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2007.12.30

四ツ塚古墳   page—12

田村誠一書簡集
 第一話 神々のふるさと ヒルゼン      昭和55年11月21日
◆  四ツ塚古墳   page—12
広いヒルゼンに一本だけ、白煙を上げている煙突がある。けいそう土の工場でふる。この近くに縄文時代の四ツ塚古墳がある。
稲作が普及しだして、弥生時代の幕開けだから、稲作を一番最初に始めた証明には、縄文時代の古墳がないと困る。
 古事記に興味のある人は、イザナギの命が、天照大神の高天原を、スサノオの命に海原を治めよと命令された。高天原とはヒルゼンで海原とは海の近くの平野すなはち、倉吉平野をあてがわれた。
 今一人の月読命には福知山盆地の、夜久野をあてがわれた。これは別稿で述べたが、ここも沢山の縄文の古墳が発見された。
天照大神はヒルゼンから、丹波の大江山の麓に移って余生を送られた。ここは夜久野の隣りで、御二方は仲よく、大江山の麓の、皇大神社に祭られのである。
 美作の縄文時代の古墳が、山奥のチベットのヒルゼンに集中していることをね津山市史が教えてくれている。これこそ、ヒルゼンに、大量の稲作の天孫民族が居った証拠である。

私よりの伝言---夜久野町は、福知山市に合併されました。夜久野町の資料館において、市制施行70周年祈念展覧会がありました。 会期の最終回にぎりぎり間に合いまして、冊子を頂戴しましたが、そこに掲載されていました遺跡分布図や一覧表が、「福知山の文化財」に掲載されていますので、コピーして見てください。
 地図の左側、兵庫県に近い方が、夜久野です。ここに、400番台の遺跡が、いっぱいあることが判ります。
この冊子に「今一人の月読命には福知山盆地の、夜久野をあてがわれた。これは別稿で述べたが、ここも沢山の縄文の古墳が発見された」と書かれていましたので、
私も以前に泊まりがけで行き、この辺りを走りまわりました。
 当時は、福知山市ではなく、夜久野町でした。資料館で資料がほしいと言いましたが、ありませんと言われました。今、夜久野町史を作っている最中ですからと言われ楽しみにしていましたが、立派なのはいいのですが、高価でよう買いませんでした。
 どこの町でも、このようにホームページに掲載して頂きますと、遠くまで行かなくて済みます。
田村氏は、沢山の縄文の古墳が発見されたことをどうして知っておられたのでしょう。

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2007.12.29

山の辺の道   page—11

ヒルゼン銀座までの15キロは、最近出来たバイパスである。景色が見えない単調な道である。この北側に旧道がある。これが古代の道である。
 奈良には山の辺の道がある。これに似ている。最近の調査で大和は神武天皇の頃には、海抜65米まで、海だったことが分った。山の辺の道はこの65米の所にあった海岸沿いの道だった。
 ヒルゼンもゼロ世紀には旧道が沼のほとりを通っていたのではなかろうか。湖底だから平らで、じめじめした葦の繁った所だったと想像される。
 日本最古の道であり、山の辺の道が、奈良より早く出来ていた。
 道は物々交換が行われるまでは不用である。物を盗られないためには、万里の長城の様に道をふさぐことが必要だった。
 ゼロ世紀にヒルゼンには、何万人かが、住んでいたので道は大切だった。この様に考えながら歩かれることだ。

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2007.12.27

ヒルゼンは湖底だった   page—10

旭川の源流に行くのに、峠を越えなければならない、変わった所である。
蒜山高原と呼ばれているが、伊豆、那須、志賀高原の様に、高い所ではなくて、500米 (標高差)位の山に囲まれた盆地である。
 太古にはヒルゼンは一大湖水であった。従って蒜山高原は湖底である。ここはけいそう土の世界的産地である。
 東西20キロ、南北10キロの高原に、1本だけ煙突がある。ただ一つのけいそう土の工場である。けいそう土とは、けいそう(珪藻)、すなはち藻の化石である。
顕微鏡でないと、見えない位小さな化石が1000万トンも、埋蔵されている。気の遠くなる、年数である。
 酒と薬の製造に欠かせなすから、ご厄介にならない人は居らないだろう。
 蒜山高原と聞かれて、伊豆高原の様な印象をいだかれても困るが、実は億の単位で計らなければならない間の湖水が、ある日突然、決壊して旭川を作ったのである。けいそう土の化石の上を道路が走っている。

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2007.12.25

表参道(6)   page—9

田村誠一書簡集
 第一話 神々のふるさと ヒルゼン      昭和55年11月21日
◆  表参道(6)   page—9
ヒルゼへはダムの湖畔を通らずに、坂を登る。熊居峠を越えればヒルゼンだ。ここから更に15キロ先に蒜山国民休暇村のある、ヒルゼン銀座がある。
 ヒルゼンは川上村と中和村から成り立っている。川上村と書いて、カワカミソンと重箱読みである。
 チベットでは地名からの魚の名まで、既成の知識が通用しない。 例えば渓流の女王はアマゴだが、これは天魚と書く。天とはヒルゼン周辺のことで、天ノ原、天ノ香山、天ノ岩戸がよい例だ。
 天魚は瀬戸内海に注ぐ川と紀州の川に住むアマゴだけが、パーマークと称する、銀のだ円マーク付きである。神の国から流れた川の身分証明である。
 天魚(アマゴ)の他国育ちは山女が普通である。しかし、ヒルゼンでは平女(ヒラメ)と呼んでいる。ここでは山でなくて、平野に育ったせいだろう。ここには川女(カワメ)もおよいでいる。いずれも美味しい魚である。

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このページは、途中までです。 あまりにもコメントが多くて、コンピューターが壊れる寸前です。 上記より以下は削除しました。

コメントは書きこまないでください。

【楽しい人生】のブログは、近日中に閉鎖しようと思っています。 長いことありがとうございました。


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2007.12.23

No83 度々洪水に見舞われた伊勢神宮内宮

斉宮の研究は進んでいまして、いろいろのことが判ってきたようです。制度が確立したのは、天武天皇の御代になってからとされています。そうなりますと、現在斎宮跡とされているところは、あまりにも、内宮から遠すぎるように思われます。制度は、天武の御代ですから、680年頃ですが、内宮が出来たのは、宮中に祀られていたアマテラスが、追い出されたのは、崇神天皇の御代ですから、西暦180年頃になります。それから、元伊勢と称せられるところで、4年ぐらい滞在しながら、巡行を繰り返しながら、伊勢に落ち着かれましたから、100年はたっているでしょう。280年の頃でしょうか?
 この時に、斉宮も神社も近くに建てたと思われます。
ということは、400年ほどたってから、斎宮は、立派なものになったと思われます。最も、その前に、外宮が丹後のほうから、豊受の神を呼び外宮に祀られました。
伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている。450年ころのことです。
 この頃は、倭の五王と言われている中国人が、勢力をもっていた時代で、丹後も大きな古墳からは、漢鏡が出土していますから、中国人の圧力で、外宮が作られたのではないかと、推察はしていますが、証拠はなしです。
 少し、調べたところでは、内宮と外宮は、アマテラスの食事の世話どころか、仲が悪かったようですし、江戸時代までは、外宮の方が、力が強かったようです。この辺りのことを調べるとしますと、新しい課題となります。
 
 現在の外宮である豊受皇大神宮の所は、海抜4mですから、海岸の近くに建てられたと思われます。一方、斎宮跡は13m、勝見 10m、明星 10m、新茶屋 10m、明野9m、新出 8m あげました地名は、道路に沿ってある地名を見ました。海抜が殆ど一緒ということは、この道は、昔から使われていた道だと思います。
 地図をご覧下さい、。この道路の名前は判りませんが、この道だけ曲がっています。その田はまっすぐですから、古いことが判ります。この道は、明野にきますと、集落が途切れています。きっと、この辺りは、洪水があったと思われます。JR宮川駅のところに、離宮院跡があります。ということで、現在の内宮、外宮に行くときは、この道を通った可能性が大きいです。宮川橋を渡りますと、外宮です。
離宮院は、斉王が伊勢神宮に、年3回訪れるときに、宿泊したところです。離宮院から外宮までの地図ありますから、
http://www.yokoyama-vc.jp/marugoto/walking60/12.pdf 
クリックして、拡大してから見てください。

内宮ははじめに、どこに造られたかですが、私は斎宮の近くであったのでは無いかと推察しています。即ち、斉宮から離宮院までの間にあったと考えています。
続けてかきますと、長くなりますので、次回にその理由を書こうと思います。

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2007.12.21

表参道(5)   page—8

旭川の鉄橋を渡ると神戸(ゴウド)である。
 神戸をカンベと読むときは、神主の居った所で、全くべつものである。
  ここは湯原町に合併前は社村であった。社のデパートのあった所である。1200年前に美作に由緒のある神社が10社あった。この中の7社がこの社村にあったのである。
  天孫降臨とはヒルゼンの高天原から、倉敷平野に生まれたてのニニギの命が山を降りて行ったことである。これは紀元57年より程遠くない時だったと思っている。
 この時の護衛役が天ツ久米命だった。この神の根拠地が、ここだったと思っている。
 ここは久米国の玄関口である。神武天皇東征には、この子孫の大久米命が兵隊の頭だった。従って神社が多くあっても不思議はないのである。
  湯原には大きな湯原ダムがある。湖岸だけで10キロの立派な道路がある。しかし、新緑を眺めなから湖畔ドライブを愉しむ人もまれである。ダムのエン堤から、真下の露天風呂だけ眺めて、肝心の景色を見ないのは惜しい。

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2007.12.20

◆表参道(4)    page—7

田村誠一書簡集
 第一話 神々のふるさと ヒルゼン      昭和55年11月21日
◆  表参道(4)    page—7
 これからヒルゼンまでは、旭川に大部分は沿ってさかのぼる。川の名前は一体誰が付けたのだろう。これもクイズだ。少なくとも旭川はヒルゼンの人が付けたのだうと思っている。
 ヒルゼンでは、この川は10キロも真東に流れているのが根拠である。
 余談はさておいて、勝山の町を外れると神庭(カンバ)である。ここには中国一の立派な神庭ノ滝がある。新緑と紅葉は特に美しい。
 神々が集まって酒を酌み交わした所ではないだろうか。お酒なら勝山には御前酒と神にふさわしい地酒がある。
 10キロも進むと湯原温泉である。湯本の地名がの外に真賀、足(タル)、緑郷がある。似た地名が、よそにあるだろうか。
 湯本の〝湯〟はもちろん温泉のことだ。しかし、湯原の〝湯〟は別の意味だと考えている。
 これから訪れる先に温泉の出ない所に、湯船川とか湯船山等が見付かる。恐らく中国古代の湯の国から由来するものと思っている。これも地図を歩く愉しみである

私も一言--田村氏は、ヒルゼンに小さな庵を構えられたのだと思います。この小冊子の発行所が 岡山県真庭郡川上村上福田1205 になっています。ここに常に行かれたと思います。私書箱の受取所が、私書箱 川上局 2号です。 こんな山奥で私書箱を開設されたのは、2番目だったと思います。 仕事場は、大阪市内でしたから、日曜日のたびに、ヒルゼンへ行かれたのだと思います。だから、上に書かれたところは、常に走っておられたはずですが、旅行案内記ではなくて、皆さんに地図で旅行をしていたこう、そして地図の上で、旅行をして、自分で新しいことを発見して頂こう。地図を見る楽しみを書いておられます。田村氏の意気込みが感じられるページだと思っています。
「愉しみ」の漢字をごらんください。いまは、楽しむと書きます。元の古い「楽」は、「樂」と書きます。糸が白の字の横にあります。 熟語では、音楽などと使います。こちらは、音も楽しむ漢字です。「愉しみ」は、ひだり横は、「心」です。田村氏は明治41年生まれでした。 こころから球死んでおられることが、漢字に表れています。
日本の漢字のすばらしさは、ぜひ、後世に伝えたいし、日本人は誇りにしたいと思います。

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2007.12.18

表参道(3)    page—6

地名のおこりを書いた本も多い。叉柳田国男先生が昭和10年から書かれた「地名の研究」も残念ながら、紀元ゼロ世紀の地名には、参考になりにくい。
 漢字が導入される前に、これから訪れる所には人が住んでいた。魏志倭人伝に出てくる狗奴国とは、この勝山から津山にかけての地域であった。恐らく何万人の人が、240年住んでいたであろう。
 奴国とは、米子付近でここには、2万戸あったのである。邪馬台国すなはち岡山市西大寺を中心に7万戸あった。
 高梁川の西岸の
投馬国には、5万戸の人口があったのである。日本の総人口の恐らく5割以上の人が240年頃には伯耆から吉備にかけて住んでいたので、地名も紀元ゼロ世紀より古い歴史を持っていると考えるべきだ。
 これから訪れる先には神のつく地名が多い。しかしまともにカミとかジンと読むことは全くない。神戸と書く地名もこの付近に何ヶ所かあるが読み方が一律ではないのである。

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2007.12.17

No82 滝原神社と洪水

No78 において、天照大神を奉斎する地は、『倭姫命世紀』によると、次のような順番で変遷したと記しました。その26番目に、矢田宮と書きました。ここは、三重県伊勢市
楠部町字口矢田とされています。楠部町は範囲が広いので、一概には言えませんが、海抜4m~7mの地帯のようです。
 伊勢は、地盤が固いのか、川から離れますと、意外に海抜が高く洪水になっても内陸部まで浸水しなかったのではないかと考えますが、紀元前後ですと、海抜4mぐらいの所は、海だったのではないかと想像しています。

現在の滝原神社のところで、地図を見ますと、ダムが造られていて、これは農業より治水のためではないかと思っています。支流の大内川のほうへ、ダムが伸びていますから、きっと、大内川の方が水量がおおいのかも知れませんが、宮川の方が、渓流が深いのかも知れません。
治水のためにダムが造られているにも関わらず、滝原神社が沈むほどの洪水が3年前にあったということは、下流では昔から3年に一度ぐらいの洪水はあったはずです。

そこで、滝原神社の所から、地名を適当に取り、その場所の海抜を書いてみました。
滝原神社(三瀬川) 61m、--瀬戸 50m、神原(このはら) 48m、黒坂 29m、大久保 18m
岩出 4m、鹿海町 3m、楠部4m~7m、 宇治山田3m、神宮神田 5m

伊勢内宮 9m
如何ですか? 滝原神社(三瀬川)から-瀬戸で10mの落差です。黒坂から大久保までも、同じく10mの落差です。大久保から岩出までは、14mの落差です。岩出以降は、海水が来ていたか、逆流していたはずです。

そこで、私は内宮が作られた時は、現在のところではなく、別のところであったのではないかと考えました。その一つの根拠が、現在のところですと、洪水には遭いませんが、現在の所は、斎宮から遠すぎるのが気に入りません。では、どこに造られたかを検討します。

伊勢神宮を建立したときに天照大神から倭姫命への神託があったことが、記録にあります。『日本書紀』垂仁天皇25年春3月丁亥朔丙申条では「是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國」、『倭姫命世記』では「是神風伊勢國 即常世之浪重浪皈國也 傍國可怜國也 欲居是國」であります。意味は、神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の波の敷浪の帰(よ)する国、傍国(かたくに)の美まし国なり。この国におらんと欲(おも)ふ。と書いてあるのをここに借用しました。傍国を方国、すなわち、大和にくらべて、地方の国ということにしておられる方もおられました。
『倭姫命世紀』は768年禰宜五月麻呂の撰録と伝えられますが、鎌倉時代、伊勢外宮の度会氏が編纂したものとされています。詳しくは良く判っていないようです。
神託の内容は、日本書記と全く同じですから、神社関係の人が、日本書紀を移したことになります。問題は、この文章を神社の人は、信頼したというか、あまり考えずに移したかで、対応が全く異なることになります。
斎宮歴史博物館 http://www.pref.mie.jp/saiku/HP/ のホームページを読んでいますと、プロの研究員の方は、あまり、『倭姫命世紀』に書かれていることを信用されていないようですが、なにもないのに、このようなことも書かないでしょうから、神社の人が、このように考えたでも良いのではないかと思います。

神託は、僅か、これだけです。「是神風伊勢國 即常世之浪重浪皈國也 傍國可怜國也 欲居是國」 なのに、誰も正確に現代文にしておられません。 
意味の理解できない言葉が、4つもあるからです。
(「皈」の漢字は、「帰」と「歸」と同じです)
 神風、常世、傍國、可怜
①神風 は辞書を引きますと、枕詞と書かれています。日本書紀はそれ以前のものですから、昔から、神風という言葉は使われていたのだと思います。
 風神といったかどうか分かりませんが、古事記には、イザナギとイザナミが、志那都比古神(しなつひこのかみ)を生んだと記しています。日本書紀では級長津彦命(しなつひこのみこと)と表記されています。余談ですが、日本書紀は古事記を参考にして作りました。しかし、古事記と同じ漢字は一切使っていないため、どうしても無理があり、級長津彦命は、シナツヒコと読むことはできません。しかし、日本書記は、「長」の漢字を使っていますから、志那都には、息が長い意味があると書いておられる方がおられます。
息が長いと良いことは、海に潜るのにいいのですが、風の神ですから、息吹が長いと製鉄や土器を焼くときに上手くいきます。
 風には、雷神と風神が対になって、害を与えることもありますが、神に祈ることによって、自分たちの都合の良い風を神風と言ったのだと思います。
 
 その実際に神が出てくるのは、奈良の龍田神社に見られます。龍田神社の祭神は、
天御柱命(あめのみはしらのみこと)・国御柱命(くにのみはしらのみことです。同社の祝詞などでは、天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされていています。
『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたとい言います。
天武天皇の所に、「竜田の風神・広瀬の大忌神を祭った」という記録が、元年07月16日まで毎年続けられます。そのことが、気になって、調べたことがあります。私の推理は、奈良の法隆寺の西にある竜田神社の所は、鉄の生産をしていたのではないかと考えて、探りました。この時に、広瀬神社の方は、奈良県の水をすべて集まってくる所にありましたので、天武天皇は、風の神さんに、適当に風を吹かせるように、祈らせたのではないかと思いました。しかし、龍田の鉄の生産は、はっきりしませんでしたが、今でも裏山は、大阪府の柏原市の製鉄が行われたところですから、龍田も関係があったと考えています。その時に考えたことを
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2006/10/index.html 
のNo30~38に書いていますので、読んでください。
 
 長くなりましたが、ここの神風は、神さんが、人間にやさしい風を送ってくれるところだと解したく思います。伊勢の地で、祈りますと、きっと願を叶えてくれるでしょうと。

②常世。 この言葉が難儀です。 そのまま読めば、常に変わらない。永久に変わらない。常世の長鳴鳥、常世の木の実(橘の果実) 、常世の国 (不老不死の国、海の彼方にある国、死人の国) 常世の虫、常世物、常世辺、などとして使われています。すべて、古事記や万葉集などで使われています。
ここでは、いつまでも居たいような国でしょうか? 「浪重浪皈國」波が何度も押し寄せ、返す国とありますかすら、海岸縁にあることになります。楠部4m~7mの矢田は、作ろうと試みたのではないでしょうか? 葦が生えていたように思われます。洪水もやって来たと推察されます。
私は、楠部4m~7mの矢田ではなく、現在、斎宮跡とされている近くの海岸に近い所ではなかったかと思っています。げぐうは、確か、50年ご位に建てられたと思いますが、現在の内宮のほぼ、西の高台の麓に造られています。現在の内宮の海抜は9mぐらいです。
このように見てきますと、
『倭姫命世紀』に書かれていることは、充てにならないと思われていますが、元伊勢の話は、案外、実際にあったことなのかもしれません。

③傍國--傍國の字は、他では、夜傍(夜に近い)とか道傍(みちばた)などと使われています。傍國を「方国」とかいて、地方の国と捉えておられる方もおられましたが、やはり、天皇や皇族が傍におられる国でしょう。
④可怜—これも困ります。可怜をカレイと読まないで、美しい国(うましくに)と書いてあります。美は(うまし)と読むのでしょうか? 殆どの人が、このように書いておられますから、従っても良いのですが、私は、なんども洪水に見舞われた荒れた土地だったと思うのですが、如何とおもわれますか? 「怜」の字は、見慣れない字ですが、辞書をひきますと、憐れむの俗字とあります。憐れむべき土地だけれども、ずっと、住んでみようとなったのではないでしょうか? 紀元250年ころのことだと思います。

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2007.12.16

◆表参道(2)    page—5

田村誠一書簡集
 第一話 神々のふるさと ヒルゼン      昭和55年11月21日
◆  表参道(2)    page—5
 勝山は五万分の一の地図は、同名の勝山だ。ヒルゼンは、湯本に載っている。勝山は旭川と支流、神代川(現在名 新庄川) が合流した所である。
 川に沿った昔のたたずまいが、都会の人にはなつかしい。これから訪れる美作と伯耆の国は紀元ゼロ世紀に天孫民族が、神々と共に開拓した所である。
 紀元前一世紀から、後一世紀にピッタリの年代の現わし方が見つからないし、2000年昔では、偏差が、500年単位に解釈されるおそれがある。紀元元年では、これも偏差は1年になっておかしいだろう。

 これから訪れる所は、過疎地だから、昔の地名がそのまま残っている確率が高い。村でなくて町がいくらかある。町だから拓けていると思っては困る。過疎だから、あべこべに村を合併して、人並みに背伸びしたまでだ。
 従って合併前の名こそ大切である。古代に一番最初に地名を必要とした人が誰だったかを考えることが、古代史を解く鍵になる。

私も一言---今年は全国で、町村の合併が行われました。はじめて行くところでは、変わった町の名前を覚えるだけで大変です。本当に合併した方が、町が活性化するのでしょうか?
二つあった町の名前は、どちらかが、消えることになります。その町の歴史は、100年もしますと、消えてしまいます。そこで、両方の町の名前の一字ずつを取って新しい町を作りますと、両方との歴史が消えてしまいます。

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2007.12.14

第一話 神々のふるさと ヒルゼン --めぐりあい

田村誠一書簡集
 第一話 神々のふるさと ヒルゼン      昭和55年11月21日
◆ めぐりあい
 今年の夏は測候所始って以来の、長雨が八月になっても続いていた。こんなある日、東京と大阪の友人が、わざわざヒルゼンまで、訪ねて来られた。わざわざでないと、一寸来られない、岡山のチベットと呼ばれる所だ。
 この時に、ヒルゼンに高天原があったことを知らされた。そして佐竹先生が著者の≪神代遺跡考≫が贈られてきた。副題が「高天原は日留山高原だった」となっていた。

 昭和三年に、当時勝山中学の教頭であり、英語の先生だった佐竹先生が、僅か一年間でまとめられた原稿である。
 当時こんな原稿を書くことは、不敬罪に相当し、早速京城中学の平教員に格下げされて左せんさせられた。
 この原稿がやっと関係者の尽力で日の目を見たのである。
 小生も商用で日本全国をマイカーで回ったが、ヒルゼン位、古代の都にふさわしい所はないと思ったのである。最初は面白半分に自分でタイプを打ち始めた。  No1--p3
下図は、表紙です。全部で63ページになっています。
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2007.12.13

田村誠一氏に捧ぐ

少し以前から、歴史の好きな仲間に入れて貰って、小字地名に興味を抱くようになりました。調べるうちに、地名は歴史ときっても切れないものであることをしり、、毎年のように市町村の合併が繰り返されて、どんどん地名が消えていくことを寂しく思っていました。すでに、使用されなくなった小字など、当然消えてしまうと考え、膨大な小字をコンピューターに入力することによって、資料の保存と研究を目指しました。
 フロッピーがペラペラの頃で、データーを1000も入れますと、一枚のフロッピーが満杯という状態でした。 一ヶ月掛けて入力したデーターが、何度も一瞬に消滅しながら、全国どころか、まだ、滋賀県全部も終わっていません。
 
 このようなときに、古書店で手にした本が、題名の通り、表紙が金色に輝いている田村誠一著の【燦然と輝いていた古代】総集編 でした。
 書いてあることは平易であるのに、あまりにも、それまでの私が習った日本史と異なるために、いくら辛抱しても頭が受け付けませんでした。この本の前に、いっぱいの本を出版しておられましたので、非売品以外の3冊を購入しました。

 少しは、理解度は増えましたが、私の頭は、拒否を続けます。ただ、どの部分を読んでも、その結論を導いた根拠が、すべてにわたって書いてあります。

田村誠一氏の物の考え方は、素晴らしいと思いながら、ついていけないのです。たとえば、地図を見ていますと、いろいろのことが判ってくると書いておられますが、判りません。田村氏は、何度でも現地へ行ったと書いてありました。私も真似をして書いてあるところへは、全部行こうと思いました。
 著書には、参考にした本の名前が羅列してありました。
例えば、石棺から古墳時代を考える  間壁忠彦  阿蘇の石を使用した石棺分布
のように、すへて、一行で、題名、著者名 この本を読んだら、なにが判るかを書いておられます。私は、殆どの本を、古書店で買い求め読みました。
 こんなことを三年続けていますと、急に頭が田村氏の歴史を受け付けるようになりました。それだけではなく、もう田村氏の説明は、お聞きしなくても、自分でものを考えるようになりました。
 今では、田村氏と同じ道を歩んでいます。今までに考えたことを書くのではなく、考えながら、書いています。そして、どうしても、日本史を理解するためには、古事記と日本書紀の解明・神話はなかったこと・神武天皇の東征は実際にあったこと、これだけは必要と思い、田村氏の真似をして、本の形にしました。

【神武天皇は吉野ケ里を攻撃した】です。別に宣伝をするわけではありません。売れなくても良いのですが、このまま、私がいろいろ、これから30年しらべても調べることができない日本の歴史を、よし、私もやってみようと思われる方が出ることを願って、田村氏が非買品と書いて、多い時には、小冊子ですが、一ヶ月に一回本の形にしておられます。全部で19冊あります。全部持っているわけではありませんが、持っているものをお伝えしようと思っています。
田村誠一氏は、すでに亡くなられましたので、私が勝手に許可なくして掲載しようと思っています。途中でやめることになるかも知れません。一回に一ページずつ、掲載します。

第一回の文章は、【神武天皇は吉野ケ里を攻撃した】の 「あとがき」はこの文から書き始めています。
カテゴリーは「田村誠一氏に捧ぐ」に収めます。
 私の文章と合わせて、読んで頂けましたら、嬉しいです。

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2007.12.10

No81 多岐原神社 その3

No66からNo80で書きましたように、これらのことから、考えますと、伊雑宮と瀧原宮は、藤原氏にとっては、自分たちが天皇家の封じ込めるために、どうしても必要であった拠点であるような結論になりそうです。
それだけではなく、20年に一度の遷宮も、天皇家に財産上の負担を強いるものではなかったかと、意地の悪い想像しています。
しかし、時間というものは、素晴らしいものだと思います。そのようなことが、例え、あったとしても、藤原氏がいなかったら、現在の日本の繁栄はなかったと思えますし、そのような見難い戦いなど、無かったかのように、伊勢神宮の人たちは、日本の平和を願って毎日、祈りを続けておられます。

伊雑宮と瀧原宮も、一度訪れてください。どうして、仕事だと言っても、このような寂しいところで、毎日、昔から行われていることを、ただ、ひたすら守って生活しておられるのだろうと思ってはいけないのだろうか? と思ってしまいました。 
 神社では、ひたすら、神に対して感謝と祈りを続けてこられました。 神社にお参りしていた日本人も、そうだったように思うのですが、神にはお願いをして、感謝はしなかったのではないでしょうか?
現在の社会を眺めていますと、何事に対しても、感謝と祈りが大切なのに、忘れられようとしてい.気がしています。

No80までだけですと、あまりにも、伊勢神宮がかわいそうですので、他に、なにか役割があったのではないかと考えました。

お聞きしたことで、他に、二つあります。
多岐原神社の鳥居の上から1.2mのところまで、川の水が浸かったことです。私が神社まで降りてきたときに、そこに田がありましたが、その田も水に浸かったそうです。河原からどれぐらいの高さの所にあるのか調べませんでしたが、相当高いところにあると思います。このような洪水が頻繁に起こったから、すぐ上流にダムが治水目的で造られたとおもいます。それでも、これほどの浸水があったことになります。
 それだけ、多岐原神社の周囲というか、上流は広大な面積であり、降雨量が多いのだと思います。その水は、大きい川で言います、宮川と大内山川に流れ込み、多岐原神社で合流しています。
 この厖大な降水量で育った杉やヒノキが、大木になって育っています。確か、江戸時代まで、多岐原神社のところは、貯木場があったとお聞きしました。全国に、貯木場は、木場・木代・木部などの地名で残っています。
 話は飛びますが、奈良の吉野に、下市と上市というところがあります。今でこそ、吉野は吉野山の桜で有名ですが、元は吉野の貯蓄場があって栄えたところだと思います。現在も現役です。この吉野山へ行く電車は、下市で右に90度カーブして吉野川を渡りますが、川沿いの国道を東へ進みますと、円錐形の妹山という山が見えてきます。(重要な地点では、目印になるように、円錐形にしたと思っています) この山の麓に、大名持神社があります。祭神は、大名持命・須勢理比咩命・少彦名命です。創祀不明の小さな神社ですが、貞観元年(859)に正一位を奉られていましたが、その値打ちはどれほどのものか知りません。当時としては、大和でこの位は、春日大社と二社のみという格式ですから、その力は相当であったと思われます。
この祭神の大名持命は、延長五年(927に完成した延喜式神名帳 によると、大和国吉野郡十座の一つとして金峰神社とともに名神大社に列せられており、月次(つきなみ)・新嘗(にいなめ)に官弊がささげられています。
 菅原道真らの撰進した史書『三代実録』(901)に貞観元年1月27日、大和国従一位大己貴神正一位とあります。この大己貴神という名前は、大国主神の別名です。しかし、日本書紀では、大己貴神と書き、古事記では、大穴牟遅神と書かれています。

創紀の年代は詳らかではありません。 延喜式には『大名持神社』、同式臨時祭を受ける名神二八五座の中に『大名持御魂 神社一座』とあり、大神分身類社鈔によると、中世には『妹背神社』とも称されまし た。近時は、俗に『大汝言』(おなんじのみや)、音転倒によって『おんなじの宮』 とも云われています。
この由来は、神社の前の吉野川の潮生渕に、毎年、6月30日に潮水が湧出するという伝承があり、吉野川の清水を汲みに、磯城・桜井地方の宮座の当屋がここに来て、六根清浄の禊をし、吉野川の清水を汲み、河原の白石を拾って帰り、地元で祭祀を行う。これを「大汝詣で」と言います。
どうして、どうでもいいことを長々と書いたかと言いますと、延喜式内社は、朝廷から授かった神社ではありません。朝廷が作ったことになってはいますが、藤原氏が構築した法律書(延喜式)に掲載された神社です。式内社は、藤原氏の言うことを聞く神社のみに与えられた称号と言っていいと思います。
ところが、祭神の大穴牟遅神を大己貴神に書き換えることは、断ることが出来なかったのだと思います。そこで、祭神の名前は譲って、神社の名前には、「大穴牟遅神社」ではなく、「大名持神社」と書いて許して貰ったのだと思います。この大名持も藤原氏からは、嫌われたらしく、中世には『妹背神社』と名乗ったり、古くから行われていた行事も、「大汝詣で」と言って、苦しい変え字でごまかしていたのだと思います。
神社をもう少し進みますと、「清滝」という地名があります。持統天皇が、30数回も訪れたという行宮のあったところです。
この「清滝」も重要な拠点であったと考えています。このまま、進みますと、東吉野を通って、伊勢と和歌山へ街道になります。「清滝」は天皇が、奈良から逃げるときの大切なところであっただけではなく、逆に明日香が攻められるときに最初に防御し易いところでもあったことになります。
大名持神社に戻ります。ここで、道は二手に分かれます。左に道を取りますと、旧伊勢街道になり、宇陀を通って、多岐原神社に行くことができます。右を取りますと、清滝です。清滝に一度行ってください。ここは流れの激しい瀬になっています。多岐原神社のところも、三つの瀬がありましたから、三瀬の地名が残っています。瀧原の地名は、滝が多いからではなく、大きな滝がある所は、攻防に都合の良いところであったことが判ります。
伯耆の国では、6ヶ所しか、式内社が獲得できなかった藤原氏ですが、天武天皇・持統天皇の大切なところも、藤原氏に取られたことが判りますが、

 
須勢理比咩命は大国主神の后です。
大名持神社 http://kamnavi.jp/as/yosino/oonamuti.htm

瀧原宮は、伊勢を守るための拠点であっただけでなく、ここに貯木場があったということは、伊勢国の材木の多くは、ここで調整されていたのではないでしょうか?
次回は、しばらく、別宮のことを離れて、内宮がどうして、現在の所に造られた書いてみます。

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