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2007.11.26

No80多岐原神社 その2

多岐原神社の境内で、教えて貰ったことの中で、心に残ったものは、
①神社には、瀧原宮から毎日、お祈りにこられる。 
と、④3年前のときに、この鳥居の上から1.2mのところまで、川の水が浸かったこと。私
神社まで降りてきたときに、そこに田がありましたが、その田も水に浸かったことです。

瀧原宮と多岐原神社は、6キロぐらいの距離でしょうか? それにしても、毎日とは大変なことです。ただ、仕事だからでは説明がつかないなと思いました。

 瀧原宮から多岐原神社へ来るときに、42号線から、ある交差点を右折しましたが、この交差点を左折しますと、橋を渡ります。この橋から一瞬見た景色は、両側とも深い渓谷でした。
渓谷になっているということは、両岸は岩であるということです。(もう一度確認に行くつもりです) その岩がどうして、深く削られて渓谷になっているかということです。考え方は、二つです。一つは、その部分だけ、軟弱な層があった。もう一つは、水量が多かったです。たとえば、四国や和歌山の吉野川や紀の川は、断層が生じた所に水が集中したのでしょうか?  宮川のところに断層が走っているのかどうかは、調べていません。地図でこの部分をみますと、カーブしていますから、断層ではなさそうです。
 42号線からある交差点を右折と書きましたが、その交差点から、しばらくの集落の名前が、「船木」です。この地名は、10年前から気になっているところです。重要な地名ではないかと思っています。ここは、川が流れていますが、川がなくて船に関係ないようなところでもあります。(どなたか調べてください)交差点を曲がる西には、「川合」の地名があります。このように眺めて行きますと、川が合流するところに付けられた川合のように、その土地の様子から付けられた地名があることが判ります。
「瀧原」はインターネットを見ていますと、この辺りは、滝が多いから名前がついたと書いておられますが、本当でしょうか? 私は、「多岐原」は道が、沢山分かれている所、分岐するところではなかったかと想像しています。
 古事記で、「高志之八俣遠呂智」と記述があります。スサノオが大蛇を退治に行ったところです。「高志」は地名ですが、「八俣」は、八つの俣になったところです。現在の横田というところだと思います。地図でみますと、八つあるようには見えませんが、「八」は多いという意味かも知れません。そのすぐ後ろに「谿八谷峡八尾」があります。これは実際に八あるのではなく、沢山あるの八だと思います。大蛇の身が、八頭八尾をもっていると書いてありますが、こちらは、お酒の樽を用意しましたから、数字の八だと思います。
太安万侶は、「谿八谷峡八尾」全体が製鉄所になっている山の人々をやっつけた話を古老から聞いて、このような話にしたと思います。
「須佐之男の大蛇退治」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page355.html 
数字が多い意味では、このように「八」が使われます。「多」が使われた例を見つけていませんが、間違いいのではないかと推察しています。
というのは、伊勢からみますと、宮川の左岸を西へ行きますと、奈良盆地へ通じます。「三瀬川」で、宮川の右岸に渡り、三瀬坂峠を超えますと、瀧原宮です。この道は、熊野街道だと思います。

ここは、天皇家にとって重要な地点でしたから、多岐原神社が作られましたが、8世紀になってから、藤原氏にとって、重要な所になったので、三瀬川よりも広いところに滝原宮を建て、その地を瀧原とよぶようになったのではないかと推理しています。

伊雑宮は、海から侵入する者を監視し、滝原宮は奈良と和歌山からの侵入をチェックしたのではないかと推理しています。 
このような見方で、この辺りの地名を地図で眺めてください。多岐原という地名が、古くからあったのではないでしょうか?

 次回、もう一度、多岐原神社について書こうと思います。

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2007.11.21

No79 多岐原神社

No79 多岐原神社

Tanosimu_2

この写真を見て、何か思われましたか? 車の横の道を20mほど、進みますと、右に下りていく細い道があります。下ったところに、小さな社があります。 (写真をクリックしますと、少し大きくなります)
私は、多岐原神社に行こうと思って車を走らせてきました。ここへ来る前は、伊勢神宮の別宮である瀧原宮に行ってきました。インターネットで、行く方法が丁寧に書かれていました。その通りに、42号線にある信号を右折し、2キロほど走りますと、多岐原神社のある集落にたどり着くが、気をつけないと通り過ぎてしまうと書いてありました。カーナビは、目的地に到達しましたと教えてくれましたが、どこか判りません。ゆっくり、注意しながら、走っていますと、生垣にうずもれて、消えかかった「多岐原神社」の字を見つけました。左折してすぐに、写真の山が眼前に広がりました。
この山を見て、ここに多岐原神社があると確信しました。歴史に興味を持つようになって、10年ほどですが、目的地に行くたびに眼前に現れる山が、この二等辺三角形の山です。このきれいな形の山は、古代の人が、目印にした山ではないかと考えています。たとえば、伊勢の外宮から、宮川を遡り、一日歩きますと、この山が見えるのではないかと思っています。
多岐原神社の裏の山が、この山で、ご神体かと思いましたが、神社と山の間に宮川が流れていますから、そうではないようです。

私は、思わず車を止めて、カメラに収めることにしました。車に戻ろうとしますと、電柱の向こうに人影が見えましたので、声をかけてみました。「あの山の名前はなんといいまいか」。しばらく、間があって、「別に名前はないな」。 これをきっかけに、多岐原神社はどこですかとお聞きし、車の止めるところなどもお聞きしました。
車を止めて坂道を下って行きますと、道の端に並べてある川石を並べ直しておられるご婦人に出会いましたので、同じ質問をしました。3回ほど教えてくださいましたが、よく聞き取れません。もう、80歳ぐらいにはなろうかと思われる方でした。言葉がうまく喋れないのですと言われましたので、それだけで失礼しました。

5mも歩きますと、左折した所に伊勢神宮独特の白木で造られた社がありました。

Takihara1_2

Takihara2_2
 
 写真を撮るのが楽しみでしたのに、全部、ぶれていたり、見るに堪えないものばかりでした。辛うじて、この2枚が助かりました。
 左の写真の真後ろに先ほどの山があることになります。

ここで、ゆっくりしていましたら、先ほどのご主人がやってこられました。歴史のことがお好きらしくて、質問する度に教えてくださいました。この多岐原神社は、手持ちの知識では、伊勢神宮の摂社であることと式内社であることぐらいで、他には何も知りません。

教えていただいたことを書きます。
①神社には、瀧原宮から毎日、お祈りにこられる。
②伊勢神宮と同様に、遷宮が行われること。
③遷宮のときは、白装束の人が、来られて夜間に行われること。建物は、釘は使わないで立てられる。
④写真には写っていませんが、社の前に鳥居があります。3年前のときに、この鳥居の上から1.2mのところまで、川の水が使ったこと。降りてきたときに、そこに田がありましたが、その田も水に浸かったこと。
⑤左の写真の前に道があります。氾濫した川は、その道の下にあり、宮川という川であること。
⑥ この集落は三重県度会郡大紀町三瀬川です。どうして、三瀬というかと言いますと、上流から流れてきた川は、集落のところで狭くなっているそうです。三つの瀬があり、この瀬の所しか、川を渡ることはできないそうです。その内の一つが最近まで利用されて、渡しが残っていたそうです。
⑦ 伊勢から熊野へ行く街道筋であったらしく、この渡しでは、江戸時代には、宿が5,6軒あったことが記録に残っているそうです。
⑧はじめに、お尋ずねしました山の名前は、「ゴウド」でした。   

反対から見た多岐原神社の写真があります。
http://www.genbu.net/data/ise/takihara2_title.htm

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2007.11.18

No78 瀧原宮と倭姫命世記

瀧原宮で頂いたしおりは、伊勢神宮に残されている【倭姫命世記】を参考にして書かれています。
【倭姫命世記】は、神道五部書の一つで、五巻からなります。 768年禰宜五月麻呂の撰録と伝えられるが、鎌倉時代、伊勢外宮の度会氏が編纂したものとされています。

その全文は、【倭姫命世記】
http://applepig.idv.tw/kuon/furu/text/sintou_gobusyo/yamatohime01.htm においてみることができます。
この中の瀧原宮に関する部分を書き出します。
 従其処指河上乎幸行波。砂流速瀬有支。于時真奈胡神参相渡奉支。其瀬真名胡御瀬号弖御瀬社定給支。
従其処幸行。美地到給奴。真名胡神爾。国名何問給支。大河之滝原之国止白支。其処乎宇大之大字禰奈乎為天。荒草命茢掃天。宮造令坐支。此地波。皇太神之欲給地波。不可有悟給支。其時大河自南道。宮処覔爾幸行爾。美野爾到給支。宮処覔侘賜比。其処平和比野止号支。

翻訳は、
そこから河上を指して幸行すると、砂流れる速き瀬があった。真奈胡弓神が現はれ参上して、御船をお渡しした。その瀬を真奈胡御瀬となづけて御瀬社を定められた。

 そこから幸行して美き地に到った。真奈胡神に、「国の名は何そ」と問ふと、「大河の滝原の国」と申上げた。その地に、宇大の大宇祢奈に荒草を苅り掃ひさせ、宮を造って坐さしめたが、この地は、皇太神の欲ほし給ふ地には有らずと悟った。また大河の南へ宮処を求めて幸行するに、美き野に到って、宮処求め侘びて、そこを和比野となづけた。

上に書きました「そこから河上を指して幸行すると」のそこからは、ここに書かれている前の「相鹿瀬」のことです。新たに落ち着ける場所を求めて、河上に向かわれたことになります。
 三瀬の渡しのところに、御瀬社を定めたとあります。これが現在、三重県度会郡大紀町三瀬川に鎮座します多岐原神社です。祭神は、女性の麻奈胡神。皇大神宮の摂社です。

宇大の大宇祢奈に荒草を苅り掃ひさせ、宮を造ったとあれます。これが、現在の瀧原宮です。ここも満足できず、和比野に行かれたことになります。

No26において、瀧原宮のしおりに書かれている由緒を書きました。それと、此処に書きました倭姫命世記の記述は、ほぼ、同じものです。

【倭姫命世記】は、 「768年禰宜五月麻呂の撰録と伝えられる」と書きましたが、これは伝承とされ、正しいとは限りません。「鎌倉時代、伊勢外宮の度会氏が編纂したものとされています」

瀧原宮と多岐原神社は、両方とも式内社です。ということは、延喜式年間には、両社ともに、存在したことになります。全国に延喜式内社は3000を超えますが、式内社が、数年で決定したのではなく、長い年月をかけて、最終的には延喜式格に掲載されたことになります。
倭姫命(やまとひめのみこと)は、第11代垂仁天皇の第4皇女。母は皇后日葉酢媛命です。第10代崇神天皇の御代に、宮中でお祭りされていました天照大神は宮中でお祭りするわけにいかなくなり、皇女豊鍬入姫命にお世話をする役を任せますが、倭姫命が後を継ぐことになります。
倭姫命は天照大神が鎮座されるところを探されたことが、720年に完成した日本書紀に書かれています。
どのように探されたかは、宇陀の篠幡に行った。次は近江国に入り、美濃を巡って伊勢国に至ったとあります。
 天照大神が言われるには、「伊勢国はしきりに浪の打ち寄せる,傍国の美しい国である。この国に居りたいと思う」といわれました。そこで大神の言われるままに、その祠を伊勢国にたてられた。そして斎宮を五十鈴川のほとりに建てた。これを磯宮という。天照大神が始めて天より降られたところである。

天照大神を奉斎する地は、『倭姫命世紀』によると、次のような順番で変遷した。

1倭笠縫邑 2.丹波国吉佐宮 3.木の奈久佐浜 4.宮倭伊豆加志本宮 5.吉備名前浜宮 6.弥和の御室嶺上宮 7.宇太乃秋宮 8.佐々波多宮 9.伊賀隠市守宮 10.伊賀国穴穂宮 11.伊賀国敢都美恵宮 12.淡海甲可日雲宮 13.近江国坂田宮 14.美濃伊久良河宮 15.尾張国の中島宮 16.三河国渥美宮 17.遠江国浜名宮 18.伊勢国の桑名野代宮 19.鈴鹿国名具波志忍山 20.阿佐加藤方片樋宮 21飯野高宮 22.佐々牟江宮 23.伊蘓宮 24. 滝原宮 25. 久求小野宮 26. 矢田宮 27.家田田上宮 28. 奈尾之根宮 29. 伊勢渡会宮    
           
  「皇大神宮儀式帳」によれば
A..宇太乃阿貴宮 -宇太佐々波多宮 -B.伊吹穴穂宮 -C.伊吹阿閇柘植宮 -D.淡海坂田宮 -E.美濃伊久良賀宮 -F.伊勢桑名野代宮 -G.鈴鹿小山宮 -H.壱志藤方片樋宮 -I.飯野高宮 -J.多気佐々牟江宮 -K.玉岐波流磯宮 -L.宇治家田田上宮.
平成12年10月2日に、「天照大神の伊勢遷祀と元伊勢」
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page201.html
のタイトルで元伊勢のことを書いています。今読みますと、自分の文章が良く理解できません。
 『倭姫命世紀』に書いてある神社を、すべて周りますと、天照大神がどうして伊勢に祀られたのか判るだろうと訪れました。書いたものの良く判りませんでした。
その後、考えることは続けまして、タイトルを「元伊勢物語」
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page199.html

上に書かれている元伊勢以外にも、私たちのところも元伊勢だと言っているところがいっぱいあります。
前に書きましたように、日本書紀には、少し書いてありますが、古事記には書いてありません。
一か所に滞在した日数が、4年ぐらいが多いということは、4年で出来ることをしながら、天皇家の勢力を伸ばそうとしたのではないかと考えました。しかし、その証拠は見つかっていません。古事記の編纂者である太安万侶は書きたくなかったか、調べはしなかったのでしょうか?
知っていたが書きたくなかった。書いたけれども、誰かが末梢してしまった。

いろいろ考えることは可能ですが、その証拠となりますと用意できません。その時まで、待つことにします。

次回は 多岐原神社のことを書きます。 

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2007.11.15

No77 瀧原宮と瀧原竝宮と多岐原神社 3

No76からの続きです。
疑問その2  
「宮川下流の磯宮をお発ちになり、上流の方に御鎮座の地を求めてお進みになると」
とありますが、「宮川下流の磯宮」とは、どこでしょうか?

日本書記の垂仁天皇の25年の所に、「到伊勢国。時天照大神誨倭姫命曰。是神風伊勢国。則常世之浪重浪帰国也。傍国可怜国也。欲居是国。故随大神教。其祠立於伊勢国。因興斎宮于五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大神始自天降之処也。」と書かれています。アマテラスが言われるには、「・・・・傍国の美しい国だ。此の国に居りたい。・・・・伊勢国にその祠を立てられた。そして斎宮を五十鈴川のほとりに建てた。これを磯宮・・・・」と。
ということは、今の内宮を磯宮と読んだことになります。
 しかし、内宮は、五十鈴川の下流にありますが、宮川下流にはありません。もし、磯宮が内宮であれば、「上流の方に御鎮座の地を求めてお進みになる」必要はありません。
瀧原宮 参拝のしおりに書かれている磯宮は、倭姫命が御巡幸した中に、磯宮・伊蘓宮がありますから、これかも知れません。
三重県伊勢市磯町1069 に 、磯神社があります。ここも以前は、違うところにあったそうですが、この神社ですと、「宮川下流の磯宮」に一致します。しかし、磯神社は伊勢神宮の百二十五社に入っていません。

「宮川下流の磯宮」は、磯神社でもなく、日本書記に書かれているように、先ず、宮川の下流に、祠を建て、近くに斎宮を建てたのではないでしょうか? このことは、また、別の機会に書こうと思っています。

疑問 その3
「両宮とも皇大御神の御魂を奉斎しているのは、」とあります。御魂とは、どのようなものでしょうか? 又、広辞苑で調べることになります。ミタマで検索しますと、「御霊」はありますが、「御魂」はありません。他の方法で調べますと、
神の御魂(みたま)には「荒魂」(あらみたま)としての働きと「和魂」(にぎみたま)と言う
働きがあると考えられているとあります。

荒魂とは神の荒ぶる魂であり、天変地異を引き起こし、伝染病を流行らせ、人心を荒廃さ
せて戦争へと駆り立てるのです。これに対して、和魂とは優美で穏やかな魂を指し、人間
に自然の恵みをふんだんに与え、人類社会を平和に導くのです。
さらに和魂には「幸魂」(さきみたま)と「奇魂」(くしみたま)と言う二種類の作用がある
とされていますが、簡単に申し上げますと、幸魂は狩りや漁の収穫をもたらすものであり、
奇魂とは、人間に不思議な奇跡をもたらすものとされています。・・・・・と解説されています。これは、「御霊」とは確かに違うような気がしますが、一層理解困難になります。
ご由緒は、いい加減なことを書いてと思っていましたら、この文章の元になるものは、伊勢神宮に残されている【倭姫命世記】というものと、殆ど内容が同じであることが、判りました。
次回は、【倭姫命世記】のことを書いてみます。

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2007.11.11

No76瀧原宮と瀧原竝宮と多岐原神社 2

鎮座の由来 (瀧原宮 参拝のしおり より)
 第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が、御杖代(御使い)として天照坐皇大御神を奉戴して、宮川下流の磯宮をお発ちになり、上流の方に御鎮座の地を求めてお進みになると、砂をも流す急流の瀬があり困っておられたので、真奈胡神(まなこのかみ)がお出迎えをしてお渡し申し上げた。
そこで命はそのところに真奈胡神をまつる御瀬社(みせのやしろ)をお定めになったのが、今の皇大神宮摂社「多岐原神社」であるという。瀧原宮の下流約6Km
大宮町三瀬川の宮川に臨む断崖の上に鎮座されている。近年までここに熊野街道の「三瀬の渡し」がありました。
倭姫命はさらに真奈胡神の案内でお進みになると、「大河の瀧原の国」という美わしい土地があったので、この地に草木を刈り払って新宮を建てられたのが、瀧原宮の起源です。
 そののち皇大神宮の御神意によって、再び伊勢の方へ向かわれたので、瀧原に御滞留の期間はさほど長くなかったと思われます。この御由緒によって御遷幸後もかわることなく、皇大神宮を奉斎して今日に至っています。
なお、両宮とも皇大御神の御魂を奉斎しているのは、皇大神宮に皇大御神を奉祀し、同別宮荒祭宮に皇大御神の荒御魂を奉斎する姿の古い形と考えられます。

以上です。
 意地が悪いようですが、この由緒では納得いきません。納得いかない点を検討してみます。
その1 御杖代(御使い)
 御杖代の意味が判りません。神社の方は、解からない者のために、(御使い)と書いておられます。誰が使いに出したのかと言いますと、その時の天皇だと思われます。では、どのような使いをするのかが、理解できません。「御杖代(御使い)として天照坐皇大御神を奉戴して、宮川下流の磯宮をお発ちになり、上流の方に御鎮座の地を求めてお進みになると」と書かれていますが、「奉戴」するとは、具体的になにをするのでしょうか? 天照坐皇大御神は、亡くなられて遺骨もないと思うのですが・・・。
 そこで、カシオの広辞苑/マイペディアで調べますと、
大神・天皇などに、その杖代わりとなって奉仕する者。多く、伊勢神宮の斎宮(さいぐう)にいう。皇太神宮儀式庁「豊すき入婦命を以て御杖代として」と例を挙げています。
 使い方として、伊勢神宮のことが例として挙げられていますから、説明になりません。参拝しおりよりは、判り易いですが、杖代わりとは具体的になにを指すのか、馬を引いた人も入るのかと屁理屈をこねますと、広辞苑の説明は正しくないことが判ります。御杖代となった皇女倭姫命は、上流の方に御鎮座の地を求めることが、仕事であったと書いてあります。一人で、探すことはできませんから、仮に100人の集団で行っていたとしますと、皇女倭姫命は、その集団の責任者ということになるでしょうか?
そこで、インターネットで御杖代をキーワードにして検索しましたら、出雲の「火継式」のことを書いた文の中に、御杖代がありました。その一部を記します。

「火継式」とは國造代替わりの襲職儀礼で代々の國造が仕えてきました。「火継式」の「火」は「ヒ」すなわち「霊(ヒ)」であり、 始祖神天穂日命の御霊威(ごれいい)を継承する儀礼です。この火継式により、代々の國造に天穂日命が生き通し、
御杖代(みつえしろ:大國主大神様の御霊威が宿る存在)として大國主大神様に仕えます。
http://www.izumooyashiro.or.jp/kokuso/kokuso2.html

難しいですね。書いた人は判っておられるのでしょうが、また、意味が判りません。国造を交代するときに、「火継式」をすることによって、国造の始祖に当たる神天穂日命の霊がのりうつるのでしょうか? いや、霊ではなく、御霊威なのだ???
神天穂日命の神は、どうしてついているのでしょうか? 天之菩卑能命、天穂日命、天菩比神ならわかるのですが・・・。
 天穂日命は、アマテラスとスサノオが誓約をしたときに、アマテラスの右のみずらに巻いた勾玉から生まれた。物実の持ち主であるアマテラスの第二子とされ、アメノオシホミミの弟神にあたのます。葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主を説得するうちに心服してその家来になってしまい、地上に住み着いて3年間高天原に戻らなかったと古事記に書かれていますが、その後ろの所に、天穂日命は漢人であるから気をつけるように書いています。
 出雲だけではなく、その他の国造も、同じ漢人ですよと書いています。
お解りですか? 先に紹介しましたページは、「第84代出雲國造千家尊祐(たかまさ)様火継式」のことが書かれています。
出雲は伊勢に次いで、式内社が多いです。出雲大社は、伊勢神宮と同様に、藤原氏の勢力が及んだ式内社に囲まれて、身動きが取れないようになっていました。
式内社分布 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html

祭神である大国主も出雲大社のことも、日本書記は書きませんでした。

又、話題がそれましたが、御杖代は、広辞苑にありました「大神・天皇などに、その杖代わりとなって奉仕する者。」は正しいことになります。ただ、出雲と伊勢において通用する言葉であるらしいです。
出雲のことから、考えますと、天皇が変わりますと、天皇が自ら、儀式をしてアマテラスの偉大なる力を頂くことになるのに、それはしないで、どうして、皇女倭姫命に任せることになったのでしょう。その後、天皇が、そのような儀式をすることもなく、伊勢神宮に参拝することは、持統天皇と明治天皇まではありませんでした。
 これをどのように理解するのか、皆さんで考えて頂きたく思います。
これで、私の御杖代の疑問は終わりにします。

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2007.11.08

No75 瀧原宮と瀧原竝宮と多岐原神社 1

No66から志摩国の式内社のことを調べて書きました。志摩国には、式内社が少なくて3座しかありません。インターネットで調べると、多くの人は、3座のうち、2座は、内宮別宮である伊雑宮と伊雑宮の所管の佐美長神社とされ、もう一つは、安楽島町の伊射波神社であるとされています。
 しかし、私は、これは間違いで、延喜式神名帳には、
粟嶋坐伊射波神社二座
粟嶋坐神乎多乃御子神社
 と書かれてあり、粟嶋は安楽島の古名です。従いまして、粟嶋は現在の安楽島町になりますから、伊雑宮と佐美長神社を志摩国の式内社に比定することは、間違っていますと書きました。

伊射波神社は、イザワジンジャです。伊雑宮もイザワノミヤというように、「イザワ」と読むことができないのに、無理やりに読ませています。これは、日本書記が、徹底的に古事記に書かれている漢字を書き換えた手法と同じことをしていると感じます。まだ、結論を出すことはできませんが、伊雑宮は、藤原氏によって造られた神社ではないかと想像しています。

今回は、タイトルに書きましたように、全部「タキハラ」と読む神社の名前になっています。「イザワ」のときと、同様に、瀧原宮と瀧原竝宮は、藤原氏が、後の世に別宮として造ったのではないかと。その証拠となるようなものがあるかどうか。そこで、今回も、11月3日、4日と現地に行ってきました。

私が、収穫してきたことを書きます。できれば、どなたかが、又、行かれまして、もっと他のデーターを収集して頂ければと思っています。

 瀧原宮と瀧原竝宮は、伊勢神宮の内宮に所属し、宮域外に八つある別宮の一社です。
http://www.isejingu.or.jp/naigu/naigu2.htm 
祭神は、天照坐大神皇大御神御魂
所在地は、三重県度会郡大紀町滝原872。
 伊勢神宮のホームページに書かれている瀧原宮を訪れますと、社務所とみられる建物(宿衛屋)の裏へ下る道があります。川幅5m ぐらいの川に出ます。御手洗場です。川の名前は、頓登川です。この川は、大内山川といい、延長約40kmの宮川第一の支流である大内山川に合流すると思います。(不確かです)
奥に正殿が二棟あり、左が瀧原竝宮、真ん中に瀧原宮があります。右に、やや小ぶりの若宮神社が南に向いて並んで鎮座しています。瀧原宮と瀧原竝宮の鰹木は、6本です。若宮神社(祭神—若宮神)も、6本ですから若宮神社は、瀧原宮と瀧原竝宮と同じ格であることになります。(若宮神社の左には御船倉があります)
東に位置するところには、もう一つの社があります。長由介神社です。この神社には、川島神社が一緒に祀られています。社の建て方は、他の社と同様ですから、古くからあるように思われますが、詳細は不明です。 
 ということで、瀧原宮には、5つの神社が祀られています。この敷地の東側に、同じ広さの空き地があります。ここは、古殿地と呼ばれ、20年毎に行われる式年遷宮の代替え地です。

瀧原宮の鎮座地は上に書きましたが、どこにあるかと言いますと、伊勢神宮の外宮の西側に宮川があります。この川を40Kmほどさかのぼったところにあります。別宮では、最も遠い所にあります。
伊勢神宮のなかには、多くの謎がありますが、瀧原宮の位置が遠すぎるのも、その一つになります。それに加えるに、瀧原宮の隣に瀧原竝宮があることも謎です。また、同じ敷地に、若宮神社と長由介神社と川島神社があることも謎です。

もう一つの謎を書きますと、瀧原宮と瀧原竝宮と、やはり別宮である伊雑宮は、「延喜式」には、「大神の遙宮」すなわち遠隔の宮という説明は付けられていますが、祭神名は記されていません。ところが、神社の由緒にも、目にした本にも、天照大御神の御魂を祀っていると書いてあります。

これ以上のことは、瀧原宮で頂いた「参拝のしおり」ぐらいです。
次回は、この謎に挑戦してみようと思います。

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2007.11.06

No74 志摩に見られる難読地名

前回、志摩に見られる難読地名をあげておきました。読むことができたでしょうか?

今浦、本浦、浦村町 生浦おうのうら、石鏡いじか、国崎くざき、麻生おおの、相差おうさつ、畔蛸あだこ、安乗あのり、阿瀬あせ 波切なきり
安久志、安楽島あらしま-、加布良崎かぶらさき、千賀せんが、安来、的矢、阿津麻利崎、畔名あぜな、甲賀こうか、和具わぐ、越賀こしか、大王だいおう、御座ござ、阿児あご、英虞あご、飛海、立神たてがみ、麻倉島、阿曽あそ

波切---平城京から出土した木簡より、同地地名がいくつか発見されている。年代がわかっているもっとも古い木簡は天平17年(745年)であり名錐の地名が、それ以前と思われる(年代不詳)ものからは魚切里がそれぞれ見られる。平安期に書かれた和名抄にも名錐、神鳳鈔では名切、吾妻鏡では菜切と書かれている。
畔名--神鳳鈔に安瀬名とある。
立神---三重県の立神は、どのようにして名が付けられたか調べていません。
   参考立神コレクション  http://uub.jp/nam/tategami.html
  上の立神を眺めますと、鹿児島が多いです。鹿児島市内の立神をクリックしますと、近くに地名「日置」が見えます。一志郡一志町,にも 日置があります。

自分が、前もって読んでいた地名が。全く違う地名が多かったというだけのことです。

ただ、読むことができない地名は、ユダヤ人と関係があると考えているだけです。

大王は、イザナギと関係? 、御座は、天皇がおられた所?
その他には、「あ」と「お」の字がつく地名が多い?
海岸に近いところが多い。
阿曽あそは、阿蘇と関係はないか?

このようなことから、
①神武天皇が東征のとき、一時おられたのでは?
②ユダヤ人も住んでいたのでは?
③測量の得意な日置さんが、おられたのではないか?
  今後の研究課題です。

日置地名 http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page179.html
随分、以前に調べようとして断念したページです。

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