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2007.08.24

No63 備前の一の宮 その2

前回に書きましたように、備前の一の宮は、
① 石上布都魂神社
② 安仁神社
③ 吉備津彦神社
の三社になります。
 記紀に書かれている順序も、上に書いてある順です。石上布都魂神社は、スサノオが八岐大蛇を切った時に、自分の刀が欠けてたと日本書紀に書かれています。その刀が吉備の石上にあると書いています。どういう経緯で、石上に保管されることななったか判りませんが、その後、すぐであれば、紀元前180年ころのことになります。問題は、言い伝えがあると日本書紀は書いていますが、石上布都魂神社が紀元前180年にあったというのは、考え難いところがあります。

次の安仁神社ですが、現在は山の中にあります。神武天皇が、神武東征の折、此処に立ち寄り、とも綱を括ったという伝説の地もあります。祭神は神武天皇ではなく、神武天皇の兄の五瀬命になっているところが、なんだか、本当のように思わせるところがあります。
奈良の攻略(紀元元年1月1日 に即位)の前になりますから、紀元前20年ころではないかと思います。

次は吉備津彦神社です。この神社の祭神は、大吉備津彦命です。
大吉備津彦命を主祭神とし、相殿に以下の神を祀る。
吉備津彦命 -- 大吉備津彦命の子
孝霊天皇 -- 大吉備津彦命の父
孝元天皇 -- 大吉備津彦命の兄弟
開化天皇 -- 孝元天皇の子
崇神天皇 -- 開化天皇の子
彦刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと) -- 大吉備津彦命の実兄
天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと) -- 孝昭天皇の子
大倭迹々日百襲比売命(おおやまとととひももそひめのみこと) -- 大吉備津彦命の姉
大倭迹々日稚屋比売命(おおやまとととひわかやひめのみこと) -- 大吉備津彦命の妹
金山彦大神
大山咋大神

吉備津彦神社のことを調べようとしますと、相殿に祀られている神を見ただけで、うんざりします。調べないわけにはいきませんが、またの機会にすることにして、大吉備津彦命がどうして、この神社に収まったかということです。この神社は、元々、別の名であったかもしれません。それを大吉備津彦命に乗っ取られた可能性があるからです。この神社の山を中山と言いますが、山の反対側に、備後の一の宮である吉備津神社があります。元々、ここに吉備津神社があったのですが、大吉備津彦命に乗っ取られたという想像をしています。勿論、現在の吉備津神社はあり、別に吉備津彦神社が出来たのかも知れません。
 古事記には、孝霊天皇が吉備を平定したと書かれています。
日本書紀には、崇神天皇の10年9月に西海に吉備津彦を使わしたと書いてあるだけです。平定したかどうかは書いてありません。日本書紀の作者は、書きたくなかったのですね。
しかし、孝元天皇の皇子(武埴安彦)が反乱を起こした時に、その妻である吾田媛を討ったことを記しています。その時の名前は、吉備津彦ではなくて、五十狭芹彦命と書いています。
 この辺のことは、重要ですが、またの機会にしまして、今回は、吉備の一の宮がどのような経過をすぎて変わってきたかを見て頂こうと追っています。
記紀によって、吉備津彦のとらえ方が異なっていることが判ります。

崇神天皇のはじめのころに、人民の半分が死んでしまった記事があります。その時に、前の天皇である開化天皇(9代)も孝霊天皇(7代)も生きておられましたが、191年のその時のインフルエンザで亡くなったと推理しています。
 このようなことから、判断しますと、大吉備津彦命が吉備を平定したのは、150年頃ではないでしょうか?
このように考えてきますと、備前の一の宮は、はじめは、石上布都魂神社であり、次に 安仁神社、吉備津彦神社と変わっていったと言えそうです。しかし、石上布都魂神社は、後の世になってから、無理やりに備前の一の宮とされたのではないでしょうか?

次回は、そのようなことを書いてみようと思いますが、書けるでしょうか?

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2007.08.17

No62 備前国の一の宮

「一の宮」は、平安時代から鎌倉時代初期にかけて逐次整った一種の社格です。それは、朝廷や国司が特に指定したものでなく、諸国において由緒の深い神社、信仰の篤い神社が勢力を有するに至って、おのずから神社の序列が生じ、その最上位にあるものが「一の宮」とされ、以下二の宮・三の宮・四の宮と順位がつけられたのです。しかし、時代の変遷とともに変化もあったようで、一国内に二社以上の「一の宮」が存在するのはそのためです。
(全国一の宮会ホームページhttp://www.ichinomiya.gr.jp/rec.html)

一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮・一之宮などとも書く。通常単に「一宮」といった場合は、令制国の一宮を指すことが多い。
一宮の起源は、国司が任国に赴任したときなどに巡拝する神社の順番とされる。ただし、何らかの文書によって定められていたのではなく、由諸や社勢などによって自然発生的に決まったものであった。(フリー百科事典『ウィキペディア より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%AE%AE)

タイトルのことを書こうと思いますが、「一の宮」とはどのようなものかを知っていないと理解できないことになります。と、自分のために、調べてみたのですが、上の二つぐらいが納得できる説明かなと思って掲載しました。
これまでに、多くの一の宮を訪れてきましたが、圧倒される神社が多かったように思います。どのよう圧倒されるかと言いますと、一番にやはり建物が立派なものが多いです。二番目は、神社へいくまでの参道や町の雰囲気が神社を中心にあるような感じがします。三番目、敷地が広大なような感じがします。
 全国の一の宮という捉え方で各神社を眺めたことはありませんが、上記の二つの説明では、説明しきれていない部分があるのではないかという気がしています。

H19.08.12 岡山の備前・美作を見てこようと企画しました。笑われるかもしれませんが、私は、ヒルゼン高原を高天原、備前を邪馬臺國とみています。高天原を建設したのは、イザナギとイザナミです。彼らは、日本海から高天原に行くときは、日野川をのぼり、溝口町で舟を降りて、白水川に入ります。イザナギが禊をした「大河原」を通過し、内海峠を越えてヒルゼン高原です。このルートは、紀元前180年ごろから、利用されていたルートだと思います。蒜山からは、旭川が、岡山市までつづきます。
岡山県には、大きい川が、このほかに、吉井川があります。古代は全国どこでも同じことですが、川に沿って海から山に向かって発展していきました。吉井川を遡りますと、備前から分かれた美作国があります。美作もよく判らない国ですが、私はユダヤ人が、美作を抑えていたのではないかと推理しています。
美作を中心に、日本海へ出るルートは二本です。一本は、津山市--久米--久世を通って旭川を使ってヒルゼンへ抜ける道です。旭川の河口は総社を通過です。ここは、漢人の本拠地ですから通らなかったと思っています。総社には漢人が、総攻撃を受けて立て籠もった鬼ノ城があります。もう一本は、そのまま北上して吉井川を登ります。奥津を天王--人形峠で山越えです。そして、天神川を下り、東郷池が、中国・ヨーロッパへの船の絹を運ぶ基地だったと考えています 
上に書きました事柄は、今までに、別に考えてきたことですが、この町を結ぶ道は、安全に通ることが出来たのかどうか調べるつもりになっていました。

高速は山陽ICでおり、以前に立ち寄らなかった牟佐大塚古墳・両宮山古墳・熊山遺跡・東大寺瓦窯跡に行く予定でいましたが、前日にスサノオの大蛇退治の原稿を書いていましたら、スサノオが大蛇を切った太刀が、石上にあるとあり、それも吉備にあると書いてありましたので、地図を眺めていましたら、赤磐市に石上という地名があり、そこに石上布都魂神社があることを見つけました。少し、検索をしてみましたら、備前の一の宮と書いてありましたので、吉井川をさかのぼることは中止とし、牟佐大塚古墳・両宮山古墳の後、旭川に沿って北上、石上布都魂神社に行きました。
随分、迷いながら、到着。その後、志呂神社に行きたかったのですが、時間が遅くなりましたので、諦めて湯郷温泉で一泊です。

現在は岡山市に併合されましたが、牟佐大塚古墳の少し南に「古都」がありました。この近くに浦間茶臼山古墳があります。この古墳の特徴は、前方後円墳で、方の部分が八の字に開いています。これと同じ形式の墓が、奈良の桜井市の大神神社と崇神天皇の御陵の間にある箸墓古墳です。同古墳は宮内庁が倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)墓として陵墓指定し、発掘ができないことになっています。全長が280m。一方、浦間茶臼山古墳は138mで、吉備にある古墳の最大のものです。資料が手元にありませんので、確かなことは判りませんが、全長だけで比較すると、ほぼ、半分の大きさです。外に、全方部が八の字に開く古墳には、中山大塚古墳・元稲荷古墳があります。相似形ということは、同じ設計者または関係者が作ったと考えられ、また、埋葬されている人も何らかの関係があると考えた方が、無理が無いと思います。
  私は、箸墓古墳が卑弥呼の墓で、浦間茶臼山古墳が倭迹迹日百襲姫の古墳だと思っています。ところが難儀なことに、宮内庁だけではなく、箸墓古墳の地元にある橿原考古学研究所も、すべて、この墓は、4世紀の後半ということにしています。ところが、卑弥呼が生きていたときに、魏の国に使いを出したと魏志倭人伝に書かれているため、卑弥呼は3世紀の人です。100年もずれていますから、卑弥呼の墓であるはずが無いことになっています。倭迹迹日百襲姫の表記は、日本書紀に書かれている表記で、これでは、名前がなにを意味しているのか判りません。だれでも名前をつたときには、意味があったはずです。古事記には、「夜麻登登母母曾姫」とかかれています。これは、「夜麻登 登母母曾姫」と切って読みます。姫と有りますが、女王です。
 夜麻登に住んでいた登母母曾姫です。  

というような論法で、此の地が倭であったと推察しています。

このように、備前は、紀元前から天皇家の支配力が強いところであったと推理していますが、今年は、湯郷温泉の後、津山市の中山神社・高野神社・国分寺・資料館2ヶ所・鏡野町、希望は久米・久世も行きたかったのですが、時間が足らず、総社まで一日が終了です。

H18.11に岡山県の牛窓へ行きました。この時もいくつもりはなかったのですが、近くに安仁神社がありましたので、立ち寄りました。その後、この神社について書いています。

興味がおありでしたら、読んでください。
安仁神社とは どのような神社か http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1088.html
 この記事を書くために、http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1084.html などを書いています。「新しい日本の歴史」のNo357~366までです。

このページの5行目に「一国内に二社以上の「一の宮」が存在するのはそのためです」の文がありましたが、現在は、三社とも自分のところの神社が一の宮のように宣言しておられますが、私は理由があって、一の宮は変わっていったのではないかと考えています。
 以前に、安仁神社と吉備津彦神社について書いています。

今度は、安仁神社と吉備津彦神社と石上布都魂神社の関係に挑戦してみようと思っています。

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2007.08.08

No61 肥の河上と簸之川上

スサノオが高天原を追放になった後、やってきたところは、
古事記では、「故所避追而。降出雲國之肥(上)河上名鳥髮地」
日本書紀では、「素戔鳴尊自天而降到於出雲簸之川上」となっています。

タイトルと原文が異なっています。 肥の河上は肥(上)河上と書かれています。(上)の( )はなく、上の字は、小さく書かれています。

一番に気がつくことは、古事記では、肥と書かれている字が、日本書紀では簸と書かれています。日本書紀の編集者は、古事記を参考にして、と言うよりは、完成した古事記を見て驚いたと推察しています。なにに驚いたのかといいますと、古事記には、自分たちにとって都合の悪いことが多くありすぎました。そこで、古事記を処分しようとしました。その前に、自分たちが作ろうとしている歴史書を作るにあたって、古事記を手本にしたと考えられます。
一部書く順序が変わっている所はありますが、全体の流れは、日本書記と古事記とはほとんど変わりません。中には、書きたくなかったものもあります。「因幡の白うさぎ」は古事記には書かれていますが、日本書紀には書かれていません。この部分は、書きたくないというよりは、古事記に書かれていることの意味が理解できなかったのではないかと推察しています。

私は、日本書紀の作者が、「故所避追而。降出雲國之肥(上)河上名鳥髮地」を見て、「素戔鳴尊自天而降到於出雲簸之川上」と書きなおしたと思っています。日本書紀の「故所避追而」が古事記にないように見えますが、古事記のこの前のところに、「切鬚。及手足爪令拔而。神夜良比夜良比岐」と書かれていて、高天原を追い出されたことが判ります。

このようなことを考えた根拠は、いっぱいありますが、その中の一つが漢字の表記の仕方です。
日本書記が参考にした書物は、いっぱいあることを、いろいろのところで書いています。 第一書によるとというような書き方です。ところが、この別の一書には、古事記に一致するものは、皆目ありません。皆目ないということは、古事記の方が後から完成したからだとの証拠になるかもしれません。

「肥」を「簸」に書き換えたという証拠はありません。古事記に書かれている地名や人名が、すべて、異なるということは、古事記と日本書紀は、全く別の伝承を元にして作られたと考えるしかありません。しかし、少しぐらい同じであるところがあるのが、自然ですが、徹底して同じ漢字は使われていません。100パーセント異なるということは、日本書紀の作者が、古事記を見ながら、全部書き換えたと判断するしかないと思われます。見ないでこのように全部漢字を変えることは、不可能に近いと思われます。

 もし、逆に古事記の作者が、日本書記を見ながら古事記を作ったとします。
 「素戔鳴尊自天而降到於出雲簸之川上」をみて、「故所避追而。降出雲國之肥(上)河上名鳥髮地」と直したとします。「簸之川上」を「肥(上)河上」と直したとします。「簸」と言う漢字を、現在の人ですと、何人の人が、「ひ」と読むでしょうか? この部分だけではありません。他の物語のどの部分を比べてみても、日本書紀の漢字は読むことができません。 
「肥」ですと、読めない人はないでしょう。 「ひ」です。では、「ひ」と読む漢字を書いてくださいと言われましたら、日、比、火、被、非、費というように、いくらでも、誰でも書くことはできます。日本書紀の編集者は、「ひ」と読む漢字の中で、読むことが難しい漢字をわざわざ選んだことになります。
 他のところで、例をあげますと、オノゴロ島があります。淤能碁呂島、磤馭慮島、このように書きます。どちらが、日本書記の表記の仕方かすぐに、判ります。
試みに、100ほどご自分で確かめてください。日本書紀の編集者が、古事記をみて漢字を変えたことが直ぐに分かると思います。
 
このようなことも頭に入れて置いて、文章を翻訳する必要があります。
もう一度書きます。古事記には、「切鬚。及手足爪令拔而。神夜良比夜良比岐」と書かれていて、高天原を追い出されてやってきましたから、日本書紀の編集者は、「自天」の文字をいれました。従いまして、当然、ここの天は高天原のことになります。「自天」を入れますと、読んでいる方は、判り易くなります。ある本を参考にして、同じ内容のものを作りますと、理解しがたいところを書きくわえますと、判り易くなります。 
 このような見方をします、どの物語の部分を読んでも、日本書紀の方が、判り易く書かれています。
 
 ところが、日本書紀に書かれている「素戔鳴尊自天而降到於出雲簸之川上」の部分を、現在の歴史家が読まれても解釈が違います。
 宇治谷孟氏は、「さて、スサノオは、天から出雲の国の、簸の川のほとりにお降りになった」と。
井上光貞氏は、「さて、スサノオは高天原から出雲国の簸の川の川上に降り着かれた」
二ヶ所違います。 「自天」と「簸之川上」の部分です。
 「自天」の部分は、井上光貞氏が読者に親切です。宇治谷孟氏のは、正しいですが、読んだ素人には、なんのことか判りません。
「簸之川上」の部分は、お二人とも、「簸之川 上」と読まれました。
井上光貞氏は、「上」の部分を川上と読まれました。宇治谷孟氏は「上」をほとりと読まれました。
 お二人とも無理は承知で意味が通じるようにされたと思います。 それは、古事記の「故所避追而。降出雲國之肥(上)河上在鳥髮地」を参考にされて、このような翻訳になったと思います。
お二人とも、古事記の「肥(上)河上」の部分を「肥の河の河上」と読まれたのだと思います。
 しかし、簸の川のほとりは、おかしいですね。簸の川は斐伊川と考えておられますから、斐伊川はすごく長いですから、それのほとりではどこか判りません。井上光貞氏の「簸の川の川上」ですと、範囲は広いですが、どこであるかが判ります。
こんどは、古事記に書かれた部分の解釈です。
「故所避追而。降出雲國之肥(上)河上名鳥髮地」です。岩波書店の『古事記』では、
「故 避追(やら)はえて、出雲國の肥の河上、名は鳥髪といふ地に降りたまひき」と翻訳しておられます。
 この翻訳で意味は通りますが、これですと、(上)を翻訳しておられないのではないでしょうか?
では、(上)をなくします。「故所避追而。降出雲國之肥河上 名鳥髮地」このようにして、読まれたらしいです。でも、この翻訳ですと、「降出雲國之肥之河上」のように、「之」が必要なのではないでしょうか?
 ところが、原文には、(上)があります。もう一度、元に戻します。
「故所避追而。降出雲國之肥(上)河上名鳥髮地」。(上)は原文では、上の字が小さくて、( )はありません。「故所避追而。降出雲國之肥」  (上) 「河上名鳥髮地」と言うように、前と後を(上)が分けています。 だから、雲國之肥に降り立ち、そこは河上で、名は鳥髪といいます。
となるのではないでしょうか? 出雲国に紀元前に、肥というところがあったのではないでしょうか?
「故所避追而。降出雲國之肥(上)河上名鳥髮地」と古事記にかかれていたものを、日本書記の編集者が解釈を間違って、「素戔鳴尊自天而降到於出雲簸之川上」と書いたために、現在の歴史家は、一層訳が判らなくなったのではないでしょうか?

そんなことは、どうでも良いのではないかと思われた方がほとんどだと思います。
スサノオは、斐伊川を遡ったでも良いのですが、そうなりますと、スサノオは、高天原を追放されてから、出雲に行ったことになります。
スサノオは、出雲の須佐うまれであるとされている方には、都合の良いことになりますが、私は、スサノオは高句麗の人で、高句麗で指導者であったと考えています。そして、隠岐島へ亡命、鳥取県で活躍、そして、イザナギが禊をしているところへ行き、高天原の建設に参加したと考えています。

追放されてからの経過が不明ですが、日本書記の編集者に消されたのではないかと推察していますが、良く判りません。
 しかし、その後、京都はスサノオ一色です。奈良・大阪もスサノオの神社でいっぱいです。
追放されたとは言え、古事記でも記されている通り、三貴人の一人であり、追放されたとは言え、皇祖神のアマテラスの弟だと名乗っています。
 私は、須佐へ帰って、その後、斐伊川を遡って、八岐大蛇を退治して、それでおわりとはおかしな結末だと思います。
ボタンの掛け違いは、「肥の河上と簸之川上」にあるのではないかと思っています。

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2007.08.07

No60 日本書紀では、大物殺される

日本書紀の編集者は、自分たちにとって、都合の悪い人たちは、書かないでおこうと考えました。しかし、あまりにも大物は日本書記から外すわけにはいきません。どうしても書きたくない時は、引退した形をとっています。

 ① イザナギは、あの世に赴こうとしておられた。そこで幽宮を淡路の地に造って、静かに永く隠れられた。また別にいう。イザナギはお仕事をもう終られ、徳も大きかった。そこで天に帰られてご報告され、日の少宮に留まりお住みになったと。(訳・宇治谷孟)
 二つの言い伝えがあるように記述になっていますが、両方とも死んだとは書いてありません。共通することは、幽宮と日の少宮という宮を建てたり、死んだという代りに、死に関係がありそうなことを書いています。「、静かに永く隠れられた」とはどう言うことでしょう。「天に帰られてご報告され、日の少宮に留まりお住みになった」とあります。天とはどこでしょうか? 人間死ぬときは、そのようなところに報告にいくのでしょうか? 天国に行くときに、途中で閻魔さんがいて、自分のしてきたことを包み隠さず報告する。嘘を言ったら舌を抜かれる。その場所は三か所あって、合格した人は、天国へ、不合格の人は、地獄へ落ちる様子を大きな絵に描いたものを奈良で見たような気がするのですが、この場合も天国のことでしょうか?
② オオクニヌシノミコトは、アマテラスに国を譲り渡すように言われ、聞くことになります。その時の様子は、日本書紀には、次のように書かれています。
「あなたが行われる現世の政治のことは、皇孫が致しましょう。あなたは幽界の神事を受け持って下さい。またあなたが住むべき宮居は、今お造りいたしますが、千尋もある栲の縄でゆわえて、しっかり結び作りましょう。その宮を造るきまりは、柱は高く太く、板は広く厚く致しましょう。また、供田を作りましょう。・・・省略・・」以下、必ず、お読みください。
この宮は、出雲大社のことを述べています。最近まで、古事記や日本書紀に書かれているような宮殿は、大き過ぎて不可能と思われていましたが、大きな木を三本鉄の輪で結わえて、一本の柱にしたものが発掘されて、日本書紀に書いてあることは、確かであったということになりました。このように日本書紀の内容については、考古学的遺物によって、証明されていきます。しかし、これは、損得にかかわらない部分は、その通りですが、良く読みますと、「あなたは幽界の神事を受け持って下さい」とは、どう言うことだと思われますか?  ①のときと同様に、死んでくださいということと同じことだと思います。

この部分を古事記ではどのように書かれているかを読んでください。オオクニヌシノミコトは、明け渡すしかないと判断したと思われます。その代わり、途轍もない背の高い宮殿の建築を造ることを要求しています。大きな宮殿を要求すると認められなかったはずです。そこを城にして、反乱をおこすからです。
 古事記に書かれている高い建物は、本当に存在したことになります。オオクニヌシノミコトは、どうして、そのような高層建築物が必要だったのでしょう。
海流に乗って中国からやってきますと、一番に見えたのは、大山だったと思います。日本本土に接近するためには、目標が必要だったと思います。先日、北朝鮮から脱出した一家がありました。彼らは、新潟を目指しましたが、青森に流れ付きました。昔も同じだったと思われます。日本に接近した時に、青森の三内丸山遺跡にある6本の大きな柱が、発見されました。これも、目印だったと推察しています。これからも、北陸地方の海岸の近くには、巨木による建造物の遺跡が発見されるはずです。それは、中国からのわ貿易に書かせないものだったと思われます。諏訪神社での大きな柱は、信仰の対象のようですが、海岸線に設けられた高層建造物は、目印だと思います。
 丹後の海岸線を車で走ってください。二等辺三角形の山がいっぱいです。これも、成形して目印だったと思っています。これらは、成形された年代を特定できませんが、紀元前だと思います。青森の三内丸山遺跡の大きな柱は、勿論、紀元前のものです。
 これはどう言うことだと思われますか?
オオクニヌシノミコトをきいたのですが、聞かなかったのは、星の神香香背男だけとなった日本書記は書いています。星の神香香背男は、ユダヤ人で絹を運んでいた人です。この人たちは、紀元前200年ころには、すでに絹を中国に運んでいました。そのことを知っていた秦の始皇帝は、日本へ徐福を派遣しました。
③三番目は、スサノオです。スサノオが八岐大蛇を退治したあと、の本文のところに、【結婚によい所を探された。ついに出雲の須賀に着かれた。そこで言われるのに、「ああ、わたしの心はすかすがしい」と。・・・・・省略・・・・・そこに宮を建てた・・・】

スサノオのところでは、死の影はありません。しかし、日本書紀の編集者は、古事記に書かれている八岐大蛇の退治の話は、何のことか判りませんでした。このようなときは、必ず、別の一書が多くなります。この部分は、第五書まであります。この五書に書かれていることを少しずつ、合わせますと、古事記に書かれている内容に近づきますが、古事記と同じ内容が、別書にかかれていることはありません。
 本当は、古事記の完成が712年、日本書紀が720年ですから、日本書紀を編纂するときには、古事記を見たはずです。そうすれば、書くのは嫌でも、別書のどこかに、古事記と全く同じものが入っても良いはずですが、日本書紀の編集者はあえて、入れることをしませんでした。このようなことを考えると、古事記を作った太安万侶は、日本書紀を参考にしたのだとの説もうなずけるかもしれませんが、日本書紀の編集者は、古事記に書かれている地名や人名が、同じように読めそうなのに、難しい漢字でかかれているところを見るだけでも、古事記を参考にしたと思われたくなかったことが分かると思います。

所々で脱線しましたが、別書ではスサノオのことを書いてはいますが、書きたくなかったことが表れているように思います。
三人とも、宮を作ったところが、共通しています。
スサノオは、須賀で死ぬわけがありません。この後、この一族は、どのようになったかは、古事記は書きました。誓約のところで、漢人の人々をかき、その前にオオクニヌシが、大国に都を建てた所に書かれています。オオクニヌシの命令で、兄弟を追い払ったことが・・・。
そんなところあったかなと思われるでしょう。ご自分で、その場所を発見されますと、全体の流れがつかめると思います。

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2007.08.05

No59 イザナギは人生の最後を淡路島で

No58 読んでいただきましたか? まだでしたら、是非読んでください。
タイトルに書きましたのは、日本書紀に書いてある事柄です。なぜ、人生の終盤を淡路島で過ごしたかと言いますと、そのように日本書記に書いてあるからです。
とは言うものの、僅か、次の文だけです。
「伊弉諾尊神功既畢而霊運當遷是以構幽宮於淡路之洲寂然長隠者也」。

難しい言葉 の解説をして置きます。漢字に意味があるはずですから、漢和字典を片手に考えてみます。神功は神として成し遂げた仕事でしょうか。霊運当遷が良く解りません。霊を運んで当り移すとなるでしょうか? 前後の言葉から推察しますと、死にむかっているのでしょうか? 幽宮も意味が判りません。 幽を使った熟語を調べてみました。幽谷、幽界、幽霊、幽玄、幽幻、あまり良い意味には使われていません。どうやら、死に関係があるようです。死ぬための宮を作ったというのも変です。まあ、良い意味で解釈しますと、死を前にして造られた宮となるでしょうか?   寂然は静かにでしょうね。 寂しくではあまりにも寂し過ぎます。
読み下しをしてみます。

「伊弉諾尊は、神としての仕事を既に終えて、死に向かっていましたので、淡路之洲に死を迎えるための大きな家を建てて、静かに、隠れ者となられました」

伊弉諾神宮の由緒に次のように書かれています。
古事記・日本書紀には、国生みに始まるすべての神功を果たされた伊弉諾尊大神が、御子神なる天照大御神に国家統治の大業を委譲され、最初にお生みになられた淡路島の多賀の地に「幽宮(かくりのみや)」を構えて余生を過ごされたと記される。 その御住居跡に御陵(みささぎ)が営まれ、至貴の聖地として最古の神社が創始されたのが、当神社の起源である。

「その御住居跡に御陵(みささぎ)が営まれ」は、本当かどうかは判りませんが、うまく書いてあります。翻訳はこうでなくてはなりません。私が読み下したのでは、おかしいですね。伊弉諾尊は、病気で死にかけていたように取れます。そうであれば、すぐに死んでしまっても良いのですが、「長隠者也」とあるからには、長く隠遁生活を送ったことになります。隠遁は良くないでしょうか?
隠居をしたとの方がいいでしょうか?
たった 一行で書かれたイザナギの最後の様子を丁寧に検討してみました。 この文章には、イザナギが死んだことを強調するような言葉の羅列であるところを見て頂きました。

 神社の由緒では、その上に輪をかけたように、住居跡に御陵が営まれたとなっています。完全にこの地で死んだことになっています。江戸時代に本殿を建て替えた時に、お墓らしきものが、出土したのでしょうか?
由緒には、日本書紀に書かれていないことが、書かれています。「最初にお生みになられた淡路島の多賀の地に」日本書紀には淡路洲とはかいてありますが、多賀とは書いてありません。読みようによれば、「最初にお生みに」になりますが、「が凝り固まって一つの島になった。これを名づけてオノコロ島という」と書かれていますから、はじめは、オノコロ島が生まれたとも言えます。

日本書記を持っておられますか? 持っておられましたら、私の書くことを読む前にご自分で確かめてください。日本書紀では、日本書記を編纂した人たちが正しいと思ったことが、ここは、本文ですよとは書いてありませんが、本文に当たる部分に書いてあります。しかし、他に。次のような書物もありましたので、参考にしてくださいということでしょうか? 「国生み」のところには、第一書から、第十書まで書かれています。
確かに、本文には、神社の由緒に書かれているように、最初に生まれた島は、淡路洲が生まれたこと書いてあります。
 日本書紀にはどのように書いてあるかと言いますと、「子が生まれるときには、まず淡路洲が第一番に生まれたが、不満足な出来であった。そこで名づけて淡路洲(吾恥島)という。それから、・・・・・」不満足な出来であったのに、イザナギは、最後の死に場所として淡路洲を選んだのも分かるような気もします。
他の書物には、淡路はどのように書いてあるか列記しておきます。
第一書 では、蛭子
第二書 では、オノコロ島
第三書 では、オノコロ島
第四書 では、オノコロ島
第五書 では、記載なし
第六書 では、淡路洲・淡洲
第七書 では、淡路洲
第八書 では、オノコロ島
第九書 では、淡路洲
第十書 では、淡路洲
 第二書以下は、一番目に書かれている洲の名前。

一方、古事記には、イザナギがスサノオに、高天原に住むことはならないと追放した後、「坐淡海之多賀也」と書かれているだけです。別に死ぬために、近江八幡の多賀へ行ったとは、書かれていません。
 それどころか、新しいところを開発するために、多賀へ行ったと推察しています。

今回は、日本書記の作者が、イザナギが淡路島に幽宮を造って死んだことを書いている点を見て貰いました。
【楽しい人生】において、H2006.08.20からNo08~No 15に亙って、「国お生み」のことについて書いていますので、読んでください。
同じものを、「考える」http://www.hcn.zaq.ne.jp/caarc303/page392.html
に移して掲載していますから、こちらを見ていただいても結構です。ただ、随分前ですので、私の考え方は変わっているかも知れません。
ただ、このホームページは、7月で終了することにしましたので、見ることはできないかもしれません。8月5日現在は見ることができます。

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2007.08.02

No58 イザナギはどこへ行ったか

禊をしている時に、多くの神さんが、国造りの手伝いをしにやってきました。多くの人は、隠岐島で会ったことのある人でした。イザナギは、次の三人には、特別に指導者として、仕事場を与えました。
天照大神は高天の原を、
 月読命は夜の食国を、
  建速須佐之男命は、海原を  治めよと命令した

しかし、スサノオは、海原は嫌だと泣きわめきました。そこでイザナギは、高天原に住むことはならないと怒り、追放します。
(この辺りまでの事情は、http://homepage1.nifty.com/o-mino/page276.html) に書いています。
日本書紀では、スサノオが泣くところは同じですが、イザナギはにくんで言われるのに、「望み通りにしなさい」と言って追いやられたと書かれています。翻訳のしかたの相違かも知れませんが、この後でも、日本書紀は好意的に書かれています。

その後のことは、古事記では、「その伊邪那岐大御神は、淡海の多賀に坐すなり」と書かれてあるのみです。日本書紀では、少し、様子が違っています。スサノオは、アマテラスに別れの挨拶をするために、高天原に駆け上ったことが、記紀ともに書かれています。
ただ、日本書紀では、追いやられた後に、五穀がどのようにして出来たかとか、養蚕ができるようになった様子が書かれています。
 その後に、次の文が書かれています。
ここで、スサノオは申し上げられました。「私は今ご命令に従って、根の国に参ろうとします。そこで高天原に参って、姉にお目にかかり、お別れをしてきたいと思います」と。 イザナギは「よかろう」と仰せられたので天に昇られた。その後、神の仕事をすべて終わられて、あの世に赴こうとしておられた。そこで、幽宮を淡路の地に造って、静かに永く隠れられた。また別にいう。イザナギはお仕事をもう終られ、徳もおおきかった。そこで天に帰られてご報告され、日の少宮に留まりお住みになったと。
この文面ですと、スサノオとイザナギは何処にいたか判りませんが、その後、イザナギは「天に昇られた」とありますが、天がどこか判りません。スサノオは、山を轟かせながら、高天原という高い所に駆け上ったことになっています。その後、イザナギは、一言でいいますと、淡路島で死んだことになります。
古事記の最初に出てくる天之御中主神は、高天原の調査を終えた後、滋賀県に行ってイザナギが来るまでに、下調べをし、イザナギが滋賀県にやってきてからは、お守りをしたと思われます。
イザナギは、滋賀県の近江八幡市の白王町へ来て、その後、多賀にやってきたと思われます。
白王町の近くに、天御中主尊神社があります。また、竜王町に雪野山があります。この山の南の麓に、「天神社」があり、天御中主神が祭神になっています。
(http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/archive/20070727) に書いています。
イザナギは、この後も、支配地を広げていったと推察しています。それは、全国にある神社から推察できます
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page154.html 

ここにある神社は、ある神社ねんんかん年鑑に書かれていた数字です。個別に、調べて行きますと、熊野神社、白山神社だけを拾っても、7000はあるのではないでしょうか?
日本書紀では、これらの仕事をすべて終えたと書いてありますが、幽宮を造ったところは、イザナギが、最初に支配した土地であることが古事記に記されています。
イザナギが死んだところではありません。

今後、注意して読んでください。日本書紀の編集者は、自分たちにとって、都合の悪い人たちは、殆ど、死んだことにしています。当然ですよね。書きたくないからと言って書きませんと歴史になりません。

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2007.08.01

No57 古事記を読むには 

古事記を読むには、古事記だけを読んでいては、正しく読むことができないとは思っていました。最近は、富に日本書紀と一緒に読まなければ無理なのではないかと思えるようになっています。
 そのようなことは、当り前で、古事記を読むときは、どなたも日本書紀を参考にしておられます。が、参考にするどころか、日本書紀に書かれていることが、正しいものとして取り扱われているような気がしています。しかし、私は逆ではないのではと考えるようになっています。
 古事記に書かれていることが正しくて、日本書紀では、歴史がゆがめられて書かれているのではないかと考えています。

古事記と日本書紀は、一応、日本の歴史を書いたような形になっています。このようなある国の歴史書に限らず、世の中にある民間の社史などでも、会社の都合の悪いことは書かれていません。即ち、書いた人にとって都合の良いことは、書かれていますが、都合の悪いことは、書かれていないはずです。
このように考えますと、古事記は、天武天皇の発願によって作られ712年完成しています。しかし、天武天皇は古事記を見ることもなく亡くなっています。  一方、日本書紀には、古事記にみられるような序文がありませんから、どのようにして、作るようになったかは、他の資料から知るしかありません。作ったメンバーなども分かっていますが、それが、正しいと立証する力は私にはありません。日本書紀の完成は、720年とされています。
この年に、藤原不比等が亡くなっています。たった、これだけのことですが、私は、藤原不比等の臨終が近づいたときに、まだ、十分ではありませんが、日本書紀の完成を報告し、実際に見せたのではないかと想像しています。
これは、また、別の機会に書くこともあろうかと思いますが、藤原不比等が、行ってきたことの集大成と言えるものではなかったかと想像しています。

所謂、天皇家と言われている人よりも上に位する地位(見かけは下ですが)を得ただけではなく、実質的に、全国制覇を成し遂げ、藤原氏の先祖が、天孫族の仲間の一員であったことを歴史書に書き込んだ正史であったと思っています。
自分たちの国(中国)の元号を採用して、「大化」と呼ぶこともしました。
現在、学校では、これを大化の改新といって、日本が、一人前になったようなとらえ方をしていますが、私は中国人による傀儡政権の誕生ではなかったかと思っています。

ここまで読んで、殆どの方は、そんな馬鹿なと思われたと思います。傀儡政権と書きますと、恰も操り人形のように、自由自在に日本を運営していったように聞こえますが、彼らなしでは成り立たなかったのではないかと考えています。
 現在の日本は、独立国家です。どの国家からも干渉をされずに、民主的に選挙も行って、国家の運営がされていると思っています。しかし、現在の自民党による政治は、アメリカによる傀儡政権と思っています。悔しいことに、戦後の日本は、アメリカ抜きでは成り立ちません。私自身は、小学校の給食で、先を争って、ミルクのお変わりをして、育ってきました。嘘か本当か知りませんが、彼らが無償でくれたと思っているミルクは、実は家畜用であったと後で聞きましたが、本当であれ、あのミルクがなかったら、現在の私たちの仲間は、栄養失調で死んでいたと思われます。
 つい先日まで、殺し合ってきた日本人に、彼らは多くの援助をしてくれました。情けないことに、未だに彼らの下でのみ成り立つ国になっています。

7月31日の夕刊(読売)の一面に、米下院「慰安婦」決議 本会議で初採択
 公式謝罪を要求 
と掲載されています。
安倍首相のコメントが掲載されています。「この問題に関する私の考え、政府のこれまでの対応について、4月に訪米した際に説明した。決議は残念だ」とあります。安倍首相は、4月に訪米したときのメインがこのことだったのではないでしょうか?
慰安婦問題に限りません。北朝鮮問題、中国問題、すべて、日本はおいてきぼりにあっています。悲しいかな傀儡政権である自民党は、次々と口を滑らしました。
久間章生防衛相が、米国の原爆投下について「しょうがない」と発言したことは、少し問題であったでしょう。久間氏は、特に長崎出身とのことですから、普通に考えてもの考えられないことですが、私は、アメリカ向けのリップサービスであると考えています。
本当に失言であれば、すぐに謝れば良かったのですが、彼は誤りませんでした。長崎では、「しょうがない」という言葉は、よく使うのですよと、わけの判らないことを言いました。安倍首相も、久間氏の発言が間違っているとも言いませんでした。傀儡政権の担当者であるだけに、そのようなことは、誰一人、自民党で発言していません。
とみられる。
 おかしいですね。慰安婦のことで、もし、本当に、旧日本軍が、国の制度として、日本以外の国の女性を「性的奴隷」としていたのであれば、その女性に謝らなければなりません。どうして、アメリカが公式謝罪を要求するのか、理解できません。
 それこそ、逆に、アメリカ政府に、もう、ほうって置いても崩壊していく日本に原爆投下の実験をしたことは、今でも抗議すべきでしょう。

藤原不比等が、日本において、初めて傀儡政権を樹立した記念誌として、日本書紀を作り、同時に、自分たちにとって、邪魔になる古事記は、葬り去られたと思っています。
昭和20年8月15日以降、日本は、ずっと、アメリカの支配下に置かれているのと同様です。誰も、そのように気づいていないだけだと思います。

公式謝罪を要求 に対して、安倍首相はどのように対応されるのでしょうか? 自民党をつぶすのは、訳がありません。次の衆議院選挙でも、民主党が過半数を取ればいいのですから。
さて、民主党は、アメリカ政府と仲良くやっていけるのでしょうか?

話は古事記から、えらい方向に進んでしまいました。私は古事記や日本書記に書かれていることを正しく読んで、今後の日本はどうあるべきか、そろそろ、誤魔化さないでかんがえるべき時がきたように思います。

次回から、政治は抜きです。古事記と日本書紀です。できるだけ、難しくならないように、取り組もうと思っています。

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