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2008.08.31

ヒルゼン古事記  ぎ志倭人伝 page—48

ぎ志倭人伝ぐらい、沢山の人に、興味を持って読まれる歴史書も少ないでしょう。これはベストセラーの三国志の、一部分です。そして、日本書紀植民地の調査報告でした。
 まだ未占領の九州や近畿は従って含まれていません。松の国(末ロ国)以後に書かれた国だけが、植民地化されていました。
 南鮮も九州も、朝鮮の〝里〟が採用されました。1里は約80米です。
 壱岐からは〝ぎ〟の、直かつ植民地だから当然、〝ぎ〟の〝里〟が採用されました。1里は従って約440米です。
 ぎ志倭人伝の里程も方向も、この解釈に従えば極めて正確であることは驚くばかりです。恐らくスサノオの命が調べたのではと思われます。
 九州王朝が、九州内の国数や、人口、里程を如何にして知ることが出来たか。もしそれだけの調査ができるなら、中国、四国をなぜ除外したかこそ、問題になりませんか。兎に角九州は〝ぎ〟の善隣国ではなかった筈です。

私の一言---「 南鮮も九州も、朝鮮の〝里〟が採用されました。1里は約80米です。
 壱岐からは〝ぎ〟の、直かつ植民地だから当然、〝ぎ〟の〝里〟が採用されました。1里は従って約440米です。」の部分は、確かに、このようなことがいえますね。

「九州王朝が、九州内の国数や、人口、里程を如何にして知ることが出来たか。もしそれだけの調査ができるなら、中国、四国をなぜ除外したかこそ、問題になりませんか。兎に角九州は〝ぎ〟の善隣国ではなかった筈です。」 この部分は、なんでもないようですが、凄いです。

こんなヒントに刺激されて、私も、自分で『ぎ志倭人伝』を読む気になったのが、
H17.12.08 です。
内要は保障できかねますが、『魏志倭人伝を読む』
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page450.html
に書いています。残念ながら、最後まで倭人伝を読んでいませんが、その内に、完成させようと考えています。

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2008.08.29

ヒルゼン古事記  久米国---久米国 page—47

鳥越三郎氏の〝吉備の古代王国〟173頁に書かれた久米郡が古代の久米国でした。
 現在の久米町に、合併前に大倭村と倭文村(シトリ)がありました。又旭町にも倭文西村がありました。
 上記文献の174頁に地図があります。久米川が流れ、両側から山がせまった、要害の土地、大倭にHQがありました。津山方面からの外敵を防ぐには、最適の場所です。
 倭文とは織物のことです。ここで屯田兵の衣類が作られました。
 ぎ志倭人伝に交易物資は、大倭が管理したと明記してくれました。
 占領軍は占領地に〝ヤマト〟と命名して行きました。
 根国の米子の南8キロが倭でした。次は久米国の大倭です。西大寺もヤマトを〝ぎ志〟で邪馬台と速記して帰りました。
 奈良もヤマトでしたが、重要な意味を持たせて、大和のあて字をしたのです。人泣かせの当て字は、福ノ神族の発明です。

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2008.08.28

ヒルゼン古事記  久米国---狗奴国 page—46

〝神々のふるさと ヒルゼン〟で中央突破のルートを書きました。〝地図が解いてくれた流域倭国と邪馬台国〟はスポットだけの立証で歴史ではありません。
 〝ぎ志倭人伝〟は第一冊目の正しかったことを証明してくれたのです。中央突破上の津山を如何に攻撃したかです。
 奴国の南の狗奴国だけは王が居ります。
伊都国は七万戸もある邪馬台国には、女王を任命して統属させてます。民生長官には女王をを採用して、漢から懐柔用の贈物が届けられます。狗奴国はGHQの軍政長官が男王として居りました。
 従って人数は秘密だから書いて居りません。
わざわざ女王国に属さないと書かれました。
 さて、場所ですが地名が広範囲に変って、昔のおもかげは全くありません。これだから地名変更は歴史の抹殺行為だと申し上げたいのです。
 狗奴国とは久米国のことでした。現在の久米町とハイカラな名前の旭町です。

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2008.08.27

ヒルゼン古事記  中央突破 page—45

奴国とは根の国のことです。これからはデルタ地帯で無人の所を占領するのとは、訳が違います。攻撃して占領です。しかも最終目的は近畿です。
 先づ敵、味方の弁別が必要になります。これは〝ぎ志倭人伝〟が教えてくれました。占領軍は文身(イレズミ)をしました。
 武器については、〝地図が解いてくれた流域倭国と邪馬台国〟で発表ずみです。日野川の流域はもちろん、旭川の上流の神代川の流域と吉井川の津山から川口までに、見事に、鍛冶屋蚊屋の集落が配置されていることを地図が教えてくれました。
 安来の玉鋼がここで剣に加工されました。この人達は炭焼きを含めて食糧は根の国で生産されました。
 先住民が居りましたから、デルタ地帯、例えば旭川の河口程は福や宮のつく地名は密度が高くなります。
 しかし、周囲の集落と比較することで進駐して行った方向はつかめます。

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2008.08.26

ヒルゼン古事記 時代考証 page—44

古事記は天孫降臨後、神武東征まではブランクです。年代をふり返って見ましょう。
 国譲りと同時に天孫降臨です。ヒルゼンを一日でも早く降りたかったのです。
 根の国を占領したら、その日のうちにでも漢の王に知らせるのが、戦の常識です。この年号は金印を授けられる年で、紀元57年でした。
 朝鮮の京城等が植民地化されたのが、紀元前108年です。この時にはヒルゼン進駐ずみで、これからでも165年になります。

 紀元57年はニニギの命の生まれた時です。これまでイザナギの命、天照大神、ホシホミミミの命と三代続きました。
日本人は新鮮で無い貝や魚を食べる様になって短命になりました。神ノ福族は、植物で塩分が取れず、粗食でした。幹部は栄養失調の心配がないから百歳以上の長生きこそ常識の筈で、三代なら200年位になります。
 ヒルゼンら紀元前150年に来て、米子占領まで実に200年かかりました。

私からの一言--紀元57年に合わせますと、この論法にはなります。その代わり、その後も一人、60年ぐらいとしますと、日子穂穂出見命--鵜茅草茅不合命--神武天皇-(この間8人)--崇神天皇 で合計12人。 崇神天皇の頃は、720年ということになります。
 紀元57年という数字は、あることはありますから、どこかで辻褄を合せる必要があります。

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2008.08.23

ヒルゼン古事記 舞鶴国 – 伊都国 page—43

ぎ志倭人伝は舞鶴国の存在を教えてくれました。末ロ国から東南に陸路五百里(220キロ)にあたります。
 GHQの長、天照大神はここに移ったのでした。GHQとは漢の政府の出先機関です。
 ニニギの命は天照大神が根の国王に任じたのです。思金神は民生長官です。
 この場所は〝地図が解いてくれた倭国と邪馬台国〟に発表の通りです。漢からは郡使が天津で船を下りますそして勅使の地名(天津の南)の所に常駐です。
 邪馬台国の民生長官に女王を任命します。
播磨と但馬には福ノ神族を配置してありません。その代り一大卒なる特務機関に査察させます。住民が、おそれをいだいたのは今も昔も変わりません。
 漢からの文書は舞鶴国王に届けられます。贈物等は邪馬台国の女王に届けられ、絶対に間違いを許しません。
 占領軍の職務分担や命令系統は2000年昔も見事ではありませんか。

私から一言---私の考えが、間違っているのかも知れません。 が、田村誠一氏は、その後、沢山の冊子を出された後に、300ページにも及ぶ本を出版されています。その中の一冊に、『西暦は日本の建国紀元だった』のタイトルの本があります。神武天皇が、長年かかって、奈良を征服しますが、その時が、西暦元年1月1日だったという内容です。
 この日を、世界の人が紀元元年に決めたのだというか、紀元としてずっと、現在まで使ってきたというストーリになっています。
 ということは、神武天皇は、17年間近くも戦った後に、奈良に到達しましたから、40歳から戦を始めたとしますと、奈良で天皇となったとしますと、紀元元年は、57歳となります。
 魏志倭人伝に書かれてあることは、魏の国のことを書いたものの一部です。紀元240年の頃のことです。
 この冊子は、昭和56年に出版されたものです。『西暦は日本の建国紀元だった』は平成12年4月に出版されています。従いまして、田村誠一氏は、考え方を変えられたことになります。
 前回も、今回も、暫く時代が合わない所があります。しかし、考え方は 素晴らしいと思いますので、続けて読んで頂ければと思います。

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2008.08.22

ヒルゼン古事記 漢倭奴国王 page—42

米子平野を大国主命から国譲りされました。綺麗な言葉です。しかしこれは漢の倭国派遣軍が占領した、最初の植民地です。そして司令部も高千穂に前進しました。
 早速漢の都に使いが出され、お誉めの言葉と共に〝漢倭奴国王〟の金印をさずけられました。漢の金印と銀、銅印の区別がさしもの学者にも見抜けませんでした。
  シルクロードの旅でトルファンの異民族が漢の支配下になった時は銀印でした。米子は福の神族が主で、勿論支配者のニニギの命は漢人です。従って金印でした。
 奴国とは根の国のことでした。都を大国主命が、にせの猪で殺そうとした、手間山の麓に設けます。そして倭の字をつけました。麓だから〝ヤマト〟と読むことにしたのです。
 漢字本来の、音や訓で読まない、人泣かせの地名は福ノ神族の特徴でした。大和もその一つです。
 この金印を積んだ船は難破して、金印だけが志賀島に漂着します。

私から一言--漢倭奴国王の印が、何故、金印であったかの証拠として、ニニギ命が漢人であったのだと書いておられます。
 大国主命は、スサノオ命の娘をさらって逃げたことが古事記に書いてあります。逃げおおせた時に、「我が娘の須世理毘売を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽たかしりて この奴 」といひき。
 とあります。「宇迦の山の山本に底つ石根に宮柱ふとしり、」、そして、都としなさいと書かれています。「高天の原に氷椽たかしりて」 の意味が良く判らないのですが、高天の原にある氷椽より高い柱を立て、その国を「奴」とせよとスサノオは、命令したことになっています。
 しかし、その奴 に対して、金印を貰ったのであれば、大国主命は古事記では、スサノオの子供になっています。その大国主命が、スサノオの娘と結婚となりますと、兄弟の間で、結婚することになります。
このページは、 少々、意味がわからないなと思っています。

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2008.08.20

ヒルゼン古事記 天孫降臨(2) page—41

天孫降臨の日には、ヒルゼン独特の雲海が立ちこめていました。ヒルゼンは周囲を標高差500米位の山に囲まれた、盆地ですから、100米程高い所にある、高天原からは、雲海の上を歩いていける光景です。天の浮橋は誰でも味わえる素晴らしい景色です。
 この天の浮橋を渡って明連川を遡った所が見返峠です。沢山の神々は、ヒルゼンに希望を持ってやって来ました。都を作るべくやって来ました。しかし、寒気と、米が全く取れないために、涙をのんでの退却です。
 大山・蒜山国立公園の真中で景色のよい所でしたが火山灰土には手の打ち様がありません。今年も120センチの雪に被われています。高天原があった時には万を超える人が住んでいたことでしょう。今は6000人がやっとの過疎地です。
 しかし過疎のために2000年の歴史は破壊されずにすみました。天の浮橋を渡ったためのギボシ山の地名も残りました。地図には出て来ない面白い地名が沢山残っています。

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2008.08.19

ヒルゼン古事記 天孫降臨(1) page—40

米子平野が国譲りされました。そこで天照大神はホシホミミの命に倉吉に降りる様命令しました所、子供のニニギの命が生まれた所でした。
 そこでニニギの命を天照大神は推薦しました。天照大神は〝豊葦原の水穂の国はあなたの統治するくにである〟とのみことのりをニニギの命にもたせて高天原を降ります。
 この時沢山の神々と一緒に鏡をさずけます鏡を天照大神の御魂として拝む様に伝えました。恩金の神にはまつりごとをせよと伝えます。これき重大な発言です。
 これ以後天照大神の名前は古事記に出てきません。皇位が継承されたことになります。
 降り行く先は筑紫の日向の高千穂です。倉吉の西の大栄町の高千穂で、古事記に書かれた通り、朝日、夕日のあたる国でした。韓国に面していて、真正面には北条砂丘(カササ)の岬があります。
 戦争の最中ですから、司令部は、米子よりは後背地でなければいけません。

私より一言---倉吉の西の大栄町の高千穂と書いてあります。必ず、地図で確かめてください。

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2008.08.17

ヒルゼン古事記 国譲り page—39

大国主命は自分の一存では返事はできない、息子の事代主命は美保崎に釣りに行っているが、息子に聞いて欲しいと伝えます。
 早速快速船で事代主命を迎いにやります。事代主命は、この国をさしあげて宜しい、と云って船を横だおしにして、その蔭にかくれてしまいます。
 大国主命に外に文句のある人はと聞くと、タケミナカタの神がいるとのことです。
 タケミナカタの神は逃げて逃げて信州のスワ湖で降参しました。
 二人の神が降参したので、大国主命は国譲りを承認します。その代わりに大きな宮を作ってと頼みます。これが出雲大社です。そして手下の神々は全て、さし出しました。
 宮の場所はタギシの小浜となっています。
これも多岸ですから斐伊川のデルタ地帯を指すことになります。
 大国主命はスサノオの命の子孫でした。従って同族の争いですが、大国主命は完全な島流しです。この時の島根半島は離れ島でした。


私からの一言
タケミナカタを神話で片付けますと、日本史はないものとなってしまいます。タケミナカタを祭る神社は、諏訪神社です。この神社の周りには、タケミナカタを祖先として祀っておられる方がいっぱい、現在でも住んで居られます。どれぐらいの方は判りませんが、神社の数は、6000を超えると思います。
【諏訪神社全国の分社】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page407.html

 同じく、アマテラスに国を譲り渡した大国主命は、殺されない代わりに、島流しに遭いました。島流しに遇うだけではありません。7~800年後には、式内社と称する藤原氏が支配する神社で囲まれて身動きとれなくなりました。
【式内社と祭神】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html
式内社は、187あります。ただ、数が多いだけではありません。島根県の地図に、少し、大きい目の記しをつけますと、大国主命の一族が閉じ込められたことが判ります。これは、伊勢も同じことが言えます。
この7~800年の間に、島根県のあたりで、どのような歴史が繰り返されたのかを解き明かすのが、歴史家の仕事です。
大国主命が白ウサギを助けた神話は、どうして、古事記に書かれたのか、今一度考える必要があります。

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2008.08.13

ヒルゼン古事記 倉敷平定 page—38

天の岩戸事件後の戦略会議で、倉吉平野に降りることに決まりました。天照大神の御子オシホミミの命が治める様命令されました。これは、天照大神が皇位を継承したのではありません。倉吉派遣軍司令官に任命されたのです。
 オシホミミの命が偵察におもむいた所、騒々しい限りです。神々を集めて次々と神様を派遣しますが、どの神も現地妻を作ったりして何年も帰ってきません。余程倉吉の方がしのぎ易かったと思われます。
 最後にタケミカヅチの神をつかわします。大国主命の部隊を攻めて、日野川がバックで逃げられない所まで追いつめます。
 岩場の狭い小浜の海岸で剣をさかさに立てて大国主命に談判です。〝葦原の中ツ国を譲れ〟命令です。解説者はここでも談判の内容の吟味をミスしました。
 葦の生えている日野川のデルタ地帯を譲れです。作物の取れない出雲の国に魅力なんか全くなかったのです。

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2008.08.12

資料No24 大阪・加美遺跡で発掘

古墳期しのぐ規模、「方形周溝」27×15メートル 河内王権のルーツか 弥生中期の大墳墓
上の写真は、昭和59年12月26日 に読売新聞に掲載されたものです。活字を大きくして、楯にも横にもタイトルがいっぱいです。その内の一番小さいタイトルをこのファイルのタイトルにしました。それ以外のタイトルをはじめに列記しました。

この賑やかなタイトルを見るだけで、読売新聞の興奮が伝わる思いがします。

本文を紹介しておきます。
前文
古墳が出現する約三百年前の弥生時代中期」(約2000年前)の河内平野に並みの古墳を上回る大墳墓が築かれていたことが明らかになった。二十五日までに大阪市教委と市文化財協会が、同市平野区加美東6の加美遺跡で発見したもので、墳丘は全長27メートルと全国で最大の方形周溝墓。学会では「古墳の定義を書き換える」「中国戦国時代の墓制がうかがえる」などとおおきな反響をよんでおり、やがて巨大な前方後円墓を築く「川内王権」のルーツに結びつく重大な手掛かりと云える。

本文
 この周溝墓は、弥生時代末期の遺構が広がる加美遺跡の下層、現地表の約3.5mの溝が南北40m、東西28mにわたって掘られており、その中心に墳丘が、高さ2m、南北27m、東西15mに盛土でつくられていた。これまでに、頂上の平坦な部分から、高野マキ製と見られる木簡が13基埋め込まれているのが見つかっており、いずも人骨が残っていた。
 この時期の方形周溝墓としては、これまで最大とされていた東大阪市の瓜生堂遺跡の二号墓で、全長12m。岡山県倉敷市の楯築(たてつき)方形台状墓(全長推定70m)弥生末期から古墳時代にかかる時期で、「古墳」の原型の一つと見られており、今回見つかった周溝墓が、完全な「弥生墓」の中で最大となる。
 現地を見た森浩一同志社大教授(考古学)は「古墳がいつ出現したかは考古学、古代史上重要な関心事だが、今回の周溝墓は驚きだ。古墳の定義を書き換える画期的な発見」と高く評価し、古墳の出現について楯築方形台状墓などの敷きり三百年近くもさかのぼらせてもいいのではないか、と大胆な見解を取っている。
 また、この時期に十トンダンプで八十台という大量の盛り土をし、古墳をしのぐ大型墳墓を築いた集団について、同市教委では「これが首長クラスの家族墓とすれば、すでに当時社会的にそれだけの勢力(経済力)差が出ていたといえる。この土木技術は、巨大な前方後円墓築造につながる」と説明している。
 通称、支配体制の発生は、古墳時代に入ってからとされるが、今度の発見で弥生時代にまでさかのぼらせる根拠にもなるわけだ。特に、四、五世紀にかけて河内平野に応神陵などの古代古墳を造った「河内王権」につながるルーツともとらえられる。
一方、同遺跡の弥生末期(三世紀後半)の方形周溝墓、その近くの大溝からは、これまでに、機内では前期古墳(四世紀)からしか見つかっていない小型の国内製鏡二枚が見つかっている。
 
少し、長くなりましたので、著作権侵害で叱られるでしょうか? この記事は、ずっと以前から気になっている記事です。
 「この賑やかなタイトルを見るだけで、読売新聞の興奮が伝わる思いがします」と書きましたように、書かれた記者も河内平野に応神陵などの古代古墳を造った「河内王権」が解明されると胸を膨らませたと思います。
 河内王権は、解明されていません。 それどころか、方形周溝墓のことも分かっていません。
 せめて、方形周溝墓と前方後円墓とは、何らかの関係があるのかどうか解明されても良いはずです。
 なぜ、解明されないのかと云いますと、方形周溝墓と前方後円墓が、全国に跨って、沢山ありすぎるからだと思います。仮に、ヤマトが奈良だとしますと、ヤマトの支配力が、関東まで、及んでいたことになります。 ヤマトが九州であれば、群馬・埼玉県まで、直接支配することは大変ですから、中間に連絡所があったことになります。大阪の古市古墳群は、その証拠でしょうか?
支配力とは何でしょう。関東の人が、作った米を集めに行ったのでしょうか? それだけ、広大な各地を支配しようとしますと、記録は欠かせないことになります。

このようなことを考えていますと、「河内王権」が解明されるどころか、同じような形をした方形周溝墓の説明が付きません。

この新聞記事から、34年経っています。折角、加美遺跡を発掘したのに、なにも役立っていません。本当は、殆ど、解明されているが、私が知らないだけかもしれません。

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2008.08.11

ヒルゼン古事記 鍛冶屋 page—37

〝神々のふるさと ヒルゼン〟と〝地図が解いてくれた倭国と邪馬台国〟でも、鍛冶屋のことを書きました。
 日野川や大山、蒜山周辺、吉井川の流域のおびただしい、鍛冶屋の集落が、どうして自由意志で発生したと考えられるでしょうか?
 農耕用鉄器を作ったのであれば、如何にして物々交換したかも解明する必要があります。
 これは剣を作る以外には考えられない、おびただしい数です。米の出来ない所に、福ノ神族の集落がある以上、木炭を焼いた人達でしょう。
 炭焼きの人には食糧を補給する必要があります。
 このスケールの大きい計画を実行したのは恐らくスサノオの命だったのではないでしょうか。
 2000年後に行われた、第二次大戦の騒動員計画は、お粗末でした。2000年間で頭まで追加した様です。タタラ意外にも鉄の製法があったことすら、分かりませんでした。


 私から一言--「2000年間で頭まで追加した様です」の「追加」は印刷所のミスだと思います。「退化」でしょう。
 「日野川や大山、蒜山周辺、吉井川の流域のおびただしい、鍛冶屋の集落が、どうして自由意志で発生したと考えられるでしょうか?」
 この部分の意味がおわかりですか? 25000の1の地図で、「鍛冶屋」という地名を拾ってください。普通に考えますと、私が知っている60年前には、まだ鍛冶屋さんがありました。鍋や鎌の修理が仕事でした。そこは、鍛冶屋という地名にはなりませんでした。
私が住んでいる所は、正式名ではありませんでしたが、横町と云いました。横町のはずれには、「油サダ」と云う所がありました。そこは「油サダ」という地名だと思っていましたが、大きな油屋さんでしたが、地名ではありませんでした。屋号はなかなか、地名にはならないと思います。
 タイトルの鍛冶屋は、蒜山高原の鍛冶屋のことです。蒜山高原、他の地名も見てください。「田」の付く地名が、多いです。田を作って米を作るつもりでしたが、米はできませんでした。そして、撤退することになりました。
 そんな所に、「鍛冶屋」という地名があるのがおかしいと、田村誠一氏は云っておられます。
ここの鍛冶屋では、鍋や鎌や農機具を作っていたのではなく、大規模に「剣」を作っていたのだと推理しておられます。
 製鉄と云いますと、タタラ製鉄しか、頭に浮かびません。
この様な、発想は、日本の歴史では見たことがありません。田村誠一氏は、古事記に書かれているスサノオが襲った八俣の大蛇の話は、大きな製鉄所のことだと推察されました。
 フイゴを使った製鉄ではなく、自然の風を使った製鉄です。岐阜県と滋賀県にまたがってある伊吹山の山麓でも、この方式で製鉄が行われた可能性があります。 

 田村誠一氏の真似をして、私が古事記の解読をしたものがあります。読んで頂ければ嬉しいです。
須佐之男の大蛇退治  http://homepage1.nifty.com/o-mino/page355.html

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2008.08.10

ヒルゼン古事記 須賀の宮 page—36

スサノオの命は、大呂の製鉄所を占領後、出雲の須賀に移りました。ここでも解説者は意図が見抜けませんでした。
 大呂を外的から守るためでした。地図を眺めると要害山があります。要害山は倉吉にも米子にもあります。外的の攻撃を受けた時に援軍が来るまで、立てこもる所でした。
 スサノオの命は同時に、日本国中の情報収集に飛び回りました。城山や福浦がどうして偶然発生したと云えるでしょうか?
各河川の水運が可能か否かだけを、調べるだけでも大変なことです。
 スサノオの命の各地の伝説には、調べて見るに値することが沢山あります。これをスサノオの命が何人か存在したと、一方的に、述べることはおかしいでしょう。
 三国志に出て来る、支那の人と同時代の、戦略家が日本国内でも、活躍していたのです。

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2008.08.09

ヒルゼン古事記 八俣の遠呂智 page—35

スサノオの命の即時撤退は、あまりにも短兵急でした。乱暴がすぎました。しかしスサノオの命の意見はかったのです。
 乱暴の罰として、ツメは抜かれました。ヒルゼンから三平山の峠から、今一つの平坂を俣野川に下ります。この川は日野川の支流です。日野川の本流に出て遡った所が、鳥髪山(現在船通山)です。
 この山の北側の大呂の製鉄所を占領しました。ここには、同じ福ノ神族の第一グループの人が、金沢から小松にかけて渡来して、製鉄職人が移って来ていました。古事記には高志の人と書かれています。
 山の斜面に煙道をつくり、煙突作用の自然通風で玉鋼をつくっていました。これは福ノ神の特許ですから、古事記でも、内容は、誤魔化して公開しませんでした。
 こじきには〝オロチ〟には〝蛇〟の字が使ってあります。同じ発音なのに、タイトルの様に遠呂智と、わざわざ書いて、大呂を知られるのを防ぎました。

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2008.08.08

ヒルゼン古事記 吉井川 page—34

〝地図が解いてくれた倭国と邪馬台国〟でも、吉井川は、現在の津山線が開通するまでは、船が津山まで、通っていたと述べまた。
 2000年昔に、日本書紀国内の地球は、漢の軍部によって調査ずみでした。シルクロードの奥地の天山山脈は、2000キロ離れていました。この地理と、日本の地理の調査はどちらが楽だったでしょうか。
 日野川と吉井川は急流が少なかったです。この二つの川の間は陸路で結ぶことに決まりました。
 前稿では旭川の上流も一部使用した様に書きましたが、これは間違いでした。
船が通れない急流が見つかりました。
 恐らく日野川の上流から四十曲峠—美甘(ミカモ)—湯原(昔は神湯)—大平峠(オオナル)—
久世—久米--津山のルートが戦略として、御前会議で決められたでしょう。
 大量の屯田兵は正規軍です。韓は被征服民族だから使用できません。漢からのルート確保も議論されたことでしょう。

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2008.08.07

ヒルゼン古事記 天の岩戸 page—32

神々は早速、天の安の河原に集って前後策の相談です。天照大神の救出方法はご存じの通りですから、省略します。
 〝神々の故郷ヒルゼン〟で述べた様に、ヒルゼンにはお膳立ては、全てそろっています。 
 天の岩戸の前で、神を楽しませる、お神楽は、第一回公演です。そしてこの時の踊りがヒルゼンに伝わる、大宮踊りです。
 シルクロードの音楽の旅に出て来た、天山山脈のりクチャの踊りが、ヒルゼンの大宮踊りとそっくりなのに脅かされました。大宮踊りは無形文化財で、今では八月十五日に福田神社で踊られます。
 福ノ神族が〝大〟の字を使用した時は最高も意味すると申上げました。最高とは、福田神社のことで、昔は福田大明神と呼ばれてました。大明神でないことには、大宮踊りとは云えないことになります。
 クチャには正倉院の御物の五弦の楽器も、壁画に描かれていました。無縁でしょうか?


私から一言----郡上踊りは、徹夜で踊られるため、多くの人を集めて賑わいます。阿波踊りも踊り明かします。
大宮踊りは有名と聞いたことがありません。盆踊りの様なものだと思っていましたが、それがどうして、無形文化財なのでしょう。
いつかは一度行きたいと思っていますが、果たしていません。他の方が、ホームページに載せておられるのを無断で、載せました。
【大宮踊り】http://www.bonodori.net/zenkoku/omiya/omoya_TOP.HTML
ここに動画が添付されています。
掲載されている方の文章も読んでください。
「・・・優雅で古調な、実にしなやかな手さばき。時おり音頭にまじる「ウワハン」という不思議なコトバが、まるでこの世とあの世をつなぐ呪文のようです・・・」と書いておられます。
 クチャの人が、ヒルゼンまでやって来て、伝えられたと考えますと、その不思議さは、解るのではないかと思っています。 8月15日でしたら、まだ、間に合います。 どうぞ。

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2008.08.05

ヒルゼン古事記 高天原撤退論争 page—31

イザナギの命はスサノオの命が海軍長官の任務につかないことを認めました。これは食糧を如何に確保するかのもんだいになります。
 スサノオの命は、すさまじい姿で、天照大神も身をかためて争いです。
 天照大神のヒルゼンで、ねばりぬく論とスサノオの命の境港まで撤退論は、生れる子供で勝負を決めることになりました。
 天照大神は五人の男子、スサノオの命は三人の女子で、スサノオの勝ちに決まりました。稲作民族で、水田が自由に入手出来た時代には子供が多い方が、部下が多い方が権力を持ったことになります。
 福ノ神族が一瞬に権力を手中に納め、大形古墳時代に突入は、この勝負で想像できます。
 スサノオの命は勝ちに乗じて、即時、天照大神の田のあぜを壊し、機織女まで死ぬ始末で天照大神は身の危険を感じて、天の岩戸に、逃げこんでしまいました。
 ヒルゼンの寒気は華南人には、こたえましたし、食糧不足も余程身にしみたのでしょう。

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2008.08.02

ヒルゼン古事記 皇位継承  page—30

イザナギの命の三人の子供が成人しました。天照大神に高天原の統治を命じます。月読命が食糧庁長官、スサノオの命は海軍の長官です。
 ヒルゼンを永久の都にするには、食糧が全く取れないので、自給自足が不可能です。漢からの補給は重要問題だから、スサノオの命にこの責任を持たせたのです。
 ガダルカナルの補給を忘れた作戦とは大違いです。
 スサノオの命はこの任務につかず、根の国まで撤退しようと号泣します。イザナギの命は大変しかりつけますが、スサノオの命がヒルゼンにとどまることを認めて、近江の多賀に隠退しました。
 ヒルゼンから近江の多賀までのルートは〝神々のふるさと ヒルゼン〟で明らかにしました。三方五湖から、びわ湖に最も楽なルートが、布石ができていました。古事記の原本は淡海と書かれ、淡水の海とかんがえるべきで、後世の天皇までが淡路と勘違いしました。

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2008.08.01

ヒルゼン古事記 イザナミの命  page—29

イザナミの命は難産がもとで亡くなりました。出雲と伯耆の国境の比婆山神社に葬りました。当時は風葬でしたので、先づ大山の西溝口の御墓原に葬ったのです。隣の山が鬼住山です。副葬品専門の墓嵐が鬼だったのです。
  イザナギの命はこの黄泉の国にイザナミの命に会いに行かれます。呼んだ所、待たして仲々出て来られません。火をともして、のぞいて所うじがたかっていました。
 びっくりして逃げ出しました。鬼が追いかけて来ましたのでやっとの事で、のがれます。鬼女台(キメンタイ)が名残の名です。
 みにくいものを見ましたので草の少ない河原で、みそぎをします。現在の大河原です。
 みそぎは福ノ神族が導入した特徴の一つで琴るごとに、みそぎが行われます。高天原の近くに真水の名水で、夏でも十度を超えない水がわいています。これが旭川の源流で現在は塩釜と呼ばれていますが、古事記では真名井となっています。みそぎの場所です。


私からの一言
イザナミの墓・比婆山 (2005.01.18) は次に書いておきました。
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/01/post_8.html

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