« September 2008 | Main | November 2008 »

2008.10.30

奴の国の続き  page—19

この金印には、〝漢委奴国王〟となっているので委と倭は同じと考えれば正しく大国主命が国譲りした地域が漢の植民地として公認されたことになる。
 高天原を撤去して、高千穂に文字通り600米低い所に降りた時には勢力が弱かった。やっと国の体裁を米子平野を接収して、そなえられたのである。
 筑紫は当時南朝鮮との関係が深かったので漢に取っても福ノ神族とも敵対関係にあったので地理的に距離が近いから、漢と交友関係が有ったと管んが得ることがおかしい。
 古代には隣の集落の間と云えども道がある筈はない。物々交換が行われる様になって道は発生する。
 古墳と云えども遠賀川流域の古墳で筑紫を論じるのはおかしい。
 ある種の古墳は倉吉と米子と津山と西大寺遠賀川の古墳が同一年代だったのであり、弥生の最先端の文化をもっていた。この漢文化の上陸地点が奴国すなはち米子だった。

| | TrackBack (0)

2008.10.27

地名 小波

天孫降臨に際して、アマテラスは建御雷と天鳥船神を大国主神のところへ交渉に派遣します。これは、古事記に書かれてあることですし、神話のことですから、どうでも良いのですが、私は実話だと考えています。
 この二人の神は、出雲国の伊那佐の小浜に降り立って十掬剣を抜いて、逆に浪の穂に突き刺して、その剣の前に跌み坐して交渉に臨んだと書いています。
 伊那佐の小浜とは、どこかと言いますと、出雲国とあります。これは、伯耆国ではなかったかと想像しています。
 なぜなら、これまでに、調べてきたことから推察しますと、天孫降臨に関わった神は、鳥取の倭文神社と波波伎神社の祭神として祭られています。
倭文神社は、舎人村
      志津村 
波波伎神社 


 このことから、どうやら、倉吉で天孫降臨が行われたようですが、そうしますと、伊那佐の小浜も伯耆国でなければなりません。
 
 どうして、地名に小波が採用されたと思われますか?
小波とは、その浜には、小さな波しか来なかったから付けられた浜だと思います。と云う事は、遠浅の浜辺でしょう。
 それを現在の地名で確認します。
湘南の小波 http://ameblo.jp/ruisurf0513/
島根県松江市島根町小波 http://www.mable.ne.jp/~ic/松江野地図です。 地図  


次は古事記に書かれてある伊那佐です。稗田阿礼が古事記を書くにあたって、あちこちの神社を調べに訪れたと思います。淀江町の大和村大字小波字浜にある三輪神社へも来たのではないかと思います。鳥取県神社誌が作られた時には、このような地名はあったと思われますが、稗田阿礼が訪れたであろう時は、大和村という地名はあったかも知れませんが、小波や浜という地名はなかったのではないかと思います。

 このように地名の無い所では、その所の風景の様子を書きとめています。従いまして、伊那佐という地名の小浜という地名で談判が行われたのではないと思います。
では、伊那佐とはどう言うことでしょう。否砂ではないでしょうか? 砂がなくて遠浅の海岸だったのではないでしょうか?

 三輪神社に行かれますと判ると思いますが、神社の周りは海ではありません。しかし、神社の後にある壺瓶山が海に迫っていたと思います。壺瓶山の周りに沿って、淀江の方から来る道が走っていたと思います。稗田阿礼がやってきたときも同じ状況だったと思います。なぜかと云いますと、この海岸り西は、海抜4m以下ですから、海だったと思われます。当時は岩場でしたが、この三輪神社のある浜だけは、日野川が運ぶ川砂のために、岩場なのに砂が、遠浅の海岸だったと思います。
 その砂浜で、波が打ち寄せる所のことを、稗田阿礼は「浪の穂に」と表現しました。二人の神は波際まで進んで、剣を逆に立てたと書いています。そのまま、突き刺したのであれば、剣で脅しながらの交渉になりますが、はじめから話合いをしたことになります。
 
 日本書紀では、出雲の国の五十田狭の小汀としています。古事記を読んでも意味が判らなかったのでしょう。五十田狭とは、どう言う意味でしょう。小汀とは、小さな海岸と言うことでしょうか?
三輪神社の西一帯のボーリングを行えば、その当時の地形が現れます。4m掘りますと、岩の層があり、遠浅の砂の層が出ると思います。三輪神社から10m置きに西の方向へボーリングすれば良いことになります。
 三輪神社のある大和村大字小波字浜の「大和村」の「大」は大典、大礼、大葬と同じで大王を表します。ここには、大物主が住んでいました。勿論、大物主は国譲りを賛成したと思われます。古事記には、多くの神が登場しますが、神野名前がないのは、大物主ぐらいでしょうか?

 日本書紀は、伯耆の国に、天皇家ゆかりの人はいなかったことにするのに、一生懸命でした。この大物主もいなかったことにするために、大神神社を奈良の桜井に造り、大物主の神話を作ったと思われます。崇神天皇のところに書いてありますから、読んでください。御神体がなくて、後の山を神体とするとしています。このような神社はほかにもあります。有名な所では、奈良の石上神宮もそうです。神殿がありません。これが、日本の神のもっとも古い形式だとされていますが、本当でしょうか?

この三輪神社の資料をまだ、手に入れていません。手に入りましたら、掲載するつもりです。
 その前に、今日、すぐ近くにある日吉神社の資料を掲載しました。
 

ここに、この神社へ合祀された神さんが掲載されています。
大和村大字平岡字向山 鎮座 無格社平岡神社(祭神 稚日女命)
大和村大字小波字鹽入 鎮座 無格社日御崎神社神社(祭神 天照大御神、素盞鳴尊) 
淀江町大字淀江字天王 鎮座 無格社淀江神社(祭神 素盞鳴尊、稲田姫命)
     
この三つに注目してください。太文字にした地名が、昭和9年当時にはあったことが判ります。天王は天皇陛下ではありません。大王がいつか住んで居られた可能性があります。

稚日女命は、『日本書紀』神代記上七段の第一の一書に登場する。高天原の斎服殿(いみはたどの)で神衣を織っていたとき、それを見たスサノオが馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込んだ。稚日女尊は驚いて機から落ち、持っていた梭(ひ)で身体を傷つけて亡くなったと書かれています。古事記では似たような記述がありますが、名前は書かれていません。

| | TrackBack (0)

2008.10.26

奴の国  page—17

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
奴の国  page—17
 大国主命が明け渡した宮のあった所が、そのまま国名〝倭〟として福ノ神族が支配するテリトリーの名前になった。
 そして、この倭の地名を中心とする米子平野は支那では奴国と考えられた。〝ぎ志倭人伝〟の邪馬台国を大騒ぎして何百年も探し求めて来た。この中に出てくる奴国がこの場所だったのである。
 国譲りで福ノ神族に属する様になった。福ノ神族の出身地は福建省ではないかと〝神々のふるさとヒルゼン〟に書いた。
 結論の先に出しては推理小説は面白くないが、天ツ神は呉の太伯の子孫だとの、支那での伝説を信じたい。福ノ神族は越人とすれば謎が多く解けてくれる。
 博多湾口のいはば離島の志賀島で金印が出た。金印は偉い使いの人と、一緒に遭難したとなぜ考え及ばないのだろうか。57年に金印を貰う資格のある、文化のあった所を探すべきだ。出雲は古事記にだてくる以上、これ位の文化がないと金印はもらえない。

| | TrackBack (0)

2008.10.24

倭  page—15

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
倭  page—15
 大国主命は日野川の近くまで追いつめられて文字通り背水の状態で国譲りを、せまられたのである。簡単に渡って逃げられる小川ではない。
 大国主命も事代主命も伯耆の国の米子平野に住んでいた。山陰で一番温暖な所は米子である。出雲は築地松で有名な様に風が強い。
 米子から南に8キロの所に倭の地名があったので、ここに住んでいたと考えることが、最もふさわしい。
 倭とは山のふもとからとった名前であったのである。 
 出雲の国が寒気と不毛の地だったので大国主命は大きな宮殿を構えるができなかったのである。
 この倭の後の山が手間山の、いのししの神話を生じた所である。
 大国主命は国譲りで出雲の西のすみに追放され、大きな宮だけを作ってもらったのである。

| | TrackBack (0)

2008.10.23

資料No39 生まれた所の地名と名前

天皇の名前は長くて覚えるのが大変です。漢字になにか意味がある筈です。 日子は彦ですから、男子であることを表しています。問題は彦の前野部分です。

初 代 神武天皇 神倭伊波禮毘古命 
第2代 綏靖天皇 神沼河耳命 カムヌナカワミミノミコト
第3代 安寧天皇 師木津日子玉手見命 シキツヒコタマテミノミコト
第4代 懿徳天皇 大倭日子*友命 オオヤマトヒコスキトモノミコト)*…金+且
第5代 考昭天皇 御真津日子訶恵志泥命 ミマツヒコカエシネノミコト
第6代 考安天皇 大倭帯日子国押人命 オオヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト
第7代 考霊天皇 大倭根子日子賦斗邇命 オオヤマトネコヒコフトニノミコト
第8代 考元天皇 大倭根子日子国玖琉命 オオヤマトネコヒコクニクルノミコト
第9代 開化天皇 若倭根子日子大毘々命 ワカヤマトネコヒコオオビビノミコト

初代と2代は、神が先頭についています。この部分は、生まれた国、出身地だと思います。
神の国の生れです。ユダヤ人だとしますと、他の神のつく人もユダヤ人となり辻褄があうことになります。ただ、是では困ったことは、天皇家はユダヤ人の血が入っていることになります。
第4代 懿徳天皇から、御真津を除きますと、大倭の地名が共通しています。大倭は、岡山県久米郡久米町宮尾は、昔は久米郡大倭村と言われたところです。久米廃寺の周辺です。
帯と根子の字が見えます。 根子という地名を探してみましたら、秋田県北秋田郡阿仁町根子に見つかりました。案外無いものです。両方と大倭の小字みたいなものでしょうか? このような時代に小字があったとも思えませんが、大倭村は範囲が広いですから、やはり澄んでいた地域をそのように呼んでいたと思われます。「命」の前の部分が判りません。
 各天皇は、「大倭」で生れました。と言うことは、母親が、その時に大倭に住んでいたことになります。では天皇は、何処に住んでいたかと言いますと、奈良になります。

  安寧天皇は兄弟が3人でした。
 常根津日子伊呂泥命 生まれは常根津。 常根津は不明。
 大倭日子鉏友命    生まれは大倭。 大倭は岡山県。
 師木津日子命      生まれは師木津。 師木津は磯城津でしょうか? ここに津があったでしょうか?

師木津日子玉手見命の名前は成人してからの名前です。古事記には、
師木津日子命も書かれています。 玉手見が抜けています。 と言うことは、生まれた後に呼ばれた名前になります。それは何処からかとったことになります。大阪府柏原市に玉手と言う所があります。 では「見」は何だと云うことになります。 関係ないかも知れません。

常根津日子伊呂泥命は、縣主波延(はえ)の女(むすめ)である阿久斗と結婚して
生まれた御子は、常根津日子伊呂泥命と書いてあります。

師木津日子命には二人の王がおり、伊賀の須知の稲置と那婆理の稲置、三野の稲置の祖。(二人の皇子は、伊賀と名張に行ったことが判ります)
女性は、和知都美命と言い、淡道の御井宮に居ました。二人の娘ができて、
上を蠅伊呂泥、又の名は、意富夜麻登久邇阿禮比売。 これは、大倭国の阿禮比売でしょうか? 「蠅」は「波延」でしょう。これも元々は地名でしょうか?
下は蠅伊呂杼です。
 と言うことで、姉の名前は、伊呂泥。妹の名前は、伊呂杼。二人が生まれた時は、祖母(阿久斗)の家で生まれたことになります。
 このように、眺めてきますと、
初 代 神武天皇は、橿原神宮の南にある柏原に都を定めて政治を行っていました。 第2代 綏靖天皇は、葛城の高岡宮で政治を行う。 
 その後は、磯城に移り、志木県主の祖、河俣毘売と結婚して、師木津日子玉手見命を生む。安寧天皇は片塩の浮穴宮(葛城郡)にて、政治を行ったことになっていますが,大倭にて、懿徳天皇を生んでいます。その後の天皇もずっと、大倭で生れていますから、奈良は危険な状態であったために、避難していたと考えられます。

大倭、倭と名前がつく人は、天皇とは限りません。
生まれた地名を付けてあります。孝霊天皇の后に、意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おほやまとくにあれいのみこと・安寧天皇の孫娘)がいます。この后の子どもが夜麻登登母母曾毘売命(やまととももそびめのみこと)です。

さて、如何でしたか?
一部無理な所がありますが、この名前の付け方が正しいとしますと、時代の流れが推測できます。

| | TrackBack (0)

2008.10.22

福ノ神族  page—13

〝神々のふるさとヒルゼン〟で外来民族に仮につけた名前である。この外来民族は芦の繁る所を求めて大量にやって来た移民である。朝鮮では高句麗の南下で支那の領土が圧迫され難民を生じた。福建省でも北からの圧迫で大量に海外移民を余議なくされた時代がある。この民族が隠岐からヒルゼンにやって来た。
 稲を作るために芦の繁っている所だから地名が必要になる。仲間であることを知らせるために特殊なパターンの地名を選んでつけた。
 このパターンは別表に示しておい。天ツ神の住んだところには宮がつく。華南の人々である理由の一つは福の地名が至って多い。福建省の海岸線に福のつく地名が多く、この事実と一致する。
 大量移住には味方の水と食糧の補給基地が必要である。このために適当な間隔で寄港地があり、必ず福浦か福江の地名が採用されている。壮大な戦略の謎が解けたのである。

| | TrackBack (0)

2008.10.19

福の神族が好んで採用した地名  page—12

初期には動物名
天王、天狗山、天川、天谷、天津、天神
愛宕山、高尾、高尾山、城山、稲荷山、要害山

米のつく地名、苗代、種、鋤、日向
鳥居、笠木、伊勢、白髪、三輪、明神
鍛冶屋、蚊屋、金屋、鍋のつく地名
徳、竜、鬼、耳、皇のつく地名

海岸には必ず存在する地名は
 福浦、福江、宮ノ浦、神ノ浦
 日向浦、宮津、天津、神崎

 私からの一言
  地図を眺めているだけで、いろいろ発見できます。ただし、地図がボロボロになるぐらい眺めませんと見えてきません。

| | TrackBack (0)

2008.10.17

芦原の中ツ国  page—11

芦原の中ツ国の続き

 焼畑農業と稲作農業は場所が全く異なる。あわやひえでは現在でも収穫量は知れている。この収穫量に見合った人口しか養えなかったので出雲の人口も少なかった筈である。
 大国主命は従者として大袋をかつがされていた記事は従者が国ツ神にもいなかったことを教えてくれた。貧しかった手兵もなく国譲りせざるを得なくなったのである。
 タケミカヅチの神は外国人部隊を引き連れてやって来た。これも紀元前2000年の歴史をもつ出雲族がなぜ簡単に手をあげる外無かったかの謎を解いてくれる。
 米子平野は日野川の上流で製鉄をやるため木が切られ火山灰が洪水で流されたため米が作れたと〝神々のふるさととヒルゼン〟で述べた。地名にも米がつくのである。
 稲作の技術と風葬の習慣がこの外来の民族が華南からやって来たことを教えてくれた。古事記を神話で片付けて研究を充分にしなかったために古代の歴史がブランクになった。芦原の中ツ国を譲れの一言は全く重要な謎解きの鍵ではないか。


【新しい日本の歴史】http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/ を書き始めて、900回を過ぎました。この「楽しい人生」や他のページ書いたものを含めますと、膨大なものになり、自分でもどこへ進んでいるのか分からなくなってきました。
 古代史だけですのに、いつ終わるか見当がつきません。古代史のどこの部分が解明されると古代史に謎が無くなるかを考えました。
 一番は、「壬申の乱」の所だろうと、壬申の乱を中心に調べることにしました。最も、私が言いだしたことではありません。いま書いているところは、「田村誠一氏に捧げる」のフォルダーを設けて、田村誠一氏が出版された本を1ページずつ紹介しています。田村氏は「壬申の乱は、日中戦争だった」と言われました。私は、このことが本当か同かを調べただけです。
 No157 遣唐使と郭務悰との関連 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-02-05 この辺りから壬申の乱を頭に置いて、考えはじめました。 まとまりのないものになりましたが、「壬申の乱は、日中戦争だった」は終了。

次のテーマは、「芦原の中ツ国を譲れの一言は全く重要な謎解きの鍵ではないか」に同調です。
【天孫降臨は、伯耆の国でおこなわれました】これも田村氏が言いだされたことですが、確かめる気になっています。
本日で、23回目になります。 こちらも読んで頂けましたら、うれしいです。


| | TrackBack (0)

2008.10.16

資料No38 波波伎神社 式内社

鎮座地 東伯郡日下村大字福庭字樅ノ木  ( 現在・鳥取県倉吉市福庭654番) 地図
祭神 事代主神、下照姫神(下照比売)、天稚彦神(天若日子)、少彦名神(少名毘古那神)、健御名方神、味耜高彦根命(阿遅鉏高日子根神、)、 狭依比売命(市寸島比売命)、多紀理比売命(多紀理毘売命)、多岐都比売命(田寸津比売命・狭依毘売)
( )の中は、古事記に書かれている神の名前です。

波波伎神社は、伯耆神社といっても良いような神社です。この神社は伯耆国にある6つの式内社の一つです。従いまして、延喜式が完成した、8世紀頃には、藤原氏の支配下にあったと思われます。
 祭神の事代主神は、事代主命と書いてあったのですが、宮司が最低の抵抗をして、事代主神と書き換えたのかも知れません。
健御名方神は、古事記に登場する神です。大国主神一家では、最後まで抵抗した神です。ところが、何故か、日本書紀では、書かれていません。日本書紀では、最後まで抵抗した神は、天香香背男となっています。 日本書紀の作者は、健御名方神の名前を書きたくなかったので、波波伎神社の祭神には、書かなかったのかも知れません。
または、次に掲げます由緒の通り、「伯耆神は国造り坐し大国主大神の御子事代主大神なり」とあるように、神社が出来た当初は、事代主神だけが、祭神だったのかも知れません。他の神は、後から合祀されたのかも知れません。
しかし、祀られている神々は、宗像三女以外は、すべて、天孫降臨の際に登場した神です。
宗像三女は、大正5年3月31日下村大字海田字坂根 鎮座  村社 海田神社(祭神 狭依比売命、多紀理比売命、多岐都比売命) を合併とありますから、土師からは無かったことになります。
由緒を眺めてください。太い文字の部分を取りますと、古事記に書かれてある内容と全く同じと言っていいと思います。
由緒  伯耆神は国造り坐し大国主大神の御子事代主大神なり、御鎮座の由来は天祖・天照皇大神、此の豊葦原の瑞穂の国は皇御孫命の天壌無窮に可治国と武甕槌、経津主の二神を出雲国に降し給ひて大国主神に国譲の諾否を問はせ給ふに、吾は答えず我が子事代主答ふべきも、今三穂碕にありと、 すなはち天鳥船神をつかはし召し来て問はせ給ふに、此の豊葦原の国は皇御孫命の可治国と父を諫め位を退き国を譲らしめ、己も天使の旨を諾ひ給ひ、天夷鳥命の子国夷鳥命に手を組ましめ一ツ木の神玖四浮根に座しし船足を此の青柴の巻籬内にと踏み方むけしめ来入座て宣曰く、吾が心すがすがし幾世福庭ぞ此の青柴のまにまに栄ゆく如く皇御孫命の大御代は栄え大坐ませ。己が命の神魂は皇孫命の近つ護の神とならむ。天栄手を青柴籬に柏誓て御隠れましし天栄手の宮なり。仁明天皇昭和四年正五位上に進む、延喜の制小社にれっす、平城天皇大同三年(大同類衆方 )に伯耆神は延喜式伯耆国河村郡波波伎神社党国国造祖神を祭る伯耆薬は伯耆国川村郡波波伎神社に伝ふと、天文十二年雷火の為に焼失、寛永五年まで百六十五年間小祠にてありしが産子伊藤孫左衛門発願祠を建立す、後百六十九年を経て明治十年五月産子福井善十郎今の祠を建立す、其の昔天文年中迄は祭式判然として見ゆ衆人二宮と崇敬す、境内に古墳あり、明治二年郷社に列す。
明治四十年二月三日神饌幣帛料供進神社に指定せらる、
大正5年3月31日下村大字海田字坂根 鎮座  村社 海田神社(祭神 狭依比売命、多紀理比売命、多岐都比売命) を合併
昭和4年8月13日 県社 に昇格す、当社の社叢は天然記念物として指定せらる。

境内神社
 稲荷神社 祭神 保食神、天照大神、素盞鳴尊、稲田姫神、誉田別神
 北野神社 祭神 菅原道真、 素盞鳴尊

波波伎神社の由緒と古事記の内容とどうして、同じになると思われますか?  一度、試してください。由緒をみながら、古事記をかく。古事記の文章を見ながら、由緒を作成する。
 古事記の文章を見ながら、由緒を作成するのは難しいと思われます。
 この波波伎神社には、古事記を作った人が、やって来て、宮司から波波伎神社のことを聞いたのだと思います。
 この記事の前に、いっぱい神社のことを書きました。宮崎神社、神郷神社、松尾神社、これからもどんどん書いていきます。訪れたのは、稗田阿礼ではないかと想像しています。
 どうしてかといいますと、稗田阿礼はこの近くの生まれで、勤務先も近かったのではないかと推察しているからです。
ヒルゼン高原の東隣が竹田村で現在は三朝町です。ここに竹田神社があります。この神社の由緒に福本にあった稗田神社を合祀したとあります。この福本に字稗田と言う地名があります。詳しいことは、又の機会にしますが、稗田阿礼がここの出身であることを隠すために、ややこしい合祀が行われ、現在では、此処まで書いたことを調べるだけでも難儀しました。
竹田や稗田などの地名は消えてしまっています。
ここの出身ですと、ヒルゼンは良く知っていたことになります。竹田神社のまえを流れる川を竹田川と言うのだと思います。この川を下って行きますと、天神川になり、どんどん下りますと、波波伎神社のある東伯郡日下村大字福庭 です。福庭は「福」が付いています。中国の雲南省からやって来た苗族が入植したところであり、稲作を伝えた人たちだと思っています。昔は竹田川と言ったのではないかとおもいます。その証拠となるかどうか分かりませんが、竹田橋があります。国府川と小鴨川が合流して、天神川に合流する地点があります。その少し上流に竹田橋という名の橋がかかっています。この橋の下を流れる川が竹田川といったから付けられた名前だと思います。

福庭の東に東郷池があります。その東に、宮内という地名があります。ここに、倭文神社という式内社があります。昔の住所は、東伯郡舎人村大字宮内字宮坂ノ一です。
舎人村という村です。昔、舎人が住んでいたから、この村の名前が付いたと言われる方がありますが、一人ぐらい出身者がいたから、村の名前にはならないと思います。から
 この近くに天皇が居られたことがあるのではと推理しています。その時に、多くの舎人が住んでいたのではないでしょうか?
稗田阿礼は、古事記を作る前に、このような神社を片ぱしら訪れ、祀られている神や、伝えられている事を神主から聞いたのではないでしょうか。

 ヒルゼン高原にも、天孫降臨をした時の神さんが全部祀られていました。伯耆国にも、すべて祀られていました。と言うことは、ヒルゼン高原から伯耆国に移動したのだと稗田阿礼や太安万侶は考えたのだと思います。
 偶然かどうか判りませんが、伯耆の国の真ん中に、「高千穂」という地名が残っています。
此の地名は、戦後入植した方が付けられたといわれていますが、その周りにある地名や神社には、特に、天孫降臨のときに、瓊瓊芸命に従った神を祭った神社があります。
 瓊瓊芸命は、「高千穂」で住み、護衛の人たちは、その周り、ほぼ、3キロのところで住んでいたのではないかと推理しています。
 
 各々の神社を訪れた稗田阿礼は、太安万侶や舎人の人たちと古事記に書かれてあるような神話を作成したと推理しています。そのように考えませんと、あまりにも古事記に登場する神社が残り過ぎています。
 
話題はもとに戻りまして、
この倭文神社が問題です。全国に14の同じ名前の神社があります。鳥取には、二社あります。
そのテーターは、
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page732.html
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page730.html
に掲載しました。
 皆さん、ご自分で、どうして、全国に散らばってあるのかも推理して頂ければ思います。
いろいろの角度から、考えますと、真実が浮かび上がると期待しています。

波波伎神社と二つの倭文神社のことをまとめて、
No445天孫降臨(18)  倉吉の近くの神社 に書きましたので、ご覧ください。
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-10-12

| | TrackBack (0)

2008.10.15

 芦原の中ツ国  page—10

芦原の中ツ国の続き

6.  天の岩戸は現存している。この神話の地名は全部該当するものがある。
7.  不毛と寒さのため倉吉平野の高千穂に神々がニニギの命をだいて見返峠から下った。雄図むなしく高天原が消滅した。
8.  古事記に出て来る肥ノ河は日野川であるべきだ。
9.  美保崎の近くの日向浦から神武天皇は東征に出発した。
10.  東征の最終地は大和の三輪でこの周辺にヒルゼンゆかりの地名をつけた。
11.  三輪山を神体として神々を祭り、風葬のなごりをとどめた。
12.  福の神族の集落付近には必ず鍛冶屋の集落がある。ここで剣と鋤をつくった。
13.  福の神族は勝山――落合—津山から吉井川を下った。川口が基地になった。
14.  根ノ国と黄泉ノ国は地上に存在した。
15.  芦原の中ツ国は芦の繁った地域をさす。

| | TrackBack (0)

2008.10.14

資料No37 神郷神社 手力男命

鎮座地 東伯郡上郷村大字大杉字栃谷   地図 

現在地 鳥取県東伯郡琴浦町大杉887番

祭神 大物主命、猿田彦命、手力男命、素盞鳴尊、大山祇命、金山彦命、大日孁貴女、稚産霊命、豊櫛命

由緒 往古より大杉大明神と称す、勧請年月不詳、後醍醐天皇の御宇毎月朔日及び各祭日に御供を供へ来りしとて御供免朔日免椎免と称する田地より収穫の米を以て各祭典に供す、
当地は神ノ郷と称し、公文以南一ノ郷の氏神なり、御祭日は三月三日早苗 神楽五月五日御田植神楽、九月十九日例祭なりき、現社地東方四町字古宮新田に御鎮座ありしを、洪水の為め浸水神威を瀆さん事を恐れ享保五年現社地に奉遷す、明治維新の際大杉神社と改称せられ、同五年村社に列す、大正四年五月上郷村大字公文字大畑 鎮座無格社大畑神社(祭神 素盞鳴尊)、同大字山田字北山 鎮座無格社北山神社(祭神 大山祇命、金山彦命)、同大字大杉字西山 鎮座無格社今田神社(祭神 素盞鳴尊)、同大字福永字森田 鎮座無格社出合神社(祭神 素盞鳴尊)  同上字宇湯合西手 鎮座無格社赤松神社(祭神 大山祇命) 同大字野田字齋谷 鎮座無格社野田神社(祭神 大山祇命、大日孁貴女)の六社を合併す、同九年十一月神郷神社と改称す、同十年二月十一日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

由緒によると、祭神は、往古より大杉大明神と称されていたが、明治になってから、大杉神社と改称されたと書かれています。その後、大正5年に、6社の神社が合祀されたことが書いてあります。合祀された神さんを最近の神社の祭神から除きますと、
大物主命、猿田彦命、手力男命、稚産霊命、豊櫛命が残ります。

大物主命は、少名彦神が大国主命主のそばから居なくなってか、やって来た神さんです。
伊那佐の小浜で、刀を浜につきさして、談判が行われたときに、大国主命の方と立会人だったと思われます。
猿田彦命は、瓊瓊芸命がヒルゼン高原から、伯耆の国に降臨してくる時に、高千穂まで案内した人です。猿田彦命は、三重県の神社に多く祀られています。また、鳥取県にも祀られています。と言うことは、東伯郡上郷村のことも良く知っていたことになります。どうして、この神社に祀られているか判りませんが、三重県とこの辺りを常に行ききしていたと思われます。
手力男命は、フマテラスが、素戔鳴尊の乱暴に耐えかねて天の岩戸に立てこもった時に、岩戸を開けた人です。天孫降臨のときに、従った神のうちの一人です。瓊瓊芸命を守るために、この辺りの警備の担当をしたのではないでしょうか?   
小波浜  page—7
田村氏の推察では、伊那佐の小浜は、出雲ではなく、伯耆の国だったとされています。

| | TrackBack (0)

2008.10.12

資料No36 高尾八幡宮 郷社

鎮座地 東伯郡栄村大字西高尾字八幡山 
現在 鳥取県東伯郡北栄町西高尾340番   地図 

祭神 誉田別尊、帯中津彦命、気長足姫命、武内宿禰命、大已貴命、別雷神、素盞鳴尊、瓊々杵命、菅原道真

大正4年4月21日 
栄村大字上種字宮惣鎮座村社 大宮神社 (祭神 大已貴命、別雷神、素盞鳴尊、瓊々杵命、菅原道真)
同大字東高尾字堂山鎮座 無格社 東高尾神社(祭神 素盞鳴尊)を合併す。

北栄町のホームページには、884年(元慶8)に岩清水八幡宮別宮、種八幡宮として勧請され、藩政期には藩主池田家の祈願所として崇敬された。現在の社殿は明治時代中頃に東高尾と西高尾が競って寄進し、石垣の石の積み方や末社の拝殿などそれぞれの受け持ちによって違いが見られると記す。

八幡宮という神社は、何処にでもありますが、私は注意が必要と思っています。無理やりに作られた歴史があるように思います。
ここの場合がそれに当たるかどうか分かりませんが、考えたことを書きます。

①先ず、鎮座地の西高尾に注目してください。西が付いていますから、当初、高尾という地名がありましたが、次第に大きくなりましたから、西とか東をつけて分けたことが判ります。
 どうして、このような辺鄙なところで、村が発展したかです。
 もう一つは、「高尾」は特殊な名前です。これは、伊邪那岐神の子孫によって付けられた地名だと思っています。最も、今まで調べたものは、高尾山ですが。
隠岐、島根県、兵庫県、大阪府、その他にありますが、すべて関係があると考えています。彼らが移動するときに、目印となるように名付けたと考えています。
地名 高尾山
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page421.html

この神社に、何故か、栄村大字上種字宮惣鎮座村社 大宮神社 (祭神 大已貴命、別雷神、素盞鳴尊、瓊々杵命、菅原道真) が遷されてきました。 大正時代ですから、この時の事情は知っておられる方が居られる筈です。この大宮神社は、あちこちにありますから、余り気にされないかと思いますが、「大」が付きますから、位の高い人と関係があると考えるべきです。ヒルゼン高原にもありました。
 『ウィキペディア(Wikipedia)』では、
「大宮神社(おおみやじんじゃ)という名前の神社は日本全国に存在する。「大宮」という語は神社を敬っていう言い方の一つで、氏子などから「大宮」と呼ばれていた神社が、それに「神社」をつけて社名としたものなどである。よって、祭神は一定ではない。」
 と書いておられますが、研究が足りないと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE
と偉そうなことを言いましたが、私は調べていません。このように、無くなった神社に目をつけています。
高尾八幡宮の現在の由緒に、大宮神社があるかどうか調べていませんが、戦後作られた『神社名鑑』には、八幡宮からは、瓊々杵命が無くなっています。印刷するときのミスでは済まされないと思っています。瓊々杵命を失くしたい人が、大正時代にも居られ、戦後の昭和にもおられたということになります。
次にあります、境内社も興味ありますが、考えていません。

境内神社  稲荷神社、祭神 倉稲魂神
      道祖神社 祭神 猿田彦神
例祭日    10月15日
建造物    本殿、弊殿、社務所、参籠所、
境内坪数   1636坪
氏子戸数   154戸

資料全文は、http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-225.html
に掲載しています。

| | TrackBack (0)

2008.10.09

資料No35松尾神社 鳥取県神社誌より

鎮座地 東伯郡花見村大字野花字西ノ上口    (地図) 

現在地 鳥鳥取県東伯郡湯梨浜町

祭神 別雷命、大山咋神、木花開耶姫命、素盞鳴命、多紀理毘売命、伊邪那岐神、伊邪那美神、大己貴命、少彦名命、事代主命、思兼神
由緒 創立年月不詳、当社は羽合の郷光吉村(古名布河)に鎮座せられ、羽合の郷、花見の郷の惣氏神と称し奉祀し来たりしが、年月不詳、洪水のため社殿流れて野花村江渚浜藪と云う所に漂着せられ、茲に光吉村を始め羽合郷氏子一同は社を舁〈かつ〉ぎ奉り、元社地に斎き奉らんとせしも、御神慮を恐〈かしこ〉み其儘〈まま〉社地を開き奉祀せし由、後今の地に遷し奉れりと(此の浜藪の地は当社の御神幸の御旅所と定め、今に関係を絶たず、光吉村に今に松尾屋敷と称する字存せり、是れ元の鎮座地たり、尚当社祭日には松尾大明神と記された幟を建てゝ祭れる習慣羽合の郷に失はざるは、此縁故に依るものにして、何時の頃より氏子分離せしか明らかならざるは甚だ遺憾なり)
当社は往古より南條家崇敬の神社にして、祈願所として永禄5年(1562)11月9日同家元清より社領75万石寄附せらる、
大正11年3月18日 花見村大字野花字向山鎮座無格社向山神社(祭神 素盞鳴尊)合併
大正11年3月20日 同村大字長和田字向山及若宮鎮座無格社長和田神社(祭神 多紀理毘売命)境内末社田中神社(祭神 思兼神)
           同村大字佐美字瀬戸平鎮座無格社佐美神社(祭神 素盞鳴命)
           同村大字埴見字宮ノ谷鎮座無格社大宮神社(祭神 大己貴命、少彦名命
           同村大字埴見字羽衣石境鎮座無格社高宮神社(祭神 事代主命)
           同村大字羽衣石字権現堂鎮座無格社高山神社(祭神 伊邪那岐神、伊邪那美神、素盞鳴命)
右六神社を合併す。
山城国官幣大社松尾神社古文書正嘉二年十一月伯耆国河村郡同社領境界図中に松尾社の位置現社地に在り。

東郷町誌によれば

 松尾神社が羽合.花見両郷の氏神であったこと。松尾神社がはじめ光吉にあったとする伝承は史実ではなかろうかなどの考察が書かれています。また、「原田氏系図」に東郷氏が長和田の地(野花を含む範囲)を京都松尾社に寄進したとする注記があるとも書かれています。
 松尾神社の祭神は、大正11年に合祀された六つの神社の祭神を除きますと、別雷命、大山咋神、木花開耶姫命が元からあった祭神と言うことになります。

「山城国官幣大社松尾神社古文書正嘉二年十一月伯耆国河村郡同社領境界図中に松尾社
の位置現社地に在り」の記事と祭神が大山咋神であることから、松尾神社は京都の松尾
大社と何らかの関係があったのでしょう。
では、どのような関係があったのかと言いますと、普通は、京都の松尾大社の方が大きいですから、鳥取に勧請したことになりますが、どうして、このような遠いところへ勧請したか。また、松尾大社の社領ということになっていますが、同じく、どうして社領になったかを考える必要があります。
もう少し、資料がほしいところですが、ないとなりますと、古事記に頼ることになりま
す。大山咋神と別雷命はどのような神であるかと言いますと、
大山咋神(おおやまくいのかみ)は、大年神とアメノチカルミヅヒメの間の子である。即ち、スサノオの孫になります。
比叡山の麓の日吉大社(滋賀県大津市)が大山咋神を祀る全国の日枝神社の総本社です。
別雷命は大山咋神と玉依姫の間に生まれた子です。

大山咋神は、はじめから京都に居たのではなく、鳥取に居たのではないでしょうか?
いくつかの根拠らしきものがあります。
その一つは、神話と言われているものの中に、「いなばの白ウサギ」というものがあります。大国主神が、80人ほど兄弟と旅行に出かけます。行き先は、八上比賣(八頭郡の売沼神社に祭られています)のいるところです。この時は、大国主神は、大穴牟遅神と呼ばれていました。多くの兄たちの荷物を持たされて、旅行についていった話が展開します。皆が願っていた八上比賣との結婚は、大穴牟遅神が、白ウサギを助けたことから、八上比賣の心をつかみ、結婚することになります。
古事記は、この物語を通して、スサノオには、いっぱいの子供・孫を含めて80人ほどいるのだということを表しました。
この事件のために、大国主神は、兄弟から苛められることになります。
その後、大穴牟遅神と呼ばれる時に、スサノオが住んでいる根の国を訪れ、スサノオの娘の須勢理毘賣と意気投合しますが、スサノオは認めません。スサノオにも苛められますが、二人は駆け落ちをすることになります。
 この時の様子は、古事記に詳しく書いてあります。
根の国訪問」に書いてあります。
できれば、ご自分で原文を読んでください。
「根の国訪問」のその4に、大国主が行ったところが書いてあります。

スサノオは、駆け落ちをする須勢理毘賣と大穴牟遅神に向かって、結婚を認めると大声で言います。
「其の汝の所持(ショジ)する生大刀と生弓矢で以って、汝の庶兄弟を坂の御尾に追い伏せて、亦、河の瀬に追い撥(ハ)って、意禮(オレ) 大國主神と為(ナ)って、亦、宇都志國玉神と爲って、其の我の女(ムスメ)の須世理毘賣を嫡妻と爲して、宇迦能山(ウカノヤマ)の山本に於いて、底の石根(イワネ)に、宮柱布刀斯理(ミヤバシラフトシリ)、高天の原に於いて、氷椽(ヒギ)多迦斯理(タカシリ)して居利なさい。是が奴(ヌ)也」

兄弟はどこにいたかは書いてありませんが、追い払えと言っています。そして、「大國主神と為(ナ)って、亦、宇都志國玉神と爲って」国を作れ。 それを、奴の国とせよと云っています。
此れ以後、スサノオ一族は、京都にやってきます。日枝神社、松尾大社、八坂神社、伏見稲荷大社の祭神として祭られています。

簡単に書きましたので、理解困難かも知れませんが、このように考えますと、松尾神社と松尾大社を奉祀している人たちは、遠くに離れていますが、スサノオ一族の人ですから、何年たっても、関係を結んでいたと考えていいと思います。

今回、ここに取り上げましたのは、天孫降臨のときに、家来として瓊瓊芸命に従った「思兼神」が、ここで祀られているので取り上げました。しかし、大正11年3月20日 境内末社田中神社(祭神 思兼神)が、松尾神社に合併したとありますから、田中神社は、どこにあったのか判りませんが、他の神社と同様に、東伯郡に所在したのではないでしょうか?

木花開耶姫命は瓊瓊芸命と結婚しました。木花開耶姫命の表記の仕方は、日本書紀に書かれている表記です。

| | TrackBack (0)

2008.10.08

芦原の中ツ国  page—9

タケミカヅチの神は大山の北の狭い海岸線を進んで大国主命の部隊を日野川の手前まで追いつめたのである。もちろん屯田兵を倉吉平野から引きつれて現れたのである。
 これも大国主命主が出雲でなしに、米子平野に本部を置いていたとする根拠だ。
 タケミカヅチの神は芦原の中ツ国を譲れと申出ている。あわやひえしか出来ない出雲の国には何の魅力もなかった。同時にタケミカヅチの神達が始めて日本に稲作技術を持って来た一つの証拠である。
 古事記では芦原の中ツ国の言葉は何回か使用されている。ある時はヒルゼンを指し、ある時は倉吉平野を指している。
 神武東征では瀬戸内海沿岸の芦原の地域に十六年の年月をかけて侵入して行った。
 弥生時代は芦の繁った所に田を作ることによって始まったのである。
 古事記の国譲りの交渉条件が古代の謎を解く一つの重要な鍵なのである。米子平野を譲れとせまったのである。

| | TrackBack (0)

2008.10.07

資料No34 郷社 宮崎神社 古老の話

鎮座地 東伯郡大誠村大字島字宮ノ後口   地図 
http://www.jinja.in/single/86825.html

現在地 鳥取県東伯郡北栄町大島648番

この資料は昭和9年のものですが、いろいろ面白いことが判ります。昔、大誠村大字島という所が、現在は北栄町大島 となっているところです。 「島」の周囲の海抜を調べますと、4m以下です。ということは、いつのことか判りませんが、4m以のところは、海でした。
(海抜を調べる方法は、精密ではありませんが、次の方法で可能です。カシミール3Dをインストールします。フリーソフトですから、無料です。購入しても知れています。本も付いていて、3000円ぐらいだったと思います。ソフトを可動させて、「大島」で検索し、いっぱいでてきますから、鳥取県の中から選択します。もし、多すぎるときは、北栄町で検索しますと、一帯の地図がでます。そこから、大島を見つけます。 大島の周りにポイントを持ってきますと、標高が表示されます)
東伯郡には、郷社が13社あります。全部で141社ですから、特別な神社てあったと考えていいと思います。どのように特別であったかは、これから調べます。

祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、素盞鳴尊、天児屋根命 ですが、後ろに書いてある通り、素盞鳴尊、天児屋根命は、西穂波神社と穂波神社から大正三年にやって来られた神さんです。
 従いまして、元々は、伊弉諾尊、伊弉冉尊を祭っていたと思われます。しかも、古いのではないかと思います。
由緒は長くて、書き移すのがしんどかったのですが、省略しないで、移しましたので、読んでください。
どの神社にも見られるように、創建及び沿革等が判らないと書いてあります。原因は、文化年度の火災に焼失とあります。神社の記録が無いとあるだけで、どこかにあるかも知れません。
小朗の口碑略に言う のような話は、どこにでもあるように思って、無視しがちですが、丁寧に読みますと、孝霊天皇の御字皇子大日本根子彦国牽尊や景行天皇の御宇、皇子日本武尊の名前が出てきます。これらのことは、一応、置くことにしますが、頭の隅に置いておき、どこかで似た話が有った時には、すぐに引き出せるようにしておくことが大切かと思います。

 この資料は、昨日、出来たばかりですので、まだ、検討の最中です。
 大島は、西穂波と穂波の中間の位置にあります。 大島の近くには、亀谷神社があります。
タイトルの古老の話については書きませんでしたが、孝霊天皇と景行天皇の名前が出ると云う事は、どう言うことか、考えて頂ければと思います。
皆さんで、調べて頂ければと思います。
 
以下に、資料をそのまま、掲載しておきます。

鎮座地 東伯郡大誠村大字島字宮ノ後口   地図 


現在地 鳥取県東伯郡北栄町大島648番

祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、素盞鳴尊、天児屋根命
由緒 創建及び沿革等の古書類は渾て文化年度の火災に焼失せしにより詳ならざれども古老の口碑略に曰ふ本村土地の姿たる往古は入海にて、今に当村の北に瀬戸といふ村名又艮の方に原灘といふ地名巽に穂波といふ村名南に大船頭鼻といふ地名坤に高鼻及び津原の村名にしに汐ノ宮等の名称を存せり、舟筏無くば他村に渡渉し難き処にして、湖水満る時は民家将に沈没せむとし土人頗る之に艱難す、是に於て孝霊天皇の御字皇子大日本根子彦国牽尊、土人の為今の本社地に御祖伊弉諾尊伊弉冉尊を奉齋し給ひき、是れ本社の濫觴なりと、斯くて数十年を経て景行天皇の御宇、皇子日本武尊の御時、北海の霪風御艦を悩まし奉りしが不思議の神助にて御艦引寄するが如く本社地乾の隅に着御し給へり、尊大に歓喜し給ひて宜はく斯く清らかなる地の海面に浮出つるはこは浮洲にやと、是より社地を称して浮洲の社と云ふ、洲の中央に大麻を挿立て御自ら御飯を爨き給ひて二尊を祭り神助を謝し給へり、御飯を炊き給ひし地は本社の北にあり今飯ノ山といふ、斯くて其後風波穏やかになりければ如何なる御訳にや、小艇は此処に?置き給ひ御艦に召され進発し給ひしと云ふ、其小艇石に化して今に社畔に在り、土人は之を石船と称して崇祀せり、又御難風の御時尊の御沓を一隻海に失ひ給ひしが、後潮引ける時本社より西方なる山岸によれり、土人此沓を奉して祀れり、是今の汐宮なりといふ、其後幾何の星霜をか経にけん、原瀬戸両村の北に砂浜つきて入海漸々鹵沢して巨多の良田となれり然れども本村の地のみは尚池の中央に在て浮洲の社の形容を存したりしが、元和三年に国主松平光政の時この鹵沢を田地に開墾せむとし着手し給へども、如何せん池の流末なる大川口より波打揚潮差来りて成功の期なし、時に神殿奉行円乗寺勘兵衛なるもの本社の旧社にして神徳著しきを畏み懇に祈願せしが、冥護空しからず漸々多数の田地開墾あり、之に依て国主光政感喜斜ならず、終に古地朱高三石九斗一升の社領を寄附して藩の祈願所と為し、例年三月九日社職へ祈祷を命ぜられ祈祷料銀六十二匁宛下し給ひ、本社よりは神札を献上するの例にて、その後寛永九年五月光政備前に移封せられた松平相模守光仲因伯の太守となりし後も尚ほ前例により更に崇敬厚かりき、明治八年地租改正の蔡社領地は村共有の名義となりしも、毎年該地の作徳米を以て本社の経費に補償し来りしが、大正十一年四月該地は本社の縁故地の故を以て本社の財産として寄附せらる、明治二十六年九月元因伯の太守侯爵池田輝博より相州秋広作(長二尺三寸四分)の刀剣一振を奉納せらる。
 明治四十年二月三日神饌幣帛料供進神社に指定せらるる、大正三年十二月六日大誠村大字西穂波字大門

鎮座無格社西穂波神社(祭神 素盞鳴尊)を合併す、同五年五月十四日大誠村大字穂波字塚林西 

鎮座村社穂波神社(祭神 天児屋根命 )を合併す。


例祭日    4月9日
建造物    本殿、拝殿、神門、神輿庫、参籠所 
境内坪数   935坪
氏子戸数   130戸

| | TrackBack (0)

2008.10.06

資料No33倉阪神社 村社  鳥取神社誌より

データーは、http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-217.html に掲載しました。

もう一度、転記します。 このデーターは、昭和9年に、皇紀2600年である昭和15年を迎えるにあたって、全国的に、神社のデーターを作ろうとされたようです。このデーターから、全国に神武天皇を祭る神社がどれだけあるかも分かりました。
【神武天皇を祭った神社】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page311.html

とは言うものの、コンピューターのない時代ですから、作業は大変だったと思われます。
本当は、どのようなことが目的であったかを調べていませんが、この膨大な作業を知ると、この後、日本は、「神の国」へと突入して、世界を相手に戦争をしたという近代史は間違っているのではないかという気がしています。
 もっと、多くの思いがありますが、又の機会に書くことにして、このデーターを見て考えたことを書いていきます。

鎮座地 東伯郡上郷村大字倉阪字宮ノ谷   地図 
ht

現在地 鳥取県東伯郡琴浦町倉坂1229番

祭神 石凝姥命,事代主命、素戔鳴尊、雅産霊命、大山祇命、豊櫛命
由緒 創建年月不詳、往古より倉阪村の氏神にて国石大明神若一王神と称す、明治維新の際倉阪神社と改称せられ、明治五年村社に列す、大正四年十二月十一日上郷村大字倉阪字石臼谷鎮座無格社一家神社(祭神 素戔鳴尊)を合併す、昭和七年七月十七日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

例祭日    7月9日
建造物    本殿、拝殿、参籠所 
境内坪数   536坪
氏子戸数   65戸

考えたこと---氏子戸数65戸という数字は、一つの村が、上手くやっていくことが出来る数字ではないかと思っています。ただ、一家神社(祭神 素戔鳴尊)がどうして、合併されたのか知りたいところです。昭和9年ですから、当時のことを知っておられる方が居られる筈です。
 祭神をご覧ください。
 石凝姥命,事代主命、素戔鳴尊、雅産霊命、大山祇命、豊櫛命

素戔鳴尊は、合祀されたから書いてあるのでしょう。大山祇命は、ニニギ命が結婚した木花之佐久夜毘売の父です。雅産霊命、豊櫛命の二人は調べていません。
石凝姥命は、天孫降臨のときに、ニニギに従ってきた人です。
 どうやら、すべて、古い神のようです。
 ということは、少なくとも、この辺りは、江戸時代に開拓されたところではなく、もっと、昔からあったと考えるべきです。

石凝姥命は作鏡連(かがみづくりのむらじ)らの祖神とされている。 古事記では伊斯許理度売命、別名 櫛石窓神、豊石窓神、日本書紀では石凝姥命と表記されています。

この神社は、式内社ではありません。式内社は、祭神がすべて、日本書紀に書かれている神の名前となっています。と云う事は、藤原氏によって、無理やりに祭神の名前を書き換えられ、そして、その他の面でも、支配された神社だと考えています。

伯耆国の式内社は。僅か、6社です。
伯耆国の式内社
ht
ここを見て貰いますと、
波々伎神社 八重事代主命
 波々伎神社は、式内社なのに、 祭神は、古事記に書かれている八重事代主命に表記されています。
倭文神社 健葉槌命
 倭文神社も古事記の表記の健葉槌命になっています。 この二社は、式内社に指定されましたが、神社の名前を変えることには、従わなかったことになります。

この様に見ていきますと、伯耆国の式内社が、僅か、6社ですから、天皇家の勢力が強かったことになります。倉阪神社は式外社ですが、石凝姥命,事代主命、素戔鳴尊は、日本書紀に書かれている表記ですから、藤原氏の支配を受けていたことになります。

倉阪神社は、創建時は、瓊瓊芸命の人たちとともに、祀られていましたが、その後、藤原氏の人たちが支配したと思われます。

| | TrackBack (0)

2008.10.05

〝神々のふるさとヒルゼン〟の要旨  page—8

1. 福の神族は大量に隠岐—美保崎—倉吉平野―天神川を経てヒルゼンにやって来た。
2. ヒルゼンは京都盆地よりも広い能交面積があり、周囲は500米級(標高差)の山にかこまれた要塞の地で、都として最高の条件をそなえていた。
3. この地域を天(アマ)と呼びて高天原は中蒜山の中腹の台地にあった。
4. 稲作を主として広大な芦の繁った太古の湖底の平たん地を田にした。しかし火山灰土のため作物が全く取れなかった。
5. スサノオの命は天照大神の密命で砂鉄から玉鋼をつくれる大呂を占領し、八俣の大蛇の美談にしたてた。高天原から追放された筈のスサノオの命が高天原に帰って天照大神に剣を献上したとあるのが謎を解いてくれる。

| | TrackBack (0)

2008.10.03

小波浜  page—7

国土地理院の地図で米子の東を流れる日野川の川口から東に4キロの所に小波浜の地名が記されている。
 国譲りの談判が行われたのがここであれば、すべての疑問が一挙に解決する。大国主命を始め国ツ神の本拠地が出雲でなしに、伯耆の国の米子付近だったと考えたいのである。
 事代主命は米子の海岸は浅瀬の砂浜だから美保崎まで行かないことには釣りは出来ない。この距離は20キロだし現在も釣りには美保崎まで出かけている。
 出雲の国から美保崎に釣りに出かける筈はないのである。
 古事記は意外なところで大国主命や事代主命が出雲に住んでいなかつたことを明確にしたことになる。
 次には、タケミカヅチの神は砂浜に剣を突きさせ、あぐらをかいて談判したのである。日野川から4キロ東だから大国主命は背水の陣であった。しかも頼むべき事代主命の釣りの場所は、はるかに望まる場所だった。


私のコメント
田村氏の「伯耆の国の米子付近だったと考えたいのである。」との表現が飛び出しました。このように考えたいと云われます。断定はしておられないのですが、なんだか説得力があるように思われます。
 日本史の論文を読んでいますと、これでもかと言うほど、調べつくしてし説明しようとされている方が殆どです。資料からだけ考えを進めますと、そのようになります。それは、良いのですが、新しいデータが出ますと、180度、話が変わることはザラです。
 日本書紀では、どうしても、伯耆国には、天皇がいなかったことにしたいために、出雲がその場所に選ばれていることが多いです。
 前に掲載しました、左上 4分の1近くが海であったことが判りますと、このような発想になります。
 プロに掛りますと、この考えは、一蹴されますが、現地に行きますと、すぐに分かります。
この辺りを走った時ことを載せています。
【伯耆・因幡の国】
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page511.html

| | TrackBack (0)

地図 米子市の東部

米子市の東部の地図です。例によって、地図が小さくて見えません。上にある二重に囲まれた部分が、「小波浜」です。壺瓶山のふもとに沿って、海岸が走っていたはずです。ここから南に曲がった道があります。この道路も海岸線だったと思っています。

楕円で囲まれた部分は、「福」の字がつく地名です。福の神族が入植したところと思われます。

Photo

| | TrackBack (0)

事代主命と釣  page—5

古事記に国譲りの場面が出てくる。本来出雲の国を譲る話なら一国の存亡にかかる重大事件なのに解説書はさりげなく取扱っているのはおかしくないか。
 タケミカヅチの神が大国主命に芦原の中ツ国を譲れとせまったのである。イザサの小浜が談判の場所である。解説者はこの小浜を出雲大社付近と想定している。
 
この時大国主命は子の事代主命に相談しないことには一存で決め兼ねると猶予を申出たのである。この時事代主命は美保崎に釣に出かけていた。
 小浜が大社付近と想定すれば、なぜ近くによい釣り場があるのに。わざわざ宍道湖から松江の水道を抜け中海を渡って美保崎まで行ったかの疑問が残らないか。80キロも離れて居るのである。
 次にタケミカヅチの神は何所から、どれ位の軍隊を引きつれてやって来ただろうか。大社付近の小浜を想定することは沢山の疑問も解く必要が生じるのである。

| | TrackBack (0)

2008.10.01

大国主命と見合い  page—3 

古事記で大国主命は胸形の奥津宮のタキリ姫命と見合いして結婚された。この場所は古事記の解説者は福岡県宗像郡の沖ツ島している。
 国土地理院の五万分の一の地図で探した所九州本土から70キロも離れた絶海の玄海ナダの孤島である。琵琶湖の竹生島をご存じの方は多いだろうから比較して見たのである。沖ツ島は竹生島の二倍位の大きさだが山は250米で竹生島と同じ急傾斜である。200米平方位の平地がある。
 こんな食糧もない所に何人の人を古事記学者は住まわせたのだろう。
 出雲からこの島に無事探しあてて大国主命はたどりつけただろうか。
 米子の南に宗像の地名や奥谷の地名が国土地理院の地図にのっている。古事記の解説は似た地名を見付けて、こじつけしていことが多いがなぜこの宗像では不合理なのだろうか。
 古事記がでてから、ふやかりたいと付けた地名か否かは周囲の地理条件でも多少は判別付けられるだろう。

| | TrackBack (0)

福ノ神族のパターン認識  page—2

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ

 福ノ神族のパターン認識  page—2   
地図は全て国土地理院の五万分の一です。
1センチが500米です。
 福ノ神族ゆかりの地名を径1センチの黄の蛍光インクで塗ると、パターンが出来上がりグループがあったか否かかが一目です。
一村に数箇所もあれば以上です。

001

次のページと一緒にご覧ください。

地図掲載しましたが、うまく見えません。
右の丸 3つは、上から 日野川 です。
川のした2つは 福市と福市遺跡

宗像 
奥谷 このあたりまで、海が来ていたと思われます

| | TrackBack (0)

« September 2008 | Main | November 2008 »