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2008.04.29

地名を考える (3)   page 49

日本海側に流れる斐伊川以外の川の名は大和言葉である。これも特長である。この川の源の山は、ヤマではなくて、センとよばれることが多い。
この流域の地名は福、神、宮、田と稲作に関連のある地名が村々に如何に多いか。五万分の一の地図にマークして見られることだ。
 これに反して斐伊川は川口を除いて、この様な特長は発生しない。
出雲の山間部と伯耆、因幡の山間部とは無縁だったことになる。
高梁川は全流域にこの様な特長の村が見付からない。旭川は落合と福渡の間に、無縁のところがある。
吉井川の場合は津山より上流には福や神等のつく地名が見当たらないが、津山から下流には西大寺までに50近くの地名が福と神に縁のある地名である。
次には縄文後期から弥生の古墳の多い村を全国規模で調べることである。古墳名にも天神、蛭子、稲荷などが多発する。

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2008.04.28

地名を考える (2)  page 48

稲の付く地名が、一つの村に何ヶ所かある地域がある。
 ただ一つの福岡の地名をかんがえるのではなしに、特定の地域に限っての地名のくせを見付けることである。
 ヒルゼンを例に取れば、米の取れない所が、範囲に田がついている。これも重要なくせである。
 残る地名が宮と神社に縁のある、社田、堂ノ前、堂ノ上、祝詞、竜頭、大蛇、鳥居である。
 天王、天谷等の地名にも、なにかいわくがある筈だ。徳山、白髪、天狗山、湯船川は中国臭い。 
 このように地名を地域単位でグループとして考える特徴が見出される。
 ヒルゼン村付近では、吉井川、旭川、高梁川の流域の村を、一つ市津似たグループを探すことである。
 日本海側なら、鳥取の千代川、倉吉の天神川、米子の日野川と出雲の斐伊川について比べて見ることだ。

一言---「***米の取れない所が、範囲に田がついている-*** 」 この部分は、ヒルゼンに住んでいないと分かりません。全く、米を作っていないのに、どうして、田ノック地名なのだろう。これは、理由を見つけようとしますと大変です。田村氏は何故取れないのか、調べておられます。江戸時代の米騒ぎのことやら、地質のことなどです。いっぱい調べて、
「ヒルゼンを例に取れば、米の取れない所が、範囲に田がついている。これも重要なくせである。」を発見されたことが判ります。

おまけで、、「、堂ノ前、堂ノ上、祝詞、竜頭、大蛇、鳥居である」が全部、宮と神社に縁のあることを発見されました。

日本海側ならと断って、鳥取の千代川、倉吉の天神川、米子の日野川と出雲の斐伊川なら、いっぱい発見できますよとのサービスを書いておられます。私は、太平洋側を今、コツコツ調べています。
小字を調べますと、その村がどのようにして発展していったかを知ることもできます。

言われれば、当り前のことですが、「地名」のことを書いた本をご覧ください。このような捉え方をされておられる方は少ないです。

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2008.04.25

地名を考える (1)  page 47

福岡市、福知山市、福島市と福のつく地名がある。従来はこの一つ一つの地名の由来を考えた。これを一歩拡大して、なぜ福がつくのかを考えて見た。
 中国の福建省に、中国が発行した、500万分の一の地図で海岸線に福のつく地名が四つもある。これ以外の地域には福の地名が見当たらない。
 比較のため日本列島の500万分の一の地図なら地名は数十のオーダーである。従って福建省の地名に限って福の字が多いことになる。但し、福建省の地名そのものは除いて考えることだ。
 古代史を解くこれが鍵の一つである。最初に断っておくが、福岡市の由来は、黒田長政が岡山市西大寺の福岡の商業の繁栄にあやかりたいとして採用した。
 同じ福岡の地名が各地にあるが、稲作をやらない所に多い。
 福のつく地名の多くは、華南と縁があると考えたい。しかも日本海側の稲作の出来る、デルタ地帯と川の流域に多い。

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2008.04.24

根の国堅州  page 46

スサノオの命は、古事記では度々、母の国、根の国堅州に行きたい、ただをこねる場面が登場する。 
根の国とは大山の西の枡水原から、島根半島を眺めた姿である。島根半島は古代には夜見浜は境港まで陸続きではなかった。
斐伊川の下流も、現在は宍道湖だが、古代は直接日本海に注いでいた。従って、島根半島とは陸続きで無かった。
結論を申せば、木の根の形をした島だから島根の国だったことになる。
スサノオの命は高麗から、先づ隠岐に来て、次に境港のある、福浦、日向浦の近くに宮谷に、老母を残してヒルゼンに来た。
境港の場所は夜見島で、これも枡水原から夜に浮かんで見えたのである。堅州とはこの周辺だった。
 国引きとは夜見島と米子を、日野川の運ぶ土砂で陸続きにすることで、ここは根の国軟州だったのである。
製鉄のためこの頃大量に炭焼きして、おかげで、洪水で埋立したことも教えてくれた。

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2008.04.18

資料17 壬申の乱の登場人物

全部完成していません。 少しずつ、追加していきます。 物部氏関係が気になっています。

朴井連雄君・村国連男依・和珥部臣君手・身毛君広・大分君恵尺・黄書造大伴・逢臣志摩・縣犬養連大伴・佐伯連大目・大伴連友国・稚櫻臣五百瀬・書首根摩呂・書直智徳・山背直小林・山背部小田・安斗連智徳・調首淡海。

朴井連雄君(えのいのむらじ)—物部雄君連 (もののべのおきみのむらじ)
壬申の乱の天武側の武将。天武天皇の舎人。

天武1年3月、私用で美濃に赴いたとき、近江朝廷が美濃・尾張の国司に命じて山陵を造るために人夫を徴発し、彼らに武器を取らせたことを知った。これは山陵を造るためではなく、事変の前兆だろうと考えた雄君は、急ぎ吉野にかえって、大海人皇子に報告し、すみやかに避難するように進言。
同1年6月、大海人皇子に従って東国に赴く。

天武5年6月、病のため没する。
天皇はこれを聞き驚いて、壬申年に車駕に従い、東国に入り、大功のあることをもって、内大紫位を贈り、物部の氏上を賜った。(『紀』)

『旧』天孫本紀には、饒速日15世孫、父は守屋大連とあり、天武天皇の時代、氏上・内大紫位を賜り、神宮(石上)を奉斎したとある。物部目の娘・豊媛を妻として忍勝、金弓の二児を生む。天武5年没。朴井連家は物部朝臣麻呂が後継し、石上姓を賜った。天武天皇の崩に際して誄[しのびごと]をした石上朝臣麻呂である。
 朴井は本拠地の名前であるが、大和国高市郡の桜井、同国添上郡の本辻村、和泉国和泉郡などの候補があるが特定できない。

村国連男依・和珥部臣君手・身毛君広・----美濃国に行くように命令される。安八磨郡(安八郡)の湯沐令の多臣品治に機密を打ち明け、兵を集めるように命令を受ける。不破道を塞ぐように命令される。
 村国連男依---美濃国各務郡村国郷を本拠とする村国氏の出身地。ここには、村国神社、村国真墨田神社がある。
木曽川を挟んだ尾張国葉栗郡村国郷あり。大和国添上郡村国郷あり。

和珥部臣君手----和珥氏は大和国添上郡の和珥(奈良県天理市檪本町和邇)を本拠とした。春日氏とも称した。6世紀半ばころ、大宅・檪井・柿本・栗田・小野の諸氏に分かれる。
 和邇氏の始祖と言われる天足彦国押人命の母、世襲足姫は尾張の出身であったと言われている。尾張氏は海部氏の系統。
君手のむすこは近江国滋賀郡の郡司? 君手の和邇部氏は近江国滋賀郡の和邇を本拠にした氏族? 美濃国には、味蜂間(安八麿)をはじめとして山方・肩県の諸郡に丸部(和邇部)を称する者がいた。(遠山美都男著 壬申の乱 P93)

身毛君広---:景行天皇の皇子、大碓命の後裔と称する身毛(牟義都)氏の出身。その本拠地は美濃国武芸郡(岐阜県武儀郡)であった。身毛氏は牟義都国造の地位にある来た美濃の豪族。

多臣品治---品治は古事記を書いた太安万侶の父であると言われていますが、確かではありません。神武天皇の子の神八井耳命(かむやいみみのみこと)の後裔と言われている。
多氏の本貫は肥後国だが、その子孫は、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹波臣、嶋田臣など、全国にわたり国造になっている場合が多い。

 多臣品治は、安八麿評に置かれた大海人の湯沐邑を管理する責任者の地位にありまし。
多氏の一族は大和国十市郡に移り、同地の飫富郷に住む。甲斐国、信濃国の飫富氏は、その一族とされ、また常陸風土記によれば鹿島神宮は多氏の氏神と伝え、信濃国造家もまた多氏の後裔という。
 肥後国から移ってきた多氏は飫富郷を本拠地としますが、この近くには、十市郡の前身である十市県の祭祀を行なった十市県主が本拠を構えていた。多氏の祭る多神社と十市県主の本拠と思われる十市県主坐神社の間は、現在では、2キロぐらいです。十市皇女と十市県主の関係はある?


大分君恵尺---〈大分君と大分国造〉
 『 古事記 』、『 日本書紀 』等に見える古代大分の豪族。
『古事記』 神武記に神武天皇の子の 神八井耳命を祖とする地方豪族として、小子部連、 火君、阿蘇君、筑紫三家連等とともに大分君の名があげられている。
『 旧事紀 』「 国造本紀 」には火国造の項に大分国造と同祖と見える。

大分氏の本拠地である大分郡に津守郷がある。津守氏が住んでいた可能性がある。津守は火明命を始祖とする氏族で、尾張氏と同祖同族関係にある。

当時近江京に残っていた 大津皇子と 高市皇子を父大海人皇子に伊勢国で合流させる任務を受ける。瀬田の合戦で、活躍。大分君稚臣は、大津皇子が合流するにあたり、同皇子に従っていた舎人の一人。

恵尺は天武天皇4年(675)病に。この時天皇は、恵尺に特に親しく詔を贈った。<汝恵尺よ、お前は私心を捨てて国のために尽くし、身命を惜しまず先の大乱(壬申の乱)に功績をあげた。私は永くお前を慈愛しようと思う。もしお前が死ぬようなことがあっても、子孫を厚く賞しよう>。
外小紫位(とのしょうしのくらい)を与える。律令制度の位にあてれば三位に相当する破格の位であった。大海人皇子の舎人として功績をあげた人物の中では、村国連男依とともに最も高い位を賜わっているのである。
大分君稚臣も天武天皇8年(679)に死亡。外小錦上の位を賜わる。この地位は、令制下の五位に相当する位。

黄書造大伴----黄書氏は、高句麗の人、久斯祁王の後裔を称する氏族。子に粳麻呂がいる。
倭(大和国)の京の留守司高坂王に使者を遣わし、駅鈴を求めた。このときの使者に、大分恵尺、黄書大伴、逢志摩の一人。黄書大伴は、大伴馬来田と吹負の兄弟に挙兵を告げたらしい。
黄書画師と呼ばれる集団を率い絵画を書く仕事をして遣える。
天武天皇12年(683年)9月23日に、黄書造は連の姓になった。
大宝元年(701年)に黄文造大伴の壬申の乱での功績が中第と評価され、前に与えられた100戸の4分の1を子に伝えることが定められた。
大宝3年(703年)7月5日に、正五位下の黄文連大伴は山背守になった。山背国は後の山城国である。
和銅3年(710年)10月14日に正六位上[1]で死んだ。壬申の年の功によって、正四位下と物を贈られた。  『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

久世郡には水主郷があった。水主氏は、ニギハヤヒ命を始祖とする物部氏系の氏族。大海人は美濃を拠点に物部氏と関係あり。このことと、関係があるか?

逢臣志摩---不詳。壬申の乱の初期に、駅鈴を求めるために、高坂王の所へ派遣された使者、大分恵尺、黄書大伴、逢志摩の一人。

高坂王---皇族だが系譜は不明。672年の壬申の乱ではじめ大友皇子の側で戦ったが、敗れて大海人皇子(天武天皇)に従った。
大友皇子は穂積百足、穂積五百枝、物部日向を倭京に遣わし、高坂王に軍の編成を命じた。
天武天皇12年 (683年) 6月6日に三位で亡くなる。

書首根摩呂---

書直智徳---書智徳(ふみのちとこ、生年不明 - 持統天皇6年(692年)5月20日?)は、日本の飛鳥時代の人物である。氏は文とも書く。旧仮名遣いでの読みは同じ。姓(カバネ)は直、後に連、さらに後に忌寸。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)側についた。贈直大壱。
壬申の乱の勃発時、書智徳は大海人皇子の舎人であった。6月24日に皇子が挙兵を決意して吉野を発ったとき、書直智徳は皇子に従った二十数人の男の中にいた。乱の後、書直智徳が功により100戸の封戸を与えられたことが、『続日本紀』の大宝元年(801年)7月21日の記事から知られる。  
 参考 -"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B8%E6%99%BA%E5%BE%B3" より作成

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には、人物の一覧表があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1

以下は関係ありません。日本書紀の一部です。

《天武天皇元年(六七二)六月壬午【二十二】》◆六月辛酉朔壬午。詔村国連男依。和珥部臣君手。身毛君広曰。今聞。近江朝庭之臣等。為朕謀害。是以汝等三人急往美濃国。告安八磨郡湯沐令多臣品治。宣示機要。而先発当郡兵。仍経国司等、差発諸軍。急塞不破道。朕今発路。
《天武天皇元年(六七二)六月甲申【二十四】》◆甲申。将入東。時有一臣奏曰。近江群臣元有謀心。必造天下。則道路難通。何無一人兵。徒手入東。臣恐事不就矣。天皇従之。思欲返召男依等。即遣大分君恵尺。黄書造大伴。逢臣志摩于留守司高坂王。而令乞騨鈴。因以謂恵尺等曰。若不得鈴。廼志摩還而復奏。恵尺馳之往於近江。喚高市皇子。大津皇子、逢於伊勢。既而恵尺等至留守司。挙東宮之命、乞騨鈴於高坂王。然不聴矣。時恵尺往近江。志摩乃還之、復奏曰。不得鈴也。是日。発途入東国。事急不待駕而行之。黴遇県犬養連大伴鞍馬。因以御駕。乃皇后載輿従之。逮于津振川。車駕始至。便乗焉。是時。元従者草壁皇子。忍壁皇子。及舍人朴井連雄君。県犬養連大伴。佐伯連大目。大伴連友国。稚桜部臣五百瀬。書首根摩呂。書直智徳。山背直小林。山背部小田。安斗連智徳。調首淡海之類、二十有余人。女孺十有余人也。即日。到菟田吾城。大伴連馬来田。黄書造大伴。従吉野宮追至。於此時。屯田司舍人土師連馬手供従駕者食。過甘羅村。有猟者二十余人。大伴朴本連大国、為猟者之首。則悉喚令従駕。亦徴美濃王。乃参赴而従矣。運湯沐之米伊勢国駄五十匹、遇於菟田郡家頭。仍皆棄米、而令乗歩者。到大野以日落也。山暗不能進行。則壌取当邑家籬為燭。及夜半。到隠郡、焚隠騨家。因唱邑中曰。天皇入東国。故人夫諸参赴。然一人不肯来矣。将及横河。有黒雲。広十余丈経天。時天皇異之。則挙燭親秉式、占曰。天下両分之祥也。然朕遂得天下歟。即急行到伊賀郡。焚伊賀騨家。逮于伊賀中山。而当国郡司等、率数百衆帰焉。会明至〓萩野。暫停駕而進食。到積殖山口。高市皇子自鹿深越以遇之。民直大火。赤染造徳足。大蔵直広隅。坂上直国麻呂。古市黒麻呂。竹田大徳・胆香瓦臣安倍従焉。越大山、至伊勢鈴鹿。爰国司守三宅連石床。介三輪君子首。及湯沐令田中臣足麻呂。高田首新家等参遇于鈴鹿郡。則且発五百軍、塞鈴鹿山道。到川曲坂下、而日暮也。以皇后疲之、暫留輿而息。然夜〓欲雨。不得淹息而進行。於是。寒之雷雨已甚。従駕者衣裳湿、以不堪寒。乃到三重郡家。焚屋一間、而令温寒者。是夜半。鈴鹿関司遣使奏言。山部王。石川王、並来帰之。故置関焉。天皇便使路直益人徴。

甲申、將入東。時有一臣奏曰、近江群臣、元有謀心。必害天下。則道路難通。何無一人兵、徒手入東。臣恐、事不就矣。天皇從之、思欲返召男依等。即遣大分君惠尺・黄書造大伴・逢臣志摩于留守司高坂王、而令乞驛鈴。因以謂惠尺等曰、若不得鈴、廼志摩還而覆奏。惠尺馳之、往於近江、喚高市皇子・大津皇子、逢於伊勢。既而惠尺等、至留守司、擧東宮之命、乞驛鈴於高坂王。然不聽矣。時惠尺往近江。志摩乃還之、復奏曰、不得鈴也。是日、發途入東國。事急不待駕而行之。倏遇縣犬養連大伴鞍馬、因以御駕。乃皇后載輿從之。逮于津振川、車駕始至。便乘焉。是時、元從者、草壁皇子・忍壁皇子、及舍人朴井連雄君・縣犬養連大伴・佐伯連大目・大伴連友國・稚櫻部臣五百瀨・書首根摩呂・書直智德・山背直小林・山背部小田・安斗連智德・調首淡海之類、廿有餘人、女孺十有餘人也。即日、到菟田吾城。大伴連馬來田・黄書造大伴、從吉野宮追至。於此時、屯田司舍人土師連馬手、供從駕者食。過甘羅村、有獵者廿餘人。大伴朴本連大國、爲獵者之首。則悉喚令從駕。亦徴美濃王。乃參赴而從矣。運湯沐之米伊勢國駄五十匹、遇於菟田郡家頭。仍皆棄米、而令乘歩者。到大野以日落也。
甲申に、東に入らむとす。時に一の臣有りて、奏して曰さく、「近江の群臣、元より謀心有り。必ず天下を害らむ。則ち道路通ひ難からむ。何ぞ一人の兵無くして、徒手にして東に入りたまはむ。臣恐るらくは、事の就らざらむことを」とまうす。天皇、從ひて、男依等を返し召さむと思欲す。即ち大分君惠尺・黄書造大伴・逢臣志摩を留守司高坂王のもとに遣して、驛鈴を乞はしめたまふ。因りて惠尺等に謂りて曰はく、「若し鈴を得ずは、廼ち志摩は還りて覆奏せ。惠尺は馳せて、近江に往きて、高市皇子・大津皇子を喚して、伊勢に逢へ」とのたまふ。既にして惠尺等、留守司のもとに至りて、東宮の命を擧げて、驛鈴を高坂王に乞ふ。然るに聽さず。時に惠尺、近江に往く。志摩は乃ち還りて、復奏して曰さく、「鈴を得ず」とまうす。
 是の日に、途發ちて東國に入りたまふ。事急にして、駕を待たずして行す。倏に縣犬養連大伴の鞍馬に遇ひ、因りて御駕す。乃ち皇后は、輿に載せて從せしむ。津振川に逮りて、車駕始めて至れり。便ち乘す。是の時に、元より從へる者、草壁皇子・忍壁皇子、及び舍人朴井連雄君・縣犬養連大伴・佐伯連大目・大伴連友國・稚櫻部臣五百瀨・書首根摩呂・書直智德・山背直小林・山背部小田・安斗連智德・調首淡海の類、二十有餘人、女孺十有餘人なり。即日に、菟田の吾城に到る。大伴連馬來田・黄書造大伴、吉野宮より追ひて至けり。此の時に、屯田司の舍人土師連馬手、從駕者の食を供る。甘羅村を過ぎ、獵者二十餘人有り。大伴朴本連大國、獵者の首たり。則ち悉に喚して從駕らしむ。亦美濃王を徴す。乃ち參赴りて從る。湯沐の米を運ぶ伊勢國の駄五十匹、菟田郡家の頭に遇ひぬ。仍りて皆米を棄てて、歩者を乘らしむ。大野に到りて日落れぬ

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2008.04.17

見返峠 (2)  page 45

ヒルゼンは都としては理想的だった。古代の人は日本中でベストの所を選定されたのである。
中国とは境港の良港もあった。旭川、吉井川を経て瀬戸内海に出られる交通の要所である。しかも、周囲を山に囲まれた要害の地だった。
しかし、肝心の米が取れなかったので、数年間だけ高天原だった。高天原は長い歴史の中に一瞬しか存在しなかったので、古代史はベールに包まれてしまった。
天孫降臨の時は天の浮橋が出来ていた。これは早朝でしかも夏から秋にかけて多い。雪にとじこめられる前にヒルゼンを放棄したのである。
明連川をさかのぼって見返峠に出た。明連とは明ツ神が連れだって通ったのが由来と考えたい。
見返峠とは野麦峠と同じ様な、哀しい思いでの峠で、はるかにヒルゼンが遠望出来る峠である。神橋のぎ宝珠までが地名になった。

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2008.04.16

資料16 遣唐使への考察

下の資料より、
 (1)1回~7回、規則正しく、遣唐使が派遣されている。
 (2)天武・持統天皇の時代は、遣唐使が派遣されていない。
 (3)第二回遣唐使のときに、遣唐使として僧、定慧の名前がある。中臣鎌足(藤原鎌足)の長男であり、藤原不 比等は弟である。


 第1回 舒明2年(630年) - 舒明4年(632年):犬上御田鍬(大使)・薬師恵日
舒明天皇は、日本の第34代天皇。
(生まれ--推古天皇元年(593年)? - 崩御、舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))
(在位:舒明天皇元年1月4日(629年2月2日) - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))。

先代の推古天皇は、在位36年3月7日(628年)に死去。
蘇我蝦夷は群臣にはかって田村皇子を立てて天皇とする。舒明天皇誕生。
舒明天皇の時代、政治の実権は蘇我蝦夷。
在位中、最初の遣唐使を送り、唐からの高表仁の返訪を受けた。 唐には使者の他にも学問僧や学生が渡り、隋の頃に渡った者も含め、僧霊雲、僧旻、僧清安、高向玄理が帰国した。

第2回 白雉4年(653年) - 白雉5年(654年):吉士長丹・吉士駒・高田根麻呂・掃守小麻呂・道昭 、定慧
定恵(じょうえ、皇極天皇2年(643年) - 天智天皇4年12月23日(666年2月2日))。飛鳥時代の学僧。父は中臣鎌足(藤原鎌足)。母は車持国子の娘・与志古娘。
出家前の俗名は「中臣真人」、弟は藤原不比等。
653年5月遣唐使とともに唐へ渡る。長安懐徳坊にある慧日道場に住し、神泰法師に師事した。遊学して内経外典に通じたという。665年(天暦4年)9月、朝鮮半島の百済を経て日本に帰国。同年12月大原(現在の奈良県高市郡明日香村小原)で亡なる。病気で紀未来か?

第3回 白雉5年(654年) - 斉明元年(655年):高向玄理・河辺麻呂・薬師恵日
高向玄理は帰国せず唐で死亡。

第4回 斉明5年(659年) -斉明7年(661年): 坂合部石布・津守吉祥・伊吉博徳

第5回(送唐客使)天智4年(665年) - 天智6年(667年):守大石・坂合部石積・吉士岐彌・吉士針間
第6回 天智6年(667年) - :伊吉博徳
第7回 天智8年(669年) - ?:河内鯨(大使) 
以上が2隻、これ以降は4隻

673年~686年  天武天皇 在位
690年~697年  持統天皇 在位  持統天皇崩御 大宝2(702)年12月22日
697年~707年 文武天皇 在位
草壁皇子が689年に亡くなり、その後、高市皇子も亡くなったため、693年立太子した。 697年、祖母・持統天皇に譲位され即位した。 まだ15歳であったため、持統天皇が後見人として付いた。
701年(大宝元年)に大宝律令が完成し、翌年公布。
第8回 大宝2年(702年5月) - 慶雲元年(704年:粟田真人(遣唐執節使:しつせつし)・山上憶良(少録:しょうさかん)・高橋笠間・坂合部大分

第9回 養老元年(717年) - 養老2年(718年):多治比県守・阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・大伴山守・藤原馬養
第10回 天平5年(733年) - 天平7年(735年):多治比広成・中臣名代・平群広成・大伴古麻呂
帰路、第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国)に漂流。天平11年(739年)に帰国。
第11回(746年) - 派遣中止:石上乙麻呂
第12回 勝宝4年(752年) -  勝宝6年(754年):藤原清河(大使)・吉備真備(副使)・大伴古麻呂(副使)
帰路、鑑真同乗。第1船の藤原清河と阿倍仲麻呂は難破し唐に残留
第13回(藤原清河のため迎入唐使) 宝字3年(759年) - 宝字5年(761年):高元度

第14回 宝字5年(761年) - 派遣中止:仲石伴・石上宅嗣・藤原田麻呂
第15回 宝字6年(762年) - 派遣中止:中臣鷹主・高麗広山
第16回 宝亀8年(777年) - 宝亀9年(778年):藤原鷹取・小野石根・佐伯今毛人・大神末足
第17回(送唐客使) 宝亀10年(779年) - 天応元年(781年):布施清直・多治比広成
第18回 延歴23年(804年) - 大同元年(806年)10月:藤原葛野麿・石川道益・最澄・空海・橘逸勢
第19回 承和5年(838年) - 承和6年(839年):藤原常嗣・小野篁(副使であったが派遣前に逃亡流罪にされた)・円仁
第20回 寛平6年(894年) - 派遣中止:菅原道真(大使であったが派遣中止を進言)・紀長谷雄

遣唐使一行
『延喜式』大蔵省式 大使・副使・判官・録事・知乗船事・訳語・請益生・主神・医師・陰陽師・絵師・史生・射手・船師・音声長 新羅奄美訳語・卜部・留学生・学問僧・傔従・雑使・音声生・玉生・鍛生・鋳生・細工生・船匠・柂師・傔人 挟杪・水手長・水手など

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2008.04.10

見返峠 (1)  page 44

 鏡成(カガミガナル) 国民休暇村と鬼女台展望台
の中間の峠である。ここの西北の山は神橋につきも
のの、ぎ宝珠山である。
この麓を流れる川は明連川である。ヒルゼンでは
米が全く取れなかった。大国主命から米子や松江の
葦原の中州国すなはちデルタ地帯を譲ってもらった。
 
 やっと入植地かぜ確保できたので、政府機関は
倉吉平野の西の現在名高千穂に転進したのである。
 生まれたの赤んぼ、ニニギの命は、天照大神の三
世だから最早純然たる日本人で渡来民族と云われる
べきではない。
 日系三世はハワイでもブラジルでも知事になって
いる。これは同じバトンタッチが、紀元57年に行われた。
 日本民族に取っては、歴史的な年である。(後稿参照)
 天孫降臨と一般に言われている、歴史の一コマだった。

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2008.04.03

日野川 Page 43

神の座を追はれたスサノオの命は、三平山を俣野川に下りた。この川の名も最近までは神奈川だつた。何れ日野川に合流する。
 地名は武庫である。剣や矛の保管場所である。ここから日野川を遡った。八岐の大蛇の神話が生まれた所である。
 これは神話にしたのは本居宣長の責任だろう。出雲の国の斐伊川を、古事記の肥之河にあてたのである。2000年昔の地名は、大和言葉か、中国臭の地名、動物名が使用されている。
 従って日野川がピッタリなのだ。この日野川を遡れば、古事記の鳥上山(現在名船通山)の頂上近くまで川原を歩いていける。
 物々交換の始まらない時代には、川原が最良の道だった。急流だと川原は出来ないから道の役には立たない。
 鳥上山の製鋼所(別稿参照)は三平山からは夜は、夜空を染めて丸見えだったので、スサノオの命は、迷うことなしに進んでいけた筈だ。

一言----田村氏は、三平山から鳥上山を眺められたのですね。そして、今は、勿論、製鋼所が見えるわけなど無いし、当時に、製鋼所があっかどうかも解らないのに、2000年前を思いやりながら、三平山へ何度も行っておられます。
 これこそ、本当のロマンですね。私も、どこかへ行った時は、真似をして楽しんでいます。

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