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2005.10.04

阪神優勝と平井古墳群

阪神優勝は、知らない人は居られないでしょう。プロ野球のチーム・阪神が、今年優勝したことです。京阪神のあちこちには、「阪神優勝おめでとう」「阪神優勝セール」の旗がひらめいています。全く野球に興味のない私は、別のところから眺めています。このことによって、低迷している消費活動が幾分かは活発になって、京阪神の経済を押し上げることになるのだろうと。
 このように眺めることも出来ますが、理解できないことがあります。優勝祝賀の記念として、大阪の心斎橋の上から、道頓堀川の中に飛び込む騒動です。なぜ騒動になるかといいますと、報道機関が早い時期から、はやしたてるからです。お陰さまで興味のない私でも、いくつかの情報を獲得できました。
前回のときは、5000人ほど飛び込んで一人の死亡者がでたそうです。そこで、今年は、いろいろ作戦を立てて、一人飛び込んだだけで済んだそうです。その作戦は、飛び込めそうなところに高い塀やら鉄条網を張り巡らしました。当日、警官2500人を配備し警備したことなどです。
大阪市と大阪府警のお手柄ということになります。自慢にはなりませんが、最近はきれいにはなったと言え、汚い一番恐ろしいことは、道頓堀川です。その後、お風呂に入っても一週間は臭いがとれないであろう川です。飛び込みたい人には、飛び込ませてやればいいです。兵庫県で花火の警備が悪かったから、問題になりました。あの事件以後、日本の警察は、大変なことになりました。万全のことをしておかないと上に立つ人は、事件として扱われた、その日を境に奈落の底に落ちることになります。
恐ろしいことに、そうしたことが当然のように、報道機関が扱い早くから、「さあ、警察どうする」というような報道を繰り返しますが、だれも不思議に思いません。人のお金を使って、事故を防衛することが必要なのでしょうか?  

そして、私は私で、えらそうにこんな事を書いています。 

このような日本の姿は、人間社会の最高の姿なのだなと ??? と思っています。

どのチームが勝っても負けてもどうでもいいような野球をえんえんと一年間つづけた総決算が、この姿です。後は、日本の国が崩壊するしかありません。この国が崩壊するのは、いつのことでしょうか? 10年先でしょうか? 10年先とは限りません。100年先かもしれませんし、200年先かもしれません。

その国の一員である私も、働きもしないで、昨日は、朝から外出してきました。行き先は、タイトルに書きました「平井古墳群」です。
こちらの方は、誰もご存知無いと思いますので、少し説明を加えます。
兵庫県宝塚市に平井という集落があります。大阪梅田駅から、阪急宝塚線に乗車しますと、電車は北の方向に進みます。石橋、池田駅の辺りから、行く先を阻まれ、列車はどんどん左にカーブを切って行きます。川西駅を過ぎるころには、西を向いて走っています。雲雀丘、山本と駅が続きます。この山本の地名は、山の麓から来たと思われますが、その山の名前は、長尾山といいます。名前のとおり、東西に長い尾根を有しています。この山の東から順に、雲雀山東尾根古墳群、雲雀山西尾根古墳群、平井古墳群、山本古墳群、山本奥古墳群と続きます。
電車は山本駅で下車しますと、北側に山が見えます。標高200mも無いと思われますが、山の左部分は、高い木はあまり見えず、所々土が見える感じがします。平井古墳群は、地名から判断しますと、平井山荘という町名のまだ上に位置していましたから、大阪よりにある平井まで戻り、電車の踏み切りを渡りますと、古墳どころではなく完全に住宅街を形成していますが、ここは、「平井古墳群C」に相当します。「丹波街道」との表示を眺めながら、急坂を登ります、町名は平井山荘に変わります。町名に相応しく、豪邸が右に左に続きます。住宅の最高部に小さな公園があり、ここに平井古墳群の標識が立っていました。
この名前は、この公園の周りの人しか知って居られないのではないでしょうか。
 ここから、平井古墳群B、平井古墳群Aと頂上近くまで続きます。平井古墳群Bは、標高150~160mにあり、もっとも、古墳の数が多く、92基を数えると説明されていました。
古墳は、すべて円墳で、石室の直径が10m以下のものばかりです。石は少し北にある石切山からのものと思われますが、天井石は長径が1mを超えるものもあり、運搬には相当のエネルギーを要したと思われました。石室の形式は、横穴式石室です。
ここより少し西の安倉という町で、安倉高塚古墳が残っています。こちらは、?鳥七年銘の神獣鏡が見つかっており、石室は竪穴式古墳です。 ?鳥七年は、中国の「赤鳥」しかありませんから、西暦244年になります。平井古墳群は、西暦244年以降となりますから、4世紀ころのものでしょうか?
私がこの古墳を訪れた目的は、「平井古墳群B」から、陶棺の欠片が出土したという記録があったからです。これはユダヤ人の棺おけではないかと調べている最中だからです。

「それがどうした」と言われそうですが、山の中へ足を踏み入れ、くもの巣と蚊に悩まされながら、東西と北に、50mほど歩きました。どの古墳も崩壊寸前の哀れなものばかりでした。ある古墳は、数個の石だけのものもありました。すこし、落葉を書き分けてみましたら、10cm掘っても、なお落葉でした。
山全体をお墓にしなければならないほど、この辺りには、人がいっぱい住んでいた証しです。隣の池田市も箕面市もこんなにありません。1700年昔には、この辺りがもっとも栄えていた所だと思われます。先ほど書きました「丹波」への入り口というか、大陸から入ってきた文化が、瀬戸内に抜ける重要な拠点だったと想像しました。
いくら栄華を誇っていても、いつかはこのような哀れな状態になるのだなと思いながら、下山しました。 

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