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2005.09.30

古事記を読む  猿女の君

No140
原文 
 故爾詔天宇受賣命。此立御前所仕奉猿田毘古大神者。專所顯申之汝送奉。亦其神御名者。
汝負仕奉。是以猿女君等。負猿田毘古之男神名而女呼猿女君之事是也
訳文
 ここに天宇受賣命に詔りたまいしく、「この御前(みさき)に立ちて仕へ奉りし猿田毘古大神は、專ら顯わし申せし汝(いまし)送り奉れ。また、その神の御名は、汝負いて仕へ奉れ」とのりたまいき。ここをもちて猿女君等、その猿田毘古の男神の名を負って、猿女君と呼ぶ事これなり。

考えたこと
① この二行の文の主語はなにでしょうか? 猿田毘古大神が何者であるかを天宇受賣命に聴きにやらしたのは、天照大御神と高木神です。ここも同じでしょう。たま、「御前」は、天照大御神の御前であれば、「おんまえ」でしょうが、この前の部分に「岬」の意味が使われていますから、岬でしょう。猿女君等の「等」の意味がわかりません。この部分全体が、前の文章と全く繋がりません。天宇受賣命に猿田毘古大神を送っていくように命令しています。どこへ送って行くのでしょうか? 意味が繋がりません。意味がつながらないということは、間の文章が抜けているのでしょう。抜けているのに、辻褄が合うように訳するととんでもない間違いをします。解らないままの方が正確だと思います。もう一度、私なりの訳を書きます。
天照大御神と高木神は、天宇受賣命に云われました。「この岬に立って仕え奉っている猿田毘古大神は、專ら明らかに申すようにした汝が送り奉りなさい。また、其神御名は汝が責任を負うてこれからも猿女君等に仕え奉りなさい」 猿田毘古の男神名を負うて 女(天宇受賣)を猿女君と呼ぶ事の是理由です。

原文
故其猿田毘古神坐阿邪訶【此三字以音。地名】時。爲漁而。於比良夫貝【自比至夫以音】其手見咋合而。沈溺海鹽。故其沈居底之時名謂底度久御魂【度久二字以音】其海水之都夫多都時名謂。都夫多都御魂【自都下四字以音】其阿和佐久時名謂阿和佐久御魂【自阿至久以音】

訳文
 さて、其の猿田毘古神が阿邪訶(あざか)に坐ましたとき、漁をしていると、比良夫貝に、その手を食われて、海で溺れ沈んでしまいました。その時底に沈んでいる時の名を底度久(どく) 御魂といい、
底どく御魂=そこどくみたまといい、海水に立つ泡の名をつぶたつ御魂といい、その泡の裂けるときの名をあわさく御魂という。
考えたこと
① この部分は、この前の文章となんら関係ありません。意味不明です。前後になにか文章があったのでしょう。
② この部分は、日本書紀にはありません。猿田毘古神のことは書いてありません。猿田毘古神の変わりに、岐神(ふなとのかみ)のことが書かれています。日本書紀の作者は、猿田毘古神のことは書きたくなかったようです。
③ 書きたくないのであれば、書かなくてもいいのですが、古事記に書いてあるので、この文を入れることによって、古事記はなにを言いたいのかわからなくしただと思います。このように書きながら、なんだか最近の自分は、少々ひねくれているなとも思っています。しかし、考えるほど、私の推理は正しいような気になります。


於是送猿田毘古神而。還到。乃悉追聚鰭廣物。鰭狹物以。問言汝者天神御子仕奉耶之時。諸魚皆仕奉白之中。海鼠不白。爾天宇受賣命謂海鼠云。此口乎。不答之口而。以紐小刀拆其口。故於今海鼠口拆也。是以御世嶋之速贄獻之時。給猿女君等也。

翻訳
ここにおいて、猿田毘古神を送って還(かえり)到りました。
(猿女の君は) 鰭廣物、鰭狹物を集めて、「お前達は天つ神の御子に仕え奉る?」問うた時に、
諸魚の皆が仕て奉つると言う中で、海鼠(なまこ)は答えなかった。天宇受賣命は海鼠に
「この口は、答えられぬ口か」といい、海鼠の口を小刀で切り落としてしまった。
現在、海鼠の口が裂けているのはそう言うわけである。
このことがあって、この後ずっと、海からの貢物は猿女の君等が賜るようになった。
考えたこと
① この部分は、筋が通っています。
② ただ、どこへ送って行ったか書かれていません。本当は書いてあったのでしょう。阿邪訶という地名が、伊勢らしいですから、猿田毘古神の役目が終ってから、伊勢に送っていったということでしょう。そして、二人は結婚をして、伊勢神宮で、海からの献上物を扱っていた??

こんなストーリにしますと、全体の流れはよくなります。

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2005.09.28

古事記を読む 天孫降臨---2

No139
故爾詔天津日子番能迩迩藝命而。離天之石位。押分天之八重多那【此二字以音】雲而。伊都能知和岐知和岐弖【自伊以下十字以音】於天浮橋宇岐士摩理蘇理多多斯弖【自宇以下十一字亦以音】天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣【自久以下六字以音】故爾天忍日命、天津久米命二人取負天之石靭。取佩頭椎之大刀。取持天之波士弓。手挾天之眞鹿兒矢立御前而仕奉。
故其天忍日命【此者大伴連等之祖】天津久米命【此者久米直等之祖也】於是詔之。此地者向韓國。眞來通笠紗之御前而。朝日之直刺國。夕日之日照國也。故此地甚吉地詔而。於底津石根宮柱布斗斯理。於高天原氷椽多迦斯理而坐也。
翻訳
ここに天津日子番能迩迩藝命に詔りたまひて、天の石位(いはくら)を離れ、天の八重たな雲を押し分けて、イツのチワキチワキて、天の浮橋にウキジマリタタシテて、竺紫の日向のの高千穗のクジフルタケに天降り坐した。ここに天忍日命、天津久米命の二人、天の石靭(いわはぎ)を取り負い、頭椎(くぶつち)の大刀を取り佩き、天の波士(はじ) 弓を取り持ち、天眞鹿兒矢(あまのまかこや)を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。
その天忍日命〔これは大伴の連の祖〕天津久米命〔これは久米直等の祖なり〕ここに詔りたまいて、「この地は韓國に向いて、笠紗の御前を眞來(まき)通って、朝日の直刺(たださ)す國、夕日の日照國なり。故此地甚(いと)吉(よ)き地」詔りたまいて、於底つ石根に宮柱フトシリ、於高天原に氷椽(ひぎ)タカシリて坐(いま)すなり。

考えたこと
① 古事記の初めのところに、「天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神【訓高下天云阿麻下此】」という文章があります。
私流に読みますと、「天(テン)と地ができて初めのころ、高天原に、成し遂げながら(平定しながら)やってきた神の名は天之御中主神(テンノミナカヌシ)です。
【訓高下天云阿麻下此】の部分は、註です。高天原の「高」の次の「天」は「阿麻アマ」とい読むように、以下同様ですとでもなるでしをょうか?
その少し後のところで、国を作るときに、「天つ神諸の命が、「天の沼矛」を渡して」という文章があります。この部分は註が有りませんから、この部分の天という字は、テンと読むのだと思います。テン(滇)から持参した沼矛という意味になります。
この号には、いっぱいの「天」があります。書き出しますと、天津日子番能迩迩藝命、天の石位、天の八重たな雲、天の浮橋、天忍日命、天津久米命、天の石靭、天の波士弓になります。
三つにぶんるい出来ます。人名、高天原の光景、道具です。人は天孫族をあらわすと思います。天津の人が住む高原を高天原といい、その中の字はアマと読むようにと註がありましたから、人名も高天原の光景も「アマ」と読むのだと思います。道具は、滇からの持参の品で、「テン」と読むのだと思います。
② 「イツのチワキチワキて、天の浮橋にウキジマリタタシテて、竺紫の日向の高千穗のクジフルタケに天降り坐した」の部分は意味不明です。岩波文庫では、カタカナの部分を漢字に直して、「稜威の道別き道別きて、天の浮橋にうきじまり、そり立たして、竺紫の日向の高千穗のくじふる嶺」と読んでいます。この部分の意味が日本書紀の作者も理解できなかったと見えて、「自?日二上天浮橋」(?の字は、木偏に患)とあり、いよいよ解らないことが書いてあります。古事記の作者はしてやったりと喜んでいるでしょう。なにかが隠されているのだと思います。クジフルタケを倉野氏は、くじふるという名前の山だと解釈しておられます。くじ触峰という山の名前なども日本書紀には見えますが、益々理解困難な文章になっています。日本書紀の作者は、消すわけにも行かず、苦心した跡を見ることが出来ます。この部分宿題です。
③「竺紫の日向の高千穗の」の表現は、古事記において、イザナギが、黄泉の国から逃げ帰って、禊をするシーンにも出てきます。
「到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐【此三字以音】原而」多くの書物では、この文章は、筑紫の日向の橘小門という所の阿波岐原と、すべて地名をならべたものと解釈しています。現在では、地名のない所など無いほど、山の中でも地名が付いていますが、当時は、地名など殆ど無かったと思われます。あちこちを調査して回った稗田阿礼は、地名のないところでは、その場所を言葉で表現したと思われます。
竺紫は尽くすところです。大山は、当時ブナで覆われていました。麓に来るとブナ林は尽きて石ころが多いところになります。そして、日当たりの良い、橘の木が門のようになったところを潜ったところに展開する阿波岐原となり、どこにも地名はありません。
④ どのような所に降臨したかといいますと、勿論地名はありませんでした。そこで、詳しく説明しています。「この地は韓國に向いて、笠紗の御前を眞來(まき)通って、朝日の直刺(たださ)す國、夕日の日照國なり。故此地甚(いと)吉(よ)き地」
この土地は、韓国に向いています。(日本海に面しています)  笠紗は、笠の形をした砂地の岬(御前)が真北にあって、朝日の直ぐに刺す國、夕日の日照國です。

鳥取県大栄町に高千穗という地名があります。ここから、大山を見ますと、いっぱい尖った部分が見えるところだから地名が付けられたと思われます。この位置に立って、この土地を表現しますと、韓国に向かっており、北には北条砂丘があります。砂山は笠のように見えますから、笠砂です。ニニギは、ヒルゼン高原にいました。ここは、千メートル級の山に囲まれた盆地ですから、朝日がでても、直ぐには、陽は刺してくれません。太陽が、西に傾くと山に隠れて夕日が照る景色は全く見られません。蒜山高原に住んだものでないと判らないことです。稗田阿礼は、蒜山高原の住民でした。800年ほど前のニニギは、きっと、「故此地甚(いと)吉(よ)き地」と云ったであろうと、稗田阿礼は代弁しただと思います。
高千穂のあるところは、昔は久米郡といいました。天津久米命が住んでいたところです。

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2005.09.24

古事記を読む 天孫降臨

No138
爾天兒屋命、布刀玉命、天宇受賣命、伊斯許理度賣命、玉祖命并五伴緒矣。支加而。天降也。於是副賜其遠岐斯【此三字以音】八尺勾璁鏡。及草那藝劍。亦常世思金神、手力男神、天石門別神而。詔者。此之鏡者專爲我御魂而。如拜吾前伊都岐奉。次思金神者取持前事爲政。
此二柱神者。拜祭佐久久斯侶。伊須受能宮【自佐至能以音】次登由宇氣神。此者坐外宮之度相神者也。次天石戸別神。亦名謂櫛石窓神。亦名謂豐石窓神。此神者御門之神也。次手力男神者坐佐那那縣也。故其天兒屋命者【中臣連等之祖】布刀玉命者【忌部首等之祖】天宇受賣命者【猿女君等之祖】伊斯許理度賣命者【鏡作連等之祖】玉祖命者【玉祖連等之祖】
翻訳
 ここに天兒屋命、布刀玉命、天宇受賣命、伊斯許理度賣命、玉祖命併せて五人の供が緒を支えて天降らしたまいき。ここにその招(お)きし八尺(やさか)の勾玉、鏡、草薙剣、又常世の思金神、手力男神、天の石門別神を副(そ)え賜りて、詔りたまいく、「この鏡はもはら我が御魂として、吾が前を拝(いつ)くがごとく斎きまつれ。次に思金神は前の事をとりもちて、政(まつりごと)をしたまえ」とのりたまいき。
この二柱の神はさくくしろ五十鈴宮に拝つき祭る。次に登由宇氣神(とようけ)。こは外宮の度相(わたらい)に坐す神なり。次に天の石戸別神。亦名は櫛石窓神(くしいわまど)と謂う。亦名は豐石窓神(とよいわまど)と謂う。此の神は御門(みかど)の神なり。次に手力男神は佐那那縣(さななかだ)に坐すなり。そして、その天兒屋命者【中臣連等之祖】。布刀玉命は【忌部首等之祖】
天宇受賣命は【猿女君等之祖】。伊斯許理度賣命は【鏡作連等之祖】。玉祖命は【玉祖連等之祖】。

考えたこと
① 五伴緒がよく判りませんが、閣僚の長官ということになるでしょうか? この五人は、高天原において、スサノオが大暴れをしたときに、危険を感じたアマテラスが、天岩戸に避難する騒動がありました。そのときに、岩戸の前の会議に出席した人たちです。
この五人の長官を支えたのが、思金神、手力男神、天の石門別神の三人です。
「ここにその招(お)きし八尺の勾玉、鏡、草薙剣」この部分が、浮いてきます。意味が不明です。この前後になにか文があったと思われます。
五人の役割を書いておきます。
 天兒屋命---------占いと祝詞を上げる
布刀玉命---------占いと祝詞を上げるおよび 諸々の準備
天宇受賣命------ 舞踊
伊斯許理度賣命-- 鏡を作る
玉祖命---------- 玉作り
天岩戸の騒動のときは、アマテラスを岩戸から引き出すための作戦で、この五人が選ばれたのかと思いましたが、そうではなく重要人物であったことになります。
② 思金神、手力男神、天の石門別神は、その次に重要な補佐役です。
  思金神は、政を受け持ちます。
手力男神は、書いてありませんが、軍事を司るのでしょうか?
天の石門別神は、別名が櫛石窓神。豐石窓神と云う。仕事は御門(みかど)の神とありますから、御所の門を守る兵隊でしょうか?
③ 「この二柱の神はさくくしろ五十鈴宮に拝つき祭る。次に登由宇氣神。こは外宮の度相(わたらい)に坐す神なり」は重要な部分です。
   五十鈴宮は伊勢神宮の内宮のことだと思います。この二柱の神と書かれている神は、思金神、手力男神と思われます。登由宇氣神は外宮に祭られています。
   古事記に書かれていることは、神話だと云われていますが、神話に実際にある地名とか、神社の名前が出てくるのはおかしいことになります。ここに出てくる神は、ヒルゼン高原にある神社にすべて祭られています。実際にあった話をどうして、このように神話の形にしなければならなかったか考える必要があります。
④ ただ、変なところもあります。この天孫降臨は、紀元前150年のころのことです。この時に、伊勢神宮に思金神、手力男神、登由宇氣神が祭られていると書いてあること自体がおかしいです。誰かが、書き換えたのかもしれません。

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2005.09.22

住友金属の株価

確か 9月8日だったと思いますが、新日鉄と住友金属と神戸製鋼所が、特許情報を互いに認め合う、クロスラスセンス契約の準備をしている記事が載っていました。この部分に要する費用を削減し世界の鉄鋼業界に負けないようにするためとありました。そこに製鉄会社のコメントとして、現在の株価は、業績は別にして、会社が持っている技術力だけを評価しても、現在の株価は低くすぎますとありました。

住友金属は1時、36円ぐらいのときがありました。会社は潰れたのと同じでしたが、どういうわけか潰れませんでした。
住金の株価を記します
2002年1月12日 38円
2003年2月11日 36円
2004年4月4日  154円
2005年4月18日 166円
2005年9月18日 293円
  形振りかまわない中国は、日本の鉄鋼株を買い占めることは可能な株価です。
日本人は、もっと、会社を正確に評価して、タンス預金やアメリカが印刷したドルばかりに投資をするのは、間違っているのではないでしょうか?  (そりゃ、好き好きですが)

住友金属の株価は、現在毎日のように、上がっていきます。多い日は1株で、15円も上がっています。何故、あがっているのでしょうか? 外国の人が買うことによって、上がっているのであれば、彼等は目標に達したら、売ることになるでしょう。現在の外国人の持ち株比率は、10.3パーセントです。この比率が、5%以下になるぐらいに、日本人が、住友金属の株を資産株として持たないと、住友金属の人は、おちおち会社運営をしておれません。
 住友金属の株を持っていた人は、資産が7倍以上に増えたことは、現在、配当は5円です。現在の株価で計算しても、1.5%以上になります。
ただ、一株あたりの純資産は100円です。現在の住友金属の資産を株数で割れば、一株当たり100円の値打ちの無い株を、現在の株主は300円近くだして購入していることになります。
中国でファンドを組んで、国民に広く投資をすすめますと、人口が多いだけに、日本の鉄鋼会社はすべて中国のものになります。今から、中国で工場を作るより、日本の会社を買収して、従業員はすべて中国人にしたら、中国にとっては、500円でも安いのではないでしょうか? 国が買い取ることも出来ると思います。
お前はアホかと言われるかもしれません。何分、経済のことは知りませんから。

先日、ホリエモンが、フジテレビを買収すると、散々非難されました。「お金があれば、なんでもしてもいいというのは間違っている」というようなことを、広島の亀井氏、テレビで相手の候補者を非難していましたが、日本人だからそんなことを云っておれますが、中国が尖閣諸島近辺で、我が物顔で行動していても、なに一つ行動取れません。
中国は、世界のルールに従って行動しているからです。強いものが勝ちです。
世界のルールを知っているホリエモンのような人が、これからは国会議員に必要になってくるのでは?

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2005.09.18

古事記を読む  猿田毘古神

No137
原文 
爾日子番能迩迩藝命將天降之時。居天之八衢而。上光高天原下光葦原中國之神於是有。故爾天照大御神、高木神之命以。詔天宇受賣神。汝者雖有手弱女人。與伊牟迦布神【自伊至布以音】面勝神。故專汝往將問者。吾御子爲天降之道。誰如此而居。故問賜之時。答白。僕者國神。名猿田毘古神也。所以出居者。聞天神御子天降坐故。仕奉御前而。參向之侍。
翻訳
 ここに日子番能迩迩藝命將、天降りする時、天の八衢(ヤチマタ)に居て、上は高天原を光(テラ)し、下は葦原中國を光らす神 是れに有り。故ここに天照大御神、高木神の命を以(モ)ちて、天(アメ)の宇受賣神(ウヅメノカミ)に詔(ノ)りたまわれた。「汝は手弱女人(タワヤメ)で有ると雖えども、伊牟迦布神(イムカフカミ)と面勝神(オモカツカミ)なり。故 專(モ)はら汝往(イ)って將に問う、『吾が御子の天降りする道を 誰ぞ此の如くに居る』ととへ。」とのり賜いました。
故 問い賜いし時、答えて白しました。「僕は國つ神。名は猿田毘古神也。出で居る者所以(ユエ)は、。天つ神の御子天降り坐すと聞いた故に、仕奉御前に仕え奉てまつろうと、參い向え侍ぶらう」と。

考えたこと
①「故爾天照大御神、高木神之命以」この部分が重要です。迩迩藝命が降臨する現場にいないのに、どうして、天照大御神、高木神が判ったのか不思議ですが、天宇受賣神に聞きなさいと命令しています。その場所にいないときは、このように間接的に命令しています。では、どこにいたのかと言いますと、福知山へ行っていたはずです。
五人のお供の中の宇受賣神に依頼しました。宇受賣神は天岩戸の前で、踊った神です。この時の役目と今回とはつながりがありません。
②「居天之八衢而」八は数が多いときに使われますが、実際に八つに道が分かれているところがあるのかもしれません。これを指摘できれば、いよいよ、高天原と降臨の地・高千穂が確定できますが、スサノオが、八俣の遠呂智を退治したところが、横田町の八方に道が通じていた八俣でしたから、同じ「ヤマタ」ですから、単に道が分かれていて間違いやすいので、道案内に来たと受け取ってもいいかもしれません。
③大勢に関係ありませんが、天の宇受賣神は、手弱女人ではあるが、伊牟迦布神と面勝神の両方の性格を持っているので、適任者だと判断されたことになります。どのような性格でしょうか?
④猿田毘古神が重要人物ですが、だれの説を読んでもなるほどと思われません。私は仮定の話しですが、上は高天原を光(テラ)し、下は葦原中國を光らす神 とありますから、光と大いに関係があって、天津神ではないことは確かです。光輝きながら現われた人が外にもいます。それは大物主神です。この神も正体不明のところがありますが、奈良の大神神社の祭神で、崇神天皇のときにも天皇の上に立ち、命令を下しています。
私はユダヤ人だと思います。ユダヤ人は神武東征のときにも、天皇の応援をしています。ユダヤ人は、常に自分の居る位置を知る方法をもっていたのと、お金として当時通用していた絹を持っていました。 
田村誠一氏は、やちまたの様子を次のように表現されています。
「やちまたで高天原や葦原の中ツ国を原の中ツ国を猿田彦が光らしていました。が光らしていました。これは鏡を利用して通信が行われていたことです。古代に現代人が創造もできない、通信網が全国に出来ていました。この問題を解く一つの鍵が鉄を鍛えて作った鏡の利用と考えられます。
ここに出てくるやちまたは道が各方面に分かれている所で、れに該当する所は鏡成(カガミナル)です。道を間違わないために、原の中ツ国を猿田彦が光らしていました。が道案内を引き受けました。
これから一行は蒜山高原の明連川を遡り、鏡成を経由して高千穂に下ったことが分かり
ます。一行は天の浮橋すなはち雲海が出ている、早朝に出発し明ッ神が連れ立って遡った川は明連川と名付けられました。明連川の北側の山は擬宝珠山で、天の浮橋の欄干に由来に由来している地名です。地名は紀元前150年の大ロマンを教えてくれます。

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2005.09.16

古事記を読む  天孫の誕生

No136
原文
爾天照大御神、高木神之命以。詔太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命。今平訖葦原中國之白。
故隨言依賜。降坐而知看。爾其太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命答白。僕者將降裝束之間。
子生出。名天迩岐志國迩岐志【自迩至志以音】天津日高日子番能迩迩藝命。此子應降也。
此御子者御合高木神之女。萬幡豐秋津師比賣命。生子。天火明命。次日子番能迩迩藝命
【二柱】也。是以隨白之。科詔日子番能迩迩藝命。此豐葦原水穗國者。汝將知國。言依賜。
故隨命以可天降。
翻訳
ここに天照大御神、高木神の命以って、太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命(ヒツギノミコ マサカツアカツ カチハヤヒ アメノホシホミミノミコト)に詔り賜れた。「今、葦原中国を平(コトム)け訖(ヲ)へぬと白(モウ)せり。故(カレ)、言依(コトヨ)さしたまひし随(マニマ)に、降りまして知らせ。」とのりたまひき。ここにその太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、答へ白したまひしく、「僕は降らむ装束しつる間に、子生れ出でつ。名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニギシクニニギシ アマツヒコヒコホノ ニニギノミコト)ぞ。この子を降すべし。」とまをしたまひき。此の御子は、高木神の女(ムスメ)、万幡豊秋津師比売(ヨロズハタトヨアキツシヒメノ)命に御合(ミアイ)して、生みませる子、天火明命(アメノホアカリノミコト)。次に日子番能邇邇芸命なり。是(ここ)を以ちて白したまひし隨に、日子番能邇邇芸命に詔科(ミコトオホ)せて、「此の豊葦原水穂国は、汝(イマシ)知らさむ国ぞと言依さし賜ふ。故、命の隨に天降るべし。」とのりたまひき。

①「天照大御神、高木神の命以って、」という表現は、天照大御神が直接命令しないで、言い渡したことになるでしょうか? 天照大御神は高天原には居られなかったのではないでしょうか?
②どうして、このように名前が長いのでしょうか? 天忍穗耳命が呼び名で、前の部分は、説明でしょうか? 太子は「日嗣の御子」です。「後継者である正しく勝ち吾れにも勝ち勝ちぬいて太陽より速い天忍穂耳命」と書かれた字句を使って並べてみました。どうやら、素晴らしいことを三つの表現を並べて強調したのでしょうか? 後継者であるなにごとにも勝る天忍穂耳命に言われました。「葦原中国は平定された報告がありました。以前から命令していたように、降りて知らしめなさい」
③天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命は、一層長くなりました。天忍穂耳命よりもっと、素晴らしいことを言いたかったのでしょうか? お手上げです。邇邇芸命(ニニギノミコト)という名前にします。
④天忍穂耳命の子供は、長男の天火明命と次男の日子番能邇邇芸命が生まれたことになります。そして、次男の邇邇芸命が、天下り、豊葦原水穂国を治めるように命令されます。

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2005.09.14

古事記を読む  大国主神の国譲り その3

No135
原文
是我所燧火者於高天原者神産巣日御祖命之登陀流天之新巣之凝烟【訓凝姻云州須】之八拳垂麻弖燒擧【麻弖二字以音】地下者於底津石根燒凝而栲繩之千尋繩打延爲釣海人之口大之尾翼鱸【訓鱸云須受岐】佐和佐和迩【此五字以音】控依而打竹之登遠遠登遠遠迩【此七字以音】獻天之眞魚咋也。
故建御雷神返參上。復奏言向和平葦原中國之状。
訳文
 この我が燧れる火は、高天原には、神産巣日の御祖命のトダル天の新巣の凝烟(スス)の八拳垂れるまで燒き擧げ、地の下は底つ石根に燒き凝らして、栲繩(タクナワ)の千尋繩(チヒロナワ)打延(ハ)へ、釣を爲(シテ)いる海人(アマ)の口大(クチオオ)の尾翼鱸(ヲハタスズキ)、さわさわに、控(ヒ)き依(ヨ)せ而、打竹のとををとををに、天の眞魚咋(マナグヒ)を獻る。
といいました。

ここには、コメントを書かないでください。


コメントが多過ぎて、コンピューターが動かなくなりました。【楽しい人生】は、閉鎖することになそうです。


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2005.09.12

古事記を読む  大国主神の国譲り その2

No134
原文
如此之白而。乃隱也。故隨白而。於出雲國之多藝志之小濱造天之御舍【多藝志三字以音】而。水戸神之孫櫛八玉神爲膳夫。獻天御饗之時。祷白而。櫛八玉神化鵜。入海底。咋出底之波迩【此二字以音】作天八十毘良迦【此三字以音】而。鎌海布之柄作燧臼臺以海蓴之柄作燧杵而。鑚出火云。
訳文
このように申して、直ぐに隠れました。そのように申しながら、出雲國のタギシの小濱に天の御舍を造って、水戸神の孫である櫛八玉神を膳夫に爲して、天の御饗を獻する時に、祷(ホ)き白(モウ)して、櫛八玉神を鵜に化して、海底に入って底のハニ(赤土)を咋い出して、天の八十毘良迦(ヤソビラカ)を作って、海布の柄を鎌(カ)って燧臼(ヒキウス)に作って、海蓴(コモ)の柄でもって燧杵(ヒキリギネ)を作って、火を鑚(キ)出して云います。


例によって、訳の判らない解説を加えます。
① 出雲國のタギシの小濱 タギシは多岸でしょう。 しかし、そんな日本語あったのでしょうか? 少なくとも多藝志は、音だけだと書いてありますから、地名ではないはずです。
問題は小濱です。地名や人の名前に、小濱や大濱はあるのに、その意味となりますと、辞書に載っていません。濱が小さいということは、どういうことでしょうか? 遠浅の海岸ですと、小浜になるかもしれません。
② 「天の御舍を造って」とあります。訳本では、御舍を神殿としていますが、その後ろに続く文章が関係あるとしたら、神殿で天の御饗を獻するのは、いいのですが、用意もすべてするとなるとおかしいことになります。出雲退社のホームページには、三十二丈の建物の想像図が掲載されています。階段がずっと続き、その上に神殿があることになっています。そのような上に神殿がありますと、毎日、大変です。又、風があったら、建物は揺れていることになるでしょう。ただ、奈良の香具山の南方に大管大寺の礎石が残っています。七重の塔だったと言われ、礎石の大きさからみますと、100mの高さはあったと思われます。奈良の東大寺の七重の塔も然りです。700年代ですと、高さ100mのものは存在したし、塔で倒れた物は無いそうですから、天の御舍も七重の塔のようなものだったかもしれません。しかし、私は、そうではなく高い部分は青森の三内丸山遺跡の六本の柱のようなものだと思います。柱の太さは、三内丸山遺跡のものより、出雲大社のほうが太く、しかも出雲大社は、その柱が三本に束ねてありました。
③ 「水戸神之孫櫛八玉神爲膳夫」水戸神は、港を司る神でしょう。膳夫は炊事係りです。
④ 「祷白而」祷は祈祷の祷ですから、お祈りをしながら。
⑤ 「櫛八玉神化鵜」以下がよく判りません。どうして、お祈りをしていたら、櫛八玉神は鵜に化身できるのか。どうして、海底の赤土でなくてはならないのか。天の八十平甍はどうも重要なものらしいですが、なぜ急にでてくるか。  燧臼と燧杵も大切なのでしょう。

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2005.09.10

古事記を読む 大国主神の国譲り

No133
原文
故更且還來。問其大國主神。汝子等事代主神、建御名方神二神者。隨天神御子之命。勿違白訖。故汝心奈何。爾答白之。僕子等二神隨白。僕之不違。此葦原中國者。隨命既獻也。唯僕住所者。如天神御子之天津日繼所知之。登陀流【此三字以音。下效此】天之御巣而。於底津石根宮柱布斗斯理【此四字以音】於高天原。氷木多迦斯理【多迦斯理四字以音】而治賜者。僕者於百不足八十[土+冏]手隱而侍。亦僕子等百八十神者。即八重事代主神爲神之御尾前而仕奉者。違神者非也。

翻訳 そこで、更に還(カエ)って来て、その大国主神に問われました。「汝が子等、事代主神、建御名方神の二人の神は、天つ神の御子の命の隨(マニマ)に違わないと申している。汝の心は奈何(イカニ)」 と問われました。ここに答えて申しました。「僕の子等、二神の申すように、僕も違いありません。此の葦原中國は、命に随って既に獻る也。ただ僕が住む所は、天つ神の御子の天津日繼を知られるように、之登陀流(トダル) 天の御巣として底津に石根を使った宮柱を布斗斯理(フトシリ)、高天原に於いて、氷木たかしりて、治めたまはば、僕は百足らずの八十クマ手に隠れて侍(サブラ)っています。また、僕の子等である百八十神は、すなわち八重事代主神、爲神の御尾前となって仕え奉まつります。違反する神はありません」と申しました。

①「天津日繼」の意味が判りません。大国主神らが、天つ津神から引き継いでいるが判るように というぐらいの意味でしょうか? その後の文も意味が不明です。どうやら立派な社を建てるらしいですが、何故立派だと天つ津神から引き継いだことになるのか判りません。
②「とだる天の御巣として」も意味が判りません。岩波文庫の注釈では、「とだる」は「富み足る」の意味であると。または、安藤正次は琉球語のテダ(太陽)を活用させたテダルの転で、太陽の照り輝く意とすべきであろうと記しています。こんな話は専門家に任せるとして、文の流れからすると、
  一目見ただけで、「天つ神の御子の天津日繼であることが判るように、」天の御巣を建てたいということでしょう。象徴的なというような言葉はどうでしょうか。要するに、日本語で「とだる」といったが、中国語には無かったのでしょう。
③ では、具体的にどのようなものだといいますと、これがまた、訳が判りません。
   於底津石根 宮柱フトシリ
於高天原 氷木タカシリ
上記のように並べてみますと、底津石根と高天原は場所のようです。宮柱と氷木は、物のようです。 フトシリとタカシリは、意味不明ですが、フトとタカに分けることが出来ます。
フトは 太い。 タカは 高い。 「於」を単純に、高天原に於いてと考えますと、高天原に於いて氷木を高くしとなります。これは意味が通りますが、底津石根に於いてとなりますと、底津石根はどこだということになります。判っているのは、宮柱と高天原だけということになります。
天の御巣を出雲大社だということにしますと、少しは進展します。といいますのは、古い言い伝えで、出雲の神殿は、「三十二丈」ありました。祖田浩一著 「古代出雲 巨塔の謎」(2002年8月15日発行)において、「この三十二丈というのは、桁外れに高すぎて、まず信ずることは、できない。常識から考えても問題外であろう」と書いています。江戸時代の「寛文の造替」以後は、八丈であり、それ以前の中古には、十六丈だったといわれていた。出雲大社本殿の指図である「金輪御造営図に記されていた通りの三本の柱を束ねて一本の柱にしたものが、1.5mのところから、出土し、その基礎は石で固められていました。この構造から考えますと、十六丈の建物は実際にあった可能性は大きいです。十六丈は48mほどになります。1031年以降だけで、記録にあるだけで、4回転倒していますから、それ以前を含めると、6~7回ぐらい転倒していることになるでしょう。現在の倍の高さぐらいでは、転倒しないのではないでしょうか? 「三十二丈」あった可能性があります。
「高天原 氷木タカシリ」の氷木の意味が判りませんが、高天原に届くぐらいに高くして ぐらいの意味に捉えることはできます。
 「於底津石根 宮柱フトシリ」の底津石根の部分が、困りものですが、底の石根は、底の石の基礎の上に、宮柱を太くしてと考えますと、どうにか、無理が通るように思えます。
④ 而治賜者。僕者於百不足八十[土+冏]手隱而侍。
この部分も意味不明です。而治賜者の部分は、訳本では、「治めたまはば」どころではありません。「僕者於百不足八十クマ手隱而侍」とは、山の上から見ると何本もの川がながれてクマデのような形をした所に隠れるように大人しくしています。こんな意味でしょう。治めるのは、オオクニヌシではないのでしょう。
⑤ 「亦僕子等百八十神者」は、一族が180人いたということでしょうか。それにしたら、「三十二丈」の神殿は大きすぎるような気がしますが、この馬鹿でかい建物は、神のためではなく、外国からやって来たときの目印ではないでしょうか? 
 オオクニヌシとスクナヒコナの神は、盛んに全国に、入植者を導入しましたから、大山に変わるものが必要だったのでしょう。
 神殿を建てた場所は、船が近づいてから見えるようにだと思います。その前の目標は、357mの高尾山だと思います。(高尾山は、全国に目印の山として、二等辺三角形に整形されて存在します) そして、先端に、日御崎と御の字をつけた岬があり、日御崎神社があります。
 このように考えますと、オオクニヌシは敗れはしましたが、いつかは復帰を願ったと思われますが、187社の式内社に囲まれ、身動きがとれ無かったのだと思います。

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2005.09.08

古事記 地名 竜王・竜王山

No132
昨年9月から「古事記の新しい読み方」と題して、毎日のように書いてきました。ほぼ、岩波文庫の「古事記」に沿って読んできました。ところが、最近の号は、古事記本文と離れて、倭文神社・諏訪神社・地名-神戸、ユダヤ人と地名などを書いています。「建御名方神の服従」で止まってしまっています。次は、愈々、「大国主神の国譲り」となるのですが、どうして、アマテラスに国を明け渡さなければいけないのか判りません。ある程度、その理由を掴めてから、「大国主神の国譲り」に入ろうと、いろいろ探ってきました。
 最後に、「竜王・竜王山」を扱って、「大国主神の国譲り」に掛かろうと思います。

竜は、空想の動物です。空想の動物の竜を日本人が使わないと単純に考えました。竜とくれば中国と思っていましたので、漢民族の「王」の象徴として、地名をつけ、山に名前を付けたと考えました。(もっとも、これも田村誠一氏のものです) 
もっとも、この名前が付けられたのは、紀元後になってからだと思います。
現在、この地名は何処にあるかといいますと、
① 奈良県天理市の長岳寺の東にあります。この辺りにある柳本古墳群の中に黒塚古墳(3世紀末~4世紀前半)が有ります。全長160mの前方後円墳は、近くにある崇神天皇や景行天皇の墳墓に比べては、小さいですが、三角縁神獣鏡が33枚も出たので有名です。
これについては、別の機会に書きますが、この鏡を副葬した墓の主は、漢族か又は、関係者だと思います。現在は想像の域に過ぎませんが、そのように考えないと辻褄が合いません。(私がかんがえている日本史と) 想像を膨らませますと、柳本一帯に住んでいた漢族の人は、崇神天皇をやっつけようと思いましたが、崇神天皇は、岡山県に避難していました。崇神天皇の妹の卑弥呼は、京都府の大江町で、アマテラスのお祭をしていました。ところが、難升米が、卑弥呼を人質にして監禁していました。調子に乗りましたが、ここで大きな戦があり、多くの墓が残りました。一方、岡山の崇神天皇のところでも、戦が続きましたから、大きな前方後円墳が作られました。造山古墳は、漢族の最後の古墳だと思われます。京都の椿井古墳でも、多くの三角縁神獣鏡が発見されました。地図を開いてみてください。椿井という地名が何処にあるかです。平城京から7~8kmの地点です。
木津川を挟んで、戦があったことでしょう。そして、天皇の一族は、負けて大和盆地に漢族の侵入を許したのかも知れません。すべて、想像です。
② 大阪府茨木市北側に竜王山があります。隣の市ですが、高槻市に安満宮山古墳で、が出土しています。安満宮山古墳の眼下を流れる淀川は数キロメートル上流で桂川、宇治川、木津川の椿井古墳に繋がっています。同じ高さの所に、大規模な高地性集落の古曾部遺跡が発掘されました。高地性集落も又、別の機会に述べますが、漢族と多いに関係があります。
③ 岡山県和気郡和気町にもあります。ここには、吉井川が流れています。この川を挟んで、戦が繰り返されたと思います。漢族は、天皇方より武器は断然、鉄器が多く強かったと思われますが、人数は少なかったのではないかと考えます。ここは、苗族の入植者が多く、漢族はてこずったのではないかと思います。その証拠に、福の字がつく地名が、沢山残っています。
④ このほか、山梨県の甲府市・甲斐市。山梨県中巨摩郡竜王町。滋賀県蒲生郡竜王町があります。これらの地でも、漢族との争いがあったはずです。
今後、調べれば、いくらでも発見できると思います。

漢族は、日本の絹をもとめて、紀元前から侵出していました。その一大拠点が、北九州だと思います。その総元締めが、吉野ヶ里遺跡のあったところだと思います。この拠点を叩かないことには、追いつきませんから、神武天皇は、熊本県に苗族を大量に呼び込み、屯田兵と食料の増産を行ったと思われます。その証拠が、熊本県に、神武天皇を祭った神社が多く、その内の半分は天草で占めています。そのほか、多い県は、広島・岡山・福岡です。神武天皇が、漢族と戦った跡と考えてもいいことになります。
日本書紀・古事記・魏志倭人伝にも書かれていませんが、中国は、国の政策として107年に日本に兵を差し向けたと思われます。その後、崇神天皇の征伐まで、日中戦争が続いたことになります。

随分、想像を交えながら、歴史の流れを書きました。調べてもらえれば判りますが、すべて、現在認められている資料を基に、組み立てています。
今後、退屈な古事記を読むことになりますが、時々、このような話も挟んでいきます。

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2005.09.06

古事記  福の字がつく地名 その3

No131
④日置川周辺には、福の字の付く地名は存在しない。
⑤湖山池周辺 福井2、
⑥千代川の本流には、福和田と高福のみ。 
千代川の支流では、宇戸川—福田、八東川—福本

⑦勝部川 ⑧加瀬蛇川 ⑨黒川 ⑩尾張川 ⑪甲川 ⑫下市川 ⑬宮川 ⑭阿弥陀川
⑮由良川 
⑦~⑮は、50000分の1の地図では、福の字の付く地名は存在しない。河口は潟を形成していなかったようである。
⑯塩見川—福部

兵庫県
① 蒲生川、②陸上川 ③岸田川 ④矢田川 ⑤竹野川 ⑥円山川
以上 福の字の付く地名を発見しない。
京都府
① 川上谷川 ②福田川 ③竹野川 ④野田川 ⑤由良川—福知山 ⑥伊佐津川
⑦野原川
⑤由良川—福知山を除いては、福の字の付く地名を発見しない。

これらの東である福井県は、調べていませんが、塩見川以東、兵庫県・京都府には、福族が入植しなかったことになります。

〇福の字のつく地名を調べるときに、ついでにその周りの地名も調べると別の発見ができます。福族は、稲作と養蚕を持ってきましたから、「田」の字のつく地名も多くなります。
〇福の字はつきませんが、吹浦は福岡、大分、山形にあります。
〇すべてでは有りませんが、福の字はつかないところは、漢民族と言うことになります。このほか、高地性集落・銅鐸・鏡の出土地、古墳などと組み合わせますと、「倭国大乱」の激戦地が浮かび上がります。

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2005.09.04

古事記を読む  福の字がつく地名 その2

No130
福浦と福良の地名は、中国の華南地方から、移民してきた人たちの拠点だと述べました。ここを中心に村が、発展していったのでは有りません。船の寄港地、即ち、つぎの所へ行くための水と食料の調達する所だと考えたいです。ここを経由して彼らは、どこへ行ったでしょうか? 彼らが持っていた技術は、養蚕と稲作です。
 私は、彼らが落ち着いた所では、「福」という字をつけたと思っています。それも、急に山の中に村を作ったのではなく、始めは、葦の茂っている潟で、直播の稲作を始めたと思います。「浦」は、普通、海岸線がカーブしているところにつけられているようです。河口であれば、「福江」となります。潟に流れ込む川を遡って、川の近くに村を形成して行ったとも考えられます。
全国の川すべてを調べますと、苗族の人たちが生活をしていたところが、判るはずです。
殆どの人は、魏志人伝にでてくる「奴国」は九州と思っておられますが、私は米子市の日野川一帯だと思っています。スサノオがオオクニヌシに大国をおさめるように命令しますが、大国は大国村のようなもので、この辺りを「是奴国也」と古事記は書いています。
そこで、一番に、日野川周辺を眺めてみます。
①  1.福原 2.福市 3.福岡 4.福成 5.福鎌 6.福永 
支流である野上川を遡りますと、福島 福居 福岡 上流の印賀川には、福寿実 
支流 東長田川には、福頼 福成? などが見えます。
島根県の伯太川 福富
上三行は、このような山の中で、稲作はおかしいですから、スサノオが鬼退治をした神話がありますが、私は「大呂」にあった製鉄所を攻撃したのだと思っています。この製鉄所は、其の前からあったはずです。当時の製鉄がどのような方法であったか判りませんが、盛んであった江戸時代の蹈鞴(タタラ)であれば、膨大な炭が必要です。自然風を利用した登り窯であれば、燃料である木が必要です。ここの福族(仮称)は、そのような仕事に携わったのではと想像しています。
② 淀江町---日野川の少し、東に位置する淀江は、潟であったはずです。
ここには、福岡がありますが、この辺りまで、潟であった可能性があります。ボーリングをすれば直ぐに判ることです。壷瓶山の麓に福頼と福井がみえます。
③ 鳥取・天神川—1.福庭 2.福田(加茂川) 3.福守(国府川) 4.福光(国府川) 5.福吉(鴨川) 6.福山(鴨川) 7.福富(北谷川) 7.福本(北谷川) 8.福吉(加茂川)
これだけ、多いとやはり、関係あることになります。
天神川の東に、東郷池があります。この周りには、福の字のつく地名は見えません。
福庭が近くですが、山の西側で、天神川によってできた土地です。ここには、波波伎神社があります。伯耆を連想させる神社名です。

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2005.09.02

古事記を読む  地名—福の字がつく地名

No129
田村誠一氏は、「福浦」の地名は、渡来の人たちが、船でやって来たときの港であり、その港を基点に、次々と移動するときの補給港だったと述べています。ニニギの命が、天孫降臨する時にしても、神武天皇が東征されるときも、誰が従ったかとか、誰が死んだとかは、問題になっていますが、一番大切なのは、後方支援である食料です。これなくしては、前に進むことはできません。
着眼は素晴らしいと思います。田村誠一氏は福浦地名をいくつか挙げて説明しています。
渡来人はどこから来たかが問題です。中国の福建省の地図(1:740000)を求めて、探しますと、福州市、福安市、福瑤列島を見つけ,インターネットで、寧徳市の福鼎があり、福清という小さな町が見つかります。ヒットした記事の内容に、「日本で犯罪を起こし、逮捕された中国人の約9割が福建省出身で、しかも、福建省出身者の犯罪者の約9割が福清から日本に密入国した人です。つまり、日本で犯罪を起こした中国人の約8割が福清出身のものです」とあります。この記事の真偽は確かめていませんが,この記事から推理しますと、日本にやってくる中国人は,現在でも、大部分は福建省出身と思われます。昔から、伝統的なものと思われます。
漢の時代には,福建省は、閩越とよばれ、狭い地域であるにも関わらず、どの政府からも侵略されなかったと言われています。漢がベトナムまで支配したときでも、徹底して交戦し、従わなかったと言われている種族に、苗族があります。現在の雲南省に勢力が強かったと言われています。当時、同じように、従わなかったのは、朝鮮半島の新羅、海南島に住んでいた人も同じ苗族であることが、前漢書に記されています。この人たちに対する圧迫は、秦の始皇帝の頃から、始まり、紀元前141年には、絹の生産をしていた海南島は前漢に攻略されました。
従いまして、逃げ場をなくした人々は、日本にやって来たと思われます。この人たちの特徴は、養蚕の技術と稲作の技術を持っていたことです。「福浦」という地名が、ころ良い距離に分布しているところから考えますと、点でばらばらにやってきたのではなくて、日本へ組織的に呼び寄せる人が居たのではないかと思われます。
その人は、誰かといいますと、全国的に、神社で祭られているのは、天照大神と神武天皇です。神武天皇は、熊本県が、一番多く、そのうちの大半が、天草に集中すると云うことは、ここを基点にして、苗族の人を呼び寄せたと思われます。
 全国に存在する「福浦」は、次の通りです。
1. 青森県青森市大字飛鳥字福浦
2. 青森県五所川原市大字梅田字福浦
3. 青森県むつ市川内町福浦山
4. 青森県つがる市森田町中田福浦
5. 青森県北津軽郡中泊町大字福浦
6. 青森県下北郡佐井村大字長後字福浦
7. 青森県下北郡佐井村大字長後字福浦川目
8. 宮城県古川市福浦
9. 宮城県宮城郡松島町松島字福浦島
10. 神奈川県横浜市金沢区福浦1丁目
11. 神奈川県足柄下郡湯河原町福浦
12. 新潟県佐渡市福浦
13. 石川県羽咋郡富来町福浦港
14. 兵庫県赤穂市福浦
15. 島根県松江市美保関町福浦
16. 島根県隠岐郡隠岐の島町北方福浦
17. 広島県呉市天応福浦町
18. 山口県下関市彦島福浦町1丁目
19. 愛媛県南宇和郡愛南町福浦

全部検討したわけではありませんが、古代には、潟であったところが多く、所謂葦原を求めて、入植し稲作をはじめたと想像できます。福浦に似た発音の地名に、「福良」があります。
①福島県 郡山市湖南町福良  猪苗代湖近く
②栃木県小山市大字福良  結城の北
③愛知県 蒲郡市清田町福良   
④兵庫県 南あわじ市福良乙  港
⑤山口県 山口市大字黒川   港から少し離れる
⑥徳島県海部郡海南町浅川字福良  港
⑦高知県須崎市浦ノ内福良     港
⑧高知県宿毛市小筑紫町福良    港
⑨大分県大分市大字福良    少し内陸
⑩大分県臼杵市大字福良    少し内陸
⑪宮崎県東臼杵郡椎葉村大字下福良  山の中・椎葉の近く
⑫鹿児島県指宿市東方中福良   港
⑬鹿児島県薩摩川内市中福良町  少し内陸
これらの所は、地名だけで調べていません。殆ど、海に近いですから、出身地が異なる人の補給地かも知れません。
この考え方の素晴らしところは、入植は青森であっても、新潟であっても同時代に入植が可能ですから、稲作の遺跡が全国何処で、見つけられてもかまわないことになります。以前は、朝鮮を経由して、九州に入ってきた稲作が、どんどん北上したと説明されていましたが、青森で、奈良より古い稲作の遺跡が発見されてもいいことになります。

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