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2008.11.30

壹宮神社 郷社

壹宮神社 郷社
 鎮座地 西伯郡高麗村大字上萬字澤形  地図

現在地 鳥取県西伯郡大山町上万1124番

祭神 正哉吾勝勝速日天忍穂耳命、萬幡豊秋津師姫命、天饒石国饒石天津日高彦火瓊々杵命、表筒男命、中筒男命、底筒男命、大己貴命、倉稲魂命、罔象女命、菅原道真、天照大御神、稚日女命、少名彦命、素盞鳴尊

由緒 創立年月不詳と雖も、郡中の旧社にして、古来壹宮大明神と号し、往昔より神田若干を寄附せられ、元和寛永の頃に至りても旧格に準ぜられ、崇敬他になりしこと古證書等に判然たり、故に今猶宮田神子森田などの字近傍の耕地に存す、又一ノ宮と称すること社殿に曰、高木神天照大神の勅命により正哉吾勝命降り坐さんとする時、皇孫瓊瓊杵逸速く御誕生遊ばされし故を以て、古く一ノ宮と称し奉るなりと、古事記曰、爾天照大御神、高木神之命以、詔太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、今平訖葦原中国之曰、故随言依賜、降坐而知看、爾其太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命答曰、僕者将降装束之間、子生出、名天邇岐志国邇志天津日高日子番能邇々芸命、此子応降也、とあるを以て証すべし又旧記に拠るなしと雖も、古老の口碑に伝ふることあり、・・・・。

資料はまだまだ、続きます。読まれての感想はいかがでしょうか? 

私は昭和15年の生まれですが、ここに書かれてある漢字・文章は、少し難解です。僅か、60年前の文章ですが、私にとっては、古典になりつつあることが判ります。

この資料を読んで、考えたことを書いてみます。
①郷社になっています。鳥取県の西伯郡には、昭和9年当時、神社は、155社ありました。 その内、郷社は 16社です。大きな神社であったことが判ります。
②神社があるところの住所が変わっています。高麗村大字上萬字澤形 から大山町上万に代わっています。これだけで、何時の頃か判りませんが、「高麗」という地名と関係のある人が住んで居られたことが判ります。古くは高句麗を「高麗」と称していました。大雑把にいって、今の北朝鮮辺りになります。また、王建(太祖)が建てた朝鮮半島の国(918年 - 1392年)も高麗と言いますから、どちらか判りませんが、大陸から移住してこられた方が住んで居られたことが判ります。
③ 祭神が多いのが特徴です。 いくつかの神社が合併を繰り返すということは、複雑な事情があったことになります。
④一ノ宮と言われたと書いてあります。普通は、一つの国に、一の宮は一社です。
  伯耆の一ノ宮は、倭文神社と云う神社があります。
⑤ この神社誌は、鳥取県のものですが、全国各県で作られたらしいです。昭和9年と云いますと、大戦がはじまる前です。このようなものを作る余裕が、日本にはあったことになります。こうなりますと、第二次世界大戦を一度、歴史の上から見直す必要があるような気がしました。

⑥ ニニギ命の表記が、日本書紀と古事記では異なっています。
  古事記では、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命、天邇岐志、国邇岐志、天日高日子、
  日本書紀では天饒石国鐃石天津彦火瓊瓊杵尊、天津日高彦瓊瓊杵尊、彦火瓊瓊杵、火瓊瓊杵

資料の全文は http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-248.html に掲載しています。

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2008.11.28

岡田宮  page—39

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
岡田宮  page—39
  岡田宮は神武紀で遠賀川流域となっている。この近くには神ノ族にふさわしい地名が多い。港は神湊となっている。
 筑紫の勢力圏外に基地を構える必要があったので戦略上申分ない地点である。
 筑紫の弥生初期の古墳を考える時には国内は特に守るために道はつくらなかった筈だ。米が取れ出して貯蔵が出来たから物々交換が始ったと考えるべきである。
 余剰食糧の生産が可能になったから、ピンハネする豪族が生れ道が出来る。
 アイヌ族は食糧が不充分で貯蔵が出来ないから道は集落間に出来ず帝国が出来ない。 筑紫の古代の邪馬台国論議には先づ道がパスポートなしに通行出来たかが考えられなければならない。古墳には文化の流れるルート調査が伴はなければいけないと考える。

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2008.11.24

宇佐  page—37

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
宇佐  page—37
  神武天皇東征で一番最初に筑紫に向かうとなっている。筑紫の日向の高千穂に居られたのであるから、この二つの筑紫を較べるだけでも日向が宮崎県をさすことはおかしい。
 昔の国の名前のつけかたは先づ研究すべきで、出雲は雲がわき出る国である。国の名前が必要になるのは大和朝廷が例えば誕生して、地方の東西南北だけでは片付けられなくなってからではないか。
 出雲の国名も出雲に住んでいる人には無用で雲がわき出る国はヒルゼンの高天原から眺めた時に最もふさわしい名前である。
 筑紫もこの様に考えて見ると語源が何かあったものと考えられる。
 問題は神武東征で、筑紫---宇佐---岡田宮の順序にかかれたかである。宇佐に行かれただろうことは地名にあることから、うなづかれる。
 宇佐に立ち寄ったのは会いたい人が居ったからではないか。わざわざもてなした情景を古事記は伝えている。

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2008.11.21

日向  page—35

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
日向  page—35
  古事記中巻の始めに神武天皇が高千穂で東に行って国を治めたいと発言されている。ヒルゼンが寒気と不毛だったので米が取れなかったので高千穂に降りた。
 しかし国譲りで倭の国(米子平野)をしても同じく寒気で米が充分とれなかったので東の近畿平野に行って稲を作りたくなったのである。米の取れない畑地には魅力は全くなかったのである。
 倉敷の高千穂で東征を決意されたので出発地の日向は美保崎の西6キロの地点があてはまる。日野川の流域で米を作った。又中流の武庫に剣や矛の貯蔵も出来たので根雨の北の舟場から小舟で美保崎の近くの日向海まで運んで大舟に積みかえただろう。
 筑紫の方向に進んで九州の宇佐に行ったのである。この途中には浜田と下関に福浦の地名があり、下関の北に福江がある。これが潮待と食糧の補給地だった。五島列島の福江や天草の福浦が美保崎と華南の中間港と思われる。


私からの一言----国譲りから、神武東征まで、130年ぐらいの期間があります。
 美保崎の日向
 日野川の中流の武庫
 根雨の北の舟場
 九州の宇佐
 浜田と下関には福浦
 下関の北に福江
 五島列島の福江
 天草の福浦

 「潮待ち」はおわかりですか? 

地名は太い字で書きました。 全部、ご自分の地図で確認してください。確認したからと言って、田村氏の様に、この地名の所を神武天皇が、戦いながら進んだとは、なかなか想像できませんが、この地名の所を実際に訪れますと、次第に、古代の世界に引きづり込まれると思います。
 近くの所だけでも、訪れてください。福浦や福江は海の方からはいってくると、すべて、二等辺三角形の山が見えると思います。それだけでは、どこの港か分りませんから、他に、なにか対で目印があると思います。

 景気が悪いと騒がれています。訪問されましたら、許す範囲で、お金を落としてください。楽しませていただきましたお礼です。

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2008.11.20

比婆山  page—33

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
比婆山  page—33
  イザナミの神は出雲と伯耆国の境に葬ったとなっている。この所在地は解説書で所在未詳となっている。しかし横田の地図で安来市から2キロ南に比婆山神社があり、これが相当する。
 イザナミの神が黄泉の国に会いに行かれた時すさまじい光景がかかれている。この黄泉の国はホホデミの命を高千穂の山の西に葬ったと古事記にかかれている。
 この場所は米子の南東10キロの御墓原が相当すると〝神々のふるさとヒルゼン〟に述べた。ここにイザナミの神も亡くなられて最初風葬され後日洗骨して比婆山に葬られたと考えれば当時の葬送がしのばれる。
 御墓原の東の山かぜ鬼住山である。イザナギの神が黄泉から亡霊に追いかけられて撃退した所が蒜山、大山スカイラインの途中の鬼女台(キメンタイ)である。
 古事記の地名のただ一つのミスはこの時の黄泉比良坂を出雲にあると解説した点で実は
鬼女台、三平山の西側の坂だった筈だ。


私から一言---最近、ページが飛んでいるのに気がつかれましたか? とんだ所には、地図が掲載されています。掲載して、綺麗に読めませんので、抜いていますが、本当は、値打ち半減です。
 田村氏に申し訳なく思っています。

前回もそうですが、ここしばらくは、田村氏は、半分は、実際にある世界ですが、残り半分は空想の世界です。このページでは、

【ここにイザナミの神も亡くなられて最初風葬され後日洗骨して比婆山に葬られたと考えれば当時の葬送がしのばれる】と書かれて、想像と願望を書いておられます。
又、【黄泉比良坂を出雲にあると解説した点で実は鬼女台、三平山の西側の坂だった筈だ】と書いて、また、願望を書いておられます。
 しかし、この願望は、その筈だという確信に変わっていきます。核心は、良いのですが、これでは、歴史家も考古学者も納得してくれません。そこで、その間を埋めるために、何度も、御墓原も鬼住山に行かれました。鬼女台、三平山も実際に行かれました。
御墓原のような縁起でもない名前を地名につける訳がないと思われるでしょう。
 そんなバカなと思われるでしょう。そんなことはないのです。意外とお墓は縁起の悪いところではなく、先祖と再会できる神聖な所だったと思われます。一度、実際に行ってください。
 行かないで知りたい方は、角川の地名辞典が、どこの図書館にもあります。滋賀県の一番うしろにある小字一覧をご覧ください。墓という名前がつく小字がどれほどあるか調べてください。最近は、小字はなくなりましたが、滋賀県にいって、地元の方に聞かれると、まだ生きていると思います。
 このように考えますと、イザナギがスイザナミに会いに行ったお話などは、理解できるようになります。
 田村誠一氏は、昭和10年・京都帝大の電気科卒です。
はじめに書きましたように、想像の世界は、どちらかというと苦手の筈ですが、わくわくしながら、書いておられる様子が伝わってきます。
 ここがおかしいとか、あそこが間違っているではなしに、歴史の知識が少ない分は、想像をたくましくして、次々と、現地を訪れておられる所を共有して頂ければと思います。

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2008.11.18

根の国堅州  page—31

スサノオの命が母の国根の国堅州に行きたいと泣きさけぶ場面がある。この場所は〝神々のふるさととヒルゼン〟で美保崎付近と述べた。ここがヒルゼンの高天原に来る前の基地であった。宮谷に住居があったと考える。
 隠岐の島後の福浦から、ここの福浦に来て神武東征最後の基地児島まで舟の基地には福浦か福江かの地名が例外なく採用され十ヵ所を超えるのである。
 スサノオの命の母はイザナミ出なかったことを古事記は明かした。
 天照大神は女王だったが、代々女系相続だったことを〝ぎ志倭人伝〟が教えてくれた。
 この文献から伊都国の存在と代々女王だったことが分かる。
 女王は絶大な権力をもっていたのである。
 スサノオの命が天照大神を襲はんとした場面が古事記に出ていることも面白い。
 天照大神はヒルゼンから丹波国にあった伊都国に移って、東征は神にゆだねたのが天孫降臨である。

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2008.11.16

高天原  page—29

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
高天原  page—29

幼少のニニギの命はだかれて天の浮橋を渡って高千穂に下ったのである。天の浮橋はヒルゼン独特の高さ100米の濃い雲海でこの形容は実物を見れば立所に納得いただける。
 地図を主に古代をたどるのであるから地図にのせられた地名だけを紹介したい。
 天の浮橋を渡って明連川をさかのぼったので神橋のランカンにちなんで北の山はギボシ山(擬宝珠山)である。
 のぼりつめた峠は見返峠となっている。見返った人が誰だったかは想像にまかせることにしたい。
 ヒルゼンの大字は福田と長田である。天長の米を取る所が長田ではないか。天照大神も自分の田があり、あぜをスサノオの命に壊された。これが宮田だろう。宮城の地名もあるが平素はここに住まはれたのではないか。
高天原は150米程高い所だから寒いので政治を行う所だったと考えたい。
 お神楽の始まりは天ノ岩戸で舞はれたが今は無形文化財として大宮踊りが残っている。

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2008.11.14

高天原  page—27

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
高天原  page—27
 高千穂までは国土地理院の地図でたどりついたが高天原は地図にはない。高千穂に下ったのだから高地をさかせばよいのである。
 これは〝 神々のふるさと ヒルゼン〟に述べておいたが中蒜山の中腹の台地で蛭宮の地名の所である。国土地理院の以前の地図には示されている。
 ヒルゼンに高天原があったといくら口や文書で述べても無駄である。百聞一見に如かずのことわざ通り地形から地質、植物の生態、太古の湖水あと等を自から調べられることである。京都よりもはるかに広い耕地面積である。芦の繁っていた恐らく近畿以西では稲作の出来る最も広い所と見えた筈である。
 古事記に出てくる真名井も天ノ岩戸も昔のままである。天ノ香久山とそっくりの姿の山もある。この山だけがなぜ雑木林が生え鹿が居ったかは生態学の問題である。
 ヒルゼンが高天原に選ばれたのは素晴しい立地条件の知識があったと考えたい。しかし、火山灰でおおはれ、不毛の地だったのだ。

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2008.11.12

ヒルゼンの地名の特殊性 (地図 湯本)  page—26

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
ヒルゼンの地名の特殊性 (地図 湯本)  page—26
 
1. 動物名が多い 熊居峠、犬挟峠、犬畑峠、蛇ガ峠、象山、鳥ガ山、朝鍋鷲ガ山、
  鳩ガ原、大蛇、竜頭、天狗山

2. 宮のつく地名、縁のある地名
  宮城、宮田、宮沢、宮脇、堂ノ前、堂ノ上、鳥居峠、祝詞

3. 天のつく地名
  天王、天王川、天谷、天谷川、

4. 稲に関係ある地名
  苗代、苗代川
  田と芦の代りの茅のついた地名が残りの大半を占める。

5. 古事記に縁のある地名 三種の神器に縁のあるのは鏡成、玉田川、大蛇(剣)
  蛭宮--水蛭子(ヒルコ--流産の子供)を祭った所で高天原の地点

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2008.11.10

高千穂  page—25

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
高千穂  page—25
 わざわざ日向とことわったのは余程今までの所が寒さが厳しかったせいではないか。華南から来たために日向が望まれたのだ。
更に古事記では高千穂は韓国に面していると書かれている。出雲などを知った人が古事記を書いた以上間違いを書く筈もない。
この様に考えると倉吉の高千穂こそは条件にあてはまるのである。
なぜ韓国とここで書き入れたかの推理が必要になる。推論では最初に高千穂に降った祖先は朝鮮半島から追い出されて隠岐、美保崎から倉吉にやって来たのではないか。
朝鮮半島の中央部が漢のテリトリーだったことある。この人達が高句麗に圧迫されたので民族移動で日本にやって来たと考えたい。
支配階級の人は船の手当が出来たので中部朝鮮から日本海に脱出して先づ隠岐に来たと考えたい。
倉吉、ヒルゼン、米子時代から長い年月後に神武東征が行はれた。この時代には、大量に直接華南から呼びよせたのである。
従って二つのートを経て稲作を得意とする人達がやって来たと考えたい。


私より一言
 天神川の上流の地名をご覧ください。国府川の周辺です。「福」「田」「鍛冶」「神」「米」
「福」は福ノ神族の人たち、「神」はユダヤ人の人たちです。たいして無いじゃないかと思われるでしょう。他の所を眺めてください。殆どありません。

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2008.11.08

福定神社 鳥取

福定神社   鳥取
鎮座地 西伯郡餘子村大字福定字大蛇郷  地図


現在地 鳥取県境港市福定町374番

祭神 磐長姫命

由緒 創立年月不詳、往古より荒神宮と称す、明治元年神社改正の際福定神社と改められ餘子神社の摂社となる。

 
例祭日  10月28日
建造物  本殿、神楽殿、
境内坪数 231坪
氏子数  90戸


以下、考察
イワナガヒメ(イハナガヒメ)は、日本神話に登場する女神。『古事記』では石長比売、『日本書紀』・『先代旧事本紀』では磐長姫と表記する。
神社の祭神は、磐長姫命とかかれているということは、何時の時代か不明ですが、『日本書紀』・『先代旧事本紀』を書いた人たちによって支配されていたと思われます。
瓊瓊芸命は天孫降臨して直ぐに、木花之佐久夜毘売と結婚を望み、大山祇命に許可を得ます。その時に、条件として磐長姫命と木花之佐久夜毘売の二人と結婚をするように言われます。ところが、磐長姫命が醜かったので、返したことが、古事記に書かれています。その後の磐長姫命のことは記紀には書かれていません。
 しかし、富士山の近くには、磐長姫命と木花之佐久夜毘売が祀られていたり、大山祇命が祀られていますから、親子三人は、この辺りの支配を任されたのだと思われます。

磐長姫命は大山祗命(おおやまつみのみこと)の娘。木花開耶姫命の姉。

磐長姫命だけを祭る神社は、少ない。
伊豆神社    岐阜市切通12番49号 
雲見浅間神社 静岡県賀茂郡松崎町雲見386-2
 以上の神社では、磐長姫が一人で祀られています。

福定神社でも、磐長姫が一人で祀られていますので、西伯郡餘子村大字福定字大蛇郷のあたりに住んでいたと考えるのは、無理でしょうか? 
現在の福定町は、海抜2mです。磐長姫が生きていた頃は、紀元前100年ころですから、この辺りは海だったことになります。
 餘子神社の摂社となるとありますから、餘子神社は近くにあることになります。
餘子神社も、海の中だったと思われます。

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2008.11.07

高千穂  page—23

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
高千穂  page—23
 スサノオの命が大呂の製鋼所占領した。この製鋼の木炭を作ったのが福ノ神族である。日野川と安来の近くを流れる川の上流には福のつく地名が多い。
 この人達は国譲り前に移住して来た人達である。この呼びよせが高千穂で行われた。
 高千穂の近くに斎尾廃寺がある。法隆寺と同じ時代に法隆寺とならぶ寺があった。これも古代に高千穂に文化の中心があったとする証拠である。
 ここから眺める大山は高千穂の形容がピッタリである。九州の高千穂峯を眺めたが、山の峯単純で日本国内の外の山の峯と選ぶ所がない。
 大山は伯耆富士と呼ばれるがこの山容は真西の溝口からの眺めである。この外にアルプスと同じ北壁と南壁の姿がある。充分大山を研究されるならばこの山位高千穂の形容のあてはまった山は他にないことに気付かれるだろう。
 古事記では筑紫の日向の高千穂となっているのをヒュウガと解するよりヒムカすなはち日の当たると考えるべきだろう。


私より一言
溝口町に、福吉、福島、福居、福岡 の地名があります。地図で確認してください。

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2008.11.05

高千穂  page—21

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
高千穂  page—21
 タケミカヅチの神が米子平野を接収に成功したら誰が稲作をやるかである。この人達は恐らく華南の難民で直接すなはち朝鮮半島を経由しないでやってきたのではないか。
 移住とは時には権力によることもあるが、多くはよりよい生活を求めて行われるものである。
話はそれるが大和の文化が出雲に古代に伝っていったと書かれた本がある。大和から生活の困難な出雲に移り住む人があっただろうか。出雲の2000年の文化を認めるなら、これが大和に伝ったと考えるべきでないか。
生活が貧しくとも文化は育つのである。冬の四ヵ月の閉じ込められた生活こそ文化の種をまいていると考えたい。
本論に話をもどして、華南は当時圧迫を北から受けていたので移住先さえあればベトナムの難民同様、船さえあれば脱出したかった状況だったので大量に米子平野に来られたのではないか。
この日本の本部が高千穂だったのである。

私から一言----「大和から生活の困難な出雲に移り住む人があっただろうか」と云う文章は、重要ではないかとおもいます。

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2008.11.01

地名 亀甲

10月27日に書きました小波のすぐにしにある地名です。
この辺りは、海抜4~5mぐらいですので、江戸時代には海の底かと思っていましたが、亀甲神社が現在あり、その資料は、次のようになっています。

亀甲神社  
 鎮座地 西伯郡大和村大字中間字海道ノ上  地図

現在地 鳥取県米子市淀江町中間642番

祭神 須佐之男命
由緒 創立年月不詳、神木を以て荒神宮と称す、大神山神社の摂社たり、明治元年神社改正の際廃社となりしを、同十二年十一月許可を得て再興し、亀甲神社と改む。

従いまして、江戸時代にはあったと思われます。
当初は、「神木を以て荒神宮と称す」とありますので、亀甲神社とは呼んでいなかったと思われます。明治12年に亀甲神社に改められましたから、亀甲という地名が神社より先にあったと思われます。

亀甲という地名は、全国に、次のように確認しています。

 ①大分県臼杵市野津町亀甲 
http://www.navitime.co.jp/address/44206047000
歴史上における「野津」という地名の成立は、11世紀中頃ではないかと考えられています。  少し時代は下りますが、13世紀の土地台帳によると、「野津院(=大友氏の荘園)」は60町(現在の60ヘクタール)で、大友一族の定住と開発が伺えます。(臼杵市ホームページより)臼杵市ホームページより 海岸線より内陸部ですから、造船と関係ないか?

②弘前市亀甲町
慶長8年(1603年)藩祖為部が新城築城とその城下の建設に着手した最初の町割りが当地であったといわれ、兵法にいう城を守る四神(東西南北の神)の北の神玄武(亀のこと)にちなんで命名されたと伝えられています。

③岡山県久米町 周りに、久米、神代、公文、神安、桑下、桑上 の地名あり。
④岡山県中央町(かめのこう)  岡山県久米郡美咲町原田にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)津山線の駅である。駅近くに亀の甲羅のような岩(亀甲岩)があることから「亀甲」の名がある。

⑤福岡県八女市
  山の中で、近くに川も存在しないから、亀甲舟とは関係なさそう。
⑥熊本県玉名市
 菊池川上流ですから、亀甲船に関係あるかも知れません。
 http://www.mapion.co.jp/c/f?nl=32/55/30.446&el=130/33/19.702&scl=25000&uc=1&grp=all&coco=32/55/30.446,130/33/19.702&icon=home,,,,,
⑦熊本県筑後市 

⑧大分県

⑨青森県弘前市亀甲町(かめのこ)

⑩山梨県

⑪鳥取県米子市淀江町 
小波浜と亀甲は、以前は繋がっていたのではないでしょうか? 現在の地図を眺めてください。斜めに、道路が走っています。この道は古い証拠です。この辺りは、-殆ど、海抜4mですが、亀甲にあった荒神宮は明治元年神社改正の際廃社になったとあります。しかし、亀甲には社はあったので、同十二年十一月許可を得て再興し、亀甲神社と改むとありますから、亀甲は存在したと思われます。
許可を得てとは、どのような事情があったのでしょう。

亀甲船と云うものが有ります。
李舜臣行録に、次のように書いてあるそうです。
「亀甲船の大きさは、板屋船(当時の主力戦艦)とほぼ同じく上を板で覆い、その板の上には十字型の細道が出来ていて、やっと人が通れるようになっていた。そしてそれ以外は、ことごとく刀錐(刀模様のきり)をさして、足を踏み入れる余裕も無かった」、「前方には竜頭を作り、その口下には銃口が、竜尾にもまた銃口があった。左右にはそれぞれ6個の銃口があり、船形が亀のようであったので亀甲船と呼んだ」、「戦闘になると、かや草のむしろを刀錐の上にかぶせてカモフラージュしたので、敵兵がそれとも知らず飛び込むとみな刺さって死んだ。また、敵船が亀甲船を包囲するものなら、左右前後から一斉砲火をやられた」
 軍艦と思えばよいと思われます。

伯耆の亀甲では、この亀甲船を造っていたのではないかと想像しています。上に書きました亀甲船は、朝鮮人が造ったとされていますが、伯耆では、紀元前150年頃に造っていたのではないかと思っています。そのときは、もっと、小さいものだったのではないでしょうか?
上に書かれた構造では、亀の甲羅の様に、身体が見えないようにした船と云う事になります。
 想像するに、そうではなく、船の形が六角形だったのではないでしょうか?
そのため、前後、どちらでも進むことが出来た。狭い河では、一々向きを変えなくて進むことが出来たので、機動力に富んでいたのではないかと考えています。

この船で、溝口町の白水、大滝、吉原まで、遡って蒜山高原まで物資を運んでいたのではないかと想像しています。と云う事は、軍艦ではなかったと考えています。溝口まで遡った船は、白水川に入り、遡ったと想像しています。
 大滝、吉原のあたりは、イザナギが禊をしたところではないかと想像しています。 
 どうして、このような発想になるかは、日を改めて書いてみます。

 伯耆以外では、岡山県久米郡美咲町原田は、山野中ですが、天皇の軍隊である久米族が住んでおり、ここで船を造っていたのではと、夢見ています。 
駅近くに亀の甲羅のような岩(亀甲岩)があることから「亀甲」の名がある。と云うようなことで、果たして、街の名前になるでしょうか?  

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