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2005.10.30

古事記を読む  海神の宮訪問 –2

No146
原文
故隨教少行。備如其言。即登其香木以坐。爾海神之女豐玉毘賣之從婢。持玉器將酌水之時。於井有光。仰見者。有麗壯夫吉【訓壯夫云袁登古下效此】以爲甚異奇。爾火遠理命見其婢。乞欲得水。婢乃酌水。入玉器貢進。爾不飮水。解御頚之璵含口。唾入其玉器。於是其璵著器。婢不得離璵。故璵任著以進豐玉毘賣命。爾見其璵。問婢日。若人有門外哉。答曰。有人坐我井上香木之上。甚麗壯夫也。益我王而甚貴。故其人乞水故奉水者。不飮水。唾入此璵。是不得離。故任入將來而
獻。
翻訳
そこで、教えに隨って少し行くと、其の言った如く備っていました。すぐに、其の香木(かつら)に登って坐ますと、ここに、海神の女の豐玉毘賣の從婢(まかだち)が玉器を持って、將に、水を酌もうとした時、井に於いて光が有りました。仰ぎ見れば、麗わしい壯夫(をとこ) 有りました。甚だ異奇(あや)しと以爲(おも)った。ここに、火遠理命、其の婢を見て、水を得ることを欲すると乞いました。婢はすぐに、水を酌んで、玉器に入れて貢進(たてまつ)りました。そこで、水を飮まないで、御頚の璵(たま)を解いて口に含んで、其の玉器に唾き入れました。是に於いて其の璵は、器に著いて、是を璵は離すことができなくなりました。そこで、璵に著けるに任かせて豐玉毘賣命に以って進(たてまつ)りました。ここに、其の璵を見て、婢に問い申しました「若し、人、門の外に有哉」答えて曰しますに、「人が有ります。我が井の上の香木(かつら)の上に坐す。甚(いと)麗しき壯夫(をとこ)也。我が王に益(して)甚貴し。故、其の人、水乞うと 故水を奉まつれば、水を飮まないで、此の璵を唾き入れました。是れ得離さず。故 入れるに任かせて、將に來て獻てまつりました」といいました。
原文
爾豐玉毘賣命思奇。出見。乃見感目合而。白其父曰。吾門有麗人。爾海神自出見。云此人者天津日高之御子。虚空津日高矣。即於内率入而。美知皮之疊敷八重。亦[糸施-方]疊八重敷其上。坐其上而。具百取机代物爲御饗即令婚其女豐玉毘賣。故至三年住其國。
翻訳
そこで、豐玉毘賣命 奇(あやしい)と思って、出て見て、乃(すなわち)見感(みめ)でて、目合(まぐわい)して、其の父に申しました。「吾が門に麗しき人が有ります。海神が自から出て見て、「此の人は天津日高の御子、虚空津日高です」といいました。 即、内に率いて入って、美智の皮の疊を八重に敷き、亦[糸施-方]( きぬ)疊八重に其の上に敷き、其の上に坐って、具百取の机代の物を具えて、御饗を爲して、即、令婚其の女豐玉毘賣を婚いするように命令した。

考えたこと
豐玉毘賣の從婢が、水を汲もうとして、なぜ玉器に汲もうとしていたのか判りません。単に入れ物なのでしょうか? 山幸彦は、首に巻いていた璵を首から外して口に含み、貰った水は飲まないで玉器に入れた。そうすると璵がくっついて取れなくなった。確かに不思議な現象ですが、それがどうしたのでしょう。山彦はそんな不思議な術をもっていたということでしょうか?
その不思議さゆえに、山彦は豐玉毘賣と出逢うことになり、結婚することになります。

わたしが一番、気になったところは、「美智の皮の疊を八重に敷き、亦[糸施-方]( きぬ)疊八重に其の上に敷き」の部分です。豐玉毘賣の一族は、美智の皮を獲って、絹の敷物を作る技術があったということです。
海幸彦と山幸彦の話は、はじめから、もやもやするものがあります。古事記の作者は、海の中の物語にする必要があるから、海の宮へ行ったことにしました。その理由がわかりません。本当に、海の中のことであれば、おかしいです。これに似た話に、浦島太郎が、助けた亀に連れられて竜宮城へ行った話があります。こちらの住民は、鯛やヒラメが舞を舞ってくれたことになっていますから、海動物です。住民である美智(アシカと翻訳本にあります)を皮にして敷物にするのはおかしいです。

このように考えると、古事記の作者は、山幸彦(火遠理命)が、海の宮の住民と関係があったことを書きたかったが、正面から関係があったと書きたくなかったのかも知れません。

その浦島太郎の伝説は、全国あちこちにありますが、丹後半島の伊根町に浦嶋神社があります。この神社は825(天長2)年に創建された古社。『丹後国風土記』に登場する浦嶋伝説の舞台と伝わる神社です。
このすぐ、近くに籠神社があります。この神社の祭神は、彦火明命です。この神社の歴代神主である海部家のことを書いた「勘注系図」に次のような記事が書かれています。

「一本にいう、『丹波国造本記』に、彦火明命は正哉吾勝勝也速日天押穂耳尊の第三番目の子である。兄の火闌命(ホノスセリ)は海の幸をとるのが上手だったので海幸彦とよんだ。弟の火明命は、又の名を彦火火出見尊といったが、山の幸をとるのが上手だったので山幸彦と呼んだ」と書かれていると書いています。このように書いたということは、海部宮司家は、正しいと思っているから「勘注系図」に入れたことになります。
ところが、古事記では、天忍穂耳命の子供は、二人で、ニニギ命(弟)と天火明命(兄)で、ニニギ命とコノハナサクヤ姫との間に生れた子供が、火照命(海幸彦)、火須勢理、火遠理命(山幸彦)です。両者の記録では、山幸彦は一代違いますが、両方とも、天皇家に直結しているのだと述べています。
この奇怪な海幸山・山幸彦の話は、古事記独占の話ではないことになりますが、籠神社に残る海部氏本系図は、870代に記録されたことが判っています。古事記が出来たのは、712年ですから、「勘注系図」は古事記を参考にしたかもしれません。

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