ヒルゼン古事記 福浦と福江 page—16
シルクロードの旅も大変だったでしょう。らくだのための、オアシスがないことには、道がつながりません。しかし漢民族はこのルートを確立しました。
漢の東方植民地政策で、支那の何れの湊から、何民族が、山陰にやって来たかは、謎です。しかし九州の西海岸から、能登半島にかけて福浦が8ヶ所、福江が2ヶ所地図に残っていました。福浦は水、福江は食糧の補給港だったのです。
鹿児島から赤穂にかけて、福浦が7ヶ所、福江が1ヵ所瀬戸内海にあります。神武東征
すなはち、隠岐上陸から500年後に、必要になったものです。
福ノ神族の壮大な、500年がかりの策戦が、気の短い日本人には、さとられずにすみました。
これだけの補給ルートと情報網は、地図の証拠でもなかったら、学者は相手にしなかったでしょう。地図はまだまだ多くの謎を解いてくれそうです。
私からの一言----「福浦は水、福江は食糧の補給港だったのです」と云うように、水と食糧に分けられたことは、なにを根拠にされているのでしようね。
福浦と福江が、点々と同じ距離を保つようにあることを発見された時の喜びが伝わってきます。
「福ノ神族の壮大な、500年がかりの策戦が、気の短い日本人には、さとられずにすみました」の文章などは、面白いですね。気の短い日本人とは、田村誠一氏、ご本人だったのではと想像したりしています。「500年がかりの策戦が、」は、その後の田村氏の研究で、神武東征は、紀元元年となりましたから、500年ごではなく、200年後になります。
「鹿児島から赤穂にかけて、福浦が7ヶ所」あると書いておられます。自分で確かめられますと、いっぱい発見ができます。たとえば、福浦は海岸線に、福江は河口にあるはずですが、内陸にあることもあります。岡山県笠岡市の神島にある福浦は、内陸ですが、神島と名前がある通り、当時は、島であったことが判ります。
「鹿児島から赤穂にかけて、」とありますが、鹿児島県には福浦はありません。そのかわり、中福良がいっぱいあります。海岸線ではなく、内陸部にあります。
前々回に添付しました地図の真ん中に、一つ見ることができます。次のアドレスをクリックしてください。
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2008/07/05/12.jpg
地図をスクロールできないときは、50パーセントに落としてみてください。


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