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2008.01.31

資料No9 多度神社

三重県桑名市多度町多度1681  
◆祭神
本宮 多度神社 天津彦根命
別宮 一目連神社 天目一箇命
摂社
新宮社「天津彦根命幸魂、天目一箇命幸魂」
美御前社「市杵嶋比賣命」
一拳社「一言主命」
雨宮八幡社「天之水分神、國之水分神、品陀和氣命」

御祭神の天津彦根命は、天照大御神と速須佐之男尊との御誓約による五男三女の御子神の第三皇子です。『新撰姓氏録』に「桑名首、天津彦根命の男、天久之比乃命の後なり」とあ。天目一箇命は、天津彦根命の御子神であり、『古語拾遺』により、伊勢忌部氏の祖であることが知られる。天照大御神が天の岩戸にお隠れになった際にも、刀・斧を作り活躍された神で、金属工業の守護神(製鉄・金作りの神)である。さらに、雨や風を支配され、生きとし生けるものの命のもととなる農業水産を守護し、諸難を滅し、諸願を成就する神で古来神殿には御扉を設けない造りになっている。

◆由緒
古来より標高403メートルの多度山が、神体山として信仰され、古代祭祀を物語る磐座が山の中腹に存する。社伝によると五世紀後半、雄略天皇の御代に社殿が創建されたと伝えられる。
『延喜式』巻九神名帳の桑名郡十五座のうち「多度神社 名神大」とみえ、いわゆる延喜名神大社である。後一条天皇の御代に、東海道六社の一社にかぞえられ、天皇即位後の御一代一度の奉幣に預る神社として大神宝使が派遣され、宣命・幣帛・神宝が奉られ朝廷の厚い崇敬を受けた。
奈良時代末期に、満願禅師が多度神の託宣を受け、天平宝字七年(763) に多度菩薩を中心とした三重塔二基・法堂・僧房からなる神宮寺(日本で三番目)を建立した。後に国分寺に準ずる扱いをうけ、寺院70房・僧侶300余を数える大寺院となった。さらに、鎌倉時代の弘長元年(1261)には正一位が授けられ、南北朝時代の暦応年間には多度祭の上げ馬・流鏑馬神事が始まったと伝えられる。しかし、元亀二年(1571)に織田信長の兵火にかかり、社殿宝物をはじめ神宮寺も焼失し、一時社頭は荒廃したが、徳川氏が天下を治め平和な世となるとともに、桑名藩主本多忠勝・忠政の支援により本殿以下の社殿・神事が復興された。桑名藩主が松平家に替わった後も、桑名地方の守護神として厚く崇敬され、社殿の造営・社領の寄進が度々行なわれ、藩例として毎月正月には藩士が代参する習しであった。また、当代の庶民の伊勢参宮の折りには、北伊勢大神宮とも称される当神社を必ず参拝した事が「お伊勢まいらば、お多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と謡れていたことからも明らかである。

雄略天皇の御代御社殿創建。
天平宝字七年  763年 満願禅師阿弥陀仏を祀る。多度神の託宣がある。
宝亀十一年   780年 多度神宮寺三重塔建立。
延暦元年    782年  神階従五位下が授けられる。
延暦二十年   801年  『多度神宮寺伽藍縁起並資財帳』撰進。
承和十一年   844年   神階四位下にすすむ。
嘉祥二年    849年   多度太神宮と『続日本後紀』に記される
嘉祥三年    850年   多度神社、官社に列する。
貞観元年    859年   朝廷より神位記、財宝が奉られる。
   神階従二位にすすむ
貞観五年    863年   神階正二位にすすむ。
仁和三年     887年   朝廷より幣帛か奉られる。
延長五年     927年   延喜式」に多度神社名神大、又、同書に多度神宮寺を伊勢国准国分寺に列すると記される。
寛仁元年    1017年 御一代一度の大奉幣に預かる神社となり、後一條天皇の即位に際し、大神宝使派遣される。
弘長元年    1261年  神階正一位にすすむ
元亀二年    1341年  この頃、摂末社百余座、年中七十五度の神事あり。
        1571年  多度神社、多度神宮寺織田信長の焼き打ちにあう。
慶長五年    1600年  桑名藩主本多忠勝神領を寄進する。

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2008.01.30

高天原    page 26

蒜山高原の北側に三つ並んだ、行儀のよい蒜山の中蒜山である。この中腹の、わざわざ
作ったとしか思えない様な台地が高天原である。
 古代に都は自由に理想的な所を選定出来た。反対に立地条件がおかしい所に都はある筈がなかったと考えるべきだ。
魏志倭人伝で邪馬台国九州説の人は、都であった伊都国を山のせまった、糸島半島の海岸線に想定している。これ位立地条件の悪い所に都がある筈はないのである。
 余談はさておいて、高天原は蒜山高原高原全体を見渡せる高台でしかも中央である。
奈良や京都の御座所と同様に、都の北の中央に位置している。  
 周囲からは100米位高い。従って古事記に出て来る、天の浮橋は、足許から拡がって絶えず素晴らしい景色が眺められたことだろう。
 天の岩戸の事件後に倉敷平野に降りるために、次から次と神々を派遣した。この神々はここから蛇ガ峠を通って降りて行った筈だ。

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2008.01.29

資料No8阿射加神社

現在、阿射加神社と称する神社は、
阿射加神社(三重県松阪市小阿坂町120) 周辺地域
北緯34度35分27秒,東経136度28分8秒
阿射加神社(三重県松阪市大阿坂町) 周辺地域→
 の二社ありますが、どちらの神社も、自分のところの神社が、延喜式神名帳に書かれている阿射加神社三座(並名神大)であると称している。

祭神は、猿田彦大神とされています。
別々に一座としても、二座にしかなりませんから、一座は別にあったか、
出口延経『神名帳考証』 佐久御魂・都夫多都御魂・底度久御魂
  橋村正身『神名帳考証再考』 底度久御魂・都夫多都御魂・阿和佐久御魂
  『三國地志』 伊豆速布留神・大國主命・天日別命
のように、猿田彦大神の別名かどうか判りませんが、差人の神の名前がありますから、この三座なのかもしれません。

     
小阿坂の神社の祭神は、阿耶訶大神とも呼ばれ、伊豆速布留神・竜天大神の2神が別に祭られ、大阿坂町の阿射加神社では祭神は、猿田彦大神で、伊豆速布留神、底度久神を併せ祀るとも言われています。
両神社とも、阿坂山の東麓の傾斜面に鎮座しているが、「上世ハ阿坂山上」にあつたのが応仁の乱の時北畠氏が「本社ヲ今ノ地ニ遷」したとする伝えもありますから、元々、阿坂山上の同じ場所にあったのかも知れません。
式内社の総数は3132座ありましたが、それらは総て大社と小社とに区別されてゐました。伊勢国に於いては、式内社総数二百五十三座の内、大社が十八座で、他の二百三十五座は皆小社でした。其の大社十八座の内、七座は皇大神社と度会宮即ち豊受大神宮、七座は其の別宮で、残る四座の内の一座が桑名郡の多度神社、三座が松阪市の阿射加神社です。
松阪市の阿射加神社は、それだけに、特別であることが判ります。

【由緒】承和2年(835)12月従五位下『続日本後紀』
       嘉祥3年(850)10月従五位上『文徳天皇實録』
       斎衡2年(856)正月名神・従四位下
       貞観元年(859)正月27日従四位上『三代実録』
       貞観八年(866)従三位『三代実録』

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2008.01.28

資料No7日本書記における猿田彦神

日本書記の本文では、ニニギ尊が、高天原から降りる様子を次のように述べています。
【時に、高見産霊尊、真床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊に覆ひて、降りまさしむ。
 皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道分きて、日向の襲の高千穂峰に天降ります。
 既にして皇孫の遊行す状は、槵日の二上の天浮橋より、浮渚在平処に立たして、膂宍の空国を、頓丘から国覓ぎ行去りて、吾田の長屋の笠狭碕に到ります】

その後、日本書記は、そこで、神吾田津姫とであって、結婚し、一晩で孕み、3人の子供が生まれたと記しています。
 しばらくたって、ニニギ尊はおかくれになった。天津彥彥火瓊瓊杵尊崩.因葬筑紫日向可愛愛,此云.之山陵.とすぐに死んだように書かれています。

これは、古事記に、次のようなことが書かれているからかも知れません。
【その猿田彦神は、阿耶訶におられるときに、漁をしていて、比良夫貝にその手をはさまれて、海に沈み溺れてしまいました。それで、海の底に沈んでおられるときの名を、底度久御魂といい、その海水が泡粒になって上がるときの名を、都夫立御魂といい、その沫が裂けるときの名を、沫佐久御魂といいます。

さて、天鈿売命は、猿田彦神を送って帰ってきて、ただちに大小の魚たちを追い集め、「お前たちは、天神の御子にお仕え申し上げるか」と問いました。このとき、多くの魚はみな、「お仕え申します」と申しましたが、その中でナマコだけが答えませんでした。
そこで、天鈿売命がナマコに向かって、「この口が答えないのか」と言って、細小刀でその口を切りました。そのため、今でもナマコの口は裂けているのです。
御代ごとに初物の魚介類を献上するときに、猿女君らに分かち下されるのは、これがその起源です】

古事記のこの部分を読んだ日本書記の編集者たちは、猿田彦神は溺れて死んだとかいしゃくしたのでしょうか?
日本書紀の編集者たちは、猿田彦神のことは、どうやら書きたくなかったようです。そのくせ、第8の書まで作り、天孫降臨は、いっぱいの説があるのだと書いています。その中でも、第一の書にのみ、猿田彦神のことを書いています。

【「一柱の神が天の八街にいて、上は高天原から下は葦原の中国までを照らしています。その鼻の高さは七握、背の高さは七咫あまり、まさに七尋というべきでしょう。また、口の端は明るく光り、目は八咫鏡のようで、照り輝いていることは赤酸鞘漿に似ています」

そのため、御伴の神を遣わして詰問させようとしましたが、たくさんの神がいるものの、みな眼光が鋭く険悪な雰囲気になってしまって、尋ねることはできませんでした。
そこで、手弱女ではありましたが、天鈿売に命じて、「お前は眼力が人に勝れた者である。行って尋ねなさい」といわれました。
天鈿売命は、その胸をあらわにむき出し、腰ひもを臍の下まで押しさげて、あざ笑って向かい立ちました。

街の神は、なぜこんなふうにするのか、天鈿売に問いました。
答えて、
「天神の御子がおいでになる道に、このようにいるのは誰なのか、あえて問います」といいました。
街の神はこれに答えていいました。
「天照大神の御子が、今降っておいでになると聞きました。それで、お迎えしてお待ちしているのです。わが名は猿田彦大神です」】

古事記ができた712年には、阿射加神社の祭神は、猿田彦神の三つの御魂である底度久御魂(そこどくみたま)・都夫多都御魂(つぶたつみたま)・阿和佐久御魂(あわさくみたま)が当社の祭神であると言われていたのではないしょうか。

ちなみに、猿田彦神派、海でおぼれたとになっていますが、阿射加神社のあるところの海抜は30mぐらいですから、この辺りが海であった可能性はありません。

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2008.01.27

資料No6日本書紀の猿田毘古神

日本書紀は、本文に当たる(?)部分と、その他の部分に分かれています。この構成をどのように解釈するかによって、日本書紀には、何が書かれているか受け止め方が全く、異なってきます。
 日本書紀は、複数の人で編集されたようです。誰が作るように命じたかは、よく判りませんが、その時の朝廷が命じた、即ち、天皇が命じたようにされています。完成は、720年とされ、古事記は、その8年前の712年完成とされています。
 古事記は、天武天皇が太安万侶に作るように命じたことが、古事記の序文に当たるところに書かれています。
 しかし、不思議なことに、この序文は、太安万侶が書いたのではなく、本文と別の人が書いたというのが、通説でして、翻訳すらされていません。
中西 進著『天つ神の世界』古事記をよむ1において、詳しく、古事記をよむことを試みられておられますが、詳し過ぎて、なんのことやら解りません。意味の解らない部分が、何故、判らないかということを説明し過ぎておられるからだと思います。その書いてある説明が、本文の訳より難しいのです。
 簡単にいえば、私の頭が悪いだけのことですが、意地悪を言えば、この序文は、太安万侶が、誠心をこめた文章だろうと考えています。
 古事記の内容は、殆どが、天皇家血縁関係を述べたものだと考えています。
ただ、本当のことを書きますと、すべて、世の中から、末梢されてしまうことを恐れた太安万侶は、訳のわからないことをかいて、その中に、正しい部分を読んでもらおうとした部分が多くみられます。

このように、いくら書いても、理解して頂くのは、無理だと思い、真正面から取り組んだ時がありました。その成果を【楽しい人生】のカテゴリー「古事記と日本書紀」に書き始めました。
No1 最初が間違ったから書き始めましたが、途中から、続けるのが嫌になり、序文の翻訳に挑戦しています。
No21古事記は何故作らなければならなかったか
No22 古事記の序文 その1
と続けて書いています。古事記の序文には、太安万侶が、壬申の乱のことも、書いています。壬申の乱は、天皇家の内輪争いの様に捉えられていますが、日中戦争であつたことも、それとなく,太安万侶は書いています。
 
話題が随分それてしまいました。
日本書記の本文に当たる部分には、日本書紀の編集者が正しいと思っていること、または、強く言いたいことが書かれています。
 その他の書が多い部分は、読むときには、大いに注意を要するところだと思っています。
天孫降臨というような言葉は、記紀ともにありませんから、誰かが、作った言葉だと思います。
要するに、ニニギ命が、高天原から高千穂にやってきたことが書かれている部分のことです。
このように、解釈しますと、日本書紀の本文には、猿田毘古神についてはなにも書かれていません。日本書紀の編集者は、他の書きものには、こんなのがありましたよと、全部で、八つの書物を掲載しています。この中の「第一書」とされるところには、猿田毘古神のことが掲載されています。

次回には、本文にあたるところと、「第一書」に当たるところを書いてみます。 

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2008.01.26

資料No5古事記の猿田毘古神

猿田毘古神の名前は、古事記と日本書紀に出てきます。古事記にん書かれている猿田毘古神を検討します。
原文
爾日子番能迩迩藝命將天降之時。居天之八衢而。上光高天原下光葦原中國之神於是有。故爾天照大御神、高木神之命以。詔天宇受賣神。汝者雖有手弱女人。與伊牟迦布神【自伊至布以音】面勝神。故專汝往將問者。吾御子爲天降之道。誰如此而居。故問賜之時。答白。僕者國神。名猿田毘古神也。所以出居者。聞天神御子天降坐故。仕奉御前而。參向之侍。

翻訳文
 ここに日子番能迩迩藝命將、天降りする時、天の八衢(ヤチマタ)に居て、上は高天原を光(テラ)し、下は葦原中國を光らす神 是れに有り。故ここに天照大御神、高木神の命を以(モ)ちて、天(アメ)の宇受賣神(ウヅメノカミ)に詔(ノ)りたまわれた。「汝は手弱女人(タワヤメ)で有ると雖えども、伊牟迦布神(イムカフカミ)と面勝神(オモカツカミ)なり。故 專(モ)はら汝往(イ)って將に問う、『吾が御子の天降りする道を 誰ぞ此の如くに居る』ととへ。」とのり賜いました。
故 問い賜いし時、答えて白しました。「僕は國つ神。名は猿田毘古神也。出で居る者所以(ユエ)は、。天つ神の御子天降り坐すと聞いた故に、仕奉御前に仕え奉てまつろうと、參い向え侍ぶらう」と。

考えたこと
①「故爾天照大御神、高木神之命以」この部分が重要です。迩迩藝命が降臨する現場にいないのに、どうして、天照大御神、高木神が判ったのか不思議ですが、天宇受賣神に聞きなさいと命令しています。その場所にいないときは、このように間接的に命令しています。では、どこにいたのかと言いますと、福知山へ行っていたはずです。
五人のお供の中の宇受賣神に依頼しました。宇受賣神は天岩戸の前で、踊った神です。この時の役目と今回とはつながりがありません。
②「居天之八衢而」八は数が多いときに使われますが、実際に八つに道が分かれているところがあるのかもしれません。これを指摘できれば、いよいよ、高天原と降臨の地・高千穂が確定できますが、スサノオが、八俣の遠呂智を退治したところが、横田町の八方に道が通じていた八俣でしたから、同じ「ヤマタ」ですから、単に道が分かれていて間違いやすいので、道案内に来たと受け取ってもいいかもしれません。
③大勢に関係ありませんが、天の宇受賣神は、手弱女人ではあるが、伊牟迦布神と面勝神の両方の性格を持っているので、適任者だと判断されたことになります。どのような性格でしょうか?
④猿田毘古神が重要人物ですが、だれの説を読んでもなるほどと思われません。私は仮定の話しですが、上は高天原を光(テラ)し、下は葦原中國を光らす神 とありますから、光と大いに関係があって、天津神ではないことは確かです。光輝きながら現われた人が外にもいます。それは大物主神です。この神も正体不明のところがありますが、奈良の大神神社の祭神で、崇神天皇のときにも天皇の上に立ち、命令を下しています。
私はユダヤ人だと思います。ユダヤ人は神武東征のときにも、天皇の応援をしています。ユダヤ人は、常に自分の居る位置を知る方法をもっていたのと、お金として当時通用していた絹を持っていました。 
田村誠一氏は、やちまたの様子を次のように表現されています。
「やちまたで高天原や葦原の中ツ国を原の中ツ国を猿田彦が光らしていました。が光らしていました。これは鏡を利用して通信が行われていたことです。古代に現代人が創造もできない、通信網が全国に出来ていました。この問題を解く一つの鍵が鉄を鍛えて作った鏡の利用と考えられます。
ここに出てくるやちまたは道が各方面に分かれている所で、れに該当する所は鏡成(カガミナル)です。道を間違わないために、原の中ツ国を猿田彦が光らしていました。が道案内を引き受けました。
これから一行は蒜山高原の明連川を遡り、鏡成を経由して高千穂に下ったことが分かり
ます。一行は天の浮橋すなはち雲海が出ている、早朝に出発し明ッ神が連れ立って遡った川は明連川と名付けられました。明連川の北側の山は擬宝珠山で、天の浮橋の欄干に由来に由来している地名です。地名は紀元前150年の大ロマンを教えてくれます。

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2008.01.25

天の浮橋   page 25

天の浮橋は古事記に何ヶ所か出てくる。これも古事記を神話扱いにした理由の一つだろう。しかし、これはヒルゼンの独特の雲海だった。
 富士山の雲海とは較べものにならない、神秘的な雲海である。
  ヒルゼンは周囲が低い山(標高差)に囲まれ、風が吹かない。従って100米位以下の所 雲が朝方たちこめる。
   周囲の100米より高い所に登れば、雲海には足許から拡がってくれる。
   森や林のこずえや、岡は雲の上にのぞいて島に見える。向い側の山までは歩いて渡れる錯覚におちいるのである。 
  郷原の近くに山陽休暇村がある。ここから朝眺める雲海は素晴らしい。上、中、下蒜山は朝日に照らされて、雲に浮いて見える。
   ただ雲海は風の吹かない朝方に見られるので泊りがけが必要だ。しかし富士のご来光と同様わざわざ訪れるだけのことはある。
   運よくば黄金色に輝く蒜山三座と大山が見られるだろ。


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2008.01.24

天の原   page 24

百人一首の安倍仲磨呂が故郷を思い出して読んだ和歌 
  天の原 ふりさけ見れば かすかなる
  三笠の山に 出でし月かも
 これは安倍仲磨呂が中国で読んだことになっている。本人は中国から帰らずに、中国で亡くなった。後日誰かが持帰ったことが分かっているのだろうか。
 この和歌は思い出して読んだと考えるよは月を見ながら実感を読んだと考えたい。
 ヒルゼンまで来て鳥居峠か野土路峠からの実感ならピツタリである。三笠の山とは、蒜山三座で、笠の様な山が三つ並んでいる。
 天の原とはヒルゼン高原で、この中央の中蒜山に一段と高くなった台地が高天原だった。
 古代には中国えの港は境港だった。従って安倍仲磨呂はヒルゼンを通ったと考えたい。 ヒルゼンには天谷等の地名がある。天ノ香山、天ノ金山(カナ)、天ノ岩戸と全べて、外にも似た地名がある時は、天の字をつけて呼んでいる。

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2008.01.23

資料No4静岡神社誌より分析

次のデーターは、
田村誠一氏の『西暦は日本の建国紀元だった』のP157に書かれてあるものです。
データだけではなく、書かれてあることをそのまま、掲載します。

神社誌はすべての神社を網羅しているので、どの民族の勢力圏かが判ります。

        伊豆国   駿東郡   富士川  安倍川  大井川   遠近国
               富士山東  流域    流域   流域    
皇大神社・
神明宮   61       35      32     14     29      140

大山祇命  102      48     60      28       14      109

浅間神社   5       55        42      10       18      27

諏訪神社 17          10        8         3      10        86
   
速須佐男命 71       32         47       14        96      259
           
熊野・多賀神社34       12        10        4        7      82
 

速須佐男命以外は苗族と苗族に降伏した建御名方神を祭る神社です。

これから富士山周辺は東の高天原に相応しいことが分かります
熊野神社や多賀神社は白狄人が祭ったので、苗族とは友好関係にあります。

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2008.01.22

動物に囲まれたヒルゼン(2)   page 23

鬼女台の南の高原が鳩ガ原で引続いて、内海乢(ウツミタワ)である。ヒルゼンは雲海が素晴らしいし、ひんぱんに現れる。内海とは雲海のことだった。
 この南に三方から、山のいただきが平に見えるので、三平山(ミヒラ)と呼ばれる山がある。低く見えるが1010米と見かけに、よらず高い。
 更に南が朝鍋鷲ヶ山である。頂上からは360度のパノラマが見られ、瀬戸内海まで見渡せる由だ。
 この南が野土路峠があり、最近マデ、ヒルゼンえのメーンルートだった。ここを越えて、大山にもうでたのである。
 この東に天狗山があり、この東が犬畑峠である。
 ヒルゼンを一周して動物名が、いくつ現れただろうか。なぜこんなに周囲に十近くの地名があり、更に真中には大蛇と竜頭の二匹が居るか。原始時代にはこれ以外には、名付けに適当なものがなかったと考えたい。

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2008.01.21

No3伊勢の弥生遺跡

伊勢の弥生遺跡の分布図です。

Photo

五十鈴川、宮川あたりは無いことに注目です。ほとんど、縄文・弥生遺跡がありません。志摩に先代の人が住んでいた形跡があります。
雲出・櫛田川一帯に、銅鐸が出土ています。

No1、No2の資料とも重ね合わせて、眺めてください。
静岡県の引佐郡・細江の銅鐸も同時に、眺めてください。


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2008.01.20

No2伊勢の古墳の分布

次に掲載する図は、山川出版社 「三重県の歴史」P13のものです。他の資料もこの書物に書かれていたものです。
Photo

 三重県下で発掘された古墳は、昭和49年7月で3803におよび、伊勢2783、島229、伊賀に788、紀伊(北牟婁郡)に3という分布を示している。

前期の古墳---雲出川流域。
 ①筒野古墳---一志郡嬉野。平野部に面した丘の端。全長40m、高さ4m、前方後円墓。
        一志の君塚とも呼ばれる。三角縁神獣鏡。銅鏡4面・石釧・水晶玉出土。
        この三角縁神獣鏡と同氾の鏡は、京都府の大塚山古墳や岡山県の車塚古墳。

雲出川流域以外では、伊賀の地に見られます。
① 馬塚古墳  名張市新田。長さ142m。古墳の周囲には幅15メートルの濠。
② 殿塚古墳(4世紀末)
③ 女良塚(5世紀?)
④ 毘沙門塚古墳(6世紀?)・
⑤ 貴人塚古墳(6世紀?) 方後円墳。
⑥ 荒木車塚古墳(上野市)
⑦ 石山古墳(上野市才良) 前方後円墓、長さ、120m、前方部には円筒埴輪が三重に。後円部には、深さ2mの長方形の堀。堀の上に円筒埴輪の列が並び、楯、家・靫・蓋・甲などの埴輪配置。この埴輪にかこまれたなかに粘土で周りを包まれた木棺出土。遺骸の頭の辺りから、鏡と玉、腰のあたりから刀と剣が出土。
 まだ、資料を全部集めたわけではありませんが、掲載しておきます。
 この図を見られたら、なにを考えられますか?

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2008.01.19

No1 伊勢の廃寺

①夏見廃寺 
 名張市夏見男山(オトコヤマ)2810
[国史跡]がある。1937[昭和12]年頃寺跡が発見され、1946~47年に発掘調査が行われ、およその伽藍配置と多くの塼仏(センブツ)などを出土した。「醍醐寺本薬師寺縁起(長和4年<1015>)」には、「大来皇女、最初斎宮なり、神亀2年(725)・・・昌福寺を建立したまふ。夏見と字す。もと伊賀国名張郡に在り」とあり、この寺跡が昌福寺ではないかとされている。 
1984~86年度の再発掘調査の結果、寺域は東西約84m・南北約75m、金堂はその中心部に、塔は金堂の東側、講堂は金堂の南西の一段下に配置され、それぞれ斜面を削平した基壇上に礎石を残している。
法起寺伽藍配置と判明。
出土した塼仏は6種類あり、大形 仏には「甲午年□□中」の字有り。甲午年は694年。
軒丸瓦は、毛原廃寺と同氾。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/h200208cyu.htm を少し、スクロールすると、写真多数。


② 額田廃寺 (桑名市額田笹貝)
 元は浄蓮寺と称し、織田信長の北勢侵攻の時、兵火。
江戸時代に專仏、礎石などが発見され、昭和16年県史跡に。
昭和38年(1963)調査。塔、金堂、講堂、僧坊、中門跡などが発掘。
法隆寺式の伽藍配置を持つ大化改新以前に建設。法隆寺西院より創立は古いとされる。
山田寺式の重圏縁単弁蓮華文の軒丸瓦を出土。
遺構は調査終了後宅地造成のために跡形なし。
員弁川(町屋川)を挟んで南に縄生廃寺、北に額田廃寺が建立。

③毛原廃寺
 金堂跡(7間4面) 、中門跡(5間2面)、南門跡(5間2面)の礎石(そせき)残存。

金堂の規模は、礎石の配列から唐招提寺の金堂と同じくらいの大きさあり。
そのほか、西塔跡[礎石埋没(まいぼつ)]、講堂跡[推定]、鐘楼(しょうろう)跡[伝承]などがある。
出土した軒(のき)丸瓦[蓮華(れんげ)模様]、軒平瓦[唐草(からくさ)模様]はいずれも奈良時代後期のものと考えられる。
毛原廃寺に関する文書記録はなし。

④全部で10ヶ寺あるとされる。

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2008.01.18

動物に囲まれたヒルゼン(1)   page 22

表参道の熊居峠から北西に一回りしてみよう。倉吉に降りる峠が、犬挟峠デアル。イヌバサリと読むが、由来はまちまちだ。
 西に連なるのが蒜山三座だ。佐竹先生の≪神代遺跡考≫の副題の日留山がふさわしい。高原よりも長く日が留まる山である。
 この西に蛇ヶ乢がある。2000年昔には倉吉の天神川を遡って、大勢の人々が、ヒルゼンにやって来た道だと思われる。蛇とは神の使いではなかった。
 この西の峠が見返峠である。誰が見返ったかは後で述べたい。この峠の北の山が、神橋に欠かすことの出来ない、ぎ宝珠山である。
 三種の神器を携えて見返峠から、高千穂に降りた。この鏡に縁のある、鏡ガ成(カガミガナル)国民休暇村はすぐ近くである。
 ここには象の形をした象形と、烏のクチバシに似た形の烏ガ山(カラスガセン)が並んでいる。この間を高千穂に、ニニギ命が降った。
 見返峠のすぐ南の、大山・蒜山スカイラインの展望台が鬼女台(キメンタイ)である。

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2008.01.17

No89引佐郡細江町の銅鐸

引佐郡細江町は、引佐郡引佐町の南に位置します。都田川を東の方から、下ってきて水は、細江町を通過して浜名湖に流れ込んでいます。
Photo


この地図は、季刊「自然と文化」の小集落の地名 P33の地図に手を加えました。
下部の黒い○は、銅鐸出土地です。細江町からは、9個出土しているのと、東からでは、最も東の地区から出土しています。静岡県では20個出土しています。ということは、静岡県は、銅鐸に関しては、特殊な地域とみられますが、なぜ、静岡県に銅鐸が多いかは、どなたも説明しておられません。
西に斜めに3つ並んでいますが、ここの地名は、「七曲り」です。西から、「悪ヶ谷」「大谷」「小砂川谷」「穴ノ谷」「才四郎谷」と谷があったことが判ります。(p36に拡大地図より)
少し、汚いですが、銅鐸が埋められた時は、赤く色を塗ったところは、水があったことになりのす。この上の直線で区画された部分も海水があり、葦原だったと思われます。
一番西の3つのうちの、西側は「悪ヶ谷」です。谷を渡ったところに「銅山」という小字名になっています。その東にある銅鐸出土地は、「小砂川谷」です。

従いまして、「銅山」で採掘された銅で、銅鐸が作られていた可能性はあります。ただ、銅鐸を使っていた人たちは、引佐町の方に住んでいたのではないかと推察しています。
 もう少し、東へ行きますと、天竜川があります。この辺りに入植した人を指導したのは、引佐町にいた人たちではないかと考えています。即ち、イザナギに由来する人たちが引佐町・細江町に住んでいたのではないか?
静岡県の銅鐸出土地の一覧表を作って置きましたので、眺めてください。なにか連想できるかも知れません。(全部作ったつもりですが、掲載されていません)

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2008.01.16

セン・トウゲ・タワ   page 21

表参道を来ると熊居峠を超える。旭川の川上でありながら峠を越えない川上村に来られない。
 ヒルゼンは周囲が300米から700米の山に囲まれている。天孫民族が最初にやって来た伯耆、因幡の山々は大山の様に、山をセンと呼ぶ。蒜山だけはヒルゼンとわざわざ濁って発音する。
 山を越えるには峠と乢(タワ)が使い分けされている。二つ山の間たわんだ
所を越えるのが、(タワ)である。非常に合理的だが、活字の都合で峠に統一した。やはり文字制限は文化の後退である。
 ヒルゼンの周囲の山や峠には古代の人々の思いが込められている。
   国土地理院の地図に載っていない、地名に面白いのがまだあるだろう。
   熊居峠から北西に一回りしたい。地名がなぜ必要になつたか。地名を誰がつけたか、
と考えることだ。ヤマト言葉と中国的なのが混じって面白い。

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2008.01.15

常世の国   page 20

古事記が書かれたのは712年である。ローマやエジプト、中国、ペルシアの文明は下降線をたどっていた。
 正倉院の御物のカットグラスや五弦の楽器や錦の織物を眺めると、現在から1000年後に残せる文物は何一つ無いに等しい。
 なぜ文化や文明は後退するのかの問題を考えて居る内に謎が一つ解けた。
古事記には何ヶ所か、神々が海の向こうの常世の国行かれる記事がある。
常世とは自分達のふるさとの中国だったのである。
米もロクに取れない日本で苦労するよりは、本国に帰りたかったのである。
ポートピープルの様に乗りすての船で、あてもない所に来たのではない。定期航路が日本海の境港(日向浦)と華南にあったと考えればよい。
文化が高い国だから常世と感じたので、望郷の念やみ難く、帰って行ったまでだ。もっと大きなスケールで物は考えるべきだった。

私の一言----常世の国をこのように考えられた方は、私の知る限りでは、この方だけです。古事記では、どこに出てくるか、ご自分で調べられると判ります。殆どの方は、死の国とされています。

 「正倉院の御物のカットグラスや五弦の楽器や錦の織物を眺めると、現在から1000年後に残せる文物は何一つ無いに等しい。」のようなことを言った人も無いでしょう。大勢の人に囲まれて、押し流され正倉院展をき見られた方には、理解できないものでしょう。田村誠一氏は、何度も通われ、作品を見られたのだ思います。

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2008.01.14

No88風土記の編纂と逸文と残欠

奈良時代の初め、713年(和銅6)5月、元明天皇は諸国に風土記(ふどき)の編纂を命じた(この時点では風土記という名称は用いられていない)とされています。
されていますと、書いた理由は、この文章はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
から拝借したもので、自分で確かめていないからです。

私が問題にしたいのは、713年(和銅6)という年代です。5月という月まで、書かれてあるということは、確かな証拠が残っているということです。713年という年は、どのような年かと言いますと、712年に古事記が編纂された年です。

現在の歴史家は、日本書記が正しくて、古事記はそうでないようなとらえ方をされているようです。一言では言えませんが、私は、逆ではないかと思うようになっています。

そのことと、タイトルの「風土記の編纂と逸文と残欠」とどのように関係があるのかです。
そのことを知って頂くためには、私が現在書いているブログ「新しい日本の歴史」を読んで頂くしか、簡単な説明の方法はありません。
 結論だけを書きますと、712年に完成した古事記を見た藤原不比等は、古事記に書かれていることを見て、驚いたと推察しています。しかし、不比等の行動は、素早かったようで、風土記の編纂と日本書記の編纂を命じたと推察しています。
一行目に、風土記の編纂を命じたのは、元明天皇と書きましたが、これは間違いで、藤原不比等でしょう。
 
日本書記の編纂を命じられた人たちは、一から調査するには、膨大な時間がかかりますから、早速、古事記を参考にしながら、日本書記の編纂をおこないました。少しでも、両方の本を読まれた方は、歴史の資料としては、日本書紀の方が優れていることを知ることが出来ると思います。
 日本書紀は、歴史を時間的に、古い方から並べて書く編年体という書き方で書かれています。一方、古事記のほうは、天皇家のことが中心で、しかも、登場する人物(神の名も含む)の血縁関係を重要視した記述で正しいという証拠はなに一つありません。
 ところが、日本書記の方は、古事記のことは、一切触れずに、内容に辻褄が合わないようなときには、日本書記の編集者は、このように思いますがと前に書いておいて、後ろに、ある書物では、これこれのことが書いてありました。多い時には、10例ほど、書かれてあります。この部分が、現在の人に人気があるところらしく、歴史家は、この「ある書」の部分から、自分の説に都合のよいものを採用して、論説を展開されますから、いろいろの部分の組み合わせによって、なん百という仮説が生じることになります。
その時には、人文科学ではいろいろの説があっていいのだという捉え方があるようで、歴史はてんでバラバラの感があります。おかしいでする。歴史、特に古代史では、判らないことが多いことは、事実ですが、本当の日本史は、一つしかありません。
 このような意味では、自然科学を学校で学び、その考え方を使って、50年も生きてきましたから、人文科学もサイエンスである以上、自然科学と同様な手法で説明をしようと思っています。自然科学の様に、説明をしまして、その後、同じような手法で、他の人が違った角度から調べ直します。同じ結果が出ます、その結果は、正しいと認めることになります。

人々は、自分に生きていた証しとして、後世に残しておきたいと思うらしく、誰かが、いてくれるのを待っていますと、待ちきれませんので、自分で書くことが流行しています。所謂、自分史です。自分は、どれほど、苦労をしたかを書く人もおられます。自分は、こんな成功をおさめましたを強調する人もおられるでしょう。しかし、自分は、こんな恥ずかしいことをいっぱいしましたと書く人は、100パーセントいないでしょう。社史、府県史、市町村市、警察史、いくらでもありますが、プラスの面ばかりです。

このように考えますと、古事記も日本書記も書いた人の都合の良いことばかりが書かれています。
日本書記を編纂した人は、100パーセント古事記を参考にしたはずですが、それは、知られたくなかったと見え、古事記に書かれていて、日本書紀にも書かれている地名や人物名は、尽く、漢字の書き方を変えました。
これほど見事に書きなおすことは、古事記を見ながら書き改めませんと、他の本からの参考だけでは、不可能です。なぜか、その後、古事記は世の中から、姿を消します。しかし、400年後に、姿を表したことが知られています。
 消し去ったはずですが、代々、消されないように残した人がいたことになります。

随分、前置きが長くなりましたが、古事記を参考にして、日本書紀を書くだけでしたら、風土記は、必要ありませんでしたが、完全に残っている出雲風土記を見ますと、わたしには、軍事資料に見えます。
 自分の国のことを洗いざらい書いて提出した国と、提出しなかった国で、その後の政府(藤原不比等)の対応は変わったと思われます。
現在、残っている風土記は、出雲国風土記がほぼ完本で残り、播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記が一部欠損して残っているそうです。

その残り方はいろいろと思われますが、播磨風土記逸文と丹後風土記残欠などと、研究者によって、使い分けておられます。私は、逸文のほうが、沢山残っているのではないかと想像しています。残欠となりますと、残っている者が、少ない。考えようによりますと、残欠の形でも残しておきたかったから、残ったということではないかと思っています。具体的に、言いますと、丹後風土記残欠は、藤原氏の人にとっては残ってほしくなかったのではないかと思っています。全く残っていない風土記の地方は、残欠すら残らないように末梢されたと考えています。
 では、残った出雲国、播磨国、肥前国、常陸国、豊後国は、藤原氏にとっては、優等生だったことになります。このことは、今後の私の課題ですが、出雲国と常陸国は、解決済です。 

いろいろの苦労を重ね、日本書記は、古事記の完成12年から 8年後の720年に完成しました。
中国人が、自分たちの社会を築き、記念に、「大化」という元号を作用したのが、645年です。それから、75年後に、天皇制という仕組みは、残しながら、むずかしい傀儡政権を獲得した記念誌として、日本書紀は完成したと考えています。
しかし、それと同時に、力を使い果たしたように、同じ720年に死ぬことになったとみています。    
その後の藤原氏は、順風満帆とは参りませんでしたが、全国に根を下ろし、その拠点と思われる所の神社には、式内社という名前をあたえたと考えています。
「式内社と祭神」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html                   H20.01.14

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2008.01.12

No87  引佐郡はどのようなところか

はじめから引佐郡を見てみようと思います。文献では「和名抄」に「遠江国引佐郡」とありますから、古く、しかも重要であったことになります。引佐郡は、渭伊郷、伊福郷、京田郷、刑部郷の4つの郷から構成されています。
 文献以外でから地名の歴史を探ろうとなりますと、そこに流れている川と地名が重要になります。それに加えて神社も大切です。

 引佐町には、最も大きい都田川が東から流れてきて、中央には、井伊谷から流れてくる井伊谷川があり、この川に西から流れてくる神宮寺川が合流し、井伊谷川が都田川に合流し、浜名湖へ注ぎます。
地名としては、「伊福」「伊平」「井伊谷」というように、「イ」の音が気になります。「伊平」「花平」というように、「平」が気になります。

引佐町の南は細江町です。細江町に目を移しますと、「岡平」「湖東不動平」「藤平」「天満平」と「平」の地名が増えます。

後、気になる地名としては、神宮寺川の上流に、「黒渕」があり、都田川上流に、「川合渕」と「獺渕 おそぶち」があります。「渕」の付く地名は、この深い淵に、比重の重い砂鉄、水銀が取れたのではないかと、和歌山県の紀ノ川を遡ったところの桃山町の下鞆渕や中鞆渕を訪れたことがありますが、良く判りませんでした。また、この近くに金指という地名もありますので、なにか金属に関係していたところではないかと想像しています。

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2008.01.11

神々のふるさと(2)   page 19

シルクロードで天山山脈の、トルファン(高昌城)の放映をご覧になった人が沢山居られる筈だ。
 漢の都から3000キロも離れた所で、天照大神がヒルゼンに来た頃に、20万人の屯田兵が動員されていた。
 陸地を3000キロも進軍するこしは、想像を絶することである。三国志では沢山の戦略家が暗躍していた。
 秦の始皇帝は壮大な墳墓を作って貰った時代である。
南船北馬で、船は、下駄同様の国である。砂漠を越えてシルクロードを、ヨーロッパまで、旅行した時代である。
 印度洋を越えてエジプトのアレキサンドリヤと通商も行っていた。地中海ではカルタゴの攻防が行われていた時代と同時代だ。
 日本海に定期航路があってもおかしくない時代である。
 自分達の思い上がった尺度で古代を考えることはおかしくないだろうか。

私の一言--田村氏は、第一話を、編纂するにあたって、一ページごとに、自分の主張を込めようと考えておられます。
「自分達の思い上がった尺度で古代を考えることはおかしくないだろうか」が結論ですが、これを説明するのに、すべてを書いたら、バラバラになりました。この文章についていくことのできる人は、少ないのではないかと思います。
「シルクロードで天山山脈の、トルファン(高昌城)の放映をご覧になった人が沢山居られる筈だ」とかいて、自分が見た内容は書いておられません。
「陸地を3000キロも進軍するこしは、想像を絶することである。三国志では沢山の戦略家が暗躍していた」、田村氏は三国志を読まれました。そして、その前に書かれている「漢の都から3000キロも離れた所で、天照大神がヒルゼンに来た頃に、20万人の屯田兵が動員されていた」田村氏が、いろいろのことから、導かれた結論です。
 その他、書いておられることは、膨大な書物を読んで得られた知識です。

全部、総合すると、
 日本海に定期航路があってもおかしくない時代である。
 自分達の思い上がった尺度で古代を考えることはおかしくないだろうか。

となります。私も、同じ本を読んで、やっと、理解できるようになってきました。

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2008.01.10

神々のふるさと(1)   page 18

ゼロ世紀に何万人も、入植者があったと申し上げてもなかなか納得されないだろう。
現在の尺度で物を考え、今こそ文化が最も高いと考えることは思い上りである。
 NHKのシルクロードの放映は色々のことを教えてくれた。例えば日本の宮廷音楽は、天山山脈の南のクチャから伝わった。
 雅楽の楽器が全部数千キロ離れたクチャに壁画などで全部残っていた。
 ヒルゼンに伝わる、無形文化財の大宮踊りはクチャの踊りとそっくりだった。平安京えはヒルゼンを通って伝わったと考えたいのである。
 2000年前に大量の移民をヒルゼンに導入した、リーダーは、神々だったのである。
 ヒルゼンに田のつく地名以外は、殆どが神に縁のある地名と中国臭の地名である。
先陣部隊がつけた地名は動物名である。
 地名は古墳以上に、古代史を教えてくれる。古墳は文字が残って居らない。新住居表示は2000年前
秦の始皇帝が書物を焼いた以上の、歴史に残る悪業である。

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2008.01.09

No 86 「遠江国浜名宮」と引佐郡

ここは、車で行っても遠かったです。遠くても、やはり元伊勢なのだろうと思いました。とは言うものの、あまり根拠はありません。
遠江国浜名宮のある所が、引佐郡ということぐらいでしょうか?

引佐郡と書いて、どうして、「いなさぐん」と読むのか判りませんが、「いなさ」という言葉は、二ヶ所で見つかります。
古事記において、アマテラスが大国主神に、葦原中国を明け渡すように言います。その時に、建御雷神と天鳥船神を派遣し、出雲国の伊那佐の小浜で、十つか剣を抜いて、談判したことが書かれています。
同じ、状況を日本書紀では、伊那佐ではなく、出雲国の五十狭の小汀と記しています。

もう一つは、奈良県榛原町に伊那佐山があります。標高は637mです。地図を見て頂きますと判りますが、平らな土地に、この山だけが、ぽつんとあります。
 この伊那佐山の南西に、大宇陀町があり、ここに「元伊勢・阿紀神社」がありますから、この辺りで、伊勢神宮の候補地は探していたようです。

神武天皇が立ち寄ったようなことも、どこかで見たような気がし、
http://piccolo.gooside.com/inasayama.html
製鉄に関係があったのではないかと思ってみたりしながら、引佐郡に行けば、何か見つかるのではないかと、淡い期待はあったのですが、なにもつかむことはできませんでした。

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2008.01.08

水がなかったヒルゼン   page 17

又々 あべこべのタイトルである。ヒルゼンに秋来られた人は、見渡す限りのススキを見て綺麗だとおっしゃる。
 昔は沼に葦が繁っていて、天照大神は、豊原の中州国だと、喜んで大量に何千キロも離れた華南から移民を連れて来た。しかし、これは見込み違いだった。
 何故今は高原にススキが繁っているか。これも悲しい歴史が繰返された産物である。
 戦時中はここはチベットで誰も、簡単に来られない所だから、秘密兵器例えば火炎放射器の実験場だった。又、軍馬もここで増産されたのである。
 当然戦後には一般に開放され、沢山の開拓民が入植した。広さを考えれば如何に大量だつたか想像できる。
 誰でも土が黒々しているので非常に肥えていると考えられる。蒜山は火山である。火口は各所に見られる。要するに地形が複雑なために、井戸を掘っても水は出ないし、最も不毛の土地だから、開拓も途中放棄せざるを得なかった。ススキは悲劇の産物である。


一言---このような不毛の土地と書きますと、現在、住んで居られる方には、失礼ですが、それゆえ、牧場を経営したり、観光に力を入れておられると思います。稲が取れない所に、どうして、「田」のつく地名があるのだというのが、田村誠一氏の疑問から、歴史に嵌まりこまれたことが分かります。
 夏のヒルゼンには、是非一度、訪れてください。それも、一泊してください。お帰りの際には、農産物をいっぱい買ってあげてください。特に、岡山県の方にお願いしたく思います。

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2008.01.07

山中一揆(2)   page 16

田んぼを乾かすには、排水をよくすればよいと早合点されるだろう。
 ヒルゼンの田んぼは、湖底である。億の単位の長年月湖底で、1000万トンもの化石が沈でんしたから、湖底は平らになった。従って、排水したくても、こう配かとれなくてはだめである。
 百姓一揆のあと、水が絶えず流れ込むのを防ぐために、ブナ林を数年かかかって全部焼いてしまった。
 焼畑にするために、焼いてあとに作物を植えるのではない。米を作るために、原生林を焼いたのである。やはり逆転の発想である。
 古代史では日本には照葉樹林帯が、数世紀頃にあったと書かれている。NHKまでが、このお先棒をかついで、騎馬民族説のかたをもっている。
 しかも人口破壊で松林になったと、説明している。日本の地形は至って複雑だから、地域毎に照葉樹が生えていたかを検討すべきだ。 
 例えば、九州は火の国である。火山灰は最大の自然破壊だから、照葉樹林帯はなかった。

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2008.01.06

No 85 元伊勢 「遠江国浜名宮」

元伊勢と呼ばれる神社は、あちこちにありますが、「遠江国浜名宮」は、伊勢から近いと言えば近いのですが、丹後の国から、どこか良い所はないかと、順番にやって来たにしますと、離れていると思いながらも、気になるので行ってきました。
 随分、古い話です。記録を探し求めるだけでも、随分掛りました。平成13年2月11日・12日と一泊で行ってます。

どこかに、この時のことが書いてあると思って探しましたが、見つかりませんでした。あの時は、カーナビもなく、旅行は大変であった記憶が残っているだけです。行った割には、殆ど、歴史的な成果がなかったらしく、旅行記のように書いたものが残っていました。これはこれで、記録ですので、そのまま、以下に記します。


日本は広いな!日本は古い国やな!

久し振りに 一泊の旅行をしてきました
    雪の心配をしながら、 満開の菜の花を眺めてきました。

2月11,12日の連休に一泊で、山陰地方の蹈鞴(製鉄)のあとを数箇所見学に行くつもりをしていました。
急に、今が冬である事に気づきました。私は大阪に住んでいますので、 中国自動車を利用する事になりますが、時によると、お隣の兵庫県からは、雪のためチェーンが必要になります。チェーンを持っていない、雪の上を走った事の無い私ですから、何も無理をすることはないと考え、中止にしました。暖かいところでは、和歌山、淡路島、四国がありますが、すべて、最近訪れています。
調べものをしたいところとしては、伊勢市・上野市・岐阜県本巣郡・静岡県引佐郡です。
上記の4箇所は、天候が悪ければ、どこも、雪に遭いそうなところを通過しなければなりません。鈴鹿・関ケ原が問題です。冬に走った事の無い私ですが、 やはり、チェーン無しでは、えらい目に遭うと想像し、買う事にしました。 チェーンを購入したのは、20年ぶりです。自動車部品の店に入ったことの無い私は、ただ、製品の多いことに驚き どれを選択したらよいかに困惑し、又、20年前の金額より随分高いことに、又もや驚きながら、購入。 帰宅後、実際に装着しますと、不器用な私でも、一分で装着。20年前、雪が降りしきる、真っ暗の中で、ジャッキーで車を持ち上げながら、 凍える手でチェーンを装着した事を思い出すと、これなら、値段の高いのも納得と言い聞かせながら、トランクに収めました。
名神を走行するうち、米原に近づくと雪に覆われた伊吹山(滋賀県ではもっとも高い山だと思いましたが)が気持ちの良いほどに美しく眺められます。 チェーンを持ってきて良かったと思いながら、走りますが、醒ケ井を過ぎるところから、道路が少し、融解剤?で白くなっているぐらいで、 雪は皆目無しでした。
三ケ日のインターで高速を降り、目指すは、「英多神社」という神社ですが、食事をとったお店で尋ねると、誰も知らないとのことでした。「御園」という地名があるので、その方向へ車を走らせる。途中。電話ボックスがあるので、電話帳で確認、記載されていない。 ということは、神主さんが居られない神社と判断する。 それなら、図書館に行って、本で調べようと図書館の電話番号を見ましたが、やはり、記載されていませんでした。(図書館は立派なものが出来たばかりのようで、電話帳にも掲載されていないようでした。休館日。)
次は、町役場へ行きましたが、日曜日で閉鎖。お隣消防所をたずねました。我ながらいいところへ来たと思っていました。火事の知らせがあれば、町内どこへでも行ける人です。5~6人居られた署員の方は、誰もご存知ありませんでした。 三人寄れば、文殊の知恵とはよく言ったもので、 次々アイデアが出まして、どうやら、「浜名総社神明宮」の中にあるのではないかということになりました。 と同時に、ある署員の方は、「初生衣神社」の神主さんに、電話をしてくださいました。話がややこしいので、直接私が受話器を取り、お話をお聞きすると解決でした。 
私が、目指していた神社以外に、「初生衣神社」も、「岡本八幡宮」という神社も関係あることを教わりました。「暫く、居ますから、来られたらいいですよ」と言ってもらって、いく事になりました。
この目指す、神社がどのようなものかを簡単に書いてみます。
私も詳しいことは、よく判りませんが、日本の初代天皇(ハツクニシラス天皇)は、二人おられて、はじめの天皇が、神武天皇です。今から、2660年前に奈良の橿原の地に、都を定め、「ヤマト建国」の第一歩を築いた事になっています。その後、天皇は綏靖・安寧と続き、 第10代は 崇神天皇ですが、やはり、「ハツクニシラス天皇」と言われています。
崇神天皇は紀元前30年頃の天皇と言う事になっていますが、 諸々のことから考えると、3世紀ごろではないかと言われています。 どちらにせよ、随分むかしのことになります。 崇神天皇のときに、宮中で祀られていた 皇祖神である「天照大神」を、奈良の笠縫村に祀ったと『日本書紀』という書物に書かれています。そのときの世話役として、「豊鍬入姫命」という人が選ばれています。 どうやら、笠縫村は、居心地が良くなかったと見え、3年後には、丹波国の吉佐宮に宮を移しています。 その後、「倭姫命ヤマトヒメノミコト」という人が、御守役として仕えながら、適当な場所を捜し求め、50数年後、今の伊勢神宮に宮を定めた事になっています。
伝説をも含め、29ケ所の地を訪れた事になっています。 その内の、一つが、「遠江国浜名宮」であり、「尾張国中島宮」です。 
前者が「英多神社」であり、一宮市の「酒見神社」であろうと言う事で、 実感を得るために、訪問する気になりました。
神社の話は、これぐらいにして、「初生衣神社」におよりして、神主さんのお話を少しだけ、お聞きしました。名刺を頂戴して、びっくりです。 「神」「上」さんというお名前の人は、どこでみたような気がしましたが、「神服部 博喜」 のお名前は、初めてでした。 ご本人も、日本で一人ですと言われ、 〔かんはとり〕とふり仮名が振られてありました。 神社のある辺りは、現在は〔岡本〕と言われていますが、ずっと、「ごんど」 (ごうどだったかな?)
漢字で書くと 「神戸」と書きます。 全国に一杯あります。 神社の租・庸・調を受け持つ人たちの事でもあり、その人たちが住んでいた土地に名前が残っています。前に書きました「御園」は、その人たちが作っていた野菜園のようなものでしょうか? 伊勢神宮を支えていたところは間違いありません。 
この日の宿は、渥美半島の先端の伊良湖に定め、車を走らせますと、田原という町の近くで、「神戸」という地名を見ました。また、宿の直ぐ近くに、東大寺の瓦を焼いたという窯跡を見てきました。伊勢ではなく、東大寺となると随分遠いですが、 瓦を焼いては、運んでいたのを想像すると 日本と言う国は、「古いなあ」と思えました。
伊良湖の風は、まだ冷たかったですが、菜の花の絨毯が、私を歓迎してくれました。
この一日で、 日頃、50キロも走らない私は、300キロを走り、それも、雪の心配をしながら、春の訪れを感じました。「日本は広いな」と感じた次第です。
翌日は、フェリーで知多半島の師崎(モロサキ)へ渡り、一宮へ。 目指す「酒見神社」は今伊勢という町にありました。ここにも、どう読むのか知りませんが、「神戸」という地名を認めました。
倭姫命が滞在されたところは 「元伊勢」と呼ばれています。伊勢神宮が定まるまで、伊勢のできるまでの元になったところと言う意味でしょうか? 「笠縫村」 以外は、作り話であるように書かれた書物もありますが、 「神戸」「御園」などの地名まで、創作する事は大変です。 これらの地名が記載されている書物まで、偽物を作るとなると膨大なものになります。 やはり、素直に、伝承されたものを受け入れればいいとおもいました。
帰宅後、 電子電話帳で調べました。
神服部というお名前は、一件だけでした。
服部さんは 35585人 。神さんは 3795人 。上さんは 1056人。 上見さんは 241人。
加美さんは 156人。 加美さんは 156人。 紙さんは 95人。 賀美さんは 27人。 香味さんは 26人。
嘉美さんは 15人。 嘉見さんは 49人。
このような数字を見ると、いかに、「神服部」というお名前が特別であるかと言う事がわかります。
長い事、お付き合い有難うございました。
最後に 伊良湖の海の幸は 美味しかったです。 一度、訪れられる事をお奨めします。
以上です。
歴史的な成果が無かったので、下手な旅行記を書いたようです。
下手でもなんでもいいですね。

久しぶりに、思い出しました。

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2008.01.04

山中一揆(1)   page 15

山中一揆(1)   page 15
ヒルゼンは津山藩に属していた。年貢の取り立てが厳しいために、日本最大の百姓一揆が1726年に起きた。 山中(サンチュウ)一揆と呼ばれ、4000人が参加したのである。道路ぎわ等に義士の碑や山中一揆28人の墓などが見付かる。
 碑と云っても貧しかったために、木の柱にすぎない。この時には一部は津山の河原まで100キロ近く、引っ張られて行ったのである。ヒルゼンでも数十人が死罪になった悲しい歴史がある。
 津山藩でも、米が沢山取れる筈だと、百姓の願いを聞いてくれなかった。
 紀元30年頃に天照大神も、ここが最高の稲作適地と思って、何万人かを、中国の華南から導入したのである。
 百姓一揆がおきるまでは、ヒルゼンはブナの原生林だったデナの原生林は今でも、大山に残っているから、林相は想像できる。
一年中水が流れ出して,田んぼは乾くときが全くなかったので、米がれなかった。

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2008.01.03

水が多すぎたヒルゼン   page 14

第一話 神々のふるさと ヒルゼン      昭和55年11月21日
◆  水が多すぎたヒルゼン   page 14
結論を先に申上げれば、古代にはヒルゼンの平地には、水が絶えず流れ込んでいたので、米が取れなかった。
 葦原の中ツ国と古事記に書かれているが、これは中ツ国ではなくて中州国だった。
 葦をいくら取り除いても、一年中水田では稲は育ちにくい。しかもヒルゼンは火山灰に覆われた不毛の地である。
 誰かが稲を何年か作ってうまく行くのを、見届けてから次の人がまねをするのが農業である。従って、普及には長い年月が必要である。
 万一しくじれば餓死する以外外ないのが、百姓の宿命である。従って米の出来ない所に、他の地名がつくのはおかしい。
 しかもヒルゼンの15キロもの、平地に全て田のついた地名があることは、大量に一時入植したとしか考えられない。
 田のつく地名がグループであることが、すなはち、歴史である。一つだけ田ノック地名だけを追求してもだめだ。
これだけまとまって、田のつく地名があれば誰かが指導した筈ではないか。

私の一言…このページは、私は納得できませんでした。全国にある田の付く地名は、川に沿ってあることが分かります。これなら、川の水を引いて稲が作ることができます。
たくさん、見ていますと、田村氏が言われるように、ヒルゼンは、現在でも稲は無理です。現在は品種改良や栄養を放りこみますから、北海道でも作ることはできます。水と太陽と養分さえあれば、現在は土は必要ありません。ファイバースコープで、太陽を導けば、ビルの中でも、地下でも栽培可能です。
 稲作はどのようにして行われるか適格に書いておられます。
①一年中水田では稲は育ちにくい
②ヒルゼンは火山灰に覆われた不毛の地である
③普及には長い年月が必要である
④万一しくじれば餓死する以外外ないのが、百姓の宿命
⑤米の出来ない所に、他の地名がつくのはおかしい。

以上のことから、
米の出来ない所に、他の地名がつくのはおかしい。
これは、次のように考えるしかない。
ヒルゼンの15キロもの、平地に全て田のついた地名があることは、大量に一時入植したとしか考えられない。す
歴史において、地名の研究をする時は、一ヶ所だけをいくら研究しても駄目である。
グループで考えるのがいいことになります。
例えば、「日置」は、全国に何処にあるかを調べて、それを見てから、考えることである。
地名日置分布 http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page179.html

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2008.01.02

No84 三重県の神島

又かと、思われるかもしれませんが、地図を出してください、愛知県の渥美半島の先に伊良湖岬があります。三重県と伊良湖岬の間に、神島があります。
 伊良湖岬には、泊まったことがあるのですが、伊良湖という湖はあったでしょうか?
ここは、元々、伊良古ではなかったかと思っています。伊良湖岬と神島を結んで、南西に行きますと、加布良古岬があります。
 ここは、安楽島というところの岬になります。安楽島町字加布良古に伊射波神社があります。
志摩国の式内社の三座は三座あると延喜式に書かれています。
粟嶋坐伊射波神社二座
粟嶋坐神乎多乃御子神社
両方とも、粟嶋と書いてありますが、今は安楽島です。

このことは、「楽しい人生」の中の「古事記と日本書紀」のカテゴリーの中の、No66、67
に書いています。http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2007/09/no37_12a4.html

その加布良古と伊良古が、関係があったのではないかと思っています。

もう一つは、岡山県笠岡市に高島という島があります。この島へ行くときは、「神島」から船に乗ります。
カミジマではなくコウノシマと読みます。この読み方はユダヤ人がつけた名前です。この土地は特別な所です。

突拍子も無い話と思われるかもしれませんが、古事記に書かれていることが本当のことであると考えます。高天原は蒜山高原にありました。ここに最高峰の1218mの毛無山があります。この毛無山の真北に宮内(神武の御所)があり、真南に高島と神島があり高島神社と神島神社に神武が祀られています。
又、神島は淡路島の伊弉諾(イザナギ)神社と御所市の本馬丘と同一緯度にあります。このような位置関係にある場所を設定するということは、緯度の測定ができ、地図を持たなかった古代人の知恵だと思います。
神島の北に福浦という地名があります。福浦は、神武天皇が、中国の雲南省から苗族を入植させたところだと思われます。

もう一度書きます。笠岡市の神島は、鳥取県の宮内と南北に並び、同緯度ということは、淡路島の伊弉諾神社と奈良県の御所市の本馬丘と横に並んでいることになります。これだけ、重要な位置が、偶然に並ぶことがあるでしょうか?

今度は、三重県の神島です。
12月2日、紅葉の俳句を作りに行こうと、妻と出かけました京都府福知山に大江町があります。ここには、元伊勢と呼ばれる内宮の皇大神社と外宮・豊受大神社があります。
ここは、以前に行き、荒廃していますから、もう駄目になっているのではないかと心配して行きました。そうしましたら、修理中でした。

そこで、「今年一番嬉しかったこと」に書きました。
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/432029/ 5回に分けて書いています。
 
外宮を先に行き、次は内宮に行きました。ここの壁に、次のような写真にあるように、壁に絵が貼ってありました。(写真をクリックしますと、大きくなります)
Photo


字が小さいですが、冬至のときに、伊勢の海に出た太陽は伊勢の内宮・外宮を通り、大江町の内宮を通り、日室山の頂上を通過していることを表しています。

日室山の写真 を掲載します。
3

日室山は、麓からみても、綺麗な二等辺三角形の山です。写真の位置は、内宮から天岩戸大神宮へ行く途中にある遙拝所からのものです。

私はこのようにきれいな二等辺三角形の山は、人間が整形し、目印にしたり、ノロシをあげたりしたところだと思っています。

 今度はもう一度、伊勢です。外宮を通過した太陽は、一志町美杉村を通過します。
インターネットで、「日置 美杉村」を入力しますと、日置という方の会社などがいっぱいでています。電話帳で調べますと、半分ぐらいの方が、日置さんです。
わたしは、日置さんは、この通信網を構築した人たちの子孫ではないかと思います。日置流という弓の流儀がありますから、同時に、軍事面にも携わっていたのかも知れません。
 以前に日置で調べたことがあります。

http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page180.html
に掲載しています。この中の「現在の日置姓の府県別数」が自分で褒めるのも、変ですが抜群です。 鹿児島を除きますと、現在の絹の生産地に集中します。
鹿児島は、神武天皇と関係があるのではないかと考えています。吉野ヶ里を攻撃するときに準備をしたのではと思っていますが、証拠はありません。
前回に、No83水に見舞われた伊勢神宮内宮
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2007/12/no83_2f79.html
最後に、内宮ははじめに、どこに造られたかですが、私は斎宮の近くであったのでは無いかと推察しています。即ち、斉宮から離宮院までの間にあったと考えています。

続けて書きますと、長くなりますので、次回にその理由を書こうと思います。
と書いています。神島と大江町の内宮とを結ぶ、線上に造られていたのではないかの推理の根拠を今回述べました。それは、斉宮の近くにあるのではないかと思っています。

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2008.01.01

最古の稲作地帯   page 13

熊居峠を下りてから。ヒルゼン銀座まで、延々15キロの地名は全て田がつく。日本中探してもこんな所はないだろう。
 大字は上、中、下長田と同じく、上、中、下福田である。小字にも地名に田がついている。斜面の所には、地名に田がつかない。
 これが古代史を解く鍵である。日本に稲作が何時頃渡来したかは、未だ謎である。広い海岸線があっても、余程の冒険心がないとことには、渡洋には危険がつきまとう。
 単純にポートピープルが、未知の遠い国に渡る理由がない、少と共現在すんで居る所よりは危険を犯ししても住みよい所でないと困る。
 海を渡ることは、川を下るのとは違って、確実に目ざす方向に進める、航海術が必要だ。
 ベトナムのポートピープルは、この航海術なしに海に逃げ出した。これと同一な無謀な行動を2000年昔に撮ったはずがない。
 今一つ古代史のなぞはなぜ稲作が急速に全土に普及したかである。ヒルゼンの地名がこの謎の説明に役立ってくれる。

私の一言。
 この短い文章のなかに、「これが古代史を解く鍵である」と書いておられます。歴史書をどんどん買って読んでください。理論がむずかしくて判らない人ほど、えらい方だとされています。普通の人が、勉強しなくても納得できるものでないと、いくら素晴らしといわれても、猫に小判です。
   文章に無駄がありません。考え方が単純です。米がとれない所に、びっしりと、田
の字が付く、地名がなぜ残ったか、それが、稲作が、誰か指導者がいて、無理やりにヒルゼンに持ってきたのだと考えたことになります。そうなりますと、それを説明するものがあればいいことになります。残っていた神社に見つかります。延々と踊り伝えられた大宮踊りにかすかな、証拠が残されています。須弥山は「しゅみせん」と読みますが、これは、仏教に関す山です。 山を「せん」と読む山は、ヒルゼンの周囲にいっぱいあります。田村氏は、それは、仏教を信じていた人が、名付けたといっておられます。勿論証拠はありませんが・・・。 

私の一言がいっぱいになりました。この私の説明より、田村氏のほうが、素晴らしいことがお判りになると思います。

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