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2008.12.03

タケリの宮 〝ヒルゼン古事記〟で解明 -P—41

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
タケリの宮 〝ヒルゼン古事記〟で解明 -P—41 神武天皇は九州の岡田宮に一年居って次に移った所がタケリの宮で七年滞在した。
 この場所は解説では広島市の東の府中町となっている。地図では開発が住んで仲々調べるのが困難だ。地名に対する解説は間違っていることが多い。
岡田宮から広島湾の奥まった所に進駐することは賛成しかねる。むしろ柳井市の南の上関がふさわしい。
 港は福浦でうしろの山は皇座山ではないか。耕地がないから先住民は居らなかった筈だ。岡田宮に一年の間に倉吉、米子から、上関の北に大移動を行ったと思われる。
 川のつく地名が少ないのが、その理由である。
 タケリの宮七ヶ年の間に太田川の下流と吉井川、旭川の流域に華南から呼寄せしたから年数を要した筈である。食糧の貯えがないことには戦はできない。移住民自体の米まで心配するのだから年数のかかるのは当然だ。東征だからとて実は民族移動ではないか。


私から一言---41ペーシの前のページに上関町の地図が掲載されています。ここに皇座山が掲載されています。
 その下に、「柳井の屯田兵基地 タケリの宮があったらしい。と書かれています。

そして、もう少し、下の方に、
「タケリの宮は古事記に誤りがありました。安岐ではなく、吉備とすべきでした。」
と書かれています。
田村氏は、毎日、わくわくしながら、新しいことを発見されたようです。

私の調べたところでは、安芸の国には、タケリの宮に関係する伝承がいっぱいありましたので、やはり、安芸にあったのではないかと考えています。では、どうして、内陸まで行かなければならなかったのか等 まだまだ検討する必要があります。

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