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2005.11.27

古事記を読む  火遠理命と産屋

No149
No142において、二人の子供に何故「火」がついているか、その理由を付けたしたのでしょうか? ・・・なんだかすっきりしませんと書きました。
「佐久夜毘売よ、一宿にや妊んだからには、これ我が子ではないだろう。きっと、国つ神の子であろう」とニニギ命に言われて、木花之佐久夜毘賣は、戸無き八尋殿(やひろどの)を作りて、其の殿の内に入り、土をもって塗り塞ぎて、産む時にさいして、火を其の殿に著けて産みました。

このような馬鹿なことはあり得ないと思っていましたが、これに近い風習と木花之佐久夜毘賣のことも書いてある本を読みましたので、紹介します。澤 潔著『西丹波秘境の旅』より
① 京都府の由良川の支流・土師川の分流の川合川の源流に、大原(三和町)に藁屋根妻入りの二畳ぐらいの広さの産屋が復元されています。大原の町では、大正初期までこの小屋でお産をしていた。その後、家でお産をするようになってからも産後、産婦がここに移って七日間、のち三日間の忌ごもりをする風習は、昭和30年(1955)ごろまで続いていたという。
② 対馬の木坂(上対馬町鰐浦)にも似たようなものがあったことを『海神と天神』(白水社)から抜書きをしています。
「婦人が産をなす場合には、ひと川隔てたる血に、わざわざ小屋を造りてこれに移る。而して、一定の日数がたつまで産婦はその小屋に居りて、家人が食事をはこぶなり。また産の時は、男子は小屋に近づくことを禁ぜり。こは人家のある地は、そこにある神社の神領なるをもって、かく離れたる地に至りて産をなせるなり」
上の風習は、明治20年ころまで続いたとあります。『谷川健一著作集⑧』にも詳細にあると澤 潔氏は紹介しています。
「産小屋の中には、川砂を敷気、その上に藁を敷いて床を張らなかった。床を張ったら難産、床を取ったら安産と言われた。産屋の砂は安産のお守りとして、今でも氏子に配られている
」。

③ 若狭に多い産屋と題して、常宮神社の「砂持ち行事」のこと、気比神宮では、いまでも参拝者が砂袋をもらい受け、お産の前に、自分の家屋敷の隅に撒いて邪気を払うなどの記事があります。
立石半島の西浦七郷と呼ばれる縄間・常宮・沓・手ノ浦・色ヶ浜・浦底・立石の七郷と、それに隣接する白木、又常神半島の常神・神子・小川の三村落や内外海半島の外浦の犬熊にも産屋があったことが記されています。

④ 徳之島では、婦人が出産すると、産屋の側で七日間昼夜別なく火を焚く。この習慣は、琉球では、奄美(アマウミの略)から八重山(ヤエ山はハエ山で南の意味)諸島一帯まで行われていた。
同じ習俗はインドネシア、インドシナ半島の諸民族に顕著で、メラネシアまた八丈島にもあるという。
この外に、『古語拾遺物語』の中の一文も加えて、「お産の忌み」に関する風習を記しています。
はじめに書きました大原の藁屋根妻入りの産屋の近くには、大原神社があります。この神社の祭神は、イザナミ命、アマテラス大神、ツキヨミ命です。この神社の又の名は、天一社と云うそうですが、どういう意味か判りません。少し、南下したところの西脇市に天目一箇神(アメノマヒトツノカミ)がありますが、この天と一を取ったとしますと、こちらは製鉄の神ですし、祭神のアマテラス大神、ツキヨミ命から推察すると、この一帯に高天原から移動した天津族が住んでいたのかも知れません。
産屋に火を点けたのは、疑われたために、間違いないことを証明するために起こした本当の事件であったのかも知れません。

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2005.11.21

古事記を読む  火照命の服従 その2

No148
原文
授鹽盈珠、鹽乾珠并兩箇。即悉召集和迩魚問曰。今天津日高之御子。虚空津日高爲將出幸上國。誰者幾日送奉而。覆奏。故各隨己身之尋長限日而白之中。一尋和迩白。僕者一日送即還來。故爾告下其一尋和迩。然者汝送奉。若渡海中時。無令惶畏即載其和迩之頚送出。故如期一日之内送奉也。其和迩將返之時。解所佩之紐小刀。著其頚而返。故其一尋和迩者。於今謂佐比持神也。
是以備如海神之教言。與其鉤。故自爾以後。稍愈貧。更起荒心迫來。將攻之時。出鹽盈珠而令溺。其愁請者。出鹽乾珠而救。如此令惚苦之時。稽首白。僕者自今以後。爲汝命之晝夜守護人而仕奉。
故至今。其溺時之種種之態不絶仕奉也。
翻訳
鹽盈珠(しおみつたま)と鹽乾珠(しおふるたま)并わせて兩箇を授けて、即ぐに、悉く和迩(ワニ)魚を召して集めて問うて申しました。「今、天津日高の御子である虚空津日高が將に上國へ出幸しようと爲されています。誰か幾日かで送り奉てまつって、覆(かえ)り奏すか」と云いました。すると、各、自分の身長の尋長(ヒロタケ)に隨がって、日を限って申す中に、一尋の和迩(ワニ)が、白します。「僕が一日送り即に還って來ましょう」と申しました。だから、ここで、其の一尋の和迩に「然(しか)らば汝が、送り奉てまつれ。若し、海の中を渡る時に、な惶畏(かしこ)ませりそ」と告げて、即ぐに、載其の和迩の頚に載せて送り出しました。すると期の如く、一日の内に送り奉てまつる也。
其の和迩を將に返えそうとする時、所佩(はか)せる小刀の紐を解いて、其の頚に著(つ)けて返しました。それ故、其の一尋の和迩は、今に於いて、佐比持神と謂う也。
是に以ちて、備(つぶさ)に、海の神の教え言の如くにして、其の鉤を與えました。故に、それより以後は、稍愈(やや)に貧しくなって、更に、荒い心を起して迫めて來ました。將に攻撃をしようとする時、鹽盈珠を出して溺れるように命令し、其の愁い請うたれば、鹽乾珠を出して救い、此の如く、惚(なやま)し苦るしむように命令すると、稽首(のみ)白うしました。「僕は今自以後は、汝の命の爲に、昼夜の守護人として仕え奉ります」と申しました。
だから、至今に至るまで、其の溺れし時の種種の態、絶えず、仕え奉てまつる也。

考えたこと
① 和迩(ワニ)とありますが、海ですから、鮫のことでしょうか? 
② 「自分の身長の尋長(ヒロタケ)に隨がって」の部分が、判るようで判りません。尋長は、どこかの長さでしょう。前に「身長」とありますから、口のさきから、尾の先まででしょうか? 尾の付け根まででしょうか? 頭はいれないのでしょう? 人ですと、手を広げた長さを一尋と言います。この長さが広い人ほど、泳ぎが速いと思われていたのでしょうか? 身長そのものとすると、身長が長いほど、和迩も速く泳ぐとおもわれていたことでしょうか? 
③ 鹽盈珠と鹽乾珠---こんな玉があれば、便利です。海の水が何故、塩辛いかという物語を読んだような気がするのですが、マンガだったかもしれません。塩が出るように願っていたら、その人は悪い人であったので、塩が止まらなくなってしまった。そのために、海の水は塩辛いのだと。花咲かじいさんでも、同じことです。正直者は、ある道具を手にすると、願いことが叶うというパターンです。もっとも、新しいもので、子供達に夢を与えたものは、ドラエモンのどこでもドアです。
それだけ、海幸彦(火照命)は、憎かったのでしょう。兄弟でも、許せなかったのだと思います。
③ 「日を限って申す中に、」 いついつまで戻ってくるように、限ったということでしょうか? 一日で送って帰ってくると云ったワニがいたのですから、日を限る必要も無かったように思えますが・・・。
④ 「其の溺れし時の種種の態」が理解困難。種種の態とは、いろいろの状態でしょう。溺れるときの原因が種々なのか、溺れるときの、苦しがる様でしょうか? まあ、四六時中、守ってくれたことは確かでしょう。

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2005.11.15

古事記を読む   火照命の服従

No147
原文
於是火袁理命思其初事而。大一歎。故豐玉毘賣命聞其歎以。白其父言。三年雖住。恆無歎。今夜爲大一歎。若有何由。故其父大神問其聟夫日。今旦聞我女之語云三年雖坐。恆無歎。今夜爲大歎。若有由哉。亦到此間之由奈何。爾語下其大神備如兄罰失鉤之状。是以海神悉召集海之大小魚問曰。若有取此鉤魚乎。故諸魚白之。頃者赤海[魚へんに即]魚於喉[魚へんに更]。物不得食愁言故必是取。於是探赤海[魚即]魚之。喉者。有鉤。即取出而清洗。奉火遠理命之時。其綿津見大神。誨曰之。以此鉤給其兄時。言状者。此鉤者。淤煩鉤、須須鉤、貧鉤、宇流鉤云而。於後手賜【於煩及須須。亦宇流六字以音】然而其兄作高田者。汝命營下田。其兄作下田者。汝命營高田。爲然者。吾掌水故。三年之間必其兄貧窮。若恨怨其爲然之事而攻戰者。出鹽盈珠而溺。若其愁請者。出鹽乾珠而活。如此令惚苦云。
翻訳
是において、火袁理命は其初めの頃の事を思って、大いに一つ歎げきました。そこで、豐玉毘賣命は其の歎きを聞いて、其の父に白し言いました。「三年住んでいると雖えども、恒には歎げくことは無いが、今夜は大いに歎いておられます。若し何の理由が有るのでしょう」。そこで、其の父である大神は其の聟夫(むこ)に問うて言われました。「今朝、聞我の女の語るのを聞けば、『三年坐ますといえ、恒は歎げか無くても、今夜は大いに歎げいた』と言われました。若し理由が有る哉。亦、此間に到った理由は奈何」と言われました。爾に、語下其の大神に備(つぶ)さに兄の失しなった鉤の状の如くを語り下しました。是れで以って、海神は、海之大小魚を悉く召し集めて問うて曰烏されました。「若し此の鉤取った魚は有る乎」。すると、諸の魚は白しました。「この頃は、赤海の魚、魚の喉に於いてノギが刺っていて、物を食べれないと言って愁いています。だから、必らず、是れを取りたい」。是に於いて、探赤いチヌの喉を探ると、鉤が有り、。すぐに、取り出して清く洗って、奉火遠理命にそれを奉て祀ったときに、其の綿津見大神が誨(おしえて)言われました。
「此の鉤を其の兄に給う時に言う状(さま)は、『此の鉤は、淤煩鉤(おぼち)、須須鉤(すすぢ)、貧鉤(まぢち)、宇流鉤(うるぢ)』と云うて、後手にして、賜いなさい。然し而、の兄が高田を作ったら、汝じの命は、下田を營みなさい。其の兄が下田を作れば、汝命は高田を營見なさい。そのように爲せば、吾の掌の水であるから、三年之間には、必らず其の兄は、貧しくなり窮すであろう。若し、其のことを恨怨(うらん)で攻め戦うのであれば、鹽盈珠を出して溺らせ、若し、其のことを愁いて請(もう)須用であれば、鹽乾珠を出して活(い)かして、此の如く令惚(なや)まし、苦しめなさい」と云われました。

考えたこと
 『此の鉤は、淤煩鉤(おぼち)、須須鉤(すすぢ)、貧鉤(まぢち)、宇流鉤(うるぢ)』と云うて、後手にして、賜いなさい。
この部分は、気になるところです。「後手」を訳本では、「しりへで」と読ませて、注釈には、「人を呪うときの行為」とあります。本当でしょうか? なぜ、疑問に思うかといいますと、もし、呪いの言葉であるとしますと、「この針は、おぼ針、すす針、貧針、うる針」だぞと言ったことになります。なんのことか、さっぱり判りません。倉野氏は、心のふさがる針、心のたけり狂う針、貧乏な針、愚かな針と書いておられます。原文をみてください。【於煩及須須。亦宇流六字以音】このように書いてあります。漢字には意味はなく、音だけですよと、断ってあるのに、「貧鉤」を「貧乏な針」と訳しておられます。貧乏な針、愚かな針とは、どういうことでしょうか? この針を持った人は、貧乏になる、愚かになるということでしょうか? 私はもし、呪いの言葉であるのであれば、聴いた相手が、何のことか判らないので、気味が悪くなって、気になって仕方が無いようになると思うのですが・・。
「後手」も手を後ろにやってでは翻訳は間違っているのでしょうか? 「後手」は、前に手をやる動作です。手を前にしますと、姿勢は自然と前屈みになります。手を擦ると揉み手になります。後ろ手にすると、自分ですると、姿勢は良くなり、堂々として見えます。この状態で、紐でくくられると犯罪者になります。自信満々で、言いなさいということではないでしょうか?
ところが、判らなかったのは、私ばかりではなく、日本書紀の作者も判らなかったようです。日本書紀の作者が正しいと思っている内容は、別書の部分ではない、はじめのところに書いてあります。ここには、「この釣鉤を兄上にお渡しになるときは、そっとこの釣鉤に『貧鉤(貧乏になるつりばり)と言っておあげなさい』と言っておあげなさい」と書いてあります。是であれば、意味がよく判ります。「淤煩鉤、須須鉤、貧鉤、宇流鉤」の4つが書いてあるのに、何故、貧鉤しかないのか? 古事記が間違いで日本書紀が正しいのかと思いきや、日本書紀は、ある一書には、「貧鉤、滅鉤、落薄」とあると書き、ある一書には、「大鉤、踉?(足+旁鉤、貧鉤、痴騃鉤」と書かれています。後者は、きっと、古事記のことだと思います。「淤煩鉤、須須鉤、貧鉤、宇流鉤」と同じ、4つあり、順序も同じです。宇流鉤は痴騃鉤と変換するのは判りません。宇流鉤はウルヂでしょうが、痴騃鉤をウルヂと読ませるのは、無理でしょう。しかし、井上光貞氏の訳本では、ウルケヂとして、意味は(おろかもの)としています。
それにして、内容は陰湿ですね。天皇家といえども、この様に呪いながら、自分が生き残ろうとしたということでしょう。日本書紀を書いた漢人も、自分達の都合の良いように書き、籠神社の人たちは『丹波国造本記』に記録として残し、物部氏の人たちは、自分達の書いたものや、古事記などを参考にして、先代旧事本紀に残したのではないでしょうか?

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2005.11.09

正倉院展へ行ってきました

入場者9000人の報道に驚いて10月30日の日曜日は、行くのを中止しましたが、予定が続いているので、11月3日に正倉院展に行ってきました。混雑を見込んで早く家を出ましたが、遠くを承知で行った高畑の県立駐車場は、8割方、車で埋まっていました。
覚悟はしていたものの行列は、どこまで続くかと云う感じで列をなしていました。
 当然、館内の混雑は相当なもので、展示物の前は、三重のところが多いので、展示物がみえない端から並んで待ちます。展示物の前まできたときには、当然、私は最前列です。
前列でもみることが出来ないものは、拡大鏡を使いますと鮮やかにその様子が見え、ついつい前で佇む時間が長くなりました。
昼食も食べないで見終わったのは2時でした。

私の気に入ったものを書いておきます
① 槃龍背八角鏡---出来上がったばかりの感じを受けることときれいに鋳造されていることに感心しました。前漢や後漢時代の古墳からでる鏡に比べて、龍の肌の部分は、精緻で驚くばかりです。唐からの請来したものとありますが、技術に格段の差がありました。
鏡もさることながら、横に緋絁帯がありました。鏡の紐の部分に通したと見られる組紐が緋絁帯に結ばれていました。色は少しくすんでいましたが、「緋」とありますから、鮮やかな赤色であったのではと思います。「絁」とありますから、絹の織物です。古い絹製品を見たのは初めてです。機目の細かさは、現在のものと違うのに驚きました。これは、日本製なのかどうか知りたかったです。
② 木画紫檀棊局(碁盤)---聖武天皇の遺愛の品であるのとその出来の見事さに、一番人気があったのではと思います。
③ 紅牙撥鏤棊子---②よりも気に入ったのは、これです。人間だれでも拘っていくと、木画紫檀棊局のようなものに行きつきます。象牙でできた碁石は、着色しなければ白色のままでいいのに、赤に着色し鳥の絵が細い線で彫り込まれています。カンムリを持つ鳥の冠も一本ずつきれいに彫られています。この彫りものは、両面に施されています。
普通の白黒の石は、石英と蛇紋岩で出来ていますから、普通に囲碁をするときは、こちらを使ったのでしょう。紅牙撥鏤棊子の方は、お祝いのときのような特別な日に使ったのでしょうか?
④ 古文書----聖武天皇が紫香楽宮、恭仁宮、難波宮と移られ、その後平城京にもどられた後も各宮に残っていた職員に支給された給与などは、このように古い時代の古文書ははじめて見ただけに感動ものでした。
この文書は裏が透けて見え、この書類が時効にになった後、写経所において再利用されていたことも考えさせられるものがありました。

感想と要望---正倉院展は体力が必要です。館内に腰をおろす椅子がほしい。椅子がダメなら、当日であれば、再入館のシステムもほしい。

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2005.11.05

正倉院展がはじまりました

主催は奈良国立博物館
 協力が読売新聞社、NHK奈良放送局、奈良テレビ放送

私は読売新聞を購読している所為でしょうか? 毎年、読売新聞の記事を通じて、正倉院展のことを知ります。そして、今年こそは行こうと思いながら、よう行きません。
いつも行って見た実物と新聞に書かれている賛美とのずれがあるからです。感動しない私は、いつも見る目がないのだとがっかりします。
日曜日に行こうと思っていたのですが、新聞に9000人の観覧者とあり、計算しました。あの狭い博物館に、仮に150人ずつ、5分置きに入場させたとして・・・・。こりゃダメだ。気に入った所で立ち止まることは許されない。

今年の読売のシリーズ「天平の輝き」のはじめの文章を紹介します。
「なんと夢見心地にさせてくれる宝物だろう。東南アジア産の琥珀で作られた花、南海産の夜行貝で細工した葉や連珠、中東のトルコ石など無数の宝石。白銅製の鏡の背面にはめ込んだ素材は混然一体となり、華麗な図柄を浮かび上がらせ」
上手いこと書いておられますね。こんなに丁寧には見せてもらえない気がしますが、今年は別の楽しみがあります。

それは、曲水常雄著「正倉院の謎」(中公文庫\420)を読んでいる最中だからです。昭和62年の発行ですから、40年ほど前に書かれたものです。
この本を読みすすむとわかりますが、著者は、同時に展示されている字ばかりが書かれている目録が気になったのです。こうした目録も宝の内ですから、素人の曲水に博物館は特別に見せてくれるわけがありません。写真など勿論撮らせて貰えません。どうして、どうしてと思いながら、読んでいますと、毎年、正倉院展に通って、記録したそうです。記録していると後ろの方に叱られるので、列の後ろに並んで、又、記録したとあります。この本に書かれていることを記録するのに、10年かかったと書いておられます。

例えば、どのようなことを書いておられるかといいますと、『東大寺献物帳』には、勅書でもないのに、「天皇御璽」印がおされている。誰かが天皇の印を勝手に押印したというこです。これまでに、多くの人が、勅封されているのに、天皇でもないのに、多くの人が開封しています。その時に、なにを出してみたか記録されているのですが、不思議なことがいっぱいあることを発見されています。
現在、10000点近く保存されているのですが、当初、納められた物は、700点ぐらいで、そのどんどん減って、現在は150点だと書いておられます。長年研究された成果から、何故、減ったのか、何故、天皇御璽が勅書でもないのに、押されているのか、つぎつぎ出てくる謎を解明しようとされ、一つの仮説を導いておられます。
どんな仮説か、それは、ご自分で読んで頂く事にします。
当時の歴史が、別の角度から明らかにされているように思われますが、この研究を世間に発表しても、歴史家はだれも見向きもしなかったことを愚痴として書いておられます。

正倉院展は今回で57回だそうですが、読売のシリーズのタイトルのように、「天平の輝き」
宝物は輝いてばかりいないと思います。シルクロードを通ってやってきたと良く書かれていますが、本当にシルクロードを通ってきたのでしょうか? 日本で作られたものもあったのではと思っています。私が、観覧したときに、輝いて見えなかったのは、謎を秘めた宝物だったからなのか、私に見る目が無かったのか、よく見てこようと思っています。

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