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2008.09.29

ヒルゼン古事記  桔言 page—62

昭和五十六年一月五日の、NHKのシルクロードの旅の放映は、意外の結論を導いてしまった様です。
 隠岐島に上陸したのは、漢の東方派遣軍でした。時は紀元前180年頃です。神武東征もこの一貫でした。九州勢が大和に侵入する力なんか到底なかったのです。
 ぎ志倭人伝の邪馬台国の七万戸と投馬国の五万戸の人々の食糧も考えない、邪馬台国論争は、お粗末でした。食べることから、問題は解決すべきでした。
 漢は滅んでも、東方植民地政策は変わりませんでした。日本の政府も少しは、お手本にしてほしいものです。
 泰陸の民族は同族でした。正倉院の御物はごほうびだったのです。
 
謎はやっと解けました。それにつけても、地名は歴史なり、です。誰の利益にもならない、新住居表示位、悪法は即時撤廃すべきではないでしょうか。

第三話は、きょうで終了です。
次回から、第二話に戻ります。

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2008.09.27

ヒルゼン古事記  神武東征 page—61

神武東征は、倉吉の高千穂から、境湊の日向浦に集結して壮途に、上ったことは、〝地図が解いてくれた倭国と邪馬台国〟で明らかにしました。
 最後の終結地は児島湾でした。これからは以後は戦争らしい、戦争の連続です。
この武器も大変でしょう。剣等は鉄だったために、あまり出土しなかったので確保は困難です。
 しかし、華南から2000キロの補給路があったことは、はっきりしました。二次大戦を考える時、あざやかと申す外ありません。
 この2000キロは屯田兵も、運んで来ました。しかし、稲作技術も、このお蔭で急速に普及しました。
 この意味でシルクロードの代りに、米の道と申し上げたいのです。
 日本の文化が飛躍的に、大陸と同一レベルになったのも米の道の功績です。
 銅たくも、沢山の話題の種になりました。
 しかし福ノ神族が稲作技術を持込むと、田植祭に変って、不要になりました。

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2008.09.26

資料No32八幡神社(北尾) 村社  鳥取神社誌より

鎮座地 東伯郡下北条村大字北尾字八幡山   地図

鳥取県の神社をすべて調べるつもりになっています。 一番の理由は、天孫降臨という言葉があります。ニニギ命が、高天原から降りて来た所が、鳥取県の東伯郡ではなかったかと思っています。そこで、先ず、東伯郡だけでもと思いますが、東伯郡だけで、141もの神社があります。全部調べる訳には行きませんので、気になった神社から、調べていきたいと思っています。
 天孫降臨は紀元140年ころのことではないかと考えていますが、なに一つ証拠らしいものがありません。
有るとしますと、地名と神社と考古学上の資料かと考えます。そのような頃に神社があったのかと云いますと、無かったと思います。
 古事記や日本書紀が作られた時は、式内社という形で残っていますから、古事記や日本書紀との関係を絡めながら、考えてみようと思っています。

 一回目は、北栄町北尾にある八幡神社です。資料は、大正9年に作られた鳥取神社誌からです。
祭神 誉田別尊、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、住吉神、大山祇尊、猿田彦神、素戔鳴尊、大己貴尊、少彦名尊、国常立尊、綿津見神、奥津彦神、奥津姫神、菅相烝、土御祖命、倉稲魂神、天児屋根尊、山神

由緒 当社は清和天皇貞観七年八月(866)筑紫宇佐八幡宮の御分霊を奉祀して産土神とし尊崇するものにして郡内屈指の大社なり、古来庶民の崇敬は固より武門武将の尊信篤し、永禄五年岩倉城主小鴨左衛門元清社領五百石寄進。
天正八年吉川元和春鞍骨一脊寄進、元和二年里見忠義社殿を造営す、北尾堤城主山田左衛門尉紀秀員入道眞観なるもの弘安六年の制作に係る梵鐘を改鋳奉納す。
 明治40年4月27日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
 大正2年12月28日 
下北条村大字曲字苅山 鎮座 村社苅山神社 (祭神 綿津見神)
       同上字岡 鎮座 村社岡神社 (祭神 素盞鳴尊)
同上字米里字三ノ崎鎮座 無格社 嶌沢神社 (祭神 素戔鳴尊、大山祇尊)
同上大字島字田村 鎮座 無格社 田村神社 (祭神 猿田彦尊) 
同上大字弓原字妙見 鎮座 無格社 田井神社 (祭神 国常立尊)
同上大字下神字南宮脇 鎮座 無格社 下神神社 (祭神 菅相烝)
同上大字土下字宇野本 鎮座 無格社 三輪神社 (祭神 大己貴尊、少彦名尊、猿田彦神、倉稲魂神、天児屋根尊)
同上大字弓原字飯田 鎮座 無格社 弓原神社 (祭神 奥津彦神、奥津姫神、菅相烝、土御祖命
の八神社を合祀する。
大正11年5月 当社後方の崖より古鏡、香合、櫛、経筒、刀剣を発見す、何れも藤原時代の制作にして優秀なものなり、文化年中にも社前の石崖修繕中石櫃を発見せしが中に刀剣経筒古文書巻物十卷あり現に宝物として保存す。
 合併神社三輪神社は大国主尊、少彦名尊を祀り、猿田彦神、倉稲魂神、天児屋根尊を合祭す、当神社は大正二年神社整理の結果八幡に合併せるものなるが元官帳所載の三輪神社なるを知るに足るものあれば茲にその概要を記す。

一、地名 上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ、大和国三輪神を遷し奉りしより此の名称出づ。
二、往古三輪神の鎮座地は下神郷の中央なる三輪山の麓字三輪脇に在りしが、宝暦三年の火災により野本山に移転せり。
三、鎮座地 土下(ハシタ)は往古土師部の此の地に移住せしより地名とす、土下山の頂には今尚数百の古墳散在し古器物を発見す。
 例祭日 10月15日
 建造物  本殿、弊殿、拝殿、随神門、社務所、参籠所、第二参籠所
 境内坪数 6911坪
 氏子戸数 627戸

祭神が多いですね。どうしてだと思われますか? WEBで調べましたが、何故の多いのか、書いたものはありません。その代わり、八幡山の相撲や放生祭りのことが書かれていました。そのまま、記事を掲載します。著作権で叱られるかも知れません。叱られましたら、消去することになりますので、それまでの命です。
【八幡山の相撲は放生祭りの日、鳥居下の土俵で行われた。これは戦時中まで続き、広い観客席をいっぱいにした。
放生祭りは、放生会(ほうじょうえ)といい、八幡神社ではこの日、生きたものを放して、今まで殺生した霊を祭るという気持から生れたものであった。この放生会を行う所は県下で3ヶ所といわれ倉田八幡宮、逢坂八幡宮、北条の八幡さんであった。かつては8月15、16日が祭りであったが、養蚕とつどうので明治の中頃に10月15、16日に変更した。しかし、その年いせいち風(南東の風)が吹き荒れたので元に戻したという。】


この文で気になったことは、
①放生会を行う所は県下で3ヶ所といわれ倉田八幡宮、逢坂八幡宮、北条の八幡さんと書かれていることです。この地方では、八幡宮が3社はあるということです。多いのか少ないのか判りませんが、気になります。八幡宮は急に作られた可能性があります。その点を調べたいのです。
②「養蚕とつどう」とはどういうことでしょうか? 私は、この5年間、「絹」のことに注目していますが、鳥取は、倭文神社が、二社もあるのに、絹に関する記録が少ないところです。少なくとも、倭文神社の周りで絹が作られていても、おかしくないのに、ありません。
③いせいち風(南東の風)が吹き荒れたので元に戻したの意味も解りません。地元の方ですと、すぐにわかるとおもいますが・・・。

 日本海新聞に北条八幡神社
に追儺式のことが掲載されています。この記事には、前田昌彦宮司の言葉として、
 北条八幡宮は、平安末期に山城国(京都府)の石清水八幡宮別宮として鎮座し、千余年がたつ歴史ある神社であると書かれています。上に書きました 鳥取神社誌より写したものでは、「当社は清和天皇貞観七年八月(866)筑紫宇佐八幡宮の御分霊を奉祀して産土神とし尊崇するもの」とあります。どちらが正しいのでしょう。

どちらにしても、北条八幡神社は、宇佐八幡宮か石清水八幡宮から勧請されたことになります。
祭神がどうして多いのかは、由緒に書かれてある通り、八社の神社を合祀したからであることが判ります。どうして、 大正2年12月28日 に一気に合祀することになったか知りたいところですが、今の所分かりません。
 八幡神社は全国にたくさんあります。祭神は、応神天皇が普通です。由緒には、誉田別尊と書かれています。どうして、応神天皇ではなく、誉田別尊なのでしょう。
合祀された神社の祭神を八幡神社の祭神から除きますと、誉田別尊、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、住吉神、山神が残ります。

誉田別尊についての考察--誉田別尊の名は、神功皇后の47年の所に、太子誉田別尊として日本書紀に掲載されています。日本書紀の応神天皇紀には、誉田天皇が記されています。
古事記には、品陀和氣命。『播磨国風土記』には、品太天皇(ほむだのすめらみこと)と表記。 「上宮記」逸文には、凡牟都和希王(ほむたわけのみこ)と表記。
 従いまして、 誉田別尊は、太子のときの呼び名であって、天皇の呼び名ではなさそうです。しかし、天皇とされておられる方もおられます。仲哀天皇は、日本書紀では、
足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、古事記では、帯中日子天皇の表記です。
仲哀天皇の名は、記紀の両方にも見つかりません。(その内に見つかる?)
ということで、八幡神社の由緒に書かれてある祭神・誉田別尊、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、住吉神、山神は、昔から伝えられている祭神とは限らないようです。
住吉神とは、底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命を言いますが、どうして、ここに祀られているのでしょう。
山神も不明です。
 判らないことばかりですが、このままにしておきます。


参考--貞観七年 貞観期に起きた出来事 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E8%A6%B3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)#.E8.B2.9E.E8.A6.B3.E6.9C.9F.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.8D.E3.81.9F.E5.87.BA.E6.9D.A5.E4.BA.8B富士山噴火-- 


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2008.09.25

ヒルゼン古事記  草戸千軒 page—60

福山市内を流れる川が、芦田川です。この町にも〝福〟が付きました。この市内の芦田川にそって、昔草戸千軒が繁栄を、誇っていました。
 詳しいことは〝広島建の歴史〟61頁、〝山陽の古代遺跡〟227頁に譲りたい。
 芦田川流域の玉島国にやって来た、福ノ神族は第三グループと申し上げた。この人達は、福山で船を下りたでしょう。
 玉島国の人々は、大和朝廷では重要なポストには、つけなかった筈です。ヤマト西大寺は軍都で、福山は商都としての性格をもっていたと考えれば、いかがでしょう。
 草戸千軒の、初期の人々は芦田川流域から移り住みました。そしてここで成功して、神辺平野の各地の故郷に、寺を寄進したと思われます。この平野の廃寺は、大和ではなく、草戸で交易で成功した人達にサポートされ、洪水で主を失いました。
 古代の都市や国の興亡が、ある日突然発生することは、ヒルゼン以外にもありました。
 

私から一言---廃寺は兎に角、大きな物がありますから、このような考え方は、して見ることです。米を作っていただけでは、説明が付かないでしょう。鉄も水銀も絹も大いに交易されていたと考えますと、あり得ます。
 ただ、洪水は、考古学で、解り易いと思うのですが、それほど、多く発表されていません。
こんなバカなと思いながら、読むのを止めようと思っておられる方も居られるでしょう。
 田村氏は、これを書かれた時は、何歳だったでしょう。明治40年ぐらいのお生まれだったと思います。広島県の歴史〟や〝山陽の古代遺跡〟のほか、膨大な本を読まれながら、実際に芦田川を歩かれたと思います。そして、心は、1800年前に居られます。

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2008.09.24

資料No31 松神神社

東伯郡下北条村大字松神字屋敷  (鳥取県東伯郡北栄町松神796番
 地図

祭神 猿田彦神、木花開耶姫命
由緒 創立年月不詳、往古より松本大明神と称し、大字松神の産土神として崇敬せり、明治五年大字北尾鎮座・村社八幡神社を以て産土神となし同神社の摂社として社号を松神神社と改称せらる。
例祭日 4月8日
建造物 本殿、神楽殿兼通門、神輿庫
境内坪数 269坪
崇敬者戸数 85戸   鳥取神社誌より

この神社の鎮座地は、東伯郡下北条村大字松神字屋敷です。松神神社があったから、地名が大字松神となったか、地名が松神であったから、神社の名前が松神神社となったかは、不明です。

 この神社を調べる気になったのは、
由緒 創立年月不詳、往古より松本大明神と称し、大字松神の産土神として崇敬せり、明治五年大字北尾鎮座・村社八幡神社を以て産土神となし同神社の摂社として社号を松神神社と改称せらる。
ここに書かれてあることが納得できません。往古より松本大明神と呼ばれていた神社の祭神が、どうして、猿田彦神、木花開耶姫命に代わってしまったかです。

もう一つは、東伯郡下北条村大字松神字屋敷の村の産土としていたのですが、明治五年大字北尾鎮座・村社八幡神社を以て産土神となし同神社の摂社として社号を松神神社と改称せらる。と書いてあることは、何故か、理由があって、産土神とすることは、禁止されて、八幡神社の摂社になってしまいました。

そもそも、私がこの神社に興味を持ったのは、二つあります。神社の名前が、松神神社だったからです。土地の名前に、「神」がはいっている場合は、ユダヤ人が住んでいたからではないかと推察しています。この松神の近くに、下神と上神という地名があります。ここも、そうだと想像しています。こちらは松神と違って、「シモツワ」、「カズワ」と呼び、難読地名です。
 どしてこのような、名前があるのか、難読だでけでは、証拠になりません。そこで、この推理が正しいことを説明出来ればと思っています。
往古より祭神は、松本大明神と称されていたと書いておられますが、わたしは、猿田彦神、木花開耶姫命が、元々祀られていた神の名前だと思っています。というのは、二人とも古い神の名前だから、古くから神社があったと思っています。その祭神が、使うことを禁止されて松本大明神になったのではないかと思います。しかし、八幡神社の末社になることを条件に、猿田彦神、木花開耶姫命が復活されたのではないでしょうか?

猿田彦神はアマテラスの孫であるニニギが、高天原から降臨する時に、ニニギが道に間違わないように、分岐が多い道で待っていた神です。三重県の神社にいっぱい祀られていますから、三重県から遠いところまで向かいに来た事になります。そして、そのニニギは、三重県に行ったのかと云いますと、福岡県に祀られています。ニニギ父親の天忍穂耳命も九州の神社で祀られています。ということは、ニニギと天忍穂耳命がふたりで、九周征伐をしていたと考えますと、推理がすっきりします。

それと、同様に木花開耶姫命のことを推理してみます。ニニギが降臨してきたときに、笠沙の御崎で麗しい美人に遇われました。「あなたは誰の娘かとききますと、「大山津見神の娘、名前は神阿多都比売、又の名前は木花の佐久夜毘売」 と言ったと古事記に書かれています。
木花開耶姫命は、コノハナノサクヤビメと読まれています。一般的には木花咲耶姫と記され、これでしたら、コノハナノサクヤビメと読むことはできます。古事記の木花之佐久夜毘売は、だれでも読むことができます。別名を古事記では神阿多都比売(カムアタツヒメ)、日本書紀では神吾田津姫、鹿葦津姫または葦津姫(カヤツヒメ)が本名でコノハナノサクヤビメは別名としています。日本書紀の鹿葦津姫または葦津姫も読むことは不可能です。
 日本書紀では、古事記に出てくる地名や名前は、全部、古事記と異なる漢字を使つています。そのために、殆ど、読むことはできません。
 神阿多都比売をインターネットで検索しますと、薩摩の国阿多郡の阿多だとしておられます。(岩波文庫の『古事記』の中で、校注者の倉野憲司氏が注釈に書いておられるからでしょうか) また、神は美称だと書いておられます。
 神阿多都比売の「神」はユダヤ人であることを表しています。阿多は生まれた土地を表しています。
猿田彦神は、古事記では「猿田毘古神」となっています。
猿田彦神、木花開耶姫命は、天孫降臨の頃に、松神のあたりに住んでいたか、一時滞在していたと考えますと、無理がありません。古事記に載っていたから、格好がよいので、私たちの産土の神にしようではないかとはならなかったと思います。
松神神社は、元々、猿田毘古神と木花佐久夜毘売が祀られていたのですが、この村は、藤原氏の勢力範囲となり、祭神は、松本大明神を名乗るように言われていましたが、八幡神社に吸収されてしまいます。そして、そこでは元の松神神社を名乗りましたが、猿田毘古神と木花佐久夜毘売は認められなかったか、長い年月の間に、忘れられ、漢字は違う猿田彦神、木花開耶姫命が祭神になったのではないでしょうか?
それはごく最近のことで、明治五年のこととされています。

明治40年前後に、神社の合併がありました。三重県です。当時の政府の方針だったと思われますが、何があったのでしょうか? これが解けませんと、日本史の真相は解明できません。
 
次回は、八幡神社の摂社にされたのですが、その八幡神社はどのような神社であったのかを調べてみます。

この松神神社が、天孫降臨前後に関わった二人の神が祭神ということは、天孫降臨は、九州ではなく、この近くだったのではないでしょうか?

このような観点から、日本書紀を読みなおしますと、日本書紀の本文には、猿田毘古神についてはなにも書かれていません。日本書紀の編集者は、他の書きものには、こんなのがありましたよと、全部で、八つの書物を掲載しています。この中の「第一書」とされるところには、猿田毘古神のことが掲載されています。

 日本書紀の作者は、伯耆の国に、ニニギが天孫降臨したことを書きたくなかったのではないでしょうか?

参考に
三重県の神社整理(神社合祀)誰が何のために、100あった神社を潰したのでしょう。三重県だけに限りません。特に、戦後の歴史は、日本人全員で考え直さなければなりません。  H20.09.24

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2008.09.23

ヒルゼン古事記  故郷に錦 page—59

大和朝廷で出世した人々は、亡くなると、塚を生まれ故郷に残しました。更に、各地に一宮を寄進しました。
 隠岐の島後の、福浦の、極めてへんぴな所にも一宮があるのが、この証拠の一つです。
 〝鳥取県の歴史散歩〟132頁以降に、大原廃寺、大御堂廃寺、斎尾廃寺のことが書かれています。
 何れも法隆寺と同時代の寺跡でした。しかも法隆寺に匹敵する大きな、立派な寺でした。この謎はやっと解けました。
 大和で出世した人々が、競って故郷に錦を飾ったのでした。大和より狭い、倉吉平野に法隆寺が三つあっても良かったのです。
 ヤマトの西大寺は、奈良の東大寺とで、対になりませんか。ここにも大きな寺が無いと不自然です。この故郷の錦の、寺は吉井川の洪水で流されてしまったと、考えられないでしょうか。
 故郷に錦を飾り、寄進をするのは、日本民族が、2000年守って来た美風でした。

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2008.09.21

ヒルゼン古事記  故郷に古墳 page—58

ぎ志倭人伝の紀元240年には、笛吹国—不弥国—倉敷の人口は千余戸でした。神武東征は、これより後に高千穂から、出発しました。従って師団司令部だけは、笛吹国にあったことになります。
 この時の郡司令部と調達本部、被服しようは、久米国です。兵器しようは、日野川の中流の武庫(俣野川との、郷竜地点)です。
 屯田兵は、もちろん稲作の出来る、ヤマト西大寺のデルタ地帯でした。この時には、七万戸に達していました。
 大和進駐と共に、恐らく年よりだけ残して主だった人は、大和に移りました。
 笛吹国は紀元240年の千余戸よりは、減ったことでしょう。
 門脇氏の〝出雲の古代史〟104頁のおびただしい古墳が、倉吉平野にある記事は、大和に出て、出世した人の塚でした。
 津山盆地にも、鳥越氏の〝吉備の古代王国〟173頁に、在地でない人の、前方後円墓が書かれていて、同じ事を教えてくれました。

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2008.09.20

ヒルゼン古事記  卑弥呼以って死す page—57

久米国と舞鶴国が、日本人の国でなかったことを〝ぎ志倭人伝〟が明記したのに、誰も気付かなかった位、日本人は、お人よしです。
 舞鶴国の使いは帯方郡に行きました。これが如何に重大問題だったかは、帯方郡で決を出さなかったことで分かります。
 〝ぎ〟から沢山の使を舞鶴に派遣したのです。詔書は卑弥呼に直接ではなく、総理大臣に渡されました。これまでは文書は舞鶴国王に渡されていました。異例であり,わざわざ〝ぎ〟から使を出したかが、謎解きの鍵です。
 卑弥呼に死を賜ったのです。倭人、すなはち全駐留軍には〝兵に告ぐ〟のげき文が出されました。
 近畿政略の目的のためには、久米国の軍部の肩をもつものは、妥当な、採決です。この時には久米国は、帯方郡に使を出して、うったえていません。軍部の強いのも、昔からの例でした。
 この後始末は、みなさんの話題の種だから書くことをやめましょう。

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2008.09.19

資料No30 伯耆国国分寺古墳

所在地:倉吉市国府・国分寺・不入岡    護国国分寺の裏
指定年月日:昭和63年7月7日

国庁跡は奈良から平安時代にかけて伯耆国を治めた役所跡です。法華寺畑遺跡は国分寺跡と同じ8世紀中頃に造られ、当初は役所として使用され、後に国分尼寺に転用されたと推定されます。不入岡遺跡は奈良から平安時代に存続し、国庁の前身施設か郡庁、そして後に国府に関連する倉庫に転換されたと考えられています。
1922年(大正11)の秋 後円部中央から長さ7mの舟形の粘土槨発見。
出土物  中国製の銅鏡 3

キ鳳鏡   国分寺古墳のは、22.1m
中国の後漢から魏晋代・西晋にかけて製作された鏡です。
      キ鳳鏡( 鳳鏡)は、大阪府八尾市の心合寺山古墳から出土
      珂川町の那須八幡塚古墳から、キ鳳鏡が見つかっています
      福岡県春日市須玖岡本D地点
      熊本県国越古墳
      佐賀県十三塚箱式石棺
三角縁五神四獣鏡、斜縁二神二十鏡
     鉄剣   3または4
     短冊形刃付き鉄板 1
     鉄製鎌 3
     クワ頭様の利器 3
     朱
     柄付き鉄製ヤリガンナ 67口分
     刀子残欠 1口分
     鉄製斧頭3個
県下では、最も、副葬品が豊富。延喜式の巻24によると、伯耆には課せられた調のなかに鍬と鉄があげられている。ということは、鉄が採れていたことになるが、遺跡は発見されていない。
「延喜式主計式」には各国の調・庸品が記されているが、因幡・伯耆の両国には、白色、緋色、空色、黄色の絹織物などが指定されています。
 一般の古墳に出土する玉類はない。

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2008.09.18

ヒルゼン古事記  卑弥呼と久米国の対立 page—56

ぎ志倭人伝で長生きしていたことを教えてくれました。一部の学者はおかしいと、ぎ志倭人伝が偽書の根拠にしました。福ノ神族は貝と魚と漬物は入手出来ませんでした。植物性の天然食なら、百拾歳以上長生き出来ます。
 ぎ志倭人伝も秦の始皇帝が長寿国ニュースを聞いたのも真実でした。
 久米国については既に述べ、大倭村に本部がありました。ぎ志倭人伝にヤマトの交易物資を大倭に監督させたと書かれています。調達本部も久米国にありました。
 久米国の男王は軍司令官で近畿攻略の任務があります。軍部と政府の意見が衝突するのは何時の世にも変わりはありません。
 久米国と舞鶴国が戦争を始めます。久米国に調達本部がある以上、舞鶴国に取っては、急を要する死活問題です。
 早速紀元247年使を朝鮮の帯方郡の、植民地統合本部にだしました。
 なぜ倭国内の戦争を帯方郡にうったえたか解明した学者はあったでしょうか?

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2008.09.17

ヒルゼン古事記  卑弥呼の共立 page—55

高梁川をはさんでの紛争は恐らく、数十年続いたことでしょう。あとから、あとからやってくる難民を防ぎ様はないでしょう。
西岸の人も結束して、指導者を選び玉島国---投馬国が誕生します。
 舞鶴国のGHQは男王が7,80年の在世中にこの紛争が発生しました。しかし、鎮圧する近衛兵が居りません。
 やっと、玉島とヤマトの話合で日巫女(女王)をGHQの長に選任しました。

卑弥呼は玉島国を公認すると共に、年貢米を取り立てたことでしょう。秦の始皇帝は紀元前3世紀に美女3000人をかかえていました。女王の卑弥呼はこれを手本にしたのでしようか、美女1000人です。
 近衛兵に天座(実在の地名)を守らせた筈です。従って相当の年貢米が必要だった筈です。
 鶴の一声と云いますが舞鶴の一声で、倭国は数十年平和が保たれました。
 ぎ志倭人伝にも長寿で九十から百歳平均だとかいてあります。卑弥呼も長寿の筈です。

資料No29上神大将塚古墳
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/09/no29-3d2d.html
所在地:鳥取県倉吉市上神
指定年月日:昭和63年7月7日

古墳時代前期の古墳で、直径25m、高さ3mの円墳。大正5年1月14日(1916)からの発掘により、大型箱式石棺の中から、多くの副葬品が発掘されました。

保育社の『日本書紀の古代遺跡・鳥取』によれば、
三角縁三神三獣獣帯鏡 1
碧玉製鍬形石 1
滑石製琴柱形石製品  4
管玉 22
臼玉  31
槍身 1
斧頭  2
刀身残欠 1
このほか、当時散失したもののなかには銅鏡三面があった。多くの玉類や鉄器が出土。これらの遺物の多くは東京国立博物館に収蔵されています。

碧玉製鍬形石や滑石製琴柱形石製品は、山陰では極めてまれと記されています。

小林行雄博士の研究によれば、三角縁三神三獣獣帯鏡と同笵関係のものが、大阪、京都、滋賀、愛知などに合わせて七面知られている。


スプリング8 利用
http://www.spring8.or.jp/pdf/ja/SP8_news/no16_04/p2-p4.pdf


追加—上神は「かずわ」と読みます。 下神という地名が、 鳥取県東伯郡北栄町下神にあります。前は北条町だったと思います。

「倭名類聚抄」によりますと、伯耆国には、東から、河村、久米、八橋、汗入、会見、日野という六郡があり、久米には、八代、立縫、山守、大鴨、小鴨、久米、勝部、神代、下神(しもずわ)、上神(かずわ)の郷がありました。
和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。
承平年間 (931年 - 938年) 、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂したとされています。従いまして、この年間には、神代、下神、上神の郷は存在したと思われます。国府は、久米郡八代郷にあったと言われています。
 下神の近くに、松神、弓原、田井という町があります。
下神と松神を結ぶ道が、曲がって走っています。ここは、古くからある道で、海岸線だったと思います。弓原、田井は海抜、4mですから、海であった時代があるということです。
海をへだてて、下神、上神があったことになります。普通は、地名があり、集落が次第に大きくなりますと、上と下に分かれますが、そうしますと、「神」という地名があって別れたことになります。
 ここらあたりは、もう一度、検討の余地があります。

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2008.09.16

資料No29上神大将塚古墳

所在地:鳥取県倉吉市上神
指定年月日:昭和63年7月7日

古墳時代前期の古墳で、直径25m、高さ3mの円墳。大正5年1月14日(1916)からの発掘により、大型箱式石棺の中から、多くの副葬品が発掘されました。

保育社の『日本書紀の古代遺跡・鳥取』によれば、
三角縁三神三獣獣帯鏡 1
碧玉製鍬形石 1
滑石製琴柱形石製品  4
管玉 22
臼玉  31
槍身 1
斧頭  2
刀身残欠 1
このほか、当時散失したもののなかには銅鏡三面があった。多くの玉類や鉄器が出土。これらの遺物の多くは東京国立博物館に収蔵されています。

碧玉製鍬形石や滑石製琴柱形石製品は、山陰では極めてまれと記されています。

小林行雄博士の研究によれば、三角縁三神三獣獣帯鏡と同笵関係のものが、大阪、京都、滋賀、愛知などに合わせて七面知られている。


スプリング8 利用
http://www.spring8.or.jp/pdf/ja/SP8_news/no16_04/p2-p4.pdf


追加—上神は「かずわ」と読みます。 下神という地名が、 鳥取県東伯郡北栄町下神にあります。前は北条町だったと思います。

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*
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このページは、途中までです。 あまりにもコメントが多くて、コンピューターが壊れる寸前です。 上記より以下は削除しました。

コメントは書きこまないでください。

【楽しい人生】のブログは、近日中に閉鎖しようと思っています。 長いことありがとうございました。

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2008.09.15

地名---上神・国府・大谷・寺谷・大谷茶屋

国府の説明を書こうと思いますが、難しいので、『ウィキペディア(Wikipedia)』より借りてきます。
国府

律令制において、国司が政務を執った施設を国庁といい、国庁の周囲は塀などによって方形に区画されていた。国、郡、城柵で政務の中心となる建物をまとめて政庁というので、国庁もしばしば政庁と呼ばれる。国庁とその周りの役所群、都市域を総称して国衙(こくが)、国府という】
 741年に聖武天皇の詔によって、全国の各国に、国分寺と国分尼寺を造るように命令されたことになっています。全部調べたわけではありませんが、今までに、知った国分寺は、その国の真ん中に造られ、しかも、洪水などになり難いようなところに造られていると思います。
 倉吉市の地図をみて、上神・国府・大谷・寺谷・大谷茶屋の地名を見つけてください。
少なくとも、伯耆国においては、国府辺りが国の中心だったと考えていいと思います。
「国府」は、「こくふ」と読む所がありますが、ここでは「こう」だと思います。近くに「国府川」が流れており、「こうかわ」と呼ばれているからです。どこの国の国府でも、国府は室町時代に完全に消滅し、ほとんどが所在不明となりましたから、「国府」をどのように読むかさえ分からなくなりましたが、川は流れ続けましたから、川の名前は、残されたと思います。
 本当に、この辺りには、多くの人が住んでいたのか、また、どのような人が住んでいたのか?  確かめる気になっています。

 ① 国分寺古墳      所在地:国府 国分寺
 ② 三度舞大将塚古墳  所在地:大谷
 ③ 上神大将塚古墳    所在地:上神
 ④ 猫山古墳群      所在地:上神
 ⑤ 寺谷3号墳      所在地:寺谷
 ⑥ イザ原古墳群     所在地:大谷茶屋

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2008.09.14

資料No28 長瀬高浜遺跡の概要

平均1mの黒砂の中からは、弥生時代前期の土器(2200~2300年前)から、中世末期(400年前)の五輪塔があった。  (私の考え、400年前までは正しいですが、弥生時代前期の土器は最近の資料を見ていますと、研究者によって、当てにならないと思っています。従いまして、他の遺跡などとの比較なども深める必要があると思われます)

竪穴住居跡  150棟  ここからは、多数の土師器。中には、畿内庄内式系の叩きをもつ甕や瀬戸内式・酒津式系の甕をみられる、小片であるが、備讃瀬戸地方の製塩土器も出土している。
           多数の鉄器出土。
           農工具や鉄鏃・短剣等の武器。
           剣形鉄製等の祭祀用具や釣針・銛。
           小銅鐸、剣、素文鏡・櫛歯文鏡・捩文鏡の小型鏡。
           12本の鏃、ヤリガンナ状銅製品や釧なども出土。
金メッキされた座金具状銅製品。 これらの殆どが小型に作られているため、祭祀用具と見られる。
掘立柱建物   50棟
井戸       6基
古墳      30基  土師器とともに古式須恵器が副葬。
石棺墓     25基 石棺内には、鉄剣・刀・鏃が少量ずつ入れられていた。一号墳の箱式石棺に、「つづらさわまき」のカタナとはこんな形をしていたかと推察される。鞘に絹紐を巻いた立派な太刀一口副葬。
<八雲立つ 出雲梟帥が 佩ける太刀 黒葛(つづら) さわまき さ身無しに あわれ>
木棺墓     20基  

形象埴輪群   1ヶ所  家形埴輪5個体・甲冑形埴輪3個体・盾形埴輪3個体、蓋形埴輪10個体・円筒埴輪10個体は、本来は樹立していたと考えられる形で掘り出された。(下線の意味が不明。全部、倒れてわれて見つかったのに、どうして、建っていたと考えるのか)。
             古墳以外
弥生時代前期の玉作工房をともなう住居跡  5棟
 ここからは、数千個のチップ(清佐久によって生じた石屑)、作りかけの半製品、石製の工具類が多量に出土。
墳墓群      50基

中世の火葬墓   50基
五輪石  約50個

長瀬高浜遺跡のことは、忘れていましたが、下記のところに書いています。その下に、全部書きくわえて置きます。以前の文は、何時の資料か、どこから集めたのか記憶がありません。
上記に書いたものは、1983年発行の『古代文化 35号』のものです。25年前のものです。
なにか新しい発見が、発表されているかと思いましたが、発表されていません。どんどん、発表してほしいですね。


No302 長瀬高浜遺跡を探る 
 http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-12

遺構
 ①弥生時代前期の玉作り工房跡4棟、住居跡2棟
 ②古墳時代の竪穴住居跡167棟。大型高床建物を含め掘立柱建物41棟と井戸跡6基。
 ③奈良時代の掘建柱建物3棟
 ④弥生時代前期~中期の土壙(こう)墓群、古墳41基、箱式石棺62基、木棺墓24基、
   土壙墓23基、土
器丘陵地帯の古墳と長瀬高浜遺跡は関係あるように思いますが、資料がありませんので、長瀬高浜遺跡のことだけを考えて見たいと思います。
遺構
 ①弥生時代前期の玉作り工房跡4棟、住居跡2棟
 ②古墳時代の竪穴住居跡167棟。大型高床建物を含め掘立柱建物41棟と井戸跡6基。
 ③奈良時代の掘建柱建物3棟
 ④弥生時代前期~中期の土壙(こう)墓群、古墳41基、箱式石棺62基、木棺墓24基、
   土壙墓23基、土器棺墓4基、円筒埴輪棺13基からなる古墳群。
 ⑤中世の火葬墓81基。土葬墓81基。
 ⑥大型方形周溝墓、埴輪群、土塁状遺構。
遺物
 大半は古墳時代の土師器です。外には、鉄製農工具、釣針、土錘。小型の銅鐸、銅剣、銅釧、巴形銅器、銅鏃が10数個。小型素文鏡。7号周溝墓に馬が埋葬。多数の馬の骨出土。
古い時期からの須恵器や鉄製武器類、玉類。
円墳1号墓から、箱式石棺から女性の遺骸と一緒に枕として、高杯3個、前頭部に竪櫛、右手横に絹紐を巻いた太刀が置かれていた。
この遺跡の最大の特徴は、お墓ではないところから、膨大な埴輪が出土したことです。墳墓飾られている埴輪は、円筒埴輪が少なくて朝顔形埴輪との比率が1:10と逆の現象を示していることです。従いまして、このことから、保管していたと考えられますが、ある墳墓ように発注されたものであれば、円筒埴輪のほうが多いのですが、逆であることは、複数の依頼者から頼まれて制作していたことになります。今後の調査結果によりますが、船を使って、意外に遠くまで運んでいたのかも知れません。
屋根の上に見える横の木を鰹木といいます。伊勢神宮などに見られる特殊なものです。雄略天皇のところに次の文章があります。
大后が日下に居られた時、真っ直ぐに峠を越えて日下に行こうとされた(天皇が)。山の上(信貴山)から眺めたら、堅魚木を上げて屋根を作っている家がありました。天皇はその家の者に尋ねました。「その堅魚を上げて舎を作れるは誰が家ぞ」答へて云うには、「志幾の大縣主の家ぞ」と云いました。そこで、天皇は言われました。「奴や、己が家を天皇の御舎に似せて造れり。」直ちに、人を遣わしてその家を焼かせようとしますとした話が書かれています。上の写真は、実際の家ではなく、ハニワですが、ミニチユアーとは云うものの、鰹木の使用は許されなかったと思います。このようなハニワは、いくらでもありますよと、ある資料館の学術員の方が言われましたが、私は30ヶ所ぐらいしかないと思っています。例の魏志倭人伝の冒頭に出てくる「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。旧百余国。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十国」の30所です。
「志幾の大縣主の家」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page813.html に書いています。
「岡山南遺跡のハニワ」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page823.htmlもう一つ気になるものは、「円墳1号墓から、箱式石棺から女性の遺骸と一緒に枕として、高杯3個、前頭部に竪櫛、右手横に絹紐を巻いた太刀が置かれていた」のうちの「右手横に絹紐を巻いた太刀」の部分です。絹が使われています。中国で作られた太刀かもしれませんが、女性の右側に置かれていました。武器ではなかったのでしょう。ここに絹が使われていました。
 絹に携わっていたから、このような製品を持っていたのではないでしょうか? はじめの頃は、銅鐸が出ていますから、大国主命の系統のものが、絹の采配を振るっていたのではないかと考えます。その後、最盛期には、100m級の前方後円墳を作るようになったのではないでしょうか?  7世紀には、志津の倭文神社は、日本書紀を編纂する藤原不比等らに、制圧されます。天皇の近衛兵であり、雑用係が住んでいた舎人村にある倭文神社も式内社になりましたから、藤原不比等らの支配下になったと思われます。
長瀬高浜遺跡は絹を巡って、多くの人が戦いを繰り広げた所だったと思われます。

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2008.09.13

ヒルゼン古事記  倭国の大乱 --高梁川の戦 page—54

国と国の争いでは、勢力に大差があれば、弱い国は滅ぼされてしまいます。
 ぎ志倭人伝に書かれた、倭国大いに乱れ、相攻代すること暦年、とあれば二大勢力が相譲らなかったことです。
 紀元240年は、卑弥呼の在世中です。この時に玉島国は人口五万戸、ヤマト(西大寺)は人口七万戸でした。
 この国は高梁川を挟んで東西です。しかもこの二国のおいたちは全く異なります。 
 ヤマトの住民は、神ノ族の第二グループで屯田兵です。〝ぎ〟使が240年にやって来た、松の国上陸部隊です。
 これに反し玉島国の第三グループの福ノ神族は難民です。この人達が高梁川の東岸に侵入しようとしました。従って、この騒動は何十年続いたことでしょう。これは大乱です。
 鳥越憲三郎氏の〝吉備の古代王国〟には、吉備王国間の攻代が精しく述べられています。
高梁川の東西で、古墳のデラックスさに、大差があるのも謎を解く鍵です。

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2008.09.11

資料No27 長瀬高浜遺跡と天神川

長瀬高浜遺跡は、鳥取県東伯郡羽合町長瀬字高浜にあります。No26長瀬高浜遺跡において、地図を眺めて頂きました。少し、小さすぎましたので分かりにくかったと思います。

新しいことを考えています。鳥取県の歴史を探ろうと思っています。その第一のものとして、長瀬高浜遺跡を取り上げました。

Photo_2


上の地図をご覧ください。天神川の上の方の右岸に記しがしてあります。ここが、長瀬高浜遺跡です。遺跡の少し南に、東北に向かってカーブの道が見られます。これは、昔の天神川の堤防とおもわれます。旧天神川は、そのまま、日本海に流れ込んでいましたが、現在の橋津川のところへ流れ込んでいました。従いまして、長瀬高浜遺跡は北条砂丘の一番東に位置したことになります。『古代文化 35号』によりますと、もと旧天神川の流れは、江戸時代以後と書いてあります。古い川は曲がっているのが普通で、洪水などが多いおおいので、人の手が加わり、まっすぐになると思われます。添付の地図は、小さいので、鮮明ではありませんが、カーブの北に多くの集落が記されています。カーブに上は、川の中に当たりますから、川洲に集落が出来たことになります。集落はここだけですから、この集落のために、河川の付け替えが行われたのも、不思議な気がします。

天神川の概要
 天神川は、鳥取県の中央に位置し、その源を鳥取県東伯郡三朝町の津黒山に発し、福本川、加谷川、三徳川等の支川を合わせて北流し、倉吉市で国府川、小鴨川と合流し、日本海に注ぐ一級河川です。
 その流域は南北に流れる本川の流路延長約32㎞に対して、東西の幅が約42㎞と、全体として東西に伸びたひし形の形状をしています。流域面積は490㎢で、鳥取県中部における社会、経済の基盤となる地域に及んでいます。
http://www.cgr.mlit.go.jp/kurayoshi/river/tenjingawa/tenjingawa.htm 流域面積の地図や航空写真を見ることができます。
南北に流れる本川の流路延長約32㎞ですので、天神川は他の一級河川に比べて急勾配な上、洪水時の河川水位は周辺の地盤より高くなっています。流域の形状から洪水の流出が早く、またほぼ同じ流域面積を持つ本川天神川と支川小鴨川が倉吉市街地付近の平地で合流するため、大雨が降ると流出が重なり、合流点とその下流ではピーク時の流量が降雨と比較して大きな値を記録することがあります。(倉吉河川国道事務所より)

以上のことから、長瀬高浜遺跡は、何度も繰り返される洪水の地下で埋もれていたことになります。
ただ、2000年前にこの遺跡で暮らした人たちの墓などは判っていません。東郷池の東野馬ノ山古墳群のお墓は、この遺跡の人と関係があるのでしょう。

天神川を遡りますと、小鴨川の支流と分岐します。天神川にそって、国道179号線が走っています。南にある津黒山(1118m)から水を集めた大谷川と福本の集落の水を集めて、天神川に合流しています。
この天神川という名前は、いつ付けられたか判りませんが、土地の方は、小鴨川との分岐点の所からじょうりゅうを現在でも、竹田川と呼んでおられるそうです。分岐点を少し上ったところに、竹田橋として竹田の名前が残っています。

どうして、竹田川と呼ばれていたものが、天神川と呼ばれるようになったかを知りたく思っています。
東伯郡三朝町には、29社の神社があります。
畠谷神社   鳥取県東伯郡三朝町三徳1226番
笏賀神社  鳥取県東伯郡三朝町笏賀468番
大宮神社   鳥取県東伯郡三朝町大瀬370番
五郷神社  鳥取県東伯郡三朝町牧560-1
本泉神社  鳥取県東伯郡三朝町本泉220番
清常神社   鳥取県東伯郡三朝町柿谷550番
北野神社   鳥取県東伯郡三朝町大字吉尾535番
三朝神社   鳥取県東伯郡三朝町三徳796番
今泉神社   鳥取県東伯郡三朝町今泉179番
山田神社   鳥取県東伯郡三朝町山田380番
坂本神社  鳥取県東伯郡三朝町阪本1167番
東小鹿神社 鳥取県東伯郡三朝町東小鹿690番
北野神社  鳥取県東伯郡三朝町片柴992番
神倉神社   鳥取県東伯郡三朝町神倉1053番
金森神社   鳥取県東伯郡三朝町余戸267番
俵原神社  鳥取県東伯郡三朝町俵原267番
中津神社   鳥取県東伯郡三朝町中津528番
小鹿神社   鳥取県東伯郡三朝町東小鹿1516番
大正神社   鳥取県東伯郡三朝町久原261番
熊野神社   鳥取県東伯郡三朝町大谷599番
幸能鶴神社 鳥取県東伯郡三朝町宍鴨590番
大畠神社  鳥取県東伯郡三朝町助谷854-2
守山神社   鳥取県東伯郡三朝町下畑697番
田代神社  鳥取県東伯郡三朝町田代663番
日幣咫神社 鳥取県東伯郡三朝町福本342番
賀茂神社  鳥取県東伯郡三朝町森331番
福山神社  鳥取県東伯郡三朝町福山196番
竹田神社  鳥取県東伯郡三朝町上西谷381番
玉坂神社  鳥取県東伯郡三朝町曹源寺247番
福本神社  鳥取県東伯郡三朝町福本

東伯郡--1896年3月29日 - 河村郡・久米郡・八橋郡が合併し発足。(1町58村)
1907年10月1日 - 高勢村・賀茂村・竹田村が合併し、旭村が発足。(3町52村)
1911年1月1日 - 西竹田村・東竹田村・源村が合併し、竹田村が発足。(3町50村)
1953年11月1日 - 三朝村・三徳村・小鹿村・旭村・竹田村が合併し、三朝町が発足。(8町14村)
ということで、現在の三朝町は、東伯郡竹田村と言われたところは、現在の三朝町の南に位置し、西に蒜山高原と接します。
ここに竹田神社がありました。この神社の由緒に福本にあった稗田神社を合祀したとあります。稗田阿礼は蒜山高原の東の福本字稗田の生まれでした。稗田神社があれば稗田阿礼が居たことが判るので手力男神を祭った竹田神社に合祀したのです。

竹田神社 東伯郡竹田村上西谷
  祭神  手力男神、大山祇神、須佐之男尊、猿田彦尊、伊弉諾尊、伊弉冊尊
以上6行、田村誠一著「燦然と輝いていた古代・総集編」 P109 より
(記事の内容、確認できず)        H20.09.10

もし、この記事が正しいとしますと、何故、三朝町福本に福本神社が無くて、日幣咫神社があることになるのかとの疑問がわく。

482号線を通って、岡山県に入ると、中和村です。ここきは、「ちゅうか」と読みます。近くに、「下和」「初和」の難読地名があります。中和を「ちゅうか」と読むのは、ユダヤ人の読み方か?

この地名のところを通って、岡山県の津山から東郷池まで、ユダヤ人によって絹が運ばれていたのではないかと推察しています。

『絹の道』http://homepage1.nifty.com/o-mino/page189.html

鳥取県側には、上神、下神、松神の地名が、ユダヤ人が名付けのではないかと推察しています。

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2008.09.09

ヒルゼン古事記  一大率 page—53

女王国、すなはちヤマト(邪馬台国から北にあった国 )は、舞鶴国との間の国です。播磨但馬が該当します。この地域には福ノ神の屯田兵は配置しませんでした。従って、先住民を支配しておく必要があります。
 このために一大率なる、特務機関が監督しました。住民はこの人を、おそれました。
 この国々は20ヶ国で次にぎ志倭人伝にでてくる国名と、思い当たる国名を記します。

斯馬---須磨、 己保子---網干、 伊邪---伊和、姫路
都支---出石、 弥奴---美の、好古都---香登、カガト
不弥---? ? 、 姐奴---竜野? ? 、対蘇—千草? 、蘇奴---曽根
呼邑---赤穂? 、華奴蘇奴---相生? 、鬼---三木、為吾、鬼奴---? ? 、
邪馬---山崎、躬臣---? ? 、巴利---播磨、 支惟---宍栗、烏奴、--有年

 これらの国は、舞鶴国が統治していました。 ヤマトの女王国の東に千里(450キロ)海を渡った所に倭の種族の国があったと書かれ、これが近畿にあたります。

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2008.09.08

資料No26 長瀬高浜遺跡(2)

前回に書きましたように、黒砂が1mほどあり、その下は、白砂でした。ということは、この1mの砂が蓄積する間、ここに古代の人が住んだことになります。
 出土した土器から判断すると、弥生時代前期(2200~2300年前)から、中世末頃(400年前)まで住んでいたことになります。
 その前と、その後は、押し寄せる砂のために住めなくなったようです。蓄積した黒砂が1mで、2000年かかっていますから、一年に0.5mmの草木砂の蓄積があったことになります。
 この砂丘には、隠岐島へ上陸した人たちが、その内に、上陸するようになり住み始めたのではないかと想像しています。
 その人たちは、3~6世紀頃には、地図上に黒く塗られた前方後円墳を作れるぐらいの人たちになったと思います。
北にある群集墓のある辺りは、30~45mの高台にあり、日本海を望めるようになっています。右のあたりに鳥居のマークがあります。これは、倭文神社です。この字は「しとりじんじゃ・しずりじんじゃ」と読みます。倭はヤマト、日本のことです。文は織物の意です。
 日本の織物は、絹織物であったらしく、絹織物とは言わずに、「しずり」と言っていたようです。それを中国人が、倭の織物という意味で、倭文と書きましたが、中国人はどのように発音していたのでしょう。日本の絹と同じものが中国にあれば、倭文と云わなかったと思います。 「しず」は、静、志津、賤ヶ岳のように、地名に付けられていますが、殆ど、絹と関係があります。
 
No298 倭文神社はなにを教えてくれるか 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-08No299 倭文神社はなにを教えてくれるか –2
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-09

倭文神社は、全国に14社存在します。この神社は織物に関係がある神社です。
上野国佐波郡           甲斐国巨摩郡
大和国葛下郡           但馬国朝来郡
伯耆国久米郡           伯耆国川村郡
駿河国富士郡           伊勢国鈴鹿郡
丹後国与謝郡           丹後国加佐郡
因幡国高草郡           美作国久米郡
伊豆国田方郡           近江国滋賀郡

伯耆国には、2社あります。この地図には見えませんが、志津という所にあります。
、それだけに、長瀬高浜遺跡は、絹織物と関係があったと考えています。全国から集められた絹は、この大きな東郷の湾から中国、そしてヨーロッパに輸出されたと考えています。

Photo_2

全国で、絹を扱っていたところには、全部,前方後円墳があります。絹はそれだけ富を生んだのだと思います。最も、質が良かったのは、埼玉・群馬辺りの絹ではなかったかと思います。
山上の古墳群は、馬ノ山古墳と呼ばれています。 参考ホームページ 
http://inoues.net/ruins/umanoyama.html普通の地図を眺めてください。
東郷池から、少し、西へ目を移しますと、下神という地名があります。「しもつわ」と言います。国分の近くに、上神があります。こちらは、「かずわ」と読みます。神という字が付く地名は、全国にいっぱいありますが、読むことが無理な地名は、ユダヤ人が住んでいたのではないかと推理しています。国分寺が建てられるようになったのは、741年後のことになりますが、伯耆国の場合は、もっと早くから、寺院が建っていたのではないかと思っています。絹を運んだのは、この湊からは、ユダヤ人ではなかったかと思っています。


随分、以前に、書いていました。

No301 東郷池周辺の遺跡  http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-11

No302 長瀬高浜遺跡を探る http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-12

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2008.09.07

資料No25 長瀬高浜遺跡

この遺跡は、鳥取県東伯郡羽合町長瀬字高浜にあります。
 遺蹟のあった高浜は鳥取県中部の北条砂丘の東端に位置します。現在は標高4mぐらいですが、最高の所では、16mほどあったそうです。と、清水真一氏は、『古代文化』1983春に書いておられます。ところが、ここを掘り下げますと、ほとんど何もない白砂があり、
この下1mの黒砂があり、この中に古代人の生活の痕跡が、ぎっしりと詰まっていたと書かれています。
北条砂丘は、古事記の天孫降臨の所に書かれてある「ここは韓国に向かひ、笠沙の御崎を眞来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此処は甚古き地」と書かれてあるところだと思います。天孫降臨の地は、どう言うわけか、宮崎県の日向ということになっています。
 いせきには、行ったのですが、時間がなく、資料館のみを見てきました。

Photo

出土品はここ羽合町歴史民俗資料館に展示・保管してあります。購入した冊子にすばらしいものもいっぱいありました。
 先ず、地図をご覧ください。東郷池は、海抜ゼロmです。直線は道路ですが、殆ど、4mになっています。神武東征が行われた紀元前は、この部分は、海であったと思われます。
 遺蹟の位置は、天神川の右岸、地図で見ますと、一番上の左に記しが付いたところです。(地図は、『古代文化』1983春から無断借用です) 

 内容をざっと、頭に入れるために、パンフレットから借用です。
この遺跡は、1977年(昭和57年)から7年間行われた発掘調査は約5万㎡にものぼり、これまでに弥生時代から奈良時代の竪穴住居址や掘立柱建物、井戸などの生活の跡が200棟以上、弥生時代から奈良時代、そして中世の墓が合計300基以上を数える他、弥生時代の菅玉をつくる日本最古と言われる工房跡や大型高床建物跡、埴輪群が見つかりマスコミをにぎわせました。遺跡の中心は1500~1600年前の古墳時代の集落と古墳群で、その密集度は県下随一です。出土品も出ないものがないと言われるほど種類も量もぼう大なもの。
大部分が弥生土器、土師器、須恵器などの土器ですが、その他石や鉄でつくった農工具や漁労具、刀・鉄鏃・玉などの副葬品、小型の銅鐸や銅剣、小型の鏡などの祀りの道具も多数出土しています。
このように長瀬高浜遺跡は古代史を考える上で大切な資料を示してくれる貴重な遺跡です。天神川流域下水道終末処理場と国道9号北条バイパスの建設に伴い、記録保存という形で広い範囲で消滅しましたが、1号墳は処理場内に移築され、出土品はここ羽合町歴史民俗資料館に展示・保管しています。

次回に、私の思いを交えながら、紹介します。9月は、2回連休がありますので、出来ましたら、一泊して、ゆっくり回られたらと思います。 

参考ホームページ 写真がいっぱいです。http://inoues.net/ruins/nagasetakahama.html

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2008.09.06

ヒルゼン古事記  邪馬台国--ヤマト—西大寺 page—52

末ロ国から南で、陸行一月、水行十行と書かれた国は既に述べた様に西大寺でした。
米子から津山まで陸行一月です。津山から吉井川を十日で下ることになります。
 この流域は既に述べた様に福ノ神族に完全占拠された地域です。しかも正規軍の屯田兵です。
 〝ぎ〟の使いが沢山のお土産を持ってやって来ました。この時故国を2, 3000キロも離れて、恐らく二度と故国には帰れない、汗水たらして、はたらいている人は、同郷の使いにどれだけの歓呼の声をあげて泣いたことでしょう。
 福ノ神族は同じ名前を襲名するくせがあります。古事記にも、八雲たつ云々の風流な歌を読む人が〝ヤマタイ〟なんかの堅苦しい名前をつける筈もないでしょう。ヤマトを速記して邪馬台となったのです。
 奴国から狗奴国と引き継がれた名前です。女王が民政長官GHQから派遣されてました。人口は七万戸にふくれてました。

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2008.09.05

ヒルゼン古事記  玉島の国—投馬国 page—51

〝地図が解いてくれた倭国の邪馬台国〟では、吉備の国と申し上げました。末ロ国から南に水行二十日です。
 日野川は多摩鋼を運んだ重要な水運の便のある川です。神武東征の時の舟もこの川の沿岸で作られました。
この日野川を遡ったら、すぐ高梁川が始まります。この川を下れば川口の西側が玉島です。がはじまりです。
ぎ志倭人伝には人口五万人と書かれました。日本の人口が百万人とも云はれた時代に、この人口の謎を解く必要があります。
 国土地理院の井原と玉島が役立ちます。福山を流れる芦田川と高梁川の支流の小田川の流域が、玉島国すなはち投馬国だったのです。 
 井原の地図を眺めると、神社と寺が200米おき位に見付かります。後3世紀に五万戸あったことは、うかがわれます。
 この付近は山陽線の走っている所は古代には全て海でした。これを念頭に入れて地図を眺めてください。

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2008.09.04

ヒルゼン古事記  笛吹の国 –不弥国  page—50

奴国は根の国で、島根の国です。古事記では、国譲りまでは根の国堅州と呼ばれてた所が松の国と分けられました。奴国は従って米子平野です。
 都は倭です。ここの港は天津で、昭和三十頃の分県地図には名前が残っています。北京に対する天津で、奴国の面目を保っています。末ロ国の東南百里(45キロ)は倉吉の国府の場所です。紀元240年は占領政策の途中だからHQは都心に移しては危険です。
 この国府の近くの山が打吹山です。昔笛吹童子が、舞い下りた伝説のある山です。今は公園でここに板画の大家、長谷川富三郎先生の笛吹童子の石碑が飾られています。
  笛吹国が不弥国と〝ぎ〟の使いに響いたのでしょう。
 法隆寺と同時代の、しかも同じ位大きな寺が三つもありました。おびただしい数の大形古墳も昔の夢のあとです。

私から一言--「昔笛吹童子が、舞い下りた伝説のある山です。今は公園でここに板画の大家、長谷川富三郎先生の笛吹童子の石碑が飾られています。
  笛吹国が不弥国と〝ぎ〟の使いに響いたのでしょう。」
 こんな文章では、誰も、笛吹の国が不弥国であることは、信ずる気にならないでしょう。
田村氏は、それでもいいのです。1800年前を創造しながら、楽しまれたと思います。
田村氏が楽しんで居られる様子に感激して、同じ空気を吸ってこようと出かけました。
私は、「倭」も「天津」も行ってきました。倉吉の国府も。
日を変えて、淀江の上淀廃寺も行ってきました。ここは、600年ころに建てられたことになっています。法隆寺に匹敵する壁画見つかりました。誰でも、法隆寺が先に建てられて、その後、上淀廃寺建てられたのかも知れません。
 近くには、おびただしい数の大形古墳がありました。こちらが、先に遇ったと考えるだけでも、楽しいです。
 行かれて楽しまれた方が、ホームページに掲載しておられます。

邪馬台国大研究・ホームページ 
http://inoues.net/ruins/jyoyodohaiji.html海岸線は、現在ではずっと、先ですが、上淀廃寺が建てられた時は、この寺の麓まで、海が来ており、港には多くの船が、中国へ向かうまで、風待ちをしていたのではないかと想像しながら、ここに掲載されてある説明板の前で、1時間ほど寝てしまいました。

 どのあたりか判りませんが、この辺りに、不弥国があっても不思議ではありません。

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2008.09.02

ヒルゼン古事記  笠松の国—末ロ国 page—49

境港を中心にした所は、スサノオの命の、根の国堅州でした。根の国軟州は米子です。ぎ志倭人伝では、根の国堅州は、笠松の国と呼ばれました。
 これを〝ぎ〟の使いが、末ロ国と速記して帰りました。日本語の発音を、米人が速記するのと同様、難作業でした。
 この時の速記は、正確に全音を、漢字にしたのは見当たりません。特長ある発音を漢字にしたとすれば、一大率を置いた国名から、先にくせを見付けることです。
 美保崎は関の五本松で有名です。これは境港を対外的に知らせる地名のより所にすることが妥当でしょう。
 昔には、笠松すなはち一本だけ、山の上に生えていました。これが枯れたら、旧株があるから、数本の松が周囲に育ちます。これが五本松になったと考えて、一人で納得しています。
 笠松国が日本の玄関でした。日本海随一の良港は今も昔も変わりません。昔の良港の様子は、あべこべに支那から教えてくれました。

私から一言---地名はどのようにして付けられたかは、案外、このようなものだと思います。
 それを最近の学者は、こんなことでは、学問になりませんから、詳細に分析し過ぎています。仮に、簡単な桶のようなものに乗って、こぎもしないで、対馬辺りを出ますと、数日で、本州と島根半島 当時は、島だった筈です)の間を通過し、笠松が見えて上陸したことでしょう。
 もっとも、この頃に、松があったのかどうかが問題です。

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