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2006.09.29

No26 壬申の乱は日中戦争(1)

〔No25 天武天皇は暗殺された〕は如何でしたか? そんな馬鹿なと思われた方が、殆どであると思います。
 どうして、馬鹿だとおもわれますか? それは、ご自分がいままで知っていた歴史とあまりにも違うからです。暗殺されたとのであれば、誰に暗殺されたのか考えなければなりません。暗殺する人が見つかりません。私は恥ずかしいながら、日本書紀における天武天皇のところは、読んでいないのです。では、どうして、No25に書いてあるデーターを調べたかといいますと、天武天皇の業績を詳しく調べて一覧表にしてインターネットに公表されておられる方が一杯です。そのデーターを拝借して、コピーしました。そして、死亡以外の記事はすべて消去したら残った資料が、No25であり、結論が天武天皇は暗殺されたとなります。ただ、此れだけではありません。天武天皇のことについては、すばらしい天皇であると多くの人が書いておられます。中には、天智天皇の要請を断っておきながら、その皇子を殺しましたから、歴史上最大の権力争いを行った天皇ととらえている人もあります。
 日本書紀は、天武天皇にページを多く割いていますから、多くのことを成し遂げた天皇と見ることもできますが、多くのページを割いたときは、理由があるはずです。その理由を追求する必要があります。

古事記と日本書紀を比較することによって、日本書紀がどのような編集方針を持っていたかを知ろうとしています。その試みは、No1から始まって、No20で終わり、現在中断して、
【No21 古事記は何故作らなければならなかったか】に変えました。

どうして変えたかと云いますと、古事記と日本書紀を比較しながら、原稿を書き始めましたが、「楽しい人生」を書くために、無料で借りているブログを運営しているココログが、8月2日から、アクセス解析ということをはじめました。素晴らしいものと言いますか、この方式が世の中のシステムに使われますと、恐ろしいなと思えるものです。使われますとではなく、もう、既に、使われています。
 
 簡単に、一部を紹介します。今日は何人のアクセスがあったか?  1時間ごとに表示されます。アクセスした人が、キーワードを何に設定してアクセスしたか? アクセスして人が、何分、滞在したか? 例えば、4分32秒 1人。2分25秒の人、2秒の人、1秒の人というように、すべて判ります。最初は、どのページにいき、出るときは、どのページを最後に出たかなどです。リピーターは何人か? 最高アクセスされた方は、1人で、最高120回です。次に多い人は、23回1人。17回1人。 2回以上訪れた人は、5%です。詳細に検討を加えますと、私のホームページを継続して読まれた方は、ゼロということが判りました。
 誰一人として、古事記と日本書紀を比較することに興味を示される方は無いということが判りました。
 私の考え方が間違っているために、面白くないのだと思いますが、そうであれば、面白くない、止めろというコメントがあっても良いですが、非難はありません。あったが気分が悪いので消したわけではありません。一日当たり平均44件のアクセスがあります。
 これは、毎日、掲載するから、読んでいただけないのだと思って、最近は、一日置きに掲載していますが、結果は同じことです。
 古事記と日本書紀をキーワードにして、皆さんのページを拝見していますと、殆どの方が、古事記に書いてあることは、正しくないと捉えておられます。日本書紀に書かれていることは、正しいと捉えておられます。 No1~20は、日本書紀が間違っているのではなく、日本書紀は、古事記は歴史上、消してしまいたかったらしい。 そのくせ、古事記を最大に参考にして編纂を行ったことを見ていこうと考えています。まだ、始まったばかりですが、誰も読まれないのであれば、書いても仕方がありませんので、日本書紀に書いてあることを使って、それが正しいかどうかを検証するために、古事記を参考にしようという方針に変更しました。
 それが、No21以降の文章です。
えらい断り書きが長くなりすぎました。しばらくは、壬申の乱のことを書いて、そして、
天武天皇は暗殺されそうになり、せめて、古事記に、天皇家の系統を残したいと考えたことを書くつもりになっています。そんなことができるのか、自信はありませんが、挑戦です。
次の文章は、日本書紀の天武天皇の、天武4年の一部です。私は、死んだ月と名前と壬申のときの部下であることだけ、強調するために書き並べました。 しかし、日本書紀はもっと、詳しく書いています。
4年6月       大分君恵尺         死亡    壬申のときの部下
5年6月       四位栗隈王        死亡    壬申のときの部下
           物部雄君連 突然発病   死亡    壬申のときの部下
5年7月       村国連雄依          死亡    壬申のときの部下
5年8月       大三輪真上田子人君    死亡    壬申のときの部下

① 4年6月23日 大分君恵尺は病が重くなり、天皇は大いに驚かれて詔し、「恵尺よ、お前は滅私奉公して身命を惜しまず、雄々しい心で壬申の乱に勲功を立てた。自分はいつもお前の努力に報いたいと思っていた。お前がもし死んだとしても、子孫に手厚く賞を与えよう」といわれた。外小紫の位に昇進させられた。いくばくも無く自宅で甍じた。
《天皇は大いに驚かれて詔しと書いてありますから、病床のもとへ天皇が見舞いに行かれたことになります。よほど信頼されていた部下ということが推察できます》
② 5年6月  四位栗隈王は病になって甍じた。  物部雄君連は急病で卒した。天皇は驚かれ、壬申の年に車駕にお供して東国に入り、功績があったので、内大紫の位を賜り、物部の氏上(うじのこのかみ)の地位を与えられた。 《この二人は、天皇が知る機会も無いほどに、見舞いにもいくこともなく、急死したことになります》
③ 5年7月  この月、村国連雄依 が卒した。壬申の年の功により、外小紫の位を賜った。
④ 5年8月  この月、 大三輪真上田子人君が卒した。天皇は大いに悲しまれ、壬申の年の功で、内小紫の位を賜った。大三輪真上田迎君の諡号を賜った。
  《死後、位を貰うことは、普通のことであったのかどうか、また、この位が破格のくらいであるのか調べていません。子孫に手厚く賞を与えようという言葉がありましたから、遺族が困らないようにされたのではないでしょうか? 》

他の人も、ご自分で確かめてください。天皇は、部下の死に接し、驚き、悲しまれた様子が伝わってきます。 同じ月に二人も死ぬことは、そうあることではありません。 私は異常だと考えます。しかし、此れまでに天武天皇が暗殺されたといった人は、田村誠一といわれる方だけです。これだけ、壬申の乱の功労者が、次々に死亡したのに、誰も疑う人がいなかったのは、上に書いたように、死亡に対して、天皇が、手厚い思いやりをされたから、素晴らしい天皇であると受け取られたのだと思います。
仮に、私の推理が正しいとしますと、日本書紀の編集者たちは、見事にその後の人々を騙し続けたことになります。 天武天皇が亡くなられた後は、皇后が、41代の持統天皇になられています。
持統天皇は、異常なほどに、吉野へ行幸されています。 なぜ、頻繁に行幸されたか、つづいて考えてみる必要があります。 一度、吉野の行宮跡に行かれることをお勧めします。理由が自然と判るのではないかと思います。

歴史は、連続しています。〔No25 天武天皇は暗殺された〕という事件は、〔壬申の乱は日中戦争〕であると考えないと、天皇の皇位争いでは、謎がとけません。
どの本を読まれても、天皇の皇位争いしかありません。 天皇家は、延々と皇位争いを繰り返したとんでもない、恥ずかしい家柄であるというのが、日本史の主流です。(こんなどぎついことは書いてはありません。)そんなに、はずかしい歴史であるならば、この度の皇子誕生はそれほど、喜ぶほどのことではないし、天皇が滅ぼうが大したことではありません。
 なのに、殆どの日本人は、誕生を祝福し、天皇家が絶えないことに安堵しました。

私もわけの判らないことを書いていますが、次回から、【壬申の乱は日中戦争】であったのタイトルで、しばらく書いてみようと思います。
ご興味ありましたら、又、訪問してください。リピーターがあまり少ない時は、中止することになると思います。 

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2006.09.27

No25 天武天皇は暗殺された

No.265の内容は、H2004.12.12に、「楽しい人生」というブログに書いた記事です。その時のタイトルは、「天武天皇は暗殺されたか」でしたが、その後、いろいろ考えているうちに、「天武天皇は暗殺された」になってしまいました。
との書き出しで、「新しい日本の歴史」http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/2006-06-30
のNo265に書きました。 

天智天皇は暗殺されたのではないかと書いておられる方は居られましたが、天武天皇は暗殺されたと書いた書物はありません。このような結論に至ったのは、これまで書いてきました歴史の流れと日本書紀が元になっています。 
以下に採録します。

日本書紀より、天武天皇近辺の人々の病気・死亡の記事を抜粋しました。
3年2月27日    紀臣阿閉麻呂      死亡   壬申のときの部下
4年6月       大分君恵尺        死亡   壬申のときの部下
5年6月       四位栗隈王        死亡   壬申のときの部下
           物部雄君連 突然発病   死亡   壬申のときの部下
5年7月       村国連雄依        死亡    壬申のときの部下
5年8月       大三輪真上田子人君   死亡   壬申のときの部下
5年9月       坂田公雷          死亡    壬申のときの部下
7年4月       十市皇女   とつぜん発病  死亡
7年9月       三位若狭王
8年2月3日     紀臣堅摩呂        死亡    壬申のときの部下
8年3月6日     兵衛の大分君稚見    死亡    壬申のときの部下
8年3月9日     吉備大宰の石川王   死亡
8年5月5日  吉野の会盟
8年6月26日    大錦上大伴杜屋     死亡
8年7月17日    葛城王           死亡
8年8月25日    大宅王           死亡
9年5月21日    小錦下秦造網手     死亡
9年5月27日    小錦中 星川臣摩呂   死亡
9年7月05日      犬飼連大伴     見舞う 
9年7月20日    飛鳥寺の弘聡僧     死亡
9年7月23日    小錦下三宅連石床    死亡    壬申のときの部下
9年7月25日    納言兼宮内卿五位舎人王  発病 死にかける
9年7月26日    舎人王         死亡
9年9月27日    桑内王       自宅で死亡
9年11月10日    皇后  発病  平癒
9年11月16日    恵妙僧を 見舞う
9年11月17日    恵妙僧          死亡
9年11月26日    天皇 発病 平癒
10年2月29日    阿倍夫人(天智天皇の嬪)  死亡   681年
10年2月30日    小紫位当摩公豊浜      死亡
10年8月11日    大錦下上毛野君三千(ミチヂ)  死亡
11年1月18日    氷上夫人(天皇の夫人)  宮中で死亡
11年2月       小錦下舎人連糠虫     死亡  壬申のときの部下
11年3月       土師連真敷          死亡  壬申のときの部下
11年6月12日    殖栗王            死亡
11年7月9日     小錦中膳臣摩漏      病気
11年7月18日    小錦中膳臣摩漏       死亡 壬申のときの部下 
11年8月28日    日高皇女(草壁皇子の女)  病気
12年6月3日     大伴連望多           死亡 壬申のときの部下
12年6月6日     高坂王             死亡
12年7月4日     鏡姫王(藤原鎌足の室)    病気
12年7月5日     鏡姫王              死亡
12年8月2日     大伴連男吹負          死亡 壬申のときの部下
12年5月19日    直大参当麻人広麻呂      死亡
14年9月24日    天皇健康が優れない  大官大寺・川原寺・飛鳥寺で誦経させる685年
14年10月8日    オケラを煎じさせる
14年10月10日   束間温湯に行幸しようとする
朱鳥元年3月6日    直大参羽田真人八国   病気に    (686)
朱鳥元年3月25日                   死亡   壬申のときの部下
朱鳥元年5月9日   侍医の百済の人億仁  病気 死にそうになる
朱鳥元年5月16日  体の調子が悪いので、祈願を依頼する
朱鳥元年5月24日  天皇病気重くなる
朱鳥元年9月9日  天皇 死亡         116日で死亡   686年

〇 この表から考えたことを記しますと、
① 天皇が具合が悪くなりはじめたのは、14年9月24日。ほぼ 一年後に死亡
② 病気が重くなって死亡までの記事が全く無い。
③ 天武5年から急に死亡者が増える。
④ 殆ど、壬申のときの部下であり、この部下には、位を増やしている。大切な部下ばかり15名が死亡した。信頼於ける部下が殆ど(?) 死んだか?
⑤ 6月、7月、8月、9月の死亡が多い。
⑥ 突然死亡というのがあります。 人間なかなか突然には死にません。普通は、何か作為があると考えます。
以上のことから推察できることは、これらの内、多くの人は、毒殺されたと思えます。
しかも、毒物の種類は、6月~9月に効果を発揮する毒物(毒草)が想像されます。
天武天皇は、 8年5月5日の辺りで、変だと思われ、吉野における会見となります。
14年9月24日自分の身体の調子が悪くなり、古事記の編纂を稗田阿礼に命じたと思われますが、日本書紀には、勿論記されていません。
14年10月10日に束間温湯に行幸しようとする記事があります。なぜ 果たせなかったか理由は書いてありません。631年に舒明天皇が、647年に孝徳天皇が兵庫県の有馬温泉に行幸されていますが、其のときの人数は、少なくとも100人、多ければ400人になろうかと思われます。この際、行幸道が問題です。武庫川が使われたと推察できます。この川の両岸にある神社名は、天皇にとって安全な神社ばかりです。
このようなことを考慮すると、ちょいと温泉というわけには行きません。
行けなかった理由は不明ですが、私は部下が居なかったのが大きい理由ではと思います。
仮に、毒殺だとしますと、病気重くなってから、116日で崩御されています。飲む量によりますが、気づかれないようにするには、是ぐらい日数が必要な毒草となります。天智天皇も似たような日数で崩御されていますから、毒殺された可能性があります。
〇 川嶋皇子、忍壁皇子(オサカベ)、広瀬王、竹田王、桑田王、三野王、大錦下上毛野君三千(ミチ)、小錦中忌部連首(オビト)、小錦下安曇連稲敷、難波連大形、大山上中臣連大嶋、大山下平群臣小首以上は、日本書紀の編纂にかかわったと見られる名前ですが、誰も死んでいません。
8年5月5日  吉野の会盟とは、この日、吉野宮にお出ましになり、6日に草壁皇子尊、
大津皇子、高市(タケチ)皇子、河嶋皇子(天智天皇の皇子)、忍壁(オサカベ)皇子、芝基(シキノ)皇子(天智天皇の皇子)を集めて、千年後でも事がおこらないようにしたいと思うと述べ、皆に、事をおこさないように誓わした。
 千年どころか、直ぐに事が興りそうであったから、このような会合が持たれたことになります。
もっと 他のところから、可能性があるか調べる必要があります。
可能性があれば、日本書紀の編纂に携わった人は、天皇の反対勢力の人達であり、それ故に、天武天皇は、古事記の編纂を、字にしないで、頭の中に仕舞って置くように稗田阿礼に命じた意味が解明されることになります。
そのためには、天智天皇より前からの歴史を正しく知ることが必要になりますが、その最大の資料が日本書紀ですから、日本書紀は勿論のこと、手が加えられたであろう古事記も、書かれていることをそのまま、読んだのでは正しい歴史を知ることが出来ないと思います。

如何でしたか? このような事情があったからこそ、古事記の制作を急ぐ必要がありましたが、実際に出来たのは元明天皇の和銅五年になります。それまでは、作ることが出来なかったことになります。712年に完成しますが、直ぐに、世の中からは消滅し、400年後に写本が発見されることになります。

上のデーターは、日本書紀に書かれているだけのデーターですが、古事記の序文と一緒に読みますと、「天武天皇は暗殺された」は真実に思えてきます。
No24で述べましたように、日本書紀の天武天皇に関する記述は、丁寧に読む必要があります。
このように考えますと、天武天皇の後、皇后が持統天皇となられたときに、吉野へ31回も行幸されています。この回数の多さは謎とされていますが、謎でもなんでもないことが判ります。
興味ありましたら、
No261 第4代 女帝持統天皇(41代天皇)   よりNo269までを読んでください。


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2006.09.22

No24古事記の序文 その3

於是天皇詔之、朕聞、諸家之所■帝紀及本辞、既違正実、多加虚偽。当今之時不改其失、未経幾年其旨欲滅。斯乃邦家経緯、王化之鴻基焉。故惟撰録帝紀、討覈旧辞、削偽定実、欲流後葉。時有舍人、姓稗田、名阿礼、年是廿八。為人聡明、度目誦口、拂耳勒心。即勅語阿礼、令誦習帝皇日継及先代旧辞。然運移世異、未行其事矣。

倉野氏の翻訳
是(ここ)に天皇詔(の)りたまひけらく、「朕(われ)聞きたまへらく『諸家の賷(もた)る帝紀及び本辞、既に正実に違(たが)ひ、多く虚偽を加ふ』といへり。今の時に当りて、其の失(あやまり)を改めずば、未だ幾年をも経ずして其の旨(むね)滅びなむとす。これすなはち、邦家の経緯、王化の鴻基(こうき)なり。故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈(とうかく)して、偽りを削り実(まこと)を定めて、後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)ふ。」とのりたまひき。時に舎人(とねり)有りき。姓(うぢ)は稗田(ひえだ)、名は阿礼(あれ)、年はこれ廿八。人と為(な)り聰明にして、目に度(わた)れば、口に誦(よ)み、耳に払(ふ)るれば心に勒(しる)しき。すなはち、阿礼に勅語して帝皇日継(すめらみことのひつぎ)及び先代旧辞(さきつのよのふること)を誦み習はしめたまひき。然れども、運(とき)移り世異(かは)りて、未だ其の事を行なひたまはざりき。

言葉の意味
1. 帝紀、皇統譜や天皇に関する重要事項を書いたもの。
2. 邦家の経緯、国家行政の根本組織。
3. 鴻基(こうき)、大本、基本。
4. 帝皇日継 、帝紀と同じ。
5. 旧辞、神話、伝説。歌謡などを書いたもの。
6. 先代旧辞、旧辞と同じ。
7.  舎人(とねり)、天皇や皇子等の側近にあって雑事に勤仕した者。

翻訳
 そして天皇は、「私は聞いた。諸家にもたらされている帝紀及び本辞は、既に真実と違っている、多く虚偽が加えられていると。今この時期に、その誤りを改めねば、数年を持たずに、その本旨は滅びてしまうだろう。これは国家行政の根本であり、天皇家が存続するための基本である。ここに、帝紀を撰録し、旧辞を調べ、偽りを削り真実を見定めて、後世に伝えたいと思う。」と言われた
 時に舎人がいた。姓は稗田、名は阿礼、年は二十八。人となりは聰明で、一見しただけで、すぐ口ずさめ、聞いただけで、心に記し忘れない。そこで、阿礼に天皇の命令で帝皇日継(すめらみことのひつぎ)及び先代旧辞(さきつのよのふること)を暗誦させた。しかし天皇の御世が変っても、未だこの事は行なわれていない。

この部分は、割合理解し易かったのではないかと思います。本などでは、「令誦習帝皇日継及先代旧辞」が取り上げられ、この中の「誦習」が有名です。どこにも暗記をさせたとの字句はありませんが、読んで記録するのでは、写しただけになるし、読んで記憶させたのであれば、暗記させたことになります。文章と言うものは、元来もっている意味だけを忠実に表現しても書いた人の思いは伝わりません。話し言葉であれば、はじめに持ってきたか、強く言ったか、大声で威嚇するように言ったなど、書き言葉に書く時は、書いた人がかってに、書き加えないと喋った人の気持ちを正確に表現することは出来ません。文章の場合は、その言葉が書いてある前後の文章によっても意味が異なってきます。このような意味からいいますと、私が勝手に区切って翻訳をしていることは間違っています。

このフレーズにおいて、あまり重要視されていない言葉があります。「私は聞いた」です。
この言葉は、天皇が言われた言葉です。なにを聞いたのかと言いますと、『諸家にもたらされている帝紀及び本辞は、既に真実と違っている、多く虚偽が加えられている』という事実です。これは、天皇が自分で諸家にもたらされている帝紀及び本辞を自分で読んで、『真実と違っている、多く虚偽が加えられている』ことを知ったのではありません。知った人から聞いたことになります。それも『諸家にもたらされている帝紀及び本辞』とあります。一冊ぐらいであれば、このように考えなかったでしょう。諸家とは、だれだと書きたかったでしょうが、書いていません。例えば、試しに10冊だけを取り上げてどのように、天皇家に伝わっているものと違っているかを調べさせればいいことです。ところが、それどころではなかったようです。お前ところのは、間違っていると改めさせる力は天皇に無かったことになります。そこで、せめて、調べて正しい帝紀及び本辞を作って、これがただしいものですよと、後世に伝えたいと書いてあります。随分弱気です。
 では、消極的な天皇であったかどうかは、天武天皇のことについて書き残されているもので判断するしか方法はありません。最大のものは、日本書紀です。
どの書物でもそうですが、日本書紀の作者に都合の悪いことは一切書いてありません。特に、書いたことによって、その後、損になることは一切書かないはずです。例えば、自分達が焼き討ちにでもしなかったのであれば、法隆寺が焼けたと書きます。だから、これは信頼して良い内容です。このように、書いてあることを一つずつ吟味してから、信頼できるかどうかを決め、その上で利用しなくてはいけないと思います。
 大まかな考え方を述べますと、日本書紀には、記事が多い天皇と少ない天皇がおられます。少ない天皇は、業績がなかったから書くことがなかったと考えても良いのですが、いっぱい書きたかったから書いたと考えてもいいのです。
神功皇后は天皇でもないのに、記事が多いです。雄略天皇、欽明天皇、天武天皇などです。日本書紀は、古代しか丁寧に読んでいませんから、間違っていたら訂正してください。神功皇后、雄略天皇、欽明天皇、天武天皇のところに書かれている業績は、天皇がしたことにして、本当は、中国人が行ったのではないかと考えています。考えただけで、考察していません。そんなことして何になるかと言われるかもしれませんが、私は名や名誉より、実をとったのではと思っています。
 天武天皇は、用心深い人だったのではないかと思っています。実力のある者は、どんどん採用して自分の部下を増やします。姓を与え、氏を与え、皆の心を掌握するように努めています。一方、元々の高官には、下の者の面倒を良く見るように命じています。
 家族中心で国を治めてきた天皇は、七年の五月五日に、皇子を吉野に集めて、いつまでも仲良くするように命じています。皇子の間が上手くいっていないから、このような会合を持つ必要になったことになります。十年三月十七日に川嶋皇子、忍壁皇子、広瀬王他九人に帝紀および上古の諸事を記し校訂するように命じています。
 この時点では、天皇は、諸家がもっている帝紀などを自分の目でみて、命令したと思われます。安万侶が、古事記を編纂したときに、序に書いた「私は聞いた。諸家にもたらと書いたときが、いつになるのか判りませんが、天皇は、十年三月以降には、見ることができなくなっていたことになります。天皇は十四年九月に亡っていますから、この間のことになります。
 もう一度、「令誦習帝皇日継及先代旧辞」に戻ります。私は、稗田阿礼は暗誦させられたのだと思います。暗誦しないで、調べたことを書いておいて置きますと、没収されたり、盗まれたりして無くなってしまったと思われます。それほど、天皇の周囲は、誰も信用の置けない状態にあったと思われます。天皇は、座敷牢のようなところに幽閉されていたのかもしれません。

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2006.09.20

No23古事記の序文 その2

曁飛鳥清原大宮御大八州天皇御世、濳龍体元、洊雷應期、聞夢歌而相纂業、投夜水而知承基。然天時未臻、蝉蛻於南山、人事共給、虎歩於東国。皇輿忽駕、淩度山川、六師雷震、三軍電逝。杖矛擧威、猛士烟起、絳旗耀兵、凶徒瓦解。未移浹辰、気沴自清。乃放牛息馬、愷悌帰於華夏、卷旌戢戈、儛詠停於都邑。歳次大梁、月踵侠鍾、清原大宮昇即天位。道軼軒后、徳跨周王。握乾符而摠六合、得天統而包八荒。乘二気之正、斉五行之序、設神理以奬俗、敷英風以弘国。重加、智海浩汗、潭探上古、心鏡煒煌、明覩先代。

倉野氏の翻訳
飛鳥の清原の大宮に大八州(おほやしまぐに)御(しら)しめしし天皇(すめらみこと)の御世に曁(いた)りて、潜竜(せんりょう)元(げん)を体(たい)し、洊雷(せんらい)期(き)に応じき。夢の歌を開きて業(わざ)を纂(つ)がむことを相(あは)せ、夜の水(かは)に投(いた)りて基(もとゐ)を承(う)けむことを知りたまひき。然れども、天の時未だ臻(いた)らずして、南山に蝉蛻(せんぜい)し、人事共給(そな)はりて、東国に虎歩(こほ)したまひき。皇輿(くわうよ)忽ち賀(が)して、山川を淩(こ)え渡り、六師雷(りくしいかづち)のごとく震(ふる)ひ、三軍電(いなづま)のごとく逝きき。杖矛(ぢやうぼう)威(いきほひ)を挙げて、猛士烟(けぶり)のごとく起こり、絳旗(かうき)兵(つはもの)を耀(かがや)かして、凶徒瓦のごとく解けき。未だ浹辰(しょうしん)を移さずして、気沴(きれい)自ら清まりき。乃ち、牛を放ち馬を息(いこ)へ、愷悌(がいてい)して華夏に帰り、旌(はた)を巻き戈(ほこ)を戢(おさ)め、儛詠(ぶえい)して都邑(といふ)に停まりたまひき。歳大梁(ほしたいりやう)に次(やど)り、月夾鐘(けふしよう)に踵(あた)り、清原の大宮にして、昇りて天位(あまつくらゐ)に即(つ)きたまひき。道は軒后(けんこう)に軼(す)ぎ、徳は周王に跨(こ)えたまひき。乾符(けんぷ)を握(と)りて六合(りくがふ)を摠(す)べ、天統を得て八荒(はつくわう)を包(か)ねたまひき。二気の正しきに乗り、五行の序(ついで)を斉(ととの)へ、神理を設(ま)けて俗(ならはし)を奨(すす)め、英風を敷きて国を弘めたまひき。重加(しかのみにあらず)、智海は浩汗(かうかん)として、潭(ふか)く上古を探り、心鏡は煒煌(ゐくわう)として、明らかに先代を覩(み)たまひき。

言葉の意味
1. 潜竜元体、潜入していた竜が元の姿を表わした 
2. 洊雷應期、しきりに雷がなるように、(あちこちの竜が)、活動すべき時期が到来した。
3. 業、 生業、仕事
4. 天の時、即位する時。
5. 南山に蝉蛻(せんぜい)し、吉野から蝉のようにこっそり抜け出す。 
6. 人事共給(そな)はりて、味方の軍勢も多くなり。
7. 虎歩、虎が歩くように威風堂々を進む。
8. 皇輿(くわうよ)、天皇の乗り物。
9. 賀(が)して、行幸して。
10. 六師(りく)、天子の軍。
11. 三軍、諸候の軍。
12. 絳旗(こうき)、天子の赤い旗。
13. 浹辰(しょうしん)十二日間。十二支一巡。
14. 気沴(きれい)、悪気。妖気。
15. 愷悌(がいてい)、心たのしく安らかに。
16. 華夏、中国の帝都。
17. 都邑(といふ)、帝都。
18. 歳大梁(ほしたいりやう)、酉年。
19. 夾鐘(けふしよう)、二月のこと。
20. 軒后(けんこう)、中国の黄帝。
21. 軼、過ぎる、抜け出る
22. 乾符(けんぷ)、天皇であるしるし。神器。
23. 六合(りくごう)、天地四方。宇宙全体。
24. 天統、天使の系統。皇統
25. 八荒(はつくわう)、国の八方の果て。全世界。 
26. 二気、陰陽。
27. 煒煌(いこう)、明らかに輝く。


 飛鳥の清原(きよみはら)の大宮で大八州を治められている天皇(天武天皇)の御世に至り、潜入していた竜が元の姿(正体)を表わし、しきりになる雷のように、時期を同じくして、活動をはじめた。夢の中で聞いた歌を解釈して、帝業を受け継ぐべき事を相談し、夜に川の所へ行き、すべき根本になるものを悟った。しかし、即位する時は未だ来ず、吉野から蝉が殻から抜け出すように、出発した。味方の軍勢も多くなると、東国へ虎のように威風堂々を進まれた。天皇は御輿で行幸して、山川を越えて、天子の軍は雷のごとく振るまい、諸候の軍は稲妻のごとく進んだ。杖や矛は勢いを挙げ、猛士は土煙を挙げ、天子の赤い旗は兵を輝かし、凶徒は瓦のように砕け散った。短時間の間に、悪気は自然と清まった。(中国人の凶徒は)すぐに戦争を止め、心安らかに中国の都に帰った。(天武天皇も)旗を巻き矛を収めて、舞い歌い帝都に留まった。木星が昂の方角に宿る年(酉年)、月は夾鐘(きょうしよう、二月)になり、清原の大宮で、天皇に即位された。道は中国の黄帝より優れ、徳は周王を越えている。三種の神器を得て天地四方を統一し、天津日嗣を得て国の八方の果てまで行き渡った。陰陽の正しい気に乗り、五行の秩序を整え、神の道理を施し良い風俗を勧め、優れた教化を布いて国に広めた。それだけでなく、その智は海のごとき広く、深く上古を探求し、鏡のような御心は明らかに輝き、はっきりと先代を見ておられる。

① この部分は、前回に続くものです。前回は番仁岐から始まって、神武天皇、崇神天皇仁徳天皇、成務天皇、允恭天皇までの業績を称え、天皇家が続いていることを述べています。今回は、古事記編纂に関係のある天武天皇の事を述べていますが、殆ど、壬申の乱について書いているように思われます。壬申の乱は、天智天皇の死後、天智天皇の子供である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)との皇族争いということになっています。結果的には争ったことになっていますが、中国が、郭務そうという人を責任者とし、大友皇子を天皇にして、傀儡政権を作ろうとした、日中戦争であったと捉えています。こんな突拍子な話は聞かれたことは無いと思いますが、このように考えますと、「凶徒瓦解」と書かれている「凶徒」は、中国人のことになります。
② 原文の「濳龍体元、洊雷應期」を倉野氏は、「潜竜元を体し、洊雷期に応じき」と書
てられますが、何のことか意味が判りません。この部分は、日本書紀の編纂者にも判らなかったのではないか推察しています。私が翻訳したように、日本のあちこちに居た中国人が、あちこちから一斉に蜂起した様子を、「濳龍体元、洊雷應期」と書いたのだと思いました。
③  序文は、漢文で書かれていてと説明されていますが、古事記の本文と同様に、全部漢文で理解しようとすると読めないのではないでしょうか? というものの、悔しいことに漢文の読み方を知らないので、書かれている漢字を使って文意が通じるように、翻訳をしています。
「濳龍」がどうして、潜入していた中国人かといいますと、中国人は、龍が好きだったようで、自分達の住んでいたところに「龍」の字をつけたのではないかと推察しています。もっとも、多いのは、山の名前で龍王山です。どれぐらいあるか数えたことはありません。岡山県だけで、11ヶ所あります。岡山県でカーナビにスイッチを入れて走っていると、画面で龍王山が消えるとしばらくすると又、表示されている感じです。もっとも、同じ地域をグルグル走っていますと、画面に現われますが。大阪から、北へ向かって地図で眺めてください。京都も日本海へ抜ける道に沿って眺めてください。亀岡市にもあったと思います。中国人が、龍王山の麓に住みもし、日本海をめざして絹を持って、移動を繰り返していたと推察しています。
④  兵庫県の龍野市は調べてはいませんが、気になっています。高砂市の竜山石は、奈良のように遠いところで、石棺に使われています。同じ、凝灰岩であるなら、近くにある二上山の石を使えば良いのに、高砂市から取り寄せたということは、いつの時代からか分りませんが、竜山石は中国人が支配していた石切り場であったと思われます。二上山の石切り場は、中国人によるものではなかったことになります。
⑤  ただ、この翻訳では、困ることがあります。「飛鳥の清原(きよみはら)の大宮で大八   
州を治められている天皇(天武天皇)の御世に至り」とあります。天武天皇が大八州を治めた世の中になってから壬申の乱が起こったことになります。
「曁」という字を倉野氏は、「いたりて」と読んでおられますが、「飛鳥清原大宮御大八州を目指してこられた天皇の御世に」とすれば、後の文章に繋がります。
⑥ なんだか無理のようにも思えますが、このように解釈しませんと、大友皇子が凶徒になり  
ます。この部分は、安万侶が苦心して作文したところではないでしょうか? このように書かないと古事記が没収されることは、当然ですし、安万侶も暗殺されたと思います。
安万侶の墓誌には、「723年(養老7年)7月6日に死んだ」とありますから、これは、確かでしょう。日本書紀は720年に完成しています。日本書紀を作るときに、古事記を参考にしたと思われます。理解困難なところは、安万侶に手伝わせたと思われます。勿論、安万侶は本当のことを言うはずがありません。
日本書紀の完成後、安万侶は殺されたのではないでしょうか?  日本で発見された墓誌は、これまでに、30少々だったと思います。特異なことになります。中国人の手によって、墓誌を添えて丁寧に埋葬されたのではないでしょうか?
⑦  壬申の乱が日中戦争であった話は、別のところで書きます。

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2006.09.18

No22 古事記の序文 その1

古事記の序文は、3つの部分からなっています。最初の部分の原文を挙げます。
古事記は、書かれている漢字の意味が判れば、意味が通るように作文すればいいという荒っぽいのが私の読み方です。ところが、序文の漢字は意味が判らないのばかりです。

臣安万侶言。夫混元既凝、気象未效。無名無為。誰知其形。然乾坤初分、參神作造化之首、陰陽斯開、二霊為群品之祖。所以出入幽顕、日月彰於洗目、浮沈海水、神祇呈於滌身。故太素杳冥、因夲教而識孕土産島之時、元始綿邈、頼先聖而察生神立人之世。寔知、懸鏡吐珠、而百王相続、喫剣切蛇、以万神蕃息与。議安河而平天下、論小浜而清国土。是以番仁岐命初降于高千嶺、神倭天皇経歴于秋津島。化熊出川、天剣獲於高倉、生尾遮径、大烏導於吉野。列儛攘賊、聞歌伏仇。即覚夢而敬神祇。所以称賢后。望烟而撫黎元。於今伝聖帝。定境開邦、制于近淡海、正姓撰氏、勒于遠飛鳥。雖歩驟各異、文質不同、莫不稽古以繩風猷於既頽、照今以補典教於欲絶。

少し、倉野憲司氏の訳を書きます。他の方の訳本は読んでいません。偶々、最初に求めた本が、倉野憲司氏の本でした。倉野氏は本当に謙虚な方のようで、最後のページに、5行だけ御自分のことを書いておられます。〔附記〕私が古事記の研究に志したのは、大正十二年に東大に入学したときからであって、以来今日まで四十年の間、古事記一筋に歩いてきた。今年は古事記撰上千二百五十年の記念すべき年にあたり、且つは私も還暦を迎えるに至った。この記念すべき時に、岩波文庫の一つとして古事記をだす機会を与えられた・・・・。 この後、関係者に対する謝意が続きます。
 この当時は、人生60年とみんな心に描いていたと思える頃です。倉野氏は、そういう意味では、人生を古事記にすべてをかけられたことになります。古事記を読むためには、古事記に書かれていることだけでは、正しく読むことが出来ません。日本の歴史全般、和歌や地名など、そして、中国、朝鮮をはじめとして、全世界のことも視野に入れて解き明かす必要があります。
 この古事記が出来上がった時は、倉野氏の訳を理解できる人は、大勢おられたのだと思います。
ところが、普通の本すら読む力のないわたしですと、書かれている意味が判りません。

私は、書かれている文章が、国民の70パーセント以上の人が理解できないときは、日本語で無いと思っています。そこで、昨年から、私流に古事記を読む事にしました。その方法が、二行目に書きました「古事記は、書かれている漢字の意味が判れば、意味が通るように作文すればいいという荒っぽいのが私の読み方です」です。
 勿論、プロの人からみますと、お話にならないと思いますが、自分で読むことによって、古事記を書いた人がなにを云いたかったのか、そして、そこに書いてあることを元にして、日本の歴史を正しく知りたく思っています。経験一年の者の挑戦ですから、そのつもりでお読みください。

それでは、先ず、倉野氏の訳を書いてみます。
 倉野氏の翻訳
 臣安萬侶言(しんやすまろもう)す。それ、混元既に凝(こ)りて、気象未(いまだ) 效(あらわ)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰れかその形を知らむ。然れども、乾坤(けんこん)初めて分かれて、参神造化の首となり、陰陽ここに開けて、二霊群品の祖(おや)となりき。所以(このゆえに)、幽顕に出入りして、日月目を洗うに彰(あらわ)れ、海水に浮沈して、神祇見を滌(すす)ぐに呈(あらわ)れき。故(かれ)、太素は杳冥(ようめい)なれども、本教によりて土(くに)を孕(はら)み島を産みし時を識(し)り、元始は綿邈なれども、先聖によりて神を生み人を立てし世を察(し)ぬ。寔(まこと)に知る。・・・・以下省略・・・・。

言葉の意味
1.「臣」、家臣。 臣下。
2.「夫」、文章のはじまりを表わす言葉。
3. 「混元」、渾沌たる元気 
4.「效」は「効」の旧字。しるし、かい、きく、いたす、ならう の意味。
5.「気」は、気体。ガス状のもの。
6.「象」は、かたち、かたどる。
7.「為」は、なす。あることに手を加えてうまくしあげる。つくる。おさめる。なる。変化する。
8.「乾坤」は、天地、陰陽、いぬいとひつじさる。
9.造化、天地の万物を創造し、化育すること。
10.「斯」は、きる、さく、この、すなわち、ここに、しろい 
11.「群品」は、群れ集まっているもの。万物
12.「霊」は、みたま、かしこい、不思議な力を持つ 
13. 所以(このゆえに)—倉野氏は(このゆえに)と読んでおられますが、(このゆえに)が何のことか判りません。以はもって、所はところ。もってするところの。理由を述べるときに使うらしい。普通は「しょい」と読む。〔陰陽ここに開けて、二霊群品の祖(おや)となりき。〕だから、というぐらいの意味でしょう。
14.「幽顕」は熟語は、幽玄、幽霊、幽界です。「幽」は死後の世界。くらい夜。人知れぬところ。かすかな。などの意味です。倉野氏は、黄泉国と葦原中国と注釈に書いておられますが、これは、この後を読めばそうかもしれませんが、無理だと思います。「顕」はあきらか、はっきり見える、身分が高い。
15. 日月を、倉野氏は、天照大御神と月読神と書いておられますが、そうあれば、天照大御神と月読神がその通りでしょうが、このように読みなさいというのは、無理でしょう。精々、日と月の神ぐらいでしょうか?
16.「太素」「太」はおおきい、はるかなる、「素」もとになるもの、元素、本
17. 「杳冥」(ようめい)--「杳」は、くらい、はるか、奥深い、遠くにかすむさま。「冥」は、くらい、使者の世界
18. 太素、物質のはじめ
19. 本教、大切な教え。
20. 綿邈(めんばく)、遥かに遠い。
21. 先聖、古の聖人
22. 蕃息 しげり増えること
23. 黎元、人民、万民
24. 化熊(くわいう)、神が化身した熊。
25. 歩驟格異(ほしり)、「歩」は馬の徐行、「驟」は馬の疾行。政治に緩急のあること。
26. 文質、文彩と質朴。
27. 風猷(ふういう)、風教、道徳

上の字句の意味や、倉野氏の訳を参考にして、私流に意訳します。

 家臣である安万侶が云い述べます。はじめに、交じり合っている元になるものは、既に、凝固している。しかし、ガス状のものと、形のあるものとの区別はつかない。それらのものには、名もなく、手は加わっていない。その形を誰が知っているだろうか。
しかし、天と地が初めて分かれると、三人の神があらわれて、造化の首(はじめ)の部分を作りました。二人の不思議な力を持つ方が、万物の祖となりました。
だから、陰と陽である幽と顕である世界に出入して、日と月の神が目を洗うときに彰(あらは)れました。海水に浮沈しながら、神祇(天の神と地の神)が、(二霊が)身を滌(すす)ぐときに呈(あらは)れました。
物質の素は、暗く霞んで見えますが、昔からの法則に因(よ)って、土を孕(はら)み島が産まれた時を識(し)り、元始(この世の始まり)は綿々と続くはるか遠くにあるが、古からの聖人に頼(よ)りて、神が生まれ、人が立てた世界を察(し)ることができます。
寔(まこと)のことが判ります。鏡を懸け、珠(たま)を吐きて、百王相続き、劒(つるぎ)を喫(く)ひ、蛇(をろち)を切りて、万神が蕃息(増えた)した。
安河(やすのかは)にて合議して天下を平定しようと、小浜(をばま)において論じあって、国土(くに)を清めました。是を以(も)って、番仁岐(ほのににぎの)命、初めて高千嶺(たかちほのたけ)に降(くだ)り、神倭天皇は、秋津島(あきづしま)に経歴されました。そのとき、神が化身した熊が川に出てきて、天の劒を高倉という人に与え、手に入れます。尾のある人が径を遮ぎる程現われ、大烏が(天皇を)吉野に導きました。儛(舞)を列(つら)ねながら、賊を攘(はら)い、歌を聞ききながら、相手を従わせました。
(崇神天皇は)夢で覚って、神々を敬った。それゆえ賢い天皇と言われる。
(仁徳天皇は)炊煙を立てさせ、人民を愛撫した。今に聖帝と伝えられる。
(成務天皇は)国境を定め、国造や県主を定め、近い近江で天下を治められた。
(允恭天皇は)姓(かばね)を正し、氏(うぢ)を撰び、遠い飛鳥で天下を治められた。代々の政治に緩急の差があり、文彩と質朴の違いはあるが、古のことを考えてそれを今のありさまに照らしてみて、風教、道徳の廃れたのを正し、そして今の世でも絶えようとしているのを補わないということはなかった。
  
 いかがでしたか? 僅か、7行の原文を読むのに、大変な労力と時間を費やしました。それで満足できるものが出来たのかと言いますと、自分で書いておきながら、訳が判らない所がいっぱいです。
訳しながら、何度も考えたことは、こんな文章は、当時の人は理解できたのだろうかと考えました。
① 古事記の序は、上の部分を見る限りは、古事記の中の要約のように思えます。青い字で記しました、天皇は本文のなかにありません。しかし、入れないと意味が通じません。安万侶はすべての天皇のことを書いたのではなく、自分がすばらしいと思った天皇のみを挙げて、天皇家の素晴らしさを称えたのでしょう。
② ただ、古事記の中に書かれていることと、序に書かれていることが、合わないところがあります。參神と二霊という言葉がありますが、參神は本文に出てくる五神のうちの天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神と倉野氏はしておられます。二霊は伊邪那岐神と伊邪那美神としておられます。前三人が、どうして神で、後二人が霊なのか判りません。
古事記の本文を読んでもらうと判りますが、三人の神さんは、高天原にやって来たとのみ書いてあります。伊邪那岐神と伊邪那美神は、その後、島を作ったり、神を作っていますから、なんとなくあっていますが、「神」と書かれています。
③ 序は、序文ではなく、天皇に申し上げる上奏文であると多くのところに書かれています。だから、倉野氏も、はじめに、【臣安萬侶言(しんやすまろもう)す】と書かれたのかも知れません。
しかし、「言」と書いてあるだけですから、単に、言っただけかもしれません。この頃は、「言」と書いて、「申し上げた」の意味になるのだときっと、断言されるでしょう。
本当に、当時の人は、難しい決まりがあって、その通りに書いていたのでしょうか?
誰にも断言など出来ません。私の文章など、なってないと言われるでしょうが、言いたい人は言っておけば良いのです。
④ 番仁岐(ほのににぎの)命は、本文の方に書かれていません。
⑤ ①~④まで書いてきましたが、意味が通じないということは、参神が間違っていたり、
  上奏文であるというのが間違っていることになります。間違っていないことにしますと、序文は、
   安万侶が書いたのではないことになります。
  では、書いてあることは全部間違いであるかといいますと、それは、別問題です。変で意味が通らない所だけが、元にあった文章に手を加えたことになります。
⑥ 例えば、熟語と思われる綿邈、先聖は、私が検索した日本の辞書には掲載されていません。
  邈という漢字にいたっては、漢字すら掲載されていません。すこし、大きい辞典で調べますとありました。こんな言葉は、当時の中国人でも判らない人がいっぱいだったのではないでしょうか?  とすれば、安万侶はわざと誰も読めないようなことを書いて、煙に巻くことを試みたのかもしれません。

書いていては切がありません。間違った-翻訳では意味がありませんが、プロの倉野氏よりは、
辻褄が合う文章にしました。 


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2006.09.16

No21 古事記は何故作らなければならなかったか

この理由を考えるとき、次の二つのことを解決する必要があると思われます。誰が作ろうとしたかは、作った太安万侶本人が,「古事記上巻 并序」に書いていますから、それで解決です。依頼者はその時の天皇である天武天皇です。では、天武天皇はどうして、作る気になられたか? 先に述べました二つのこととは、この二つのことです。
 
 私は、歴史に関しては全くの素人です。ただ、面白いから考えたことを書いて、ホームページに掲載していますが、古事記の序文に、次のように書いてありますと前書きを書きましたら、プロの方でしょうか? 古事記に序文などありませんと、注意を受けました。
 調べてみましたら、「古事記上巻 并序」は、古事記上巻に併せて序するぐらいの意味でしょうか。「序」は、のべる ついで はしがき と辞書には書かれており、やはり序文のように思えますが、序文のときは、「并」はつけないのだと書いてありました。なるほど、同じようなことがどこかにも書いてあったような気がします。
ということは、「古事記上巻 并序」は、太安万侶が書いたのではなく、誰かが、勝手に書いたのだということらしいです。それどころか、古い論文では、太安万侶という人は実在しなかった。その理由は、最後の署名の上に書かれた位です。「正五位上勲五等」ですが、このような言い方はしなかった。自分の位を間違えることは有り得ないから、これは、偽物である。ざっと、こんな調子です。
 自分が考えたことと違うことを考えた人を許すことは出来ないらしいようです。そこで、「古事記」と名前が付く本が、次から次に出版されることになります。「邪馬台国」の本も、100冊以上になるでしょう。はじめのうちは、購入して読んでいましたが、止めることにしました。
「太安万侶という人は実在しなかった」という説は、駄目になりました。奈良の山辺の道沿いで太安万侶の墓が見つかったからです。なぜ判ったかといいますと、墓誌が一緒に出土したからです。次が、その時の報道の一部です。「安間呂昭和五四年一月二二日、奈良市田原此瀬町四四四、農業、竹西英夫さん(六一)が、自宅の裏山の茶畑に埋もれていた、太安万侶の墓誌を発見した」
 その時の新聞のコメントがいろいろです。
①大阪教育大学教授(古代史)=鳥越憲三郎氏は「墓誌の中に古事記に関する記述がないのも問題だ。論争を呼ぶことになる。
②古事記の権威=倉野憲司の「偽書説は否定される」という小見出しのついた、氏の次のコメントは、当時の新聞報道の基調をなすものといえよう。
③作家=松本清張氏は、「安萬侶はもとから実在の人物であり、墓の存在は当然だが、文献だけの人物がその存在を実証された意味は大きい。 私は以前から阿礼の存在を疑問だと思っているが、今回の発見は阿礼の虚構性に関して直接の関係がなく参考にならない」
④古代史研究家=大和(おおわ)岩雄氏は、「、「編者説の証明でない」という小見出しで、古事記序文が安万侶の作でないと」の小見出しに続いて長いコメントを寄せています。

そのコメントは判り易いです。長年、古事記は当然実在したものとして、研究を重ね、古事記の翻訳本を書かれた倉野憲司としては、当然のコメントです。偽物であれば、偽物に人生を掛けられたことになります。
後の三人は、どのような本を書いてこられたか判りませんが、すべて検討を加えますと、きっと、古事記は偽物、または、古事記の序は本物では困ることになると思われます。偽物でないと、やはり、それまでの業績は飛んでしまうのかもしれません。
私は、別にどちらでも構いません。
なにを考えたかといいますと、現在でも、人それぞれ立場によって、そうであってもらわなければならない時は、あるという事です。四人ともプロですから、今更引き下がるわには行きません。
古事記が作られたときも、同じことで、日本書紀を書こうとする人たちは、相当、無理を承知で日本書紀を作ろうとしたのではないかと想像しています。
日本書紀にも、当然、序文は書かれるはずでした。ところが、トップの藤原不比等の病状が思わしくなく、急遽発刊を発表したのではないかと想像しています。日本書紀ができたのも、藤原不比等が亡くなったのも、720年です。少し、考えが浅いでしょうか? 藤原不比等は力を入れすぎたのではと推察しています。

 なんだかお茶の間の話になりましたが、古事記も日本書紀も、中心を流れる考え方ははじめから、最後まで一貫しているのではと思っています。

「古事記上巻 并序」は偽書であるとか、阿礼はいなかったとなりますと、古事記が成立した要因は、皆目分からなくなります。
私は、「古事記上巻 并序」をヒントにして、解き明かしていきたく思っています。
先ずは、次回から、「古事記上巻 并序」の解明からです。

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2006.09.14

No 20 神生み 日本書紀の場合 その3

日本書紀の神生みのところの別書をもう一度記します。
第1書 伊奘諾尊のいわれるのに、「私は天下を治めるべきすぐれた子を生もうと思う」とおっしゃって、そこで左の手で白銅鏡をおとりになったときに、お生まれになった神が大日孁尊である。また首を回して後をごらんになった丁度そのときに、お生まれになったのが素戔鳴尊である。このうち大日孁尊と月弓尊は、共にひととなりがうるわしいので天地を照らし治めさせられた。素戔鳴尊は、性質が物をそこないこわすのを好むところがあった。だから下にくだして根の国を治めさせた。

第2書 日と月が生まれられたあとに蛭児が生まれた。この児は年が三つになっても脚が立たなかった。はじめ伊奘諾尊と伊奘冉尊が、柱を回られたときに、女神が先に喜びの言葉をいわれた。それが陰陽の道理にかなっていなかった。そのため蛭児がうまれた。次に素戔鳴尊が生まれた。この神は性質が悪くて、常に泣いたり怒ったりすることが多かった。国民が、多く死に、青山を枯山にした。それで両親が「もしお前がこの国を治めたとしたら、きっとそこないやぶることが多いだろう。だから、お前は大へん遠い根の国を治めなさい」といわれた。次に鳥磐櫲樟船(丈夫な樟の船)を生み、この船に蛭児を乗せて放流した。次に、火の神の軻遇突智を生んだ。そのとき伊奘冉尊は、軻遇突智のためにやけどをして、お亡くなりになった。その亡くなろうとされるときに、横たわったまま土の神、埴山姫と水の神罔象女(みつはのめ)を生んだ。軻遇突智は埴山姫をめとって稚産霊を生んだ。この神の頭の上に蚕と桑が生じた。臍の中に、五穀が生まれた。

第3書  伊奘冉尊が、火産霊を生むとき、子のために焼かれて死んだ。その神の死なれようとするときに、水神罔象女と土神埴山姫を生み、また天吉葛を生んだ。

第4書 伊奘冉尊が、火の神軻遇突智を生もうとするとき、熱に苦しめられ嘔吐した。これが神となり、名を金山彦という。次に小便をされ、それが神となった。

第5書 伊奘冉尊が、火の神を生むときに、からだを焼かれてお亡くなりになった。それで紀伊国の熊野の有馬村に葬った。土地の人がこの神をお祭りするには、花のときに花をもってお祭りし、鼓・鼓・旗をもって歌舞してお祭りする。

第6書 伊奘諾尊と伊奘冉尊とは、協力して大八洲国を生み出された。そして、伊奘諾尊がいわれるのに、「われらの生んだ国は、朝霧がかかっているが、よい薫がいっぱいだ」といって、霧を吹き払らわれたら、その息が神になった。名づけて級長戸辺命(しなとべのみこと)という。別名を級長津彦命という。これは風の神である。また飢えて気力のないときに生んだ子を、倉稲魂命という。また生んだ海の神たちを、少童命(わたつみのみこと)という。山の神たちを山祇(やまつみ)という。海峡の神たちを速秋津日命という。木の神たちを句句廻馳という。土の神たちを埴安神(はにやすのかみ)という。そして後に万物が生まれた。火の神軻遇突智が生まれるとき、その母伊奘冉尊は、身を焼かれておかくれになった。そのとき、伊奘諾尊が恨んでいわれるのに、「ただこの一人の子のために、わが愛妻を犠牲にしてしまった」と。そして、頭のあたり脚のあたりを這いずって、泣き悲しみ涙を流された。その涙が落ちて神となった。これが丘の上の樹の下においでになる神で、啼沢女命という。
 今回は、古事記と別書に共通にある言葉を上げてみます。ただ、日本書紀は古事記と同じと思われる言葉であっても漢字をすべて変えていますから、古事記にかかれている言葉で書いて後に( )の中に、日本書紀に書かれている言葉を併記します。

古事記と日本書紀本文に共通にある言葉--伊邪那岐(伊奘諾尊)、久久能智(ククチ)神(句句廼馳)、

古事記と第1書に共通にある言葉---伊邪那岐(伊奘諾尊)、

古事記と第2書に共通にある言葉---伊邪那岐(伊奘諾尊)、伊邪那美神(伊奘冉尊)、鳥之石楠船神(鳥磐櫲樟船)、迦具土神(軻遇突智)、和久産巣日神(稚産霊)、彌都波能売神(水神罔象女)(ミツハノメ)
 
古事記と第3書に共通にある言葉---伊邪那美神(伊奘冉尊)、彌都波能売神(水神罔象女)(ミツハノメ)

古事記と第4書に共通にある言葉---伊邪那美神(伊奘冉尊)、迦具土神(軻遇突智)、多具理迩(タグリニ)(嘔吐)、金山毘古神(金山彦)、尿(小便)

古事記と第5書に共通にある言葉---伊邪那美神(伊奘冉尊)、

古事記と第6書に共通にある言葉---伊邪那美神(伊奘冉尊)、迦具土神(軻遇突智)、久久能智(ククチ)神(句句廼馳)、泣澤女神(啼沢女命)(ナキサワメ)、妹速秋津比売神(速秋津日命)

① 鳥之石楠船神(鳥磐櫲樟船)は、古事記では神として生まれていますが、日本書紀では神ではなく船として扱っています。
② 迦具土神(軻遇突智)のために、イザナミが死んだことは、共通していますが、熱に苦しめられて嘔吐した。焼かれて死んだ。身を焼かれておかくれになった。(以上、日本書紀)みほと焼かれて病み臥せり。(古事記)
③ 泣澤女神(啼沢女命)のこと。
   古事記では、「御涙に成れる神は、香山の畝尾の木の本にまして、泣澤女神と名づく」と書いています。
日本書紀・第6書では、「頭のあたり脚のあたりを這いずって、泣き悲しみ涙を流された。その涙が落ちて神となった。これが丘の上の樹の下においでになる神で、啼沢女命という」
それがどうしたと言われそうですが、稗田阿礼は、この神社へも実際に行ったのだと思います。だから、天の香具山の麓の畝尾の木之本という地名におられます神で、名前は泣澤女神と名づけましたと書きました。
おかしいですね。日本書紀の作者も神社の名前は知っていたはずです。
No18 において詳しく書きました。その神社の所在地と神社の名前は、奈良県橿原市木之本町114に、畝尾都多本神社という名前であります。
畝尾都多本神社の「都」は「津」と一緒で、「の」の意味です。畝尾の多本という神社を表わしています。
それを日本書紀では、「丘の上の樹の下においでになる神」と書きました。
香具山の丘の上にある樹(木)の下(本)においでになると書き換えました。
日本書紀に書かれている「丘の上の樹の下においでになる神」を「香山の畝尾の木の本にまして」と書き換えることは不可能です。このように、奈良県橿原市木之本町114に鎮座されている泣澤女神でも、書き換えたことが判ると思います。
このような事を書きますと、この古事記を読んでから、神社も無理やり作ったのだといわれる方が必ず出るはずです。しかし、この古事記が世の中に知られるようになったのは、江戸時代になってからです。No18に書きましたように、万葉集に残っているのも事実ですから、泣澤女神に関しては、日本書紀が古事記を見て書き換えたことが判ります。もっとも、日本書紀・日本書紀・第6書に書いてあるだけで、日本書紀の編集者が書き換えたことにはなりません。第6書を書いた人が、古事記を参考にして書いたことになります。
④  そうなりますと、第6書を追求したくなります。
「「われらの生んだ国は、朝霧がかかっているが、よい薫がいっぱいだ」といって、霧を吹き払らわれたら、その息が神になった。名づけて級長戸辺命(しなとべのみこと)という。別名を級長津彦命という。これは風の神である」
訳の判らないことが書いてあります。しかし、全く訳が判らないのではありません。
古事記に書かれていることで、霧のことが書いてあります。No16 をご覧ください。
「次に生れる風の神名は志那都比古(シナツヒコ)神」を見ることができます。第6書には、「霧を吹き払らわれたら、その息が神になった。名づけて級長戸辺命(しなとべのみこと)という」があります。「級長」をどうして「しな」と読むことができるのでしょうか?
翻訳者の宇治谷孟氏は、どこかで関連を見つけられたのだと思います。古事記には、天之狹霧神と國之狹霧神を生んだことが書かれています。ずっと、後のところで、アマテラスとスサノオが狹霧から子供を産んで、勝負に決着をつける場面があります。このような事も、後ほど関係してくるのかも知れません。
④ まだまだありますが、退屈ですので、これぐらいで終わりたいと思いますが、No16に書かれている神のうち、殆どは、日本書紀に登場しないことを確認して頂ければと思います。古事記は、日本書紀や他の書物を参考にして作られたのではなく、稗田阿礼と太安万侶が、古事記を作っても焼かれることの無いように、正しい帝紀を伝えたいために、完成させたものだと思います。
そんなことをされたのでは、今後、日本を支配していくことが出来ませんので、それに変わるものとして、日本書紀を編纂したと思われます。その目論見は成功して、現在でも、日本書紀は正式の日本の歴史書として使われており、古事記は、一時言われた偽書である汚名は、無くなりつつありますが、歴史書としては、信頼おけない書物とされています。

以上ですが、こんないい加減な話は、聞きたくないと思われたと思います。それでは、どうして、このような考え方になったか、今後は、しばらく、記紀の比較から離れて、天武天皇がどうして、古事記の編纂を決心されたかを書いてみようと思います。

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2006.09.12

No 19 神生み 日本書紀の場合 その2

No17において、日本書紀の本文にあたる「神生み」をみました。今回は、別書6までに検討を加えます。飛ばさないで、全部書きます。(宇治谷孟著 日本書紀より)

第1書 伊奘諾尊のいわれるのに、「私は天下を治めるべきすぐれた子を生もうと思う」とおっしゃって、そこで左の手で白銅鏡をおとりになったときに、お生まれになった神が大日孁尊である。また首を回して後をごらんになった丁度そのときに、お生まれになったのが素戔鳴尊である。このうち大日孁尊と月弓尊は、共にひととなりがうるわしいので天地を照らし治めさせられた。素戔鳴尊は、性質が物をそこないこわすのを好むところがあった。だから下にくだして根の国を治めさせた。

第2書 日と月が生まれられたあとに蛭児が生まれた。この児は年が三つになっても脚が立たなかった。はじめ伊奘諾尊と伊奘冉尊が、柱を回られたときに、女神が先に喜びの言葉をいわれた。それが陰陽の道理にかなっていなかった。そのため蛭児がうまれた。次に素戔鳴尊が生まれた。この神は性質が悪くて、常に泣いたり怒ったりすることが多かった。国民が、多く死に、青山を枯山にした。それで両親が「もしお前がこの国を治めたとしたら、きっとそこないやぶることが多いだろう。だから、お前は大へん遠い根の国を治めなさい」といわれた。次に鳥磐櫲樟船(丈夫な樟の船)を生み、この船に蛭児を乗せて放流した。次に、火の神の軻遇突智を生んだ。そのとき伊奘冉尊は、軻遇突智のためにやけどをして、お亡くなりになった。その亡くなろうとされるときに、横たわったまま土の神、埴山姫と水の神罔象女(みつはのめ)を生んだ。軻遇突智は埴山姫をめとって稚産霊を生んだ。この神の頭の上に蚕と桑が生じた。臍の中に、五穀が生まれた。

第3書  伊奘冉尊が、火産霊を生むとき、子のために焼かれて死んだ。その神の死なれようとするときに、水神罔象女と土神埴山姫を生み、また天吉葛を生んだ。

第4書 伊奘冉尊が、火の神軻遇突智を生もうとするとき、熱に苦しめられ嘔吐した。これが神となり、名を金山彦という。次に小便をされ、それが神となった。

第5書 伊奘冉尊が、火の神を生むときに、からだを焼かれてお亡くなりになった。それで紀伊国の熊野の有馬村に葬った。土地の人がこの神をお祭りするには、花のときに花をもってお祭りし、鼓・鼓・旗をもって歌舞してお祭りする。

第6書 伊奘諾尊と伊奘冉尊とは、協力して大八洲国を生み出された。そして、伊奘諾尊がいわれるのに、「われらの生んだ国は、朝霧がかかっているが、よい薫がいっぱいだ」といって、霧を吹き払らわれたら、その息が神になった。名づけて級長戸辺命(しなとべのみこと)という。別名を級長津彦命という。これは風の神である。また飢えて気力のないときに生んだ子を、倉稲魂命という。また生んだ海の神たちを、少童命(わたつみのみこと)という。山の神たちを山祇(やまつみ)という。海峡の神たちを速秋津日命という。木の神たちを句句廻馳という。土の神たちを埴安神(はにやすのかみ)という。そして後に万物が生まれた。火の神軻遇突智が生まれるとき、その母伊奘冉尊は、身を焼かれておかくれになった。そのとき、伊奘諾尊が恨んでいわれるのに、「ただこの一人の子のために、わが愛妻を犠牲にしてしまった」と。そして、頭のあたり脚のあたりを這いずって、泣き悲しみ涙を流された。その涙が落ちて神となった。これが丘の上の樹の下においでになる神で、啼沢女命という。

読んでいただけましたか? 宇治谷氏には、悪いですが、これを訳されるには、相当苦労されたと思います。私は書き移しただけですが、疲れました。しかし、移しながら、いっぱい考えました。日本書紀の人は、随分頭を使われただろうなと。
日本書紀をつくるときに、より正確にするために、制作している時点で、存在した資料(書物)を全部書いたとしますと、6冊あったことになります。日本書紀を仕上げるには、当然、この6冊に書かれていることを参考にして書いたと思われます。
日本書紀の本文に当たる部分は No17書きましたのでご覧ください。意味がよく判ります。
皆さんはどのように思われますか? 日本書紀の作者は、全体の流れが、判るように作ったのではないかと推察しています。
 今回は、違った手法で比較を試みようと思います。
日本書紀の本文と他の一書とどこが同じであるかを見ます。(違う所は多すぎますので省略)

本文と第1書に共通にある言葉、伊奘諾尊、大日孁尊、天地、素戔鳴尊、根の国
本文と第2書に共通にある言葉、伊奘諾尊、蛭児、素戔鳴尊、根の国
本文と第3書に共通にある言葉、伊奘冉尊
本文と第4書に共通にある言葉、伊奘冉尊
本文と第5書に共通にある言葉、伊奘冉尊
本文と第6書に共通にある言葉、伊奘諾尊、伊奘冉尊、大八洲国

 なにが判りましたか?  私が気になったことを書いて見ます。
① 確かではありませんが、3~5 までは、全く共通の言葉がありませんから、参考にしなかったことは確かです。1、2、6は参考にしたかも知れないし、参考にしなかったかも知れません。
② No17の本文のところに、「そこで、ともに日神を生んだ。大日孁貴と言う。一書では天照大神と言い、一書では天照大日孁尊と言う」という文章があります。6冊の本には、天照大神も天照大日孁尊もありませんから、6冊以外に、まだ2冊あったことになります。それならば、その2冊も書けば良いのに書いていません。
③ 第2書を入れたのは、陰陽の道理のことを知って貰おうとしたはずです。日神と月神です。そこで、日神は、大日孁貴、天照大神、天照大日孁尊を書きました。次は月神です。本文には書かないで、一書にあると断って、月弓尊、月夜見尊、月読尊を書きました。一書として書かれている6冊には、第1書に月弓尊があるのみです。月夜見尊、月読尊は、6冊以外の書物に書かれていることになります。
④ 蛭児のこと。これは、日本書紀の作者は気になったと見えます。本文では、日神、その次に月神が生まれます。三番目が蛭児だと書いています。三歳になっても脚が立たなかったので天磐櫲樟船に乗せたと書いてあります。三歳になっても脚が立たなかった話は、
  第2書にも書いてあります。ただ、第2書では、天磐櫲樟船ではなくて、鳥磐櫲樟船に乗せたとあります。
私の心が曲がっているのでしょうか?  三番目に重要な子どもでしたが、三歳になっても脚が立たなかったので 立派な天磐櫲樟船に乗せて追放したことを後押しするために、 第2書を書いたように思えてなりません。
蛭児は気になったが、なんのことか判らなかったと思われます。
No11をご覧ください。これは、古事記に書かれている事です。最後に、太文字にしておきました。「生子水蛭子。此子者入葦船而流去。次生淡嶋。是亦不入子之例」
この部分の前のところも読んで頂けましたか。この部分は、オノコロ島と水蛭子と淡島のことを述べています。明らかに、イザナギとイザナミにとって、もっとも重要な島について書いたものだと思われます。従いまして、水蛭子も島だと思います。私はヒルゼン高原のどこかに、皆が住む集落を作ったのだと思います。ところが、洪水で旭川に流されて全滅したのではないかと思います。しかし、この三つの島は、大八洲国には入れませんと断ったのです。この三つは、自分たちの力だけで、建設しました。
⑤ 根の国のこと。
本文では、根の国に追放したことになっています。第1書では、根の国を治めさせたとあります。第2書でも、根の国を治めさせたとあります。本当は、治めさせたが正しいのですが、第1書と第2書で補うことにして、本文では追放したことになっています。
日本書紀の作者は、スサノオは追放したことにしたかったのですが、スサノオが根の国を治めたことは、有名でしたので、「根の国を治めさせた」と書いた本は、他に2冊ありますと知らせようとしたのだと思います。
 

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2006.09.09

No 18 神生み 古事記の場合

No17において、次回は、続きを書きますとしましたが、日本書紀には、カグツチ(軻遇突智)のことが、書かれていますから、古事記の方もカグツチ(迦具土神)のことが書いてある部分を眺めます。
日本書紀の作者は、古事記の国生みには、困ったようです。No16に登場する神は、なんのことか判らなかったようです。「古事記」の翻訳者である倉野氏も判らなかったらしく、注釈にいっぱい書いておられます。
例えば、石土毘古は、石や土の神格化か。大屋毘古神は、家屋の神格化か。水戸神は、河口を掌る神。これは自信があって、(か)がついていません。 「河口を掌る神」とはなにを意味するのでしょう。この神は、河口のなにを守ったのでしょう。河口の安全といわれると思います。大綿津見神という海の神が生まれています。この神では、だめなのでしょうか? いや、川の神は別です。しかし、後を見ても、河口の神はおられても、川の神は生まれていません。イザナギとイザナミは、あらゆる神を作ったのではないと思います。
稗田阿礼が、天武天皇から古事記の編纂の手伝いを依頼されたときに、あちこちにある神社を探し巡りました。そのとき祀られていた神さんを順序よく並べて、島が生まれ、神が生まれたと構成して古事記を完成させたのだと思われます。
その神を何故祀っていたかは、祀っていた人にしか判らないのに、無理やり、何の神だと解釈をしようとするから間違うのだと思います。日本書紀の作者は、お手上げですから、これらの神を書くことを止めました。書くとすれば、精々、漢字を変えるしかないからだと思ったでしょう。ストーリを変えました。読み比べてください。全く違っています。既に、書きましたように、アマテラス、ツキヨミ、スサノオの登場の仕方は、全く違っています。古事記では、イザナギが、死んでしまったイザナミに会いに行って、逃げ帰る途中に、川で禊をしているときに、三人が生まれたことになっています。

前置きが長すぎました。では、古事記では、まだまだ、神が生まれます。
故ここに伊邪那岐命詔りたまひしく、「愛しき我が汝妹の命を、子の一つ木に易へつるかも」と詔りたまひて、すなはち御枕方に匍匐(はらば)ひ、御足方に匍匐ひて哭(な)きし時、御涙に成れる神は、香山の畝尾の木の本にまして、泣澤女神と名づく。故、その神避りし伊邪那美神は出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬りき。
 
泣澤女神を祀る神社は、奈良の奈良県橿原市木之本町114に、畝尾都多本神社という名前であります。
万葉集に、「原文: 哭澤之 神社尓三輪須恵 雖祷祈 我王者 高日所知奴」。意訳は「哭澤の神社に神酒すゑ祷祈れども わご王は高日知らしぬ『巻ニ-ニ〇ニ』
伝 桧隈女王 とあります。
 哭澤の社にお神酒を供え、回復を祈ったのに、高市皇子はお亡くなりになったと、桧隈女王が高市皇子を嘆いて詠ったことになっています。これは持統10年(696年)の事ですから、古事記が完成した712年には、勿論、泣澤女神は畝尾都多本神社に祀られていたことになります。このように有名であった泣澤女神を日本書紀の編纂者は知っていたはずですが、泣澤女神が涙から生まれたことを、日本書紀の本文に取り込むことはできなかったのだと思われます。別書では取り上げていますから、後ほど検討します。
泣女は喪主に代わって泣き悲しむ女で、朝鮮半島には現在もその風習が残っています。 それが、日本に伝わったと見え、その証拠として、日本書紀では、允恭天皇が亡くなると,新羅国の王が弔いの使いを大和に遣わしたことを記しています。又、欽明天皇の死にあたって,新羅が弔の使いを遣わして殯に「奉哀る」と書いています。又、天智天皇の死のときに、唐の郭務宗が、筑紫で3回「挙哀(みねたてまつる)」とあります。これは、すべて、中国や新羅の人が、現在で言うお悔やみをいう儀式のようだったと思われます。
 ところが、「石長比売神は寿命を司り、泣澤売神は命乞いの神なり」と 平田篤胤が言ったように、神社の伝えにあるそうですし、万葉集には、神酒を供えて、祈ったのに駄目だったと詠んでいますから、命を助けてくれる神であると信じられていたのだと思われます。

話が変なほうへいきましたが、元に戻します。
日本書紀の人たちは、「愛しき我が汝妹の命を、子の一つ木に易へつるかも」が判らなかっ
たのではないでしょうか? 原文は、「愛我那邇妹命乎 謂易子之一木乎」です。倉野憲司
氏は、「愛しいわが妻を、子ども一人にかえたことであることよ」と書いておられます。他
の方は、一木をカグツチとしておられます。カグツチと命を交換したようなものだと。
 カグツチは、イザナミが最後に生んだ神の名前です。この神の所為で、イザナミはその後、病気になって死亡します。

又、古事記に戻ります。
 ここに伊邪那岐命、御佩(はか)せる十拳剣(とつかのつるぎ)を抜きて、その子迦具土神の頚を斬りたまひき。ここにその御刀の前に着ける血、湯津石(ゆついわ)村に走り就きて、
成れる神の名は、石拆神。次に根拆神。次に石筒之男神。次に御刀の本に著ける血も亦、湯津石村に走り就きて、成れる神の名は、甕速日神。次に樋速日神。次に建御雷之男神。亦の名は、建布都神。亦の名は、豊布都神。次に御刀の手上に集まれる血、手俣より漏き出でて、成れる神の名は、闇淤加美神。次に闇御津羽神。
 上の件の石拆神以下、闇御津羽神以前、併せて八神は、御刀によりて生れる神なり。
この後にも生みます。横に並べますと、読むしりから忘れますので、縦に並び変えます。

 
石折神(いはさくのかみ)
根折神(ねさくのかみ)
石筒之男神(いはつつのをのかみ)
以上三柱の神は、十拳剣の先端からの血が岩石に落ちて生成された神々である。
甕速日神(みかはやひのかみ)
樋速日神(ひはやひのかみ)
建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)
別名は、建布都神(たけふつのかみ) 別名は、豊布都神(とよふつのかみ)
以上三柱の神は、十拳剣の刀身の根本からの血が岩石に落ちて生成された神々である。
闇淤加美神(くらおかみのかみ)
闇御津羽神(くらみつはのかみ)
以上二柱の神は、十拳剣の柄からの血より生成された神々である。

また、カグツチの死体から、以下の神々が生まれた。
正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ、迦具土神の頭から生まれる)
淤縢山津見神(おどやまつみのかみ、迦具土神の胸から生まれる)
奥山津見神(おくやまつみのかみ、迦具土神の腹から生まれる)
闇山津見神(くらやまつみのかみ、迦具土神の性器から生まれる)
志藝山津見神(しぎやまつみのかみ、迦具土神の左手から生まれる)
羽山津見神(はやまつみのかみ、迦具土神の右手から生まれる)
原山津見神(はらやまつみのかみ、迦具土神の左足から生まれる)
戸山津見神(とやまつみのかみ、迦具土神の右足から生まれる)

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2006.09.07

No 17 神生み 日本書紀の場合

日本書紀は、古事記と同様に、国が出来た様子を述べた次に、神が生まれた様子を述べています。長いので、その一部を検討します。
次の文は、読まれなくて結構です。原文をあげておきます。
次生海。次生川。次生山。次生木祖句句廼馳。次生草祖草野姫。亦名野槌。既而伊弉諾尊。伊弉冊尊共議曰。吾已生大八洲國及山川草木何不生天下之主者歟。於是共生日神。號大日孁貴。〈大日孁貴。此云於保比屡■能武智。■音力丁反。一書云。天照大神。一書云。天照大日孁尊。〉此子光華明彩。照徹於六合之内。故二神喜曰。吾息雖多。未有若此靈異之兒。不宜久留此國。自當早送于天而授以天上之事。是時天地相去未遠。故以天柱擧於天上也。次生月神。〈一書云。月弓尊。月夜見尊。月讀尊。〉其光彩亞日。可以配日而治。故亦送之于天。次生蛭兒。雖已三歳脚猶不立。故載之於天磐櫲樟船而順風放棄。次生素戔鳴尊。〈一書云。神素戔鳴尊。速素戔鳴尊。〉此神有勇悍以安忍。且常以哭泣爲行。故令國内人民。多以夭折。復使青山變枯。故其父母二神勅素戔鳴尊。汝甚無道不可以君臨宇宙。固當遠適之於根國矣。遂逐之。
■ の部分は、上手く表示できません。

次に海を生んだ。次に川を生んだ。次に山を生んだ。次に木の祖である句句廼馳を生んだ。次に草の祖である草野姫を生んだ。またの名は野鎚。そして伊弉諾尊と伊弉冊尊は相談して、「我々はすでに大八洲國や山川草木を生んだ。どうして天下の主たる者を生まないのか」と言った。そこで、ともに日神を生んだ。大日孁貴と言う。一書では天照大神と言い、一書では天照大日孁尊と言う。この子は華やかに光り輝いていて国中に照り渡った。そこで二神は喜んで、「我々の子は多いけれど、このように奇異な子は未だいなかった。長くこの国に留めおくのは良くない。此れから早く天に送って、天上の仕事を授けよう」と言った。この頃、天地は未だ遠く離れてはいなかった。そこで天柱を使って天上に送り上げた。
 次に月神を生んだ。一書では月弓尊、月夜見尊、月読尊と言う。その光り輝いているのは日に次いでいた。そこで日と並んで治めるべきであると、また天に送った。
 次に蛭児を生んだ。三歳になっても脚がまだ立たなかった。そこで天磐櫲樟船に載せて風のままに放ち棄てた。
 次に素戔鳴尊を生んだ。一書では神素戔鳴尊、速素戔鳴尊と言う。この神は勇敢であり残忍なこともあった。また常に泣きわめくような行動もあった。そのため国中の人々を多く若死させた。また青山を枯れさせた。
 そこで、その父母の二神は素戔鳴尊に、「おまえは全く手がつけられない。世界に君臨すべきではない。遠い根国に行け」と命じて、ついに追いやった。

以上が、上に書きました本文の訳のつもりですが、それほど間違っていないように思います。なぜかと言いますと、意味が比較的よく判るからです。
ただ、おかしいところはあります。始めに、海があったので、矛を突っこんでかき混ぜ、矛を持ち上げたときに、滴がこぼれて、その潮が固まって国が出来たことになっています。であるから、海ははじめからあったのに、次に海を生んだとあります。
白地図に絵を描くようなものです。川、山を書き込みます。その山に草木を植えます。
全部完成したから、この地を治める人を生もうと相談したことになっています。
 太陽のように輝く大日孁貴を生み、夜を照らす月のような月神を生みました。
あまりにも、素晴らしい神だったので、そこで天柱を使って天上に送り上げたとあります。天地は未だ遠く離れてはいなかったので、送り届けることが出来たと書いてあります。理屈はすべて合っています。
その二神に対して、役立たずの蛭児が生まれた。そこで、壊れて戻ってこないように、磐のように丈夫な船に乗せて流し去りました。私が勝手にこのように訳しました。原文には、「天磐櫲樟船」と書いてあります。古事記では、単に葦舟に乗せて流したとあります。日本書紀の編集者は、葦舟ではなく、「天」の字を付け加えたのでしょう。どうして磐のように硬い櫲樟船にしたのでしょう。イザナギとイザナミは、葦舟を使っていた人ということになります。(ベトナムでは使われていたと倉野氏は注釈に書いておられます。中国の南の方でも使われていたようです) 
No16をご覧ください。古事記は「次に、鳥之石楠船(イワクスブネ)神を生んだ。亦の名は、天鳥船と謂う」と書いています。これは神さんの名前ですが、日本書紀は、蛭児を乗せた船の種類を、ここに書かれた二つの船の名前を合体させたことが判ります。
もし、古事記が日本書紀に書かれている「天磐櫲樟船」から、鳥之石楠船神という名の神が生まれたとは書く事は出来ません。そして、その別名が天鳥船との考えも浮かんできません。
このことから、明らかに、日本書紀を作るときに、古事記を参考にしたことになります。
ただ、第二の別書に、「鳥磐櫲樟船」が書かれていますから、こちらを参考にしたのかもしれません。「天磐櫲樟船」の「天」は、天つ神や高天原の「天」だと思います。日本書紀の人たちは、嫌った言葉なのに使いました。「天柱」も自分達で作って使いました。「天柱」は天上へ通じる柱ということで、「天柱」ができたと思われますが、天鳥船は、天上で行くための舟ではありません。これは、天(滇)の人が乗る、舳先に鳥を飾った舟のことだと思います。
次に生まれた素戔鳴尊は、他の書物では、神素戔鳴尊、速素戔鳴尊というように、尊敬の「神」と「速」が名前に付けられていますが、「おまえは全く手がつけられない。世界に君臨すべきではない。遠い根国に行け」と命じたことになっています。
 古事記では、「吾は子を生み生みて、生みの終てに三柱の貴き子を得つ」と書いているのと、随分違います。
日本書紀では、日神と月神を生んだことがメインになっています。そして、この二神は、イザナギとイザナミが居たところではなく、天上に送ったことになっています。天柱を使うとは?。どういうことでしょうか? 日神と月神を天柱に乗せたら、エスカレーターのように自動的にのぼっていったということでしょうか? この前に御柱が、天上と地上を結ぶように書いてありましたから、御柱とも考えましたが、そうでもなさそうです。
折角、辻褄が合う文章でしたが、この辺りから、怪しくなってきました。

確かなことは、日本書紀の編集者は、日神が大日孁貴であることは書きましたが、天照大神と
月弓尊、月夜見尊、月読尊などの名前は、他の本には書いてあるがと断りを入れながら、本文に書くのは嫌であったことが判ります。
続きは、次回にします。

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2006.09.05

No 16 神を生みます

日本の島々を生み終えたイザナミとイザナギは、神を生みます。この部分は、比較検討するのはやめようかと思いましたが、やはり飛ばさないで置きます。何故、飛ばそうかと思ったかといいますと、延々と神さんの名前の羅列ばかりだからです。二人が生んだ島は、14島。生んだ神は、35神だと古事記のこの部分の最後に書いてあります。この35人の神を14島に派遣したのだと考えていましたが、どうやら、そうでもなさそうです。
先ず、古事記の方から、読んでみます。
原文を知りたい人は、こちらへ→ http://homepage1.nifty.com/o-mino/page255.html

既に国を生み竟(オ)えて、更に神を生んだ。 
その生まれた神の名は、  大事忍男神(オオコトオシヲノカミ)です。
次に生れたのは、     石土毘古神(イワツチヒコノカミ)。
次に生れたのは、     石巣比賣神(イワスヒメノカミ)。
次に生れたのは、     大戸日別神(オオトヒワケノカミ)。
次に生れたのは、     天之吹(上)男神(テンノフキオトコノカミ)。
次に生れたのは、     大屋毘古神(オオヤビコノカミ)。
次に生れたのは、     風木津別之忍男神(カゼキツワケノオシヲノカミ)。
次に生れたのは、     海の神。名は大綿津見神(オオワタツミノカミ)。
次に生れたのは、     水戸神(ミズトノカミ)。名は速秋津日子神(ハヤアキツヒコノカミ)。
次は妹速秋津比賣神(いもハヤアキツヒメノカミ) 。
【大事忍男神より秋津比賣神まで并せて十神】

此の速秋津日子と速秋津比賣の二神は、河海因り、持別(カ)けて、
生んだ神の名は、沫那藝(ナギ)神。
次は次沫那美(ナミ)神。
次が次頬(ホホ)那藝神。
次が頬那美神。
次は天之水分(ミズクマリ)神。
次は國(クニ)之水分神。
次は天之久比奢母智(クヒザモチ)神。
次は國之久比奢母智神。

次に生れる風の神名は志那都比古(シナツヒコ)神。
次に生れる木の神の名は、久久能智(ククチ)神。
次に生れる山の神の名は、大山(上)津見神。
次に生れる野の神の名は、鹿屋野(カヤノ)比賣神。亦の名は、野椎(ノヅチ)神と謂う
【志那都比古神より野椎まで、并せて四神】  
〔持別(カ)けて、〕の意味が解りません。

次は、天之狹士神
次は、國之狹土神。
次は、天之狹霧神。
次は、國之狹霧神。
次は、天之闇戸(クラド)神。
次は、國之闇戸神。
次は、大戸惑子(オオトヒコ)神。
次は、大戸惑女(オオトトヒヒメ)神 
【天之狹土神より大戸惑女神まで、并せて八神】

次に、鳥之石楠船(イワクスブネ)神を生んだ。亦の名は、天鳥船と謂う。
次に大宜都(オオゲツ)比賣神を生んだ。
次に火之夜藝速男(ヒノヤギハヤオ)神を生んだ。亦の名は、火之炫(ヒノカガ)毘古神と謂う。亦の名を火之迦具土(ヒノカグツチ)神と謂う。此の子を生んで因り、美蕃登(ミホト)見炙(ヤカヘ)而(テ)病み臥(フセ)り。多具理迩(タグリニ)(嘔吐)して
生れた神の名は、金山(カナヤマ)毘古神。
次は金山毘賣神。
次に屎して成った神の名は、波迩夜須(ハニヤス)毘古神。
次は波迩夜須毘賣神。次は、尿をして成った神の名は、彌都波能賣(ミツハノメ)神。
次は和久産巣日(ワクムスヒ)神。此の神の子は、豐宇氣毘賣(トユウケビメ)神と謂う。よって、伊邪那美神は、火の神を生むことに因り、遂に神避りされました。
【天鳥船より豐豐宇氣毘賣神まで、并せて八神。】
 
凡べて、伊邪那岐と伊邪那美の二神が、共に生んだ所は、島は一十四島、神は參拾伍神。
【是は伊邪那美神が未だ、神避する以前に生んだ所。 唯、意能碁呂嶋は、生んだ所に非ず。亦蛭子と淡嶋は子之例には入れず】

このページでは、作者は何を伝えたかったのでしょう。ここに挙げられた神は、例えば、水分神であり、野山の神であり、霧の神です。すべて、自然界にあるものに神が宿ると考えているのでしょう。
か思えば、鳥之石楠船神や豐宇氣毘賣のように。なんの神か判らないような神の名も見えます。
島は14島、神は35神の神に治めさせたのでしょう。又の名がない所には、元々、住んでいた者に、治めさせたのでしょう。
【是は伊邪那美神が未だ、神避する以前に生んだ所。 唯、意能碁呂嶋は、生んだ所に非ず。亦蛭子と淡嶋は子之例には入れず】は、前にもありました。 是非とも言いたかったのでしょう。

いろいろ書いてきましたが、なにも判らずです。気になる点は、
①【大事忍男神より秋津比賣神まで并せて十神】とか【天之狹土神より大戸惑女神まで、并せて八神】というように、区切って神の数を書いていますが、八神には、なにか共通の事柄があるのでしょう。両方とも共通なものがないとしますと、例えば、【大事忍男神より秋津比賣神まで并せて十神】に書かれている十神は、稗田阿礼が、あちこちの神社を調査しに訪れたときに、十神とも隠岐に祀られていたとか。八神とも岡山県に祀られていたというように、神社がまとまっていたのではないかと調べています。当時を調べることは不可能ですから、現在の神社で、それぞれの神を祀っている神社を調べていますが、多くは見つかりません。結果は又の機会に書くつもりです。
② 「持別(カ)けて」の意味がわかりませんと書きましたが、多くの方は、「此の速秋津日子と速秋津比賣の二神は、河海因り、持別(カ)けて、生んだ神の名は、沫那藝(ナギ)神・・・・」と読んで、どのような意味か判りませんが、速秋津日子と速秋津比賣が、以下の八神をうんだように書いておられます。それでもいいのですが、二人の神が、どうして、沫那美神、頬那藝神、頬那美神、天之水分神、國之水分神、天之久比奢母智神、國之久比奢母智神を生むのか、関連性が不明です。イザナギとイザナミが生んでいたはずです。「持別(カ)けて」の意味が間違っているのではないでしょうか? というものの、他の意味には取れそうにありません。
③ 【唯、意能碁呂嶋は、生んだ所に非ず。亦蛭子と淡嶋は子之例には入れず】は、島を生む前にも書いてあり、二度目ですから、作者はわけのわからないことを書いて、真相を隠しながらも、この部分は強調したかったことは確かと思われます。

日本書紀の同じような部分と比較すると、なにか他に発見できるかも知れません。
次回は、日本書紀です。                      H18.08.31

此れまでに調べた、古事記にでてくる神を祭った神社の一覧表(未完成)
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page134.html

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2006.09.02

No 15 国生み(くにうみ)—日本書紀の場合

No12において、日本書紀の本文に、「先以淡路洲爲胞」がありますと書きました。日本書紀が書かれた当時は、淡路島が、日本の中心を為す島であることは、知られていたからこのような表現になったと思われます。なぜ、そうなのかは知らなかったようです。それは、古事記に書いてあったのですが、理解できなかったと見えて、他に10冊もあることを記して読者に考えて貰うことにしました。
 日本書紀はこのように、いろいろの説があることをあげて、自分達の考えを書いていますから、より正しい歴史書になっていると書いておられる方があります。嘘が書いてある本が、100冊あるから、そちらが正しいという論法にはなりません。10冊に書かれている正しそうなことを集めますと、日本書紀に書かれていることになるかと云いますと、なりません。
前置きが長くなりました。それでは、日本書紀のその他の本の場合を見ていきます。

一書によると、(1)
その後、同居されて子を生まれた。大日本豊秋津洲と名づけた。次に淡路洲。次に伊予の二名洲。次に筑紫洲。次に億岐の三子洲。次に佐度洲。次に越洲。次に吉備子洲。これによってこれを大八洲国という。
一書によると、(2)
  島の名前はかかれていない。
一書によると、(3)
  島の名前はかかれていない。
一書によると、(4)
  島の名前はかかれていない。
一書によると、(5)
  島の名前はかかれていない。
一書によると、(6)
 淡路洲・淡洲をもって第一とし、大日本豊秋津洲を生んだ。次に伊予二名洲。次に筑紫洲。次に億岐洲と佐度洲とを双児に生んだ。次に越洲。次に大洲。次に子洲。
一書によると、(7)
  淡路洲を生んだ。次に大日本豊秋津洲。次に伊予二名洲。次に億岐洲。次に佐度洲。次に筑紫洲。次に壱岐洲。次に対馬州。
一書によると、(8)
オノコロ島をもって、第一とし、淡路洲を生んだ。次に大日本豊秋津洲。次に伊予二名洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に億岐洲と佐度洲を双児に生んだ。次に越洲。
一書によると、(9)
  淡路洲をもって第一とし、大日本豊秋津洲を生んだ。次は淡洲。次に伊予二名洲。次に億岐三子洲。次に佐度洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に大洲。
一書によると、(10)
  淡路洲を生んだ。次に蛭児を生んだ。

さあ、読まれましたか? 同じようなことばかり書いてあって、頭混乱です。これを一覧表にすると判り易いと思ってしました。別に判りやすくなりはしませんでした。
頭の整理で、気の付いたことを箇条書きです。
① 大日本豊秋津洲が最初に生まれたとした本は、1の本
② 淡路洲を第一とした本は、6,7,9,10の4冊
③ オノコロ島を第一としたのは、8の1冊。
④ 古事記では1はオノコロ島、2は水蛭子、3は淡島(淡路島) 4は、生子淡道之穗之狹別嶋であるが、日本書紀では、生子淡道之穗之狹別嶋は1冊もなしです。
⑤ 2位に登場する島で多いのは、大日本豊秋津洲で6,7,9の本に掲載。
⑥ 6番目の書に「 淡路洲・淡洲をもって第一とし」と記されていて、 淡路洲と淡洲は同じものとして扱っていますが、9番目の書には、「淡路洲をもって第一とし、大日本豊秋津洲を生んだ。次は淡洲」と書かれていて、淡路洲と淡洲は、別の島であるとしている。
⑦ 古事記では、島の漢字は「嶋」が使われていますが、日本書紀では、すべて、「洲」です。10冊とも「洲」が書かれていたのでしょうか? オーバーに言いますと、日本書紀は、古事記に書かれている漢字は、すべて別の漢字に書き換えているように思えます。しかも、必ず、難しい漢字で表わされています。現在でも、「洲」を島と読める人はどれほどおられるでしょう。川の真ん中に出来た中州のことを洲であらわすのではないでしょうか? 大きな島であれば、嶋、嶌でしょう。中国語の得意な日本書紀の編集者が、10冊とも「洲」を使ったということは、意図的であると考えるしかないでしょう。
⑧ 日本書紀の作者は、蛭子がよく理解されなかったらしく、10番目にのみ、「蛭児」を付け加えました。全く、掲載しないでおくのは、良くないと考えたと思われます。

⑨ 古事記に書いてある大倭豐秋津嶋は、「倭」と「嶋」を変えました。大日本豊秋津洲は1、6,7,9の4冊に載っていますが、すべて、「大日本豊秋津洲」です。1冊期ぐらい、「大倭豐秋津嶋」とあってもいい筈です。倉野憲司氏は、大倭豐秋津嶋を「大和を中心とした地域名」されましたが、具体的には、どこを考えておられるのでしょうか? 大和とは、奈良のことを考えておられるのでしょうか? 「本州の呼び名ではありません」と念を押しておられますから、余程自信があるのだと思いますが、日本書紀の編集者は、本州であることを知っていたから、一番目の書には、トップに、6,7,9の書には、二番目に載せています。
淡路島は、大日本豊秋津洲より、重要視していたことが、読み取れます。
なぜ、「倭」を「日本」に書き換えたかは、重要です。

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