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2006.10.30

No38 古事記と天武天皇

No21より天武天皇がどうして、古事記を編纂して、そこに天皇家の正しい系統を記述しておかねばならなくなったかを見てきました。
天皇は八種の姓をを制定し、天下のすべての姓を一本化ししたり、二十二社の基礎をつくつたりして天皇制の基礎をつくったように思われていますが、天武8年5月5日には、皇后及び6人の皇子を吉野に集めて末永く仲良くするように言い渡しています。ということは、少しずつ、身内から綻びが見え始めたということでしょうか?
飛鳥から離れた竜田と河合の竜田神社に注意を要するようになったのは、5年04月04日 からです。以後、「竜田の風神・広瀬の大忌神を祭った」という記録が、元年07月16日まで毎年続けられます。
9年2月23日 菟田の吾城(壬申の乱のときの故地)に行幸された記録がありますが、思い出の土地を見に行く時は、人間気弱になった時の行動ではないでしょうか?
No29では天武天皇の罪人に対する大赦といろいろの人に与える褒美が、亡くなる真近かまで続けられました。身内を中心とする制度の確立など、着々と天皇の周りを固めたように見えていますが、No25 で見ましたように、 天武天皇は暗殺されたように思われます。

古事記の序文は、太安万侶が書いたのではなく、発刊された712年よりずっと後に、誰かがかいたのだというのが、最近の見解ということになっています。表現を変えますと、嘘が一杯書いてあって、信用できないという事です。
しかし、私は古事記に書かれている『そして天皇は、「私は聞いた。諸家にもたらされている帝紀及び本辞は、既に真実と違っている、多く虚偽が加えられていると。今この時期に、その誤りを改めねば、数年を持たずに、その本旨は滅びてしまうだろう。これは国家行政の根本であり、天皇家が存続するための基本である。ここに、帝紀を撰録し、旧辞を調べ、偽りを削り真実を見定めて、後世に伝えたいと思う。」と言われた』という部分は、正しいのではと思っています。
 それ故に、書いて処分されないように、大切な部分が改定されないように神話のように編集したのではないかと考えます。
 本日で、古事記が作られるに至った経緯を終了します。次回から、また、古事記の読解に戻ります。

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2006.10.26

No37竜田神社は風の神を祭る神社か

No31をもう一度、ごらんください。祭神は、風の神である天御柱命、国御柱命です。
龍田大社由緒略記には、御祭神について、
「天御柱命国御柱命の二座に座します。又の御名を志那都比古命、志那都比売命と申し 上げ伊邪那岐命、伊邪那美命の御子神におわしまして天地の大気即ち風力を主宰し給 う。よって風の神と称します」と記しています。
御神徳 として、
「御祭神は天地の大気、生気、即ち風力を主宰し給へば風神と申上げています。天御柱 命、国御柱命と申す御名は天と国とは彦神を天に姫神を国に比して称し奉り御柱とは 真柱の事にして天地万物の中心の柱の義で即ち空気或いは風の事で志那都比古命、志那都比売命と申す御名の志那は息長(シナガ)の義で気息(イキ)即ち風の長く遠く 吹き亘るを云う、斯くて天候、気象の変化旋転するは大神の御威霊なる風力を基本とし中心とする事なれば農業には暴風洪水の禍害なく五穀豊穣し、航空業を始め航海業 、漁業、建築業等に関係を持つ人々は除難多幸を願い現代の如く交通頻繁なる道路を 自動車が往来する時運転者には風神龍田大神の守護に依りて誤りなく安全に操縦して 無難幸福を祈念する参拝者も近年は著しく増加しております。殊に気息の神として延 命長寿を祈願する者は往昔より今に変わる事なく非常に多いのであります」と書かれています。長いけれど、全文を掲げました。
というのは、「御柱とは 真柱の事にして天地万物の中心の柱の義で即ち空気或いは風の事で志那都比古命、志那都比売命と申す御名の志那は息長(シナガ)の義で気息(イキ)即ち風の長く遠く 吹き亘るを云う、」とは、私には何のことか判りませんが、きっと、昔から言い伝えられて来たのであろうと読み続けていますと、「航空業を始め航海業 、漁業、建築業等に関係を持つ人々は除難多幸を願い現代の如く・・・・」と記し、極く最近に、時代に合うように、書き換えられたことが判ります。
 私の知っている「御柱」は、古事記に書かれている御柱と伊勢神宮・諏訪大社・出雲大社に存在する御柱です。伊勢神宮の御柱は、20年に一度の遷宮のときに、本殿の下に祭られる柱で、その真相は誰にも解らないものですが、遷宮は、この御柱の調達からはじめられるそうですから、最も、重要なものと思われます。諏訪大社の御柱は、各神社の境内に四本立てられる巨大な柱です。こちらは、7年目に一度取り替えられます。出雲大社の御柱は、本殿に実際に使われている中央の柱を呼びます。
 天御柱命をキーワードにして、インターネットで検索してみますと、殆どが竜田神社の記事のなかに見つかります。天御柱神社という名前の神社があったり、天御柱命を祭る神社はありますが、1500年台に創祀されたとか記されており、新しいものが多いようです。
 
中でも目立ったものは、京都の八坂神社です。こちらの神社の末社に天御柱命が祭られています。全部挙げますから、ご覧ください。
末社
北向蛭子社(事代主神)
大神宮(天照大神、豊受大神)
美御前社(多岐理毘売命、多岐理比売命、市杵島比売命)
大国主社(大国主神、事代主神、少彦名命)
玉光稲荷社(宇迦之御魂神)
日吉社(大山咋神、大物主神)
刃物神社(天目一箇神)
厳島社(市杵島比売命)
太田社(猿田彦命、宇受女命)
大年社(大年社、巷社神)
十社 -- 多賀社(伊邪那岐命)、熊野社(伊邪那美命)、白山社(白山比咩命)、愛宕社(伊邪那美命、火産霊命)、金峰社(金山彦命、磐長比売命)、春日社(天児屋根命、武甕槌神、斎主神、比売神)、香取社(経津主神)、諏訪社(健御名方神)、松尾社(大山咋命)、阿蘇社(健磐龍神、阿蘇都比咩命、速甕玉命)
五社 -- 八幡社(応神天皇)、竈神社(奥津日子神、奥津比売神)、風神社(天御柱命、国御柱命)、天神社(少彦名命)、水神社(高龗神、罔象女神)
ついでに本殿の方は、
中御座(素戔嗚尊)
東御座(櫛稲田姫命)
御同座 神大市比売命・佐美良比売命
西御座(八柱御子神 -- 八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命)
傍御座 稲田宮主須賀之八耳神

これらのデーターを見られてなにを思われましたか?
八坂神社では、長い歴史の間に、多くの神さん同士の戦いがあったのだなと思いました。負かしたのであれば、その神さんは廃棄すればいいのに、できなかったのでしょうか? 中には、近くの村で、祭る人が居なくなって頼まれたものもあるでしょう。祭られている神さんを丁寧にみて、どのような歴史があったのかを想像するのも楽しいですが、していません。
ただ、風神社(天御柱命、国御柱命)、水神社(高龗神、罔象女神)が目につきました。
高龗神、罔象女神は、日本書紀にでてくる神です。ということは、天御柱命、国御柱命の神さんも、日本書紀には出てきませんが、日本書紀を編纂した人たちが、使った漢字表記だとおもいます。式内社で使われていることになります。
 このような事で、竜田神社の祭神も式内社に指定されてから、天御柱命、国御柱命に書き換えられるように強制されたのではないかと推察しています。

竜田神社には、摂社に龍田比古神、龍田比売神が祭られていますが、この神が、元々鎮座されていた神ではないでしょうか?
推論に推論を重ねることになりますが、では、結論は、竜田神社に祭られていた龍田比古神、龍田比売神が、元々からあった祭神で、この二人の神さんが、風の神ということになります。
 ところが、龍田比古神、龍田比売神が、風の神であることは、どこにも書かれていません。竜田神社の神が龍田比古神、龍田比売神であるにせよ、天御柱命、国御柱命せよ、どちらにしても、風の神の別名は、志那都比古命、志那都比売命であると神社ではせつめいしています。
 これが又、不思議なことです。志那都比古命、志那都比売命は、古事記に載っている神です。天御柱命、国御柱命は、日本書紀に古事記にも、現れません。しかし、先ほど、天御柱命、国御柱命は、日本書紀を編纂した人たちが、使ったと思われます。
いつのころか判りませんが、天御柱命、国御柱命は、風の神として扱われ、八坂神社に祭られていました。
 従いまして、竜田神社の「御神徳」を書いた人が、勘違いをされているのではないでしょうか?
では、どのように勘違いをしたかといいますと、志那都比古命、志那都比売命は風の神ですが、息長の彦命、息長の姫命のことです。息が長く続くように祈るとその願いを聞いてくれる神さんです。表現を変えますと、風がもっと吹くようにお祈りをする神さんです。製鉄をするときに、木または炭を燃やして鉄を含む砂や岩の温度を高め、鉄を溶かして鉄を取り出します。所謂製鉄をするときに、時代が下りますと、蹈鞴(たたら・ふいご)を使って風を送って製鉄するようになります。蹈鞴が使われる前は、自然界の風を利用したとおもわれます。その時の様子が、古事記において、須佐之男の「八俣の大蛇(おろち)」の神話として書かれています。
 ところが、竜田神社では、風鎮祭が行われていますから、志那都比古命、志那都比売命を鎮める神として扱われています。
 こうしたわけの分からない筋書きを無理やりに通すとすると、元々、現在の竜田神社の裏山で祭られていた風の神は、柏原市の金山媛神社、金山彦神社の上に合った風の神と同じ神であったが、天武天皇の御代に、柏原市の製鉄は、天武天皇が支配するようになり、その支配力の表れとして、風の神と水の風を4月と7月に朝廷から人を遣わし、お祭りをしていたのではないでしょうか?
しかし、竜田神社も広瀬神社も式内社になったということは、支配力は藤原氏に移ったことになります。これ以後、竜田神社の神は、書き換えられ、説明のつかないことになったと推察されます。
 
 相当、ここにあげました筋書きは、苦しい所があります。
というものの、祭神の天御柱命、国御柱命が風の神であることは、これも説明がつかないストーリーです。そのうえ、志那都比古命、志那都比売命は別名というもの納得いきません。

柏原市の製鉄は、なん度か、天皇家と中国人の間で、行き来したのではないかと考えています。

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2006.10.23

No 36竜田と広瀬の神と伊勢神宮の神

判りやすい方から話を進めようと思います。広瀬神社です。祭神、その他の資料をもう一度掲載します。
【主神】 若宇加能売命 ( わかうかのめのみこと )
 【相殿】 櫛玉命 (くしたまのみこと)  穂雷命 (ほのいかづちのみこと)
 由緒書では、若宇加能売命は伊勢神宮外宮の豊宇気比売大神、伏見稲荷大社の宇加之御魂神と同神であるとしている。広瀬大忌神(ひろせおおいみのかみ)ともいう。相殿の櫛玉命とは、神社の説明では饒速日命のことである。宮司の樋口氏は饒速日命を祖神とする物部氏の末裔であり、宮司の邸宅内には饒速日命を祀る境外末社・饒速日命社がある。

専門書を読んだわけではありませんが、WEBでは、若宇加能売命は、水の神であると書いています。宇加は食物のことで、「受」と同じことであるとも書かれています。若宇加能売命の「若」のことを説明してあるものはありません。

水の神には罔象女神 ( みずはめめかみ)があります。高龗神(たかおかみ)は、奈良の大和神社の摂社に祭られていますが、境内の案内板によりますと、「大和神社の摂社である。祭神は雨師大神即ち水神様で、崇神天皇のとき渟名城入姫命をして穂積長柄岬(現親泉星山)に創祀される。
古来六月一日、十年に一度の大祭には、和歌山・吉野・宇陀その他近在邑々から千人余りも参拝者の列が続いたとある。先頭に丹生川上神社、中・下社が金御幣を持ち後尾は末社の狭井神社が勤めた」とあります。現在では、大和神社で間借りをしているようなものですが、祈雨神祭について 全国総本社であったことになります。上に書かれている吉野には、吉野水分神社、宇陀には、上芳野の惣社水分神社、宇太水分神社上社、宇太水分神社上社があります。どれも立派な社殿です。そんなもの、江戸時代のものだから、当てにならないと言えばそれまでですが、此れだけのものを誰が作ったかという事です。現在ですと、村だけの人の財力では建てることができないと思います。誰が建てたにせよ、それだけ信仰心が高かったということになります。高龗神社 の龗という字は、 
です。36ポイントぐらいに大きくしませんと読むことがではません。雨の下に、口を3つ横にならべ、その下に龍を書きます。
もう少し、高龗神を調べてみますと、高おかみ神と闇オカミ神は、日本神話では、神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとしている。古事記及び日本書紀の一書では、剣の柄に溜つた血から闇御津羽神(くらみつは)とともに闇淤加美神(くらおかみ。日本書紀では闇龗神)が生まれ、日本書紀の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神としています。古事記で闇淤加美神と書いてものをどうして、誰も読むことができない「龗」を使うのか、理由があったはずです。
同様に、日本書紀では、伊邪那美神が軻遇突智(かぐつち・古事記では、加具土命)を産み、そのために死にそうになっていくときに、罔象女神が生まれた書かれています。「迦具土」なら読むことは出来ますが、「軻遇突智」は読むことは困難です。日本書紀における「罔象女神」は、古事記では「闇御津羽神」でしょうか? 私は、日本書紀の作者が、古事記を参考にしたと思われたくなかったのだと思っています。
 話は横道にそれましたが、カグツチとの関係から、どうして、水の神が出てくるのか理解できませんが、カグツチは熱くて、そのために伊邪那美神が死にましたので、熱いもの=火を消すという発想でしょうか?
火を消すための水が、どうして水の神さんになるのか、これ又、理解できませんが、水を分配する神になったと思われます。上手いこと分配してくださいよということでしょうか?
分配が多すぎると洪水、少なすぎると旱害ということでしょう。ただ、神社にお願いする時は、あまり雨が降らないようにしてくださいではなく、雨を降らせてくださいと祈願しているようです。
 このように見てきますと、広瀬神社で、水の神さんに五穀豊穣をお願いしたのではないのではないかという気がします。
由緒書では、若宇加能売命は伊勢神宮外宮の豊宇気比売大神、伏見稲荷大社の宇加之御魂神と同神であるとしている。広瀬大忌神(ひろせおおいみのかみ)ともいうとあるのですが、「広瀬大忌神」が判りません。広瀬は地名ですから、外しますと、大忌神が残ります。「大」を尊称としますと、「忌」のみとなります。
「忌」は辞書を引いてください。読み方は、キ、ゴ、いまわしい、いむ いみ などです。
意味は、心中に抵抗感じて忌みきらう。
大忌神は、今までのところ、広瀬神社にしか出現しません。それも日本書紀に書かれている神の名前です。ここの神さんは、天皇家を嫌っていた神さんを祭ってあるのですよと、日本書紀の作者は言いたかったのだと思います。
 ただ、「忌」という字は、「忌部氏」という氏族があります。大忌神はその氏族と関係があるのではと当たってみましたが、なにも見つかりませんでした。大和時代から奈良時代にかけての氏族的職業集団である。忌部氏は中臣氏とどうように神事に携わっていたようですが、よく調べていません。その子孫は後に斎部を名乗っていますから、「忌」の字は、嫌で、意味の良い「斎」に改めたようにおもえます。(延暦22年(803年)3月に「忌部」から「斎部」に改めた)  大忌神が忌部氏と関係があるかどうかは、お預けです。

祭神の若宇加能売命は、日本の神話にも出てきません。多くの人は、似ている神を引っ張ってきて、伊勢神宮の外宮の祭神である豊受大神だとしています。豊受大神といえば、天照大神に捧げる食物を司る神であり、若宇加能売命の名前の「ウカ」の語も、その意味は食物である。名前に「ウカ」のついた神といえば、日本の穀霊の代表格として知られる宇迦之御魂神、保食神と発想して、この説は決定しているように思われます。
 ここでは述べませんが、豊受大神は、丹波、丹後からやって来た神です。宇迦之御魂神は、スサノオの子供です。オオクニヌシ神がスサノオの娘の須世理毘売と結婚しようとしますが、スサノオも八十神が大反対をしてオオクニヌシ神を殺そうとします。それで、二人はスサノオから逃げ仰せます。仕方ナシニ、スサノオは二人の結婚を許します。その時の条件として、スサノオは大国村の主となるように命じます。そして、「其の汝がもてる生太刀・生弓を以って、汝の庶兄弟をば、坂の御尾に追い伏せ、河の瀬に追い撥ね、宇迦の山の山本に底津石根に宮柱ふとしり、高天原に氷木たかしりておれ」と命じます。そのときに、宇迦の山の山本に住んでいた人は、オオクニヌシ神に追われて、伏見に逃げて、その後、宇迦之御魂神は稲荷神社で祭らます。その他に、八坂神社、松尾神社に逃げた人もありました。他の人は、出雲に逃げたことになります。
 従いまして、豊受大神と宇迦之御魂神は別の神だと思います。

どうして、このような事を考えたかといいますと、
相殿に祭られている櫛玉命です。江戸前期の「和州広瀬郡広瀬大明神之図」では相殿の神名は櫛玉姫命と水穂雷命となっています。櫛玉姫命であれば御炊屋姫(長髄彦の妹、饒速日命の妻)となります。誰かが、櫛玉姫命から櫛玉命に書き変えたことになります。穂雷命は調べましたが、どこにもありませんでした。水穂雷命ならあるかもしれません。
 この神社は、もともと、饒速日命が祭られていたのでしょう。
相殿の櫛玉命とは、神社の説明では饒速日命のことであると宮司の樋口氏は延べるだけではなく、自分は饒速日命を祖神とする物部氏の末裔であり、樋口氏の邸宅内には饒速日命を祀る境外末社・饒速日命社を祭っておられます。
 このように考えてきますと、神武天皇に奈良で討たれた饒速日命の末裔の一部の人が、奈良盆地でもっとも条件の悪いところで生活していたことになります。
物部氏の一族を殺すことはしないで、天武天皇は、年に二回の祭祀という形で、部下を派遣して監視していたのではないでしょうか?

タイトルに、「竜田と広瀬の神と伊勢神宮の神」と記し、竜田と広瀬の神と伊勢神宮とは関係があるのではないかと、考えはじめましたが、考えているうちに、全く違う方向にいってしまいました。
次回は、元に戻って、竜田と広瀬の神の関係を書いてみるつもりです。

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2006.10.20

No35 竜田と広瀬の神はなぜ対か

No30において、天武天皇が、竜田と広瀬の神を毎年、4月と7月にお祭りをしていたことを日本書紀から抜粋し、眺めて頂きました。私の予想したことは、天武天皇がなにか心の弱みがあって、風と水の神を祭り、その行事は、持統天皇にも引継がれました。・・・・。
 私の予想するものは、なにも出てきませんでした。風と水の神を、対にして祭られていることは、なんだろうと考えましたが、判りません。無理をすることはありません。風水害から守ることが主体であると考えればいいことになります。4月は風水害が起こらないように、お願いして、7月は、ありがとうございましたとお礼の祭りでしょうか?
 このように考えても判らないのです。
なぜ、解らないかといいますと、広瀬神社の裏に行ってください。すぐ裏に川が流れています。それも、いくつもの川が合流しています。神社は、合流地点より低いところにありますが、それは堤防が築かれて天井川になっているからだと思われます。勿論、古代にも川が氾濫するたびに、堤防が築かれたでしょうが、毎年のように決壊したと思われます。
 そのようなところで、どうして、田を耕す必要があったかと考えますと、氾濫をする川ほど、肥えた土地であったことぐらいでしょうか? お粗末な知識ですが、今でも通用するでしょうか? 私は歴史を中学生で学んだのか、高校生で学んだのか忘れてしまいましたが、世界四大文明というものを学びました。教科書ですから、書かれていることは僅かであったと思われます。
復習しますと、メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明です。これらの四大文明は、大きな河を中心にして文明が発達したと学びました。河の名前に置き換えますと、チグリス川とユーフラテス川、ナイル河、インダス河、黄河
となります。なるほどと地図を眺めて、感心し理解したものです。しかし、その後、いろいろのことが判るようになり、例えば、長江文明と云ってもいいよう遺跡が次々発掘されています。また、エジプト文明などは、ナイル河にそって、すべて大文明があったと思っていましたが、エジブトは古くから砂漠の状態であったこと、古代の遺跡が見つかるのは、日本の4倍ぐらいの面積であったことが判っています。従いまして、世界四大文明は、その内に、世界十大文明と書き換えられることになるかもしれません。
ただ、文明の発生した場所は増えても、大きな、しかも氾濫を繰り返したようなところに人間は住もうとしたことは確かのよう思えます。
もう一つ考えられることは、広瀬神社辺りしか住むところが無くなったのではないか?  どうやら、奈良は桜井市の巻向遺跡辺りが、はじめの頃に栄えたらしく、次第に北へ拡がっていったようです。奈良に限りますと、宮城は飛鳥から藤原京、藤原京から平城京と移りました。古墳でいいますと、ホケノ山古墳、箸墓古墳から、平城京の北の佐紀盾並古墳群。
奈良盆地は行き止まりになりました。奈良盆地で住むとなると河合町近辺しか住むところがなかったのでしょうか? そして、その結果が、馬見古墳群・大塚山古墳群なのでしょうか?
このような推理ができるには、それぞれの古墳が造られた年代が正確に判らなければなりません。残念ながら、殆ど、造られた年代が正確に判っていません。
現在は、いろいろのことを総合的に判断して、古墳がいつ造られたか決定されています。そのときに、比重が大きいのは、出土した土器です。次に大きいのが、年代が入った鏡です。何度も資料館に足を運んで、土器を眺めていますが、チンプカンプンです。鏡は年代が入っていますから、判りやすいですが、京都府の籠神社の鏡が一般に公開(写真だけですが)されたのは、最近のことです。このように見てきますと、作られてから500年後に、お墓の中に入れられる可能性もありますから、思考は堂々めぐりです。
竜田と広瀬の神が対になって祭られるようになり、それが、平安時代には、二十二社という特殊な地位を得るようになったところも見て頂きました。ところが、伊勢神宮は、飛び抜けて特殊な神社になっていきます。現在では、日本の神社の頂上に位置するように思えます。
このように眺めてきますと、少なくとも、伊勢神宮と二十二社は、人間の思惑のままに、形成されたように思われます。
竜田と広瀬の神と伊勢神宮の神は関連付けて考える必要があるのではないかと考え始めています。
次回は、この線で話を進めてみようと思います。

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2006.10.18

No34 二十二社と竜田神社と広瀬神社

又もや、急に、二十二社のことを書く気になっています。朝廷は国家の重要なことがらで困ったことが生じると、上手く解決するように、二十二社の神社に祈るように命令しています。どこにも自分も一緒に祈ったとは書いてありません。(これは私の勉強不足かもしれません。もし、天皇のどなたかが、一生懸命祈った記述がありましたら、紹介します)
 竜田神社と広瀬神社は、二十二社に入っています。それだけではなく、最初に、決められた神社ではないかと考えています。

 二十二社のことは、当時の人々の宗教に対する考え方を知る上において、重要なことと思われますが、インターネットには殆ど見受けられません。それだけ素人には難しい話だと思われます。これまでに私が知った事柄を以下に記します。

二十二社とは、平安中期以降、国家の重大事や天変地異など、大事件が発生した時に、
定例的に祈願の奉幣を受けるようになった二十二の神社を云います。
二十二社を列挙します。
上七社
 伊勢神宮          三重県伊勢市
 石清水八幡宮        京都府八幡市
賀茂別雷神社(上賀茂神社)  京都市北区
賀茂御祖神社(下賀茂神社)  京都市左京区
 松尾神社          京都市右京区
 平野神社          京都市北区
 稲荷神社          京都市伏見区
 春日神社          奈良県奈良市
中七社
 大原野神社         京都市西京区
 大神神社          奈良県桜井市
 石上神社          奈良県天理市
 大和神社          奈良県天理市
 広瀬神社          奈良県北葛城郡河合町
 龍田神社          奈良県生駒郡三郷町
 住吉神社          大阪市住吉区
下八社
 日吉神社          滋賀県大津市
 梅宮神社          京都市右京区
 吉田神社          京都市左京区
 廣田神社          兵庫県西宮市
 八坂神社          京都市東山区
 北野天満宮         京都市上京区
 丹生川上神社        奈良県吉野郡下市町 ・奈良県吉野郡東吉野村・奈良県吉野郡川上村
 貴船神社           京都市左京区

① 北野、吉田、八坂、大原野、石清水八幡宮 以外は式内社です。
② 神社の所在地に注目してください。殆どが、畿内にあります。
③ 十六社は九世紀末期頃から固定されていたようで、そのメンバーは、上七杜と中七杜に丹生と貴布禰を加えたもの。
その後、
正暦二年(991)六月以降、丹生の上に吉田・広田・北野を加えて十九社
正暦五年(994)二月以降、吉田の上に梅宮を加えて二十社
長徳元年(995)二月以降、北野の上に舐園を加えて二十一社
長暦三年(1039)八月以降、梅宮の上に日吉を加えて二十二社
栄保元年(1081)十一月、改めて日吉を加えて二十二杜
となっている。
十一世紀の間には二十二社は固定され、その後中世を通じてこの体制は護持され、天皇権力が著しく衰退する室町時代後期まで、つまり中世を通じて、二十二社は有力神社のほぼ同義語として使われるようになる。
④二十二社の中で、上社として重要視されたのは、平安京を守護する神々である。
二、大和の伝統的な神々は中社とされ、京周辺の神々
より下位に位置付けられている。
三、京周辺の新興神社を下杜の形で取り込む傾向があ
る。
四、伊勢は別格、日吉は延暦寺との関係で例外的に入ったもので、原則として対象は畿内の
有力社であった。
  以上 、「歴史読本」2003年10月号 44ページから、榎村寛之氏の執筆なるものから箇条書きにしました。
 もう少し詳しく書いたものは、〔二十二社〕に記しました。

春日大社は当然のこととして、式内社で二十二社を占めたということは、藤原氏が、全国の地域を掌握するとき、式内社の神社を中心に村・郡を掌握していったのではないかと推察しています。その中でも重要な神社として、二十二社が決定されたのではと思います。
二十二社は、どのようなことを基準にして決められたのか、それぞれの神社の祭神別に検討をくわえますと、面白い事実が分かるはずですが、本題を外れますから、別の機会にしたく思います。
 最後に、このファイルで言いたかったことは、二つです。
① いろいろの形にグループ分けしましても、伊勢神宮はどのグループにも入らない特殊な神社です。
② 中七社は、大原野・大神・石上・大和・広瀬・龍田・住吉です。山城の大原野と摂津の住吉を除くと、すべて大和の神社ばかりである。
古い大和の神社のなかに、竜田神社と広瀬神社は含まれています。
この二社は、天武天皇によって、大事にされたことになります。どうして、大事にされたのか、次回に探ってみようと思います。

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2006.10.16

No33 竜田と広瀬の神の関連

随分、話しが横道に逸れています。復習をしておきます。このシリーズは、古事記と日本書紀を読み比べることによって、日本書紀は、古事記を参考にして作られたことを知って頂こうと書き始めました。
 No20までは、ひたすら、比較をして、日本書紀は、古事記に書かれている神であれ、地名であれ、同じ部分は、すべて漢字を書き換えていることを指摘したりしました。ところが、日本書紀は、「一書」という言葉を使って、他の書物には、これこれと書いてありますと、多いときは、10冊ぐらいの書物に書いてあるという記事を記しています。その一書に古事記は含まれないと言う不思議な現象が見られます。
 そのくせ、現在残っているのは、古事記だけで、他の書物で残っているのは、出雲風土記ぐらいでしょうか? このようにおかしいことがNo20まで続きました。しかし、今後、続けてもやはり、同じことの繰り返しになります。
 私の文章は、自分で読んでみても訳のわからない部分が多く見られます。言葉で説明すれば簡単なことが、文章にすると複雑で意味不明なところが多いのだと思われます。

それにもめげずに、書いていましたが、利用しているブログが、私のブログを分析することを8月2日より開始しました。これはなかなかの優れもので、いろいろのことが判ります。
リピーターは、全体の5パーセントです。そのうち、大半は、3~5回読まれただけです。私にとって、ショックだったのは、ほぼ毎日読んでくださったのは、お一人だけでした。
残念ながら、誰も読んでくださっていないことが判りました。

そこで、違う角度から古事記とは、どのようなものであるかを書いてみようと考えを変えました。古事記を作ろうと考えたのは、天武天皇です。作ったのは、なぜか、天武天皇が亡くなってから、太安万侶が完成させました。
天武天皇は、どうして作ろうという気になられたかです。No21で、「古事記は何故作らなければならなかったか」と題して書きましたが、書ききれていません。一言で言いますと、分からなかったと言う事です。
No24の最後に、「天皇は、座敷牢のようなところに幽閉されていたのかもしれません」と書きました。その様子を書いてみようと、No25 を書きました。はじめのうちは、壬申の乱のときの部下が死んでいくだけでしたが、ほぼ 全員が殺されたのではないかと思えるほど、どんどん、死んでいく様を日本書紀の記述から見て頂きました。そして、最後に、天武天皇が亡くなられています。では、いつごろから幽閉されていたのか、愈々、自分も殺されるといつごろから考えたのか、それらのことから、天武天皇が古事記の編纂の重要さを意識し、古事記の編纂を命じられたのだと。
このように、推察し説明しようと試みています。
天皇がこのように考えられることになられたであろう理由を二つ考えました。天皇になる前のことが影響を与えていた。もう一つは、天皇になってから以後のことが影響した。前者は、壬申の乱は、天皇の継承を巡って行われたものではなく、天智天皇が朝鮮に出兵し、中国と新羅の連合軍に敗れたときから、関係したものである。そのような事はあり得ないと思われるでしょうが、 「壬申の乱は日中戦争」であるとのタイトルで書き始めました。No28まで書きましたが、まだ途中です。
あまり、「壬申の乱は日中戦争」に拘りますと、皇位継承の争いと決まっている問題を覆すには、まだまだ、紙面を要しますので、天武天皇は天皇になられてから、どのように政治を行われたのかを勉強する気になりました。
天武天皇は、在位中、律令制の基となることを、次々にされたことで有名ですが、私は、そうではなかったのではないか? 「壬申の乱は日中戦争」の日中戦争に勝ったものの、藤原不比等なしでは、何事も出来なかった人ではなかったか、その不比等に日本を乗っ取られたのでないか、それを知ることの出来るものが、日本書紀から見つけることが出来るのではないか。このように考えました。
読んだことがない天武天皇のところを丁寧に読みましたが、よく判りません。気になったところから、調べてみるつもりになりました。

天武紀は大きく分けて二つに分かれます。前半は壬申の乱のことです。後半は、天皇になられてからのことです。後半に書かれている人物は、鬼室福信が8回、大海人皇子(大皇弟・東宮・東宮大皇弟)が6回、郭務悰が6回、劉徳高が4回、劉仁願 鎮将などです。 天皇以外は中国、百済の人たちです。この人たちとの関係が重要であったことが判ります。郭務悰は、白村江の戦いで天智天皇が負けた後に、派遣された占領軍の司令官のような人です。では、司令官であれば、第二次世界大戦の後に、駐留してきたマッカーサーのようなものかと言いますと、マッカーサーのように、GHQのような組織を作った様子はありません。
 その辺のことは、「壬申の乱は日中戦争」(4) 以後に書くつもりになっています。
そこへ、突然、「No29天武天皇 サービス精神旺盛」という変なファイルが入ってきました。天武天皇は、異常なほどに、恩赦の乱発です。それから、褒美を与えています。そして、階位を制定して、次々に位を与えて喜ばせています。
これは、天武天皇が、自分の信頼おける部下をつくろうとしたのではないか? 恩赦は敵を減らしたかったのではないかと考えました。日本書紀から、記事だけを抜粋しただけで、考察は行っていません。
「No29天武天皇 サービス精神旺盛」の作業を行っているときに、気になったのが、No30 の「天武天皇と広瀬と竜田の神」です。
 壬申の乱以前から、幾多の困難をクリアーしてきた天武天皇にしたら、広瀬と竜田の神に祈るというのは、天武天皇らしくないと思いました。なぜ、広瀬と竜田の神が、対になっているのか、気になりだしたら止まりません。
No31とNo32は、二つの神社の資料だけですが、なにかおかしいなと思われませんでしたか? 私はおかしいなと思う所がいっぱいでした。そのあたりを脱線したついでに書いてみようかと思っています。 本日はタイトルと全く関係のないことを書きました。No20以後の私の頭の回転の悪さを書いてみました。

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2006.10.13

No32 広瀬神社のこと

鎮座地は奈良県北葛城郡河合町大字川合。西名阪自動車道の法隆寺I.Cから東へ1kmの場所。JR法隆寺駅から2kmでしょうか? 歩いても知れています。
(http://www.mapion.co.jp/c/f?el=135/44/22.150&scl=70000&uc=1&grp=all&nl=34/34/30.263 )

上のアドレスをクリックして頂きますと判りますが、大和川が蛇行しながら、東から西へ流れています。そこへ東から寺川、飛鳥川、そして、葛城川が曽我川に合流して、大和川に注いでいます。北から流れてきた佐保川と富雄川も大和川に合流しています。河合町は、読んで字の如く、川が合わさっている所です。しかも、奈良中のすべて(吉野川は除く)が合流している所になります。表現を変えますと、奈良盆地で最も海抜が低いところとなります。(海抜 ほぼ40m) 

さて、御祭神は、
 【主神】 若宇加能売命 ( わかうかのめのみこと )
 【相殿】 櫛玉命 ( くしたまのみこと )  穂雷命 ( ほのいかづちのみこと )

 由緒書では、若宇加能売命は伊勢神宮外宮の豊宇気比売大神、伏見稲荷大社の宇加之御魂神と同神であるとしている。広瀬大忌神(ひろせおおいみのかみ)ともいう。相殿の櫛玉命とは、神社の説明では饒速日命のことである。社家の樋口氏は饒速日命を祖神とする物部氏の末裔であり、社家の邸宅内には饒速日命を祀る境外末社・饒速日命社がある。

江戸前期の「和州広瀬郡広瀬大明神之図」では相殿の神名は櫛玉姫命と水穂雷命となっている。櫛玉姫命であれば御炊屋姫(長髄彦の妹、饒速日命の妻)となります。
 同じく、「和州広瀬郡広瀬大明神之図」に神社の南方に、定林寺が描かれています。定林寺は、廣瀬神社の3つの神宮寺のうちの一つで、金堂(本尊・弥勒)、講堂(本尊・釈迦)三重塔・太子堂、経堂、食堂、鐘楼、天神社、弁財天社、楼門などのある大伽藍で、聖徳太子が推古天皇の病気平癒祈願に建立したと注記。現在、字宮堂(縄文晩期の土器・石器が出土)に飛鳥時代以降の須恵器・古瓦が出土するが、寺の遺構はない。同図に神社西方に描かれていた神宮寺のところに、江戸中期に定林寺が移ったらしい。現在、そこに定林寺と称する護摩堂一宇が残るのみです。寺は荒れているが、河合町に残る最古の不動明王立像(木造・室町時代後期)、 地蔵菩薩立像(木造・平安時代前期)があります。

≪ 創建 ≫
崇神天皇九年、廣瀬の河合の里長に御神託があり、一夜で沼地が陸地に変化し、橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、この地社殿を建て祀られるようになる。(神社縁起)
日本書紀天武天皇四年四月十日(675年)には、小錦中間人連大蓋を遣わし、大山中曽根連韓犬を斎主として、大忌神を廣瀬の河曲に祭られたことが記されている。

広瀬神社にかんするデーターは、以上のようなものですが、神宮寺・定林寺から推察しても広瀬神社は古く、大きな神社であったことが判ります。
 ただ、解らないのは、最も海抜が低く、多くの川が集まっているところです。地図には載っていませんが、神社の北には、「ふげたかわ」があり、一の鳥居のところでは、結構の深さがありました。神社は、この川と曽我川に挟まれた細長い参道の長い神社でした。現在でこそ、高い堤防で守られて大和川が決壊することは無いかもしれませんが、雨が降る度に、洪水に見舞われながら稲作が行われたらしく、窪田、吐田、保田の地名が見ることができます。
 どうして、奈良一番の洪水の地で広瀬神社が生まれたのか判りません。

ただ、この地で細々と稲作が行われていたのではない証拠には、神社のすぐ、西には、前方後円墳の城山古墳と大塚山古墳があり、ほかにも五基の古墳があります。東には、島の山古墳があります。大塚山古墳と島の山古墳は、同じ方向を向いて造られていますから、同じ系統の人たちが、広瀬神社を挟んで勢力を有していたことが判ります。

広瀬神社から、南西の方角、2.5kmのあたりに、馬見丘陵古墳群があります。

次回は、前回の竜田神社と広瀬神社を絡めて、いくつかのことを検証して見たいと思います。

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2006.10.11

No31 竜田神社のこと

大和の国と河内の国の間には、南北に伸びる山が走っています。この山は北から、テレビ塔が林立する生駒山、そして南に信貴山があります。この南北に伸びる山に陥没が生じ、奈良盆地に貯えられていた水は、現在、大和川となって流れています。大和川で区切られた後、二上山、葛城山、金剛山と続いています。
平城京から河内や摂津に向かう道は、生駒山を越える道と、この大和川の北の竜田山を越える道がありました。万葉集には「竜田山」または「竜田の山」の歌は計15首残されていますが、現在は、竜田山という名の山はありません。現在は、信貴山の続きで、大和川に接するところに、小按の嶺と三室山という山があります。これらの山を総称して竜田山と呼ばれていたのではないでしょうか?
 この竜田山を越える道を竜田道と呼び、重要な幹線だったと思われます。この竜田道の奈良側の集落の真ん中に、竜田神社が鎮座しています。
 祭神は、風の神である天御柱命、国御柱命が祭られています。

『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によると、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたという。
その祝詞の原文の一部は、次の通りです。
「是以ココヲモテ皇御孫命大御夢爾オホミイメニ悟奉久サトシマツラク 天下乃公民乃作作物乎 悪風荒水爾
アシキカゼアラキミヅニ 相都都アハセツツ不成ナサズ傷波ソコナヘルハ 我御名者アガミナハ天乃御柱乃命アメノミハシラ
ノミコト 国乃御柱乃命止 御名者悟奉弖 吾前爾奉牟アガマヘニタテマツラム幣帛者 御曽者ミソハ明妙
アカルタヘ 照妙テルタヘ 和妙ニギタヘ 荒妙アラタヘ 五色乃物イツイロノモノ 楯タテ 戈ホコ 御馬爾ミウマニ
御鞍具弖ミクラソナヘテ 品品乃クサグサノ幣帛備弖ミテグラソナヘテ 吾宮者アガミヤハ朝日乃アサヒノ日向処
ヒムカフトコロ 夕日乃ユウヒノ日蔭処乃ヒカゲルトコロノ龍田能立野乃タチヌノ小野爾ヲヌニ吾宮波定奉弖 」
 全文を読みたい方は、http://nire.main.jp/rouman/sinwa/norito.htm#04 です。

以上から判ることは、龍田風神とは、天御柱命と国御柱命のことを言いますが、ある書物によりますと、天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のことと書いておられる方があります。日本書紀では、級長津彦命(しなつひこ)を級長戸辺命の別名と記しています。古事記では、風の神の志那都比古神が生まれたとありますから、日本書紀の級長津彦命と古事記の志那都比古神は同じ神でしょうか?

龍田の風神と志那都比古神は別の神ではないでしょうか?  その辺のことを探ってみます。

この外に、神社では次のような説明もしています。
「御座ケ峯は上古当社の御祭神が降臨せられたる霊地なりと伝承しており現在は三室山の山嶺より東南凡そ壱粁離れた頂上の畑地の中央にありて松樹林となっております。又龍田山は三室山に引き続きたる実に広大な山岳地帯を指したる地域の総称であり古来龍田越などの峠もあって起伏多く往来に相当難所の山道であります」
 
 どこの神社でも、その神社の神さんが降りられたところが記されています。神社内にある大きな岩がそうであったりします。大概は、その神社の裏山が多いです。竜田神社も裏山ですが、御座ケ峯は東南凡そ壱粁離れた頂上とあります。少し、遠すぎますが、峰上には「傅龍田本宮御座峰」の石碑があり、祭祀が行われ手いるそうです。又、小按の嶺と考えられる尾根上の平坦部分に「傅龍田神社本宮跡」と刻まれた石碑と、その背後の斜面に自然石の立石を祀る磐座が5ケ所存在しています。 毎年、ここで、龍田大社の神官が例祭の日に祭祀を行っているそうです。
 ここへは、行ったことがありませんが、御座峰と龍田神社本宮跡は、近いので、龍田神社本宮跡地である可能性は高いです。そして、天武天皇の御代に、現在の地に移されたのではないでしょうか? 勿論、磐座のところに祠があったとは限りません。
 御座ケ峯は、現在の竜田神社の東南1Kmと遠いのですが、地図の見方を変えますと、柏原市の雁多尾畑(かりんどおばた)から北の信貴山へ通じる車道の西に御座ケ峯があります。雁多尾畑に、金山比売を祭った金山媛神社があります。式内社です。由緒には、「もと嶽山の峰にあり中世に金山彦と同時期、現在の地に遷座と伝わる。古く八大金剛童子社と称し、俗に山王と呼んでいたと伝わる。明治8年現在の名に改められる。金山彦、金山毘売は伊耶那岐、伊耶那美の子供」とあります。
 こちらは、鉱山の神です。当時の鉱山は、鉱脈がある上に、風が重要であったように思われます。製鉄の方では、自然の風だけではなく、息の長続きする人が必要だったのではないかと想像しています。息の長いことが有利な職業は、製鉄や土師器の製作、潜水などもあります。
息長氏がいます。これをどのように考えたらいいか判りません。素直に、息が長かった人と考えますと、前期の職業が考えられます。
 滋賀県の伊吹山の麓は、息長氏がいましたので、製鉄が行われていたはずだと、滋賀県の米原市と高島町に、先月行って調べましたが、調べ方が悪かったのか、関連するものは見つかりませんでした。
風の神は、古事記に志那都比古神が書かれています。日本書紀では、級長戸辺命(しなとべのみこと)、別名を級長津彦命です。天御柱命と級長津彦命は関係ないと思うのですが、私が知らないだけで、どこかに書かれているのかも知れません。
このように見てきますと、天御柱命と金山彦神は、なんだか、出どころは、同じ御座ケ峯のように思えるのですが、・・・・・一度見に行ってきます。

ただ、志那都比古神をお祀りしている神社が、御所市大字鴨神、旧高野街道・風の森峠の頂上にあります。風の森峠の頂上にと書きましたが、神社は高さ2mほどの高さの丘の上にあります。それも小さな祠だけです。峠と言えば峠ですが、低い峠です。数年前に、一度訪れたことがありますが、なぜか、この神社にいる間は、風が強く吹いていたのが印象に残っています。あの場所は、製鉄には関係はなさそうですから、この風の神は、五穀のみのりを、風水害から護る農業神として祀られていたのかも知れません。 

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2006.10.07

No30 天武天皇と広瀬と竜田の神

天武天皇 4年4月10日に、「風神を竜田の立野に祭られ、大忌神を広瀬の河原に祭れた」との記述があります。以後、数多くの同様に記述があり、12年7月4日には、天皇が、直接に広瀬に出かけられたことが記されています。そのすべてを記します。

5年04月04日 竜田の風神・広瀬の大忌神を祭った。
5年07月16日 竜田の風神・広瀬の大忌神を祭った。
6年07月03日 竜田の風神・広瀬の大忌神をお祭りした。
7年04月07日 斎宮においでになろうとしていた十市皇女が急死。神々の祭りがなくなった。
8年04月09日 広瀬・竜田の神を祭った。
8年06月23日 雨乞いをした。
8年07月06日 雨乞いをした
8年07月14日 広瀬・竜田の神を祭った。
9年04月10日 広瀬・竜田の神を祭った。
9年07月05日 雨乞いをした。
9年07月08日 広瀬・竜田の神を祭った。
10年04月02日 広瀬・竜田の神を祭った。
10年06月17日 雨乞いをした。
10年07月10日 広瀬・竜田の神を祭った。
10年10月    天皇は広瀬野で百官の観閲を行おうとして、行宮をつくり終わり準備は整った。しかし、天皇は結局お出ましにならなかった。ただし、親王以下群卿はみな軽市で、よそおいをこらした飾り馬を検閲した。
11年04月09日 広瀬・竜田の神を祭った。
11年07月12日 広瀬・竜田の神を祭った。
12年04月21日 広瀬・竜田の神を祭った。
         この月から始まって八月まで旱(ひでり)が続いた。百済の僧道蔵が雨乞いをして、雨が降った。
13年04月05日 広瀬・竜田の神を祭った。
13年07月04日 広瀬にお出ましなになった。
13年07月09日 広瀬・竜田の神を祭った。
14年04月12日 広瀬・竜田の神を祭った。
14年07月21日 広瀬・竜田の神を祭った。
朱鳥
元年07月16日 広瀬・竜田の神を祭った。
元年09月09日  天武天皇 崩御

この後、持統天皇の御世になって、
朱鳥4年4月3日より11年7月12日まで、毎年、4月と7月に2回、「広瀬・竜田の神を祭った」の記録があります。朱鳥7年の4月と7月のみ、雨乞いをしたことが記録されています。

なにか気付かれましたか? 私が気になったことを書いてみます。
① 常に、広瀬・竜田の神がセットになっています。
② 祭る月は、毎年、4月と11月に定まっている。
③ 7年と朱鳥元年は、抜けています。前者は十市皇女が急死。後者は天皇の病気が原因でしょうか?
④ 9年07月05日 雨乞いをしたと記述があります。どこで雨乞いをしたか判りません。
3日後に、広瀬・竜田の神を祭ったとあります。5日の結果がまだ、出ないうちに、今度は、広瀬・竜田の神に雨乞いを頼んだのでしょうか? 関係ないように思います。
なぜかといいますと、「12年04月21日 広瀬・竜田の神を祭った。この月から始まって八月まで旱(ひでり)が続いた。百済の僧道蔵が雨乞いをして、雨が降った」という記述があります。広瀬の神が雨乞いに有効でしたら、広瀬・竜田の神に祈ることになります。
ということで、年中行事のようになった「広瀬・竜田の神を祭った」は、どうして、祭るようになったのか調べる必要があります。
⑤ 持統天皇の御世になっても続けられましたので、広瀬・竜田の神は、天皇家にとっては、重要な神であったと思われます。
⑥ 天武天皇 4年4月10日に、「風神を竜田の立野に祭られ、大忌神を広瀬の河原に祭れた」との記述があります。
神を祭るという行為は、天皇の心の問題ですから、天皇になられて、すぐに、心の迷いが生じたのではと考えますが、そうとは限らないのでしょうか?

次回は、「風神を竜田の立野に祭られ、大忌神を広瀬の河原」を調べてみようと思います。

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2006.10.05

No29 天武天皇 サービス精神旺盛

9年2月23日 菟田の吾城(壬申の乱のときの故地)に行幸された。
10年1月7日 親王・諸王を内安殿へお召しになった。諸臣はみな小安殿に侍り、酒を振舞われ舞楽を見せられた。
        大山上草香部吉士大形に、小錦下の位を授けられた。姓を賜って難波連といった。
10年1月11日 堺部連石積に勅して、六十戸の食封を与えられ、絁三十匹、綿百五十斤、布百五十端、钁(くわ) 一百口を賜った。
10年1月19日 畿内および諸国に詔して、諸の神社の社殿の修理をさせた。

10年3月17日 天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中連大嶋・大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し校定させられた。
10年4月12日 錦織造小分ら合わせて十四人に姓を賜って連といった。
10年4月17日 高麗の客卯文らに筑紫で饗応され、それぞれに物を賜った。
10年6月05日 新羅の客、若弼に筑紫で饗応され、それぞれに禄物を賜った。
10年12月10日 小錦下河部臣子首を筑紫に遣わして、新羅の客、忠平に饗を賜った。(10月18日来朝、調を奉る)
10年12月29日 田中臣鍛師ら合わせて十人に・小錦下の位を授けられた。
11年01月09日 大山上舎人連糠虫に小錦下の位を賜った。
11年01月11日 金忠平に筑紫で饗応された。
11年05月12日 倭漢直らに姓を賜って連といった。
11年05月25日 多禰の人・掖玖の人・阿麻弥の人に、それぞれ禄を賜った。
11年05月25日 隼人らに明日香寺の西で饗を賜った。さまざまの舞楽を奏し、それぞれに禄を賜った。
11年08月03日 高麗の客を筑紫でもてなされた。
11年08月28日 日高皇女の病のため、死罪以下の男女、合わせて百九十八人を赦した。
11年10月08日 盛大な酒宴を催された。
12年01月02日 「・・・・小建以上の者にそれぞれ禄物を賜い、死罪以下の者はみな赦免する。また百姓の課役はすべて免除する」と云われた。
12年09月23日 倭直、栗隈首、水取造、矢田部造 他 全部で38氏に姓(かばね)を賜って連(むらじ)とした。
12年10月05日 三宅吉士 他 全部で14氏に姓を賜って連といった。
13年01月17日 三野県主・内蔵衣縫造の2氏に姓を賜って連といった。
13年02月24日 金主山に筑紫で饗を賜った。
13年04月05日 徒罪以下( 徒・杖・笞の刑)のものはみな赦免された。
13年04月16日 宮中で斎会(さいえ)を設け、罪を犯した舎人を赦免した。
13年10月16日 多くの王卿に禄物を賜った。
13年11月01日 大三輪君 他 全部で52氏に姓を賜って朝臣といった。
13年12月02日 大伴連 他 50氏に姓を賜って宿禰といった。
13年12月13日 死刑以外の罪人は全部赦免された。
14年01月21日 爵位の名を改め階級を増加した。
14年02月04日 大唐の人・百済の人・高麗の人合わせて147人に爵位を賜った。
14年07月27日 「東山道は美濃以来、東海道は伊勢以東の諸国の有位の人たちには、課役を免除する」といわれた。
14年09月09日 皇太子以下忍壁皇子に至るまで、それぞれに布を賜った。
14年09月18日 宮処王・難波王・竹田王・三国真人友足・県犬養宿禰大侶・大伴宿禰御  
         行・境部宿禰石積・多朝臣品治・采女朝臣竹羅・藤原朝臣大嶋の合わせて10人に、ご自身の衣と袴を賜った。
14年09月19日 皇太子以下諸王卿合わせて48人に、ヒグマの皮・山羊(かもしか)の皮を賜った。
14年09月24日 天皇発病
14年09月27日 帰化してきた高麗人たちに禄物を賜った。
14年12月04日 筑紫に遣わした防人らが、難破漂流、皆衣服をなくした。防人の衣服にあてるため、布458端を筑紫に発送した。
14年12月16日  絁・綿・布を大官大寺の僧たちにお贈りになった。
14年12月19日  皇后の命で、王卿ら55人に、朝服各一揃いを賜った。

朱鳥元年01月02日 宴を諸王たちに賜った。なぞなぞに正解をだした高市皇子に、はたすりの御衣を三揃と錦の袴二揃いと絁24匹・糸50斤・綿100斤・布100端を賜った。
         伊勢王も当たり、黒色の御衣を三揃・紫の袴二揃い・絁7匹・糸20斤・綿40斤・布40端を賜った。
朱鳥元年01月09日 三綱(僧綱)の律師および大官大寺の僧を招いて、俗人の食物で供養し、絁・糸・綿を贈られた。
朱鳥元年01月10日 王卿たちにそれぞれ絹袴一揃い賜った。
朱鳥元年01月13日 種々の才芸のある人、博士、陰陽師、医師、合わせて20余人を召して、食事と禄物を賜った。
朱鳥元年01月16日 大安殿にお出ましになって、王卿を召して宴を催され、絁・糸・綿を賜った。天皇は群臣にクイズをだされ、正解者に、絁・糸・綿を賜った。
朱鳥元年01月17日 後宮で宴を催された。
朱鳥元年01月18日 朝廷で盛大な酒宴を催された。この日、御窟殿の前におでましになり、倡優(わざひと)たちにそれぞれ禄物を賜った。歌人たちにも絹袴を賜った。
朱鳥元年02月05日 大安殿にお出ましになって、侍臣6人に勤位を授けられた。
朱鳥元年02月05日 諸国の国司の中から、功績のある9人を選んで勤位を授けられた。
朱鳥元年02月14日 大官大寺に食封700戸を賜り、税()おおちから30万束を寺に納められた。
朱鳥元年02月24日 天皇病が重くなられたので、川原寺で薬師経を説かせ、宮中で安居させた。
朱鳥元年06月01日 槻本村主勝麻呂に姓を賜わり連といった。勤大壱の位加え、20戸の食封を賜った。
朱鳥元年06月02日 工匠・陰陽師・侍医・大唐の学生および一、二人の官人合わせて34人に爵位を授けられた。
朱鳥元年06月07日 諸司の人たちの功績のあるもの28人を選んで、爵位を加増された。
朱鳥元年06月16日 三綱の律師や四寺の和上・知事、それに現に師位を有する僧たちに、御衣御被各一揃いを賜った。
朱鳥元年06月28日 僧法忍・僧義照に老後のために、食封各30戸をそれぞれに賜った。
朱鳥元年07月03日 諸国に詔して、大祓を行った。
朱鳥元年06月04日 全国の調を半減し、徭役(労役)を全免した。
朱鳥元年06月05日 幣帛を紀伊国の国懸神・飛鳥の四社・住吉大社にたてまつられた。
朱鳥元年06月15日 大赦をした。
朱鳥元年06月19日 諸国の百姓で、貧しいために、稲と資材を貸し与えられたものは、14年12月30日以前の分は、公私を問わずすべて返済を免除せよ。
朱鳥元年08月13日 幣帛を土左大神にたてまつった。
朱鳥元年08月13日 皇太子・大津皇子・高市皇子に、それぞれ食封400戸を川嶋皇子・忍壁皇子にそれぞれ食封100戸を加えられた。
朱鳥元年08月15日 芝基皇子・磯城皇子にそれぞれ200戸を加えられた。
朱鳥元年08月21日 桧隅寺・軽寺・大窪寺に食封それぞれ100戸を30年間に限り賜った。
朱鳥元年08月23日 巨勢寺に200戸賜った。
朱鳥元年09月09日 天皇崩御。 (686年10月1日) 

疲れました。それぐらい、此れでもかというほど、喜んで貰えることをされたことが記録
されています。大きく分けますと、位を上げたこと。罪人に対して恩赦を行ったこと。褒
美を与えたことの三つになります。
天武天皇は、八色の姓と新位階制をたしかに、定められたのですが、例えば、
13年11月01日のところには、 大三輪君 他 全部で52氏に姓を賜って朝臣といった。
と書きましたが、52人の名前がすべて書かれています。私は、転記するのがしんどいので、
省略しましたが、単に、52人と書かれているのと、全員の名前が書かれているのとは、
随分印象が違います。どう違うのかと言いますと、笑われるかもしれませんが、誰を連に
し、誰を朝臣にするかで、揉めたでしょうね。いや、揉めないで天皇が全部決めた。

 決めるのは、簡単ですが、連と朝臣と宿禰など、どのような違いがあるのか、私には全
く判りませんが、なにかルールがあるのでしょう。例えば、新しい会社を二人ではじめた
とします。二人でしたら、別に社長を決めなくてもいいと思います。しかし、ひとりは、
技術的な部分を主にし、もう一人は、経営と言うか、金銭部門を受け持つということはあ
るかもしれませんが、実質は二人ですることになります。規模が大きくなりますと、一人、
二人と社員が増え、次第に多くなります。このようになりますと、役割を決めないと効率
よく事が運びません。
 天武天皇以前は、八色の姓と新位階制はなかったのでしょうか? 勉強していませんので、
全く判りませんが、新しく定めたということは、必要になったから定めたのだと思います。
何故、必要になったのか、これから調べることになります。
というものの、これは私の能力以上の部分のように考えます。
 
 私は、前述の記事を書きぬきしながら、〔天武天皇 サービス精神旺盛〕と考えました。
現在の会社や公務員の制度では、役職が重要らしいです。私は一人で仕事をしていますか
ら、そのように感じます。同窓会に出席しますと、話しは役職のことが殆どです。
それによって、勿論収入も変わってくるらしいです。また、名刺が大切です。自分の名前
の上に役職が書かれています。例えば、支店長補佐とか、支店長代理と書いてありますと、
支店長でないことは判りますが、どのように仕事が違うのか判りません。3年経ったら、
支店長になるはずが、支店長が辞めたり、移動しなかったために、支店長代理という名前
だけを貰ったのか、本当に代理の仕事をしているのか判りません。 支店長が付かない、
次長よりは気分がいいのではないでしょうか?
会社の役職のことをなぜ書いたかといいますと、さあ、役職を決めて、すっきりさせよう
として、役職が出来るものではないという事です。少しずつ、必要があって決められるも
のであるのに、急に決められています。これは、中国や朝鮮の人の勧めがあったからでし
ょう。
 それに、地位を与えるということは、与える者がつねに上にいることが、はっきりしま
す。その上に、喜んで貰えることが判ります。
11年5月12日 倭漢直らに姓を賜って、連といった。
11年5月27日 倭漢直の人々が、男も女もみな参上し、姓を賜ったことを喜んで天皇を配
した。
 という記事からも判ります。
天皇は、地位や称号だけではなく、幅広く、現物も与えています。それだけ、常にひきつ
けておく必要があったのではないでしょうか?

もう一つ、気になることがあります。
9年2月23日 菟田の吾城(壬申の乱のときの故地)に行幸された。

この記事は、誰かに与えた記事ではありませんが、書き加えました。人間、過去にいった所を訪問するときは、心のどこかに、弱い部分ができたときだと思っています。前向きに、どんどん仕事をしているときは、昔のことなど、懐かしくも何でもないものです。
天武天皇が、どんどん、此れでもかというほど、喜んで貰えることをされたのは、此れ以
後だろうと考えていいます。
 では、なぜ、そのような事をされたのか? 
① 次々に、壬申の乱のときの信頼していた部下が死んでいくうちに、おかしいと感じる
ようになられたと思います。恩赦をどんどんしたのは、単に悪い奴でも赦したのではないと思われます。
② 位階を上げたり、褒美を与えたときに、その人の態度で、信頼してよいかどうか,すぐに判ったとおもいます。
③ 死亡の記事が多すぎます。壬申の乱のときの部下の死だけ取り上げましたが、他の人は、何歳で死んだのか、天皇との関係はなどと調べないといけないと思います。こうした死亡のおおさも、不安に感じられたのだと思います。
  
「広瀬と竜田の神を祭った」という記事、多いので気になりました。次回は、広瀬と竜田
の神について書くつもりです。

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2006.10.03

No28壬申の乱は日中戦争(3)

天武天皇は10人の女性と結婚をし、16人の子供を授かっています。数字のついている人が妻になります。すべての名前を掲載します。

1.天武天皇の皇后----鸕野讃良(うののさらら)皇女(天智天皇の娘、持統天皇)
子供---草壁皇子(文武天皇、元正天皇の父)
2.妃-----大田皇女(天智天皇の娘)
子供---大来(おおく)皇女 ・大津皇子
3.妃-----大江皇女(天智天皇の娘)
子供-----長皇子 ・弓削皇子
4.妃-----新田部(にいたべ)皇女(天智天皇の娘)
子供-----舎人親王

5.夫人----氷上娘(ひかみのいらつめ) (中臣鎌足の娘)
子供----但馬皇女
6.夫人-----五百重娘(いおえのいらつめ)(中臣鎌足の娘)
子供----新田部親王

7.夫人---太蕤娘(おほぬのいらつめ) (蘇我赤兄の娘)
子供---穂積皇子 ・紀皇女 ・田形皇女
8.宮人----額田王
子供---十市(とおち)皇女
9.宮人----尼子娘(あまこのいらつめ)(胸形君徳善(むなかたのきみとくぜん)の娘)
子供---高市皇子
10.宮人----カヂ(木+穀)媛(宍人大麻呂の娘)
子供---忍壁(おさかべ)皇子 ・磯城(しき)皇子 ・泊瀬部(はつせべ)皇女
託基(たき)皇女

どうして、こんなに多くの人と結婚したのでしょうか? ただ単に好きになったからでは説明がつかないと思われます。日本書紀では、天武天皇は天智天皇の弟と書かれています。1~4の妻は、天智天皇の娘ですから、4人の姪と結婚したことになります。

鸕野讃良皇女(後の持統天皇)のことを少し、書いておきます。
657(13才) 大海人皇子と結婚
661(17才) 百済復興のための筑紫遠征に同行
662(18才) 筑紫の娜の大津宮にて、草壁皇子を生む
668(24才) 父・天智天皇(43才)即位
671(27才) 大海人皇子出家、ともに吉野に赴く、父・天智天皇没
672(28才) 壬申の乱
673(29才) 天武天皇即位、皇后に立つ(2月27日)
686(42才) 天武天皇没

上の表から、父・天智天皇が32歳で、鸕野讃良皇女が13歳で、叔父の大海人皇子と結婚しています。11年後に668年(24才) 父・天智天皇(43才)で即位しています。3年後に父は死んでいます。
一方、大海人皇子は、天智天皇の娘の大田皇女・大来皇女・大江皇女の三人の娘と結婚しています。
大田皇女は
661年  筑紫遠征に同行、備前の大伯海にて、大伯皇女を生む(1月)
663年  大津皇子を生む

新田部皇女、673年  天武天皇即位、妃となる
大江皇女は、673年 天武天皇即位、妃となる

大海人皇子は、中臣鎌足の娘である-氷上娘と五百重娘と結婚しています。太蕤娘は蘇我赤兄の娘です。蘇我赤兄は、658年に有間皇子から謀反に誘いを受けたときに、天智天皇に通報し、有間皇子を死に至らしめ、天皇から信頼を得ています。天智天皇が死亡した671年に左大臣になっていますから、天智天皇の信望が厚かったことがわかります。
-氷上娘と五百重娘と太蕤娘が、自分達から天皇の親戚になるために近づいたものか、天皇から近づいたものか、調べてみないとなんともいえませんが、少なくとも、一時期は、大海人皇子と天智天皇とは、兄弟以上の親密な関係があったと判断して良いと思います。
 
ただ、天智天皇の四人もの子供と結婚するには、大海人皇子と天智天皇の間を引き裂こうとする力があったから、そのような無理な形をとったとも考えられます。
 左大臣であった蘇我赤兄は、壬申の乱の時は、大友皇子側の重臣で、敗れて捕らえられ、子孫とともに流刑になっています。

このように見てきますと、大海人皇子と天智天皇が、対立して、皇位継承で争う材料はないように見受けられます。
どうして、そのような事になったのか、又、日本書紀からデーターを集めたく思います。

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2006.10.01

No27 壬申の乱は日中戦争(2)

日中戦争とは、日本と中国の戦争です。壬申の乱と呼ばれていますが、誰がこの名前を付けたのか分かりません。
整理の意味で、どのようなものであったか、一般にいわれていることを記します。
壬申の乱は、672年に起きた内乱です。天智天皇の太子大友皇子(1870年に弘文天皇の称号を与えられています)に対し、天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのみこ)が反乱を起こしたことになっています。反乱者である大海人皇子が勝利を収め、天武天皇となります。天武天皇の元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたるためこれを壬申の乱と呼んでいます。
 壬申の乱が、どのように展開したかは、多くの方が推察を交えて書いておられます。資料は少ないですから、どうしても、推察をしないと内容に連続性がなくなります。その推察が正しいかどうか、調べるのが大変です。そこで、皇位継承に問題を絞って考えてみようと思います。本当に、皇位継承で、争いがあったのかどうか。私の推察のようにとんでもない推理---、中国人の関与があったのかどうかなどです。
 白村江の戦い(朝鮮へ出兵)で負けた天智天皇は660年代後半、都を近江宮へ移します。天智天皇は、同母弟の大海人皇子を皇太子にするつもりであったのではないでしょうか? 少なくとも、政治は一緒に行っていたと思われます。日本書紀では、「皇太弟」とありますから、皇太子に準じるものであったと思われます。しかし、天智10年1月5日皇子である大友皇子を太政大臣につけていますから、この記事を持って、この頃から、天智天皇は大友皇子を後継者にしようと考えていたとしておられる方もあります。太政大臣とは、律令制において、左大臣・右大臣の上に位置する、神祇官と並ぶ太政官における最高位の官職です。しかも、大友皇子はこの位を最初に授けられた人となりますから、皇位を継承すると見てもいいかもしれませんが、行政面でのトップですから、王家とは別と見るべきだと思います。
その後、天智天皇は病になり、病床に大海人皇子を呼んで、皇位を嗣ぐように依頼しますが、大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し自ら出家を申し出、直ぐに、吉野へ退散というか、天皇に逆らう意思の無いことを態度で表わします。
このあたりのことを、調べてみます。
私の知っているのは、日本書紀しかありませんので、天智天皇の記述に目を通してみました。先ず、日本書紀に書かれている大海人皇子の記事を抽出します。
664年 (天智3年)2月9日 皇太子(中大兄)は弟大海人皇子に詔して、冠位の階名を増加し変更することと、氏上・民部・家部などを設けることを告げられた。
668年 (天智7年)5月5日 天皇は蒲生野に狩りに行かれたときに、大皇弟(大海人皇子)・諸王・内臣および群臣みなことごとくお供をした。
669年 (天智7年)5月5日 天皇は山科野に薬狩りをされた。大皇弟(大海人皇子)・藤原内大臣(鎌足)及び群臣らことごとくお供をした。
670年 (天智8年)10月15日 天皇は東宮大皇弟(大海人皇子)を藤原内大臣(鎌足)の家に遣わし、大織の冠と大臣の位を授けられた。姓を賜って藤原氏とされた。これ以後、通称藤原内大臣といった。16日、藤原内大臣(鎌足)は死んだ。
672年 (天智10年)1月6日 大皇弟(大海人皇子)が詔して、冠位・法度のことを施行された。天下に大赦を行われた。
672年 (天智10年)9月、天皇が病気になられた。
672年 (天智10年)10月17日 天皇は病気が重くなり、東宮(大海人皇子)を呼ばれ、寝所に召され詔し、「私の病は重いので後事をお前に任せたい」云々と云われた。
東宮(大海人皇子)は病と称して、何度も固辞して受けられず、「どうか大業は大后(皇后)にお授けください。そして大友皇子に諸政を行わせてください。私は天皇の為に出家して、仏道修行をしたいと思います」と云われた。天皇はこれを許された。東宮は立って再拝した。内裏の仏殿の南においでになり、胡床(あぐら)に深く腰かけて、頭髪をおろされ、沙門の姿になられた。天皇は次田生磐を遣わして袈裟を送られた。
672年 (天智10年)10月19日 東宮は天皇にお目にかかり、「これから吉野に参り、仏道修行を致します」と云われた。天皇は許された。東宮は吉野へ入られ、大臣たちがお仕えし宇治までお送りした。
672年 (天智10年)12月3日  天智天皇崩御 

読んでいただけましたか? どのように思われましたか? 私が考えたことを記します。
① 大海人皇子のことを、どうして、弟大海人皇子・大皇弟・東宮大皇弟・東宮と使い分けたのだろう。弟大海人皇子・大皇弟・東宮大皇弟のには、すべて、弟の字がはいっています。天智天皇の弟であることが強調されています。はじめは、大海人皇子であったのが、大皇弟に「ひつぎのみこ」と宇治谷氏はふりがなを打っておられます。東宮大皇弟にも「ひつぎのみこ」とふりがなをうっておられます。現在では、東宮は皇太子のことを言っているようです。東宮御所などとして使われています。東宮大皇弟を(東宮)皇太子としますと、誤解されてはいけないので、東宮に大皇弟をつけたのでしょうか?
② 672年に天智天皇が亡くなられた後は、「東宮」を使ったことになります。単に皇太子ではなく、「ひつぎのみこ」として使われていることが判ります。
③ 蒲生野に狩りに行かれたときは、全員が参加しましたが、そのトップに大皇弟が書かれ、皇位争いの雰囲気は感じられません。
④ 山科野に薬狩りをされたときも、同様です。
⑤ 670年10月15日 天皇は東宮大皇弟(大海人皇子)を藤原内大臣(鎌足)の家に遣わしています。10月10日には天皇自ら見舞いにいったことが記されています。鎌足の死は悟られたのだと思います。鎌足は、天智天皇になる前に、二人で蘇我氏を滅ぼした間柄ですから、信頼もしておられたと思われます。せめて、鎌足の生前に喜んで貰おうとの心使いでしょうか? 5日後に東宮大皇弟を派遣し、大織の冠と大臣の位を授けられたことになります。鎌足は、現在でいえば、GHGの最高司令官である郭務悰の接待をしていますから、重要人物でもありました。
⑥ 今度は、天智天皇が病気になられます。そして、東宮(大海人皇子)を呼ばれ、寝所に召され詔し、「私の病は重いので後事をお前に任せたい」云々と云われた。皇位を継ぐように依頼されています。これはワナであるという人もあります。それは、天武天皇の所に、蘇我臣安麻呂が東宮に、「よく注意してお答えください」と言ったこと、東宮が用心されたことが書かれているからだと思われます。
⑦ 10月19日、どうして、これほど急がれたか判りませんが、天皇に寝所によばれてから、
二日後に、吉野へ出立していますが、その時、大臣たちがお仕えし宇治までお送りしていますから、最後まで、不穏な空気は無かったことになります。
⑧ 天智紀に書かれていることからは、天智天皇と大海人皇子の間で、皇位継承に関して、微塵にも、不穏な面は見つけることは出来ません。それでは、何故、天武紀に「よく注意してお答えください」というような記述があるのでしょうか?
この会話が交わされたのは、672年です。日本書紀が完成したのが、712年です。40年の隔たりがあります。日本書紀の編集者は、天智天皇と大海人皇子の間では争いが無かったと判断しました。しかし、それでは、その後直ぐに大友皇子と大海人皇子とが争いを起こした理由がないことになります。それをそれとなく、読んだ者に想像させようとしたのではないでしょうか?  
⑨ 40年も昔の事ですが、藤原不比等は、実情を知っていたのではないでしょうか? このことは、壬申の乱の記述から推察できます。

壬申の乱は、天皇家における皇位争いの最大のものと捉えられ、日本の歴史として確定しています。私は、タイトルに書きましたように、壬申の乱は日中戦争であり、大友皇子はおもちゃにされたと思っています。天皇家は、女帝の間、ずっと、醜い皇位獲得のために、争いをおこし続けたことになっています。確定していますから、天皇陛下が、自分達の先祖は、そんなに醜い人間ではなかったと言ってもだれも耳を貸してくれないと思われます。

次回は、もう一つ気になることがありますので、書いてみます。

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