地名 小波
天孫降臨に際して、アマテラスは建御雷と天鳥船神を大国主神のところへ交渉に派遣します。これは、古事記に書かれてあることですし、神話のことですから、どうでも良いのですが、私は実話だと考えています。
この二人の神は、出雲国の伊那佐の小浜に降り立って十掬剣を抜いて、逆に浪の穂に突き刺して、その剣の前に跌み坐して交渉に臨んだと書いています。
伊那佐の小浜とは、どこかと言いますと、出雲国とあります。これは、伯耆国ではなかったかと想像しています。
なぜなら、これまでに、調べてきたことから推察しますと、天孫降臨に関わった神は、鳥取の倭文神社と波波伎神社の祭神として祭られています。
倭文神社は、舎人村
志津村
波波伎神社
このことから、どうやら、倉吉で天孫降臨が行われたようですが、そうしますと、伊那佐の小浜も伯耆国でなければなりません。
どうして、地名に小波が採用されたと思われますか?
小波とは、その浜には、小さな波しか来なかったから付けられた浜だと思います。と云う事は、遠浅の浜辺でしょう。
それを現在の地名で確認します。
湘南の小波 http://ameblo.jp/ruisurf0513/
島根県松江市島根町小波 http://www.mable.ne.jp/~ic/松江野地図です。 地図
次は古事記に書かれてある伊那佐です。稗田阿礼が古事記を書くにあたって、あちこちの神社を調べに訪れたと思います。淀江町の大和村大字小波字浜にある三輪神社へも来たのではないかと思います。鳥取県神社誌が作られた時には、このような地名はあったと思われますが、稗田阿礼が訪れたであろう時は、大和村という地名はあったかも知れませんが、小波や浜という地名はなかったのではないかと思います。
このように地名の無い所では、その所の風景の様子を書きとめています。従いまして、伊那佐という地名の小浜という地名で談判が行われたのではないと思います。
では、伊那佐とはどう言うことでしょう。否砂ではないでしょうか? 砂がなくて遠浅の海岸だったのではないでしょうか?
三輪神社に行かれますと判ると思いますが、神社の周りは海ではありません。しかし、神社の後にある壺瓶山が海に迫っていたと思います。壺瓶山の周りに沿って、淀江の方から来る道が走っていたと思います。稗田阿礼がやってきたときも同じ状況だったと思います。なぜかと云いますと、この海岸り西は、海抜4m以下ですから、海だったと思われます。当時は岩場でしたが、この三輪神社のある浜だけは、日野川が運ぶ川砂のために、岩場なのに砂が、遠浅の海岸だったと思います。
その砂浜で、波が打ち寄せる所のことを、稗田阿礼は「浪の穂に」と表現しました。二人の神は波際まで進んで、剣を逆に立てたと書いています。そのまま、突き刺したのであれば、剣で脅しながらの交渉になりますが、はじめから話合いをしたことになります。
日本書紀では、出雲の国の五十田狭の小汀としています。古事記を読んでも意味が判らなかったのでしょう。五十田狭とは、どう言う意味でしょう。小汀とは、小さな海岸と言うことでしょうか?
三輪神社の西一帯のボーリングを行えば、その当時の地形が現れます。4m掘りますと、岩の層があり、遠浅の砂の層が出ると思います。三輪神社から10m置きに西の方向へボーリングすれば良いことになります。
三輪神社のある大和村大字小波字浜の「大和村」の「大」は大典、大礼、大葬と同じで大王を表します。ここには、大物主が住んでいました。勿論、大物主は国譲りを賛成したと思われます。古事記には、多くの神が登場しますが、神野名前がないのは、大物主ぐらいでしょうか?
日本書紀は、伯耆の国に、天皇家ゆかりの人はいなかったことにするのに、一生懸命でした。この大物主もいなかったことにするために、大神神社を奈良の桜井に造り、大物主の神話を作ったと思われます。崇神天皇のところに書いてありますから、読んでください。御神体がなくて、後の山を神体とするとしています。このような神社はほかにもあります。有名な所では、奈良の石上神宮もそうです。神殿がありません。これが、日本の神のもっとも古い形式だとされていますが、本当でしょうか?
この三輪神社の資料をまだ、手に入れていません。手に入りましたら、掲載するつもりです。
その前に、今日、すぐ近くにある日吉神社の資料を掲載しました。
ここに、この神社へ合祀された神さんが掲載されています。
大和村大字平岡字向山 鎮座 無格社平岡神社(祭神 稚日女命)
大和村大字小波字鹽入 鎮座 無格社日御崎神社神社(祭神 天照大御神、素盞鳴尊)
淀江町大字淀江字天王 鎮座 無格社淀江神社(祭神 素盞鳴尊、稲田姫命)
この三つに注目してください。太文字にした地名が、昭和9年当時にはあったことが判ります。天王は天皇陛下ではありません。大王がいつか住んで居られた可能性があります。
稚日女命は、『日本書紀』神代記上七段の第一の一書に登場する。高天原の斎服殿(いみはたどの)で神衣を織っていたとき、それを見たスサノオが馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込んだ。稚日女尊は驚いて機から落ち、持っていた梭(ひ)で身体を傷つけて亡くなったと書かれています。古事記では似たような記述がありますが、名前は書かれていません。


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