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2005.09.10

古事記を読む 大国主神の国譲り

No133
原文
故更且還來。問其大國主神。汝子等事代主神、建御名方神二神者。隨天神御子之命。勿違白訖。故汝心奈何。爾答白之。僕子等二神隨白。僕之不違。此葦原中國者。隨命既獻也。唯僕住所者。如天神御子之天津日繼所知之。登陀流【此三字以音。下效此】天之御巣而。於底津石根宮柱布斗斯理【此四字以音】於高天原。氷木多迦斯理【多迦斯理四字以音】而治賜者。僕者於百不足八十[土+冏]手隱而侍。亦僕子等百八十神者。即八重事代主神爲神之御尾前而仕奉者。違神者非也。

翻訳 そこで、更に還(カエ)って来て、その大国主神に問われました。「汝が子等、事代主神、建御名方神の二人の神は、天つ神の御子の命の隨(マニマ)に違わないと申している。汝の心は奈何(イカニ)」 と問われました。ここに答えて申しました。「僕の子等、二神の申すように、僕も違いありません。此の葦原中國は、命に随って既に獻る也。ただ僕が住む所は、天つ神の御子の天津日繼を知られるように、之登陀流(トダル) 天の御巣として底津に石根を使った宮柱を布斗斯理(フトシリ)、高天原に於いて、氷木たかしりて、治めたまはば、僕は百足らずの八十クマ手に隠れて侍(サブラ)っています。また、僕の子等である百八十神は、すなわち八重事代主神、爲神の御尾前となって仕え奉まつります。違反する神はありません」と申しました。

①「天津日繼」の意味が判りません。大国主神らが、天つ津神から引き継いでいるが判るように というぐらいの意味でしょうか? その後の文も意味が不明です。どうやら立派な社を建てるらしいですが、何故立派だと天つ津神から引き継いだことになるのか判りません。
②「とだる天の御巣として」も意味が判りません。岩波文庫の注釈では、「とだる」は「富み足る」の意味であると。または、安藤正次は琉球語のテダ(太陽)を活用させたテダルの転で、太陽の照り輝く意とすべきであろうと記しています。こんな話は専門家に任せるとして、文の流れからすると、
  一目見ただけで、「天つ神の御子の天津日繼であることが判るように、」天の御巣を建てたいということでしょう。象徴的なというような言葉はどうでしょうか。要するに、日本語で「とだる」といったが、中国語には無かったのでしょう。
③ では、具体的にどのようなものだといいますと、これがまた、訳が判りません。
   於底津石根 宮柱フトシリ
於高天原 氷木タカシリ
上記のように並べてみますと、底津石根と高天原は場所のようです。宮柱と氷木は、物のようです。 フトシリとタカシリは、意味不明ですが、フトとタカに分けることが出来ます。
フトは 太い。 タカは 高い。 「於」を単純に、高天原に於いてと考えますと、高天原に於いて氷木を高くしとなります。これは意味が通りますが、底津石根に於いてとなりますと、底津石根はどこだということになります。判っているのは、宮柱と高天原だけということになります。
天の御巣を出雲大社だということにしますと、少しは進展します。といいますのは、古い言い伝えで、出雲の神殿は、「三十二丈」ありました。祖田浩一著 「古代出雲 巨塔の謎」(2002年8月15日発行)において、「この三十二丈というのは、桁外れに高すぎて、まず信ずることは、できない。常識から考えても問題外であろう」と書いています。江戸時代の「寛文の造替」以後は、八丈であり、それ以前の中古には、十六丈だったといわれていた。出雲大社本殿の指図である「金輪御造営図に記されていた通りの三本の柱を束ねて一本の柱にしたものが、1.5mのところから、出土し、その基礎は石で固められていました。この構造から考えますと、十六丈の建物は実際にあった可能性は大きいです。十六丈は48mほどになります。1031年以降だけで、記録にあるだけで、4回転倒していますから、それ以前を含めると、6~7回ぐらい転倒していることになるでしょう。現在の倍の高さぐらいでは、転倒しないのではないでしょうか? 「三十二丈」あった可能性があります。
「高天原 氷木タカシリ」の氷木の意味が判りませんが、高天原に届くぐらいに高くして ぐらいの意味に捉えることはできます。
 「於底津石根 宮柱フトシリ」の底津石根の部分が、困りものですが、底の石根は、底の石の基礎の上に、宮柱を太くしてと考えますと、どうにか、無理が通るように思えます。
④ 而治賜者。僕者於百不足八十[土+冏]手隱而侍。
この部分も意味不明です。而治賜者の部分は、訳本では、「治めたまはば」どころではありません。「僕者於百不足八十クマ手隱而侍」とは、山の上から見ると何本もの川がながれてクマデのような形をした所に隠れるように大人しくしています。こんな意味でしょう。治めるのは、オオクニヌシではないのでしょう。
⑤ 「亦僕子等百八十神者」は、一族が180人いたということでしょうか。それにしたら、「三十二丈」の神殿は大きすぎるような気がしますが、この馬鹿でかい建物は、神のためではなく、外国からやって来たときの目印ではないでしょうか? 
 オオクニヌシとスクナヒコナの神は、盛んに全国に、入植者を導入しましたから、大山に変わるものが必要だったのでしょう。
 神殿を建てた場所は、船が近づいてから見えるようにだと思います。その前の目標は、357mの高尾山だと思います。(高尾山は、全国に目印の山として、二等辺三角形に整形されて存在します) そして、先端に、日御崎と御の字をつけた岬があり、日御崎神社があります。
 このように考えますと、オオクニヌシは敗れはしましたが、いつかは復帰を願ったと思われますが、187社の式内社に囲まれ、身動きがとれ無かったのだと思います。

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