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2005.08.31

古事記を読む  諏訪神社と御射山(みさやま)

No128
御射山は、諏訪神社の御射山祭りが行われた所の地名です。諏訪神社は、神祭事が、特別に多いように思われます。それも、他の神社と違って異色なものが多いです。御射山祭りは、その中でも重要なものとされています。
この祭りは、今は昇り祭八月二十六日、本祭二十七日、下り祭二十八日に行われますが、中世のころは、毎年七月二十六日の「登御」(のぼりまし)から七月三十日の「下御」(くだりまし)までの五日間、鎌倉幕府の庇護のもとに盛大に行われました。(長野県の地名その由来 松崎岩夫著より)
 現在は三日に減っていますが、かつては今より重要視していたと思われます。
このことの詳細は、ご自分で調べて頂くこととして、次に他の地域の御射山について記します。
① 御射山は、諏訪市以外に次の所に有ります。
 伊那市、辰野町、東部町、原村、小海町、下諏訪町、中村村、松川町、箕輪町。

② 表記の漢字は異なるが、「みさやま」と読む地名を以下に記します。
「旧御射山」(もとみさやま)   諏訪市
「明神山原」(みさやまはら)   飯田市
「美佐山原」(みさやまはら)   飯田市
「三さ山」 (みさやま)     駒ヶ根市
「三才山」 (みさやま)     塩尻市
「三社山」 (みさやま)     上田市
「美射山」 (みさやま)     飯島町、高森町
「みさ山」 (みさやま)     天竜村
「御射山神戸」(みさやまごうど) 富士見町

御射山の語源は、「長野県の地名その由来」P621には、
御射山とその狩猟神事を結びつけ、これは狩の神にのように即断し勝ちですが、太陽、風、雨、すなわち大自然の神、さらに山霊、稲を育む神々などの原始農耕神とするのがよいとする見方が妥当と考えられ、「みさやま」の語源は、宮地直一氏の『諏訪史』二巻には、「み」は敬称、「さ」は語調を強める語で意味はなく、狭霧の「さ」と同じで、結局「み」も「さ」も「やま」につけられた形容語ということになるとあります。このほかに「御諏訪山」(みすわやま)が縮んだものとかも「み」は美称、「さ」は「矢」で山の幸を射るという意味も有りますが、このような抽象的なとこから古い地名は発生するかどうか疑わしいと思います。やはり、「さの」(佐野)「さくら」(桜)などの「さ」と同じで、「狭」つまり狭い谷状地形の山を意味する「狭山」(さやま)に接頭語の「み」がつけられたものから生まれたように考えています。
失礼な言い方ですが、上に書かれた御射山の語源は、わけが判りません。「狭山」に
接頭語の「み」が付いたのであれば、上記の各地名は、狭山にあることになります。私は調べていませんが、調べる気になりません。何故かと言いますと、「狭い谷状地形の山」の意味が不明だからです。地名は、必要に迫られてつけるものです。皆が苦労して、いろいろの説を述べられたのですが、その説の意味すら判らないのです。

住んでいた人が、信仰していたから、敬意を込めて、「み」は敬称、「さ」は語調を付けようではないかと相談したことになります。仮に、その説が正しいとしても、後が続きません。このようなときは、私は外来の地名ではないかと考えます。難読地名は外来でいいと思います。
諏訪神社の御射山では、神官の長らが、そこのススキで、「穂屋」と呼ばれる仮の小屋を組み、五日間参篭して奉仕しました。だから、「御射山祭」を「穂屋祭」と言ったそうですから、御射山ではお祈りをしたことになります。表記はちがっても、(みさやま)という地名は、お祈りをする所、祭壇があったところに付けられた地名と考えた方がまだ、ましだとだと思います。
「御射」は、ずばり、「ミサ」でいいと思います。諏訪神社で行われる神事は、他の神社とは違ったもので、キリスト教の「ミサ」ではなく、ユダヤの「ミサ」であろうと思っています。何故かと言いますと、キリスト教は紀元前にはなかったからです。
①②の地名「ミサ」では、ユダヤ人によるミサが行われていたのではないでしょうか?
先に、「その説が正しいとしても、後が続きません」と書きましたが、「ミサ」であれば、どんどん、ユダヤと関係ある地名はないだろうかと後に続けることが出来ます。
群馬県・諏訪一帯は、ユダヤ人による絹の集積地であったのではないかという私の
仮定が正しいという証拠の一つになるのではないかと思っています。

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2005.08.29

古事記を読む  式内社の全国分布

No127
山城122-- 伊賀25-- 近江155-- 丹波71-- 紀伊31-- 志摩3-- 若狭42-- 播磨50

大和286-- 伊勢253-- 美濃39-- 丹後65-- 淡路13-- 尾張121-- 越前126-- 美作11

河内113-- 飛騨8-- 但馬131-- 阿波50-- 参河26-- 加賀42-- 備前26

和泉62-- 信濃48-- 因幡50-- 讃岐24-- 遠州62-- 能登43-- 備中18

摂津75-- 上野12-- 伯耆6-- 伊予24-- 駿河22-- 越中34-- 備後17

壱岐対馬53-- 下野11-- 出雲187-- 土佐21-- 伊豆92-- 越後26-- 安芸13

日向4-- 陸奥100-- 石見34-- 筑前19-- 相模13-- 佐渡9-- 周防10

出羽9-- 隠岐16-- 筑後4-- 武蔵44-- 長門5

下総11-- 豊前豊後12-- 安房6--

常陸28-- 肥前肥後8-- 大隈薩摩7-- 上総5



① 大和・伊勢・出雲は、神社の数が多く、特殊な土地であることが判ります。伊勢
神宮は、式内社の勢力に囲まれ、天皇といえ、参拝すらできなかったと思われます。
② 大和から遠いところは、少ないです。この頃には、勢力が九州から、大和に移動
していたことが判ります。
③ 伯耆・美作・志摩・飛騨・淡路は、極端に少なくて特殊な土地です。
  まだ、一部しか調べていませんが、これらの式内社へは天皇から、幣帛をたまわっているに
  も関わらず、殆ど、天照大神が祀られていません。この頃、天皇は名のみ、天皇以外の勢力が、
  軍事資金を神社宛に分配し、全国を支配していたことが判ります。

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2005.08.27

古事記を読む 天照大神は、本当に皇祖神なのか

No126
前回に書きましたように、私は皇祖神だと思っていたのに、そうではないらしいです。一応、古事記には、流れとしては、後の天皇に続いてはいるのですが、業績が書いてありません。あまりにも、古い話ですので、判らないから書いていないのかと思いましたが、そうではありません。
 私はこの「新しい古事記の読み方」を書き始めるきっかけは、何回かは書きました「田村誠一」という方の云われたことにあります。この方は、これでもかというほど、いろいろのことを調べて、本にしておられます。私がこれまでに書いてきましたことは、この方が云われたことの焼き直しに過ぎません。
歴史の専門家であれば、田村氏が主張されることは、悉く否定されると思います。しかし、誰一人、反対すらされません。反対するほどの価値も無いものだということです。しかし、次に述べることは、反対どころか、現在でも気がついておられる方が無いのではないかと思えるほど、素人の人も口にしません。インターネットでも発見できません。

どのようなことかといいますと、延喜式年間に、制定された法律書にあたるものに、政府から幣帛をうける資格のある神社名が記載されています。私は幣帛の意味が判りません。辞書をひきますと、「神に奉献する物の総称。みてぐら。にきて。ぬさ。」とあります。辞書というのは、難儀なシロモノです。判らないことがかえって増えました。奉献する。みてぐら。にきて。ぬさ。何のことはありません。書かれていることのうち、判ったのは、「神に 物の総称」だけです。しかし、本当はわかっていません。「神」にささげるのです。そんなものを捧げて神は喜ばれるでしょうか? 喜ぶのは、神主さんだけではないでしょうか? ついでのことに、「ぬさ」を辞書で調べます。かっこして「幣」と書いてあり、麻、木綿、帛または、紙などでつくつて、神に祈るときに供え、または祓えにささげ持つもの。みてぐら。にぎて。幣束。
おかしいですね。幣帛の説明に、幣帛は「ぬさ」だと書いておきながら、「ぬさ」の説明に「幣」と漢字で書き、「帛」もあります。「ぬさ」という意味を二つ重ねたものが、幣帛だということです。辞書を引くたびに、判らない言葉が増えますので、以後、私の講義になります。
「帛」は発見です。「ぬさ」のことです。この字には、巾という字が含まれます。「はば」とも読みますが、これは、幅の略字です。もともと、「巾」という字かあり、「きん」と読みます。「巾」を部品にしている漢字を思い出してください。帚、箒、掃、婦、帰、吊、希、啼、帖、佩、帯、布、師、帝、席、帷、常、幡、帳、綿、柿、綿、滞など。これらのことから、「きれ」であることが判ります。「帛」は、ただの布ではなく、「白い」きれであることが判ります。「白い布」は、昔は無かったのです。「帛」は絹、それも白い絹のことを言ったことが判ります。
ところが、「巾」という字は、どうやら、細長い布を称して「巾」と言ったらしく、帯とか幡に表れています。「帚」は「ほうき」と読みますが、布で出来ていて、それこそ神棚ぐらいしか使用しなかったのでないでしょうか? ハタキのことです。そのうちに、竹でできた「箒」ができて、それを使ってはくことを「掃く」と表現し、掃くひとは、女性の仕事だったのでしょう。「婦」の字が生まれたことになります。調子に乗って書いていますが、正しいかどうか責任はよう持ちません。
話は元に戻ります。幣帛は、神主さんがお払いをするときに、振られる道具のことです。あんなもの、朝廷から貰ってもなんら嬉しくありません。あれは代表者のようなもので、本体は朝廷から、白い絹を貰ったのでしょう。それも沢山貰ったと思われます。腐りはしませんから、米を大量に貰うよりはましです。絹は、その当時、簡単に何にでも交換できたのでしょう。すなわち、市(イチ)が存在していたと言うことです。絹はお金の代わりでした。
政府から幣帛をうける資格のある神社名のことを式内社と呼んでいます。別名官社ともいい、①全国の神社を、神祇官の管轄する神社(官社)とそうでないものに分けていた。
②官社に対しては、祈年祭の際に幣帛を班つとともに、社殿の管理や神職の選任に於いて、神祇官や国司が監督 ③管理をするための台帳は、早くから作成されていた。
『続日本紀』慶雲3年(706)2月庚子条には、
  「是の日、甲斐・信濃・越中・但馬・土佐などの国一十九社、始めて祈年の幣帛の例に入る」とあって、祈年祭の際に、幣帛を受ける神社名を記した「神祇官記」なるものがみえている。  (歴史読本767 P180)
『延喜式』は延長5年(927)に撰進され、康保4年(967)に施行されて、50巻よりなりますが、そのうち、巻第九(神祇九、神名上)・巻第十(神祇十、神名下)の二巻が のちに「神名帳」と呼ばれるようになり、この中に、3132座の神社名が記載されています。
 以上のことから、3132社のうち、19社はすでに、706年には、政府の管轄であったことが判ります。国の名は、甲斐・信濃・越中・但馬・土佐です。この国名については、又、考察します。
3132社のうち、大和国が、286社、伊勢国は253社、出雲国は186社でダントツです。
なるほど、然もありなんと思われた方はいっぱい居られると思います。ところが、式内社のなかには、天照大神を祭った神社がありません。ということを唱えておられるのが、
田村誠一氏です。そんなことは無いと思っていましたが、田村誠一氏の言われることが本当かも知れないと思うようになり、調べています。全く無いわけではありませんが、殆ど無いといってもいいと思います。(まだ、一部しか調べていません)
 この事実は、どのように説明したら良いのか、従来の日本史では説明がつきません。
タイトルの「天照大神は、本当に皇祖神なのか」のことは、何も書かずに、2ページを使おうとしています。上の事実から、「天照大神は、皇祖神である」と言いたくない人たちがいたということが判ります。逆に、皇祖神であった可能性が強いと言うことが言えるようです。 

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2005.08.24

古事記を読む 古事記の不思議

No125
古事記には、理解できないことがいっぱいあります。これを不思議というのであれば、これから述べることは、最大の不思議だと思います。
No2 において、どうして、古事記が作られることになったかを書きました。もう一度、書きますと、
『古事記の序文に当たるところに、次のような部分があります。
「私は聞いた。諸家にもたらされている帝紀及び本辞は、既に真実と違っている、多く虚偽が加えられている。今この時期に、その誤りを改めねば、数年しないうちに本当のことは消えてしまうだろう。これは国家行政の根本であり、天皇徳化の基本である。ここに、帝紀を撰録し、旧辞を皆で調べ、偽りを削り真実を見定めて、後世に伝えたいと思う。」と言われた。』
どの部分が、真実と違っていて、どの部分に多く虚偽が加えられているかは、記されていません。古事記は、詳しくは、イザナギ・イザナミから始って、天照大神・スサノオ・月読命、そして、ニニギ命・神武天皇・以後歴代天皇のことが記されています。
どの人物も、なにをしたか詳しく書かれているのに、天照大神と月読命のことは、なにも書かれていません。神武天皇は、詳しく書かれていますが、天照大神と月読命と2代から9代までの天皇は、簡単にしか書かれていません。2代から9代までの天皇は記載事項が少ないのは、実在しなかったから、書くことがなくて、無理やりに作り事を書いたことになっています。
歴史がないから、欠史八代というとんでもないネーミングをして抹殺しようとされています。
天照大神と月読命と欠史八代の天皇のことがどうして書かれていないかといいますと、書きたくない人が、書いてあったのに消したと考えた方が、無理がありません。この10人は、私は丹後と関係があるのではないかと考えています。日本書紀を書いた漢人の人たちは、この部分を消し去ることで、自分たちと天皇家は、同等の位があることを知らせたかったのではないでしょうか?
消された部分の復元を試みてみようと考えています。そのためには、いろいろのことをしなくてはなりません。漢人は、徹底的に、天照大神と月読命を消し去ろうとしました。とはいうものの、全く消し去ることは出来なかったようです。消すことが出来なかった部分を見つけないといけません。どのようにして、消そうとしたか証拠を見つけないといけません。天照大神と月読命はなにをしたのか。残っていたら、これも見つけなくてはなりません。
古事記の解読は、まだ、ニニギ命・神武天皇・以後の歴代天皇は、まだ手を掛けていませんが、古事記の解読と平行して、天照大神と月読命のことを追求していくつもりです。

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2005.08.22

古事記を読む  No124 地名 神戸

No123 難読地名として公文をあげました。これは、「くもん」と読み、全国で10ヶ所はあります。「公文」は荘園領主から荘園の管理の仕事を任されていた荘官の一職名です。公文が居たところを公文所と呼び、そこが地名になったと考えられます。さて、役職名ですから、これも外国製の言葉ではなかったかと考えます。
 難読だからユダヤに関係あるというのは、乱暴ですが、ものを考えるときに、このように目をつけるということは大切だと思います。目をつけた以上は関係あるかどうか一歩踏み込んでみる必要はあろうかと思います。
 そこで、「神戸」を調べてみたいと思います。
有名な地名ですから、多くの地名の本に取り入れられています。①渡河点 ②川処
③神社に属した封戸(かんべ)④超処 などが云われています。③はもっとも判りやすいのですが、この近くに神社がないと理屈に合いません。「神戸」と漢字表記する地名は、69件見つかります。小字をいれるとまだまだ増えるでしょう。①②は、この地名には、川があるためだと思います。
69件の読み方は、それぞれです。全部あげておきます。
がうど、かうど、かど、かのと、かみど、かんど、かんべ、ごうと、ごうど、こうど、ごうどう、こうべ、ごおど、ごおと、じんご。
分布は、山梨 8、長野 8、岐阜 7、愛知 5、岡山 6、群馬 7、埼玉 の7県です。 あれと思われましたか?  諏訪神社の分布と倭文神社の分布と似ているところがあります。「神戸」は、神さんの居られるところへの入り口だと思います。湯原温泉の少し南の「社」へ入る分岐点が「神戸」です。村から村へ行くときは、はじめは、川に沿って移動したために、分岐点には、川が存在します。川が大きければ、船渡(舟戸)もあったでしょう。道の分岐点は、川の合流点になっているところが多く、そこには、後世には、川合というような地名があります。紀元前の頃ですと、神社はなく、山が神の居られるところという考えであったと思われます。「神戸」の近くには、神をあらわす山があるはずです。
地名は、実際にその場に行かないと判らないものですが、無視して長野県の神戸について考えて見ます。次の7つの町にあります。
① 大町市 ②辰野町 ③松川町 ④穂高町 ⑤諏訪市 ⑥松本市 ⑦木曾福島町
さて、上記の町がどこにあるのか調べるだけで一苦労です。①②③は、白馬村と安曇村にはさまれた富山県に近いところです。⑤⑥は諏訪湖に近いところです。これぐらいしか判りません。あとは、長野県の方の力を借りるしかありません。
どれも、「神戸」は、神さんの居られるところへの入り口だというような可能性が出てきますと、①~⑦までの地域に、ユダヤ系の人、または部下のような人が住んでいて絹に関係があったという推理も可能になってきます。
他の難読地名もこのようなことが云えますと、ユダヤ人と絹は関係あることになります。

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2005.08.20

古事記を読む ユダヤ人と地名

No123
ユダヤ人と書きましたが、正確には、この人がユダヤ人と云う方はおられないと思います。私は日本人と思っていますが、なにを根拠にいえるのかとなりますと、自信がなくなってきます。従いまして、随分昔に、世界に追われました民族のことはよく判っていません。10の部族に分かれていたと云いますが、仮に、日本へ到達したとしても、長い年月を掛けて移動してきたとなりますと、通過した土地の人々の血も入り、言葉も入り不明な部分ばかりです。M・トケイヤ著に、「ユダヤと日本  謎の古代史」という本があります。この書物では、日本とユダヤには、よく似た点がいっぱいある話が書かれています。似ているから、ユダヤ人が日本に来た証拠にはなりませんが、文章全体に無理がありません。読み終わったときに、「ユダヤ人が日本に来ていたのでは?」と思わせますから、不思議です。
このようなことを念頭に、現在、残っている地名から、考えてみようと思います。

読むことが困難な地名を難読地名と名づけています。地名は、住んでいる人が必要になって初めて、付けられます。従いまして、読めばすぐにどんなところか判らなくては意味がありません。現在はわからなくても、付けられたときは判っていたはずです。
真庭(旧大庭)、久米、磐梨、和気、邑久、御津。さて、読めましたか? すべて、吉備にある地名です。吉備という地名すらおかしな地名です。どのような意味があるのか判りません。今度は、村の名前です。神庭、巨勢、公文、周匝、弓削、香香美、大倭、倭文西、倭文東、打穴、垪和、大垪、佐伯、石生、雄神などです。この際、美作の地図を買って、眺めてください。
これらの地名がユダヤと関係があるというのではありません。判らない地名は、外国から来た人がつけた可能性は大きいと思われます。これは、朝鮮の地名だと云われる方は大勢おられます。きっと、そうだと思われることが多いのです。例えば、海のことを朝鮮語で、パタというそうです。パタが変じて、ハタとなった。カヤという国があつたから、加悦という地名は、朝鮮の人が渡来したのだというような調子です。可能性は大きいですが、これだけで断定するわけにはいきません。私は、ユダヤ語は全く知りませんので、地名がユダヤ語ではないかという推理は困難なように思いながら書いています。
 もう一つ、この一帯には、「神」という字がついた地名が多いことです。陶棺が発掘されたところでは、神庭(カンバ)、神代(コウジロ)、神郷(シンゴウ)、神戸(ゴウト、カンド)、神田(コウダ)、神(コウ)などがあり、カミとは発音しません。小田郡笠岡町に神ノ島(コウノシマ)があり、その南隣りは、神武天皇が八年駐留したという高島です。このとき、ユダヤ人は、自分たちの住処を提供して、神武東征に協力したと考えてもいいかも知れません。
この神は、日本書紀に書かれている「星の神 天香香背男命」の神と考えては駄目でしょうか?
ユダヤ人が歩いたのではないかと思える道を記します。
神湯村の星ケ山と下関・彦島とを結んだ線上に、
  ①三次盆地
  ②日本ピラミッド
    広島県庄原市の西部、東城町と総領町に隣接する庄原市本村町に、葦嶽山(あしだけやま)があります。    この山は、何処から 見ても、三角形にみえて、誰にでも判りやすい目安になる山です。(滋賀県の三上山    もどこからも見え、三角形です) また、ここは神石郡であり、葦嶽山のすぐ東の山が御神山です。神がつき    ます。
  ③神武の安芸の可愛宮 があります。

  日本ピラミッドから星ケ山を目標に進むと、その線上に神代川、神郷(新見)、矢 神村、神代村、神庭(カンバ、勝山)、神戸、神湯村と神がつく地名が続きます。ヨーロッパの中世の都市の中央に広場があります。神庭はこの広場で、ここがユダヤ人の政治の中心です。八神(ハガミ)と神庭は同じ緯度です。 (田村誠一著 平成古事記より)
 星の神 香香背男が、移動するときには、道を間違えないように、目標と成るものが必要でした。何処からも見え、同じ三角形の形をしている山が一番でした。どの山も、三角形であることは、無理ですから、ある程度は人工の力を加え、形成したと思われます。葦嶽山がピラミッドでないとしても、目標にしたのは、確かだと思えます。
 湯原インターを出て、313号線を北上しますと、西の方向に、星山という名前の山があります。
全国に、星山は、山とは限りませんが、岩手県、茨城県、神奈川、静岡、和歌山、長崎、宮崎各県にありますが、全て、〔ほしやま〕と読みます。岡山県の星山は、〔ほしせん〕です。
星の神 香香背男一族は、とうやら、緯度経度は測量できたようです。なにかを基準にして、移動する必要があります。どこから見ても、円錐の形をしていると、道がいくら曲っても、常に目標の山が見えます。実際に車で走って見ますと直ぐに、理解できます。
No41において、高尾山がやはり、移動するときの目標になった可能性を述べました。この場合は、イザナギと関係があるのではと書きましたが、ユダヤ人は、このイザナギより以前から、日本に渡来していたのではと想像しています。

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2005.08.17

古事記を読む  美作にはユダヤ人が居たのでしょうか

No122
「吉備古代史の未知を解く」は、間壁忠彦・間壁葭子氏の著書の名前です。両者は倉敷考古館学芸員であり、館長も勤められています地元の研究者であるだけに、内容は素晴らしいものです。外に、間壁忠彦の「石棺から古墳時代を考える」の著書があり、吉備の歴史だけではなく、石棺を通じて、全国の勢力分布を述べておられます。
 すべてを紹介するわけにいきませんので、その一部を紹介しますと、「吉備古代史の未知を解く」の162ページに、「久米の子の里」と題して、奇妙な陶棺のことが書かれています。陶器製の棺おけのことです。九州では、甕を二つ合わせた形の甕棺が有名ですが、ここの陶棺は、土師質亀甲形と須恵質および切り妻家形の二種類とその他分類不明の陶棺に分かれます。全国に分布はしているらしいですが、その7~8割は岡山県に分布し、其の又、7割は美作とよばれた地名で発見されています。
「何か特別な生産にたずさわる集団と、関係がある棺ではないか、と見られている面が多い」と微妙な表現をされ、須恵器窯跡と関係、土師質陶棺の場合は、土師部との関係、鉄の生産が盛んであった土地柄、鉄生産者との関係、屯倉との関係などを挙げておられます。当然、他の人も精力的に研究し、成果を発表されておられるらしく、それらに負けられない気持ちがあったのではないでしょうか? 「久米の子の里」のページに43ページも費やされています。この項のはじめのところで、著者は「陶棺の存在に対する結論など、こうした本の上で簡単にでるものでないことを意味していることでもあるだろう」と慎重に、駄目押しをしておいて論をすすめておられます。
 それに対して、私は簡単に、この陶棺はユダヤ人の棺おけで、しかもユダヤ人は絹を東郷湖まで運んでいるのだと前に述べ、それどころか、その絹はローマまで運ばれてい
るのだと書きました。この凄腕のプロをくつがえすことはとても、私には無理ですが、著者は、ここで発掘された陶棺の時代を次のように述べておられます。「この地域の後期古墳は、六世紀中頃に築造が始まり、七世紀末まで使用されており、時には七世紀中頃以降でも築造され、中には八世紀の火葬骨を追葬しているものもある」
私は、この部分が良くないのではないかと思っています。最近、岡山県で鉄を製造した遺跡が発掘されていますが、私はどれも、200年ぐらい遡らなければならないのではないかと思っています。そうしますと、古事記に書かれているスサノオが襲撃した製鉄所に一致します。(No62~65) 陶棺が発掘されたときに、なにを基準にして、使われた年代を決めるのでしょうか? 
普通に考えても少し、おかしいと考えられませんか? 「六世紀中頃に築造が始まり、七世紀末まで使用されており」と書いておられますが、これですと、二代しか生活していなかったことになります。仮に北海道のように、明治時代に入植されたとします。帯広の原野では、一代が暮らすだけでも厳しかったそうですが、私の友人は、三代目で、200頭を超える乳牛を育てています。美作は三代ぐらいで逃げ出さなくてはならないような所とは思えません。それどころかずっと、子孫の方は現在も生活しておられると思います。
この陶棺は大きなもので、陶棺を作る技術がなかったのではないでしょうか? 陶棺は、6~7世紀と固定しているために、また、歴史に詳しいために、ユダヤなどの発想はとんでもないものだと思います。
岡山県英田郡美作町平福から発掘された切妻形の陶棺には、寒羊と思われる尻尾の太い二匹の羊を連れて羊の顎ひげを触っている人物が描かれているそうです。これは日本にはいなかった動物と思われます。子羊は聖書にでてくる神の使いだそうです。又、寒羊は、イスラエルが原産でユダヤと関係がありそうです。が知識として知っていたので、描いたのかもしれません。よって、描いた人は異国の人であったと考えていいと思います。

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2005.08.15

倭文神社の考察 その2

No121
No120 は少し飛躍があったと思われます。それ故にご理解願えない部分が在ったのではと思っています。書いている私も現在頭が混乱しています。志津と宮内の倭文神社は天皇派と漢人派の対立があったように書きましたが、紀元一世紀ころは、仲良くとはいかなくても競争しながら、絹を運んでいたのではないかと想像しています。ところが、絹を運んでいたのは、天皇派と漢人派だけではないようです。それ以上に、ユダヤ人が大活躍をしていたのではないかと思います。古事記の最初に登場した人たちは、入り乱れながら、絹の争奪戦をしていたのではないでしょうか。
 何分、紀元一世紀から、紀元後700年頃までの長きにわたって、繰り返されましたために、抜きつ抜かれつの繰り返しではなかったかと推察します。詳細を知ることは不可能ですが、おぼろげには知ることができます。少しずつ解きほぐしていきます。

岡山県久米郡倭文中村柚木(久米郡久米町油木北332)に倭文神社があります。
祭神は、天羽槌雄神外です
久米郡において天香香背男命を祭った神社は、
岡山県久米郡福渡村下神目     志呂神社     「事代主神、天香香背男命」
岡山県久米郡打穴村打穴      榊葉神社     「天香香背男ほか」
岡山県久米郡久米町油木北1608  少彦名神社 少彦名命 配 天香香背男命、瀬織津姫」
岡山県久米郡久米町里公文1514  高津神社 「大日・貴尊 配天香香背男命外」
岡山県久米郡旭町里1827     八幡神社(湯田神社)「譽田別命 配 天香香背男命ほか」

上に挙げました神社は、式外社です。美作国には、式内社が少なく、全部で11社しかありません。(ということは、天皇勢力の強かったところになります。久米の兵がいたところです。)

米子道の湯原インタ-から、国道313号線を北上しますと、社口ダムが左手に見えます。三叉路になっていますから、右折しますと、56号線になり、町名は、「社」です。右折したところは、古い地図では、〔神戸〕となっていました。ヨミカタは、「ごうど」です。
〔神戸〕は、兵庫県の神戸は、「こうべ」と読み、有名ですが、岡山県にある〔神戸〕は、「かみど」「こうど」「じんご」といろいろあります。
「神戸」の「戸」は、神の里への入り口とも考えられます。「社」が、神の里だったのか、「湯原村」が神の里だったのか判りませんが、湯原町は、明治37年 八幡村、神湯村が合併 湯原村になりました。昔の人は、神さんから頂いたお湯と考えて、村の名前を神湯村とされたのでしょうか? 重要なのは、「社」です。この町に、町と云っても山村ですが、ここに11のうちの8つの式内社があります。いつの時代か判りませんが、村全体が、美作国からあつめられた漢人で成り立っていたことが判ります。重要拠点だったのです。美作から湯原温泉を通って、ヒルゼン高原、そして、山を越えて天神川を下って絹を運んでいたユダヤ人を封鎖したのでしょう。

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2005.08.09

郵政否決 首相笑顔で?

我が家の新聞(8月8日夕刊)が おかしいのだろうか? 小泉首相がいつものスタイルで片手を挙げて、やや作り笑いとも見える笑顔で写真に納まっている。記者団に向かって手を挙げているのですから、新聞・テレビで報道されるのを承知でのポーズです。
 一般には解散をちらつかせて、言わば脅しながらの審議でしたが、そのような批判を受けることは重々承知していたはずです。結果は大差の負けで、それでもなお、解散をして国民に真理を問うのはいいかも知れません。国民が、駄目だといえば、小泉首相の考えが受け入れなかっただけのことです。間違っていたわけではありません。
小泉首相は、はじめから郵政は民間に持っていくといっていました。この世界で甘い汁を吸っている人が、100年来続いていることを知っていたのでしょう。それこそ、是ぐらいにやっておけば、民間に移管できなくても、相当大胆に改革は可能です。そして、もう一ついっていたことは、どうしようもない自民党という政党を潰すと言っていました。これも、この選挙で、潰れはしなくても改革されるでしょう。
 国会にも国民にも指示されないのであれば、退陣すれば良いだけのことです。もし、否決されていなかったら大変だったでしょう。いざ、本当にすすめるとなると、自殺する人もでるほど、国民に負担をかける事業でしたから、日がたてば忘れられるだけのことです。
首相とすれば、案外 清々したのかもしれません。

もし、退陣となるようなことになった場合、置き土産をしてほしく思います。
元首相の森氏が説得のために訪問しました。そのとき、小泉首相から受けた数々の侮辱が、八分にもわたってテレビで放映された。あの映像は冗談をではありませんでした。これまでの政治家の説得工作というものが、どのようなものであったのか、あの映像に対するお返しとして、公表してほしいものです。

さて、選挙がどちらに転んだときに、首相の笑顔をみることができるのでしょうか?

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2005.08.08

古事記を読む  倭文神社の考察 その1

No120
天照大神は、ニニギ命を天孫降臨させるにあたって、天鳥船神を副えて建御雷神を遣わしました」(No110) 淀江町の伊那佐の小濱で談判して、オオクニヌシと事代主神は、服従しましたが、弟の建御名方神は、歯向かいました。古事記には書いてありませんが、日本書紀に、星の神 香香背男も従いませんでしたとあります。香香背男はどこにいたのでしょうか? 全国のあちこちの神社に祭られていますが、このときは、葦原中つ国(伯耆国)に居た人たちをやっつけに行きましたので、伯耆です。伯耆にある倭文神社は、東伯郡東郷町宮内754の倭文神社と倉吉市志津の倭文神社です。このどちらかに居たと考えていいと思います。
両社の祭神を書きます。
    東郷町宮内(古くは東伯郡舎人村宮内)の倭文神社----東郷湖の東
    祭神 建葉槌命、下照姫命、事代主命、建御名方神、少彦名命、天稚彦命、
       味耜高彦根命
    倉吉市志津(古くは東伯郡北谷村志津)の倭文神社------東郷湖の西
祭神
経津主神、武葉槌神、下照姫神、伊弉諾命、伊弉冊神、誉田別命、国狭槌尊

同じ、倭文神社ですが、神さんの名前が少し違います。殆ど、同じだと思っては  
いけません。宮内の祭神は、古事記に書かれている字体です。しかも舎人村
(天皇の警護をする人が住んでいたところです)です。志津の倭文神社の祭神は、日本書紀に書かれている字体です。この神社は、6世紀のころには、日本書紀を書いた人たちによって支配されていたため、日本書紀と同じ字体に書き改めるように、強制されたと思われます。一方、宮内の倭文神社一帯は、天皇勢力が強かったために、漢人たちは祭神を書き換えることはできず、現在に至っています。
実際に行かれますと判りますが、直ぐ近くです。紀元前は、絹を求めて、漢人の人と天照大神の人たちは、やっつけあうことなく、住み分けていたことが判ります。日本書紀が完成したころは、大部分の神社が従い、藤原不比等は、自信をもつて、日本書紀を完成させ、古事記を葬ることにしました。No13において書きましたように、天武天皇を暗殺しました。その後、延喜式なる法律を927年に完成させ、全国の神社で、漢人に従うところは、式内社の資格を受け、其の数は、3132社となり、その神社は、式内社と呼ばれています。さて、其のことが名誉あることのように、現在でも、わが社は、式内社であると誇りにしておられる神社がいっぱいです。No85では、「八上比賣沼神社」であったと思われる神社を「賣沼神社」と延喜式に掲載されている例を記しました。神社名、そして祭神、そして神社自体を関係ないところ(No52)に作って、日本書紀が正しいように細工をしたと思われます。

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2005.08.06

古事記を読む  倭文神社と絹の関係

No119
倭文神社は、全国に14社存在します。
上野国佐波郡           甲斐国巨摩郡
大和国葛下郡           但馬国朝来郡
伯耆国久米郡           伯耆国川村郡
駿河国富士郡           伊勢国鈴鹿郡
丹後国与謝郡           丹後国加佐郡
因幡国高草郡           美作国久米郡
伊豆国田方郡           近江国滋賀郡

現在の地名による倭文神社の所在地と祭神は、次の通りです。
① 奈良県北葛城郡当麻町加守     葛木倭文坐天羽雷命神社 
② 三重県鈴鹿市加佐登町       倭文神社 
③ 静岡県富士宮市星山         倭文神社 
④ 静岡県田方郡伊豆長岡町江間   倭文神社 
⑤ 山梨県韮崎宮久保          倭文神社 
⑥ 茨城県那珂郡瓜連町         静神社 
⑦ 大津市坂本本町            倭神社 
⑧ 伊勢崎市東上宮町380        倭文神社 
⑨ 京都府綾部市今田町         倭文神社 
⑩ 京都府与謝郡野田川町三河内   倭文神社 
⑪ 兵庫県朝来郡生野町         倭文神社 
⑫ 鳥取市倭文               倭文神社 
⑬ 鳥取県 東伯郡東郷町宮内754   倭文神社   
⑭ 鳥取県倉吉市志津           倭文神社    
⑮ 岡山県久米郡倭文中村柚木     倭文神社


〔倭文〕は、しずり、又はしとり、しどりと言います。これは、倭文織ことで織物を表わしています。倭文神社は、織物に関係していた人たちが、お祀りをしていたことになります。だれが祀られているかと言いますと、各神社には、いろいろの神が祀られていますが、主に、〔建葉槌命〕と言う神さんです。この神は、日本書紀では、「邪神や草木・石まで平らげたのに、最後まで従わないのは、星の神 香香背男だけになった。そこで、建葉槌命を遣わして服従させた」とあります。最後まで、従わなかったのは、星の神 香香背男です。
美作には、久米郡倭文中村油木に、倭文神社があります。星の神 香香背男を祀った神社が、五座あります。(志呂神社、榊葉神社、高津神社、少彦名神社、八幡神社)。久米郡三保村錦織には、瀬織姫命を祀った錦織神社があります。
ということは、いつの時代か判りませんが、美作では、絹を使って織物をしていたことが判ります。絹を作っていたかどうかは、これだけではわかりません。
上野国佐波郡の中心に当たるところは、伊勢崎市になります。群馬県には、建御名方神を祭った神社が三社あります。従いまして、建御名方神は諏訪だけではなく、伊勢崎市にも関係があったことになります。この近辺では、現在の織物の町は、秩父、八王子、桐生、足利、伊勢佐野、武蔵になります。こうした地域で生産された絹は、伊勢崎市に集積されたので、最も大きく倭文神社がつくられたのではないでしょうか? 
ずっと、後のことになりますが、東大寺献物帳によると、和銅7年(714年)に上野国(今の群馬県)がはじめて「あしぎぬ」を織って朝廷にさしだしたことや延喜5年(905年)当時の租税制度に上野の国の税金は「あしぎぬ」と定めてありますから、この頃には、米が取れない代わりに絹を出したと思われます。もっと、時代が下りますと、桐生では水車動力を各工程に利用し、多くの反物ができ「市」が賑わい、桐生の織物がたくさん売れ、全国に普及していった結果、天命年間には日本のお金の三分の一が桐生にあったといわれる位、多くの織物屋にお金が集ったそうです。。この辺りの織物について書かれたものを読みますと、殆ど、江戸時代・明治になって養蚕が活発になったように書いてありますが、古事記が出来たときには、すでに、絹が重要視されていたことがわかります。
1738年に伊勢崎藩主に提出された茂呂村(現在の伊勢崎市)の買上帳に
一、絹織り出し六百疋、但し近年繭にて近江商人に受け渡し、または糸に仕候。
一、絹、数の儀はおおかた弐百五十疋程。
という古文書が残っていますから、近江商人との関係がわかります。
美作国と上野国のことのみ書きましたが、倭文神社の分布を眺めながら、いろいろ考えて頂ければと思います。それと、No117、118に掲げました諏訪神社の分布もあわせて眺めると違ったことが浮かんできます。 

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2005.08.04

古事記を読む   諏訪神社全国の分社から判ること

No118
もう一度分布表です。
平成11年10月現在 諏訪大社調べ
新潟 長野 東京 神奈川 埼玉 群馬 千葉 茨城 栃木 山梨
1658 1219  94  98  338  438  151  83  72  196

宮城 福島 岩手 青森 山形 秋田 三重 愛知 静岡 岐阜
36  185  24  15  86  57  42  105  171  151

福井 富山 京都 大阪 兵庫 奈良 滋賀 和歌山 鳥取 島根
33  297  16  16  50  11  24  24  31  62

岡山 広島 山口 徳島 香川 愛媛 高知 福岡 大分 佐賀
69  43  34  36  22  23  24  71  25  29

熊本 長崎 宮崎 鹿児島 北海道 沖縄
65  11   37   129   7   0

① 一番に気がつくことは、長野より新潟の方が多いということです。両県とも他府県より多いのがわかります。ミシジグの神は、地元の神さんではなく、はじめは、新潟県に上陸した神でしょう。それから、何年かかって、諏訪湖の地に移動したかわかりませんが、なにか諏訪には素晴らしいものがあったのでしょう。
② 現在の絹の三大産地は、群馬、埼玉、福島です。
③ ②に続く県は、千葉、山科、静岡、富山、岐阜です。

次の表をごらんください。全国にある織物の団体名です。
都道府県名 事業実施主体名
山形    鶴岡絹人繊織物構造改善工業組合  /米沢織物工業組合
福島    福島県絹人繊織物構造改善工業組合
群馬    桐生織物協同組合 /群馬県生絹織物協同組合
埼玉    埼玉絹人繊織物工業組合
東京     八王子織物工業組合
神奈川    神奈川県織物工業組合/十日町織物工業協同組/
新潟   十日町織物工業協同組合 /小千谷織物同業協同組合 /五泉織物工業協同組合
山梨   山梨県絹人繊織物工業組合
岐阜   岐阜県絹人繊織物工業組合
富山   富山県南部絹人繊織物構造改善工業組合
石川   小松織物工業協同組合 /石川県織物工業協同組合
福井   福井県絹織物工業協同組合/春江ちりめん協同組
滋賀   浜縮緬工業協同組合
京都   西陣織工業組合/丹後織物工業組合
兵庫   兵庫県絹人絹織物工業組合
福岡      博多織工業組合

鹿児島と長野を除くと略、二つの表は一致します。現在、絹に携わっているかたは、紀元前からのつながりがあると考えていいと思います。
④ 新潟県は、何故、三つの団体に分れているのでしょうか? 加入している人が多いということでしょうか? 調べていません。
④ 絹は、群馬、埼玉、福島で昔も作られていたと思われます。それは、織物の神である、倭文神を祭る倭文神社が、全国に14社残っています。このことは、別に書こうと思います。この地方で、作った絹を日本中に売っていたのではなく、中国を介して、ヨーロッパに売っていた可能性があります。多くの人が、この商売に携わったと思われますが、諏訪神社の分布が多いところは、その地を通過して絹を運んでいたのではないかと思います。一番のメインは、九州に運んでいたのではないかと推察しています。
⑤ 近畿地方と瀬戸内海の各府県をみてください。全部、諏訪神社が少ないです。このルートは、諏訪神社と別の人たちが絹を運んでいたと推察しています。
まだ、全部調べていませんが、このルートの近くで発掘される古墳からは、漢鏡が出土していますから、中国の漢の時代に、日本に渡来していた人の可能性があります。勿論、漢人から信頼されて漢鏡を貰った人とも考えられますが、漢人が関与していたと推察して良いと思います。
⑥鹿児島だけが多いのは、どのように考えたらいいでしょうか? 海のルートがあったということでしょうか? 追求したい点です。 

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2005.08.02

古事記 諏訪神社全国の分社

No117
新潟 長野 東京 神奈川 埼玉 群馬 千葉 茨城 栃木 山梨
1658  1219  94  98  338  438  151  83  72  196
宮城 福島 岩手 青森 山形 秋田 三重 愛知 静岡 岐阜
36  185  24  15  86  57  42  105  171  151
福井 富山 京都 大阪 兵庫 奈良 滋賀 和歌山 鳥取 島根
33  297  16  16  50  11  24   24  31  62
岡山 広島 山口 徳島 香川 愛媛 高知 福岡 大分 佐賀
69  43  34  36  22  23  24  71  25  29
熊本 長崎 宮崎 鹿児島 北海道 沖縄
65   11   37   129   7    0

上の表は、No112の③において、「建御名方神は、伯耆と信濃の間を行き来していたことになります。そして、逃げるときには、こうした人々の支援があって本拠地である諏訪大社まで辿りつきました」と書きましたものの、根拠がありません。伯耆国と信濃国の間には、建御名方神を祭った諏訪神社が無数にあります。諏訪大社が、いつ出来たのかわかりませんが、全国の諏訪神社は、諏訪大社ができた後にできたのではないでしょうか。 このことが正しいかどうか知るために、全国に分布する諏訪神社を調べました。

諏訪神社だけが、ぽつんとできるはずはありません。やはり、何らかの形で、諏訪大社と関係がある人が、其の土地に住みつき、その後、諏訪神社を作ったと思われます。無くなるときは、二通りになります。諏訪神社と関係ある人が、全く居なくなり、神社を守る人が居なくなった場合。何らかの圧力が加わり、神社を祭ることが出来なくなった場合。後者は、近いところでは、例えば、明治になったときに、政府の力で、8つあつた神社が、1つに統合されたりしました。代表の神社の名前は残りましたが、他の神社の名前はなくなりました。運がよければ、摂社とか、末社の名前で、代表の神社の境内に、小さな祠の形で残りました。
上の表は、建御名方神がいた時代の数字ではありません。長い年月の間に、新しくできたり消滅したりしていますから、正確には、判断に使うことは出来ないかもしれませんが、大まかな傾向はつかめるのではないかと思います。
建御名方神は、自分でも力の強さでは自信があったのに、相手の力は、それ以上でしたから、逃げても直ぐに捕まるはずですが、捕まらなかったということは、助ける人がいたと考えても悪くはありません。助けるとしますと、見知らぬ人は誰も助けません。知っていてもなかなか助けません。人間利害が絡んだり、恩を受けていますと助けますから、建御名方神と助けた者のあいだには、そのようなものがあったと考えます。
大昔は、どういう経過があって、山の中とか海際に住んでいたか判りませんが、石器時代の集落の跡が、あちこちで見つかっています。考え方としては、ある土地に住んでいた人が、そこを基点にして、どんどん移り住んだとも云えますが、別々に住んでいたかも知れません。動物が自分のテリトリーの範囲でのみ、生きているようにです。なにかと出来事があって、その範囲内で生きていくことが出来なければ、産む人数を減らして乗り切ります。それでも、食料が少なくなる、寒くなるなどの環境が厳しくなれば、移動することになります。このようなことが無ければ、自分のテリトリー内で過ごします。たまたま隣村に、優れたものがあるときは、ほしくなります。奪い取るか、向こうがほしがるものと交換になります。頻繁に行き来しますと、道が生まれます。
道を介して、品物と人が行き来します。今でいう商売になります。建御名方神は商売をしていたのではないでしょうか?
伯耆と諏訪のように遠くても商売はしていたのだということを説明するために、無い知恵を絞ってここまで、書いてきましたが、忘れていました。
 三内丸山遺跡では、北海道産の黒曜石・岩手県久慈産のコハク・秋田県産のアスファルト・新潟県姫川産のヒスイなど遠隔地との交流を示す遺物も出土していました。もう一つ挙げますと、岡山県北部の奥津町久田堀ノ内遺跡では、整理箱にして100箱をこえる大量の縄文晩期前葉(約3000年前)の土器・石器・玉等の遺物が発見されています。この中には、東北~北陸・関東・近畿・九州地方との関わりを示す土器や北九州産の可能性のある玉のほか、新潟県姫川産のヒスイ、香川県産のサヌカイト、島根県隠岐島産の黒曜石などが含まれています。建御名方神は紀元前160年頃のことですから、伯耆と諏訪間など、交流は当然あったことになります。
問題は、何を運んでいたかということになります。候補としては、一番に漆、絹、鉄、水銀などが挙げられます。物質も諏訪から伯耆まで運んだだけではありません。伯耆を基点にして、中国そして、世界に向けて輸出をしていたのではと考えています。
漆は、平成13年に、北海道・南茅部町の垣ノ島B遺跡にて、9000年前のものが見つかりました。これは、中国の7000年前のものより、古く、日本の英語名のJAPANが、辞書を引くと、一番に漆があるところを見ると、漆は日本が原産地かもしれません。絹の原産地は中国ということになっています。絹は残りませんので、遺跡から発掘される例は少なく、絹に関する書物もおおくありません。エルネスト・パリゼー著の「絹の道」という本がありますが、原著は1862年に書かれた古いもので、3世紀以前のことも書かれていますが、詳しくはありません。日本では布目順郎氏が、詳しく絹のことを研究されていますが、日本の遺跡で見つかったものは、すべて、中国のものであると書いておられます。私は、確たる証拠はありませんが、逆ではないかと思っています。それどころか、日本の絹は、始めは、所謂、北の絹の道を通ってではなく、中国の雲南省、ビルマ、インドを通って、ヨーロッパまで運ばれていたのではないかと想像しています。
鉄も良質のものは、日本から中国へ輸出されたのではないか・・・。水銀は、全く調べていませんが、水銀に関する神社は相当多く分布しています。ずっと、後のことになりますが、空海が最澄と一緒に遣唐使として、中国へ渡りました。最澄は、国費で行きましたが、空海は自費渡航でした。その3~4年間は、空海がどこにいたか判らないことになっています。四国で修行していたなども読んだような気がしますが、旅費の工面として水銀の採取をしていたのではないかと思っています。空海は、膨大な経典を持ち帰っています。中国に残るように云われたぐらいですから、これらの経典は、無料で頂いたことも考えられますが、帰国後、最澄から貸してほしいと依頼していますから、最澄はそれほど、持ち帰らなかったのかも知れません。
水銀は、中毒で有名です。どのような症状になるのか知りませんが、毒性のあるものは、少量を使うと薬になるはずです。秦の始皇帝が、徐福に不老長寿の薬を探してくるように命じたという伝説がありますが、それを求めて日本に来たのであろうという伝説もいっぱいです。意外と水銀は不老長寿の薬かもしれません。このように考えていきますと、日本から輸出できるものは他にもあると思います。
建御名方神が諏訪から、運んでいたと仮定しますと、漆、鉄、水銀は除去されます。州絹は現在、諏訪にはありませんが、周りにはいっぱいあります。このことについては、改めてかくことにします。
諏訪神社全国の分社の分析をするつもりが、とんでもない話になりました。
もう一度、次回に挑戦したいと思います。

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