に剥いで---鵝はガチョウのことです。どうやら、ガチョウでは洋服を作らなかったとみえ、どの翻訳も、鵝という漢字は、蛾と字を間違ったということで、幼虫の蓑虫の皮で作った服と書いておられます。蓑虫の中の虫を取り出すことを内剥というでしょうか、剥がれない様にくっついているものを取り除くことを剥ぐというはずです。鵝は、やはり蛾の間違いだと言わないで、鵝とすべきです。古代の人は、糸を作って織物を織って衣服を作ろうと思うでしょうか? 普通は、温そうに着ている毛皮や羽をそのまま、身に纏うことを考えるでしょう。問題は、鵝の内臓を取りだとして、皮や羽にしますと、腐ります。腐る前に乾かしますと、ごわごわで着心地が悪いので、なめす必要があります。アルプスで5000年前のミイラが発見されましたが、すでに毛皮をつけていました。鵝で作った衣服があってもなんら不思議ではありません。皮製のボートも然りです。
⑤ 歸り來る神が有る---帰り来るが判らないので、「寄り来る」と翻訳してあります。「帰」には、「寄り」という意味はありません。「帰ってきた」だけです。「帰」の旧字体は、「追」の右の部分の下に「止」、右側は「帚」とかきます。箒をもって、歩いて行くで、結婚する意味があったそうです。それでは結婚しにやってきたのかと考えたくなりますが、誰も正体を知らないと次に続きますから、結婚ではありません。少名毘古那神は滇へ派遣されて帰ってきたことになります。次に、少名毘古那神は神産巣日神(カミムスビヒノカミ)の御子だとあります。神産巣日神はNo4で出てきました、別天つ神五柱の中の一人です。
 少名毘古那神は、波の穗をかき分けて天(テン)の羅摩船(カカミフネ)に乘って、美穂岬に帰ってきたことになります。
日本書紀も合わせて読んでください。大国主神のことは別名があったことと、少名毘古那神が一寸法師であったこと、そして大国主神が大物主であったことが記されていますが、大物主は奈良の大神神社の祭神です。ここで、大国主神と一緒だと宣言したために、祟神天皇のところで、大神神社の神話を作らなければならなくなっています。日本書紀の作者は、少名毘古那神も大国主神も大物主神も書きたくなかったのだと思います。古事記と全く違うことを書いたために、その後、どんどん変な方向へ行くことになりました。

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2005.06.08

靖国神社参拝と中曽根氏の提言

中曽根元首相は3日、東京都内で講演し、小泉首相の靖国神社参拝問題について「A級戦犯の分祀(ぶんし)が現実的な解決方法だ。しかし(分祀に)時間がかかるなら、参拝をやめるのも立派な決断だ」と述べるとともに、「日本国家全体の利益のため、(参拝が)どういう作用を及ぼしているかを考えることも大事だ」と指摘した。
上記の文は、2005年6月3日のasahoi.comから、一部転載しました。
中曽根氏という方は、おかしな方ですね。こんな内容でしたら、小泉首相に直接言えばいいです。
「日本国家全体の利益のため」考えなさいと忠告されました。本当に忠告するのであれば、直接云うべきでしょう。それをわざわざ講演会を開いてされたということは、ご自分をアピールするためだったのでしょうか? 
又は、この講演会を開いた人に、別の企みがあったように思えてきます。
靖国神社参拝自体、この機会に大いに、議論して日本の国民が決定すればいいと思います。中曽根氏のように、ご自分がはじめは参拝しておきながら途中で方針を変えられたということを正当化するのは間違っているでしょう。外圧によって自分の考えを変えることはよくありません。特に、「日本国家全体の利益のため」を頭に掲げることは間違っているでしょう。
中曽根氏が政治家として、どれほどのことをされたか私は知りませんが、頭から離れないことが一つあります。三年間もされ、首相を退かれた今でも、「日本国家全体の利益のため」と考えておられるのですから、素晴らしいことをされたのだと思いますが、闇に葬られた事件があります。
事件は昭和60年8月12日に起こりました。この日を覚えておられるのは、被害にあわれた方だけだろうと思えるほど昔のことになりました。日航ジャンボ機が群馬県の御巣鷹山に墜落した事件です。(524人の方が亡くなられ、4人の方が生存されていました) この頃、沢山の飛行機事故が発生しましたが、この事件だけは、不思議な事件で、政府の報道規制が行われたのではないかと思えるほどの新聞報道がなされました。
気になって仕方が無かった私は、事件後、毎日、図書館へ通い、各新聞社の新聞をすべてコピーして、記事の内容をコンピューターに打ち直しました。当時はスキヤナなど持っていませんし、OCRのようなものもありませんでしたので、夢中で打ち直しました。それが良かったのですね。次第にいろいろのことが見えてきました。朝日新聞が、事故の原因を正確に報道していないのです。他の新聞社も同じような傾向がありました。日航ジャンボ機の報道は、日を追って少なくなっていきましたが、私の興味は一年間、続きました。
この事件は偶然起こった事件ですが、アメリカのボーイング社のしりもち事故が原因であることで決着がつきました。しかし、私はそうではなかったと思っています。アメリカ米軍と日本の自衛隊が関与する事件であったため、中曽根首相は「日本国家全体の利益のため」を優先して、正確なことは国民に伝えなかったのだと思います。
この事件の調査のために、事故機の製造元であるアメリカから調査団がやってきましたが、彼らは日本の検疫を受けないで、直接米軍の基地の空港へ降り立ちました。このことの不思議さを指摘した新聞は無かったのではないかと思います。
いまさら何をいっても通じませんので、事故の関係者はなにも言われませんが、その悔しさを訴えたいからでしょうか、今でもインターネットに残されていまして、あのときの機長のボイスレコーダーの声を聞くことが出来ます。(機長の人間性溢れる様子が、今でも再現されます)
もし、時間のある方は、新聞の縮小版は図書館に残っていますので、調べられたら判ると思います。私は、そのとき、函館空港のYS11機の報道をはじめとして、外国での事故の報道の仕方も比較してみました。政府は報道規制をしたのだと思いました。
保存されていました機体などの証拠品は、すべて処分されました。どのように処分されたか、新聞に報道がありますから、上のようなことを考えながら、一度読んで頂きますと最後まで、おかしな事件であったことが判ります。
詳細を書きませんでしたので、なんのことかお判りにならないと思いますが、中曽根氏は、「日本国家全体の利益のため」というようなことを云いながら、ある部分を、いっぱい切り捨てながら首相を続けられたのではないでしょうか? 
首相を退かれたのですから、あのような形の発言は、おやめになられた方がいいと思います。

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2005.06.07

古事記を読む  大国主の神裔

No91
このページは、大国主神の子供の名前ばかりです。眺めるだけでも眺めてください。

故此大國主神娶坐胸形奧津宮神。多紀理毘賣命。生子。阿遲【二字以音】[金且]高日子根神。次妹高比賣命。亦名下光比賣命。此之阿遲[金且]高日子根神者。今謂迦毛大
御神者也。大國主神。亦娶神屋楯比賣命。生子。事代主神。亦娶八嶋牟遲能神
【自牟下三字以音】之女。鳥耳神。生子。鳥鳴海神【訓鳴云那留】此神。娶日名照額田毘道男伊許知迩神【田下毘又自伊下至迩皆以音】生子。國忍富神。此神。娶葦那陀迦神【自那下三字以音】亦名八河江比賣。生子。速甕之多氣佐波夜遲奴美神【自多下八字以音】此神娶天之甕主神之女。前玉比賣。生子。甕主日子神。此神娶淤加美神之女。比那良志毘賣【此神名以音】生子。多比理岐志麻流美神【此神名以音】此神娶比比羅木之其花麻豆美神【木上三字花下三字以音】之女。活玉前玉比賣神生子。美呂浪神【美呂二字以音】此神娶敷山主神之女。青沼馬沼押比賣。生子。布忍富鳥鳴海神。此神娶若晝女神。生子。天日腹大科度美神【度美二字以音】此神娶天狹霧神之女。遠津待根神生子。遠津山岬多良斯神。
 右件自八嶋士奴美神以下。遠津山岬帶神以前。稱十七世神。

此の大國主神が娶った、胸形の奧津宮に坐ます神である多紀理毘賣命か生んだ子は、
阿遲鉏高日子根神(アジスキタカヒコネノカミ)。
次に妹高比賣命(イモタカヒメミコト)、亦の名は下光比賣命(シタテルヒメノミコト)
 この阿遲鉏高日子根神は今、迦毛大御神(カモノオオミカミ)謂う者也。
大國主神は亦、神屋楯比賣命(カムヤタテヒメノミコト)を娶って生んだ子は、事代主神。
亦八嶋牟遲能神(ヤシマムヂノカミ)の女(ムスメ) 鳥耳神を娶って生んだ神は、鳥鳴神(トリナルノカミ)。この神、日名照額田毘道男伊許知迩神(ヒナテリヌカタビチヲイコチニノカミ) を娶って生んだ子は、國忍富神(クニオシトミノカミ)。この神、葦那陀迦神亦名八河江比賣(ヤガハエヒメ)を娶って生んだ子は、速甕(ハヤミカ)の多氣佐波夜遲奴美神(タケサハヤヂヌミノカミ)。この神、天之甕主神(アメノミカヌシノカミ)の女、前玉比賣(サキタモヒメ) を娶って生んだ子は、甕主日子神(ミカヌシヒノカミ)。この神、淤加美神(オカミノカミ)の女、比那良志毘賣(ヒナラシビメ) を娶って生んだ子は、多比理岐志麻流美神(タヒリキシマルミノカミ)。この神、比比羅木(ヒヒラギ)の其花麻豆美神(ソノハナマヅミノカミ)の女、活玉前玉比賣神(イクタマサキタマヒメノカミ) を娶って生んだ子は、美呂浪神(ミロナミノカミ)。この神、敷山主神(シキヤマヌシ)の女、青沼馬沼押比賣(アヲヌマウマヌマオシヒメ) を娶って生んだ子は、布忍富鳥鳴海神(ヌノオシトミトリナルミノカミ)。この神、若晝女神(ワカツクシメノカミ) を娶って生んだ子は、天日腹大科度美神(アメノヒバラオオシナドミノカミ)。この神、天狹霧神(あめのサギリノカミ)の女、遠津待根神(トホツマチネノカミ) を娶って生んだ子は、遠津山岬多良斯神(トホツヤマサキタラノカミ)。
 右の件(クダリ)の八嶋士奴美神自(ヨリ)以下、遠津山岬帶神以前(ヨリサキ)。十七世神と稱(マヲ)す。(全部でいくつか 数えられましたか? 何のために、こんなに書いたのか? ) 

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2005.06.06

古事記を読む  葦原醜男における「醜」という漢字

No90
(字通より抜粋)
〔形声〕声符は、酉(ユウ)。酉は酋とともに同字であった。
「説文」九上に 「悪(にく)むべきなり」とし、酉声とする。
意味は
① 酒を酌む、礼貌して鬯酌する形。 ②みにくい、あやしい。悪い ③にくむ、きらう
④なかま ⑤州・尻と通じ、尻の穴

〔古訓〕醜女、志古女(しこめ) カタナシ、ハヂ、モロモロ、ミニクシ、アシ、、タノシ、ココメ、ハナツ、ニクム、ツタナシ。
〔熟語〕醜悪、醜夷、醜怪、醜好、醜行、醜名、醜虜、醜老、遺醜、黒醜、狂醜、衰醜

大国主神の別名として、日本書紀に、葦原醜男が記されています。葦原醜男にあたる同じなまえとして、古事記には、葦原色許男神が記されています。前記の醜女、志古女(しこめ)も〔醜〕の字を〔シコ〕と読ませているようです。

司馬遼太郎は、〔街道をゆく〕の中で、次のように述べています。
「色許男は醜男ともいい、この醜はミニクイというより、強悍という意味である。上方方言で、男の児たちがあばれちらすことをシコルという。これは、「醜(シコ)る」ということです、とかつて田辺聖子さんが教えてくれた。‘醜(シコ)の御盾(ミタテ)’も強い近衛兵ということであり、また相撲で力士が土俵にのぼって四肢(シコ)を踏む、というのも、敵に対して大いに醜(シコ)を利かせてみせる、という古代からの所作、ことばであるにちがいない。ともかく、醜というのは、わるいことばではない」

二人の大家が言われることですから、私が別のことを述べるのは気が引けますが、原文を読みますと、スサノオは、「此者謂之葦原色許男」と言って、即に、喚び入れて、蛇の室に寝るように命令しました。殺そうとした大国主神を褒め称えるような言葉を使うのはおかしいです。日本書紀の作者は、大国主神は気に入らないので、あまり書きたくなかったのですが、書きました。葦原色許男をどのように読むのか知っていましたし、古事記と同じ漢字は使いたく無かったので、「醜」を使いました。勿論、醜いの意味で使ったはずです。

はじめに記しましたように、「醜」には、勇ましいとか逞しいとかの意味は全くありません。熟語は、中国の文献に見られるものですが、良い意味は一つもないのに、どうして、悪い言葉でないことになるのか不思議です。
殆どの本では、力づよい神と書かれています。それほど立派であれば、スサノオは結婚に反対などしないでしょう。

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2005.06.04

古事記を読む  大國主神の別名

No89
古事記には、大國主神には、別名として、大穴牟遲神、葦原色許男神、八千矛神、宇都志國玉神があり併せて五つの名があると記しています。
一方、日本書記の第六番目の一書には、大国主神、国作大己貴命、葦原醜男、八千戈神、大国玉神、顕国玉神、大物主神の七つの名が見られる。第二番目の一書には、大己貴命(オオアナムチノミコト)のみが、記されています。

どうして五つの名前があるのでしょう。誰でも気になるところです。岩波文庫の校注者の倉野憲司氏は、「それぞれの神名による神話を大國主神に統一したのである」と注釈しておられます。此れでは、説明になりません。何故統一しなければならなかったか。なぜ別の名前であちこちで祀られているのかの説明になっていません。
この部分は、避けて通るわけにはいきません。すこし、アタックしてみようと思います。
古事記と日本書記は、天武天皇の希望によって、作られた国史と言ってよいのに、国史が同時に作られた感じがあります。出来上がったのは、古事記は、712年、日本書記は、720年ということになっています。このように何故、同時に作らなければいけなかったのか?
完成後、日本書記は国史のように扱われたのに、古事記は抹殺されました。この事と関連があるかどうか判りませんが、両書では、同じ読み方をすると思われるのに、地名、人名など、悉く漢字表記が違います。
〔大己貴命--大穴牟遲神 オオムナチ〕〔葦原醜男--葦原色許男アシハラシコオ〕
 〔八千戈神--八千矛神ヤチホコノカミ〕 〔顕国玉神-宇都志國玉神-ウツクシクニタマノカミ〕
大國主神の名前だけが、同じです。
大國主神が同じということは、大国主神が名前ではないのでしょう。スサノオが、二人の駆け落ちを認めて、大国主神となれ、また宇都志國玉神となれ、そして、須勢理毘売を正妻にしなさいと命令しています。宇都志國玉神は、宇都志は、〔現し〕であり〔顕し〕で、現実に出来上がった国の神という意味でしょう。場所は宇迦の山の山本(ヤマノフモト)にで、ここに太い宮柱を立てて、住居を定めたとあります。宇迦の山のあるのは、大国村です。大国主神は、大国村の主の神という意味で、名前では無いことになります。
それぞれの名前が古事記ではどこに出てくるかもう一度、確認しておきます。
① 大穴牟遲神—No70 において、袋を担いで、八上比賣に逢いに行く時。
② 葦原色許男神—No75 根の国訪問した時。
③ 八千矛神---No79高志國の沼河比賣と結婚しようと、行幸した時。
④ 宇都志國玉神---No77 二人で駆け落ちして逃げ切ったとき。
 時代が違うことが判ります。魚の鰤が、大きくなるに従って、名前が変わるようなものです。
日本書紀では、具体的な話はなに一つありません。知らなかったか、書きたくなかったかです。
古事記は、No64では、五つの名前を挙げて強調しています。 
日本書紀の大己貴命には気をつけよ。でないと、まとめて名前を書く必要がありません。

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2005.06.03

閑話休題-- 神社と祭神数

No88
次の文は、昭和8年 島根県隠岐支庁発行の隠岐島誌の神社に関する資料の最初の部分です。
「隠岐島民は、敬愛愛国の思想に富み、神社を崇敬するの風あり。古来、有名な神社多く、延喜式神名帳に掲載せられたるもの、十六座に及び、就中、「名神大」と註せられしもの、知夫郡由良比女神社(ユラヒメ)、海士郡宇受加命神社(ウズカノノミコト)、同郡伊勢命神社の四座を有し、出雲国百八十七座中、大社二座、因幡国の五十座中、大社一座、伯耆家石見の大社無きに比し、隠岐の孤島にして、十六座中、大社四座を有するは、実に畏敬と謂わざるべからず。殊に、上古は、朝鮮半島交通の要路に当り、平安朝以来は、新羅来寇の衝に当たれるを以て、屡、勅を下して、異国調伏の祈願あり。神階授与の事、亦屡、国史に見えたり。朝廷に於いては、当国の辺要防備に就きて、常に、意を用ひられたる事亦知るべし」

ここにあるとおり、この小さな島に、延喜式神名帳に掲載せられたるものが十六座もあります。国が式内社を選定したときに、伯耆や因幡よりも重要視していたことが分かります。
式内社は次のように記しています。
式内神社 当国には、延喜式神名帳に掲げられたろ神社十六座あり、即ち左の如し。
隠岐国十六座 大四座、小十二座
 知夫郁七座   大一座、小六座
   由良比女神社 名神大 (元名和多須神)     大山神社
  海神二座
   真気命神社                       比奈麻治比売命神社
                                 天佐志比古命神社
 海部郡二座  大一座  小一座
   名伎良比売神社                    宇受加命神社 名神大
 周吉郡四座 併小
   賀茂那備神社        水祖神社
   玉若酢命神社        和気能須命神社
 穏地郡三座   大二座 小一座
   天健金草神社 名神大
   伊勢命神社          水若酢命神社  名神大

上記の神社に限らず、この島の神社の祭神は、一つのものが多いです。元々、祭神とは、数は少ないものです。神社は、そこに住んでいた人が、自分たちの先祖を祀ったものだと思われます。
ところが、祀る人が追い遣られたり、少しずつ減ったときに、近くの人が、自分たちの神社境内に、持ち主が居なくなった神社を一緒に祀ったのが、合祀であり、長い年月の間に、祭神の仲間入りをしたのだろうと思われます。
No8で紹介しました鳥取県頭郡智頭町大字智頭にある那岐神社の祭神は、国之常立神、豊雲野神、宇比地邇神、妹須比智邇神、角杙神、妹活杙神、意冨手能地神、妹大斗乃辨神、於母陀流神、妹阿夜訶志古泥神の10神です。
この10神がこの地に、集団でやってきたと考えるか、次第に増えていったと考えるかどちらでもいいと思います。少なくとも、古事記に書かれているから、ここに那岐神社を作ったと考えるのは、間違いでしょう。稗田阿例が、あちこちの神社を訪れ、其の上で、古事記を神話仕立てに作ったのでしょう。
このように、祭神の数は、合祀により増えたことは、大いにあったと思います。
その例の一つに、茅部神社があります。
真壁君川上村大字西茅部字磐座山1499番地 (古い住所)
村社 茅部神社
祭神 天照大神    御年神       天児屋根命   少彦名命
    素盞男命    市杵島姫命     息長帯姫命   大綿津美命
    軻遇突命    菅原神       大山祇命    稚日?命
    稲田姫命    多々美比古命    経津主命    狭田彦命
    神直日神    誉田別命      倉稲魂命    建甕槌命
    武内大臣    句々廼馳命     稲背波岐命   道祖命
次に最近の合祀の資料を書きます。
明治42年6月22日、
 本村大字西茅部 字大蛇  無格社 多々美比古神社(祭神 多々美比古)
            字社田、 無格社 社田神社 (祭神 大綿津美命)
            字郷原  無格社 天満神社 (祭神 菅原神)
            字下郷原 無格社 荒魂神社 (祭神 素盞鳴命)
            字故茅部 無格社 尾田神社 (祭神 素盞鳴命稲田姫命)
   大字東茅部  宇間谷  無格社 武雄神社 (祭神 素盞鳴命)
            字黒岩  無格社 八幡神社 (祭神 品陀別命 神直日命 素盞鳴命)
を合祀せり。

明治43年4月21日
本村大字本茅部  字原   無格社 別部神社 (祭神 稚日ル命)
   大字東茅部  字粟住  無格社 阿波須美神社(祭神 稚日?命) 
                  無格社 厳島神社(祭神 市杵島姫命)
            字祝詞  無格社 祝詞神社(祭神 天児屋根命)
            字大森  無格社 倉稲魂神社(祭神 倉稲魂神)
を合祀せり。

明治44年4月21日
本村大字西茅部  字後山  無格社 八幡神社(祭神 品陀別命)
を合祀せり。

祭神の数が多い理由に、上記のようなものがあることは確かです。

もっとも、祭神数が多い神社はご存知ですか?
靖国神社です。其の数、2466495柱です。 (平成15年10月15日現在)平成おお15年10月17日現在平成15年10月17日現在
多いところを拾いますと、日露戦争が、88429、満州事変が17176、支那事変が、191243、大東亜戦争が、2133885柱。明治維新以後を合計しますと、2466485柱となります。
祭神を、丁寧に眺めると、いろいろの事が分かります。歴史の分野で、あまり人が手をつけていないところだと思います。
知られていない事柄が発見できるでしょう。

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2005.06.02

古事記を読む  天照大御神は何処から来たか

No87
「倭人」を太伯の裔とする説は、『晋書』『梁書』に見られます。
『晋書』  (唐王朝、撰者・房玄齢578~648)
「列傳・四夷・東夷・倭人」には次のように記されている。
「男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後」
男子は大小と無く、悉く黥面文身す。自ら太伯の後と謂ふ。

『梁書』   (唐王朝、撰者・姚思廉?~637)
「列傳・諸夷・東夷・倭」には
「倭者、自云太伯之後。俗皆文身。」
倭は自ら太伯の後という、俗みな文身す。

『晋書』と『梁書』がどれほど信頼のおけるものか判りませんが、信頼できるとすれば、中国に行った倭人が、自分たちは太伯の裔と自称していると書いています。魏志倭人伝には書かれていませんから、魏の時代以降で、唐の時代までに中国に行った倭人が自称していたことになります。
史記 卷三十一 呉太伯世家に
「呉の太伯、太伯の弟仲雍は皆周の太王の子にして王季歴の兄也。季歴は賢にして聖子昌有り。太王、季歴を立て、以って昌に及(およ)ぼさんと欲す」とある。
太伯は季歴に後を継がせようと弟の仲雍とともに荊蛮の土地へ出て行き、いれずみをして断髪して野心のないことを示した。
太伯は国号を句呉と称した。すると荊蛮の民で彼に帰服したものが千余家あり、彼を立てて呉の太伯とする」とあります。
史記書かれている「太伯」と『晋書』に書かれている「太伯」とが、同じ人であるとは限りません。
史記書かれている「太伯」は、その後、死亡し弟が継いだとの記述もありますから、関係ないかもしれません。荊蛮は、荊州に住んでいる蛮族という意味でしょうか。現在の湖北省荊州市でしょうか?  荊蛮は 「江蘇省無錫市新区梅村鎮の辺りです。“江南第一古鎮”と言われている場所です」と、〔中国まるごと百科事典〕・管理人の生川様から情報をいただきました。
この地には、ヤオ族と苗族が住んでいたらしいです。

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2005.06.01

古事記 スサノオは何処から来たか

No86
もう一度復習です。No30とNo31をご覧ください。イザナギが禊をしていて、
 ①洗左御目時 所成神名------ 天照大御神
②洗右御目時、所成神名------ 月讀命
③次洗御鼻時、所成神名------ 建速須佐之男命
と記しましたように、それぞれの部分を洗っていたときに、やってきたのが三人です。
そして、三貴人を得ましたと書いてあります。以前にあったことがあるので、貴人であることを知っていました。
三人とも、亡命してきた人で、同じ頃にやってきたはずです。
月讀命は、仏教を信じて、〔山〕を〔せん〕と読む人たちでした。(No67) 紀元170年頃です。

さて、スサノオです。
魏志東夷伝の韓の部分に、魏志倭人伝と同様に、朝鮮のことが書かれています。
「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。辰韓者、古之辰國也。馬韓在西。其民土著、種植、知蠶桑、作緜布。各有長帥、大者自名爲臣智、其次爲邑借、散在山海間、無城郭。」  途中省略
「大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸。
   辰王治月支國、臣智或加優呼臣雲遣支報安邪shuku[偏足旁叔]支濆臣離兒不例拘邪秦支廉之號。其官有魏率善邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長。
  省略して、私の都合のいいところを抽出しますと、
 「侯準既僭號稱王、爲燕亡人衞滿所攻奪」
「將其左右宮人走入海居韓地、自號韓王。」
このような文が見つかります。
帶方之南に韓の国が在り、、東西は海だと、そして、その南は倭に接している。
三国のうち、辰韓は昔の辰国である。    ---省略----
 辰の王は、月支國を治めていた。
 (朝鮮)侯の準は既に僭號(勝手に)王を称えていて、燕の亡命人の衞滿に
  攻奪された。
  其の左右の宮人を走らせ入海し、韓の地に居し、韓王を自號す。
以上のことより、韓王は、海を渡ったということは、行先は日本しかない。
韓王(スサノオ)は朝鮮からの亡命者である。 これは、紀元前194年のことです。
辰韓は、元は秦国から、亡命してきた人たちが住んでいたから、秦韓とも書かれていた。
ユダヤ人が多く住んでいました。
それでは、スサノオは日本の何処に亡命したのでしょうか?
鳥取県大山町に唐王という地名があります。読み方は「とうおう」です。海際で、淀江廃寺で有名になった淀江町の隣ですが、この辺りは、昔、高麗村といわれたところです。高麗とか韓のつく地名は、変更されたところが多いですから、ここもはじめは、韓王であったのが、唐王(からおう)になり、「とうおう」になったのかもしれません。
この地に、唐王神社があり、祭神は速須佐男命の娘で、後に、大国主命と結婚した須勢理毘売となっています。よって、この辺りに住んでいたと考えてもいいのではないでしょうか?
大山町に孝霊山(751m)があります。この山も元は、高麗山であったのではと思っています。
このことから、亡命先は、ここに間違いないでしょう。 何故、この村を高麗村と呼んでいたかです。スサノオは高句麗から亡命し、月支國を治めていて、ここで、大国主神の母と結婚した可能性が大きいです。月支國は、50ほどあった国の一つの名前です。従いまして、大国主神の母は、ユダヤ人であったかもしれません。

日本書紀では、天照大御神と月讀命と 建速須佐之男命は、イザナギの子で、兄弟ということになっています。
スサノオは、高句麗から朝鮮の秦韓を経由して、日本へ来たという結論は、同じ頃で、他の民族から、滅ぼされて日本に到達したと考えると、それほど的外れではないと思われます。

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