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2008.06.30

ヒルゼン古事記 古代地名の化石   page—9

ヒルゼンは2000年前の地名がそっくり残っている、いはば地名の化石です。太古には琵琶湖につぐおおきな湖でした。これが決壊して旭川となって流れ出しました。 
 大山国立公園に見られるブナの原生林だした。ここに福ノ神族がやって来ました。これは高天原の誕生です。日本の都にするつもりでしたから、万を超える人口だったでしょうから、地名が必要になります。そのあと突然転進してしまいました。
 人の居らない山や野には動物名がつけられました。熊、犬、象、鳥、鳩、鷲、蛇、蛭(蒜山はもとは蛭山)等です。
 福ノ神族のシンボルの福と宮は多いです。しかし神のつく地名がなくて、天のつく地名、天王、とか天谷があります。天のつく地名は、天照大神が移った舞鶴国に豊富にあります。
 あとは漢文に出てくる徳とか白髪といった地名ががここに住んでいた民族を教えてくれます。
 城山、天狗山、愛宕と苗代は福ノ神族が好んで採用することになりました。
 竜頭とか鬼女台(キメンダイ)も変わっています。

私の一言---、『鬼女台展望台』に、由来を説明する看板があるそうです。
それによると、昭和三十七(一九六二)年、“蒜天(ひるてん)”と名乗る登山家が岡山国体の登山コースの下調べに訪れた際、台地から大山方面を見下ろすと、二つの小高い丘があったそうです。それは女性の胸部を連想させました。

 蒜天こと、元環境庁自然公園指導員で蒜山の自然を守る会会長の徳山銕也さん(79)=真庭市=は、見つけた時の感動を「とてもきれいで、大きな女性の美しい胸が想像できた」と振り返ります。スケールの大きさと不思議に人を引き付ける妖艶(ようえん)さに、「女は女でも『鬼女』だ」と、とっさに地名がひらめいたそうです。

http://www.nnn.co.jp/tokusyu/sokoga/060511.html から拝借しました。
 ありがとうございました。


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2008.06.26

ヒルゼン古事記 高地性集落   page—8

高地性集落は、弥生中期に突然発生して、弥生後期には消滅した集落です。瀬戸内海から、紀州西岸にかけて、海の見渡せる、比較的低い山に貝塚が至る所にできました。
 農耕に不便な所に集落が出来たのですから、敵の見張りと撃退が目的です。
 この詳しいことは、村上正名、甲賀真之、伊藤照雄三氏の共同の「山陽の古代遺跡」や、その他の本に書かれています。
 実はこの高地性集落は、第三グループの福ノ神族の侵入に備えたものでした。このグループは、恐らく華南から逃げ出した難民です。無秩序で、所きらわず入植しました。
 先住民ともめるのが当然です。従って、先住民は山の上で見張りが必要になります。
 挙句のはては、同郷の第二グループの地盤にも侵入をはかります。従って第二グループすなはちヤマトのテリトリーが明らかににりました。従って旭川の川口のおびただしい、福のつく地名は東征の時の屯田兵です。

私の一言---これは見事な分析だと思います。ただ、瀬戸内海から、紀州西岸にかけては言えるような気もしますが、本当かなと調べたことがあります。その時の感触では、高地性集落は、ここに限らず、東のほうにもあるようです。たとえば、大阪府を調べました。沢山あり過ぎて、確認できません。出来るだけ登ってみました。
 全部、調べましたら他のことも発見できるかもしれません。
高地性集落 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page299.html  に書いています。

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2008.06.25

No90 日本書紀と美濃王、御野王、三野王、弥努王、美務王

美濃王は、どのように読むのかは、正確には分かりません。仮に、全部、同じ王であれば、可能性としては、「みのおう」でしょうか?
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、(みののおおきみ)と「みののおほきみ」を記しています。
 (みののおおきみ)が正しいのかも知れませんが、私に限りますと、自分で(みののおおきみ)と読みますと、一瞬、思考が途切れます。
 難しいところですが、無理に、(みののおおきみ)と読まないで、「みのおう」が自然の様に思います。この読み方は、歴史を学ぼうかとおもう人を委縮させるように思います。
 
 さて、本題です。美濃王、御野王、三野王、弥努王、美務王と並べました理由は、全部、「みのおう」と読んだのではないかということを言う為です。
美濃王、御野王、三野王は、「みのおう」と読めますが、弥努王、美務王は読めません。
弥努王と書いてあるところでは、同じ人物を「みぬおう」と発音していたため、書くときには、弥努王、美務王と書いたのではないでしょうか?

 このことを考える資料として、次に、日本書紀に書かれた「みのおう」を記して置きます。

(1) 天武天皇2年(673年)12月17日に、小紫(従三位)・美濃王は、小錦下・紀訶多麻呂 とともに造高市大寺司に任じられた。高市大寺は大安寺の前身。
「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」では御野王と記される。
(2) 天武天皇4年(675年)4月10日に、小紫(従三位)・美濃王は小錦下・佐伯広足とともに遣わされて竜田の立野(奈良県三郷町立野)で風神を祀った。奈良県三郷町立野にあたる。天武朝では、竜田風神と広瀬大忌神の祭りは『日本書紀』に連年記録された重要な祭祀で、その初見がこの年のものである。
(3) 天武天皇10年(681年)3月17日に、天皇は帝紀と上古の諸事を記し、確定させた。その詔を受けたのは、川島皇子、忍壁皇子、広瀬王、竹田王、桑田王、三野王、上毛野三千、忌部首、安曇稲敷、難波大形、中臣大島、平群子首であった。
(4)天武天皇11年(682年)3月1日に、小紫・美濃王及び宮内官大夫等に命じて新城(平城)に遣いして、其の地形をみるように命令する。新しい都を作ろうとされた。
(5) 天武天皇13年(684年)の2月28日には、三野王は采女筑羅とともに信濃国に遣わされ、地形を見るよう命じられた。
(6)  天武天皇閏4月11日に、三野王は信濃国の図を提出した。
(7) 天武天皇14年(683年)9月11日に、天皇は宮処王、広瀬王、難波王、竹田王、弥努王を京と畿内に遣わして、人々の武器を検査した。
(8)持統天皇8年(694年)9月22日に、浄広肆(従五位下)三野王は筑紫大宰率に任命された。

タイトルにどうして、日本書紀を入れたかと云いますと、同じ人物なのに、日本書紀の作者は、どうして漢字を変えたのかを知りたいからです。

日本書紀は、いろいろ不思議な部分があります。神武天皇は沢山書いたのですが、神武天皇のことは書きたくなかったのではないかと思っています。普通は、書きたくなかったら、書かなければいいのです。このように考えますと、その後の天皇で、書いてある事柄が少ない天皇があります。書きたくなかったのだと思います。
 では、神武天皇は、何故書きたくないのに、いっぱい書いたのでしょう。
このことは、又、判りかけたら書くこととして、美濃王のことは、ある程度、真相に迫れるのではないかと思っています。

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2008.06.22

ヒルゼン古事記 屯田兵   page—7

紀元前3世紀頃から、大和平定までに渡来した民族を福ノ神と名付けました。この民族は単一民族ではありませんが、稲作技術をもって日本にやって来ました。
 稲作技術は血をあまり流さないですむ、平和進駐の武器でした。関東平野の稲作は、先住民の転換作物です。
福ノ神族は三つのグループに分けられます。第一のグループは前漢の植民地政策以前に、前三、四世紀ごろに、新天地を求めてやって来た人で、九州の一部や金沢、能登にやって来ました。
 第二のグループは植民地政策でやって来た人達です。統制の取れた屯田兵です。将校は天ツ神です。漢の王の直系が天照大神達で、天のつく地名に住みました。
 天ツ神の住む所は宮で、屯田兵は福の付く地名に主に居りました。
 神武東征と共に奈良に移りました。従って移ったあとは過疎地として残りました。故郷には廃寺や主のない古墳が残ります。

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2008.06.21

ヒルゼン古事記 漢の東方政策   page—6

前漢は紀元前195年に建国されました。朝鮮の中央部の平壌や京城が、前漢に占領さけて、四ツの郡が成立したのは紀元前108年です。
 西方では5000キロ奥地で漢の植民地化が進んでいたのに、南鮮とと善隣の九州が、漢と交友関係があったから、金印をもらったと日本の学者は考えていました。
 朝鮮の中央部が漢に占領されていても、日本は神国だから特別扱いとは、昔も今ものんびりすぎないでしょうか?
紀元150年には、漢の軍隊はヒルゼンまで侵入して来てました。
  この軍隊は自給自足の屯田兵で、中国地方を中央を突破して西大寺にヤマトを作ります。
 神武東征でヤマトは奈良に移ります。神宮皇后が九州と新羅を征伐して、所期貫徹となります。
 ごほうびが正倉院の御物となって残りました。日本人のルーツ解明に意外なヒントを与えてくれました。

一言—なんでも疑って見ることだと思っています。
正倉院の御物は、国宝です。国宝と云うことは、私のものでもあり、あなたのものでもあります。見たい人には、毎年一回見せて貰えますが、人気のある品物の前では、背の低い私は、息を止めて数秒見せて貰います。撮影禁止ですから、目録を買います。自分で撮影するよりはきれいですが、全部そろえるには、膨大な費用が必要です。私のものをみるには、もう少し安く提供出来ないのでしょうか?
どうして、インターネットで公開しないのでしょうか? 世界の人が、それを見て、本物を日本まで見に来られるかもしれません。

正倉院の御物は、「756年(天平勝宝8歳)、光明皇后は、夫聖武天皇の七七忌に、天皇遺愛の品約650点と、約60種の薬物を東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献した。その後も光明皇后は3度にわたって、自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献している。これらの献納品については、現存する5種類の「献物帳」と呼ばれる文書に目録が記されている。これらの宝物は正倉院に収められた。」とフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に書いてあります。

ここに書いてあることは本当でしょうか? なんでも疑って見ることだと思っています。
なにを疑うのかと云いますと、全部見た人は、「ああ、これは戦利品であることがバレテしまうから隠しているのでは・・・」
国宝ですが、世界の人にも開放すべきです。
 常設展示場を設けます。大阪府知事が、ぶっつぶすと言っている大阪府立 近つ飛鳥博物館で展示するか、万博公園内に造ればいいと思います。
 この話はスケールが大きいですから、せめて、インターネットに資料を保存・公開すべきです。

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2008.06.20

ヒルゼン古事記 シルクロードの旅   page—5

NHKのシルクロードの旅の放映と、単行本は、日本の古代史にヒントを呉れました。
 漢の都から5000キロも離れた、トルファンで、漢の屯田兵は、20万も動員されました。この時期は、大国主命が国譲りしたのと同時代でした。後57年に授けられた金印は、植民地第一号の、根の国王すなはち、ニニギの命に与えられました。
 音楽の旅でクチャの壁画に、正倉院の御物の五弦の楽器か描かれていました。五弦の楽器は床の間の飾り物でない以上、演奏者や踊りのチームも、同時に日本に来た筈です。
 放映されたクチャの踊りが、実はヒルゼンに伝わる、無形文化財の大宮踊りと、そっくりでした。1200年昔に、五弦の楽器と一緒に持たせされた、7000キロ離れた所のクチャの踊りが、残っていたのです。
 正倉院の御物を見る限りにおいては、文化は1200年経っても、前進したと言えるでしょうか? シルクロードは、あまりにも身近の問題だった様です。

一言---ここには、凄いことが書いてあります。私は確かめるために、NHKのシルクロードの旅のDVDを購入しました。クチャの 踊りというのは。DVD
に収録されているのですが、踊っている人たちは、1200年前、ここに住んでいた人たちと人種が全く違うそうです。侵略(?)してきた人たちも、自分たちの踊りと云うものをもっていたはずですのに、踊りだけが残っているそうです。五弦の楽器は、クチャには壁画に残るだけで、中国を飛ばして、日本に伝えられています。
 問題は、日本の「大宮踊り」はどうして無形文化財となったのでしょう。一見盆踊りの様なものですが、普通の盆踊りと違うから、無形文化財となったはずです。
 「大宮踊り」のほうは、インターネットの映像が少しありましたので、見ましたが、私は似ているとは思いませんでした。
 テンポの遅い優雅な踊りとお聞きしましたが、どなたかビデオで撮影されたものをお持ちではありませんでしょうか?
出れば、今年の夏はヒルゼン高原へいって体験して来ようと思っています。
 
 音楽と舞踊と共通するところがあるのか、プロの人の参加は必要です。 これは、日本書紀国家の仕事だと思います。
 一言が多くなりました。 五弦を運んできた人は、クチャの人であり、彼らは仏教とであったことが、クチャの遺跡に残っています。しかし、住んでいる人々は、仏教を信仰していません。
 クチャを国ごと離れた人は、経過は判りませんが、日本のヒルゼン高原を中心として住み、その周りに見える山に、「△△ 山」と書いて、「△△セン」と名付けました。
紀元前のことです。仏像など入らない前に、心の中には、日本人は仏教を秘めていましたから、遣隋使、遣唐使で派遣された僧は、中国で歓迎されたはずです。
 字で書かれた仏典を写して帰国した僧侶は、本当の意味で仏教の神髄を触れたことになります。
 その後、日本における仏教の発展の様子は、このように考えませんと、理解できません。
中国や朝鮮から教えて貰ってたのであれば、そんなに良いものであれば残ったはずです。残ったのは海を渡った日本書紀であり、そこで世界で最も精神文化が発展したと考えています。

 日本大好き No112 日本の仏教伝来—5
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-06-30

日本大好き No111 日本の仏教伝来—4
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-06-29
日本大好き No110 日本の仏教伝来—3
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-06-28

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2008.06.19

資料No23文祢麻呂銅板墓誌

榛原・八滝地図 
http://www.mapion.co.jp/c/f?nl=34/29/49.862&el=135/59/15.000&scl=25000&uc=1&grp=all&coco=34/29/49.862,135/59/15.000&icon=home,,,,, 墓は伊那佐山の南東に位置します。

奈良文化財研究所のホームページによりますと、次の様に書かれています。
【1831年(天宝2)に現在の奈良県宇陀郡榛原町八滝の丘陵から文祢麻呂の墓が発見された。当時の記録によると、墓誌を入れた銅箱と、ガラス製骨蔵器を納めた金銅製壺型外容器を墓壙内に置き、周囲を焼炭で埋め ていたようである。墓誌は青銅製で、縦26.2cm、横4.3cmの短冊形の薄板である。表面に2行17字詰めで、祢麻呂の官職と位階、没年月日を記した簡潔な墓誌銘を刻む。
「壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒」
この銘文によると、祢麻呂は707年(慶雲4)9月21日に左衛士府の長官の職で没し、正四位上の位階が追贈された。冒頭に「壬申年将軍」とあるように、大海皇子の舎人として活躍した壬申の乱の功臣で、「日本書紀」にもその名が見える。】
http://www.nabunken.go.jp/gallery00/3/3_1_2.html

名前が、文祢麻呂(書根麻呂)ですから、文書関係の仕事に携わっていた人かと思っていましたが、左衛士ですから、門番(職掌は宮門を守衛し通行者を検察する。)をしていた兵士となります。しかし、壬申の乱では、将軍の名に値するトップクラスの地位に居たことになります。

墓誌に書かれていた名前は、文祢麻呂です。日本書紀に書かれている名前は、書根麻呂です。「壬申年将軍」とあることから、日本書紀に書かれている書首根麻呂であることが分かります。
墓誌の銘文によると、祢麻呂は慶雲4年(707年)9月21日に左衛士府の長官の職で没し、正四位上の位階が追贈されたことが分かります。では、何故、追贈されたのでしょう。
又、どうして、名前が違うのでしょうか?
日本には、墓誌は30ぐらいしかないと耳にしたことがあります。どうして、少ないのでしょうか? 今後、まだまだ、見つかる可能性があるのでしょうか?

下に掲げました、【参考リンク】に次の様な文章が書いてありました。
 これは、勉強が必要です。

<文祢麻呂は、文氏という渡来系の氏族に属する者のようです。東漢氏(やまとのあやうじ)の系統とも言われているようですが、西文氏(かわちのふみうじ)に属する者のようでもあります。私にはどちらとも言えないのですけど、墓域にあった案内板には、西文氏と書いてありました。
 だとすると、西琳寺などとの関連もまた面白いものになってきます。>


参考リンク
文祢麻呂(書根麻呂)墓探検記 http://sanzan.gozaru.jp/bb/bb59/bb59.html きれいな写真があります。

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2008.06.18

資料No22岩神神社

奈良県吉野郡吉野町矢治  mapoin
祭 神:岩穂押開神

御神体
岩穂押分神 

昭和14年 宿ノ神社を岩神神社と改名。


参考 リンク先

古社を訪ねて http://blog.goo.ne.jp/taisi_ii/e/b6bf5531817d5f2ec144db87fcc44959
岩神神社  http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt0/n8iwg02.htm
岩神神社  http://kamnavi.jp/as/yosino/iwakami.htm


岩穂押開神の名前に注目。
吉野町矢治は、清滝の隣(菜摘)の隣の集落です。 どうして、「矢治」という名前なのでしょう。どうして、菜摘なのでしょう。

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2008.06.17

ヒルゼン古事記 古事記とぎ志倭人伝   page—4

古事記は戦前には発禁本でした。神話として、ひろい読みが許されただけで、全巻通して読むことは不可能でした。この理由は古事記を手にするなり、分かりました。
 天皇制の都合の悪い所や戦前にはポルノとして発売不可の箇所があります。
 しかしヒルゼンを高天原とすれば、日本書紀古代の正確な歴史です。
 ぎ志倭人伝も極めて正確な記述でれ歴史でした。更に驚くべきことは、日本人は海洋民族で、支那大陸から渡来しました。
 別の云い方をすれば漢の東方政策で、500年かかって、占領されていたのです。
 古事記は占領記録です。ぎ志倭人伝は三国志の一部で、植民地報告でした。
邪馬台国をヤマトと読んで、西大寺と想定すれば、古代史の謎は全て解けてしまいます。
 神話がなくなって、古代史として建国のありさまが明らかになります。
 古事記とぎ志倭人伝は、原文と照合しつつ読まれることです。

一言---最後の「古事記とぎ志倭人伝は、原文と照合しつつ読まれることです。」は、全く、その通りだと思います。他の人が言っているからと云って信用しないことです。

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2008.06.16

ヒルゼン古事記 めぐりあい  3ページ

〝神代遺蹟考〟は、昭和三年に、勝山中学校の英語の先生で教頭であった、佐竹先生の遺稿です。中塚貴志先生の尽力で、五十年ぶりに日の目を見ることになりました。
 高天原は日留山高原だったの副題がついています。佐竹先生は勝山中学校に転勤の車窓から古墳の多いのに、気付かれて、僅か一年で蒜山が高天原だったと、原稿を書かれました。蒜山は岡山のチベットで、今でも交通の不便な所です。
 こんな山奥を一年間調べただけで、高天原と断定出来た位、蒜山高原は小生にも納得のゆく所でした。蒜山と高原を含めてヒルゼンとして、話を進めたいと思います。
 拙稿「神々のふるさと、ヒルゼン」、「地図が解いてくれた倭国と邪馬台国」に引継いで三巻目です。
  高天原は益々ヒルゼンでなければならない印象を強くして居ります。
 どなたもヒルゼンの景観一目されれば、夢は2000年昔を、駈け廻ります。


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2008.06.15

古代史は、地名クイズ  2ページ

第三話  ヒルゼン古事記      昭和56年建国記念日 古代史は、地名クイズ  2ページ

1 人泣かせの地名は、福ノ神、おはこ
  例  上神―――カズワ―――倉敷
      倭文―――シトリ―――津山
      大和―――ヤマト―――奈良
2. ぎ志倭人伝の国名は、速記文字
  古事記のは音標文字
3. 福ノ神族が大をつけたら、最高で従って
  原則は一箇所
  例  大山、大和、大川、 大神、大福
4. 動物のつくところは古代でも年代が古い
   ヒルゼン、隠岐、鹿児島、舞鶴
5. 天王、天皇のつく地名は、呉、漢の皇室に縁あり。? ?

6.福の神族の地名ハターンは、出雲と伯岐全域の比較が役立つ。

7. 国分寺、国府、一宮、弥生時代の古墳
  一里(4キロ)以内に福、神、宮のつく地名が多い。廃寺も対称 (対象の間違いか?)


一言--- 第1話 神々のふるさと ヒルゼン
終了しました。地図がいっぱいのページがあり、掲載したかったのですが、文章だけになりました。63ページの小冊子でしたが、内容は、充実したものでした。
田村誠一氏は、「第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国 」を昭和55年12月25日に発行しておられます。
 残念ながら、持っていませんので、公開できません。

そこで、第三話  ヒルゼン古事記      昭和56年建国記念日
を続けて、公開します。
 古代史は、地名クイズ  2ページを読んで頂けましたか?
なんのことか
 お解りにならないと思いますが、続けて読んで頂きますと、少しずつ、面白くなってくると思います。
しかし、ここに書かれましたことを自分で、確認しようとしますと、地図ばかり眺めて、目を悪くすると思います。それだけでは、納得できませんので、現地へ行くことになります。身体の調子が悪くなるのではないかと思います。

7. 国分寺、国府、一宮、弥生時代の古墳 
 一里(4キロ)以内に福、神、宮のつく地名が多い。廃寺も対称

 これだけでも、膨大な時間とお金が必要です。でも、楽しむことができることは請負です。はじめは、地図だけですが、その内に、全国の国分寺、国府、一宮に行きたくなります。きっと、5年では出来ないと思います。

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2008.06.14

古代の道(7)   page 63

スサノオの命は現在名、横田の大呂の最新式製鋼所を、職人を酔わせて占領した。稲作を華南から導入したので鋤が必要なことを痛切に感じたはずである。
 倉敷には鋤の地名がある。文字も助ける金となっている。これは
鉄板の一部を鍛冶で曲げたりして、柄をつけたので、鍋にする安物の鉄ではだめだった。剣にも玉鋼が必要だった。
 米子の市内から岡山市西大寺まで、点々と鍛冶屋(蚊屋も同一)と金屋の地名が十ヵ所近く、しかも日野川、旭川の上流、吉井川中流、下流にある。
 これが古代の鉄の道だった。鍛冶用の木炭のために福のつく地名が炭焼きが誰だつたかを教えてくれている。
 朝鮮からの鉄は交換物資の米が取れて以降であった筈だ。この様に鉄も時代によって、砂鉄であったり、朝鮮の鉄ていだったりする筈だ。朝鮮からの鉄ていも、四十曲りの峠を越えて吉井川を下ったと考えてよい。

一言---ここ書いてあった地名を実際に確かめてください。その周りに、福の字が付く地名が見つかるから不思議です。
 鉄について書いた漢字は、殆どありません。「たたら」について書いた本はあります。あるだけではなく、買えるものは買いました。買えないものは、借りたり、図書館で読みました。
 鉄は、朝鮮や中国から入って来たように書いてあるのが殆どです。鉄は絹と一緒で亡くなってしまいますから、発掘が行われても、出土することが少ないです。そのため、外国から来たように書いておられます。
 遣唐使のころの大型の船でも、記録に残っているものは、60%が失敗しています。
そんなときに、朝鮮から、重い鉄を輸入していたのでしょうか? それは朝鮮の鉄と日本の鉄を分析して成分が同じなら、どちらかから、どちらかに移動したことが判るだけです。
 このように「筈」だの連続でも、次々、発想を重ねますと、古事記に見られる
「須佐之男の大蛇退治」
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page355.html
も、古代の製鉄所襲撃事件だったことに行きつきます。このことが、この文章の初めの部分になります。
 紀元前150年頃のことではないでしょうか?

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2008.06.12

古代の道(6)   page 62

途中の宇和佐は、延喜式で、美作に神社が10座あった中の7座までがあった所である。
如何に重要な所であったかの説明は要しないだろう。
 大倭村は、魏志倭人伝に、物資の監理した所と明記されている。この南は倭文村で、織物の村である。錦織の字もあって絹織物を作っていた。
このルートの周囲の山には、宮座(ミヤクラ)山、一白頭、毛無山二座、天ヵ山と神に縁のある山や、面白い名の山が多い。

福のつく地名も、このルートには何ヶ所かあって、天孫民族にふさわしい、古代の道である。
 中国から九州を経て大和のルートを考え易い。しかし瀬戸内海の海岸沿いには、簡単に横切れない川が多すぎる。
船が当然使用されたと考えられるが、難所だったと考えるべきだろう。
やはり古代には中国から、日本海を境港に来て津山から吉井川を下ったと考えたい。

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2008.06.11

資料No21 大蔵神社

鎮座地 吉野郡吉野町南国栖343 mapoin
祭神  鹿葦津比賣命、大倉姫命、石穗押別命

石穗押別命に出てくる尾をもった人です。大倉姫命は下照姫の別名です。
 鹿葦津比賣命がどのような神か分かりませんので、探してみました。

奈良県香芝市今泉592 に志都美神社があります。
祭神
天兒屋根命、譽田別命、底筒之男命
『神名帳考証』葦津比賣命 社伝では鹿葦津比賣命
延喜式神名帳葛下郡同名社。
 清水八幡、シズヒメ明神と称した。
 社伝に「大織冠鎌足公の四世の孫、従四位片岡民部少輔綱俊なる人、弘仁四年(813)、宮を片岡に作りて、以て片岡家の鎮守とし、清水神社と称す。是、当社の創建なりと伝えり。」とある。

志都美神社は式内社ですから、祭神は書き換えられたかも知れません。 鹿葦津比賣命の鹿葦津比賣命が元の祭神なのではと思っています。
 次の資料も、参考にしてください。

大蔵神社は、国栖の遠祖・石穂押分命、大倉比売命(大己貴神の子「下照姫」の別名)、それに鹿葦津比売命(かしつひめのみこと)の三柱を祭神として祀っている。『大和志』などでは、この神社を「延喜式」神名帳に記載された川上鹿塩(かわかみかしお)神社に比定しているようだ。だが、式内川上鹿塩神社は吉野郡吉野町樫尾に鎮座している。いずれにしても、吉野国栖の祖神を祀っていることから、東川村と南国栖村の氏神として尊崇されてきた。
明治初年に「神仏分離令」が出されるまで、大蔵神社は神宮寺だった。つまり、現在の社殿の近くに別当寺が建っていて僧侶たちが宮司を兼ねていた時代が長く続いた。廃仏毀釈によって廃寺となったが、庭園や広い寺屋敷の跡が現在も神社の社殿に隣接して残っている。

『平成祭礼データ』
 吉野町の東南端、川上村に通ずる衣笠山の南斜面に鎮座する旧指定村社で、国栖郷一円の鎮守であった。祭神は大倉比売命・鹿韋津比較売命・石穂別命。創祀不明。
 『大和志』に川上鹿塩神社として「在= 樫尾東川南国栖三村之交界- 今称= 大蔵明神- 国栖荘七村民家相共預= 祭祀- 」とあったことで式内川上鹿塩神社とされた時代もあった。
 本殿に接して、神宮寺の寺屋敷や庭園などがある。東川村・南国栖村の氏神であったが、明治の神仏分離で別当等は廃寺となった。数十年前までは東川と南国栖が祭典に参加した。
 神前一対の石灯籠の右側は弘化四年(847)東川若連中から、左側は天明六年(1786)国栖郷から寄進している。 
 その後、東川は当社分霊を自村へ遷祀して氏子から離別するに至った。例祭は九月一日初遡祭として親しまれてきた。 本殿は切妻造・桧皮葺の三間社で、内陣に安置の神像はいずれも鎌倉期の作。社宝に中世以来奉納の古鏡多数あり、中の一面に「大蔵大明神、正応五年(1292)五月弐拾五日 藤原□□敬白」との針書がある。
 大蔵神社庭園は室町期の標高三〇三メートルの高所にある小池や流れを持つすぐれた庭園として県指定の名勝である。


参考:ホームページ
古社を訪ねて
http://blog.goo.ne.jp/taisi_ii/e/b1da95eafbceec5287e648cd73e6242a

神奈備 http://kamnavi.jp/as/yosino/ookura.htm

吉野郡 国栖の神々
 http://yasaka.hp.infoseek.co.jp/kuzu.html


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2008.06.10

資料No20 浄見原神社

鎮座地 吉野郡吉野町南国栖1 mapoin
祭神 天武天皇

『平成祭礼データ』によりますと、
浄見原神社は 南国栖、吉野川の右岸断崖上に鎮座する旧村社で、天渟中原瀛真人天皇(天武天皇)を祀る。毎年旧正月十四日伝翁の末裔の人々によって国栖奏が奉納される。国栖奏とは石押分の末孫の翁筋の人々が朝廷の大儀に御賛を献じ、歌笛を宮中の儀鸞門外で奏した美しい故事に則ったもので、舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、謡翁五人の計一二人で奏上する。当日の神饌は腹赤の魚(うぐい)、 酒(一夜酒)、土毛(土地の特産物として根芹、山菓(木の実)・栗・かしの実)、毛 (かえる)である。岸壁に建つ神殿は、神明造一間社。石燈籠のうち亨保五年(1720)の刻銘のものが古い。
国栖奏の第四歌に「かしのふに、よくすをつくり、よくすにかめる、おほみき、うまらに、きこしもちをせ、まろがち」と歌う。
 社頭掲示の「国栖奏のこと」


 吉野町観光課の説明より

 吉野は古く、古事記・日本書紀の神代編にその名を現します。古代の吉野は今の吉野山を指していたのではなく、吉野川沿岸の地域をそう呼んでいました。
 古事記日本書紀に書かれていることが、そのまま歴史的事実とは言えませんが、記紀に伝える模様を裏付けるように、縄文弥生式の土器や、そのころの生活状態を推定させる、狩猟の道具がこの付近からも発掘されています。
 記紀には「神武天皇がこの辺りへさしかかると、尾のある人が岩を押し分けて出てきたので、おまえは誰かと尋ねると、今天津神の御子が来られると聞いたので、お迎えに参りました、と答えました。これが吉野の国栖の祖である」という記載があり、古い先住者の様子を伝えています。
 又、記紀の応神天皇(今から約1600年前の条に、天皇が吉野の宮(宮滝)に来られたとき、国栖の人びとが来て一夜酒をつくり、歌舞を見せたのが、今に伝わる国栖奏の初まりとされています。
 さらに、今から1300年ほど昔、天智天皇の跡を継ぐ問題がこじれて戦乱が起りました。世にいう壬申の乱で、天智天皇の弟の大海人皇子は、ここ吉野に兵を挙げ、天智天皇の皇子、大友皇子と対立しました。
 戦は約一ケ月で終わり、大海人皇子が勝って天武天皇となりました。
 この大海人皇子が挙兵したとき、国栖の人は皇子に味方して敵の目から皇子をかくまい、また慰めのために一夜酒や腹赤魚(うぐい)を供して歌舞を奏しました。これを見た皇子はとても喜ばれて、国栖の翁よ、と呼ばれたので、この舞を翁舞と言うようになり、代々受け継がれて、毎年旧正月14日に天武天皇を祭る、ここ浄見原神社で奉納され、奈良県無形文化財に指定されています。
            
【浄見原神社】http://kamnavi.jp/as/yosino/kiyomihara.htm には、ページ開設者は、次の文を載せておられます。
  「 国栖奏を朝廷で演ずるようになったのは、吉野に隠れた大海人皇子に当地の民人が支援を行った故であろう。
 犬を飼わない村と云う民話がある。国栖の村のこと。大海人皇子が逃げてきた際、渡しの翁が渡し舟を引っくり返してかくまった。そこに追手がカグハナとミルメという二匹の犬を連れてやって来た。 犬は皇子を嗅ぎつけて舟の周りをまわり出した。危ないと思った翁は、そばにあった赤い石でその犬を殴り殺した。皇子はことなきを得たと云うことで、後に飛鳥浄見原に構えた際、印を持って国栖の翁がやってきたという。
 犬を飼う、飼わないとは、鉱山師の一群を思わせる。また「赤い石」は丹沙の石を思わせる。丹生の民であったようだ
 大海人皇子の決起後の辿った道筋は中央構造線にそって伊勢まで行き、美濃から伊吹方面へ来ている。武器となる金属の産地を押さえているのだ」
「 吉野川の北岸の切り立った岸壁上の岸壁の隙間に鎮座、いかにも古い時代からの祭祀の場を思わせる。この辺りの神社には狛犬がないのは上記民話によるもの。」
この辺りの神社には狛犬がないのは上記民話によるものというお話は、本当かも知れません。

資料 国栖奏歌  
 世にいでば 腹赤の魚の片割れも 国栖の翁が 渕にすむ月
 み吉野に 国栖の翁がなかりせば 腹赤の御贅 誰れか捧げむ
 鈴の音に 白木の笛の音するは 国栖の翁の 参るものかは
 かしのふに よくすをつくり よこすにかめる おほみきうまらに きこしもちおせ まろがち

参考ホームページ
大蔵神社と浄見原神社のことを書いたホームページ
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2007_11_14.htm

国栖奏のことを書いたホームページ
【国栖奏】http://www.geocities.jp/eastwoodism/fieldnote/field45/field45.htm
【万葉散歩】 http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/  

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2008.06.09

古代の道(5)   page 61

紀元240年に、遠路はるばる、魏の都から使者がやって来た。この時に、米子の南の天津から津山まで陸行1ヶ月かかったのである。この時には、この数年後に狗奴国(津山の久米国)を攻撃するための、事前調査だった。この時何所を通ったかを考えてみたい。 
日野川は根雨までは、小舟をロープで引張ってもらった。ここの舟場(現地名)で舟を降りて、神奈川(現在俣野川)をさかのぼって、古屋敷から、穴ヶ峠(アナガタワ)を、一度ヒルゼンに、はいって改めて野上路峠から、旭川の支流野路川を下る。
面白い地名が現れるから、地図を歩かれることだ。
 鍛冶屋—浦手川---シデコ峠---駄床---鉄山川(カナヤマ)---独活原(ウド)---常隆院(ジョウロイ)---見明戸---禾津(イナツ)---神戸(ゴウド)---宇和佐---社川---大仙屋敷----宮原---日木川---宮部---久米川---大倭村(現在久米町)---神戸(ジンゴ)
ここで津山にたどりつく。神に縁のある地名が、この外にも多い。

一言---如何でしたか? 別になんら関心されなかったと思います。それは、日本人だからです。読むことが出来ない地名など、ザラですから、驚くに値しません。
神戸(ゴウド)と神戸(ジンゴ)は、兵庫県の神戸と違います。ひょっとすると、神戸(こうべ)も仲間かもしれませんが・・・。神戸(ゴウド)と神戸(ジンゴ)は、ユダヤ人が好んでつけた名前だと考えています。
禾津(イナツ)-は、どうして稲津と書いてないのでしょう。理由があったはずです。稲に変えてしまいますと、その地名がどうして付けられたか追及することができません。
大倭村(現在久米町)は、その典型です。

地方に行くほど、地名は残されています。ということは、歴史が残っていることになります。地名ぐらいどうでも良いと思われるでしょうが、外国に行きますと、少しぐらいの発音違いはあるでしょうが、私たち日本人にでも、読むことはできます。日本だって、ローマ字表記をしますと、読むことができます。
一度、外国の地名の解明をしてみてください。解明というほどのものではありません。新しく開拓した時には、殆ど、前に自分が住んでいた所の地名となります。アメリカでは、イギリスの名前が多いはずです。ロシアですと、人の名前が多いはずです。侵略した使用軍が自分の名前を付けたはずです。その代わり、自分がやられますと、変わってしまいます。記録が残っていますと、誰が支配していたかはずです。

その点日本の古代史は、字がありませんでしたから、地名は大切にしないと古代史が判らなくなります。地名は、消えたのであれば、少しずつ、元に戻すべきです。今でしたら、この辺りは、こんな小字だったということを知っている人が居られます。居られないのであれば、記録として残す作業が必要です。特に、古い地図は、すべてコピーして残し、誰でも、無料で閲覧できるようにするのが、政府の仕事です。

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2008.06.07

古代の道(4)   page 60

ヒルゼンには隠岐の島後の福浦から、境港の福浦、日向浦にやって来たと思われる。島後の地名がヒルゼンに襲名されたものが多いのが根拠である。
 倉敷の天神川から当初はさかのぼって、蛇ゲ峠を越えてヒルゼンに来たことだろう。
しかし国譲り後は米子の南の現地名、倭がある大国村(現在西伯町)の隣村、天津村(西伯町)から上陸したはずである。
古代にはここまで海が入り込んでいた。天津村には三崎の地名も残っていることが、証拠である。
こことヒルゼン、津山の中間地帯は、福と神に縁のある地名が密集した地帯である。
出雲と大和の間には、単純に出雲街道があったと考えがちである。例えば小泉八雲が、松江に赴任する時には、人力車にゆられて、通った道である。
 しかし、古代には、歩いて簡単に、渡れる程度の、従って流れの緩い川筋を通ったと考えるべきだろう。
一言---このページは、短い文章ですのに、全部、素晴らしい発想の塊です。

①【ヒルゼンには隠岐の島後の福浦から、境港の福浦、日向浦にやって来たと思われる。島後の地名がヒルゼンに襲名されたものが多いのが根拠である。】たった、これだけの文章ですが、嘘か本当か、調べれば判ることです。私は調べました。

② 【倉敷の天神川から当初はさかのぼって、蛇ゲ峠を越えてヒルゼンに来たことだろう。】 云われれば、当り前のことです。では、はじめに、山の上に住んでいて、川を下ることはありません。しかし、このことは、実際に車で走り回ると判ります。山を越えることは、大事です。私はがむしゃらに山を越えようとしました。現在は、そのような山は、人が通らなくなって、危険な道になっています。 全部、トンネルと高速で結ばれています。トンネルと高速の無い府県は、長い目で見ますと、発展しません。
③【しかし国譲り後は米子の南の現地名、倭がある大国村(現在西伯町)の隣村、天津村(西伯町)から上陸したはずである。
古代にはここまで海が入り込んでいた。天津村には三崎の地名も残っていることが、証拠である。】
実際に、全部行って、確かめてきました。田村氏が云われるように、現在ある「倭」が、倭国の発祥の地かどうか証明することはできませんが、古事記に書かれてある地名や神を祀る神社は揃っていました。天津村は、「津」が付いているように、港であったはずです。全国で確かめてください。先日、埼玉県で逮捕された男は、石津です。他の石津さんには悪いですが、どこかの石津というところの出身のはずです。この湊からは、「石」を積みだしていたか、何処からか運んでいたはずです。「三崎」は、御崎だったはずです。この地の海抜と同じ海抜の地点を結びますと、当時、の海岸線が浮かび上がります。全国の時代別の海岸線をワンタツチで表示できるようにするのは、政府の役割です。「三崎」と「天津村」は、2,000年前は、海岸線だったと思います。僅か、2000年前にこの辺りは、海だったのです。ある年の間に、あっという間に、現在の海岸線になっています。CO2だけのもんだいでないことは、誰にでも判ります。
時代別の日本の海岸線が判りますと狂ったような地球温暖化の論議は、もう少し、冷静に進めることができると思います。

④【こことヒルゼン、津山の中間地帯は、福と神に縁のある地名が密集した地帯である。】
前回、と同様に、福と神に縁のある地名が密集しているかどうか、25000分の1の地図で確認してください。

現代の歴史学は、発掘される考古学が最先端です。次が、文献から解き明かす歴史となっています。後者は、もう、解き明かされて限界と思われます。しかし、私が今、試みています。「壬申の乱」の解明は、地名と、その地に残されている神社を調べることによって、すこし、これまでと違った「壬申の乱」を提供できるのではないかと思考中です。
興味ありましたら、
No370 壬申の乱 宮滝を出発か(3)  http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-06-01
の前後から読んで頂ければと思っています。
 大海人皇子は、どうして、吉野の清滝から、津振川を通り、宇陀の阿紀、名張、伊賀を通って、新軍したか理解できてくると思っています。もっとも、途中で挫折する可能性も大きいです。

すべて、古代史解明の基本の基本だと思います。

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2008.06.06

古代の道(3)   page 59

大量に物資を運ぶにも川が利用される。京都の保津川下りでは、舟を両岸からロープで引張って亀岡まで運んでいた。
ヒルゼンは、つい最近まで高瀬舟が通っていたのである。又吉井川も西大寺から津山までは、津山線ができるまでは、高瀬舟にたよる外なかった。
京都と大阪の間も百石舟はつい最近まで動いていたのである。大阪湾から、びわ湖まで学生時代に船が通っていたことを、分かってくれる人もなくなった。

現代の物差しで過去を考えないことである。2000年昔の方が少なく共文化はたかかった様である。
余談に渡ったが、津山から、吉井川の川口の西大寺までは古代には、交通の大動脈であった。この流域に神や福のつく地名が50近く密集していることは、古代にもここは交通の大動脈だったことを教えてくれる。魏志倭人伝で240年に西大寺に7万戸の人口があった。この祖先は全てこの川を下ったのである。

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2008.06.04

地名 菜摘と夏身

菜摘という地名があるかどうか知りません。奈良県の吉野に吉野離宮があります。吉野川を少し遡りますと、菜摘という地名があります。
このように書いたものの、気になりますので、WEBで調べましたら、
東京紅団 http://www.tokyo-kurenaidan.com/yoshino2.htm に地図も記事もありました。
ホットライン関西 http://www.unisys.co.jp/KANSAI/manyo/31/3-2.html 
こちらには、北菜摘と南菜摘と夏実の川が、地図に見ることができます。
 川が大きく弧を描いているところらしいです。「菜摘」と書かれています。「なつみ」と読むのだと思います。地元の方にお聞きすればすぐに判りますが、夏実の川のほうの夏実も「なつみ」と読めそうですから、きっと、「なつみ」だと思います。

万葉集に、大瀧乎 過而夏箕尓 傍為而 浄川瀬 見何明沙 兵部川原 (1737)
 大滝ぐらいは、どこにでもありますが、「夏箕」と揃いますと、吉野離宮の近くの「大滝」と「菜摘」の所のことを詠んだものでしょう。

大滝を、過ぎて夏実(なつみ)に近づきて、清き川瀬を、見るがさやけさ

 もう一つ、「なつみ」と読む地名があります。 三重県の名張市です。名張市に「夏見廃寺」と呼ばれる遺跡があります。名張市のホームページには、次の様に書かれています。
【醍醐寺本薬師寺縁起に「大来皇女、最初斎宮なり、 神亀2年(725)を以て浄(御)原天皇のおんために昌福寺を建立したまう。 夏身と字す。もと伊賀国名張郡に在り。」と記載された個所があり、その昌福寺が夏見廃寺と考えられています】

 このことから、「夏身」と云う地名の所に、昌福寺というお寺を建てたことが判ります。
ここに書かれている大来皇女は、天武天皇と天智天皇の娘の大田皇女の間に生まれた皇女です。
百済を助けるために、斉明天皇7年(661年)に、筑紫に向かう途中の、天智天皇一行の乗った船が、大伯の海の上を通過している時に誕生したとされています。
 昌福寺は、大来皇女が父と弟のために建てたとも、天武天皇の皇后である持統天皇が、建てたとも言われていますが、本当のことは判りません。
大来皇女は、701年に、持統天皇は、703年に亡くなっておられますから、725年の昌福寺の完成は知らなかったことになります。
 天智天皇が1月に崩御されますが、その少し前より、壬申の乱が始まる6ヶ月の間、大来皇女と持統天皇は、吉野の菜摘の里で楽しまれたでしょう。
 その時の思い出を込めて、同じように川が湾曲した所の高台に、昌福寺は建立されました。そして、その地は、「なつみ」と呼ばれていましたが、「醍醐寺本薬師寺縁起」が作られた長和4年<1015>には、地名は、「夏身」と書かれていたことが判ります。
 地名もない所に、昌福寺が建てられて、その後、その土地を「夏実」と呼んでいましたが、平安の頃には、「夏身」と書かれたのかも知れません。

現在は、「夏見」と書かれています。
「夏見」と云う地名は、滋賀県湖南市と千葉県舟橋市にもあります。
関係ありそうですが、調べていません。

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2008.06.01

古代の道(2)   page 58

神戸市の新神戸駅の北のハイキングの道はトゥエンテイ クロシングと呼ばれている。英語名であることは、明治時代に、神戸の外人がつけたためで、歴史が語っている。
川を20回横切りながら、川原をあるくので、これこそ古代の道のあり方を教えてくれている。
急流なら川原が出来ない。緩い流れの川の両岸に出来た川原が、自然の道である。この外にけもの道もあっただろう。
この様に考えて、ヒルゼンから、集団移動して行ったルートを、地図で探すことは、案外容易である。
なるべく川が山の頂上近くまであることが川が緩い証拠である。しかも、川のない所が少ない程有利である。
スサノオの命が日野川を船通山まで、歩いたのはヒルゼンから見えていたのである。
出雲の国の中から目標もなしに、斐伊川をさかのぼる位、おかしな話があるだろうか。川上に食糧が豊富とはかんがえられない。

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