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2008.09.26

資料No32八幡神社(北尾) 村社  鳥取神社誌より

鎮座地 東伯郡下北条村大字北尾字八幡山   地図

鳥取県の神社をすべて調べるつもりになっています。 一番の理由は、天孫降臨という言葉があります。ニニギ命が、高天原から降りて来た所が、鳥取県の東伯郡ではなかったかと思っています。そこで、先ず、東伯郡だけでもと思いますが、東伯郡だけで、141もの神社があります。全部調べる訳には行きませんので、気になった神社から、調べていきたいと思っています。
 天孫降臨は紀元140年ころのことではないかと考えていますが、なに一つ証拠らしいものがありません。
有るとしますと、地名と神社と考古学上の資料かと考えます。そのような頃に神社があったのかと云いますと、無かったと思います。
 古事記や日本書紀が作られた時は、式内社という形で残っていますから、古事記や日本書紀との関係を絡めながら、考えてみようと思っています。

 一回目は、北栄町北尾にある八幡神社です。資料は、大正9年に作られた鳥取神社誌からです。
祭神 誉田別尊、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、住吉神、大山祇尊、猿田彦神、素戔鳴尊、大己貴尊、少彦名尊、国常立尊、綿津見神、奥津彦神、奥津姫神、菅相烝、土御祖命、倉稲魂神、天児屋根尊、山神

由緒 当社は清和天皇貞観七年八月(866)筑紫宇佐八幡宮の御分霊を奉祀して産土神とし尊崇するものにして郡内屈指の大社なり、古来庶民の崇敬は固より武門武将の尊信篤し、永禄五年岩倉城主小鴨左衛門元清社領五百石寄進。
天正八年吉川元和春鞍骨一脊寄進、元和二年里見忠義社殿を造営す、北尾堤城主山田左衛門尉紀秀員入道眞観なるもの弘安六年の制作に係る梵鐘を改鋳奉納す。
 明治40年4月27日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
 大正2年12月28日 
下北条村大字曲字苅山 鎮座 村社苅山神社 (祭神 綿津見神)
       同上字岡 鎮座 村社岡神社 (祭神 素盞鳴尊)
同上字米里字三ノ崎鎮座 無格社 嶌沢神社 (祭神 素戔鳴尊、大山祇尊)
同上大字島字田村 鎮座 無格社 田村神社 (祭神 猿田彦尊) 
同上大字弓原字妙見 鎮座 無格社 田井神社 (祭神 国常立尊)
同上大字下神字南宮脇 鎮座 無格社 下神神社 (祭神 菅相烝)
同上大字土下字宇野本 鎮座 無格社 三輪神社 (祭神 大己貴尊、少彦名尊、猿田彦神、倉稲魂神、天児屋根尊)
同上大字弓原字飯田 鎮座 無格社 弓原神社 (祭神 奥津彦神、奥津姫神、菅相烝、土御祖命
の八神社を合祀する。
大正11年5月 当社後方の崖より古鏡、香合、櫛、経筒、刀剣を発見す、何れも藤原時代の制作にして優秀なものなり、文化年中にも社前の石崖修繕中石櫃を発見せしが中に刀剣経筒古文書巻物十卷あり現に宝物として保存す。
 合併神社三輪神社は大国主尊、少彦名尊を祀り、猿田彦神、倉稲魂神、天児屋根尊を合祭す、当神社は大正二年神社整理の結果八幡に合併せるものなるが元官帳所載の三輪神社なるを知るに足るものあれば茲にその概要を記す。

一、地名 上神郷下神郷は古伯耆国久米郡大神郷にして上神郷をカミツミワ、下神郷をシモツミワと称ふ、大和国三輪神を遷し奉りしより此の名称出づ。
二、往古三輪神の鎮座地は下神郷の中央なる三輪山の麓字三輪脇に在りしが、宝暦三年の火災により野本山に移転せり。
三、鎮座地 土下(ハシタ)は往古土師部の此の地に移住せしより地名とす、土下山の頂には今尚数百の古墳散在し古器物を発見す。
 例祭日 10月15日
 建造物  本殿、弊殿、拝殿、随神門、社務所、参籠所、第二参籠所
 境内坪数 6911坪
 氏子戸数 627戸

祭神が多いですね。どうしてだと思われますか? WEBで調べましたが、何故の多いのか、書いたものはありません。その代わり、八幡山の相撲や放生祭りのことが書かれていました。そのまま、記事を掲載します。著作権で叱られるかも知れません。叱られましたら、消去することになりますので、それまでの命です。
【八幡山の相撲は放生祭りの日、鳥居下の土俵で行われた。これは戦時中まで続き、広い観客席をいっぱいにした。
放生祭りは、放生会(ほうじょうえ)といい、八幡神社ではこの日、生きたものを放して、今まで殺生した霊を祭るという気持から生れたものであった。この放生会を行う所は県下で3ヶ所といわれ倉田八幡宮、逢坂八幡宮、北条の八幡さんであった。かつては8月15、16日が祭りであったが、養蚕とつどうので明治の中頃に10月15、16日に変更した。しかし、その年いせいち風(南東の風)が吹き荒れたので元に戻したという。】


この文で気になったことは、
①放生会を行う所は県下で3ヶ所といわれ倉田八幡宮、逢坂八幡宮、北条の八幡さんと書かれていることです。この地方では、八幡宮が3社はあるということです。多いのか少ないのか判りませんが、気になります。八幡宮は急に作られた可能性があります。その点を調べたいのです。
②「養蚕とつどう」とはどういうことでしょうか? 私は、この5年間、「絹」のことに注目していますが、鳥取は、倭文神社が、二社もあるのに、絹に関する記録が少ないところです。少なくとも、倭文神社の周りで絹が作られていても、おかしくないのに、ありません。
③いせいち風(南東の風)が吹き荒れたので元に戻したの意味も解りません。地元の方ですと、すぐにわかるとおもいますが・・・。

 日本海新聞に北条八幡神社
に追儺式のことが掲載されています。この記事には、前田昌彦宮司の言葉として、
 北条八幡宮は、平安末期に山城国(京都府)の石清水八幡宮別宮として鎮座し、千余年がたつ歴史ある神社であると書かれています。上に書きました 鳥取神社誌より写したものでは、「当社は清和天皇貞観七年八月(866)筑紫宇佐八幡宮の御分霊を奉祀して産土神とし尊崇するもの」とあります。どちらが正しいのでしょう。

どちらにしても、北条八幡神社は、宇佐八幡宮か石清水八幡宮から勧請されたことになります。
祭神がどうして多いのかは、由緒に書かれてある通り、八社の神社を合祀したからであることが判ります。どうして、 大正2年12月28日 に一気に合祀することになったか知りたいところですが、今の所分かりません。
 八幡神社は全国にたくさんあります。祭神は、応神天皇が普通です。由緒には、誉田別尊と書かれています。どうして、応神天皇ではなく、誉田別尊なのでしょう。
合祀された神社の祭神を八幡神社の祭神から除きますと、誉田別尊、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、住吉神、山神が残ります。

誉田別尊についての考察--誉田別尊の名は、神功皇后の47年の所に、太子誉田別尊として日本書紀に掲載されています。日本書紀の応神天皇紀には、誉田天皇が記されています。
古事記には、品陀和氣命。『播磨国風土記』には、品太天皇(ほむだのすめらみこと)と表記。 「上宮記」逸文には、凡牟都和希王(ほむたわけのみこ)と表記。
 従いまして、 誉田別尊は、太子のときの呼び名であって、天皇の呼び名ではなさそうです。しかし、天皇とされておられる方もおられます。仲哀天皇は、日本書紀では、
足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、古事記では、帯中日子天皇の表記です。
仲哀天皇の名は、記紀の両方にも見つかりません。(その内に見つかる?)
ということで、八幡神社の由緒に書かれてある祭神・誉田別尊、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、住吉神、山神は、昔から伝えられている祭神とは限らないようです。
住吉神とは、底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命を言いますが、どうして、ここに祀られているのでしょう。
山神も不明です。
 判らないことばかりですが、このままにしておきます。


参考--貞観七年 貞観期に起きた出来事 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E8%A6%B3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)#.E8.B2.9E.E8.A6.B3.E6.9C.9F.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.8D.E3.81.9F.E5.87.BA.E6.9D.A5.E4.BA.8B富士山噴火-- 


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