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2007.09.28

No66 志摩国の式内社

伊勢国の南に位置する志摩国は、淡路島より狭いでしょうか? その所為もあって、式内社は3座しかありません。
3座のうち、2座は、内宮別宮である伊雑宮と伊雑宮の所管の佐美長神社とされ、もう一つは、安楽島町の伊射波神社であるとされています。

元は志摩国全域を郡域とする郡(しまのこおり)でありましたが、 養老3年(719年)、志摩郡を答志郡・佐芸郡(後に英虞郡に改称)に分割されました。719年は重要だと思います。712年に古事記が編纂され、714年に各国に国の様子をまとめて提出するように命令されています。良いように取りますと、どのような地名があり、そこでは何が取れるか。特に、金、銀、銅の報告。絹の生産地などが重要だったと思われます。これをもとに、日本書記の編纂も行われ、国の造り変えも行われたと思います。日本書紀は720年に完成しています。
志摩国の式内社のことは、延喜式神名帳には、志摩国三座/大二座/小一座∥. 答志郡三座/大二座/小一座∥粟嶋坐伊射波神社二座/並/大∥ 同嶋坐神乎多乃御子神社.とあります。

答志郡は、現在の鳥羽市、志摩市磯部町全域、浜島町全域、阿児町の北部がこの地域に当たります。伊雑宮と佐美長神社は、磯部町にありますから答志郡にあることになります。従いまして、式内社に否定しても良いようにも思えます。が、

もう一度書きますと、
粟嶋坐伊射波神社二座
粟嶋坐神乎多乃御子神社
 となります。粟嶋は安楽島の古名です。現在の安楽島町になりますから、伊雑宮と佐美長神社を志摩国の式内社に否定することは、間違っています。

安楽島町に伊射波神社(いさわじんじゃ)があります。所在地は、鳥羽市安楽島町字加布良古1210です。鳥羽駅よりバスで約25分、安楽島で下車、停留所の前に安楽島公民館があります。神社への道は、公民館に向いて、左手の道を選び、坂道を登って行きます。峠をこしますと、ホテル「かめや」があり、右に曲がりますと、鳥羽市唯一の海水浴場です。道は左へ曲がります。またもや、軽く峠を越しますと、打ち寄せる波の音が大きく耳に届きます。そして、海岸に出ます。
 この神社では、伊勢神宮と同様に、20年に一回遷宮が行われています。最近行われたのは、平成13年です。それまでは、狭い山道を、材木を担いで登ったそうですが、平成13年のときに、自動車で運べるように、道路が建設されました。従いまして、神社まで、車で行くことはできますが、すれ違うことはできません。道路は地元の方のための道路のようですから、歩かれた方が良いと思います。片道30分ぐらいの1.2kmの道のりです。
 少し、登ったところに右へ下る道があります。下ったところに海岸があり狭い浜辺に鳥居が建っています。
 少し、丁寧に書きました。こんな道を行って大丈夫かなと思えるほど、道が狭いところもあります。神社の位置は、加布良古岬とバス停の中間ぐらいでしょうか?
高さは良く判りませんが、50mぐいだと思います。
写真--http://www.hotel-wako.co.jp/toba/index-kabu.htm
http://www.isesima.net/kameya/arashima.html

伊射波神社に表記されていました祭神は、
 稚日女尊 (わかひめのみこと)
 伊佐波登美尊 (いさわとみのみこと)
 玉柱屋姫命 (たまはしらやひめのみこと)
 狭依姫命 (さよりひめのみこと)

拝殿に置かれてありました一枚の紙に、このように書かれていましたが、また、「当社は、古来より加布良古大明神、志摩大明神と呼ばれていました」とも書かれています。
内宮別宮である伊雑宮は、多くの所に、志摩国の一の宮であると書かれています。ところが、安楽島町にある伊射波神社も一の宮であると書かれています。
これは、どう言うことでしょう。備前に一の宮が、三か所あったのと似ています。

備前に一の宮のことは、http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/
のNo62撚り5までに書いています。   
続きは 次回に。

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2007.09.07

No65石上布都魂神社 参拝

これまでに、多くの一の宮を訪れましたが、どの一の宮も余りの大きさに圧倒されるほど、大きい神社ばかりでした。それだけに、行くときに難儀することはありませんでした。しかし、この石上布都魂神社に行くために、私のカーナビは役に立ちませんでした。カーナビの指示通り旭川に沿って進みますが、神社は川のそばではありません。地図には、石上は山の中に表示されていますので、山の方へ行かないといけないのに、川伝いに車は進みます。ところが、対向車がくればすれ違うことができないような道に入りました。やれやれ、やっと、山へ向かうと思っていましたら、大きい道に出ましたら、何のことはない、はじめに走っていた道に出ました。そのようなことを何度か繰り返して走行していますと、カーナビは、目的地の近くに到着しましたと言います。地図の上には、近くに「石上」と書かれていますが、山が見えるだけで、そこへ近づくことはできません。そこで、カーナビに頼ることはやめて、2kmほど後戻りをして、石上に向けて走りますと、何度か小さな集落を過ぎますと、カーナビの地図上の石上へ少しずつ近づきます。
 その内に、石上布都魂神社の表示が見つかり、やっと、安堵しながら運転をするようになりました。 
ある集落につきましたら、手書きで、矢印がありました。「石上の宮司の家」。やれやれ、これで神社到着と思いましたら、道はどんどん、坂を登って行きます。すると、ここが、「石上」という村であることを示す表示板がありました。しかし、家は逆に減っていきます。神社らしいものは見えません。やっと、山の中腹に家が見えました。なるほど、集落は、このようにぽつんと立っているのだと思い、自動車を止めてお家を写真に収めました。

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しばらく走りますと、石上布都魂神社の駐車場に着きました。

掲げてある由緒書きには、現在の祭神は素盞嗚尊とされているが、明治時代までは、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣である布都御魂と伝えられ、明治3年(1870年)の「神社明細帳」では神話の記述に従って十握剣と書かれていた。この剣を祀ったのが当社の創始と伝えられる。この剣は崇神天皇の時代に大和国の石上神宮へ移されたとされており、このことは石上神宮の社伝にも記されている。

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写真--駐車場と本殿

 延喜式神名帳では小社に列し、備前国総社神名帳では128社中2位に正二位布都魂神社と記載されている。寛文9年(1669年)、岡山藩主池田光政が山頂にあった小祠を復興した。

境内左手の山道を500mほど上ると本宮があります。
Photo

     
 下手な文章では、判って頂けませんので、写真を載せました。石上という地名は、日本書記が出来た時に、すでに、あったと思います。しかし、日本書記に書かれている石上がこことは限りません。私は、こんな人里離れた所に備前一の宮があったとは思えません。延喜式神名帳では小社であったということは、そうだったのでしょう。藤原氏は、石上布都魂神社を式内社にした後に、吉備にあった128社中2位になるまで、神格を正二位布都魂神社としたのではないでしょうか? 天皇家の安仁神社が一の宮であるのを消すために無理に式内社に指定したように思えます。こんなことを書けば神社から叱られるかもしれません。
 吉備津彦神社も備前の一の宮です。吉備津神社は式内社ですが、吉備津彦神社は式内社ではありません。安仁神社が一の宮であったのを、無理やり、石上布都魂神社を式内社にして、日本書紀の本文には書かないで、第の書のところに、「その大蛇を斬った剣を名づけて、蛇のアラ正という。これは、今、石上にある」と書いて、日本書紀に合わせたのではないかと推察しています。
 吉備津彦神社は、式内社でもないし、備前の一の宮でもありませんでしたが、現在見れば判るように、備中の吉備津神社よりも大きい燈籠をつくり、神社の巨大さを競ったのではないでしょうか? そして、いつの間にか、吉備津神社が一の宮と呼ばれるようになったのでしょう。
 推理ばかりですから、その内に訂正することになるかも知れませんが、吉備の一の宮について眺めるだけでも、支配者の交替の激しかったところだと見ています。

神社の写真はhttp://www.genbu.net/engi/index.htmの方が、綺麗です。

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2007.09.04

No64 備前国の一の宮・石上布都魂神社

スサノオが大蛇を切ったときに使った太刀は、十拳剣と言います。大蛇を切った時に欠けたと古事記には書かれています。しかし、現在(古事記を書いているとき)はどこにあるかは書いてありません。
日本書紀では、本文には、十握剣とあり、尾を切った時に、やはり欠けたと書いてあります。ところが、別書の2に、この刀の別名は、蛇の麁正(おろちのあらまさ) といい、今、石上にあると書いてあります。宇治谷孟の翻訳本では、( )をして、石上神宮と書いておられます。石上神宮は奈良県天理市にある神社のことを言いますから、宇治谷氏の間違いかも知れません。
天理市にある石上神宮は、石上振神宮・石上布都御魂神社・石上布都大神社。岩上大明神・布留大明神とも呼ばれます。
備前の石上神社の祭神は、布都御魂大神 
配祀 布留御魂大神 布都斯魂大神 宇麻志麻治命 五十瓊敷命 白河天皇 市川臣命

祭神は、神武天皇東征のときに、国土平定に偉功のあった天剣(平国之剣=くにむけしつるぎ)と、その霊威を「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」。鎮魂(たまふり)の主体である天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)と、その起死回生の霊力を「布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)」。素盞嗚尊が八岐大蛇を退治された天十握剣(あめのとつかのつるぎ)の霊威を「布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)」と称え、総称して石上大神(いそのかみのおおかみ)と仰ぎ、第十代崇神天皇7年に現地石上布留の高庭(たかにわ)に祀られました。古典には『石上神宮』『石上振神宮』『石上坐布都御魂神社』と記され、この他『石上社』『布留社』とも呼ばれていました。――同神宮パンフレットより

この神社は、今年、岡山へ8月12,13,14日と出かけようと思った時に、行く候補地に入っていませんでした。
 スサノオが退治した八岐大蛇は、神話と言われていますが、古事記には、一切神話は書かれていない。そのまま、書きますと古事記が没収されて燃やされてしまうので、理解困難な話に、太安万侶は書いたのだということが次第に解ってきました。
 資料集めに、稗田阿礼が、横田町を訪れた時は、素晴らしい製鉄所はなくなっていましたが、古老から、むかし昔に、山全体を製鉄にした工場があった話を聞いていました。
 このような話を 「新しい日本の歴史」の中で、2007年8月7日より、【No144須佐之男の大蛇退治】と書き始めました。http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/archive/20070807

 古事記と日本書紀が同じところを書いた記事に相違がある時は、どちらかが、嘘をかいていると考えることにしています。須佐之男の大蛇退治の話は、何度も読み返していると、大蛇を切ったときの剣が、石上にあると日本書紀には書いてあります。その石上に( )をして、石上神宮と書いてありました。石上神宮と書いた人は、日本書紀を翻訳した人です。これは違っているのではないかと思っていましたら、奈良の石上のほかに、備前に石上という所があるだけではなく、そこに、石上布都魂神社があると書いてあるのを見つけ、びっくりしました。

 そういえば、随分前に、私のブログの読者の方が、石上布都魂神社という神社が岡山にはあるのですよと、コメントに書いてくださったことを思い出しました。石上布都魂神社をキーワードにして検索しましたら、一の宮だと書いてあります。以前に牛窓へ行って帰りに立ち寄ったところが、安仁神社です。ここも一の宮であることを行ってみて初めて知りました。その前に、岡山を訪れた時に、吉備津彦神社に行きました。確か、ここも一の宮と確かめますと、一の宮でした。
 という次第で、石上布都魂神社を訪れることにし、コースを変更しました。

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