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2005.10.30

古事記を読む  海神の宮訪問 –2

No146
原文
故隨教少行。備如其言。即登其香木以坐。爾海神之女豐玉毘賣之從婢。持玉器將酌水之時。於井有光。仰見者。有麗壯夫吉【訓壯夫云袁登古下效此】以爲甚異奇。爾火遠理命見其婢。乞欲得水。婢乃酌水。入玉器貢進。爾不飮水。解御頚之璵含口。唾入其玉器。於是其璵著器。婢不得離璵。故璵任著以進豐玉毘賣命。爾見其璵。問婢日。若人有門外哉。答曰。有人坐我井上香木之上。甚麗壯夫也。益我王而甚貴。故其人乞水故奉水者。不飮水。唾入此璵。是不得離。故任入將來而
獻。
翻訳
そこで、教えに隨って少し行くと、其の言った如く備っていました。すぐに、其の香木(かつら)に登って坐ますと、ここに、海神の女の豐玉毘賣の從婢(まかだち)が玉器を持って、將に、水を酌もうとした時、井に於いて光が有りました。仰ぎ見れば、麗わしい壯夫(をとこ) 有りました。甚だ異奇(あや)しと以爲(おも)った。ここに、火遠理命、其の婢を見て、水を得ることを欲すると乞いました。婢はすぐに、水を酌んで、玉器に入れて貢進(たてまつ)りました。そこで、水を飮まないで、御頚の璵(たま)を解いて口に含んで、其の玉器に唾き入れました。是に於いて其の璵は、器に著いて、是を璵は離すことができなくなりました。そこで、璵に著けるに任かせて豐玉毘賣命に以って進(たてまつ)りました。ここに、其の璵を見て、婢に問い申しました「若し、人、門の外に有哉」答えて曰しますに、「人が有ります。我が井の上の香木(かつら)の上に坐す。甚(いと)麗しき壯夫(をとこ)也。我が王に益(して)甚貴し。故、其の人、水乞うと 故水を奉まつれば、水を飮まないで、此の璵を唾き入れました。是れ得離さず。故 入れるに任かせて、將に來て獻てまつりました」といいました。
原文
爾豐玉毘賣命思奇。出見。乃見感目合而。白其父曰。吾門有麗人。爾海神自出見。云此人者天津日高之御子。虚空津日高矣。即於内率入而。美知皮之疊敷八重。亦[糸施-方]疊八重敷其上。坐其上而。具百取机代物爲御饗即令婚其女豐玉毘賣。故至三年住其國。
翻訳
そこで、豐玉毘賣命 奇(あやしい)と思って、出て見て、乃(すなわち)見感(みめ)でて、目合(まぐわい)して、其の父に申しました。「吾が門に麗しき人が有ります。海神が自から出て見て、「此の人は天津日高の御子、虚空津日高です」といいました。 即、内に率いて入って、美智の皮の疊を八重に敷き、亦[糸施-方]( きぬ)疊八重に其の上に敷き、其の上に坐って、具百取の机代の物を具えて、御饗を爲して、即、令婚其の女豐玉毘賣を婚いするように命令した。

考えたこと
豐玉毘賣の從婢が、水を汲もうとして、なぜ玉器に汲もうとしていたのか判りません。単に入れ物なのでしょうか? 山幸彦は、首に巻いていた璵を首から外して口に含み、貰った水は飲まないで玉器に入れた。そうすると璵がくっついて取れなくなった。確かに不思議な現象ですが、それがどうしたのでしょう。山彦はそんな不思議な術をもっていたということでしょうか?
その不思議さゆえに、山彦は豐玉毘賣と出逢うことになり、結婚することになります。

わたしが一番、気になったところは、「美智の皮の疊を八重に敷き、亦[糸施-方]( きぬ)疊八重に其の上に敷き」の部分です。豐玉毘賣の一族は、美智の皮を獲って、絹の敷物を作る技術があったということです。
海幸彦と山幸彦の話は、はじめから、もやもやするものがあります。古事記の作者は、海の中の物語にする必要があるから、海の宮へ行ったことにしました。その理由がわかりません。本当に、海の中のことであれば、おかしいです。これに似た話に、浦島太郎が、助けた亀に連れられて竜宮城へ行った話があります。こちらの住民は、鯛やヒラメが舞を舞ってくれたことになっていますから、海動物です。住民である美智(アシカと翻訳本にあります)を皮にして敷物にするのはおかしいです。

このように考えると、古事記の作者は、山幸彦(火遠理命)が、海の宮の住民と関係があったことを書きたかったが、正面から関係があったと書きたくなかったのかも知れません。

その浦島太郎の伝説は、全国あちこちにありますが、丹後半島の伊根町に浦嶋神社があります。この神社は825(天長2)年に創建された古社。『丹後国風土記』に登場する浦嶋伝説の舞台と伝わる神社です。
このすぐ、近くに籠神社があります。この神社の祭神は、彦火明命です。この神社の歴代神主である海部家のことを書いた「勘注系図」に次のような記事が書かれています。

「一本にいう、『丹波国造本記』に、彦火明命は正哉吾勝勝也速日天押穂耳尊の第三番目の子である。兄の火闌命(ホノスセリ)は海の幸をとるのが上手だったので海幸彦とよんだ。弟の火明命は、又の名を彦火火出見尊といったが、山の幸をとるのが上手だったので山幸彦と呼んだ」と書かれていると書いています。このように書いたということは、海部宮司家は、正しいと思っているから「勘注系図」に入れたことになります。
ところが、古事記では、天忍穂耳命の子供は、二人で、ニニギ命(弟)と天火明命(兄)で、ニニギ命とコノハナサクヤ姫との間に生れた子供が、火照命(海幸彦)、火須勢理、火遠理命(山幸彦)です。両者の記録では、山幸彦は一代違いますが、両方とも、天皇家に直結しているのだと述べています。
この奇怪な海幸山・山幸彦の話は、古事記独占の話ではないことになりますが、籠神社に残る海部氏本系図は、870代に記録されたことが判っています。古事記が出来たのは、712年ですから、「勘注系図」は古事記を参考にしたかもしれません。

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2005.10.24

古事記を読む  海神の宮訪問

No145
原文
於是其弟泣患居海邊之時。鹽椎神來問曰。何虚空津日高之泣患所由。答言。我與兄易鉤而。失其鉤。是乞其鉤故。雖償多鉤不受。云猶欲得其本鉤。故泣患之。爾鹽椎神云我爲汝命作善議。即造无間勝間之小船。載其船以教日。我押流其船者。差暫往。將有味御路。乃乘其道往者。如魚鱗所造之宮室。其綿津見神之宮者也。到其神御門者。傍之井上有湯津香木。故坐其木上者。其海神之女見相議者也【訓香木云加都良】
訳文
ここに於いて その弟泣き患(うれ)いて海辺に居る時、鹽椎神(しおつちかみ)が來て問うて云いました。「何にして虚空津日高(そらつひこ)の泣き患れう所由(ゆえ)は」といいますと、答えて言いました。「我と兄は鉤を易えて、其の鉤を失いました。是に乞其の鉤を乞う故に、雖償多くの鉤を償うと雖えど受けてとりません。(兄は)『猶欲得其の本(もと)の鉤を得ることを欲すと云います』故に泣き患うています」と云いました。
ここに鹽椎神、「云我 汝の命の爲に善き議(はかりごと)を作ろうと云って、即ち、无間勝間(まなしかつま)の小船を造り、載其の船に載せて、教えて云いました。「我れ、其の船を押し流すと、差(やや)暫し往くと、將に味(うまし)御路(みち)が有ります。乃(すなわち)其の道に乘って往けば、魚鱗の如く造れる所の宮室()がある、其れは綿津見神の宮也」。其の神の御門に到りましたら、傍の井の上に湯津香木(ゆつかづら)が有ります。そこで、其の木の上に坐りますと、其の海神の女(むすめ)、見て相議(あいはか)りなさい」と言いました。

考察 今回も理解困難なところはありません。鹽椎神を翻訳者は「しおつちのかみ」と読ませています。どうしてこのように読むことが出来るのでしょう。
書くこともありませんから、少し、拘って見ます。
訳本の作者は、「潮路を掌る神の意であろう。書紀には塩土老翁とある」と書いています。文章を読みますと確かに、味(うまし)御路(みち)を教えてくれましたから、水先案内人の役をしていることになります。
「鹽椎神」の鹽は塩の旧の漢字です。椎の読みは、「ツイ、ヅイ、スイ」意読は「しい、うつ、つち」です。鹽も椎も意読されたのですから、漢字のもっている意味を解さないと間違っていることになります。「椎」は木とフルドリの合わさったものです。フルドリはずんぐりとした鳥だそうです。似た漢字には、脊椎、鉄椎、椎魯、すべてどっしりしたものに使われています。椎は木で出来て鳥の形をした木槌らしいです。塩椎は塩を作るときに木槌をつかったのでしょうか? 製塩をする人のことでしょうか? 
  日本書紀の作者は、古事記を見ながら、日本書紀を書こうとしていますが、「鹽椎神」の意味が判らなかったのだと思います。そこで、「塩土老翁」と書きました。椎が「つち」と読むからといって、「土」に置き換えたのでは、全く意味をなしません。
  判らないのであれば、そのままにして、読む人が好きなように読めばいいと思います。
  もう少し、拘りますと、日本書紀では、もう少し話しがすすみますと、海の中でまた、塩土老翁に出会います。今度は、「塩筒老翁」と書いてあります。その所為でしょう。日本書紀の翻訳者は、「塩土老翁」も「塩筒老翁」も「しおつつのかみ」と読ませています。こうなりますと、製塩をする人ではなくなります。
  日本書紀の作者も現代の学者も、古事記の作者に振り回されていることになります。
  太安万侶は、おおいに喜んでいることでしょう。
  このように書いている私は、輪をかけてチンプンカンプンです。どうして、太安万侶は、海の中の宮を書かなくてはならなかったのでしょう。
  これと同じパターンが、どこそこの国にあるから、そこから導入したのだという研究が必ずあると思います。しかし、その場合はそれでおしまいです。無理に推し進めますと、太安万侶は、その国を旅行して話しを聞いたとか、その国からやって来た人に聞いたぐらいです。
   もう一つ気になることがあります。「无間勝間」を「まなしかつま」と読ませています。これまた、なんのことか判りません。「无」は「ない」という意味です。「あいだがない、あいだがかつ」らしいです。
  これに相当する話しが、日本書紀にあります。「大目麁籠」一説には、「無目堅間」に火火出見尊を入れて海に沈めたと書いています。面白いですね。日本書紀は水がじゃじゃ漏れの籠を作って、沈めた。硬い目でない小船を作って乗せたから沈んで、海の中に入って行ったことになっています。どうして、海の中の物語になるか辻褄の合うように試みています。
ところが、古事記は、「无間勝間」の船を作って載せたとあります。ということは、船は木製や石製ではなくて、葦などで編んだ船だということです。
  これは、ペルーの湖の上に、葦の島を作って住んでいる人が、葦の船で移動しているのを見ましたから、葦の船は、ここに出てきてもおかしくないことになります。
   海神の宮訪問のところを読み始めてから、ずっと気になっていることがあります。どうして、海の中の話でないといけないのかと云うことです。たとえ、似たような話が、外国にあったとしても、火照命と火遠理命のことを知らせるのに、このようなわけの判らないことを書かなければならなかったかと云うことです。
  本当は、ずばりと書くと、関係者は暗殺されることになり、古事記も燃やされてしまうことになったのでしょう。この部分は量が多いだけに、太安万侶としては、どうしても書き残したかったことだと思います。
 これは、丹後半島の籠神社のことを書いたのではないでしょうか? 籠神社から海岸に沿って北東に進みますと、伊根町があります。ここには、浦島太郎の伝説がのこっており、浦嶋神社があります。太安万侶は、籠神社と浦島太郎の伝説を織り込んで、火照命と火遠理命のことを伝えようとしたのではないでしょうか?

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2005.10.17

古事記を読む  海幸彦と山幸彦

No144
原文
故火照命者爲海佐知毘古【此四字以音。下效此】而。取鰭廣物。鰭狹物。火遠理命者。爲山佐知毘古而。取毛麁物。毛柔物。爾火遠理命謂其兄火照命。各相易佐知欲用。三度雖乞不許。然遂纔得相易。爾火遠理命以海佐知釣魚。都不得魚。亦其鉤失海。
於是其兄火照命乞鉤曰。山佐知母。己之佐知佐知。海佐知母已之佐知佐知。今各謂返佐知之時【佐知二字以音】其弟火遠理命答曰。汝鉤者。釣魚不得一魚。遂失海。然其兄強乞徴。故其弟破御佩之十拳劍。作五百鉤。雖償不取。亦作一千鉤。雖償不受。云猶欲。得其正本鉤。
翻訳
火照命(ホデリノミコト)は海佐知毘古(ウミノサチヒコ)として、鰭(ハタ)の廣物を取り、鰭の狹物を取り、火遠理命(ホオリノミコト)は、山佐知毘古(ヤマノサチヒコ)として、毛の麁物(アラモノ)、毛の柔物(ニコモリノ)を取られました。ここに、火遠理命、その兄の火照命に、「各佐知(サチ)を相い易(カ)えて、用いることを欲する」と謂いて、三度乞いて雖えども許しませんでした。然し、遂に纔(ワズ)かに、相易えることとなりました。ここに、火遠理命は以海サチ用の針で魚を釣りましたが、全く、魚を得ることはできなくて、釣針を海で失いました。
そこで兄の火照命は鉤を乞うて言いました、「山サチも。己之サチサチ。海サチも。已之サチサチ。今は各サチを返そう」と謂う時に、其の弟の火遠理命は答えて言われるには、「汝の鉤は、魚を釣ろうとして一匹の魚も得ずで、。遂に海に失った」と言われた。然し、其の兄は強く戻すように攻めた。そこで、弟は御佩の十拳劍を破りて、五百の鉤を作って、償いたいと雖えども、取らなかった。亦一千の鉤を作って、。償ぐなうと雖えども受けとらなかった。「猶其の正本(モト)の鉤を得たい」と言いました。
考えたこと 
① どうして、お互いの道具を取り替えなければならないのか判りません。佐知(サチ)を相い易(カ)えて、用いることを欲するとありますから、お互いの幸を交換するのであれば、判りますが、道具を変えたからといって、上手く取れるわけがありません。弟の火遠理命は、兄のものがほしがったということでしょうか?
② ②「山サチも。己之サチサチ。海サチも。已之サチサチ。今は各サチを返そう」の部分が意味不明。

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2005.10.10

古事記を読む  木花佐久夜毘売は富士山麓へ

No143
古事記では、木花の佐久夜毘売でNo142登場して終わりです。そこで全く別の角度から
木花佐久夜毘売のその後、探ってみます。
ニニギ命が、伯耆の久米郡、高千穂に遷都したのは、紀元前150年頃とおもわれますが、その頃漢の武帝は周囲の国々に勢力を広げていた時代で、お金が必要ですから、わが国に大量の漢族を潜入させて絹の収奪をしていました。なぜそうかといいますと、この時代の漢鏡の出土数が多くなるからです。
それに対して、ニニギとニニギの父である天忍穂耳命は、九州に進出しました。天忍穂耳命は遠賀川の源の英彦山に移っています。また、二人を祭る神社が嘉穂郡、鞍手郡、田川郡、遠賀郡、京都郡から14座見つかります。
このころ、天照大御神、丹波に遷都し、全国に水田を普及させようとしました。
あまりにも、東西に忙しくなったためか、天照大御神は静岡に多くの苗族を入植させました。そのときの指導者が、木花佐久夜毘売です。
No142の最後に、「なんだか すっきりしません」と書きましたが、本当は、古事記には、この後に木花佐久夜毘売が静岡県へ行きましたという一言ぐらいが書かれていたのではないでしょうか?
富士吉田市上吉田に、北口富士浅間神社があり、木花開耶姫命が、祀られています。
二人で輿入れしたが、容貌が悪いために、父親のもとに返された石長比賣は、その後、応援に派遣されたのでしょうか?
富士吉田登山口五合目の小御嶽神社に祀られています。祭神名は、磐長姫命です。
木花開耶姫命と磐長姫命に注目してください。これは、日本書紀に書かれている漢字です。どのように読まれていたのでしょう。古事記では、木花佐久夜毘売と石長比賣です。どの翻訳本でも、前をコノハナサクヤヒメ、後ろをイワナガヒメと読んでいます。本当は、同じように読んだかもしれませんが、古事記に書かれている木花佐久夜毘売は、後の世の人には、知られたくないものですから、日本書紀の作者は、苦労して書き換えました。書き換えたのに、現場の神社の記録に、木花佐久夜毘売と書かれていますと困りますから、北口富士浅間神社と小御嶽神社では、祭神を日本書紀と同じになるように書き換えました。書き換えたときがいつか判りませんが、その時は、木花佐久夜毘売の勢力圏ではなく、漢人の勢力範囲であったことになります。
静岡の地図をごらんください。苗族が入植した証拠に、田に関する地名がいっぱいです。
ここには、木花佐久夜毘売の父も一緒に出動したのでしょう。大山祇命を祀った神社が、伊豆国に102座、駿東郡の富士山東に48座、富士川流域に60座、安部川流域に26座、大井川流域に14座、遠近国に109座残っています。

勿論、この人たちばかりではありません。絹をめぐって、建御名方神を祀る諏訪神社も、134座あります。反対勢力の速須佐男命を祀った神社も519座ありますから、これらの数字が、そのまま、当時の勢力を現すものではありませんが、争いが当然起こり、古墳の数が多いことの説明ができます。
あらすじを書きましたから、このような話は信じられないと思われるでしょう。騙されたと思って、静岡県の神社と福岡県の神社を全部書き出して調べていただければいいと思います。そして、その後で、両方の神社がどのような所にあるか、自分の足で回られますと、当時の彼等が、ある山を挟んで、いがみ合っていた姿などが目に浮かぶのではと思っています。
私は全部していませんから、結果を教えてください。

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2005.10.09

草を抜く人

昨日 大阪市内に行き、高速を降りたところで車を寄せて一服しようとしましたら、雨がどしゃぶりになってきました。土曜日のことでいつもは車がとぎれない「なにわ筋」ですが、車の流れはなく、分離帯の上を歩く人が見えます。大阪では南北にはしる道は、「御堂筋みどうすじ」のように、筋がつきます。東西は「千日前通」というように「通」がつきます。

「なにわ筋」は比較的大きな道路ですから、中央に片道二車線があり、分離帯があって二車線が走っています。分離帯は植木ではなく、芝生が植えてあります。
黒い合羽を着ておられますから、よく判りませんが、時々腰をまげては、どうやら草を抜いておられるようです。暫く見ていますと、長い草だけを抜いて一区画が済みますとあまりにも雨がひどいので、作業を中止されました。

すごい人だなと思いました。

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2005.10.08

古事記を読む 木花の佐久夜毘売 その2

No142
原文
爾大山津見神因返石長比賣而大恥。白送言。我之女二並立奉由者。使石長比賣者。天神御子之命。雖雪零風吹。恆如石而。常堅不動坐。亦使木花之佐久夜毘賣者。如木花之榮榮坐。宇氣比弖【自宇下四字以音】貢進。此令返石長比賣而。獨留木花之佐久夜毘賣。故天神御子之御壽者。木花之阿摩比能微【此五字以音】坐。故是以至于今。天皇命等之御命不長也。
翻訳
 ここに、大山津見神、石長比賣を返すに因りて、大いに恥じて、白うし送って言いました。
「我の女を二人並べて立て奉った理由は、石長比賣を使われるならば、天つ神の御子の命は、雖雪が降っても風が吹いても、恒に岩の如く、常に堅くて動かすことができない。また、木花之佐久夜毘賣を使わしたら、木の花の榮えるが如く榮えるでしょう」と貢進りました(進言)。そこで、石長比賣を返えすようにして、ひとり木花之佐久夜毘賣を留めました。「故天つ神の御子の御壽は、木花の阿摩比能微(あまひのみ)坐す」と言いました。是を以って今に至るまで、天皇命(すめらみこと)等の御命は長くなくなりました。


故後木花之佐久夜毘賣參出白。妾妊身。今臨産時。是天神之御子。私不可産故請。爾詔。佐久夜毘賣。一宿哉妊。是非我子。必國神之子。爾答白。吾妊之子。若國神之子者。産不幸。若天神之御子者幸。即作無戸八尋殿。入其殿内。以土塗塞而。方産時以火著其殿而産也。故其火盛燒時所生之子名。火照命【此者隼人阿多君之祖】次生子名。火須勢理命【須勢理三字以音】次生子御名。火遠理命。亦名天津日高日子穗穗手見命【三柱】

後に木花佐久夜毘売、参り出て申されるには、「私は妊身(はら)んでいますが、今産む時に臨(な)りました。この天つ神を父とする御子を、私は産んではいけないでしょうか。請(もう)す。」ともうしました。そこで詔りたまわれますのに、「佐久夜毘売よ、一宿にや妊んだからには、これ我が子ではないだろう。きっと、国つ神の子であろう」とのりたまひき。そこで答えてもうされますには、「吾が妊みし子、若(も)し国つ神の子ならば、産むときに上手くいかないであろう。若し天つ神の御子ならば、幸ちとなるだろう」ともうして、即ち戸無き八尋殿(やひろどの)を作りて、其の殿の内に入り、土をもって塗り塞ぎて、産む時にさいして、火を其の殿に著けて産みました。故、其の火の盛りに燃える時に生める子の名は、火照(ほでりの)命。此は隼人(はやと)阿多君の祖。次に生める子の名は、火須勢理(ほすせりの)命。次に生める子の御名は、火遠理(ほをりの)命。亦の名は天津日高日子穂穂手見(あまつひこひこほほてみの)命。

考えたこと
① 話しの流れが違いますので、上下に分けました。上は上で一つの話しになっています。何故、天皇の寿命が短くなったかが判ります。しかし、前後の文と繋がりがありません。古事記がつくられた頃、それぞれの人たちは、自分の都合の良いように,天皇の寿命を定めて、辻褄があうように、自分達の先祖のことを語っていたのでしょうか? みなさん、それは間違っていますよ。最近の天皇は、もっと短くなっていますよとの警告なのでしょうか?  
② ①のように受け止めますと、下の部分は、最近、火照命は、本当の天皇の子ではないという噂があるが、決して、そのようなことはありません。佐久夜毘売は命をかけて、子供を産まれたのですよ。一夜の褥では、当時、妊娠しないと思われていたのでしょうか?
③ 二人の子供に何故「火」がついているか、その理由を付けたしたのでしょうか? 

と言う次第で、火須勢理命と火遠理命の話しをいたしましょうと次に進むことになるでしょうか? 海幸彦と山幸彦の物語になります。         なんだか、すっきりしません。

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2005.10.06

倭地温暖

No36
原文
倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處。以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飮用[竹+下に邊]豆、手食。
其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。
已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。
訳文
倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べている。皆徒跣(ハダシ)である。屋室があり、父母兄弟で、異なる処で、寝ている。朱丹(赤い顔料)をその身体に塗って、中国人が粉を用いるようだ。飲食には、ヘントウをもちいて、手で食べる。
死に際し、棺があって榔がない。土で封して冢(つか)をつくる。死ぬと、まず喪を停めること十余日、(その) その時は、肉をたべない。喪主は哭泣し、他人は歌舞飲酒につく。すでに葬れば、家をあげて(家じゅう)水中に入り、澡浴をする。それは(中国における)練沐のようである。

① 以朱丹塗其身體--朱丹を以って、その身体に塗る。朱も丹も赤いことです。赤い色の顔料でしょうか? 頬紅とは違うのでしょう。だけど、こんなもの身体に塗るでしょうか? 中国でもするとありますから、まあ、いいでしょう。
② 飲食のときに、ヘン豆を用いるとあります。ヘン豆は、竹製のタカツキだと説明してあるものもありますが、正しいかどうか確かめていません。手で食べるのは、インドでは、現在でも残っていますから、普通だったのでしょう。記録したということは、中国では手でたべなかったのでしょう。
③ 其死、有棺無槨、封土作冢は、重要な記述です。棺おけはあるが、槨が無いとあります。
この記述が正しいとしますと、槨がある墳墓があれば、日本人の墳墓でないことになります。前方後円墳は、殆ど槨どころか、石槨があります。時代が5~6世紀ともなればそうかもしれませんが、それにしても、始めは、日本人でない者が、槨を作ったのを真似たとしますと、魏の国のころには、まだ、有棺無槨であったことになります。
④ 封土作冢は、当たり前のようですが、冢を作るとなると石垣のようなものがあって、初めて冢を作るの表現になるでしょう。ただ、土を盛っただけでは、冢とは云わないでしょう。(中国では、ただ土を盛っただけのものを冢というと漢和辞典にはあります)
⑤ 始死停喪十餘日---始死は、死んで始めてぐらいしか読めません。始めて死んだのでは何のことか判りません。停喪とはなんのことでしょうか? 喪を停止する。喪とは、喪に服するなどと使います。辞書をひきますと、「も。うしなう。ほろびる。ほろぼす」とあります。このうち、「も」が一番いいようにも思いますが、「も」は死者に別れをする行事でしょうか? 外出や仕事などを控えて行うように思います。それを停止するということは、喪に服さないことになります。十餘日。十餘日喪に服すのであれば解りますが、十餘日喪に服さないでは、何のことか解りません。澡浴は現在もあるでしょうか?

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2005.10.04

阪神優勝と平井古墳群

阪神優勝は、知らない人は居られないでしょう。プロ野球のチーム・阪神が、今年優勝したことです。京阪神のあちこちには、「阪神優勝おめでとう」「阪神優勝セール」の旗がひらめいています。全く野球に興味のない私は、別のところから眺めています。このことによって、低迷している消費活動が幾分かは活発になって、京阪神の経済を押し上げることになるのだろうと。
 このように眺めることも出来ますが、理解できないことがあります。優勝祝賀の記念として、大阪の心斎橋の上から、道頓堀川の中に飛び込む騒動です。なぜ騒動になるかといいますと、報道機関が早い時期から、はやしたてるからです。お陰さまで興味のない私でも、いくつかの情報を獲得できました。
前回のときは、5000人ほど飛び込んで一人の死亡者がでたそうです。そこで、今年は、いろいろ作戦を立てて、一人飛び込んだだけで済んだそうです。その作戦は、飛び込めそうなところに高い塀やら鉄条網を張り巡らしました。当日、警官2500人を配備し警備したことなどです。
大阪市と大阪府警のお手柄ということになります。自慢にはなりませんが、最近はきれいにはなったと言え、汚い一番恐ろしいことは、道頓堀川です。その後、お風呂に入っても一週間は臭いがとれないであろう川です。飛び込みたい人には、飛び込ませてやればいいです。兵庫県で花火の警備が悪かったから、問題になりました。あの事件以後、日本の警察は、大変なことになりました。万全のことをしておかないと上に立つ人は、事件として扱われた、その日を境に奈落の底に落ちることになります。
恐ろしいことに、そうしたことが当然のように、報道機関が扱い早くから、「さあ、警察どうする」というような報道を繰り返しますが、だれも不思議に思いません。人のお金を使って、事故を防衛することが必要なのでしょうか?  

そして、私は私で、えらそうにこんな事を書いています。 

このような日本の姿は、人間社会の最高の姿なのだなと ??? と思っています。

どのチームが勝っても負けてもどうでもいいような野球をえんえんと一年間つづけた総決算が、この姿です。後は、日本の国が崩壊するしかありません。この国が崩壊するのは、いつのことでしょうか? 10年先でしょうか? 10年先とは限りません。100年先かもしれませんし、200年先かもしれません。

その国の一員である私も、働きもしないで、昨日は、朝から外出してきました。行き先は、タイトルに書きました「平井古墳群」です。
こちらの方は、誰もご存知無いと思いますので、少し説明を加えます。
兵庫県宝塚市に平井という集落があります。大阪梅田駅から、阪急宝塚線に乗車しますと、電車は北の方向に進みます。石橋、池田駅の辺りから、行く先を阻まれ、列車はどんどん左にカーブを切って行きます。川西駅を過ぎるころには、西を向いて走っています。雲雀丘、山本と駅が続きます。この山本の地名は、山の麓から来たと思われますが、その山の名前は、長尾山といいます。名前のとおり、東西に長い尾根を有しています。この山の東から順に、雲雀山東尾根古墳群、雲雀山西尾根古墳群、平井古墳群、山本古墳群、山本奥古墳群と続きます。
電車は山本駅で下車しますと、北側に山が見えます。標高200mも無いと思われますが、山の左部分は、高い木はあまり見えず、所々土が見える感じがします。平井古墳群は、地名から判断しますと、平井山荘という町名のまだ上に位置していましたから、大阪よりにある平井まで戻り、電車の踏み切りを渡りますと、古墳どころではなく完全に住宅街を形成していますが、ここは、「平井古墳群C」に相当します。「丹波街道」との表示を眺めながら、急坂を登ります、町名は平井山荘に変わります。町名に相応しく、豪邸が右に左に続きます。住宅の最高部に小さな公園があり、ここに平井古墳群の標識が立っていました。
この名前は、この公園の周りの人しか知って居られないのではないでしょうか。
 ここから、平井古墳群B、平井古墳群Aと頂上近くまで続きます。平井古墳群Bは、標高150~160mにあり、もっとも、古墳の数が多く、92基を数えると説明されていました。
古墳は、すべて円墳で、石室の直径が10m以下のものばかりです。石は少し北にある石切山からのものと思われますが、天井石は長径が1mを超えるものもあり、運搬には相当のエネルギーを要したと思われました。石室の形式は、横穴式石室です。
ここより少し西の安倉という町で、安倉高塚古墳が残っています。こちらは、?鳥七年銘の神獣鏡が見つかっており、石室は竪穴式古墳です。 ?鳥七年は、中国の「赤鳥」しかありませんから、西暦244年になります。平井古墳群は、西暦244年以降となりますから、4世紀ころのものでしょうか?
私がこの古墳を訪れた目的は、「平井古墳群B」から、陶棺の欠片が出土したという記録があったからです。これはユダヤ人の棺おけではないかと調べている最中だからです。

「それがどうした」と言われそうですが、山の中へ足を踏み入れ、くもの巣と蚊に悩まされながら、東西と北に、50mほど歩きました。どの古墳も崩壊寸前の哀れなものばかりでした。ある古墳は、数個の石だけのものもありました。すこし、落葉を書き分けてみましたら、10cm掘っても、なお落葉でした。
山全体をお墓にしなければならないほど、この辺りには、人がいっぱい住んでいた証しです。隣の池田市も箕面市もこんなにありません。1700年昔には、この辺りがもっとも栄えていた所だと思われます。先ほど書きました「丹波」への入り口というか、大陸から入ってきた文化が、瀬戸内に抜ける重要な拠点だったと想像しました。
いくら栄華を誇っていても、いつかはこのような哀れな状態になるのだなと思いながら、下山しました。 

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2005.10.02

古事記を読む  木花の佐久夜毘売

No141
原文
 於是天津日高日子番能迩迩藝能命於笠紗御前遇麗美人。爾問誰女。答白之。大山津見神之女。名神阿多都比賣【此神名以音】亦名謂木花之佐久夜毘賣【此五字以音】又問有汝之兄弟乎。答白我姉石長比賣在也。爾詔。吾欲目合汝奈何。答白僕不得白。僕父大山津見神將白。故乞遣其父大山津見神之時。大歡喜而。副其姉石長比賣。令持百取机代之物奉出。故爾其姉者因甚凶醜。見畏而返送。唯留其弟木花之佐久夜毘賣以。一宿爲婚。

翻訳
 ここに於て、天津日高日子番能迩迩藝能命(ニニギの命)は、笠のように見える砂浜の岬で麗美人に遇いました。そこで「誰の娘か」と問いますと、答えて申すには、「大山津見神の娘。名は神阿多都比賣、亦の名は木花之佐久夜毘賣」と申しました。又「汝の兄弟は有るか」と問いますと、「我が姉、石長比賣が在り也」と答え申しました。ここに詔りたまわれて、「吾は目合うことを欲するが、汝は奈何に」と。「僕は申すことはできません。僕の父の大山津見神が將に白うすでしょう」と答え申しました。故、その父大山津見神に乞い遣わした時、大いに歡喜して、其の姉の石長比賣を副えて、百取机代之物を持つように命じて、奉てまつり出しました。
しかし、その姉は甚だ凶醜(醜い)ので、見畏仕込みて送り返しました。唯その弟木花之佐久夜毘賣を留めおいて、一宿結婚されました。

考えたこと
① 久しぶりに、意味が判る文章に出くわしました。
② 天津日高日子番能迩迩藝能命の天津は血筋を述べています。 次の日高は出身の地名と思うのですが、伯耆の国に見つかりません。日子は男子であることを現す、彦でしょうか?次の番能がわかりません。その内に閃くかもしれませんから、このままにしておきます。
③ 神阿多都比賣には、「神」が付いていますから、ユダヤ出身であることを伝えたかったのでしょう。
④ 『古事記』では大山津見神、『日本書紀』では国津神の大山祗神(おおやまつみのかみ)と記されています。大山津見神は誰でも読むことが出来ますが、大山祗神では読むことができません。日本書紀は古事記を見てではなく、古事記を書き換えようとしたことが、このような事からでも推察できます。
⑤ 百取机代之物がよく判りませんが、生活に必要なものを用意したのでしょう。
⑥ 木花之佐久夜毘賣という別名がどうして必要であったか???

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