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2007.10.22

No73 志摩国の地名 その2

まず、地名「大王」と「御座」が、どうして気になったかです。
「大王」の方の「大」は、天照大神な偉大な人にしか使われません。そこで、全国にどれだけあるか調べました。
青森  東経141度06分
栃木  東経139度38分
新潟  東経138度05分
三重  東経136度53分
岡山  東経133度45分   北緯34度52分
宮崎  東経131度06分   北緯31度57分
鹿児島 東経130度41分   北緯31度55分

 7ヶ所というように少ない地名は、特殊な地名になります。滋賀県の近江八幡市に「白王」という地名があります。 白王http://homepage1.nifty.com/o-mino/page157.html
イザナギはどこへ行ったか http://homepage1.nifty.com/o-mino/page669.html
 もっと沢山の理由から、近江八幡市の「白王」は、白狄人であったイザナギが住んでいたのではと推察しています。では、「大王」は誰が住んでいたのかとなりますが、判りません。

一方、 「御座」の方ですが、 
 福岡 東経130度56分 北緯33度48分  読み おざ                                        
 三重 東経130度56分 北緯33度48分  読み ござ
 福岡 東経130度53分 北緯33度48分  読み ござ
こちらも、少ないですから、特殊な地名です。京都府福知山に「天座」という地名があります。ここは、いろいろのことから判断しますと、アマテラスが、丹後にいる漢人の南下を防ぐために、出動したときの駐留地だと思われます。
『伊勢神宮は、元は大江町にあった』http://homepage1.nifty.com/o-mino/page704.html
に書いていますから、参考にしてください。
「天座」は、天皇家の皇祖神と考えられています。このことから考えますと、「御座」は、天皇が一時にせよ、住まわれたところではないかと思います。
伊勢神宮は、11代の垂仁天皇の御代に造られたことになっています。その後、天皇が伊勢志摩に来られたのは、古いところでは持統天皇だけですから、行幸すら反対されたのですから、
あると述べています。天皇を襲う恐れがあったからこそ、行幸しないように止めたとしますと、理屈が成り立ちます。大神神社の神官が、藤原氏の息がかかっていたことになります。当然です。大神神社は伯耆の国にあったのに、無理やりに奈良に移した形跡があります。「御座」に住んでいたとは考えにくいです。
では、誰だと言いますと、神武天皇しかないのではないかと思います。
神武天皇は、東征の折、和歌山の新宮から山中を行軍して、奈良盆地に到達したことになっています。
その時に、神武天皇自身が、この御座に駐留して、伊勢から奈良を攻撃したのではないでしょうか? その時に、通った道が、熊野街道(42号線)ではないかと推理しています。
この道の途中に、大宮町があります。大宮町には、伊勢神宮の別宮である滝原宮があります。神武天皇が休憩された所に、祠がたてられたのではないでしょうか? 垂仁天皇の御代に伊勢神宮が造られた時に、別宮にされたかどうかは、今後の調べによります。
滝原宮http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%A7%E5%8E%9F%E5%AE%AE の位置は、正宮から一番遠い所にあります。こんな遠くにどうして、造らなければならなかったか、理由が見つかりません。滝原宮は、奈良から伊勢へ、伊勢から奈良への天皇家の移動をチェックするために、式内社の名を借りた、藤原氏の布石ではないかと推理しています。

以上は、推理の連続ですが、神武東征は、伊勢からも攻撃の構えを見せた、又は伊勢への退路を断たれたために、ニギハヤヒは降参したのではないでしょうか?

付け加えますと、神武東征の折、高島宮で、8年間留まったということが、古事記に書かれています。岡山県に高島というところが、3ヶ所ありましたので、2ヶ所行ってきました。一つは笠岡市になりますが、神島(こうのしま)から、船に乗らないといけません。この島に、「王泊」という地名があります。神武天皇のころは、天皇とは言わないで、「王」といったのではないでしょうか? ここに8年間住んでいたのではなく、数日間泊まったのではと勝手に想像しながら、休日を楽しんできました。
http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/archive/20061106
さて、大王はどうでしょうか? +

神武東征は、ユダヤ人の協力がなければ、達成することはできなかったと考えています。
前回に紹介しました難読地名
安久志、安楽島、加布良崎、相差、千賀、安来、的矢、阿津麻利崎、畔名、甲賀、和具、越賀、大王、波切、御座、阿児、英虞、飛海、立神、麻倉島、阿曽

読むことができましたでしょうか?
岡山県の美作あたりの地図を広げてください。難読地名がいっぱいです。ユダヤ人を表す「神」の字がつく地名もいっぱいです。

次回も、この地名を眺めてみようと思います。 

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2007.10.19

No72 志摩国の地名

No66からNo71まで、志摩国の式内社のことを書いてきました。この国は、式内社が少なくて調べ易いので、手を出してみようと思いました。お隣の伊勢国は、式内社が253社もあります。その内の125社は、伊勢神宮の摂社です。
 何度も書きますが、式内社には、天皇家の皇祖神であるアマテラスは祀られていません。
式内社は、藤原氏が支配していた神社です。なぜ、伊勢国に式内社が多いのかと言いますと、内宮と外宮の正宮を253の式内社で封じこめたことになります。
 このように考えますと、歴代天皇が、伊勢神宮へ参らなかった理由が解けるような気がします。ある人によりますと、歴代天皇が参拝しないのは、アマテラスが皇祖神でないからだという方もあります。しかし、参拝された天皇もおられます。持統天皇と明治天皇のお二人だけです。持統天皇のときは、大神神社の神官が、二度にわたって、行幸しないように進言したことが、日本書紀に書かれています。反対した理由が農繁期で農民が多忙であると述べています。天皇を襲う恐れがあったからこそ、行幸しないように止めたとしますと、理屈が成り立ちます。大神神社の神官が、藤原氏の息がかかっていたことになります。当然です。大神神社は伯耆の国にあったのに、無理やりに奈良に移した形跡があります。
 私は、伊雑宮は式内社ではないと思うことを書いてきました。これを証明することは、至難のことだと思いますが、いつかは、挑戦しようと考えています。

正宮は253の式内社によって、保護されていたのではなく、正宮神宮へは、斎王しか参ることができなかったのではないかと思っています。ところが、英虞湾から伊勢神宮に侵入しようとするものは、志摩国の式内社でチェックしようとしましたが、僅か、3社しかなかったことになります。それだけ、天皇家の支配力が強かったことになります。
 なぜ、強かったのかも知りたかったのですが、そのようなことを書いたものはありません。ところが、地名から解決できるのではないかと思っています。

話が逆になりましたが、志摩国の式内社に行くときに、もう一つの目的がありました。それは、地名「大王」と「御座」を訪れて何かのヒントを掴みたいと思いました。どこにあるかと言いますと、英虞湾を形作っている南側の半島にあります。「大王」は半島の根元に当たるところにあり、大王埼のある所です。
 なぜ、このような名前が付いているのか知りたかったのです。

ところが、こちらの方は判りませんでしたが、ここへ行く道中に不思議な名前の地名を見つけました。
安久志、安楽島、加布良崎、相差、千賀、安来、的矢、阿津麻利崎、畔名、甲賀、和具、越賀、大王、波切、御座、阿児、英虞、飛海、立神、麻倉島

地名は多くは、見ただけで、どうして名前が付けられたか想像できるものですが、上記の地名は、意味は勿論のこと、読むこともできません。私は、このような地名を難読地名と読んでいます。
次回に地名に関連して、なにか書こうと思います。

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2007.10.15

No71伊勢神宮の別宮

志摩国の式内社を見るために行ってきました。 調べに行くと言いましても、現地に行っても、誰にも会うことはできません。仮に出会ってもお話もできません。
現地へ行って考えたことを、「楽しい人生」http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/
のNo66からNo70まで書きました。読んでいただきましたか?

重複しますが、
志摩国には、式内社が三座あります。延喜式神名帳には、
粟嶋坐伊射波神社二座
粟嶋坐神乎多乃御子神社
 と書いてあります。ところが、多くの人は、3座のうち、2座は、内宮別宮である伊雑宮と伊雑宮の所管の佐美長神社とされ、もう一つは、安楽島町の伊射波神社であるとされています。安楽島町の伊射波神社は、粟嶋坐伊射波神社で良いと思いますが、あとの二つは違うと思います。いろいろ考えましたが、良く分りません。このようなときは、無理をしないで置きますと、その内に解決すると思っています。

目的とするところではありませんでしたが、伊勢神宮の内宮にお参りしました。伊勢神宮には、何回も行っていますが、今回は、本殿の後ろにある荒魂宮、御稲御倉、御酒殿、外幣殿も回りました。 地図 http://www.isejingu.or.jp/shosai/naiku/naiku.htm
本殿の西側に空き地があります。次回の遷宮の時に、正殿が建てられるところです。この空地に、犬小屋のようなものがあります。これは、何であるかは説明がされていません。
説明があれば、読んですぐに忘れるのですが、書いてないとなりますと気になります。(判りません)
このより道が、今回の志摩国訪問の価値を高めました。
伊勢神宮は、正式には単に、神宮と呼び、他に神宮と呼ばれている神社と区別するために、「伊勢の神宮」と言うとあります。神宮が管理する宮社が125あり、125社の頂点は外宮・内宮の両正宮で、そのほかに、14の別宮、43の摂社、24の末社、42の所管社がある。一般に呼ばれる内宮は、皇大神宮と呼ばれ、外宮は 豊受大神宮と呼ばれています。
 このようなことを知ることになりました。
別宮は「わけみや」の意味で、神宮の社宮のうち正宮に次ぎ尊いとされると説明されています。この尊い神社という意味が判らないのですが、それよりも、私が伊勢神宮と書いている神社はないことになります。この辺りは、まだ我慢できるのですが、訳のわからないところがあります。
 内宮の後に、伊雑宮と佐美長神社にも行きましたが、別宮は荒魂宮と伊雑宮の2ヶ所に行ったことになります。
この別宮がまた、なんのことか判りません。もっとも、判らないのは、外宮・内宮の両正宮以外は、すべて、式内社であるとされています。

おかしいですね。こんなことを言われましたら、私が主張しています日本史は崩壊です。私の主張とは、
式内社は、天皇家の神社ではなく、藤原氏の支配が及んだ神社というのが、日本史解明の重要なポイントになるものです。藤原氏の支配が及んだ神社どころではありません。天皇の反対勢力の拠点となったところです。
 延喜式神名帳が完成したのが、延長5年(927年)です。延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社であり、そこに鎮座する神の数は3132座です。
藤原氏は、自分の支配力が及ぶところに、2861の事務所を置いたようなものです。

上に書いてあることが、正しいとして、又、私の理屈も正しいとしますと、おかしいことになります。正宮以外は、すべて、天皇の敵の神社に囲まれていたことになります。
 このように考えますと、次の事件の謎が解けるかも知れません。

皇大神宮の創建は垂仁天皇の時代(約2000年前)と言われています。この頃は、天皇家の皇祖神を祭る神社であったと思われますが、なぜか、天皇が参拝された記録があまりありません。持統天皇が伊勢神宮にお参りしたいと言ったことが、日本書紀の持統紀に書かれています。大反対に遭いました。反対の理由が、農繁期で多忙だからとかかれています。ということは、絶対参ってはいけないことではなかったはずですが、参拝するには、相当反対する人がいたことになります。その後、明治天皇まで参拝したという記録はなかったと思います。
 本当は、いくらでも参拝するひとはあったが、日本書紀では、掲載したくなかったのかも知れません。そうであれば、持統天皇の事件のことも日本書紀に書かなくても良かったと思われます。日本書紀は、天皇が伊勢神宮に参拝する記事は書きたくなかったのだと思います。
天武天皇と持統天皇は、広瀬・竜田の神を祭られたことが、日本書紀に書かれています。どれぐらい頻繁にお祭りされているかはも書きだして頂きますと、驚くほどです。
実際に神社まで行かれたかどうかは判りませんが、そのための行宮は、10年10月に完成し、
12年7月4日には、天皇が、直接に広瀬に出かけられたことが記されています。
「楽しい人生」のNo30に書いています。
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2006/10/index.html

このように、重要視されていたことは、日本書記も丁寧に書いています。では、伊勢神宮の参拝のことは、どうして書かれていないのでしょう。天皇は参拝はされたが、藤原氏が書きたくなかった。また、周りが藤原氏の勢力範囲ですから、危険で参拝できなかった。などが考えられます。
 それが、どうして、<別宮は「わけみや」の意味で、神宮の社宮のうち正宮に次ぎ尊いとされる>として、仲良く鎮座しているのでしょう。

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2007.10.11

No70 神乎多乃御子

この神の名前が気になります。神の名前の前に「神」が付くのは少ないです。人名も含めて「神」が付くものを列挙します。

①神産巣日神  この神は古事記の最初に登場する三柱のうちの一です。  
②神大市比売--大山津見神の娘  スサノオの一番目の妃  大年神と、うかの御魂を産む
③神阿多都比売---別名--木花之佐久夜毘売 (ニニギと笠沙の岬で出逢い求婚される)
       石長姫神(いわながひめのかみ)・木花知流姫神(このはなちるひめのかみ)・神大市姫神 (かむおおいちひめのかみ)の姉妹
③神活須毘神--大年神妃の一である伊怒比賣の親
④神屋楯比売- 事代主神の母  (大国主神の一番目の妃)
⑤神渟名川耳尊--イスケヨリ姫と神武天皇の間の子供(のちの綏靖天皇)
⑥神八井命  - イスケヨリ姫と神武天皇の間の子供
  参考・比売多多良伊須気余理比売=媛蹈鞴五十鈴媛命(紀)
⑦神倭伊波禮毘古命 (日本書紀では、神日本磐余彦火火出見天皇)

私が、凄いと思うのが、神産巣日神です。 なにが、凄いかと言いますと、日本の建国に最初に携わった人だからです。この神は、日本書紀には、取り上げられていません。ただ、第4番目の書に、神皇産霊尊の名前で登場します。皇産霊を「みむすひ」と読むと、日本書紀では断っているために、古事記の翻訳者は、「産巣日」に同じく、「みむすひ」とふりがなを打っておられます。
 本当は判らないので、読み方は入れない方がいいと思います。
古事記では、一番に天之御中主神をあげて、3番目が神産巣日神です。次の所に神産巣日神のことを書きましたので、読んでください。
http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/archive/c35373229

古事記が挙げたはじめの三人の神は、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神です。産巣日は、良く判りませんが、出身地の地名だと考えています。
②大市、③活須、④屋楯、⑤渟名川、⑥八井、⑥倭 も同様に考えていますが、どこだと聞かれますと返事ができません。
天之御中主神の「天」は、「滇」で、中国は雲南省の出であり、「神」はユダヤ人の出だと決めつけています。そうしますと、なぞの部分が解明されるからです。

日本書記の編纂した人は、古事記を参考にして書いたはずですのに、古事記の神産巣日神を神皇産霊尊と書き換えたのかを考える時に、私はへそ曲がりですから、日本書記の編纂者は、苗族とユダヤ人は、書きたくなかったのだと考えています。

神乎多乃御子は、ユダヤ人で、尾田に住んでいた人です。

このように書きますと、反対される方が殆どだと思います。どうして反対されるかを書いてみます。
神阿多都比売の神は神聖なることを意味しますと書いてある方がおられます。では、どのようなことをもって神聖というのか、説明されなければなりません。 神阿多都比売以外の人もどうして神聖なのか、なにか共通するものがあるはずです。

阿多は、地名と考えられたのは、私と同様ですが、阿多は、鹿児島に阿多郡がありましたから、此処だということになったと思います。勿論、海岸で出会ったことになりますから、野間海岸です。次のホームページに写真を掲載された方も、そのように思っておられることになります。
http://www2.dwc.doshisha.ac.jp/iwanohim/nomamisaki.htm 
ニニギ命が神阿多都比売に出会ったのは「笠沙御前」であると古事記に書いてあります。ここがどこであるとは書いてありませんが、古事記の翻訳をされた倉野という方は、ほんの中の注釈に、「薩摩りくに、阿多郡の阿多」と書いておられますから、全員此処だということになったと思います。
ニニギ命が高天原から降り立った所は、「ここは韓国に向かい、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の照る国なり」と古事記の少し手前に書いてあります。笠沙の御前とは、砂丘でしょう。小さな砂の丘が、笠のようにぽっかりとかさなるような光景のところで、そこは岬になっていて、海岸から眺めますと、韓国が見えるのだと。朝日も夕日もきれいなところですと書いてあります。この海岸で、ニニギ命は阿多姫にであったのです。

別のホームページでは、次のように書いておられる方もあります。
「阿多」は、今の鹿児島県加世田市から野間半島にわたる地域。神代紀下に「吾田長屋笠狭之碕」とある「吾田」で、阿多隼人族の本拠地であった。

 この方は、神阿多都比売は、阿多隼人族の先祖であると考えておられるのでしょう。神阿多都比売は富士山の周辺の神社で祀られています。ニニギ命は、高天原から降臨した時に、神阿多都比売と出会いました。ということは、高天原は野間半島にあることになります。少なくとも、高千穂に降臨しましたから、高千穂は野間半島にあります。

折角、野間半島に神阿多都比売がいたと書いて楽しんでおられるのに、意地悪く、嫌なことを書きました。歴史界では、文字に書かれた資料、特に外国の文献や考古学資料は重要視されますが、地名は無視されると言っていいと思います。
 
 地名は、考古学以上に歴史を語ってくれると思っています。考古学の遺跡からは多くのことが判りますが、古墳からは、死んだ人が持っていたものが入っているだけだからです。だから、神阿多都比売の阿多は、野間半島の阿多というのは、見つけた人は素晴らしいと思うのですが、ただ、阿多が一致しただけでは、断定するのは無理があるように思います。

話は中途になってしまいましたが、本日はここまでとして、次回は、神乎多乃御子の周辺の地名について書いてみます。 

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2007.10.07

No69 粟嶋坐神乎多乃御子神社

志摩国には、式内社が三座あります。延喜式神名帳には、

粟嶋坐伊射波神社二座
粟嶋坐神乎多乃御子神社

このように書かれています。

粟嶋坐神乎多乃御子神社は、現在の神社ではどの神社なるかとなりますが、玄松子という方のホームページには、伊雑宮所官社の 佐美長(さみなが)神社とされています。伊雑宮から500mほど離れた所にあります。鎮座地の住所は、三重県志摩市磯部町恵利原 です。
玄松子は、粟嶋坐伊射波神社二座のうちの一座は伊雑宮としておられますから、志摩国には、式内社が三座とも、粟嶋にあると書かれているのに、磯部にある二座を比定されています。
「神奈備にようこそ」http://kamnavi.jp/en/mie/saminaga.htm

ここには、佐美長神社は長く大歳社と呼ばれてきたが、明治以降佐美長神社と称されていると記し、『倭姫命世記』に、穂落とし伝承が記載されている。その伝承に、伊雑宮が出来た経緯と、そこに出てくる真名鶴を大歳神として祭ったのが佐美長神社であると書いておられます。その根拠は、どうやら、『式内社調査報告』を参考にされたようです。また、佐美長神社は穂落宮、大歳宮、飯井高宮、神織田御子社などと呼ばれていたとも書いておられます。このようなことから、佐美長神社は、悪雑な歴史を背負ってこられ現在も鎮座していることは確かのようです。

粟嶋坐神乎多乃御子神社は、現在は海の底になってしまいましたが、加布良古崎の前海当たる長藻地という島嶼にあったと安楽島町の伊射波神社に置いてありました由緒に書いてありました。戦国の世地震によって、そこにあった社は海底1.8mに水没してしまいました。幸いご神体(石体)は村人らによって見つけ出され、現在は伊射波神社に合祀されていますと書かれています。

なんだか 昔話のようで、信じられないような話ですが、一応調べてみるつもりになりました。
「長藻地」というところが、資料に残っているかどうかです。インターネットで検索しました。「長藻地」はありませんでしたが、「長藻瀬」はありました。
第四管区海上保安本部が 平成19年6月に作成した作成した、
環境脆弱性指標図 (三重県-15)
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN4/esi/ESI_mie15.pdfがあります。
これは、全国の脆弱性なところを調査したうちの三重県のうちの一つであるらしいです。
この地図の中に、下ノ長藻瀬と沖の長藻瀬と名前が見えます。ここは、答志島の南の海です。長藻とは何かと言いますと、三重県では、ホンダワラ類の藻のことを言うらし
http://www.biodic.go.jp/reports/4-12/r176.html

 これを読んでいましたら、このようなことを全国的に調べるとは、感心もし、どのように調査するのだと思いました。調査は、海に潜ってするのではなく、漁師さんからの聞き取りとありました。そりゃそうですね。藻場には、魚が住みますから、魚場です。いつの時代でも地元の漁師は、どこが崩れ易い海なのか、どこに、長藻がいっぱいあるのか知っていたことになります。
 
「長藻地」は、かつては、島であったが、今では長藻瀬になっているところに付けられた所だと思われます。
このように考えますと、由緒にかいてある「戦国の世地震によって、そこにあった社は海底1.8mに水没してしまいました。幸いご神体(石体)は村人らによって見つけ出され、現在は伊射波神社に合祀されています」は、嘘ではなさそうです。
嘘でないとしますと、神社は島の上に祀られていたことになります。
粟嶋坐神乎多乃御子神社に祭られていた神さんは、「神乎多乃御子」です。乎多は「オタ」です。昔は、この辺りを「尾田」(加布良古の古名)と言いました。
『神功紀』によれば、「尾田の吾田節(あごとうし・後の答志郡)の淡郡(粟嶋=安楽島)に居る神(稚日女尊)とあります」と由緒書きにあります。
となりますと、伊射波神社と同じ祭神になります。御子とは、誰の御子なのでしょうか?

少し、無理があるかも知れませんが、大物主命の子供ではないかと推理しています。
次回は、その辺に迫ってみます。

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2007.10.03

No68 志摩国の式内社 その3

志摩国の式内社の三座をもう一度書きます。

粟嶋坐伊射波神社二座
粟嶋坐神乎多乃御子神社

大二座のうちの一座、伊佐波登美尊を祀った本宮は、安楽島町字二地の贄にありましたと由緒に書かれています。
昭和47年から61年にかけて鳥羽市教育委員会が発掘調査をし、その全貌が『鳥羽贄遺跡発掘調査』に報告されています。その内容が、由緒には、簡単にまとめられています。
「遺跡は、縄文中期から平安中期に至るまでの連続した復々合遺跡で、おびただしい数の製塩、祭祀用土器、儀礼用銅鏃(矢じり)、神水を得るためケヤキの巨木を刳り抜いて造った豪勢な井戸、神殿と思われる建物跡が発掘され、皇族、貴族が往来した痕跡が見つかっています。こうしたことから、古代伊射波神社は国家にも崇敬された偉大な贄持つ神であったことの証と言えましょう」と記しています。
二地の贄--- http://www.kirari1000.com/base_data/base_data.php?kirari_cd=03975
又、次のようなことも書かれています。祭神の伊佐波登美尊は、後に大歳神と号され尊は
伊射波神社本宮の衰退と共に、加布良古崎の伊射波神社に遷座されました。

ということは、現在、安楽島町にある伊射波神社は、本宮から移されたことになります。

No66において、「伊雑宮と佐美長神社を志摩国の式内社に比定することは、間違っています」と書きましたが、こうなりますと、延喜式帳に「粟嶋坐伊射波神社二座」と書かれた二座が一つしかないことになります。
もう一度、検討のし直しになります。
由緒には、主祭神が四柱書かれており、それぞれの神がどのような神であるか説明してあります。
由緒書より
①稚日女尊 
  霊験あらたかな神様として知られる稚日女尊は、加布良古太明神とも称され、朝廷に捧げる贄物の一部を太明神にも奉納するという別格の扱いを受けていました。その証拠として、由緒では、次の事柄を述べています。
 「加布良古の外峰に立てる姫小松、沢立てる松は千世のためし。加布良古の沖の汐ひかば、宮古(都)へなびけ我もなびかん。加布良古の太明神に、遊びの上分参らする請玉の宝殿」

これは今から461年前書き写された「外宮摂末社神楽歌」の最後の方の一節です。古代、安楽島の前の海では、朝廷に捧げる貝(あわび)を採る神事が行われ、その様子をうたったものです。
加布良古太明神とも言われた女神、稚日女尊を姫小松に見立て、「この松は千年後も栄えるでしょう。加布良古の沖の汐がひいたら、神事で採れた貝を納めに都へ行きます。加布良古の太明神に分け前を奉納してから」というものです。

 由緒に書かれていることは、「外宮摂末社神楽歌」に書かれていたとありますから、信用していいことになりますが、いつ作られたが判ればいいのですが、無理のようです。
朝廷と加布良古太明神と贄は、結ばれることになります。
 続けて、由緒には、【『神功紀』によれば、「尾田(加布良古の古名)の吾田節(後の答志郡)の淡郡(粟嶋=安楽島)に居る神(稚日女尊)とあります。稚日女尊は天照大神の妹君、分身とも言われ、第十五代応神天皇の母君である神功皇后の崇敬厚く、皇后が筑紫国(九州)から倭国に凱旋した折にも、常に御許においてお祭りされていました】
 このように書いてあるのですが、ここに書いてあることが正しいかどうか、調べることは、大変なことです。
『神功紀』に、「吾田節(後の答志郡)の淡郡(粟嶋=安楽島)に居る神(稚日女尊)」と書いてあるというのですが、(稚日女尊)も書いてあるかどうかです。
稚日女尊は天照大神の妹君、分身と書いてありますが、分身ですと、天照大神のことになりますから、簡単に書いておられますが、判らないということになります。
稚日女尊は、他の神社では、どこで祀られているかと言いますと、神戸市の生田神社、和歌山県の玉津島神社です。このほかに、膨大なところで祀られています。

②伊佐波登美尊 ---第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が、伊勢国内宮に天照大神の御魂をご鎮座させた折、これを奉迎して鎮座に尽力し、また志摩国の新田開発におおきな功績を残したと伝えられています。

③玉柱屋姫命 ---『倭姫命世紀』によれば、天孫瓊々杵命の重臣で水の神として崇敬された天牟羅雲命の末裔(子孫)で、神武天皇の勅により伊勢国を平定した天日別命の娘と記されています。

④狭依姫命 ---宗像三女神の一柱である市杵島比売の別名。

これで祭神の話は終わりです。なにか発見できましたか?

次回は、これらを元にして、私が考えたことを書いてみようと思います。

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2007.10.01

No67 志摩国の式内社 その2

志摩国の式内社の三座は、次のように書かれていると、前回に記しました。
粟嶋坐伊射波神社二座
粟嶋坐神乎多乃御子神社

ここに書かれた神社のうち、安楽島町字加布良古にある伊射波神社を見てきました。この神社の一の鳥居は、海岸にあり南を向いています。普通は、その向いている方角に何か関係があるものがあるはずです。地図を眺めていても良く判りません。地元の方にお聞きしましたら、今浦、本浦がありました。これだけでは、本浦の方が古いぐらいしか判りません。しかし、いつかは調べる必要があるかも知れません。

前回、安楽島町のバス停の終点から、伊射波神社までの道のりを書きました。どこをどのように歩いたのか分りませんが、峠を超えますと、海水浴場のあるところへ出ました。ここはいきませんでしたが、写真をみますと、広い浜になっています。同じく、峠を超えますと又、海でした。もう一度、峠を超えますと又入江になっていて、ここに鳥居が建っていたことになります。
志摩国は、リヤス式海岸になっていて、海岸線が岩ばかりの複雑な形をしています。殆ど、海岸線は岩のため砂浜がありません。2000年来、海岸線の形は、同じだと思います。従いまして、現在でも、海岸線に沿っては人の足でも行く道はありません。
そこで例の私の推理になりますが、伊射波神社に行くには、船を利用したのではないかと思います。遷宮のときには、以前には船で運んで、鳥居のところからは担いで上がったとお聞きしました。
全部、確かめたわけではありませんが、海岸にある鳥居は、そこに神社があるという目印だったと思っています。神社が古いほど、そうだと考えています。たとえば、広島の厳島神社や島根の出雲大社がそうだと思います。現在では、同じような鳥居の形をしていますが、似た物の様であり、色も白かったと推察しています。後世になりますと、向いている方向に、なにかがあるように思っています。例えば、滋賀県の湖西にある白髪神社
http://www.pref.shiga.jp/minwa/50/50-01.html の鳥居の先には、琵琶湖で一番大きい沖島があります。ここには、奥津島神社があります。ここのことは、
http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/archive/20070726 に書いています。この近くには、イザナギに関係する「白王」という地名が残っています。すぐ近くに、天御中主尊神社
があります。(http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/archive/c35373229 )古事記に登場する古い神ばかりが祀られている地域です。
このように見てきますと、白髪神社が先か、奥津島神社が先か、判断は難しいですが、形から言いますと、湖岸に白髪神社建てた人が、古くからあった奥津島神社の神に敬意を表して鳥居を建てたと想像しています。後は、考古学的に、奥津島神社の方が古いという証拠が見つかれば良いと思います。

肝心のタイトルのことを書かないで、脱線しています。もう一度、はじめに戻りますと、

粟嶋坐伊射波神社二座 と書かれています。 二座とありますから、神社が二つあったはずです。神社にありました由緒書きに載っている地図に、一の鳥居の少し北の海岸線に、「加布良古神社跡地」と書かれたのが見えます。これは、あまりにも近いので、現在の伊射波神社ではないかと思いますが、確かめていません。       

この由緒書きには、別の所にあったことが書いてありますので、次回に紹介します。

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