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2008.09.24

資料No31 松神神社

東伯郡下北条村大字松神字屋敷  (鳥取県東伯郡北栄町松神796番
 地図

祭神 猿田彦神、木花開耶姫命
由緒 創立年月不詳、往古より松本大明神と称し、大字松神の産土神として崇敬せり、明治五年大字北尾鎮座・村社八幡神社を以て産土神となし同神社の摂社として社号を松神神社と改称せらる。
例祭日 4月8日
建造物 本殿、神楽殿兼通門、神輿庫
境内坪数 269坪
崇敬者戸数 85戸   鳥取神社誌より

この神社の鎮座地は、東伯郡下北条村大字松神字屋敷です。松神神社があったから、地名が大字松神となったか、地名が松神であったから、神社の名前が松神神社となったかは、不明です。

 この神社を調べる気になったのは、
由緒 創立年月不詳、往古より松本大明神と称し、大字松神の産土神として崇敬せり、明治五年大字北尾鎮座・村社八幡神社を以て産土神となし同神社の摂社として社号を松神神社と改称せらる。
ここに書かれてあることが納得できません。往古より松本大明神と呼ばれていた神社の祭神が、どうして、猿田彦神、木花開耶姫命に代わってしまったかです。

もう一つは、東伯郡下北条村大字松神字屋敷の村の産土としていたのですが、明治五年大字北尾鎮座・村社八幡神社を以て産土神となし同神社の摂社として社号を松神神社と改称せらる。と書いてあることは、何故か、理由があって、産土神とすることは、禁止されて、八幡神社の摂社になってしまいました。

そもそも、私がこの神社に興味を持ったのは、二つあります。神社の名前が、松神神社だったからです。土地の名前に、「神」がはいっている場合は、ユダヤ人が住んでいたからではないかと推察しています。この松神の近くに、下神と上神という地名があります。ここも、そうだと想像しています。こちらは松神と違って、「シモツワ」、「カズワ」と呼び、難読地名です。
 どしてこのような、名前があるのか、難読だでけでは、証拠になりません。そこで、この推理が正しいことを説明出来ればと思っています。
往古より祭神は、松本大明神と称されていたと書いておられますが、わたしは、猿田彦神、木花開耶姫命が、元々祀られていた神の名前だと思っています。というのは、二人とも古い神の名前だから、古くから神社があったと思っています。その祭神が、使うことを禁止されて松本大明神になったのではないかと思います。しかし、八幡神社の末社になることを条件に、猿田彦神、木花開耶姫命が復活されたのではないでしょうか?

猿田彦神はアマテラスの孫であるニニギが、高天原から降臨する時に、ニニギが道に間違わないように、分岐が多い道で待っていた神です。三重県の神社にいっぱい祀られていますから、三重県から遠いところまで向かいに来た事になります。そして、そのニニギは、三重県に行ったのかと云いますと、福岡県に祀られています。ニニギ父親の天忍穂耳命も九州の神社で祀られています。ということは、ニニギと天忍穂耳命がふたりで、九周征伐をしていたと考えますと、推理がすっきりします。

それと、同様に木花開耶姫命のことを推理してみます。ニニギが降臨してきたときに、笠沙の御崎で麗しい美人に遇われました。「あなたは誰の娘かとききますと、「大山津見神の娘、名前は神阿多都比売、又の名前は木花の佐久夜毘売」 と言ったと古事記に書かれています。
木花開耶姫命は、コノハナノサクヤビメと読まれています。一般的には木花咲耶姫と記され、これでしたら、コノハナノサクヤビメと読むことはできます。古事記の木花之佐久夜毘売は、だれでも読むことができます。別名を古事記では神阿多都比売(カムアタツヒメ)、日本書紀では神吾田津姫、鹿葦津姫または葦津姫(カヤツヒメ)が本名でコノハナノサクヤビメは別名としています。日本書紀の鹿葦津姫または葦津姫も読むことは不可能です。
 日本書紀では、古事記に出てくる地名や名前は、全部、古事記と異なる漢字を使つています。そのために、殆ど、読むことはできません。
 神阿多都比売をインターネットで検索しますと、薩摩の国阿多郡の阿多だとしておられます。(岩波文庫の『古事記』の中で、校注者の倉野憲司氏が注釈に書いておられるからでしょうか) また、神は美称だと書いておられます。
 神阿多都比売の「神」はユダヤ人であることを表しています。阿多は生まれた土地を表しています。
猿田彦神は、古事記では「猿田毘古神」となっています。
猿田彦神、木花開耶姫命は、天孫降臨の頃に、松神のあたりに住んでいたか、一時滞在していたと考えますと、無理がありません。古事記に載っていたから、格好がよいので、私たちの産土の神にしようではないかとはならなかったと思います。
松神神社は、元々、猿田毘古神と木花佐久夜毘売が祀られていたのですが、この村は、藤原氏の勢力範囲となり、祭神は、松本大明神を名乗るように言われていましたが、八幡神社に吸収されてしまいます。そして、そこでは元の松神神社を名乗りましたが、猿田毘古神と木花佐久夜毘売は認められなかったか、長い年月の間に、忘れられ、漢字は違う猿田彦神、木花開耶姫命が祭神になったのではないでしょうか?
それはごく最近のことで、明治五年のこととされています。

明治40年前後に、神社の合併がありました。三重県です。当時の政府の方針だったと思われますが、何があったのでしょうか? これが解けませんと、日本史の真相は解明できません。
 
次回は、八幡神社の摂社にされたのですが、その八幡神社はどのような神社であったのかを調べてみます。

この松神神社が、天孫降臨前後に関わった二人の神が祭神ということは、天孫降臨は、九州ではなく、この近くだったのではないでしょうか?

このような観点から、日本書紀を読みなおしますと、日本書紀の本文には、猿田毘古神についてはなにも書かれていません。日本書紀の編集者は、他の書きものには、こんなのがありましたよと、全部で、八つの書物を掲載しています。この中の「第一書」とされるところには、猿田毘古神のことが掲載されています。

 日本書紀の作者は、伯耆の国に、ニニギが天孫降臨したことを書きたくなかったのではないでしょうか?

参考に
三重県の神社整理(神社合祀)誰が何のために、100あった神社を潰したのでしょう。三重県だけに限りません。特に、戦後の歴史は、日本人全員で考え直さなければなりません。  H20.09.24

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