«  芦原の中ツ国  page—10 | Main | 芦原の中ツ国  page—11 »

2008.10.16

資料No38 波波伎神社 式内社

鎮座地 東伯郡日下村大字福庭字樅ノ木  ( 現在・鳥取県倉吉市福庭654番) 地図
祭神 事代主神、下照姫神(下照比売)、天稚彦神(天若日子)、少彦名神(少名毘古那神)、健御名方神、味耜高彦根命(阿遅鉏高日子根神、)、 狭依比売命(市寸島比売命)、多紀理比売命(多紀理毘売命)、多岐都比売命(田寸津比売命・狭依毘売)
( )の中は、古事記に書かれている神の名前です。

波波伎神社は、伯耆神社といっても良いような神社です。この神社は伯耆国にある6つの式内社の一つです。従いまして、延喜式が完成した、8世紀頃には、藤原氏の支配下にあったと思われます。
 祭神の事代主神は、事代主命と書いてあったのですが、宮司が最低の抵抗をして、事代主神と書き換えたのかも知れません。
健御名方神は、古事記に登場する神です。大国主神一家では、最後まで抵抗した神です。ところが、何故か、日本書紀では、書かれていません。日本書紀では、最後まで抵抗した神は、天香香背男となっています。 日本書紀の作者は、健御名方神の名前を書きたくなかったので、波波伎神社の祭神には、書かなかったのかも知れません。
または、次に掲げます由緒の通り、「伯耆神は国造り坐し大国主大神の御子事代主大神なり」とあるように、神社が出来た当初は、事代主神だけが、祭神だったのかも知れません。他の神は、後から合祀されたのかも知れません。
しかし、祀られている神々は、宗像三女以外は、すべて、天孫降臨の際に登場した神です。
宗像三女は、大正5年3月31日下村大字海田字坂根 鎮座  村社 海田神社(祭神 狭依比売命、多紀理比売命、多岐都比売命) を合併とありますから、土師からは無かったことになります。
由緒を眺めてください。太い文字の部分を取りますと、古事記に書かれてある内容と全く同じと言っていいと思います。
由緒  伯耆神は国造り坐し大国主大神の御子事代主大神なり、御鎮座の由来は天祖・天照皇大神、此の豊葦原の瑞穂の国は皇御孫命の天壌無窮に可治国と武甕槌、経津主の二神を出雲国に降し給ひて大国主神に国譲の諾否を問はせ給ふに、吾は答えず我が子事代主答ふべきも、今三穂碕にありと、 すなはち天鳥船神をつかはし召し来て問はせ給ふに、此の豊葦原の国は皇御孫命の可治国と父を諫め位を退き国を譲らしめ、己も天使の旨を諾ひ給ひ、天夷鳥命の子国夷鳥命に手を組ましめ一ツ木の神玖四浮根に座しし船足を此の青柴の巻籬内にと踏み方むけしめ来入座て宣曰く、吾が心すがすがし幾世福庭ぞ此の青柴のまにまに栄ゆく如く皇御孫命の大御代は栄え大坐ませ。己が命の神魂は皇孫命の近つ護の神とならむ。天栄手を青柴籬に柏誓て御隠れましし天栄手の宮なり。仁明天皇昭和四年正五位上に進む、延喜の制小社にれっす、平城天皇大同三年(大同類衆方 )に伯耆神は延喜式伯耆国河村郡波波伎神社党国国造祖神を祭る伯耆薬は伯耆国川村郡波波伎神社に伝ふと、天文十二年雷火の為に焼失、寛永五年まで百六十五年間小祠にてありしが産子伊藤孫左衛門発願祠を建立す、後百六十九年を経て明治十年五月産子福井善十郎今の祠を建立す、其の昔天文年中迄は祭式判然として見ゆ衆人二宮と崇敬す、境内に古墳あり、明治二年郷社に列す。
明治四十年二月三日神饌幣帛料供進神社に指定せらる、
大正5年3月31日下村大字海田字坂根 鎮座  村社 海田神社(祭神 狭依比売命、多紀理比売命、多岐都比売命) を合併
昭和4年8月13日 県社 に昇格す、当社の社叢は天然記念物として指定せらる。

境内神社
 稲荷神社 祭神 保食神、天照大神、素盞鳴尊、稲田姫神、誉田別神
 北野神社 祭神 菅原道真、 素盞鳴尊

波波伎神社の由緒と古事記の内容とどうして、同じになると思われますか?  一度、試してください。由緒をみながら、古事記をかく。古事記の文章を見ながら、由緒を作成する。
 古事記の文章を見ながら、由緒を作成するのは難しいと思われます。
 この波波伎神社には、古事記を作った人が、やって来て、宮司から波波伎神社のことを聞いたのだと思います。
 この記事の前に、いっぱい神社のことを書きました。宮崎神社、神郷神社、松尾神社、これからもどんどん書いていきます。訪れたのは、稗田阿礼ではないかと想像しています。
 どうしてかといいますと、稗田阿礼はこの近くの生まれで、勤務先も近かったのではないかと推察しているからです。
ヒルゼン高原の東隣が竹田村で現在は三朝町です。ここに竹田神社があります。この神社の由緒に福本にあった稗田神社を合祀したとあります。この福本に字稗田と言う地名があります。詳しいことは、又の機会にしますが、稗田阿礼がここの出身であることを隠すために、ややこしい合祀が行われ、現在では、此処まで書いたことを調べるだけでも難儀しました。
竹田や稗田などの地名は消えてしまっています。
ここの出身ですと、ヒルゼンは良く知っていたことになります。竹田神社のまえを流れる川を竹田川と言うのだと思います。この川を下って行きますと、天神川になり、どんどん下りますと、波波伎神社のある東伯郡日下村大字福庭 です。福庭は「福」が付いています。中国の雲南省からやって来た苗族が入植したところであり、稲作を伝えた人たちだと思っています。昔は竹田川と言ったのではないかとおもいます。その証拠となるかどうか分かりませんが、竹田橋があります。国府川と小鴨川が合流して、天神川に合流する地点があります。その少し上流に竹田橋という名の橋がかかっています。この橋の下を流れる川が竹田川といったから付けられた名前だと思います。

福庭の東に東郷池があります。その東に、宮内という地名があります。ここに、倭文神社という式内社があります。昔の住所は、東伯郡舎人村大字宮内字宮坂ノ一です。
舎人村という村です。昔、舎人が住んでいたから、この村の名前が付いたと言われる方がありますが、一人ぐらい出身者がいたから、村の名前にはならないと思います。から
 この近くに天皇が居られたことがあるのではと推理しています。その時に、多くの舎人が住んでいたのではないでしょうか?
稗田阿礼は、古事記を作る前に、このような神社を片ぱしら訪れ、祀られている神や、伝えられている事を神主から聞いたのではないでしょうか。

 ヒルゼン高原にも、天孫降臨をした時の神さんが全部祀られていました。伯耆国にも、すべて祀られていました。と言うことは、ヒルゼン高原から伯耆国に移動したのだと稗田阿礼や太安万侶は考えたのだと思います。
 偶然かどうか判りませんが、伯耆の国の真ん中に、「高千穂」という地名が残っています。
此の地名は、戦後入植した方が付けられたといわれていますが、その周りにある地名や神社には、特に、天孫降臨のときに、瓊瓊芸命に従った神を祭った神社があります。
 瓊瓊芸命は、「高千穂」で住み、護衛の人たちは、その周り、ほぼ、3キロのところで住んでいたのではないかと推理しています。
 
 各々の神社を訪れた稗田阿礼は、太安万侶や舎人の人たちと古事記に書かれてあるような神話を作成したと推理しています。そのように考えませんと、あまりにも古事記に登場する神社が残り過ぎています。
 
話題はもとに戻りまして、
この倭文神社が問題です。全国に14の同じ名前の神社があります。鳥取には、二社あります。
そのテーターは、
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page732.html
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page730.html
に掲載しました。
 皆さん、ご自分で、どうして、全国に散らばってあるのかも推理して頂ければ思います。
いろいろの角度から、考えますと、真実が浮かび上がると期待しています。

波波伎神社と二つの倭文神社のことをまとめて、
No445天孫降臨(18)  倉吉の近くの神社 に書きましたので、ご覧ください。
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-10-12

|

«  芦原の中ツ国  page—10 | Main | 芦原の中ツ国  page—11 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/18266/42803753

Listed below are links to weblogs that reference 資料No38 波波伎神社 式内社:

«  芦原の中ツ国  page—10 | Main | 芦原の中ツ国  page—11 »