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2005.07.31

古事記を読む  建御名方神は、誰の子供か

No116
そりゃ オオクニヌシの子供に決まっています。No112をご覧ください。
「亦有可白子乎。於是亦白之。亦我子有建御名方神。除此者無也。如此白之間。其建御名方神」と談判の相手に、返事をしています。ところがおかしいことがあります。今度は、No91の大国主の末裔をごらんください。
最後に、数えてくださいと書きましたが、数えられましたか? 大国主の子供が羅列してあります。なぜこのように、お母さんと子供の名前を書いたのか、この点も理解できません。
しかし、書いて置いてくれたお陰で、次のことが発見できました。
No91の大国主の末裔には、12名しか書かれていません。
最後に、数えてくださいと書きましたが、数えられましたか? 大国主の子供が羅列してあります。なぜこのように、お母さんと子供の名前を書いたのか、この点も理解できません。
しかし、書いて置いてくれたお陰で、次のことが発見できました。
No91の大国主の末裔には、12名しか書かれていません。
「右件自八嶋士奴美神以下。遠津山岬帶神以前。稱十七世神」と書かれています。17人の神さんが書かれていたはずです。八嶋士奴美神は最初に書かれていたはずです。「いなばの白うさぎ」に出会った後、河原町の八上姫に逢いに行き、結婚して出来た子供が、木俣神ですが、この神もありません。建御名方神もありません。
この三人の神を数えても、まだ二人足りません。誰かが、古事記に書かれていた五人を削除したことになります。古事記の作者は、書いておきたかったことになります。
 話は変わりますが、日本書紀にやはり、天孫降臨に関する記述があります。
天照大神は,武甕槌神(タケミカヅチノカミ)と経津主神(フツヌシノカミ)を出雲の五十田狭(イタサ)の小汀(オバマ)に派遣し、大己貴神(オオアナムチノカミ・大国主命と同じ)に国を明け渡すように談判しています。
大国主命は子供の事代主神の意見を聞いて、事代主神が葦原中国を明け渡すことに同意したので、大国主命も同意して、「おかくれになった」と書いてあります。死んだことになっています(?)。以後、出雲における大国主命のことも出てきません。(建御名方神は稱十七世神に入っていなかったかも知れません)   こんな話もありますという形で、
武甕槌神と経津主神は、服従しない神々を誅殺した(草木石にいたるまで)が、まだ服従しない神がいた。その神の名前は、星の神の香香背男であった。そこで、倭文神(シトリガミ)の建葉槌命(タケハツチノミコト)を派遣したら、この神も服従した。
最後まで服従しなかった部分は、建御名方神と同様ですが、建御名方神は、力持ちの神さんで、その後、諏訪大社では武人の神さんとして祭られています。建葉槌命(タケハツチノミコト)を派遣したら、この神は服従したのですから、最後まで服従しなかったのは、建御名方神が最後だったのでしょう。大国主の末裔に、星の神の香香背男を加えたいと思います。
日本書紀の作者は、事代主神と香香背は書いても良かったのですが、建御名方神も他の大国主命の子供のことは書きたくなかったことになります。
建御名方神と星の神の香香背男が別の神である証拠に、全国に、星の神の香香背男を祭った神社がいっぱいあります。
建葉槌命は古事記には、記載されていませんでした。倭文神の神とは、織物の神さんです。
アメリカと繊維のことでトラブルに成ったときのようなものです。文部大臣を派遣しても埒があきません。織物の神で解決したということは、経済問題は解決したことになります。

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2005.07.29

古事記を読む  諏訪神社の年間行事

No115
1月1日早々、①歳旦祭、②若宮社祭を終えると、宮司以下神職一同、神橋の上に整列、
③蛙狩神事(カワズガリ)が始まる。
蛙狩神事とは、どのようなことをするかと言いますと、御手洗川に入った二人の人が、神鍬でもって川を掘り返し、蛙を見つける。川辺に待ち構える権宮司が、それを白木の三宝に載せて、幣拝殿に向かう。
拝殿正面の祭員が、受け取り柳枝の弓と篠竹の矢で、蛙を射抜きます。
この蛙を神前に捧げ、宮司が祝詞を捧げ、国家平安と五穀豊穣を祈る。
このように書きますと、なんでもない神事ですが、眠っている蛙を6匹捕らえ、串刺しにし,生贄にします。見ていますと少々残酷な気がしますが、元旦からしなければならないことでしょうか? 他の神社でも行われているでしょうか?
続いて、拝殿にて ⑤御頭御占神事が行われる。
御頭御占神事とは、御頭祭を司る村を占いによって決める神事です。10の郷から選ばれた郷を御頭郷といい、1月5日には、⑥御頭受の神事、11日には、御頭の村の社宮司社に⑦御符納(ミフオサメ)の神事がある。 このほかにも、
 『この日から、御頭郷は、村境に精進潔斎のため、境〆の幣帛が四か所に立てられる。村の御頭御社宮司社近くに、神使(オコウ)と奉仕する氏子、鹿人(ロクビト・料理人)などの住む「精進屋」という建物を作る。この建物に神長はミシャグジの神を降ろし、・・・・・3月の御頭祭まで準備にはいる』ここまで、長かったですが、宮坂光昭著 『諏訪大社の御柱』から抜粋しました。どれほど、大変なことをするのかということを知って頂くためです。神使は6人の幼童が決められ、14名の神代神主がきめられ、以後神事をおこないます。選ばれた村は、こうした決定を断ることはできず、一年間神事に携わることになります。大きな行事としては、其の他、11月28日の神使御立座神事です。この行事のことは省きますが、御頭祭に要するものは、江戸時代の記録では、鹿75頭、いのしし、兎、海産物など山海の珍味が用意され、千両の金子が必要であったといいます。
さて、問題の御頭祭ですが、行われるのは、4月15日です(以前は3月の酉の日)。
神前には当然、鹿の頭が供えられます。現在は75頭とはいかないそうです。想像するだけでも、凄い光景があったと思います。
日本の神社では、供物は稲を筆頭に、植物ばかりと思っていましたから、動物を生贄は一番気になるところです。これは外国から伝えられたと考えるしかないと思います。
気になる行事は、下社で、2月1日と8月1日に行われる遷座祭です。神社は春宮と秋宮がありますが、神霊は、両方に住むわけにいきませんから、この日に、神さんとともに、行列をして移動することになります。そのためには、神さんに神輿に乗って頂く事になります。冬に山で住んでおられた神さんに、お正月に里に降りていただき、田の神さんとなって貰い、収穫が済んだら山に帰ってもらうところと、少し似ているような気もしますが、
少し違うような気もします。 ミシャグジの神は外国の神でしょう。

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2005.07.27

古事記を読む  諏訪大社と建御名方神

No114
諏訪大社は長野県の諏訪湖を挟んで、南と北にある四つの神社の総称です。
南には、諏訪市と茅野市にまたがって上社があり、上社は本宮・祭神は建御名方神と、前宮・は祭神は八坂刀売神(ヤサカトメノカミ・建御名方神の妃神)の二つの社からなります。湖の北には下社があります。下社も春宮と秋宮の二つの社からなり、祭神は建御名方神、八坂刀売神、相殿・八重事代主神(ヤエコトシロヌシノカミ・建御名方神の兄神)です。
全国に諏訪神社と称する神社・末社は、一万を超えると言われますが、大社と呼ばれるものは、長野県のこの神社だけです。延喜式神名帳には南方刀美神社(ミナカタトミノカミ)と記され、信濃国四十八座の第一にあり、当時既に信濃国一之宮として信仰されていました。「明治四年に国幣中社に列格、同二十九年に官幣中社、大正五年に官幣大社に昇格し、終戦を迎え昭和二十三年に諏訪大社と改称致しました」と大社の由緒にありますから、諏訪大社となったのは、最近のようで、初めから、四つの神社があったわけではなさそうです。
大社と呼ばれるのは、現在、島根県の出雲大社、静岡県の三島大社、長野県の諏訪大社、和歌山県の熊野速玉(はやたま)大社、熊野那智(なち)大社、熊野本宮大社、滋賀県の日吉大社、多賀大社、京都府の松尾大社、伏見稲荷大社、大阪府の住吉大社、奈良県の龍田大社、春日大社、福岡県の高良大社などがあります。大社の意味が良く判りませんが、日本書紀・持統天皇五年(691)のところに、「八月辛酉 遣使者祭、竜田風神信濃国須波、水内等・・・」とあり、持統天皇が諏訪神社に勅使を派遣され、朝廷との関係が深かったことが判ります。
次に、諏訪大社には本来神様が奉られる本殿と呼ばれるものがありません。代りに秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は守屋山を御神体として奉っています。
 神殿がなく、背後の山を御神体としている例としては、奈良の大神神社が三輪山を、春日大社が三笠山をそれぞれ御神体としている外、沢山ありますが、いずれも、古くからある神社ではないかと思われます。
このように、歴史は古いのですが、
712年に出来た古事記には、国譲りのところで、建御名方神は建御雷神との戦いで敗れ、諏訪の海まで追いかけられ、建御雷神に命乞いしたことになっています。南方刀美神社に逃げこんだのではありません。古事記の神話は、紀元前のことですから、諏訪大社は存在しなかったでしょうが、逃げていったということは、建御名方神を引き受ける人が、この辺りに居たのではないでしょうか? 
もう少し、遡って書いてみます。
 諏訪地方には、ミシャグジ信仰があります。このことについて調べようとしました。なぜかと言いますと、宮坂 光昭(諏訪市文化財専門審議委員長、諏訪市市史編纂委員)という諏訪地方の歴史の専門家がおられます。宮坂氏は、インターネットで、「諏訪の歴史と御柱」というタイトルで文章を書いておられます。
その中で、次の文章があります。「諏訪神社の祭神、タケミナカタニミコトという名前を知らなくても、御年輩の方たちは諏訪神社の御神体はヘビだということを、よく言います。それはみんな諏訪神社の中に残っている、一つのヘビの信仰から出ているわけですね」と、諏訪の人々のことを記しておられます。諏訪神社の祭神、タケミナカタニミコトであることは、知らない人はおられるということです。そりゃそうでしょう。私の家の近くの神社は、式内社の古社です。そして、私の子供たちは、生まれて直ぐに、この神社でお祓いを受け、大きくなってきましたが、子供も親も、祭神は誰かは知らないと思います。産土の神がだれであるか知らないのが普通です。
しかし、諏訪大社は格別です。七年目ごとに、御柱を建てます。そのために費やすエネルギーとお金は、他の町の人には、想像できないものであることを知りました。この神社では、お正月の行事として御頭祭というものがあり、鹿の頭を神前に供えるとある書物で見ましたので、確かめるために、平成16年の春に諏訪を訪れることにしました。間直になって、旅館を取ろうと思いましたら、取れません。七年に一回の御柱の日でした。大きな柱を谷底へ落とす話は知っていましたが、他のお祭に見られる観光客を巻き込んだ祭ではなく、諏訪の人々が、心の底から、祭りにどっぷり浸かっておられる様子に感激して、二日もお祭と付き合いました。
大阪・岸和田市のだんじり祭りのような激しさがあるわけでもないのに、祭が終わると町中の人が、腑抜けのようになると聞いています。話はそれましたが、「諏訪神社の祭神、タケミナカタニミコトであることは、知らない人はない」と思いました。
 宮坂氏は、また、次のようにも述べておられます。「いちばんもとの信仰体は何だろう、ということを探しているわけです。おぼろげながら私はミシャグジという信仰だというふうに思っております。諏訪神社の今の神事を見ておりましても、祝詞、あるいはいろんな神事を見てましても、オオクニヌシとかオオクニヌシノミコトの子どものタケミナカタノミコトですね、次男ですね、この方を祀るということは殆どありません。いつも神社の神事の中に出てくるのは、ミシャグジですね」
これは重大な発言です。諏訪大社は、行事が多いように思われます。上社では、一年に100回近くも行事があります。ということは、準備は2日で済まさなければなりません。タケミナカタニミコトなど全く、関係ありません。ミシャグジの信仰が基本だといっておられます。
 こうなりますと、ミシャグジを避けて通るわけには行きません。また、インターネットの力を借りることにしました。いろいろの方が書いておられます。
「ミシャグジは、ミシャグジ様、ミシャグチ、ミサグチと呼ばれます」 「漢字も当て字がいっぱいあります」 「自然万物に降りてくる精霊といわれています」 「諏訪湖の土着神で、縄文時代から祀られてきた」 全部、読んでも、これでは何のことか判りません。
長年研究されておられる宮坂氏でさえ、「おぼろげながら私はミシャグジという信仰だというふうに思っております」と言っておられます。

いろいろの方がミシャグジについて、述べておられますので、そちらで勉強して頂くとして、私は、四つの別の方向から、探ってみようと思います。次回は、100回ほど行われる神社の行事のうち、私が気になるものを紹介し,それでも気になる方は、自分で追及して頂こうと思っています。

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2005.07.25

古事記を読む   建御名方神の服従

No112
故爾問其大國主神。今汝子事代主神如此白訖。亦有可白子乎。於是亦白之。亦我子有建御名方神。除此者無也。如此白之間。其建御名方神。千引石{敬手}手末而來。言誰來我國而。忍忍如此物言。然欲爲力競。故我先欲取其御手。故令取其御手者。即取成立氷。亦取成劍刄。故爾懼而退居。
爾欲取其建御名方神之手。乞歸而取者。如取若葦。搤批而投離者。即逃去。故追往而。迫到科野國之洲羽海。將殺時。建御名方神白。恐。莫殺我。除此地者。不行他處。亦不違我父大國主神之命。不違八重事代主神之言。此葦原中國者。隨天神御子之命獻。

ここに、其大國主神に問いました。「今汝の子 事代主神 このよう白(モウ)すだろうか。亦白(モウ)すへき子は有るか」ととひたまいました。是に於いて亦、(大國主神は)白されました。「亦我が子、建御名方神が有る。此れを除いては、無き也」此の如く白うす間に、其の建御名方神は、千引(チビキ)の石を手末(タナスエ)にささげ來て、「言誰か來我國に來て忍び忍びに此の如く物言(モノイウ)  それなら、力競らべ欲爲(シタイ)  そして、我が先きに其の御手を取りたい」と言いました。そこで、其の御手を取りますと、即(ス)ぐに取成立氷に取り成し、亦、取成劍刄に取り成しました。そこで、懼(オソ)れて退(シリゾ)き居りました。
すると、(今度は)其の建御名方神の手を取りたくなって、乞うて歸って取りますと、若葦を取る如く、搤(ツカ)み批(ヒシ)ぎて投げ離しますと、即に、(建御名方神は)逃げ去りました。そこで、追うて往(イ)って、科野國(シナノコク)の洲羽海(スハノウミ)に迫(セ)め到たって、將(マサ)に殺ろそうとした時、建御名方神は言いました。「恐(カシコ)し。莫殺我を殺さないでください。此の地を地を除いては、他處へは行きません。亦、我父の大國主神の命に不違(タガイマセン)。八重事代主神の言うことに不違。此葦原中國は、天つ神の御子の命の隨(マニマ)に獻ります」と。
①「千引(チビキ)の石を手末(タナスエ)にささげ來て」の部分意味不明。千引の石とは、千人の人が引っ張らないと動かないほどの石ということでしょうか? 手末が不明。 
②取成立氷—氷になった? 取成劍刄---剣の刃になった? なんとなく雰囲気は判ります。
③上のようなことより、このページは重要なことが書いてあります。それは、建御名方神が伯耆の国から、信濃国の諏訪湖まで逃げたことです。何人で逃げ、何人で追いかけたとは書いてありませんが、最後には、追いつかれて殺されそうになり、命乞いをしたことになっています。「若葦を取る如く、搤(ツカ)み批(ヒシ)ぎて投げ離します」と書かれていますから、直ぐに、捕まったはずが、捕まらず、遠い信濃国の諏訪湖まで逃げています。逃げた道も書かれていません。建御名方神は諏訪湖にある諏訪大社に祭られています。伯耆国と信濃国の間には、建御名方神を祭った諏訪神社が無数にあります。
 ということは、この神社を支えている人は、何の気なしに建御名方神を祭っているはずがありません。建御名方神となにか関連があったはずです。このように考えると、建御名方神は、伯耆と信濃の間を行き来していたことになります。そして、逃げるときには、こうした人々の支援があって本拠地である諏訪大社まで辿りつきましたが、追いつかれました。
④そこで、命乞いですが、そのときの言葉は、「恐(カシコ)し。莫殺我を殺さないでください。此の地を地を除いては、他處へは行きません」です。ということは、この地以外に出かけていたということです。私は、諏訪湖周辺の絹を伯耆の国へ運んでいたのだと考えています。(この事は、又の機会に記します)
⑤「大國主神の命に不違(タガイマセン)。八重事代主神の言うことに不違。此葦原中國は、天つ神の御子の命の隨(マニマ)に獻ります」とうことによって、此葦原中國を収める権利を放棄しました。ということは、絹を輸出する権利も放棄したことになりますが、その権利を天照大御神が受け取り、輸出に関与したかどうかは、これからの調べによります。

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2005.07.22

古事記を読む  事代主神の服従

No111
是以此二神降到出雲國伊那佐之小濱而【伊那佐三字以音】拔十掬劍。逆刺立千浪穗趺坐其劍前。問其大國主神言。天照大御神、高木神之命以。問使之。汝之宇志波祁流【此五字以音】葦原中國者。我御子之所知國。言依賜。故汝心奈何。
爾答白之。僕者不得白。我子八重言代主神。是可白。然爲鳥遊、取魚而。往御大之前。未還來。故爾遣天鳥船神。徴來八重事代主神而。問賜之時。語其父大神言。恐之。此國者立奉天神之御子。即蹈傾其船而。天逆手矣。於青柴垣打成而隱也【訓柴云布斯】
翻訳
是れ以って、此の二神は、降到出雲國の伊那佐の小濱に降り到って、十掬劍を拔いて、逆に、打ち寄せる浪の穗に刺して立て、其の劍の前に(アグ)み坐(マ)して、其大國主神に問い言いました。「天照大御神と高木神の命(ミコトを)(モ)って、問うように使わせました。汝の宇志波祁流(ウシハクル)葦原中國は、我が御子の知らす所の國ですと言って依り賜まわれます。汝の心は奈何(イカニ)」
爾に答えて白(モ)うされて、「僕はよう白(モ)うしません。我の子の八重言代主神が、是に白うすのがよいでしょう。しかし、鳥と遊び、取魚を取りに御大(ミホ)の前(サキ)に往(イ)つて、未だ還って來ません」といいました。そこで、天鳥船神を遣って、八重事代主神を徴(メ)して來て、問い賜いし時、其の父の大神に語って言いました。「恐之、此の國は天神の御子に立奉つります」と言って、即に、其の船を蹈(フ)み傾けて、天の逆手(サカテ)を青柴垣に打ち成して隱れてしまいました。
① 天照大御神、高木神之命以。問使之。この部分の「命」は岩波の翻訳書ではミコトと読ませていますが、命令のことのようです。No101においても、「天照大御神之命以」とあります。天照大御神は高天原にいなくて、他のところから命令したのではないでしょうか?
② 逆刺立千浪穗趺坐其劍前とは、劍の先を砂に突き刺したのではなく、握るところを突き刺したのでしょうか? これでは、あまり脅かされた感じがしません。談判のときの儀式のようなものだったのでしょうか? 日本書紀では、刃先の上に座ったとあります。
③ 宇志波祁流が判りません。葦原中國を修飾する言葉でしょうが。
④ 即蹈傾其船而とあります。蹴ったぐらいで傾くぐらいですから、ボートぐらいのものでしょう。
⑤ 「青柴垣打成而隱也」が判りません。青柴垣とは、何でしょう。柴で作った垣であれば、青くありません。青い部分の残っている柴垣としましょうか? その垣を「打成」とは叩いて壊したということでしょうか? 又、「隱也」とは居なくなってしまったということでしょうか? そんなことで赦して貰えるのでしょうか? 死んでしまったということでしょうか?

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2005.07.20

古事記を読む  建御雷神

No110
原文
於是天照大御神詔之。亦遣曷神者吉。爾思金神及諸神白之。坐天安河河上之天石屋。名伊都之尾羽張神。是可遣【伊都二字以音】若亦非此神者。其神之子。建御雷之男神。此應遣。且其天尾羽張神者。逆塞上天安河之水而。塞道居故。他神不得行。故別遣天迦久神可問。故爾使天迦久神。問天尾羽張神之時。答白。恐之。仕奉。然於此道者。僕子建御雷神可遣。乃貢進。爾天鳥船神副建御雷神而遣。
訳文
 ここに天照大御神は詔りたまわれて「亦、曷(イズ)れの神を遣(ツ)かわせば吉(ヨイ)だろうか」
と。爾に、思金神及び諸の神が白(モウ)されて「天の安河の河上の天の石屋に坐す、名は伊都之尾羽張神(イツノオハバリノカミ)、是を可遣(ツ)かわす可し。もし、この神がだめであるならば、其の神の子である建御雷之男神(タケミカヅチノカミ)、此れを應えて遣わそう。また、其の天尾羽張神(アメノオハバリノカミ)は、天の安河の水を逆に塞ぎ上げて、水を塞いで居るので、他の神が行くことが出来ない。故に、別つに天迦久神(アメノカクノカミ)遣わして問うわしてみよう」
そこで、天迦久神を使いに出して、天尾羽張神に質問させたら、答えて白(モウ)しました。「これは、恐れおおいことです。仕え奉りましょう。然し此の道に於いては、僕(ワ)が子の建御雷神を遣わしましょう。乃(スナ)わち、貢(タ)てまつります。爾に、天鳥船神を副えて建御雷神を遣わしました」
① No24をみてください。迦具士神を産んだために、イザナミが死に、怒ったイザナギが迦具士神を切ったときに使った刀の名前が、伊都之尾羽張(天之尾羽張)です。そして、そのときに生まれた神のうちの一人が、建御雷之男神です。天尾羽張は刀の名前でもあり、建御雷之男神の親でもあります。よく理解できません。
② No55 の天の岩戸にアマテラスが避難したときに、天の安河原に神々が集まって、相談して、天の安河の河上の天の石屋から天堅石を取ってくる話があります。ここに書かれている同じ、天の安河だと思われます。伊都之尾羽張神は刀の名前ですから、刀に関係があるのかと思えば、違うようです。天堅石は天の金山の鐵を取るために必要でした。その鉄で、鏡を作ったのですが、今回は、刀をつくっていたのでしょうか? 建御雷之男神は、その息子ですから、素晴らしい刀を作る人であったのかも知れません。
③ 天鳥船神が家来として同伴します。なにかの役に立つはずです。この神は、イザナミとイザナギが、国生みのときに、生んだ神の一人です。No20に出ています。別名、鳥之石楠船神です。 字句のまま、解釈すると、石と楠で出来た船で、舳先に鳥の飾りでもあるのでしょう。この神は、ヒルゼン高原のどこかの神社で祭られていたので、神話に取り込んだと思うのですが、見つかりません。それどころか、全国的に見ても少ないです。千葉県神埼町神崎に神崎神社があり、この神社の祭神です。このあたりから、調べるとなにかわかるかもしれません。 先導役でしょうか?

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2005.07.16

古事記を読む  葦原中国は、伯耆の国にあった

No 109
此者在美濃國藍見河之河上喪山之者也。其持所切大刀名謂大量。亦名謂神度劍【度字以音】故阿治志貴高日子根神者忿而飛去之時。其伊呂妹高比賣命。思顯其御名。故歌曰。阿米那流夜。淤
登多那婆多能。宇那賀世流。多麻能美須麻流。美須麻流迩。阿那陀麻波夜。美多迩布多和多良須。阿治志貴。多迦比古泥能迦微曾 此歌者夷振也。

読み下し
此れは、美濃國藍見河の河上に在る。喪山はこれなる也。其の持つ所の切れる大刀の名は大量と謂う。亦の名は神度劍と謂う。そして、阿治志貴高日子根神が忿(オコ)って、飛び去る時。其の伊呂妹(イロモ)の高比賣命、其の御名を顯(アラ)わそうと思って、そこで、歌って言いました。
阿米那流夜(アメナルヤ) 淤登多那婆多能(オトタナバタノ) 宇那賀世流(ウナガセル) 多麻能美須麻流(タマノミスマル) 美須麻流迩(ミスマルニ) 阿那陀麻波夜(アナタマハヤ) 美多迩布多和多良須(ミタニフタワラス) 阿治志貴(アジシキ) 多迦比古泥能迦微曾(タカヒコネノカミソ) と歌いました。
此の歌は 夷振(ヒナブリ)也。

検討します。
①「此者在美濃國藍見河之河上喪山之者也」 この文章は奇怪なる文章です。阿治志貴高日子根神が、死人と間違えられたと怒って、十握剣を使って、喪屋を叩き切りました。そして、急に、この文があります。その後は、太刀のことが記されていて、全く、関係ありません。
 この文章の前後は、誰かが、抹消したことになります。ついでに、この文章も消せばいいのに、残しました。この文章と同じことが、日本書紀にあります。
 「乃拔十握劒斫倒喪屋。其屋墮而成山。此則美濃國喪山是也」
 このことから、日本書紀の編纂に関わった人が、古事記に細工をしたことがわかります。

 この文章からですと、阿治志貴高日子根神は、弔いに美濃國藍見河に行ったことになります。
死んだ天若日子は、アマテラスの命令で、葦原中国の平定をするために、大国主命のところに派遣されました。美濃國藍見河のような山の中ではなく、葦原の茂っているところです。
No26において、イザナミが黄泉の国へ行ったときの事を記しました。現在の西伯郡会見町の御墓原のところです。この部分でも書きましたが、意味が判らなくなっています。誰かが、イザナミが死ぬ前に、伯耆の国に居たということを知られたくなかったために、意味が不明になっていましたが、この部分でも、伯耆の国の出来事だとは書きたくなかったことが判ります。
古事記には、「会見(アイミ郡)の河上の喪山」と書かれていたのでしょう。会見を藍見河と書き改めるだけでは、判らなかったらいけないので、美濃国と付け加えました。日本書紀では、丁寧に、喪屋を切り倒すと、喪屋は天から地上に落ちて山になったとあります。天高原は、美濃國藍見河の真上にあることになります。会見の御墓原という所は、入院先でもあり、死んだら、直ぐに喪屋が作られたところでもあり、黄泉の国でもあったわけです。
このように、隠したく思ったということは、「葦原中国は、伯耆の国にあった」の証明するようなものです。
 
 ②伊呂妹(イロモ)の高比賣命は、阿治志貴高日子根神と同じ母の妹。
 ③「其の御名」の御名は、阿治志貴高日子根神のことでしょう。
 ④歌の部分は、岩波文庫の訳によりますと、
   天(アメ)なるや 弟棚機(オトタナバタ)の 項(ウナ)がせる 玉の御統(ミスマル)
 御統に 穴玉はや み谷 二渡らす 阿治志貴高 日子根の神ぞ

注釈として、次の文があります。
 天上界にいるうら若い機織女が、頸にかけておいでの、一本の
 緒に貫き統べた首飾りの玉。首飾りの玉よ、ああ。その玉のよう
に谷二つにも渡って照り輝いておいでのアジキタカヒコネの神
である。
この歌は雷神の電光を讃嘆したもの。

とあります。注釈を読んでも何のことか理解できません。
この歌と同じものが、日本書紀にも収録されています。日本書紀では、もう一首の歌が書かれています。これをどのように解釈したらいいのか、迷うところです。

 ⑤「其持所切大刀名謂大量」の「大量」は、「おほはかり」と、岩波文庫の訳では、振り仮名があります。「大呂」が、No62において、出てきます。関係はないのだろうか?
 ⑥会見町の御墓原の西の方に、「高姫」という地名があります。「高比売」との関係は?

参考に、日本書紀の同じ部分の原文を挙げておきます。

故味耜高彦根神登天弔喪大臨焉。時此神形貎自與天稚彦恰然相似。故天稚彦妻子等見而喜之曰。吾君猶在。則攀持衣帶不可排離。時味耜高彦根神忿曰。朋友喪亡。故吾即來弔。如何誤死人於我耶。乃拔十握劒斫倒喪屋。其屋墮而成山。此則美濃國喪山是也。世人惡以死者誤己、此其縁也。時味耜高彦根神光儀華艶映于二丘二谷之間。故喪會者歌之曰。或云。味耜高彦根神之妹下照媛。欲令衆人知映丘谷者。是味耜高彦根神。故歌之曰。阿妹奈屡夜。乙登多奈婆多廼。汚奈餓勢屡。多磨廼彌素磨屡廼。阿奈陀磨波夜。彌多爾輔■和■邏須。阿泥素企多伽避顧禰。又歌之曰。阿磨佐箇屡。避奈菟謎廼。以和多邏素西渡。以嗣箇播箇■輔智。箇多輔智爾。阿彌播利和■嗣。妹慮豫嗣爾。豫嗣豫利據禰。以嗣箇播箇■輔智。此兩首歌辭今號夷曲。』

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2005.07.14

古事記 No108 閑話休題 編年体と記伝体

No108
編年体と記伝体は、歴史書において歴史的事実を表す方法の呼び方です。実例を挙げたほうが理解し易いので、代表をあげますと、『日本書紀』は編年体、『古事記』が記伝体で書かれています。編年体は、「何年何月に、次のようなことがあった」という形式で書かれています。日本書紀は、ただそれだけでなく、一書に曰くというような文章が書かれています。一書どころでなく、十書を越える記事が列挙されています。
 これだけ、いろいろの書物がありますが、それぞれの書物には、このように書かれています。しかし、添え書き以外の部分、即ち、日本書紀の作者が正しいと思っている内容は、本文に当たるところに書かれています。だけど、読者の皆さんは、他の書物を参考に掲げておきますから、ご自分で考えてくださいという雰囲気になっています。
 さて、一書ですが、一例も現実に残されていません。従いまして、書かれていることの真偽は確かめる方法がありません。他の一書に当たるものとして、古事記があります。記事に似ている部分が多々ありますが、この部分は古事記から借用したと思われるところは皆無です。それどころか、古事記も発行されてから、100年も行方が分かりませんでした。
 一書にあたる部分は、全部作り話であると断定する根拠はありませんので、実在したとします。では、なぜ、一冊も残っていないのか不思議なことです。
 随分、後のことになりますが、風土記という書物が残っています。どうやら、全部の国に、その国の様子を書いて提出するように命じたと思われますが、残っているのは、五ヶ国の風土記だけで、それも、完全に残っているのは、出雲風土記だけらしいです。
 そんなに、見事に無くなる事はありうるでしょうか? 日本書紀の他の資料と同様に、処分されたと考えるのが自然だと思われます。その理由は推察するしか方法はありません。その方法は、無くなったものからは推察できませんから、残っている風土記に何が欠けているかを調べることによって、ある程度推察できるのではないかと思われます。

私がこれまで接して来た書物では、日本書紀が編纂されたとき(720)、先進国と言われた中国や朝鮮は、国史は、編年体で書かれており、日本書紀はそれに加えて、「他の一書」が多いので、信頼おける。それに対して、古事記は記伝体で、書かれている記事が、正確には、何時の事実であるか判らないので、信用が置けないというものでした。外国の歴史書を全部ピックアップして、編年体で書かれているのか、記伝体で書かれているのか、確かめていませんので、正確には判りませんが、中国では、記伝体が多かったように思われます。
記伝体のほうが、一つの話題の記述は、流れが良くわかるのと、詳しいように思われます。
編年体の方は、年月が書かれていますから、どちらの事件が、先に起こったか理解し易いです。No13をもう一度、ご覧ください。この文章は、編年体で書かれた記事のうち、壬申の乱のときの天武天皇の部下の記事だけ抜き出したものです。このような事をすると、別の意味で真実が浮かび上がります。 研究する余地のある部分です。

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2005.07.10

イギリスのテロ事件 誰が得をしたか

人間が何かをするときは、必ず得をすることしかしないと思っています。この考え方は間違っているでしょうか? そんなことは無い無償でボランティアをする人がいっぱい居られますよと反論されるかも知れません。私はこのような時でも、やはり自分がしたいからしているのであり損得が頭に有ると思っています。危険を伴うときは、この損得の度合いは、一層大きいのではないでしょうか。
 さて、今回のテロでは、同時に三箇所で起こったとされています。少なくとも三人以上の人間によって行われたことになります。時限爆弾であった可能性がありますから、一人であった可能性もあります。もし、そうであるとしますと、爆弾がどのようなものであったか判りませんが、長時間誰にも気が付かれないように存在したことになります。
このような推理は、イギリスの警察でも行われ、これから連日メディアが熱心に追及されると思います。しかし、結局は判らないと思います。
 始めに書きましたように、犯人は、この事件によって必ず得をするはずだと仮定しますと、では誰が一番得をするのかを考えることになります。
 一番はブッシュ大統領。二番、ブレア首相、 三番小泉首相 です。
だからこの三人が犯人であるとは言いません。
ブッシュのイラクへの侵攻は間違っていたという雰囲気が次第に強くなっています。9月11日のテロ事件のときは、7,80%(?)の指示率で戦争を始めました? それにしぶしぶ(?)従がったのが、日本、イタリヤ、オーストラリア・・・・。イラクが持っているとしていた武器は発見できなかったし、その後、アメリカ人は1700人以上、イラク人は20000人以上も死亡者が出ています。テロ集団をやっつける根拠が薄れていました。
アメリカを支持しなかった国はフランス・ドイツ・中国、ロシアです。アメリカは、こうした国とは最近、ギクシャクしていました。反対した国は、テロの発生する原因は、貧困であるから、世界から貧困を無くそうというのが大まかな方針です。
 今回のサミットでは、このような話し合いがされるはずでした。そうなりますと、テロを起こさなかったら、犯人たちは、一番得をしたはずです。なのに、テロが発生しました。

一番はブッシュ大統領。二番、ブレア首相 三番小泉首相を除いて、誰が一番得をしたか考えてみるのが犯人探しの近道ではないでしょうか?

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2005.07.08

古事記を読む 阿遲志貨高日子根神の弔い

No107
原文
此時。阿遲志貴高日子根神【自阿下四字以音】到而。弔天若日子之喪時。自天降到天若日子之父。亦其妻。皆哭云。我子者不死有祁理【此二字以音。下效此】我君者不死坐祁理云。取懸手足而哭悲也。其過所以者。此二柱神之容姿甚能相似。故是以過也。
於是阿遲志貨高日子根神大怒日。我者愛友故弔來耳。何吾比穢死人云而。拔所御佩之十掬劍。切伏其喪屋。以足蹶離遣。
訳文
此の時、阿遲志貴高日子根神(アジシキタカヒコネノカミ)は到りて、天若日子の喪(モ)を弔(トム)らった時、天より降り到った父とまたその妻は、皆哭きながら云いました。「我が子は死なないで有り祁理(ケリ)、我が君は死七位で坐まし祁理」といいながら、(阿遲志貴高日子根神の)手足に取り懸(カカ)って哭き悲しむ也。其の過(アヤマチ)の所以(ユエ)は、此の二柱神の容姿は甚だ相よく似ていた。是れ故に、以って過(アヤマチ)也。
是に於いて阿遲志貨高日子根神は大へん怒って日(イ)う、「我は愛する友故に、弔らいに來たのですよ。何で吾を穢(キタナ)い死人と比らべる」と言いながら、御佩(ハカ)せる所の十掬劍(トツカノツルギ)を拔いて其の喪屋(モヤ)を切り伏せ、足を以(モチ)て、蹶(ク)ゑ離ち遣(ヤ)りました。

検討
① 阿遲志貴高日子根神は大国主の子供で、母の名は、多紀理姫。同じ母の兄弟に、高姫(天若日子の妻の下照比売)がいます。両方とも「高」がつきます。阿遲志貴は地名ではないでしょうか? どちらにしても、弔いにきたのですから、近くに住んでいたのでしょう。阿遲志貴高日子根神に、(根)がついています。これが判りません。
② 我子者不死有祁理の部分の「祁理」は「けり」と読むように指定してあります。漢字に書くことが出来ない言葉でした。もともとあった日本語だと思われます。どうもどのような意味なのか判りません。辞書を引くと、いろいろの使われ方が掲載されていますが、どの例にも当てはまらないようです。死んでいないと言いながら、「有」をつけて、強調して、「けり」でもう一度念を押した感じがします。断定を表す言葉のようですが、辞書にはありません。
③ 我者愛友故弔來耳---このフレーズに何故 「耳」がついているのでしょう。要りませんが・・・。
④ 拔所御佩之十掬劍---御佩は旗がなびいている様子でしょうか。それにしても、剣はなびきません。なびくようなものが剣についている。それでは、邪魔になって使い物になりません。???。
⑤ 取懸手足而哭悲也—愛おしくて手足を触って確かめる様子は、表現が細やかです。
⑥ 以足蹶離遣---足という漢字がありますから、蹴散らかすという意味でしょう。

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2005.07.05

古事記を読む  葦原中国の平定 ニムロッドの返し矢

No106
原文
【此還矢之可恐之本也】亦其雉不還。故於今諺曰雉之頓使本是也。
故天若日子之妻。下照比賣之哭聲。與風響到天。於是在天天若日子之父。
天津國玉神及其妻子聞而。降來哭悲。乃於其處作喪屋而。河雁爲岐佐理持
【自岐下三字以音】鷺爲掃持。翠鳥爲御食人。雀爲碓女。雉爲哭女。如此
行定而。日八日夜八夜以遊也。

訳文
 〔此を還(カエ)り矢の恐る可く話の本(モト)也〕亦、其の雉は還(カエ)らなかった。だから、今は諺に曰(イ)う「雉の頓使(ヒタヅカイ)」の本は是れ也。そこで、天若日子の妻である下照比賣哭(ナ)く聲は、風と與(トモ)に、天に響き到(イタ)りました。是に於いて、在天(アメ)に天若日子の父、天津國玉神及び其の妻子も聞いて、降りて來て哭き悲しみ、すぐに、於其の處に於いて喪屋を作りました。河雁(カワカリ)を岐佐理(キサリ)持ちとして、鷺を爲掃持ちとして、
翠鳥(ソニドリ)を御食人(ミケビト)として、雀(スズメ)を碓女(ウスメ)とし、雉を哭女(ナキメ)として、此の如く行いを定めて、日八日夜八夜(ヒヨカヨヤヨ)を遊びました。

検討します。
①還矢--天神に反逆したために、自ら放った矢が戻ってきて、その矢に当たって死ぬといった説話。この説話に似ている話として、メソポタミアのニムロデの説話があります。(金関丈夫氏)  中国においても、『史記』の殷の皇帝武乙の説話や、『戦国策』の宋の康王の説話などがこの形式である可能性が指摘されており(フランスの学者マスペロ)、また、インドにおいても、『賢愚経』巻一の王舎城の宰相の子恒伽達に関する伝承や、『法句譬喩経』巻一の倶曇弥国王優填の伝承などが挙げられている(金関氏)。
    このように見ますと、メソポタミア周辺(ユダヤやイラン地域)において起源し、それがインドあるいは中国を経由して伝播したと推測される。
    また、ギリシア神話にも、似た話があり、雉ではなく、白い羽をしたカラスが使いとして出かけ、アポローン神が放った矢が、コローニスの胸に当たったという説話があります。(『神話の系譜』大林太良著) 
      以上のことから、還矢の話は、どこの国にも共通して通商をしていたユダヤ人から得た説話を古事記に取り込んだと思われます。
② 死者の葬送の役割。  雁は死者のための食物を頭に載せる役。 鷺は箒を持って掃除役。翠鳥は死者に供える御饌を作る役。雀は米搗きの女。雉は泣き女。
    現在のお葬式では、泣き女は聞いたことはありますが、他の役はあるのでしょうか?

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2005.07.02

古事記を読む  天若日子死亡

No105
原文
爾其矢自雉胸通而。逆射上。逮坐天安河之河原、天照大御神、高木神之御所
是高木神者。高御産巣日神之別名。故高木神取其矢見者。血箸其矢羽。於是
高木神告之此矢者所賜天若日子之矢即示諸神等詔者。或天若日子不誤命。爲
射惡神之矢之至者。不中天若日子。或有邪心者。天若日子於此矢麻賀禮
【此三字以音】云而。取其矢自其矢穴衝返下者。中天若日子。寢胡床之高胸
坂。以死
訳文
ここに、其の矢、雉の胸自(ヨリ) 通っ而(テ)、逆さまに射(イ)上(アガ)って、天
の安河の河原に坐(マ)す天照大御神と高木神の御所に逮(イタ)りました。
是の高木神は、高御産巣日神の別名です。そこで高木神は其の矢を取って
見ると、其の矢の羽に血が箸(ツイ)ていた。
是に於いて高木神は、「此の矢は、天若日子に賜(タマ)へし所の矢だ」と告げられ
て、即に、矢を諸神等に示され、詔(ミコトノリ)されて「或(モ)し、天若日子が命
(ミコトノリ)を誤(アヤ)まらず、惡い神を射る矢が至り爲(ナ)せば、天若日子に中
(アタ)らないだろう。或し邪心が有るならば、天若日子に於いて、此の矢は
麻賀禮(マガレ)」と言って、取其の矢を取って其の矢の穴自(ヨリ)衝き返えし下
すと、胡床の高胸坂に寝ていた天若日子は、それで以って死にました。

検討します
①「是の高木神は、高御産巣日神の別名」どうして、急に、取って付けたように、
この文があるのでしょう。この前に、高木神の神のことを書いた部分があったの
でしょう。古事記を書き直した人が居るように思えます。

①「是の高木神は、高御産巣日神の別名」どうして、急に、取って付けたように、
この文があるのでしょう。この前に、高木神の神のことを書いた部分があったの
でしょう。古事記を書き直した人が居るように思えます。
②麻賀禮は、その後ろに【此三字以音】とありますから、読みは「マガレ」です。
訳本では、漢字の「禍」と書いてあります。「禍」の漢字は、左は祭壇を表す「示」で、左の部分は、浅い丸い穴を表す。意味は神の祟りを受けて思いがけないおとし穴にはまることと辞書にありますが、古事記に「麻賀禮」があったから、この言葉を禍に当てはめ、「禍」を慣習てきに、「まがれ」と読むようになったのではと思います。
麻賀禮という言葉はあったのでしょう。すなわち、神に逆らって罰を受けることを麻賀禮と日本では表現していたが、古事記を書くときには、その漢字がなかったのでしょう。
③胡床は訳本では、朝寝ている床とあります。「字通」に、「胡牀コショウ 」の熟語が掲載されていて、意味は背にもたれのある折り畳み式の椅子とあります。 牀は、床の意味だそうです。これですと、朝でなくてもいいし、寝ていなくても良いことになります。
④高胸坂は、訳本では、「胸」となっています。三字で書かれているのに、胸だけでは、少しさびしいです。というものの、判りません。

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