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2008.08.23

ヒルゼン古事記 舞鶴国 – 伊都国 page—43

ぎ志倭人伝は舞鶴国の存在を教えてくれました。末ロ国から東南に陸路五百里(220キロ)にあたります。
 GHQの長、天照大神はここに移ったのでした。GHQとは漢の政府の出先機関です。
 ニニギの命は天照大神が根の国王に任じたのです。思金神は民生長官です。
 この場所は〝地図が解いてくれた倭国と邪馬台国〟に発表の通りです。漢からは郡使が天津で船を下りますそして勅使の地名(天津の南)の所に常駐です。
 邪馬台国の民生長官に女王を任命します。
播磨と但馬には福ノ神族を配置してありません。その代り一大卒なる特務機関に査察させます。住民が、おそれをいだいたのは今も昔も変わりません。
 漢からの文書は舞鶴国王に届けられます。贈物等は邪馬台国の女王に届けられ、絶対に間違いを許しません。
 占領軍の職務分担や命令系統は2000年昔も見事ではありませんか。

私から一言---私の考えが、間違っているのかも知れません。 が、田村誠一氏は、その後、沢山の冊子を出された後に、300ページにも及ぶ本を出版されています。その中の一冊に、『西暦は日本の建国紀元だった』のタイトルの本があります。神武天皇が、長年かかって、奈良を征服しますが、その時が、西暦元年1月1日だったという内容です。
 この日を、世界の人が紀元元年に決めたのだというか、紀元としてずっと、現在まで使ってきたというストーリになっています。
 ということは、神武天皇は、17年間近くも戦った後に、奈良に到達しましたから、40歳から戦を始めたとしますと、奈良で天皇となったとしますと、紀元元年は、57歳となります。
 魏志倭人伝に書かれてあることは、魏の国のことを書いたものの一部です。紀元240年の頃のことです。
 この冊子は、昭和56年に出版されたものです。『西暦は日本の建国紀元だった』は平成12年4月に出版されています。従いまして、田村誠一氏は、考え方を変えられたことになります。
 前回も、今回も、暫く時代が合わない所があります。しかし、考え方は 素晴らしいと思いますので、続けて読んで頂ければと思います。

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