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2008.09.08

資料No26 長瀬高浜遺跡(2)

前回に書きましたように、黒砂が1mほどあり、その下は、白砂でした。ということは、この1mの砂が蓄積する間、ここに古代の人が住んだことになります。
 出土した土器から判断すると、弥生時代前期(2200~2300年前)から、中世末頃(400年前)まで住んでいたことになります。
 その前と、その後は、押し寄せる砂のために住めなくなったようです。蓄積した黒砂が1mで、2000年かかっていますから、一年に0.5mmの草木砂の蓄積があったことになります。
 この砂丘には、隠岐島へ上陸した人たちが、その内に、上陸するようになり住み始めたのではないかと想像しています。
 その人たちは、3~6世紀頃には、地図上に黒く塗られた前方後円墳を作れるぐらいの人たちになったと思います。
北にある群集墓のある辺りは、30~45mの高台にあり、日本海を望めるようになっています。右のあたりに鳥居のマークがあります。これは、倭文神社です。この字は「しとりじんじゃ・しずりじんじゃ」と読みます。倭はヤマト、日本のことです。文は織物の意です。
 日本の織物は、絹織物であったらしく、絹織物とは言わずに、「しずり」と言っていたようです。それを中国人が、倭の織物という意味で、倭文と書きましたが、中国人はどのように発音していたのでしょう。日本の絹と同じものが中国にあれば、倭文と云わなかったと思います。 「しず」は、静、志津、賤ヶ岳のように、地名に付けられていますが、殆ど、絹と関係があります。
 
No298 倭文神社はなにを教えてくれるか 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-08No299 倭文神社はなにを教えてくれるか –2
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-09

倭文神社は、全国に14社存在します。この神社は織物に関係がある神社です。
上野国佐波郡           甲斐国巨摩郡
大和国葛下郡           但馬国朝来郡
伯耆国久米郡           伯耆国川村郡
駿河国富士郡           伊勢国鈴鹿郡
丹後国与謝郡           丹後国加佐郡
因幡国高草郡           美作国久米郡
伊豆国田方郡           近江国滋賀郡

伯耆国には、2社あります。この地図には見えませんが、志津という所にあります。
、それだけに、長瀬高浜遺跡は、絹織物と関係があったと考えています。全国から集められた絹は、この大きな東郷の湾から中国、そしてヨーロッパに輸出されたと考えています。

Photo_2

全国で、絹を扱っていたところには、全部,前方後円墳があります。絹はそれだけ富を生んだのだと思います。最も、質が良かったのは、埼玉・群馬辺りの絹ではなかったかと思います。
山上の古墳群は、馬ノ山古墳と呼ばれています。 参考ホームページ 
http://inoues.net/ruins/umanoyama.html普通の地図を眺めてください。
東郷池から、少し、西へ目を移しますと、下神という地名があります。「しもつわ」と言います。国分の近くに、上神があります。こちらは、「かずわ」と読みます。神という字が付く地名は、全国にいっぱいありますが、読むことが無理な地名は、ユダヤ人が住んでいたのではないかと推理しています。国分寺が建てられるようになったのは、741年後のことになりますが、伯耆国の場合は、もっと早くから、寺院が建っていたのではないかと思っています。絹を運んだのは、この湊からは、ユダヤ人ではなかったかと思っています。


随分、以前に、書いていました。

No301 東郷池周辺の遺跡  http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-11

No302 長瀬高浜遺跡を探る http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-12

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