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2008.09.14

資料No28 長瀬高浜遺跡の概要

平均1mの黒砂の中からは、弥生時代前期の土器(2200~2300年前)から、中世末期(400年前)の五輪塔があった。  (私の考え、400年前までは正しいですが、弥生時代前期の土器は最近の資料を見ていますと、研究者によって、当てにならないと思っています。従いまして、他の遺跡などとの比較なども深める必要があると思われます)

竪穴住居跡  150棟  ここからは、多数の土師器。中には、畿内庄内式系の叩きをもつ甕や瀬戸内式・酒津式系の甕をみられる、小片であるが、備讃瀬戸地方の製塩土器も出土している。
           多数の鉄器出土。
           農工具や鉄鏃・短剣等の武器。
           剣形鉄製等の祭祀用具や釣針・銛。
           小銅鐸、剣、素文鏡・櫛歯文鏡・捩文鏡の小型鏡。
           12本の鏃、ヤリガンナ状銅製品や釧なども出土。
金メッキされた座金具状銅製品。 これらの殆どが小型に作られているため、祭祀用具と見られる。
掘立柱建物   50棟
井戸       6基
古墳      30基  土師器とともに古式須恵器が副葬。
石棺墓     25基 石棺内には、鉄剣・刀・鏃が少量ずつ入れられていた。一号墳の箱式石棺に、「つづらさわまき」のカタナとはこんな形をしていたかと推察される。鞘に絹紐を巻いた立派な太刀一口副葬。
<八雲立つ 出雲梟帥が 佩ける太刀 黒葛(つづら) さわまき さ身無しに あわれ>
木棺墓     20基  

形象埴輪群   1ヶ所  家形埴輪5個体・甲冑形埴輪3個体・盾形埴輪3個体、蓋形埴輪10個体・円筒埴輪10個体は、本来は樹立していたと考えられる形で掘り出された。(下線の意味が不明。全部、倒れてわれて見つかったのに、どうして、建っていたと考えるのか)。
             古墳以外
弥生時代前期の玉作工房をともなう住居跡  5棟
 ここからは、数千個のチップ(清佐久によって生じた石屑)、作りかけの半製品、石製の工具類が多量に出土。
墳墓群      50基

中世の火葬墓   50基
五輪石  約50個

長瀬高浜遺跡のことは、忘れていましたが、下記のところに書いています。その下に、全部書きくわえて置きます。以前の文は、何時の資料か、どこから集めたのか記憶がありません。
上記に書いたものは、1983年発行の『古代文化 35号』のものです。25年前のものです。
なにか新しい発見が、発表されているかと思いましたが、発表されていません。どんどん、発表してほしいですね。


No302 長瀬高浜遺跡を探る 
 http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-12

遺構
 ①弥生時代前期の玉作り工房跡4棟、住居跡2棟
 ②古墳時代の竪穴住居跡167棟。大型高床建物を含め掘立柱建物41棟と井戸跡6基。
 ③奈良時代の掘建柱建物3棟
 ④弥生時代前期~中期の土壙(こう)墓群、古墳41基、箱式石棺62基、木棺墓24基、
   土壙墓23基、土
器丘陵地帯の古墳と長瀬高浜遺跡は関係あるように思いますが、資料がありませんので、長瀬高浜遺跡のことだけを考えて見たいと思います。
遺構
 ①弥生時代前期の玉作り工房跡4棟、住居跡2棟
 ②古墳時代の竪穴住居跡167棟。大型高床建物を含め掘立柱建物41棟と井戸跡6基。
 ③奈良時代の掘建柱建物3棟
 ④弥生時代前期~中期の土壙(こう)墓群、古墳41基、箱式石棺62基、木棺墓24基、
   土壙墓23基、土器棺墓4基、円筒埴輪棺13基からなる古墳群。
 ⑤中世の火葬墓81基。土葬墓81基。
 ⑥大型方形周溝墓、埴輪群、土塁状遺構。
遺物
 大半は古墳時代の土師器です。外には、鉄製農工具、釣針、土錘。小型の銅鐸、銅剣、銅釧、巴形銅器、銅鏃が10数個。小型素文鏡。7号周溝墓に馬が埋葬。多数の馬の骨出土。
古い時期からの須恵器や鉄製武器類、玉類。
円墳1号墓から、箱式石棺から女性の遺骸と一緒に枕として、高杯3個、前頭部に竪櫛、右手横に絹紐を巻いた太刀が置かれていた。
この遺跡の最大の特徴は、お墓ではないところから、膨大な埴輪が出土したことです。墳墓飾られている埴輪は、円筒埴輪が少なくて朝顔形埴輪との比率が1:10と逆の現象を示していることです。従いまして、このことから、保管していたと考えられますが、ある墳墓ように発注されたものであれば、円筒埴輪のほうが多いのですが、逆であることは、複数の依頼者から頼まれて制作していたことになります。今後の調査結果によりますが、船を使って、意外に遠くまで運んでいたのかも知れません。
屋根の上に見える横の木を鰹木といいます。伊勢神宮などに見られる特殊なものです。雄略天皇のところに次の文章があります。
大后が日下に居られた時、真っ直ぐに峠を越えて日下に行こうとされた(天皇が)。山の上(信貴山)から眺めたら、堅魚木を上げて屋根を作っている家がありました。天皇はその家の者に尋ねました。「その堅魚を上げて舎を作れるは誰が家ぞ」答へて云うには、「志幾の大縣主の家ぞ」と云いました。そこで、天皇は言われました。「奴や、己が家を天皇の御舎に似せて造れり。」直ちに、人を遣わしてその家を焼かせようとしますとした話が書かれています。上の写真は、実際の家ではなく、ハニワですが、ミニチユアーとは云うものの、鰹木の使用は許されなかったと思います。このようなハニワは、いくらでもありますよと、ある資料館の学術員の方が言われましたが、私は30ヶ所ぐらいしかないと思っています。例の魏志倭人伝の冒頭に出てくる「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。旧百余国。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十国」の30所です。
「志幾の大縣主の家」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page813.html に書いています。
「岡山南遺跡のハニワ」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page823.htmlもう一つ気になるものは、「円墳1号墓から、箱式石棺から女性の遺骸と一緒に枕として、高杯3個、前頭部に竪櫛、右手横に絹紐を巻いた太刀が置かれていた」のうちの「右手横に絹紐を巻いた太刀」の部分です。絹が使われています。中国で作られた太刀かもしれませんが、女性の右側に置かれていました。武器ではなかったのでしょう。ここに絹が使われていました。
 絹に携わっていたから、このような製品を持っていたのではないでしょうか? はじめの頃は、銅鐸が出ていますから、大国主命の系統のものが、絹の采配を振るっていたのではないかと考えます。その後、最盛期には、100m級の前方後円墳を作るようになったのではないでしょうか?  7世紀には、志津の倭文神社は、日本書紀を編纂する藤原不比等らに、制圧されます。天皇の近衛兵であり、雑用係が住んでいた舎人村にある倭文神社も式内社になりましたから、藤原不比等らの支配下になったと思われます。
長瀬高浜遺跡は絹を巡って、多くの人が戦いを繰り広げた所だったと思われます。

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