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2005.08.02

古事記 諏訪神社全国の分社

No117
新潟 長野 東京 神奈川 埼玉 群馬 千葉 茨城 栃木 山梨
1658  1219  94  98  338  438  151  83  72  196
宮城 福島 岩手 青森 山形 秋田 三重 愛知 静岡 岐阜
36  185  24  15  86  57  42  105  171  151
福井 富山 京都 大阪 兵庫 奈良 滋賀 和歌山 鳥取 島根
33  297  16  16  50  11  24   24  31  62
岡山 広島 山口 徳島 香川 愛媛 高知 福岡 大分 佐賀
69  43  34  36  22  23  24  71  25  29
熊本 長崎 宮崎 鹿児島 北海道 沖縄
65   11   37   129   7    0

上の表は、No112の③において、「建御名方神は、伯耆と信濃の間を行き来していたことになります。そして、逃げるときには、こうした人々の支援があって本拠地である諏訪大社まで辿りつきました」と書きましたものの、根拠がありません。伯耆国と信濃国の間には、建御名方神を祭った諏訪神社が無数にあります。諏訪大社が、いつ出来たのかわかりませんが、全国の諏訪神社は、諏訪大社ができた後にできたのではないでしょうか。 このことが正しいかどうか知るために、全国に分布する諏訪神社を調べました。

諏訪神社だけが、ぽつんとできるはずはありません。やはり、何らかの形で、諏訪大社と関係がある人が、其の土地に住みつき、その後、諏訪神社を作ったと思われます。無くなるときは、二通りになります。諏訪神社と関係ある人が、全く居なくなり、神社を守る人が居なくなった場合。何らかの圧力が加わり、神社を祭ることが出来なくなった場合。後者は、近いところでは、例えば、明治になったときに、政府の力で、8つあつた神社が、1つに統合されたりしました。代表の神社の名前は残りましたが、他の神社の名前はなくなりました。運がよければ、摂社とか、末社の名前で、代表の神社の境内に、小さな祠の形で残りました。
上の表は、建御名方神がいた時代の数字ではありません。長い年月の間に、新しくできたり消滅したりしていますから、正確には、判断に使うことは出来ないかもしれませんが、大まかな傾向はつかめるのではないかと思います。
建御名方神は、自分でも力の強さでは自信があったのに、相手の力は、それ以上でしたから、逃げても直ぐに捕まるはずですが、捕まらなかったということは、助ける人がいたと考えても悪くはありません。助けるとしますと、見知らぬ人は誰も助けません。知っていてもなかなか助けません。人間利害が絡んだり、恩を受けていますと助けますから、建御名方神と助けた者のあいだには、そのようなものがあったと考えます。
大昔は、どういう経過があって、山の中とか海際に住んでいたか判りませんが、石器時代の集落の跡が、あちこちで見つかっています。考え方としては、ある土地に住んでいた人が、そこを基点にして、どんどん移り住んだとも云えますが、別々に住んでいたかも知れません。動物が自分のテリトリーの範囲でのみ、生きているようにです。なにかと出来事があって、その範囲内で生きていくことが出来なければ、産む人数を減らして乗り切ります。それでも、食料が少なくなる、寒くなるなどの環境が厳しくなれば、移動することになります。このようなことが無ければ、自分のテリトリー内で過ごします。たまたま隣村に、優れたものがあるときは、ほしくなります。奪い取るか、向こうがほしがるものと交換になります。頻繁に行き来しますと、道が生まれます。
道を介して、品物と人が行き来します。今でいう商売になります。建御名方神は商売をしていたのではないでしょうか?
伯耆と諏訪のように遠くても商売はしていたのだということを説明するために、無い知恵を絞ってここまで、書いてきましたが、忘れていました。
 三内丸山遺跡では、北海道産の黒曜石・岩手県久慈産のコハク・秋田県産のアスファルト・新潟県姫川産のヒスイなど遠隔地との交流を示す遺物も出土していました。もう一つ挙げますと、岡山県北部の奥津町久田堀ノ内遺跡では、整理箱にして100箱をこえる大量の縄文晩期前葉(約3000年前)の土器・石器・玉等の遺物が発見されています。この中には、東北~北陸・関東・近畿・九州地方との関わりを示す土器や北九州産の可能性のある玉のほか、新潟県姫川産のヒスイ、香川県産のサヌカイト、島根県隠岐島産の黒曜石などが含まれています。建御名方神は紀元前160年頃のことですから、伯耆と諏訪間など、交流は当然あったことになります。
問題は、何を運んでいたかということになります。候補としては、一番に漆、絹、鉄、水銀などが挙げられます。物質も諏訪から伯耆まで運んだだけではありません。伯耆を基点にして、中国そして、世界に向けて輸出をしていたのではと考えています。
漆は、平成13年に、北海道・南茅部町の垣ノ島B遺跡にて、9000年前のものが見つかりました。これは、中国の7000年前のものより、古く、日本の英語名のJAPANが、辞書を引くと、一番に漆があるところを見ると、漆は日本が原産地かもしれません。絹の原産地は中国ということになっています。絹は残りませんので、遺跡から発掘される例は少なく、絹に関する書物もおおくありません。エルネスト・パリゼー著の「絹の道」という本がありますが、原著は1862年に書かれた古いもので、3世紀以前のことも書かれていますが、詳しくはありません。日本では布目順郎氏が、詳しく絹のことを研究されていますが、日本の遺跡で見つかったものは、すべて、中国のものであると書いておられます。私は、確たる証拠はありませんが、逆ではないかと思っています。それどころか、日本の絹は、始めは、所謂、北の絹の道を通ってではなく、中国の雲南省、ビルマ、インドを通って、ヨーロッパまで運ばれていたのではないかと想像しています。
鉄も良質のものは、日本から中国へ輸出されたのではないか・・・。水銀は、全く調べていませんが、水銀に関する神社は相当多く分布しています。ずっと、後のことになりますが、空海が最澄と一緒に遣唐使として、中国へ渡りました。最澄は、国費で行きましたが、空海は自費渡航でした。その3~4年間は、空海がどこにいたか判らないことになっています。四国で修行していたなども読んだような気がしますが、旅費の工面として水銀の採取をしていたのではないかと思っています。空海は、膨大な経典を持ち帰っています。中国に残るように云われたぐらいですから、これらの経典は、無料で頂いたことも考えられますが、帰国後、最澄から貸してほしいと依頼していますから、最澄はそれほど、持ち帰らなかったのかも知れません。
水銀は、中毒で有名です。どのような症状になるのか知りませんが、毒性のあるものは、少量を使うと薬になるはずです。秦の始皇帝が、徐福に不老長寿の薬を探してくるように命じたという伝説がありますが、それを求めて日本に来たのであろうという伝説もいっぱいです。意外と水銀は不老長寿の薬かもしれません。このように考えていきますと、日本から輸出できるものは他にもあると思います。
建御名方神が諏訪から、運んでいたと仮定しますと、漆、鉄、水銀は除去されます。州絹は現在、諏訪にはありませんが、周りにはいっぱいあります。このことについては、改めてかくことにします。
諏訪神社全国の分社の分析をするつもりが、とんでもない話になりました。
もう一度、次回に挑戦したいと思います。

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