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2008.07.31

ヒルゼン古事記 ヒルゼン高天原  page—28

倉吉平野の北条砂丘から上陸です。ここは〝かささの浜〟とか岬と書かれた所です。砂丘を笠砂と形容しました。
 倉吉市内を流れる天神川を遡りました。天ツ神にふさわしい名前です。天ツ神とは、将校で福の地名の所に住むのは屯田兵です。シルクロードの旅のトルファンに漢の屯田兵が出て来ます。5000キロ離れた東西で同時期に屯田兵が利用されました。
 ひるぜんには蛇ガ峠を超えました。ヒルゼンの中心部に大蛇と云う地名があります。いやがる地名をつけるハズはりません。大蛇は八俣から出た剣の代名詞、蛇は神の使と考えたらいかがでしょう。
 高天原でイザナミの命に最初生まれた子供は早生児で蛭子といいます。これが蛭山の地名の元で、戦時中蒜山と改められました。
 ヒルゼンは京都よりも広い拡りをもった、周囲を山に囲まれた要害の地です。永久の都としての条件を具えた所でした。高天原は御座所で中蒜山の麓の台地にありました。

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2008.07.30

ヒルゼン古事記 根の国堅州  page—27

隠岐の準備が出来た段階で境港の基地作りです。ここは今でも日本一の良港で、何百隻でも船が停泊出来ます。
 古代には境港の所は夜見島です。日野川の上流で製鋼と鍛冶のため、大量の木炭を作りました。このため日野川が洪水が発生し、土砂を流しました。これが今の夜見浜となって夜見島と陸続きになります。これが〝国引き〟として古事記に書かれました。公害の一号になります。
 しかし半面デルタ地帯が構成されて葦の繁る、中ツ国が出来ることになります。
 根の国とは島根の国です。離れ島の、現在の島根半島と米子平野を含めたものでした。従って根の国堅州とは境港周辺のことです。 
 陸続きでありませんから、敵から攻撃される心配がありません。
 美保岬にも小さな良港がありますが、ここは事代主命が釣りに訪れる所で、国譲りに登場します。非友交国でした。ここの美保神社と堅州の三保神社が、対称的です。

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2008.07.29

ヒルゼン古事記 隠岐の島後  page—26

倭国とは日本進駐軍が占領地につけた名前です。九州と善隣関係にあった南朝鮮は、将来の占領目標地でした。この地域を東から包囲して攻撃する作戦です。
 ただ補給基地が必要だったので、朝鮮の南東に、気付かれない所に基地、狗邪韓国をつくりました。これが倭国の北限でした。
 渡洋作戦ですから、先ず水の補給基地が入要でこれが福浦です。食糧補給基地は福江でした。地名を聞けば敵か味方が分かる仕組みです。この基地は先行して作る必要があります。
 隠岐の島後が日本書紀占領の第一基地で、ここでは食糧生産もやりました。ヒルゼンに高天原を設営するまでの補給基地です。 上陸軍は元帥格がイザナギの命で、夫人イザナミの命同伴です。
 米軍は東京に進駐して先ず通りに、アメリカの州名等をつけました。福ノ神族も同じ様に地名を隠岐につけました。そして、同じ地名をヒルゼンに採用しました。しかも鹿児島も同じ地名をつけました。

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2008.07.28

ヒルゼン古事記 ヒルゼン古事記  page—25

高天原が日向国にあった前提の解説を日向古事記とよばせていただき、ヒルゼンが高天原にあった前提のをヒルゼン古事記と分けて考えたいと思います。
 日本には紀元前三世紀には第一グループの福ノ神族が稲作技術を持って金沢等に来ました。ここが高志又は越の国と呼ばれ、出雲の勢力圏と云われて来たのは間違いありませんでした。古事記の神話には出雲はありませんでした。
 前漢は紀元前198年から、紀元後8年まで続き、引続いて後漢、三国志の時代になります。朝鮮を大半占領して、楽浪郡にはGHQを置いたのは紀元108年です。
 日本は神国た゜から占領されたことがないと思い込まされていましたが、古事記は、あにはからんや、占領記録だったのです。
 オーストラリア人の先祖のせんさくは、今更どうでもよいでしょう。正倉院の御物がなぜ贈られて来たかを考え、これだけの文化があったことに誇りを持つべきでしょう。古代史が日本にもあってほしいと思います。

私から一言---田村氏が、これを書かれたのは、昭和56年建国記念日と書いておられます。歴史のことは、全く素人であった田村氏が、古事記を少し読み、地図を眺めているだけで、日本には、歴史はあっても、古代史はないと思われました。
 この辺りから、歴史の専門家への不満が始まります。 このような、田村氏の心の変化にも中もまして読んで頂ければと思います。

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2008.07.27

ヒルゼン古事記 筑紫の日向のあわき原  page—24

イザナギの命が、イザナミの命の、亡きがらをのぞきに行く場面があります。うじがわいていました。副葬品をねらう、鬼と亡霊においかけられます。鬼を追いはらって、みそぎをした所が、筑紫の日向のあわき原です。
風葬してあった所が、大山の西、溝口の御墓原です。この時ヒルゼンにたどり着いた所が鬼女台(キメンタイ)です。今は展望台があります。従ってここの御墓原側の坂が、黄泉のひら坂です。南の山が三平山だから、平坂が正しくて古事記に誤があります。
あわき原とは草を一字補って、草淡き原でした。大山の三ノ沢は石がなだれて来ます。
ここの大河原の地名の所が、草の少ない河原でした。
大山の雪どけの水が流れている、みそぎに、あつらえ向きの場所です。
 御墓原と鬼女台の、ルート上の中間地点で、この点からも古事記の記述は正確でした。
筑紫の日向とは、文字通り、ここだけが木が生えていない、日当たりのよい所です。

私から一言---鬼女台(キメンタイ)のことは、田村誠一氏の勘違いだと
「ヒルゼン古事記 古代地名の化石」に書きました。
 http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/06/page9_7f11.html 
 上に書かれた文章をご覧ください。どうも書かれている文章が、日本語になっていません。
【見つけた時の感動を「とてもきれいで、大きな女性の美しい胸が想像できた」と振り返ります。スケールの大きさと不思議に人を引き付ける妖艶(ようえん)さに、「女は女でも『鬼女』だ」と、とっさに地名がひらめいたそうです。」】
私は、女性のことはよく判らないのですが、あまりにも、美しい女性に遭遇すると、鬼に思えるというのが、理解できません。 それも、展望台の所が、乳房を連想させる二つの山があったのであれば、鬼女台と名づけられた理由は納得できますが、展望台の所から二つの山が見えて、その山が、「とてもきれいで、大きな女性の美しい胸が想像できた」と書いてあります。禿山であれば、そのような発想もないことはありませんが、木の生えた山を大きな女性の美しい胸と想像したという話は、作り話でしょう。

 田村氏の発想の方が、まだ、夢があるというものです。

「平坂が正しくて」の部分も、地名のことを、田村氏は語っておられます。地名は、いつ頃付けられたか判らないのですが、必ず、必要があった付けられたことと、その名前には、つけられるだけの理由があったことを示唆しておられます。

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2008.07.26

ヒルゼン古事記 筑紫の日向の高千穂   page—23

古事記では国の名前を呼ぶ時は、出雲国とか、根国、伯耆国と、国をつけてあります。筑紫国とも、日向国ともかいてないのに、勝手に、筑紫の国の中の日向国と解釈したために高天原が九州にあったと、万人が思う様になりました。
 スサノオの命はヘリコプターでないと、出雲の斐川には来られません。
 もっと大変なことは日向の高千穂峰に、これも飛行機でないと行けなくなります。あの様な殺風景な山の頂上に降りて、あとはおかまいなしとは、無責任すぎませんか。

 大山、蒜山の植生を述べたのは他意ありません。倉吉の高千穂付近の高千穂は赤松の原生林でした。住むためには、木の生えてない所が必要です。
 筑紫とは、木が尽きた、木尽しの所です。日向とはヒナタでもヒムカでもよろしい。日当たりのよい所です。ヒルゼンはプナの原生林で建てようも、さしこまない所でした。ヒルゼンから高千穂に文字通り山を下りました。

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2008.07.23

ヒルゼン古事記 大山・蒜山の植生   page—22

大山や蒜山で何所に人の住む所があったなかったを考える時には、この見渡す限りのブナか、ふもとでは同じく見渡す限りの赤松の中の地名を如何に表現するかが、謎解きの鍵です。
 現在のヒルゼンの水田部分は、太古の湖底で、古代の葦の繁った沼でした。古代を考える時にはこの植生が大切です。 ヒルゼンの城山は、天の岩戸に出てくる、天の香山です。この山だけは斜面が急だから表面の火山灰が流されて、ブナではなしに、雑木が生えていました。
 大山や蒜山を考える時には、この植生が重要です。ブナ林なら、見渡す限りブナです。ふもとで赤松の場所は、すき間なしに赤松でした。
 古代には、今の様な草原は全くなかったのです。津山の年貢の取立てが厳しかったため、百姓一揆がおきました。この時数年がかりでブナを焼いたため、沼が水田になりました。
 そして葦が現在のススキになりました。高天原の時代は現在とは植生が全く違っていました。     H20.07.20


私から一言----みごとな推理です。今では、推理など必要ありません。50ヶ所ほど、ボーリングをして調べますと、この通りであることが判定できます。

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2008.07.22

ヒルゼン古事記 倭   page—21

中国の〝前漢書〟に倭人と、そして国の数が百余国あったと書いてあります。前漢はすでに日本書紀に進駐を始めていたのです。
 この頃シルクロードの3000キロ奥地でも20万の軍隊を動かして戦争する情報網が確立していました。日本は戦争中に自国の飛行機の数も、つかめてなかったのです。九州が2000年昔、一番ひらけていたと古代史に書かれています。この人達が九州に国がいくつあったかを、如何にして集計しますか?

〝倭〟は漢が勝手につけた名前です。国譲りで米子を占領すると軍司令部を、手間山のふもとに移し、倭の字をあてました。この地名は国土地理院の地図に残りました。
 山のふもとだから、ヤマトとあて読みしたまでです。軍司令部は津山の西の久米国に進出しここを、大倭村と名付けました。
 次の基地は西大寺です。ここがヤマトでした。ぎの使は邪馬台と速記して帰ります。
 最終の奈良はヤマトです。最大の平和と大和の当て字をしました。

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2008.07.21

ヒルゼン古事記 高島 page—20

タケリの 宮には、七年居りました。ここでは英気を養った上で、戦争準備です。それには神武天皇は安全な一歩さがった所で、しかも敵から攻撃されにくい所が必要です。
 水軍は得意中の得意だし、瀬戸内海の島々は全部福ノ神族に占領されていました。〝地図が解いてくれた倭国と邪馬台国〟で述べた神島の南隣りの高島は正に理想的です。
 〝魏志倭人伝〟に出て来る投馬国(玉島国)は第三グループの福ノ神族で正規軍ではありません。この訓練だっていります。一銭五厘で集めて、翌日には船にのせて、戦地に連れて行った国とは、一味違います。
  この間に舟を準備することは大事業です。どれだけの船を集めたかの謎はまだ解けません。しかし、数百隻の船は児島湾内に隠した筈です。
 そして、福建省の福州から屯田兵を旭川のデルタ地帯に集めました。2000キロのルート上に見事に、他人にさとられぬ様に配置された福浦が謎を解いてくれました。

私から一言---ここに書かれてあることは、すべて、頭の中で考えられたことになります。しかし、本当はそうではありません。福建省の人たちのこと、福浦のこと。すべて、調査が済んでいます。
 判っていないのは、船をつくる木をどこから調達したかです。勿論、木はその当時、どこにでもあったと思われます。誰が、どうして運び出し、船の形にしたかです。紀元前のことですから、神武天皇には出来なかったでしょう。
 吉備を制覇していた中国人は、当然持っていました。その船で、瀬戸内海を制覇していました。
 わたしは、やはり、山口県と広島県だろうと考えています。  それは、田村氏がどんどん解明してくださいます。
神島の南の高島には、17年の8月に一泊してきました。その時のことを
No348 笠岡市高島と高島宮 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-11-13に書いています。 
歴史のことを抜きにしても、楽しめるところでした。

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2008.07.20

ヒルゼン古事記 タキリの宮   page—19

第三話  ヒルゼン古事記      昭和56年建国記念日
 ヒルゼン古事記 タキリの宮   page—19
  〝地図が解いてくれた倭国と邪馬台国〟ではタキリの宮だけは解明できませんでした。
実は古事記が誤っていたのです。
 古事記には、タキリの宮は、安岐と国名が書き込んでありました。実際は西大寺、ここは東征の時はヤマト(邪馬台国)だから、国名がなかったのです。
 東征だから、東へ東へ進んだものと、太安万侶が早合点して、高島の西なら安岐だと書きこんだ筈です。
 国土地理院の西大寺に大多羅奇宮跡が、載せてあります。(下の地図を参考にしてください)

私の一言---「古事記には、タキリの宮は、安岐と国名が書き込んでありました」とありましたので、タキリの宮で調べてみました。こちらは、岡山県のような「高島」という地名が見つかりませんが、伝承は、いっぱい残っていることが判りました。
 伝承は、たの言葉で表現しますと、言い伝えですから、当てになりません。学問的には、無視しなければならないと思われます。
 ただ、伝承は、各集落で言い伝えられている事象だけに、ふつうは、3つほど、集落が離れますと、関係ないと思われます。ところが、それぞれに異なった伝承が、関連あると思われる時は、伝承が移動した。即ち、そこに共通する歴史があったと見ることができると思われます。
 伝承は、歴史的には、価値が少ないとされますが、日本書紀も古事記もいい加減な所がありますから、解釈の方法如何では、宝石の様に光るかも知れません。
 私は、古事記にかいてあることが正しいと見ました。
「またその国より上り幸でまして、阿岐国の多祁理宮に七年坐しき。又その国より遷り上り幸でまして、吉備の高島宮に八年坐しき」とあります。 どうして、阿岐国の多祁理宮も正しいかと判断するかと云いますと、
「神武天皇を祭る神社は廣島と岡山に多い」
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1053.html から
多祁理宮 と 埃宮はどこだ
多祁理宮 と 埃宮はどこだ --2
埃宮の位置はどうして決定されたか
 に書きました。 しかし、伝承と地形との組み合わせですから、理論に苦しいところがあります。しかし、どこかで、遺跡が発掘されて、私の考えに一致しますと、宝石になります。
 ここは、私の所から遠方のため、頭で考えたところが良くありません。その内に、車で走るだけでも走ってきたいところです。


P18

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2008.07.19

ヒルゼン古事記 吉井川、旭川と高梁川   page—17

〝地図が解いてくれた倭国と邪馬台国〟で大呂の玉鋼は日野川から津山に運ばれ、ここから吉井川に下ったとかきました。 このルートの上に鍛冶屋の集落を置いて武器に加工されました。鍛冶屋に必要な木炭をつくるため、米の出来ない所にも福のつく地名が誕生します。福のつく地名はなくても理由がいります。
 地図を眺める上で福ノ神族の流れに気をつけて欲しいのです。吉井川でも支流の加茂川と院庄から上流に福ノ神族の分布が見られません。この上流には無用でした。
 旭川と落合と福渡間には同じく分布がありません。これは旭川は下流まで下ら無かったことです。
 高梁川の高梁から上流に福ノ神族がありません。従って高梁川の支流、小田川の流域の福ノ神族は玉島付近から入植した、第三グループの福ノ神族になります。
 
同じ高梁川でも東岸の人はむしろ第二グループと考えたいのです。広域の地図でしかも小集落の地名が分からないと判定は困難です。

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2008.07.18

地名 福良 (ふくら)

前回の福浦と福江は如何でしたか? 田村氏は、毎日、地図をながめておられて発見されたと思います。私が歴史に興味を持つきっかけとなった人に、辻 保治さんが居られました。もう故人となられましたが、いつ訪問しても、鼻眼鏡に拡大鏡を手に地図を眺めておられました。その時、使っておられました50000分の1の地図を譲り受けましたが、よう使いこなしていません。
 辻さんからは、福浦の話は聞きませんでしたが、辻さんは、鹿児島県には、中福良しかないことを指摘されていました。
 もし、お持ちでしたら、鹿児島県川辺郡川辺町の地図を出してください。同じ、川辺町に5つも中福良の小字名があります。川辺町の方は、この5つの町をどのように区別して呼んでおられるのでしょう。東にあるのであれば、東福良と名づければよいはずですが、すべて、中福良です。
 辻さんは、中福良のもう少し大きい縮図の地図を掲げて、中福良がどのようなところにあるかを見ておられます。
「 山すその多少の高所に家並みがあります。そこから大谷川の堤までの、何とみごとな“ ふくらみ”でしょう。この土地を開いた人々は、川を向井の山裾に押しやりつつ、このふくらみを自慢したのでしょう」

辻さんのこの文章も、田村氏と同様に、発見されたときの喜びが伝わってきます。

こんなことを書かれたら、川辺町へ行って、ここの中福良には、なんという名前の人々が住んでおられるのか、確かめたくなりませんか?
 辻さんが云われるように、中福良はあくらんだ所にあるかどうかです。北隣は山下、西隣は上山田です。この膨らんだ所に入植された人は、どのような仕事をしておられたのでしょうか? なにか遺跡は、見つかっているでしょうか? 鹿児島に上陸したものの、山野方まで、押しやられたのでしょうか?
 上山田の地図 です。大谷川や山下の地名をみつけてください。現在は南九州市川辺町中福良になっています。
http://www.mapion.co.jp/c/f?el=130/26/38.450&scl=70000&uc=1&grp=all&nl=31/22/29.474


鹿児島までは行く元気がありません。出来ましたら、鹿児島県の方で興味のある方は、調べて、教えてください。
 最後に、現在分かっている「福良」地名を記しておきます。
 鹿児島県 22件、宮崎県 3件、大分県 6件、 熊本県 2件、 福岡・佐賀・長崎は調べていません。

新しい日本の歴史の中の「日本大好き」に、「No178 渡来人がやってきた証拠 福浦」
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-10-05
を書いています。興味がおありでしたらね覗いてください。

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2008.07.17

ヒルゼン古事記 福浦と福江   page—16

シルクロードの旅も大変だったでしょう。らくだのための、オアシスがないことには、道がつながりません。しかし漢民族はこのルートを確立しました。
 漢の東方植民地政策で、支那の何れの湊から、何民族が、山陰にやって来たかは、謎です。しかし九州の西海岸から、能登半島にかけて福浦が8ヶ所、福江が2ヶ所地図に残っていました。福浦は水、福江は食糧の補給港だったのです。
 鹿児島から赤穂にかけて、福浦が7ヶ所、福江が1ヵ所瀬戸内海にあります。神武東征
すなはち、隠岐上陸から500年後に、必要になったものです。
 福ノ神族の壮大な、500年がかりの策戦が、気の短い日本人には、さとられずにすみました。
 これだけの補給ルートと情報網は、地図の証拠でもなかったら、学者は相手にしなかったでしょう。地図はまだまだ多くの謎を解いてくれそうです。


私からの一言----「福浦は水、福江は食糧の補給港だったのです」と云うように、水と食糧に分けられたことは、なにを根拠にされているのでしようね。
 福浦と福江が、点々と同じ距離を保つようにあることを発見された時の喜びが伝わってきます。
 「福ノ神族の壮大な、500年がかりの策戦が、気の短い日本人には、さとられずにすみました」の文章などは、面白いですね。気の短い日本人とは、田村誠一氏、ご本人だったのではと想像したりしています。「500年がかりの策戦が、」は、その後の田村氏の研究で、神武東征は、紀元元年となりましたから、500年ごではなく、200年後になります。

「鹿児島から赤穂にかけて、福浦が7ヶ所」あると書いておられます。自分で確かめられますと、いっぱい発見ができます。たとえば、福浦は海岸線に、福江は河口にあるはずですが、内陸にあることもあります。岡山県笠岡市の神島にある福浦は、内陸ですが、神島と名前がある通り、当時は、島であったことが判ります。
 「鹿児島から赤穂にかけて、」とありますが、鹿児島県には福浦はありません。そのかわり、中福良がいっぱいあります。海岸線ではなく、内陸部にあります。
 前々回に添付しました地図の真ん中に、一つ見ることができます。次のアドレスをクリックしてください。
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2008/07/05/12.jpg
 地図をスクロールできないときは、50パーセントに落としてみてください。

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2008.07.10

ヒルゼン古事記 陸の城山   page—15

大山を目標に来て、倉吉の北条砂丘の、かささ(笠砂)の海岸で船を下ります。次の三角形の山は、烏山(カラスガセン)、海抜/400米です。この山の峠が見返峠で、ヒルゼンの玄関です。ここから遥かに見える三角形の山が城山で、このふもとが祝詞の集落です。
 大阪湾の周囲で三角形の山は二上山で、ふもとを、大和川が流れています。奈良で遠方から見える三角形の、ただ一つの山は、三輪山です。この近くまで来て三角形の山が、天り香久山で福ノ神族の挙点、大福です。
 新幹線の車窓から見える、三角形の山は近江富士です。このふもとは、イザナギの命がヒルゼンから移り住んだ、近江の多賀です。
 陸から大山が三角形に見える所が、イザナミの命を葬った、御墓原です。三角形に見える中蒜山に高天原がありました。同じ形の三輪山は山全体が神体です。
 前頁の伊集院にも海岸と陸の二ヵ所に、城山があります。城山は福ノ神族ゆかりの所には至る所にあります。多言無用でしょう。

P14

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2008.07.05

ヒルゼン古事記 海岸の城山   page—13

城山で有名なのは、鹿児島の、西郷隆盛が自刃した所です。この城山は海岸の低い山です。
 戦国時代に、こんな海岸に、しかも低い山に城を作ることは、あり得ないことです。
 隠岐の島後と1000キロも離れています。
 ここに西郷さんと同じ地名の、西郷に福ノ神族の挙点があります。
 ここの海岸にも城山がありました。偶然の一致で片付けてよいものでしょうか。
 鹿児島の西の伊集院、すなはち開聞岳の北の海岸にも城山がありました。 
 全部三角形の、そろって低い山です。問題は簡単です。海の灯台の役目ではないですか。これなら海図がなくても目的港に間違いなしで到達できます。
 隠岐上陸は、前180年頃です。神武東征は恐らく後300年頃でしょう。この500年の前後も同じ、一糸乱れぬ、渡洋作戦が展開されたとは、驚きの一語です。

一言---この冊子の発行日は、昭和56年建国記念日となっています。
 上の文章では、福ノ神族が隠岐にやってきたのは、前180年頃。神武東征は恐らく後300年頃だろうとされていますが、その後、調べの結果、神武東征は紀元元年前後としておられます。

地図をクリックして、右下の拡大・縮小のところをクリックしてください。 縮小は、50%しかありません。カスタムを選んで、数値に、40を入力しますと、一ページが表示されます。


12

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2008.07.04

ヒルゼン古事記 鹿児島   page—11

〝地図が解いてくれた、倭国と邪馬台国〟では、鹿児島を見落としていました。伊集院の苗代川だけは、興味ある方は入手されることを、お奨めします。
 鹿児島は米が取れない所だから、福ノ神族には無縁だと思っていました。しかしこれは間違いでした。今ではやっと、さつま芋だけは取れる様になった不毛の地です。
 松も育たない、200米以下の低山が、見渡す限りの、人の住めない所でした。
 従って神武東征の時には、難なく占領して壮大な基地をここに設けられたのです。
 九州王国の人より、九州のことを福ノ神族は知っていたことになりませんか。
 ここの地名と、1000キロ離れた、隠岐やヒルゼンの地名が、福ノ神族の同じパターンです。こんなことが何故2000年に生じたかは、反省の余地があります。例えば苗代、愛宕山、城山は三地区共通です。鹿児島には神社が少くて、広大な神殿集落もなぞです。下の地図をクリックしますと、大きくなります。大きさは、100%になっていますから、右下の100%のところで、50%に変えてください。

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2008.07.03

ヒルゼン古事記 大山と開聞岳   page—10

福の神族は紀元前には、先づ日本海沿岸にゆってきました。福岡の沖合70キロに、沖ノ島があります。これは第一目標でした。
 ここは水の補給地としても重要な役割をはたしました。
ここには弥生時代の古墳があり、人が住むには、あまりにも小さな島です。
しかし250米の山がありますから、灯台の役目をしたでしょう。ここからは暖流に乗って居れば山陰海岸には容易に来られます。
 沖合いはるかから、100キロ離れていても三角形の山を見付ければ、これが大山です。1700米の山を目当てにくれば、間違いなしに境港にも来られますし、隠岐にも行けました。
 紀元3世紀頃の、神武東征のときの何万かの屯田兵は、水軍は、九州南端の、これも三角形の開聞岳を目ざしてくれば、六分儀なしでも、鹿児島の、支那の名前の錦江湾に来られます。海図なしでも、海洋民族は航海した謎が一つ解けました。

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2008.07.02

地名 東川 (うのかわ)

タイトルに書きました東川は、奈良県吉野郡川上村東川です。全国に、東の字がつく地名は、【地図に見る日本地名索引】によりますと、8857件あります。東霧島(つまきりしま)、東北(ときた)、東田(はるた)、東田(ひがいだ)など、難読地名はありますが、「東」は、ひがし、とう、あずまが、ほとんどで、「う」とか「うの」と読む所はありません。

「東川」は、全国で、74例あります。あずま 4件、うの 1件 、ひがし 69件です。

「東川・うのかわ」のように、読むのが難しい地名は、古くからあると思っています。どうしてかと言いますと、新しい町を作ったとします。地名は、その場所を町の住人以外の人に知って貰うためにつけますから、誰も読めないような地名は意味がありません。最近では、元あった地名でも難しいときには、ひらがなの地名を採用するようになっています。
「東川・うのかわ」は、古い地名であるだけではなく、全国に、一つもないということは、この村の人が、個人的に出ていくことはあっても、集団で他の土地に移動されなかったと思います。第二のところへ行かれますと、同じような名前を付けることが多いです。全国のどこかに、「東川・うのかわ」があってもよさそうですが、ありません。

「東川・うのかわ」は、吉野の川上村にあります。周りの集落の名前を書いておきます。
北塩谷、寺尾、神之谷、粉尾、白屋、上多古、下多古、武木、井光、上谷、白川渡、瀬戸、中奥、柏木、北和田、井戸、迫、人知、高原、伯母谷、入之波、大迫

 なにか気付かれましたか? 
井光には、井光神社があり、祭神は井氷鹿(いひか)とされています。祭神の井氷鹿の名前は、古事記の神武天皇の東征のところに国津神として掲載されています。
 他人に言われたから覚えるのではなく、自分で確かめてみますと、面白いことがいっぱい発見できます。
川上村の東川には、烏川神社があります。
また、この村では、次の行事がのこされていまして、写真をみることができます。

弓祝式 http://naraguru.fc2web.com/gyouji01c.htm">http://naraguru.fc2web.com/gyouji01c.htm">http://naraguru.fc2web.com/gyouji01c.htm
場所…烏川神社・運川寺(吉野郡川上村)
お問合せ…07465-2-0111 吉野郡川上村産業振興課 1月9日
千本杵搗きhttp://blog.goo.ne.jp/mnjr05gob/e/40d0d5b42a05669d0e38703d8baa7b40

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