« October 2006 | Main | December 2006 »

2006.11.28

No50黄泉比良坂(泉平坂)はどこ その2

禊をした場所を考えてみます。古事記には、『竺紫の日向の橘小門の阿波岐原に到りまして』と書いてあります。
阿波岐原は、淡き原でしょうか? 少ししか草が生えていないところだと思われます。阿波岐原は地名ではありません。このように考えますと、橘小門も地名ではなく、状態を表現したものです。橘の木が小さな門のようになっていたのでしょう。日向も竺紫も同様です。禊と云うものの、身体をきれいに洗うことです。
海にせよ、川にせよ 行ってみますと、そのような所に地名があると考えるのが、間違いです。翻訳者は、古事記の「竺紫」を「筑紫」と読みました。頭は、いっぺんに九州です。
「日向」は宮崎の日向です。「筑紫」だったのに、どうして、宮崎に飛んでしまうのか。
「小門」は狭いところとみました。海ですと、「阿波の水門と速吸名門」の二ヶ所になりました。日本書紀の編纂者はきを使いました。若し、海とちがったら困りますから、別の書物によると、「川の落ち口」になりました。なかなか上手く考えましたが、両方とも違っていました。
『竺紫の日向の小門の阿波岐原に到りまして』とありますところへ、稗田阿礼も行ったのだと思います。大山の山麓のブナ林が尽きるところ、これが「竺紫 ツクシ」です。「日向」は日向かうところです。南向きや東向きのところに、「日向」の地名を見ることができます。
地図をごらんください。陸上自衛隊日光演習場、大山日光CCがあります。きっと、ここは、日光が一日中あたりますので、日光と呼ばれていたと思われます。現在は江府町にかわっています。カラーのついた地図で見て頂きますと、茶色の部分と緑色の部分が有ります。緑の部分は、樹木帯です。ここで、樹木は、尽きて草がわずかに生えたところにうつります。
 イザナギは、御墓原から黄泉比良坂を下り、坂本まで逃げますと、溝口のところから、白水川を遡ります。樹木が尽きたところが、大滝というところです。近くに「吉原」と「大河原」という地名があります。ここに、吉原神社と大河原神社があります。
旧名で記しますと、
 吉原神社  日野郡日光村吉原  祭神 底筒男命、中筒男命、上筒男命
 大河原神社 日野郡日光村大河原 祭神 底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命
とあるように、それぞれに、底筒男命、中筒男命、上筒男命と底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命が住んでいました。
この二ヶ所へ、稗田阿礼は行ったはずです。そして、いろいろのことを聞きました。彼らは、海に関係があったはずですが、この頃は、この辺り海抜500mのところに住んでいました。直ぐ近くにある笛吹山は997mです。この山は、前にも書きましたが、中蒜山の日留宮と御墓原と比婆山(御墓山)は直線で結ばれていました。
別に大きな滝でもないのに大滝と地名は残っています。イザナギに付けられた「大」です。
「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は弱し」とある上つ瀬は、大山三の沢で流れは急で禊は出来ません。下つ瀬はしろ白水川で流れは弱くて禊はできません。上つ瀬から下つ瀬に変わる滝壺でイザナギギは禊をしました。
では、吉原神社と大河原神社に祭られていた人たちは、こんな山の中でなにをしていたかと言いますと、三人は、笛吹山の狼煙の番人でした。島根半島の高尾山から狼煙が上がりますと、伝馬船で福浦に迎えに行くのが、綿津見神の任務でした。三交替で勤務していたのでしょうか? 底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命の三人です。
 このような言い伝えがあることを神主から稗田阿礼は聞いたのではないでしょうか? そして、総合して太安万侶が脚色して、誰にも判らない様に、登場人物だけをのこらずに、掲載したと思われます。この神たちは、なぜか、大阪の住吉神社の祭神になり、その後、全国に広がっています。

いかがでしたでしょうか? 黄泉比良坂は、ここであるというのは、古事記もぼかしました。
黄泉比良坂の後に、ストーリーは続きますから、前後をのべますと、自ずから黄泉比良坂の位置は判ることになります。

古事記と日本書紀を比べることによって、両方に書かれていることの意味が理解できるように思うのですが、いかがでしょうか?

| | TrackBack (0)

2006.11.23

No49 黄泉比良坂(泉平坂)はどこ

イザナギが、黄泉の国から逃げてきたときに、古事記には、黄泉比良坂の坂本に到ったとあります。日本書紀では、黄泉の国の境の平坂についたと書いてあります。
古事記に書かれている「黄泉比良坂」の「比良坂」を「平坂」と書き直しただけです。日本書紀の人は、比良坂を地名と判断して、漢字を書き換えました。古事記の方は、「坂本」という地名のところにやって来たとあります。

古事記に書かれている「黄泉比良坂」の「比良坂」を「平坂」と書き直しただけです。日本書紀の人は、比良坂を地名と判断して、漢字を書き換えました。古事記の方は、「坂本」という地名のところにやって来たとあります。
 大山の南に三平山があります。「みひらやま」と呼びます。いつの頃から、この名前が付いていたか判りませんが、大山から三平山にかけての山の上から夜によく見えた病院が、夜見国であったのではと推察しています。夜見国の一つである御墓原からは、1000mの三平山は見えるのではと思います。(確認していません) 
 山の麓にあるところは、「山本」です。坂の下にある集落は、「坂本」です。有名なところですと、比叡山の麓に坂本があります。「比良坂」は、あまり急でない坂を降りてきたのではないでしょうか? そこが坂本という地名でした。御墓原は標高150mぐらいのところですから、100mぐらいの標高差のところにある坂を下ってきたと思われます。あまり遠くでは、おかしなことになりますから、現在の溝口町のあたりでしょうか?

ところが、古事記には、「其所謂黄泉比良坂者 今謂出雲国之伊賦夜坂也」(その所謂黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂と謂う)とあります。古事記のこの部分の前の方を読んでください。この部分は、誰かが、後の世になって、付け足した感じであることが判ると思います。古事記の作者は「黄泉比良坂の坂本」だと書いたのですから、もう一度、説明する必要などありません。太安万侶は、稗田阿礼から口述でデーターを受け取りました。この部分の文章の形態はそのようになっていません。
古事記の翻訳本(倉野憲司氏)の注書きには、所在は不明ですが、出雲風土記の出雲郡宇賀郷の条に、『北の海浜に窟戸があり、窟内に入れない穴がある。夢に窟の辺に行ったと見れば必ず死ぬ。世人はこれを黄泉の坂・黄泉の穴と言い伝えているとある』日本書紀は、出雲風土記のみならず、あらゆる風土記を参考にしたと思われますが、なぜか、出雲風土記だけが残っているところをみますと、このようなことも事情にあるのかもしれません。
 出雲風土記の報告書が本当のこととしますと、この黄泉の坂・黄泉の穴は、当時、人々に知られたくなかったところではないかと思われます。全国にあった隔離病院の一つではないかと推察します。
 古事記では、イザナミは、比婆山に葬られたとあります。日本書紀では、本文には書かれていませんが、第5書に、紀伊国の熊野の有馬村に葬ったとあります。ここも海岸の洞窟らしいです。ここも、隔離病院であったのではないかと推察しています。
 このように、隔離病院は、全国各地にあったと思われますが、日本書紀の編集者たちは、伯耆国にあることは書きたくなかったのではないてしょうか?
隔離病院が海岸にありますと、一般の人に知られることは少ないのですが、黄泉比良坂では、坂があることになり、海岸以下に下ることはできませんから、坂が合ったのではなく、平坂という地名だったことで、日本書紀だけ読んでいますと、それでいいことになります。
 ただ、物語は続きます。イザナギが穢れたイザナミを見たために、自分も穢れましたので、禊をします。
どこで禊をしたかと言いますと、古事記には、『竺紫の日向の小門の阿波岐原に到りまして』、日本書紀第10書には、禊をしようと、『阿波の水門と速吸名門をご覧になった。ところがこの二つの海峡は、潮流がはなはだ速かったので、橘の小門(日向)に帰られて払いすすぎなさった』とあります。
この二つの文章をどのように思われましたか? 古事記の方は、なんのことか、さっぱり解りません。竺紫というところにある日向という郡でしょうか? 日向の小門というところにある阿波岐原という原っぱに行ったのでしょうか?  紀元前の時代に、野原に名前があったのでしょうか? 日本書紀の編集者たちも、理解できなくて困ったようです。イザナミの墓を紀伊国の熊野の有馬村に葬ったと書いたぐらいですから、阿波の水門と速吸名門をご覧になったと書きました。鳴門のところでしたら、流れは速いでしょう。古事記に「阿波岐原」とありましたから、「阿波」に行ったことにしました。古事記に「小門」とありましたから、「水門」と書きました。ところが、流れが速いので、「橘の小門(日向)に帰られて」とありますから、イザナギとイザナミは橘の小門(日向)に住んでいて、イザナミの具合が悪くなったので、死んだので黄泉の国に行った。(モガリの最中にイザナギが訪れた。そのはずなのに、イザナミがイザナギを追いかけて来た) その後、紀伊国の熊野の有馬村に葬った。誰が葬ったのでしょうか? しかし、それより前に、イザナギは九州の日向に帰ったことになります。
日本書紀の本文では、「筑紫の日向の川の落ち口の、橘の檍原(あわきはら)に行かれた」とあります。古事記に書かれている「竺紫」と日本書紀の「筑紫」は同じでしょうか? 「筑紫の日向」とは、どこのことでしょうか? 普通は宮崎県の日向ということになっています。そこの川の落ち口とは、海に流れ込むところでしょうか? きっと、滝になって落ちているのでしょう。そこに地名がついていて、橘といったのですね。橘というところに、檍原(あきはら)という名前がついた原っぱがあって、そこで禊を行ったと書いてあることになります。
ついでに書きますと、檍原を本当に(あわきはら)と読むのでしょうか? 翻訳本では、(あわきはら)とふりがなが打ってあります。古事記の「阿波岐原」でしたら、だれでも(あわきはら)と読むことができます。
 古事記と日本書紀を比べますと、日本書紀の方は、殆ど、読むことができません。古事記に書いてあることを、忠実に漢字を書き換えると、どうしても、このような事になります。古事記にとらわれないで書きますと、このような事にはなりません。
長くなりましたので、途中ですが、ストップにして次回に繰越です。
 


| | TrackBack (0)

2006.11.20

No48 古代の隔離病院

No47において隔離病院という名前を使いました。問題は隔離という考え方が古代にあったかどうかです。なかったとしますと、No47までのことは、考えを改める必要があることになります。
記紀に登場する病気のことは、崇神天皇の御代に「役病多に起こりて、人民死にて尽きむとしき・・・」と古事記に書かれています。日本書紀にも「国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上におよぶほどであった」とあります。古事記の作者には、人民が死に尽きると思われるほど死者が多かったと思えたのでしょう。記紀のどちらの人も判らなかったらしいですが、日本書紀の作者は、半分を超えていたであろうと考えた事になります。
 これほど多数の人が、死亡する病気は、伝染病しかないと思われます。「役病」も「疫病」も伝染病のことらしいです。伝染病とは伝染していく病気です。この説明はわかったような分からない表現です。現在では、感染症と呼んでいると思います。(自信なし) どちらにしても、誰かから、どこかからうつる病気です。現在でこそ、細菌・原虫・ウィルスが原因で、その原因が、次々と動物や人間に乗りうつって発病することになります。
 崇神天皇は、どうしてこのようなことになるのか判らなかったようです。古事記では、神に聞かれたと記されています。すると、大物主大神が御夢に顕れて、「私がしている事です。意富多多泥古(オホタタネコ)に祭つらせなさい」と言いました。
 日本書紀は、その原因と思われることを書いています。一つは、天皇は朝夕天神地祇にお祈りしたが、上手くいかなかった。そこで、宮中で天照大神と倭大国魂の二神を祀ったが、これも上手くいかないので、宮中から追い出し、豊鍬入姫命と渟名城入姫命に神を預けて祀らしたが、これも上手くいかなかった。その次に、崇神天皇が、「朝廷に善政なく、神が咎を与えておられるのでないかと恐れる。占いによって災いが起こるわけを究めよう」と云われたと記している。天皇が言ったように書いてありますが、原因は天皇であると日本書紀は述べています。
 この続きは別のときに書くとして、記紀がつくられた700年の頃には、病気はうつるものであるという考え方は無かったようです。勿論、細菌などの原因でおこるとは思っていなかったことが判ります。
 解決策は、大物主大神を祀ることによって、見出されたようです。大物主は神武天皇の岳父です。神武天皇が、奈良の柏原に都を定めたのが、西暦元年ですから、大物主は紀元前の人です。崇神天皇は、西暦200年前後の人ですから、200年前の人が、崇神天皇の御夢に現われたとありますが、疫病に対する方法は大物主の関係者に教わったのでしょう。
兎に角、大物主大神については、記紀を読んでいてもおかしなことばかりが書かれていることが判ります。皆さんお好きなように判断してください。
 
 記紀からは、これぐらいのことしか判りませんが、推古天皇の20年(612)のところに、
「是歳、自百済国有化来者。其面身皆斑白。若有白癩者乎。悪其異於人、欲棄海中島。
 然其人曰、若悪臣之斑皮者、白 斑牛馬、不可畜於国中。亦臣有小才。能構山岳之形。
 其留臣而用、則為国有利。何空之棄海島耶。於是、聴其辞以不  棄。
 仍令構須弥山形及呉橋於南庭。時人号其人、曰路子工。」

意味は、「百済からの帰化人のうちの一人に、顔面に白斑のできた者があり、白癩と疑われて海中島へ島流しになろうとした。しかし、その人は庭造りの名人であったのでこれを許し、南庭に須弥山と呉橋をまねた庭を造らせた。この人は路子工あるいは「しこまろ」と呼ばれた」です。「白癩」はらい病のことと思われます。
又、「法華経義疏」(ほけきょうぎしょ)は聖徳太子が著わした「法華経」の注釈書で、日本最古の書物と言われています。「法華経」は中国で、鳩摩羅什(くまらじゅう―344~413年)によって訳された(サンスクリット語→漢文)「妙法蓮華経」がもっとも広く流布されています。その中の「妙法蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八」に、「白癩」の症状が詳しく書かれています。興味のある方は、原文を読んでください。日本書紀の作者は、ここに書かれていることを参考にして、日本書紀を書いたことが推察できると思います。

イザナギがイザナミのところを訪問したのは、やはり、病院であったと考えていいと思われます。古事記には黄泉の国へ行ったと書かれているのに、どうして、日本書紀の人たちは、御墓野や夜見島のことを死の国と書いたのでしょうか。
考え方は、いろいろできます。自由に考えてください。

イザナギとイザナミは、紀元前180年ころの人ではないかと推察しています。記紀が書かれたときより、900年も前のことですから、判らないといえば、それまでですが、稗田阿礼が、病院を訪れたときに、昔話として聞いた話を、太安万侶が脚色したのだと思われます。日本書紀の編纂者たちは、詳しい内容を知っていただけに、詳細に書くことになったのでしょうか?

| | TrackBack (0)

2006.11.17

No47 墓の字がつく地名 御墓原

No46 推理はいかがでしたか?  〔御墓原〕というように、墓の字があるから、そこに墓があると考えるのは、無理だろうと思われた方が殆どだと思います。
以前に、滋賀県の小字を調べていたときに、墓地名が多いなと感じたことがありました。どうして、こんな縁起でもない名前が付いているのだろうと思いました。漢字は、「墓」ですが、お墓でない、他に意味があるのだろうと思いましたが、墓しか思い浮かびません。現在は、小字は消失してしまいましたので、当然、墓地名はなくなりました。もう一度、調べてみました。
 角川地名大辞典の巻末から書き出したものでは、滋賀県には、小字が44333件あります。その中に、墓の字がつく小字は、120件あります。小字の中の小地名には、82件あります。このように眺めますと、どの村にもお墓は必ずあり、そこには、「墓」の字を含んだ地名をつけたと思われます。極、自然なことだったようです。どのような地名があったか、並べて見ます。 
 横墓ヌキ(南富永村)、下墓ノ尾(広瀬村)、下墓原(鏡山村)、下墓丈(南富永村)、荒墓(草津村)、朱墓(北富永村)、相撲墓(大郷村)、墓ヶ谷(米原町)、墓ノ前(田根村)、墓ノ町(大郷村)、
墓原(野洲町)、墓田(大郷村)、墓立(芹谷村)・・・。
多い墓名は
墓ノ町は、38件あります。墓立は12件あります。御墓は6件。墓ノ前は6件。墓原は7件。
滋賀県の小字にも、「墓原」が7件ありました。伯耆の国の〔御墓原〕には、「御」が付いていました。
単に、お墓があった所には、「墓」という字を含んだのであれば、もっと、沢山あってもいいことになります。上に挙げましたところは、やはり特殊であったと思われます。現在ですと、まだ、小字のことを知っておられる方が居られると思います。90歳以上の方でないと無理かと思います。今のうちに、調査が必要だと思われます。

No46で書きましたように、120件の内、20件の隔離病院があったのではと仮定しますと、全国で、1000件ほどの隔離病院があったのではないかと推察できます。
これは、どのように考えたらいいのでしょうか? 二つです。
隔離病院など無かった。
隔離病院はあった。あったとなりますと、「20件の隔離病院」の仮定が間違っていたことにしないと、話は前へ進みません。
各国に一件あったことぐらいにして、推理を重ねてみようと思います。

| | TrackBack (0)

2006.11.15

No46 黄泉の国の第二病院

前回で予告しましたが、「御墓原」は見つかりましたか?  東経133度24分、北緯35度20分にあります。旧住所では、会見郡です。イザナギがイザナミ会いそして見るためにいったという伝承があったから、後の人が、会見郡と名づけたのでしょうか? それではできすぎています。しかし、東北の会津の地名の由来は、「「会津」の地名の起源は、崇神天皇(すじんてんのう)の御世(みよ)に遡ります。古事記や日本書紀の言い伝えによれば、大和朝廷の勢力拡大のため、四道将軍(しどうしょうぐん)が各地に派遣されましたが、うち大毘古命(おおひこのみこと)は北陸道方面へ、その子の武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)は東山道方面の経営に遣わされたとあり、その親子が出会った場所が、東北最果ての地「津の国(湖のある国)」であったことから「会津(相津)」という地名がついたといわれています。」
だから、会見郡は、そのようなことは無いと否定することもありません。
地名 御墓原について考察してみます。

地図に表示されている「墓」地名は、「地図で見る日本の地名索引」で検索しますと、427件検出できます。 この中には、東京の青山墓地とか、大阪の阿倍野墓地というようなもの。岡山の池田輝政墓や阿保親王墓というような個人名の付いた墓の表示もあります。
こうした実際の墓地名を覗きますと、純粋(?)の墓の字がつく地名は多くありません。

例えば 岐阜・青墓町、和歌山・犬の墓、岡山・犬墓山、香川・王墓、岡山・王墓山、島根・御墓山、鳥取・御墓山(おはかやま)、鳥取・御墓原(みはかはら)、福島・牛ヶ墓、福島・馬ノ墓、静岡・大墓瀬、滋賀・墓谷山、新潟・墓間、福島・墓料、新潟・三墓山。
 もう少し、あるかもしれませんが、僅か14件です。
そりゃ縁起でもない、自分達が住んでいる所に、墓の字をつかうなどと思われるかもしれませんが、昔は多く付けられていました。その事を書く前に、上の14件の地名を眺めて見ます。
① 香川・王墓、岡山・王墓山です。 これは、現地の人にお願いしたいですね。
② 鳥取・御墓山(おはかやま)、鳥取・御墓原(みはかはら) 両方とも鳥取にあるのが、気になります。同じ字を書いて、片方は(おはかやま)であり、(みはかはら)です。御という漢字を「お」とよみ、「み」と読んでいます。「み」の方は、高貴な人が葬られていたとの伝説があったのでしょう。そして、「原」ですから、広範囲にお墓があったのでしょう。
この地には、記紀に書かれている黄泉国があったのではないかと推察しています。理由は、別に記します。
③ 和歌山・犬の墓、岡山・犬墓山、福島・牛ヶ墓、福島・馬ノ墓 以上は動物の墓になっています。犬の墓は、イザナギとイザナミ又は徐福の一族と関係があったのではと推察しています。

すべての所へ、行く訳にも行きませんので、地元の人に、どのような所あるのか、例えば、島根・御墓山、鳥取・御墓山(この二つは両県の跨っています。東経133度24分・北緯35度20分)には、古墳があるかなど調べていただきたいなと思います。
問題は、御墓原です。イザナミの入院先ではないかと思っています。ここは、夜見島のように島でありませんから、伝染病から隔離するには、適当ではありません。しかし、
ヒルゼン高原(日留宮)—笛吹山(ノロシ台)—御墓原(入院先)—比婆山(お墓)と並んでいます。米子市の夜見町より古くからあったのではないかと考えています。病院があったのですが、死亡者が多かったために、どんどんお墓が増えたのではないかと想像します。古墳時代の大きなお墓ではなく、どんどん埋葬されただけでしたから、なにも出土しないですが、青山墓地というのが、その内に、地名として残るように、地名として「御墓原」として残っているのだと思います。死亡したイザナミは、比婆山(御墓)に葬られたことが、「出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬りき」と古事記に書かれています。日本書紀では、この部分は、6つの書物があることになっていますが、第5書に、「紀伊国の熊野の有馬村に葬った」とあります。
 笛吹山は、別の機会に書くこともあると思いますが、イザナギとイザナミが連絡用に利用した重要な山だったと思われます。御墓原は、笛吹山から夜になると、明りが見えたのだと思われます。稗田阿礼は、この山にも登って、夜見の国を眺めたでしょう。詳細は、「楽しい人生」の2005年1月18日に「イザナミの墓・比婆山」と題して、書いています。http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/01/post_8.html

日野郡阿毘縁村宮下に熊野神社があります。この神社の由緒にイザナミを葬った比婆山を別名御墓と称したという伝説があるということを記しています。又、比婆山の山頂には比婆山久米神社奥の宮の本殿があり、その横には「伊邪那美大神御神陵」と書かれた標柱がある。(http://www.city.yasugi.shimane.jp/p/public/ijiri-es/ijiritenbyou の中の比婆山神社に書かれています) 又、この比婆山神社の由緒にもイザナミは御墓山に葬られたと書いてあるそうです。
比婆山は、島根半島にある高尾山の真南に位置します。イザナギとイザナミの一族は、方位を測量することはお手の物だったと見え、ある基準地(淡路島の多賀)から、南・北・東・西にある山を基準にして、都やお墓の位置を決めたように思われます。
 イザナミは御墓原の病院に入院していましたが、亡くなり、すぐ近くの比婆山に葬られたことになります。
日本書紀は、この事実を隠すために、有馬村のことを書いたり、書くだけではなく、和歌山の有馬にお墓まであります。比婆山は、廣島県に持って行き、郡の名前まで作っています。    
資料---比婆山は4ヶ所あります。 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page325.html

| | TrackBack (0)

2006.11.13

No45 イザナミは、病院に入院していた

もう一度、古事記の黄泉について書かれた部分をあげます。
「ここにその妹伊邪那美命を相見むと欲ひて、黄泉國に追ひ往きき。ここに殿の縢戸より出で向かへし時、伊邪那岐命、語らひ詔りたまひしく、「愛しき我が汝妹の命、吾と汝と作れる国、未だ作り竟へず。故、還るべし」とのりたまひき。ここに伊邪那美命答えへ白ししく、「悔しきかも、速く来図手。吾は黄泉戸喫しつ。然れども愛しき我が汝夫の命、入り来ませる事恐し。故、還らむと欲を且く黄泉神と相論はむ。我をな視たまひそ。」とまをしき。
 イザナギはイザナミに合いたくなって黄泉国まで追いかけて行きましたと書いてあります。行き先を知っていたのです。行くことができる所であったことが判ります。イザナギは、まだ、国生みが完成していません。二人でもう一度国作りをしましょうと、イザナミは残念ですが、黄泉戸喫を食べてしまいましたので、この病院での規則では退院出来ません。しかし、黄泉神と相談してきます。しかし、病院の中の様子は決して見ないでください と云って病院の中にはいっていきました。 
 二人は、病院外で、このようにお話をしたことになります。

日本書紀には、どのように書いてあるかは、No41でみましたので、もう一度よんでください。日本書紀の本文にあたる部分には、黄泉の国のことは書いてありません。日本書紀の編纂者は書きたく無かったのですが、このような話が他の書物にのこっていますよと、第11書まで記しています。その内、黄泉の国のことは第6、第9、第10のみに書かれています。
日本書紀の本文にあたる部分には、黄泉の国のことは書いてありません。日本書紀の編纂者は書きたく無かったのですが、このような話が他の書物にのこっていますよと、第11書まで記しています。その内、黄泉の国のことは第6、第9、第10のみに書かれています。
 その内、
第6書には黄泉国に行っただけ書いてあります。
第9書は、はっきりと殯(モガリ)のところへ行ったとあります。
第10書は、黄泉国とは書いてなくて、イザナミのところへ行ったとあります。
 本当に、巧妙な編集だと思います。読んだ人の感性によって、受け取り方が違います。イザナギは死の国・黄泉の国へ行ったと記憶に残る人、殯(モガリ)のところへ行ったと覚えてしまう人、それぞれ。丁寧に読んでも、わけが判らなくなります。

では、何故、イザナミが行った先が、病院であると思ったかです。

日本書紀の編集者たちは、古事記を元にして日本書紀を書こうとしましたが、意味がよく判らなかったようです。
イザナミに覗かないでくださいと云われたのに、イザナギは覗いて見た様子を、第6書において、記しています。宇治谷孟氏の訳文よりかきますと、
第6書は 「膿が流れ、うじが涌いていた」
第9書には、「伊弉冊尊滿太く高く膨満していました。体の上に八種の雷公が有った。伊弉諾尊は驚いて走り逃げ還った。是の時、雷等は皆起きて追いかけて來た。」
第10書には、イザナミの状態は描写されていません。

これは重要なことです。第6書に書いてあることは正しくありません。うじ(蛆)はご存知ですか? 最近は見る機会がすくなくなりました。説明をしておきます。ハエ目(モク)・ハチ目などの昆虫の幼虫の総称です。例えば、ハエは、犬が便をしますと、数分以内に臭いを嗅ぎ付けてやってきて、卵を産みます。その後は、どうなるのか見たことがありません。勿論、数日で卵は孵って幼虫の蛆になります。そして、便を餌にするのだと思いますが、食べているのを見たことがありません。例えば、犬が下痢便をして、汚物が皮膚に付いたとします。犬はすぐに舐めて取り除きます。ところが、病気で鼻が悪くなって気がつかないのか、舐める元気も無いと、すかさず、ハエが飛んできます。そして、膨大な数の卵を産んでいきます。2日後には孵化すると思います。(少し、自信なし) 孵化したところは見たことはありません。私が知っているのは、孵化した蛆が生きている犬をどんどん食べている様です。その様子を古事記は、「蛆たかれころろきて」と書いてあります。「たかれ」は、ハエがたかるなどと言います。集まることです。「ころろきて」は「嘶咽く」と書きます。ころころと音を立てる。とか、声がかれて、のどが鳴る様を云うと辞書にあります。蛆はころころと音はしませんが、音がするよう雰囲気です。たっぷり栄養分を食べた蛆は、足もないくせに、逃げ足はやく移動をします。100匹にもなるかと思われる蛆が集まっている様は、「蛆たかれころろきて」の通りです。このように、音がするほどの勢いで生きた犬を食べるのですが、犬は舐めようともしません。そして、ひどくなりますと、血がでるようになります。蛆は皮膚の表面ではなく、どんどん身体の奥深く侵入します。それでも、犬は痛がりません。蛆がたくさん集まりますと、どうやら、ねばねばの液を出すようです。それは、局所麻酔の役割をするのではないかと思われます。
 すみません。生々しい様子を書きました。もうお判りになりましたか? 蛆は便には、卵を産みますが、死んだ動物には卵を産まないと思います。死んだ動物の処理をするのは、蛆ではなく、細菌の仕事だと思います。
日本書紀の第6書に書かれている「膿が流れ、うじが涌いていた」はまちがっていることになります。膿が流れて、うじが涌きません。 蛆が関与している間は、細菌は付いても生きていけないと推察します。(これは自信ありません) もし、イザナミの身体から、膿が流れていたのであれば、蛆とは関係なしに、化膿があったと思われます。
患部は、どのようになっていたかといいますと、古事記は、「頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、并せて八はしらの雷神居りき」と記しています。
患部の数は8つあったことになります。大きさ、色、出血などの違いにより、雷にみたてて名前をつけたのだと思います。
古事記には「膿」が流れているとは書いていないのに、「蛆」がありましたので、日本書紀の編纂者たちは、分かりやすく「膿が流れて」いたことを書きました。私の考え方がよくないかも知れませんが、この事実は、現在でこそ、知らない人は多いと思いますが、当時ですと、細菌のせいだとか、癌だとか知らなくても、誰でも知っていたと思います。
 イザナミは性質の良くない病気だったのではないでしょうか?  もしかすると、伝染病と思われていたのかもしれません。このように考えますと、隔離をするには、島が最適となります。No44において、黄泉国は夜見島ではなかったかと推理をあげました。高尾山から、夜でも見える夜見島を訪れた稗田阿礼は、ここに入った人(黄泉戸喫しもつへぐいをした人)は、出して貰えなかったのではないでしょうか?  
 ところが、イザナギは病院に入所したのではありませんが、病棟に入りました。そして、見たことを外部に漏らされては困ります。又、病気がうつったかもしれません。そこで、イザナミと黄泉軍に追いかけられたのだと思います。ここらあたりのストーリーは、この病院のルールを稗田阿礼から聞いた太安万侶が物語りにしたのだと思います。作りばなしでありますから、日本書紀の編纂者は、理解できなくて困ったと思います。
 第9書に書いてある「伊弉冊尊滿太く高く膨満していました」は正しい記述です。はじめにモガリにいったとありますから、イザナミは死んでいました。当時の人は、勿論、近親者だけでしょうが、死体を見る機会は多かったと思います。お腹が腫れていました。人間は死にますと、心臓はとまり、筋肉も硬くなります。ところがお腹の中の細菌は、少し後まで生きていることになります。生きていますと、ガスが生産されて腸が膨らみます。
 第6書と違って、観察は鋭いですから、第6書と9書は書いた人が異なるかもしれません。

次回は、病院の第二の候補地を書いてみます。伯耆国の御墓原と呼ばれるところです。                                
どこにあるか、調べておいて貰いますと、いろいろ私の考えに惑わされないで、別の発想が閃くかも知れません。

| | TrackBack (0)

No44 黄泉国は入院先の病院があったところ

黄泉国は、候補地として二箇所考えています。一つは、夜見町であり、もう一つは御墓原(東経133度24分、北緯35度20分)です。
両方とも鳥取県です。昔の名前で言いますと、伯耆国です。伯耆国には、式内社が6社しかありません。この地は神武天皇から住んでおられたところで、天皇家の支配がもっとも強かった所です。そのため、多くあった神社を式内社にすることはできなかったと思われます。その理由は、簡単に書く事は出来ません。これを実証するためのように、別のブログに、一年以上書いています。ブログは「新しい日本の歴史」
http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/ ですが、膨大になりましたので、同じタイトルで、http://homepage1.nifty.com/o-mino/page550.html に移しています。No14、15、16に簡単に書いていますから、読んでください。納得できない方は、No1から全部読んで頂きますと、少しだけ、「そうかいな」 という気になられるのではと思っています。

話を元に戻しまして。天皇家は、直接イザナギとイザナミとは、関係ありませんが、イザナギが黄泉国から逃げ帰ったときに、アマテラスとツキヨミとスサノオが生まれたと古事記に書いてありますが、この三人は家来になったのでしょう。アマテラスの系統が天皇家であるとなっていますから、伯耆はイザナギとイザナミとも大いに関係があります。
 夜見町は、米子市にあります。地図を開いてください。砂州が発達してできた弓ヶ浜を見つけることができます。(夜見ヶ浜) と書いてあるはずです。 半島が弓のように曲がっていますから、弓ヶ浜と呼ばれていますが、元は夜見ヶ浜であったことが判ります。しかし、半島どころか、島であったらしいです。「彦名」という地名が見えます。その近くに粟島神社があります。祭神は少名彦那命です。古事記に登場する神です。地名まで「彦名」とあります。この近くに住んでいたと考えていいと思います。
http://www.coara.or.jp/~tagi/ooita/kunisaki/kunisaki1.htm

「彦名」より北は、海抜が4m以下ですから、紀元前は海であったことが想像できます。
昨日の新聞に小さくですが(岡山県の古墳から銅鐸がでた)と書かれていたのを読んだような気がします。
出雲風土記の蜈蚣嶋の説明の中に、「即、自2此嶋1、達2 伯耆國郡内 夜見嶋1、磐石 2里許。廣60歩許。乗レ馬 猶 往来。盬満時、深2尺5寸許。盬乾時者、已 如2陸地1」と記されており、夜見町は、嶋であったように思われます。夜になるとどの島も真っ暗であるのに、この嶋は人が多く火が焚かれていて、夜でも見えたのでしょう。
 だれの目に見えたのかと言いますと、稗田阿礼が実際にどこからか見てそのように見えたのでしょう。稗田阿礼は天武天皇から古事記を編纂するために、資料を集め記憶しておくように命令されました。彼は、蒜山高原を中心にして、殆どの神社は訪れ、古老の話などを聞いたと思われます。
 夜見町からもう少し北へ行きますと、米子空港があります。この空港から北を望みますと、二等辺三角形の山ガ見えます。高尾山と言います。この高尾山へ稗田阿礼は登ったと推察します。と言いますのは、この高尾山の真北に隠岐島があり、そこにやはり高尾山があります。この隠岐島が、イザナギやイザナミが出発したところだと思います。高尾山は全国いたるところにあります。イザナギやイザナミのグループの人たちが目印にした山だと思っています。http://homepage1.nifty.com/o-mino/page421.html
 稗田阿礼は、高尾山から夜見町が明るく見えたこと、そして、夜見町も訪れました。その当時、700年代でも、ここに隔離病院があり、中を覗き見すると夜見嶋から出してもらえませんと注意をされたのではないでしょうか? 稗田阿礼は粟島神社を訪れ、少名彦那命が祭られていることも知ったと思われます。
少名毘古那神は古事記に載っている神ですが、どのように乗っているかは、次のアドレスをクリックしますと、読むことができます。もっとも、翻訳は素人の私がしましたから、http://homepage1.nifty.com/o-mino/page409.html
プロの翻訳本で確かめてください。
 稗田阿礼が粟島神社を訪れ、調べてきた少名彦那命のこと、夜見嶋のこと、隔離病院のことなどを太安万侶に伝えて、古事記のストーリーを作ったと思われます。このような調子で調べて行きますと、古事記に出現する神は、隠岐島をはじめとして、島根半島、伯耆国、ヒルゼン高原にすべて、神社の祭神として見つけることができます。
 そりゃそうです。調べてあった神を材料にして古事記を作ったのですから。とはいうものの、正確にいいますと、その筈ですとなります。すべて調べていません。

黄泉国には病院があったと書きましたが、次回は、なぜ、そうなのかを書いてみようと思います。 

| | TrackBack (0)

2006.11.11

No43 黄泉国は地下にある死者の住むところか

黄泉醜女は黄泉の国にいることは判りましたが、黄泉とはどこかと言いますと良く判っていません。小学館の国語辞書には、「人の死後、その魂の行くという所。死者の住む国。あの世。よみの国。よみ路。よもつ国。こうせん」 と書いてあります。広辞苑は、これに付け加えて、闇(やみ)の転か。ヤマ(山)の転ともいうと書いています。判ったような判らない説明です。人の死後、魂だけが、どこかへ抜けていくのかどうか判っていないのに、行く所だとあり、死者が住む国があると書いたものの、見た人は居ないのですから、無理はありません。闇から転じたのであれば、暗闇は黄泉の元の言葉となります。どのような経過があったか分かりませんが、日本では、死んだ人が、「よみ」に行くと思っていたのでしょう。そして、そこは暗いところであるというイメージは持っていたので、太安万侶はイザナギが櫛に火をつけたと書いたのでしょう。日本書紀の作者は、それでも意味が判らなかったから、丁寧に説明をしています。第9書では、もがりのところへ行ったとあります。殯は死んだ人を保管しておくところですから、イザナミは喋ることはできないはずですが、生きていたときのように出てきて喋ったと書いています。このような馬鹿なことはありえませんから、本文では、死んだイザナミに会いにいったなどとは、書かないで、単に会いにいったと書き、別にこのように書いた第9書がありますよと、馬鹿げた話は、第9書に任せたことになっています。
 黄泉国という言葉、古事記が最初の出典らしいです。古事記の作者である太安万侶は、どうして黄泉という言葉を使ったのでしょう。「字通」によりますと、中国では、黄泉のことは地下の泉。冥土。 として使われていることが書いてあります。黄は、土の色を言うらしいですが、日本の土ではなく、中国の黄土のことらしいです。秦の始皇帝のお墓は、発掘されていませんから、判っていませんが、皇帝は黄泉(黄色の泉)ではなく、水銀の泉に囲まれているとの伝説があるそうです。
 このようなことから推察しますと、中国では死者のいくところを「黄泉」ということを、太安万侶は知っていたことになります。 中国では、「黄泉」は「こうせん」と読むようですが、「よみ」とは読まないのに、日本では、ずっと、「よみ」と読み習わされています。
 このように見てきますと、中国の黄泉には、地下の泉のいみがあるらしいですが、日本の黄泉には、地下という言葉はでてきません。 倉野憲司氏は黄泉国の注記に「地下にある死者の住む国で、穢れた所とされている」と書いておられます。

 黄泉国を考えてきましたが、古事記にも日本書紀にも「死者のいくところ」とは書いてありません。古事記では、次のように書かれています。ひつこいようですが、もう一度掲載します。
『「ここにその妹伊邪那美命を相見むと欲ひて、黄泉國に追ひ往きき。ここに殿の縢戸より出で向かへし時、伊邪那岐命、語らひ詔りたまひしく、「愛しき我が汝妹の命、吾と汝と作れる国、未だ作り竟へず。故、還るべし」とのりたまひき』
 
死の世界どころか、もう一度帰ってくださいと言っています。 では、イザナギはどこへいったのでしょうか? 次回、挑戦です。 

| | TrackBack (0)

2006.11.09

No42 黄泉醜女と醜男

「醜女」で広辞苑で引きますと、「容貌のみにくい女。醜婦(しゅぅふ)。また、黄泉(よみ)にいるという女の鬼」古事記(上)〔黄泉(よも)つ醜女を遣はしめき〕」とあります。
「容貌のみにくい女」は容貌を付け加えて醜の漢字をひらがなにしただけです。醜婦という言葉など使うことがあるのでしょうか? 「黄泉(よみ)にいるという女の鬼」という言葉は、日本書紀には書いてありますが、古事記には、ただ、黄泉醜女を使わしたとのみ書いてあります。

 では、例えば、源氏物語に「醜女」が使われているのかといいますと、調べていませんから、判りませんが、最初に出てくるのは古事記なのでしょう。だから、「醜女」の語源として古事記を挙げているのだと思います。日本書紀には、醜女は出現しますが、古事記には黄泉醜女は出てきますが、醜女は出てきません。黄泉醜女は古事記には出てきますが、日本書紀には出てきません。泉津醜女はでてきます。原文には泉津醜女とありますが、翻訳者は、なぜか、冥界の鬼女八人と書いています。原文には、泉津醜女は 一名は泉津日狭女と書いて、「よもつひさめ」とふりがながふられています。記紀には、鬼女とは書いてないのに、広辞苑では、「黄泉(よみ)にいるという女の鬼」と書かれたということは、広辞苑の作者は、古事記はよく読まれないで、日本書紀の原文も読まれないで、翻訳本を参考にされたことが判ります。
 別に、広辞苑も日本書紀も非難する気はありません。たかが、「醜女」はどういう意味があるのかを調べようとしますと、どうどう巡りをするだけであることを見て頂いただけです。黄泉醜女という言葉の意味を知ろうとしますと、一層大変になります。意味よりも、「黄泉醜女」が、「よみしゅうめ」ではなく、どうして「よもつしこめ」と読むのかです。古事記の翻訳の注記に「黄泉の国の醜い女。死の穢れの擬人化」とあります。どういう意味か理解できません。古事記の原文に「豫母都志許売」と書いてあるのに、倉野憲司氏が勝手に「黄泉醜女」と書き換えて、「よもつしこめ」と振り仮名を打たれたことになります。これであれば、「よもつしこめ」の振り仮名は理解できます。

随分長い文章を書いてきましたが、私は倉野憲司氏が古事記の解読を間違われたのではないかと思っています。そして、間違った注記「黄泉の国の醜い女。死の穢れの擬人化」をされたばかりに、この翻訳を信じた方が、その後、全員間違われたのではと考えます。
 どこが間違っているのかと言いますと、「死の穢れの擬人化」が間違っているのではないかと思います。古事記を読みますと、イザナギがイザナミの側にいた「豫母都志許売」が、逃げたときに追いかけてきたこと、イザナギが身が穢れたと思って、川で身を清めたことは書いてありますが、豫母都志許売が穢れていたとは書いてありません。
 
 これは、倉野憲司氏が間違われただけではなく、日本書紀の編纂者たちも理解できなかったのだと思います。 

| | TrackBack (0)

2006.11.07

No 41 日本書紀における黄泉の国

日本書紀では、黄泉の国に関する部分は、第11書まであります。イザナギが読みの国まで、イザナミを追いかけて行き、見ないように言われたのに、暗闇で火を点して見たイザナミには、八柱の神が纏わりついていました。
古事記では、次のように書いてありました。
「頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰(ほと)には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、并せて八はしらの雷神居りき」
11書あるうち、八柱のことを書いている書は、第9書だけです。
「所謂八雷者。在首曰大雷。在胸曰火雷。在腹曰土雷。在背曰稚雷。在尻曰黒雷。在手曰山雷。在足上曰野雷。在陰上曰裂雷」。原文ですが、見比べてください。少し身体の部位と神の名前は異なりますが、八柱の数はあっています。

伊弉諾尊欲見其妹。乃到殯斂之處。是時伊弉冊尊猶如生平出迎共語。已而謂伊弉諾尊曰。吾夫君尊。請勿視吾矣。言訖忽然不見。于時闇也。伊弉諾尊乃擧一片之火而視之。時伊弉冊尊脹滿太高。上有八色雷公。伊弉諾尊驚而走還。是時雷等皆起追來。時道邊有大桃樹。故伊弉諾尊隠其樹下。因採其實以擲雷者。雷等皆退走矣。此用桃避鬼之縁也。時伊弉諾尊乃投其杖曰。自此以還雷不敢來。是謂岐神。此本號曰來名戸之祖神焉。所謂八雷者。在首曰大雷。在胸曰火雷。在腹曰土雷。在背曰稚雷。在尻曰黒雷。在手曰山雷。在足上曰野雷。在陰上曰裂雷。
 伊弉諾尊(イザナギ)は其妹を見たく欲して、殯斂(もがり)の所へ行かれた。この時伊弉冊尊(イザナミ)はなお生きて居たときの如く出で迎えられて共に語られました。伊弉諾尊が言われるのには、「吾が夫君尊よ。請勿視吾を請勿視ないでください」と言うと忽ち見えなくなりました。その時暗闇であったので、伊弉諾尊は一片之火を点して視られました。その時、伊弉冊尊滿太く高く膨満していました。体の上に八種の雷公が有った。伊弉諾尊は驚いて走り逃げ還った。是の時、雷等は皆起きて追いかけて來た。 以下省略。

日本書紀の本文にあたる部分には、黄泉の国のことは書いてありません。日本書紀の編纂者は書きたく無かったのですが、このような話が他の書物にのこっていますよと、第11書まで記しています。その内、黄泉の国のことは第6、第9、第10のみに書かれています。

第6では、「然後、伊弉諾尊追伊弉冊尊入於黄泉、而及之共語時」とあります。「しかる後、伊弉諾尊は伊弉冊尊を追って黄泉の国に入って、その時、共に語られました」とあります。
第9は、黄泉の国ではなく、殯(もがり・死体を墓に葬るまで安置しておくところ)に行ったと書いてあります。第6では、黄泉の国へ行ったとは書いてありますが、イザナギとイザナミは共に話をしたとあります。死の世界に行ったとは書いてありません。両書とも、イザナギとイザナミが一緒に話をしたところは共通です。また、イザナミが姿を見ないでくださいと言って、暗い奥へ入っていった。そして、イザナギは待てなくて、櫛に火を点してイザナミの姿を見てしまいます。そこで、イズナギは逃げ出します。
第6書では、イザナミは、怒って泉津醜女八人を追いかけるように命じます。第9書では、イザナミは、怒って八柱の雷に追いかけるように命令します。

ややこしいので、第6書の原文と訳文を省略しました。余計ややこしくなりましたでしょうか? まだ、第10書のことがありますが、複雑になりますので省略します。

私は、第6、第9、第10に書かれていることを合成すると、古事記に書かれていることになるのではないかと思っています。
古事記の完成は、712年。日本書紀の完成は、720年です。日本書紀の編纂のときに、古事記を参考にした筈です。そうであれば、第1書より第11書までに、古事記と同じ話があってもおかしくないのですが、古事記に書かれていることを第6、第9、第10に分解したように見えます。
このような事に注目しながら、古事記と日本書紀を読み比べてください。
  次回は、なぜ、このような事になったか解明して見たいと思います。

| | TrackBack (0)

2006.11.05

No40 黄泉の国はどこにあるか

少し、長いですが、次の文章は古事記に書かれている黄泉の国の部分です。
「ここにその妹伊邪那美命を相見むと欲ひて、黄泉國に追ひ往きき。ここに殿の縢戸より出で向かへし時、伊邪那岐命、語らひ詔りたまひしく、「愛しき我が汝妹の命、吾と汝と作れる国、未だ作り竟へず。故、還るべし」とのりたまひき。ここに伊邪那美命答えへ白ししく、「悔しきかも、速く来図手。吾は黄泉戸喫しつ。然れども愛しき我が汝夫の命、入り来ませる事恐し。故、還らむと欲を且く黄泉神と相論はむ。我をな視たまひそ。」とまをしき。
かく白してその殿の内に還り入りし間、甚久しくて待ち難たまひき。故、左の御角髪に刺せる湯津津間櫛の男柱一箇取り闕きて、一つ火燭して入り見たまひし時、蛆たかれころろきて、頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、并せて八はしらの雷神居りき」

現在、私が利用している古事記の翻訳書は、岩波文庫のものです。著書には倉野憲司校注とあります。校注の意味が判りません。校合をした結果の注記とあります。今度は校合が解りません。辞書には写本や印刷物などで、本文などの異同を、基準とする本や原稿と照らし合わせることとあります。
どうやら、この本は、著者はだれか判りませんが、倉野憲司が、基準とする本や原稿と照らし合わせて「注記」の部分を書いたということらしいです。本の後の部分に「解説」があり、その最後に、〔附記〕とあり、倉野憲司氏が、40数年の間、古事記一筋の生活を送られてこの書物を完成させたとあります。
 どうして、このような事を書くのかと言いますと、〔黄泉國〕の注記に、「地下にある死者の住む国で、穢れた所とされている」と書いておられます。「穢れた所とされている」ということは、伝聞のように受け取れます。断定はしておられません。どこから基となるものがあって、それから考えたら注記のようになったはずですが、伝聞となりますと、基になるものはなかったのではないでしょうか? 多くの人がそのように言っているぐらいの感触でしょうか? 
 〔黄泉國〕という言葉は、古事記には、始め書かれていなかったが、誰かが書き換えたのではないかと考えました。しかし、この後、黄泉戸喫(よもつへぐい)と黄泉神(よもつかみ)と黄泉醜女(よもつしこめ)と黄泉比良坂が出現しますから、はじめから書き換えることなく、書かれていたと思われます。
ただ、日本書紀では、古事記の黄泉醜女に当たるものが、泉津日狭女(よもつひさめ)と書かれています。泉津日狭女は、どのように読んでも(よもつひさめ)とは読むことができません。
 倉野憲司氏が書かれた翻訳本に「黄泉醜女」があったので、どうして、この字が〔しもつしこめ〕と読むのかと思っていましたら、古事記の原文には、「黄泉醜女」ではなく、
「豫母都志許賣」と書いてありました。これで解決です。「豫母都志許賣」なら辛うじて、(よもつしこめ)と読むことが出来ます。日本書紀の翻訳者は、古事記を参考にして、泉津日狭女を(よもつひさめ)とふりがなされたことになります。
 日本書紀の作者も、古事記に書かれている「豫母都志許賣」から泉津日狭女(よもつひさめ)を編み出した可能性はあります。日本書紀では、豫母都志許賣のことを冥界の鬼女八人—あるいは泉津日狭女という女------と解説しています。
冥界の鬼女八人とは、古事記に書かれている「頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、并せて八はしらの雷神居りき」の八人だと思われます。古事記では、八柱の雷神とありますが、日本書紀では、冥界の鬼女八人となっています。
日本書紀では、この冥界の鬼女八人がイザナギを追いかけたことになっています。
古事記では、この八柱の雷神にけらいを1500人の黄泉軍を加えてイザナギを追いかけたことになっています。

長々と書いてきましたが、これで「黄泉の国」は、古事記と日本書紀の両方ともとりあげていることが確認できました。
 では、黄泉の国がどこにあるのか 考えてみようと思います。古事記では、黄泉の国から逃げてきたイザナギが、「穢き国にいたりありけり」と云って禊(みそぎ)をしたという文章が、後のほうに見られますから、黄泉の国は穢い国だったのでしょう。
はじめに掲げました文章をもう一度見てください。黄泉の国について書かれていることは、
①「殿の縢戸」があった。殿とは、御殿のことでしょう。立派でなくても、屋根はあった
のでしょう。「縢戸」の意味がよく判りませんが、イザナミが、イザナギを出迎えたと
ありますから、塀のようなものがあって、そこに戸があったと思われます。
黄泉の国には、組織があり、ルールがあったと思われます。黄泉の国で、食事をすると出ることは出来ない。黄泉神が居て、黄泉の国を取り仕切っている。高天原にかえれるかどうか、黄泉神に相談するために、イザナミは黄泉国へ入ります。ということは、戸から少し出るぐらいはゆるされたのでしょうか? 戸越しに二人はしゃべったのでしょうか? 
イザナギは、待ちきれなくて黄泉の国へ入ります。自分の櫛の一部分を取って、火をつけて明り代わりにしました。ということは、黄泉の国は真っ暗であったことになります。
イザナギが何日待ったかは書いてありませんが、イザナミは、なぜか、蛆虫にたかられ、八人の雷神に囲まれて、見るも無残な姿をしていました。そのようなイザナミを見て、もう連れて帰るどころか、その場を逃げ出します。
  イザナミは穢い姿ではありましたが、黄泉の国が穢いとは書かれていません。さきほど、書きましたように、逃げおうせて穢れた身体をきれいにするときに、「穢き国にいたりありけり」と云って、禊をおこなっていますから、黄泉の国は穢い国だったのでしょう。
 さて、黄泉は、「よみ」とも読みますが、「こうせん」とも読むようです。 広辞苑には、「地下の泉」と記されています。中国で、地の色を黄に配するからというと書かれていますが、意味が判りません。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』.には、「一般に、この意味で黄泉というときは、こうせんと音読みする。
古代の中国人は、地下に死者の世界があると考え、そこを黄泉と呼んだ。黄は、五行思想で、土を表象しており、それゆえに、地下を指すために黄という文字を使ったのである」
 ここに書かれた事柄を誰が、なにを根拠に書かれたか判りませんが、古代中国とは、いつのころのことでしょうか? 私は死んだら行く所は、天国で、どこか判りませんが、漠然と上の方にあると思っていました。死体は確かに、地下に埋められますが、地下に死後の世界があるとは考えていませんでした。
 黄泉国をキーワードにして、グーグルで検索しますと、16100件あると表示されます。全部読んでいませんが、殆ど、古事記に書かれている国で、死んだ人が行く所とあります。誰が最初に言われたか判りませんが、古事記が出発点のように思われます。
 結局、私としては、「死んだ人が行く所」では、納得できません。いくら、神話といえども、死んだイザナミを追いかけて連れ戻そうとしたという話は、ついていけません。どこにも、黄泉国が死んだ人が行く世界とは書いてありません。

「字通」には、黄泉(こうせん)が書かれていませんと、上に書いていましたが、掲載されていました。コピーされた方は訂正しておいてください。

| | TrackBack (0)

2006.11.03

No39 神の比較

神生みはNo16~20までに書きましたが、自分で書いておきながら、訳が判りません。
殆どの方も判らないままに書いておられます。
判らないのに、日本書紀の作者は、古事記と殆ど同じような神の名前を挙げています。例の一書に書き分け、たとえば、古事記では、イザナギが迦具土神を切ったときに、血が飛散って八人の神が生まれたとあります。
日本書紀では、イザナミが、カグツチを生んだときに、なくなられました。死につつあるときに、土の神と水の神をイザナミが産みました。カグツチは、埴山比売と結婚して、稚
産霊を生んだ。
別の本では、カグツチを生んでいる最中に、イザナミが嘔吐した。その嘔吐物から金山神が生まれ、小便をしたら、小便が罔象女になった。大便が埴山姫になった。

同じところを、角度を変えて眺めてみようと思います。
イザナギとイザナミは、神をどんどん生みますが、①イザナミがお産の最中そして引き続き死んでいくときに生まれた神と ②イザナミが死んでから、イザナギがカグツチを斬ったときに生まれた神の部分だけに絞って眺めます。
①の部分です。
古事記では、火の迦具土神を生んだあと、イザナミは病気になって臥せます。
その時に吐いたものから、金山毘古神と金山毘売神が生まれます。
 その時にした大便から、波邇夜須毘古神と波邇夜須毘売神が生まれます。
 その時にした小便から、彌都波能売神と和久産巣日神(別名・豊宇気毘売神)

「日本書紀では、イザナミは火の神軻遇突智を生みますが、そのために焼けどをして、死んでいく最中に土の神である埴山姫と水の神である罔象女を生んだ。軻遇突智は埴山姫を娶って稚産霊を生んだ。この神の頭の上に蚕と桑が生じた。」(第2書より)

「イザナミが、火の神神軻遇突智を生もうとするときに、熱に苦しめられて嘔吐した。これが神となり、名を金山彦という。次に小便をされ、それが神となった。名は罔象女(みつはのめ)という。次に大便をされ、それが神となった。名は埴山姫という」(第4書より)

「・・・・・土の神たちを埴安神という」(第6書より)


カグツチに関連して生まれた神を取り出しました。日本書紀では、三つの書物に書かれています。(第2書より)の方は、カグツチを生んだ後に、イザナミが死にながら、神を生んだことになっています。(第4書より)の方は、カグツチを生んでいる最中に神が生まれたことになっています。(第6書より)は、カグツチが生まれる前に、他の神が生まれたことになっています。古事記は、カグツチを生んだ後に病気になっているときに、神が生まれたことになっています。
 大した違いはありませんが、
カグツチ--迦具土神---軻遇突智
カナヤマヒコ----金山毘古神—-金山彦
ハニヤス***----波邇夜須毘古神と波邇夜須毘売神----埴安神
ミツハノメ---彌都波能売神---罔象女
上の三行は、カタカナが読み方を書いています。次が古事記に書かれている表記。右端が日本書紀です。古事記の表記は一見難しそうですが、誰でも読むことができます。「迦」や「邇」は読めないかもしれませんが、辞書をひきますと、「か」や「に」を見つけることが出来ます。日本書紀の「軻遇突智」は、古事記の「-迦具土神」があれば読めますが、古事記がなければ、読むことは出来ません。
 金山毘古神と-金山彦は、どちらも読むことは可能です。「毘古」は元々、「彦」のことですから、他の漢字にすることは意味が難しくなります。「金山」は、カナヤマが訓読みですから、他の漢字にすることはむずかしかったのでしょう。
波邇夜須毘売神は、埴安姫神とすればいいのですが、両方あわせて、埴安神と掲載しています。
埴山姫は、どのように考えても「ハニヤマヒメ」としか読むことは出来ないと思いますが、日本書紀を翻訳された宇治谷孟氏は、「ハニススヒメ」とふりがなをしておられます。

なにが言いたいのかと言いますと、現代の翻訳者でも、日本書紀に書かれている神の名前は、読むことができません。古事記があるから読むことができます。

 ミツハノメ---彌都波能売神---罔象女 は最たるものでしょう。

日本書紀の作者は、古事記を参考にしたのに、他の一書に古事記と同じものは、どこを見てもありません。其の上に、古事記に書かれている神の名前は、殆ど書かれているのに、古事記に書かれている神の名前の漢字表記を変えています。古事記が作られてから、400年後に見つかりましたから、このような指摘が可能ですが、見つかっていなければ、完全に古事記の存在は想像すら出来ません。

このファイルでは、いかに、日本書紀の作者は、漢字表記に拘ったかを見て頂きました。

| | TrackBack (0)

« October 2006 | Main | December 2006 »