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2008.12.31

第4話 古代史学の謎  その2

その2と書きましたが、田村氏が書かれたものではありません。これから私が書こうとしているもののタイトルです。
 6と7ページは見開きになっていますので、両方を比べながら読みますと理解し易いです。
6ページをスキャンして、ブログに書いてある通りにしているのですが、大きくなりません。表示を100パーセントになっていますから、200パーセントにしますと、大きくはなるですが、字がぼやけます。
 
 少し、言訳を書いた所で、この文を読んだときの感想を書きます。この冊子を息子さんから送って頂いた時に、どんどん読みました。全部理解できました。しかし、今振り返ってみますと、半分しか、判っていなかったなと思っています。
 試しに、家内に読んでもらいました。分かったかと聞きますと、そんなものだろうと。他に、なにも返事をしません。きっと、嫌な世界だなと思ったのだと思います。

 どんどん、私が解説をしますと、「お父さんのやっていることも、誰も認めないでしょうね。 田村さんも認められなかったが、お父さん(私のこと)が一人が認めたことになるね。 生きておられる間に、お会いできたら、どんなに喜ばれたか」と云いました。

樋口清之博士が、古稀を記念して出版された『大和の海原』の中です書かれた文をもう一度書きます。 古稀とは、70歳のことです。現在では、70歳くらいでは、そうめでたいことではありませんが、 お祝いをした理由が、「唐の詩人杜甫の曲江(きょっこう)詩「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」からきています。
 お祝いは、自分でするものではなく、周りの者が、お膳立てをして祝うものです。だから、『大和の海原』も多くの人が関わられたうえで、完成した本です。
なのに、博士は、次の様に書いたと坂名井氏が、『鉄剣銘百十文字の謎』の本の中で書いておられます。
 -----だいたい専門でない者のいうことが大そう、当てになるものでして、専門の人のいうことはたいへん当てになりかねる。ことに、先輩、師匠が一ぺんにいいますと、なかなかのちの人は訂正いたしませんで、もし訂正すると、師匠が死んでおりましても同門の外の師匠から、絶交されたりしまして、大変孤立しますので、つい、つきあい上、師匠のいった説を死ぬまで押し通し、また、いいがかり上、つい、やめられなくなって押し通すなどというつまらん者もおりまして、そういうことが随分多うございます。-----
 お祝いの記念誌に、このようなことを書かなくてもいいのに、書かれました。この文章は、痛烈なことを書いておきながら、あまり、痛撃さを感じさせない所があります。これは、生まれた土地柄だろうかと思い、どこのご出身かと調べる気になりました。調べると言っても、WEBで検索するだけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E6%B8%85%E4%B9%8B によりますと、凄い経歴の持ち主であらせられます。著書も多いです。奈良の桜井の出です。
沢山の本を出版されましたが、人に迷惑がかかることは、書かれなかったのでしょうか?
そこで、続けてWEB
を眺めていましたら、樋口清之博士の県別にみる日本人診断 http://www.euc.co.jp/ken/ がありました。私はもっとも、興味があるのは、三重県です。そこで、三重県の所を読んでみました。 調べないうちから、三重県を調べるのは難しいと思っているので、私が気に入らない所もありますが、思ったことは、随分、はっきりと書いておられます。「伊勢地方の人は、色は白くないが、筋肉質で楕円顔、名吉屋の人に似ている。しかしここもあまり美人を見かけないところである。」なんのことはない、先生の好みの女性が少ないだけのことでしょうに、思ったことは書いておられます。

 しかし、『大和の海原』の中では、周りの者を不愉快にさせないように、気配りの文を書いておられます。きっと、記念出版会が行われたことでしょう。なんと言っても、歴史に関係ある人がお集まりになったと思います。 その席でも、嫌われるのを承知で、おしゃべりをされたと思います。
 その時の様子でしょうか? 坂名井氏は、「こんなのは死ぬ直前につくらねば駄目なのです。生きて発表すると一ぺんにひっぱたかれますから。ぱっと発表して、ぱっと死にますと、ひっぱたきようがないから、やっぱり暗免は勝です。」と同書で述べている。

 当の先生は、70歳の時に、すぐに死ぬと思われたのでしょう。しかし、亡くなられたのは、1997年2月21日ですから、28年後で、98歳でした。
 
 今の歴史学界も、同じようなことなのでしょうか? 歴史学界に限らないのでしょうか?

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2008.12.30

第4話 西大寺ヤマト 古代史学の謎  page 5

古代史学の謎  page 5
 第4話は大変なことになりました。田村誠一氏が、勉強されたことは、どうやら、歴史のプロ方の意見と相容れない部分が多くなったようです。
 そこで、名指しで、書かれてあることの納得いかない所を指摘することを始められました。
4ページに、坂名井著 『鉄剣銘百十文字の謎』162ページを掲げ、それに対してのご自分の考えを書いておられます。

例によって、スキャンしたものを掲載します。(4ページのイメージは、後ろに回します) 上手く読めない時は、内容を入力し直します。この作業は大変ですので、ひと先ず、この方法で進めます。---ブログ管理人 

以下が、古代史学の謎  page 5 に記されている文章です。

 国学院大学の古代史の大家、樋口名誉教授が古希の記念出版〝大和の海原〟で書かれた左記の意見を読んで、一般人は何を感ずるか
 教授は名ざしはされなかったが、小生は先づ東大名誉教授江上氏の騎馬民族説に、異論が出ないことが不思議でならない。
 古代史については、文部官僚に至るまで、東大閥でかためられた以上、反論しないことが身の安全である。
 京大閥が邪馬台国近畿説を出せば、東大閥によって、不敬罪で刑務所行きの危険が戦前にはあった。学閥は今もなくなっていない。
 丸山ワクチンは、日大の教授が作ったから普及が遅れたのである。東大教授が最初ならこんなにごてることはなかった。これに、客観性のない報道機関が油を注いだまでだ。
 樋口教授は、今更いくら、ひっぱたかれても、先が短いからと死ぬ覚悟で警告された。
 古代史は仮説だけで、へりくつだけになり立って証明がない。素人の参入を恐れるのは、古代史が砂上のロウカクだった証明だ。

 参考に---この第4話は、昭和56年3月10日 発行です。(非売品) ページ数 63ページです。


掲載しましたが、やはり添付した画像から字を読むことが出来ません。はじめと後ろに、坂名井氏の文章が書かれていますが、省略して、樋口名誉教授が古きの記念出版〝大和の海原〟で書かれた文章だけを書きます。
-----だいたい専門でない者のいうことが大そう、当てになるものでして、専門の人のいうことはたいへん当てになりかねる。ことに、先輩、師匠が一ぺんにいいますと、なかなかのちの人は訂正いたしませんで、もし訂正すると、師匠が死んでおりましても同門の外の師匠から、絶交されたりしまして、大変孤立しますので、つい、つきあい上、師匠のいった説を死ぬまで押し通し、また、いいがかり上、つい、やめられなくなって押し通すなどというつまらん者もおりまして、そういうことが随分多うございます。-----

この後も、続けて掲載します。以下は、『鉄剣銘百十文字の謎』の著者の坂名井氏の文章になります。

樋口博士にしても、学問の専門で自分の研究成果を発表することの困難なことを告白している。そして、もいま『万葉考古学』という本を書こうとし、ここで、いろいろ先輩の先生方の説をひっくり返している。「こんなのは死ぬ直前につくらねば駄目なのです。生きて発表すると一ぺんにひっぱたかれますから。ぱっと発表して、ぱっと死にますと、ひっぱたきようがないから、やっぱり暗免は勝です。」と同書で述べている。
 こうなってくると、ことに日本古代史に於いては、専門の学者が言っていることが、すべて本当だろうかと疑いたくなる。


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2008.12.29

第4話 西大寺ヤマト  page 3

今日から、第4話の始まりです。次の図は、裏表紙に書かれてあったものです。上手く見えるでしょうか?
最初のページは3ページから始まっています。いつものように文章を打ち直しています。

001

高天原がヒルゼンにあったとすれば、邪馬台国は、全く自然な話の展開で岡山西大寺(西大寺市は合併で消滅)にあったと認めざるを得ない。
 読者は自由に批判されんことを望むものである。小生も技術者の一員であり、仮説には証明が必要なことを承知している積りで、以下に証明をこころみたい。
 古代史を解明する文献は古事記と外国文献以外には古墳と地名しかない。日本書紀は書出しをみれば、一書にいわく、一書にいわくの形式で、これは、うわさの羅列である。
 従って、編集者は無責任な態度だから、採用には各自の判断が必要である。
 古事記を実話として展開した上で、不合理が発生して後に、神話なりの判定を下すべきである。日本書紀の内容が正しいか否かを決めないで日本書紀で古事記の批判は許せない。古事記が神話の仮説のもとに書かれた書物は西大寺ヤマトの反論に使用することは学問的に矛盾している。

私から一言---田村氏は昭和10年に京都帝大電気科卒業だけあって、仮説には、すべて、証拠を書いておられます。この仮説が正しいかどうかは、なかなか判定が難しいところがありますが、それは、田村氏の責任ではなく、資料が少ないからだと弁護したくなります。
 しかし、この仮説は、新聞等の報道で発掘などが発表されますと、その仮説が覆されることはなく、そり度に、仮説を証明することに役立って行きます。

田村氏は、これまで見て頂きましたが、新しい発見をするたびに、想像力をたくましくし、資料の収集を強力にし、その喜びがひしひしと伝わってきます。
 この文面から推察しますと、どなたかが、邪馬台国は岡山西大寺であるという仮説に対して、イチャモンを付けられたようです。天下の京大の歴史のプロが邪馬台国近畿説であり、東大は九州説です。 その邪馬台国どころか、高天原はヒルゼン高原だとの仮説を発表されました。
 そこで、田村氏の「高天原がヒルゼンにあったとすれば、邪馬台国は、全く自然な話の展開で岡山西大寺(西大寺市は合併で消滅)にあったと認めざるを得ない。」の文章になりました。 
それだけには、留まらず、「読者は自由に批判されんことを望むものである。小生も技術者の一員であり、仮説には証明が必要なことを承知している積りで、以下に証明をこころみたい」との少し、過激かと思われる文章を見ることができます。

イチャモンを付けられた人が、日本書紀が正しくて、古事記が間違っていると言われたのでしょうか?
「古代史を解明する文献は古事記と外国文献以外には古墳と地名しかない」と書いて、日本書紀は駄目だと書いておられます。
 以下に書かれてあることは、正論です。日本書紀が正しいかどうかを確定しないで、日本書紀を使って、古事記を批判することは間違っています。
 イチャモンを付けた人は、古事記に書いてあることは、神話だから、古事記を使って、西大寺がヤマトであるという仮説は、意味がないようなことを言われたのでしょうか?

今の様に、インターネットで仮設を公開することが出来なかったのでしょう。田村誠一氏は、次々と本を出版されました。しかし、これまでの冊子は、すべて非売品になっています。全国の大学に送付されたと思います。
 こんなものは、駄目だというコメントが返ってくれば、張り合いがあったのですが、はじめに書きました私の推理は間違いで、全くの無視であったのではないかと思っています。
 それどころか、世の中に出回っているものは、すべて、日本書紀が正しいこととして歴史は展開しており、古事記は歴史の資料として価値がないものとされています。
 このように考えますと、以後のページに書いておられることは、理解できるのではないかと思います。

私の一言どころか、随分長くなりました。
第4話、楽しんで頂けましたら、嬉しいです。

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2008.12.27

第二話 追記---2 page—61

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
第二話 追記---2 page—61

7.倭国大いに乱る、と書かれた時には狗奴国は倭国の一員に統合されている。
天照大神の始めた伊都国とスサノオの命の子孫が支配者の邪馬台国とは同じ華南からの移住民が主の国である。
 天照大神との始めた伊都国とスサノオの命は古事記では、なかば難き同志の記述であることが遠因で倭国は乱れたのである。

8.狗奴国は邪馬台国の南とあり、さきの国を指す。

9.伊都国や狗奴国、邪馬台国の支配者は華南出身だから各々使を支那に派遣出来たのである。しかも仲裁を依頼したのだ。真の独立国なら支那に朝貢する必要もない。
 決として卑弥呼は死を賜って伊都国は抹殺された。古事記に記載する理由こそなかったのである。
 〝ぎ志倭人伝〟は倭国と特別利害関係がないから事実のまま書いた。
 仮りに粉飾は一時的に出来ても何れは、つじつまが合わないことでボロを出す。日本書紀はつじつまを合せるために粉飾が多すぎないだろうか。沢山の資料を内容も確かめないで取上げて混乱を招くのみの書とは云いすぎだろうか。

5項以下は新しい資料で全面的に書き改めました。〝ヒルゼン古事記〟を参照下さい。


以上で、第二話は終わりです。沢山の地図がありましたが、綺麗に見えませんので、掲載は止めました。 この地図が素晴らしかったのですが、残念です。

次回からは、第四話 西大寺ヤマト  --資料編--- です。

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2008.12.25

第二話 追記 page—59

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
第二話 追記 page—59

1.神武東征の高島の続きは改めて稿を起したい。取敢えず熊野川は田辺市で海に注ぐ会津川の上流が熊野川である。新宮市を流れる熊野川は遡行不可能だ。
 龍神や大峯山の天川が通過した所と思はれる。

2.東征の最終地は大和の三輪である。このことは〝神々のふるさとヒルゼン〟で述べた。三輪の地名は前述の柳井にあり、三輪の所在地、大福の地名は岡山市にあって襲名されたものである。

3.イザナギの命の葬られた所は近江の多賀が正しい。古事記では淡海となっていた筈で、淡水の海すなはちびわ湖のことを淡海と呼んだはずである。古代の地名が形容詞で地形を呼んでいる。

4.八俣の大蛇の場所は鳥髪で地図にあり山の名は船通山である。日野川船が通えた山である。サノオの命の美談に作り変えた点が謎の鍵である。

5.イザナミ、イザナギの命は古事記に葬られた所は記載されなかった。これが謎の答えである。伊都国に天照大神は移られ、伊都国は抹殺された。

6.伊都国については〝ぎ志倭人伝〟の記述で知る外ない。邪馬台国が詳細に述べられた時代には狗奴国はまだ倭国の一員ではなかった。
続く

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2008.12.23

第二話 格言 page—55

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
第二話 格言 page—55
  古事記は解説が間違っていたために神話として歴史とは
別扱いにされた。しかし国土地理院の地図に現はされた地名で歩いた限りにおいて、お隠岐な間違いはなかった。
 神武東征も正確な記述だった。更に〝ぎ志倭人伝〟もも邪馬台や伊都国で論争が、くりかえされが西大寺と、福知山を中心とした国であった。これも地図が解いてくれたのである。
 支那からなぜ使いが来たのか、金印の謎も解けた。弥生時代が突然始まった理由も明らかになった。
 人種の混血が近畿に著しかった理由も、大量移住の問題で片付くのである。
 弥生時代の初期に始まって後期にはなくなった高地性集落の問題もはっきりした。
 九州と支那より、米子の方が近かったのである。
 出雲は貧しかったので歴史がいくらながくても、大帝国は形成出来なかった。貯蔵できるだけ兵糧がなかったのが理由である。

 美保崎から西大寺までの大縦断ルートが弥生時代にあったことは歴史をふりかえる上で重大な出来事である。しかも、このルートが広い意味での支那の人々によって守られて来たのである。
 海上には地図が不要な位点々と福浦と福江の地名で福建省までルートが出来ていたことも明らかになった。
 地図を歩く動機を与えてくれたのは佐竹淳如遺稿〝神代遺蹟考〟である。昭和三年に高天原は日留山高原だったの原稿が不敬の罪にあたるとして勝山中学の教頭から、京城中学の平教員に左遷された。週末をヒルゼンに過すようになって、この書簡内容に同感できる点が多々あったのである。
 佐竹先生の卓見とこの遺稿をまとめられた人々に厚くお礼を申上げたい。
 終りに地名は時には古墳以上に永に歴史を伝えるものである。新住所表示は古墳破壊以上の悪法だから過ちをあらたむるにはばかるなかれと申添えて筆をおく次第である。
                                            昭和50年12月20日

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2008.12.21

邪馬台国  page—53

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
邪馬台国  page—53
  〝美作の国吉井川〟は津山までの高瀬舟が中国鉄道にとって変ったドラマである。この吉井川は2000年昔に渡来民族によって、流域が開拓された。
 農業革命の推進役を果たしたのである。ヒルゼンも倉吉平野も米子平野も同じ渡来民族が開拓したのである。
 米子から津山までも同じ渡来民族が沿道に住み鍛冶屋が多いのである。
 〝ぎ志倭人伝〟は末ろ国から邪馬台国まで陸行一月としたのは津山までを指す。吉井川を十日で下った所が邪馬台国である。
 邪馬台国えのメーンルートは瀬戸内海経由ではなく津山経由だった。
 邪馬台国の都も必要だ。これは地図に古都の地名でひっそりと残されていた。古都の真中を山陽新幹線が貫通していたのである。
 神代と云はれた時代も古事記と「ぎ志倭人伝」のお蔭で大要が地図で分かった。弥生時代はやはり邪馬台国で幕明けされたと云はざるを得ない。

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2008.12.20

ぎ志倭人伝  page—51

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
ぎ志倭人伝  page—51
  ぎ志倭人伝で支那の使いの本土に着いた所が末ろ国である。境港付近で福浦、日向浦、宮谷、福定(夜見島)が含くまれる。
 東南百里の奴国は既に述べた米子平野で人口二万戸である。不弥国は倉吉平野の高千穂が東百里で正しい。
 投馬国は南で吉備国である。日野川と高はし川を水行二十日すればよい。現在は全く同じルートを伯備線が通っている。2000年前と同じ道とは面白いではないか。
伊都国は陸行五百里で末ろ国の東南にあればよい。これは山陰道を進めばよい。昔のことだから川は上手に利用しただろう。
福のつく福知山の北の大江山がピッタリである。国土地理院の大江山を眺めてほしい。大江町の北に内宮と豊受神社がある。天照大神は伊勢神宮の前はここに祭られていた。豊受神社が外宮になった。周囲に天のつく地名が多いのが一つの理由である。次にヒルゼンかりの地名が多い。
〝ぎ志倭人伝〟で使の人を迎えた〝津〟とは宮津のことだった。

私からの一言---ここで凄いのは、「現在は全く同じルートを伯備線が通っている。2000年前と同じ道とは面白いではないか」です。
国鉄は、みごとに全国に汽車を走らせました。
どれほど、見事であるか、誰も気がついていません。気が付いた時には、それを確かめることは誰にも出来ません。確認するためには、廃線になる前の地図を残しておかなければなりません。 
国道も同じことです。2号線、9号線を走りましたが、2000年前と同じです。

「ぎ志倭人伝で支那の使いの本土に着いた所が末ろ国である」以下、自分で調べてください。なにをしらべるかから始めなければなりません。5年掛ければ、誰でも納得いくと思います。

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2008.12.14

美作の国吉井川  page—49

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
美作の国吉井川  page—49
  このタイトルは庄節の題名であり、テレビでも放映された。福の神族の多い所に必ず鍛冶屋の集落がある。ここである時は剣、ある時は鋤がつくられたのである。
 この福ノ神族は落合から津山に出て吉井川を下ったと〝神々のふるさとヒルゼン〟に述べた。暖い稲の育つ所を求めて下ったのである。津山から吉井川の川口までに五十近い福と神、宮のつく地名がこの事実を明らかにしてくれた。
 鋤がこの流域の鍛冶屋でつくられ、玉鋼もこの川で運ばれた。農業革命を支えたのがひの吉井川である。
 鋤が出来て物々交換の必要性が生じ、古代の交通路が街道に移り変ってゆく。
 邪馬台国は正しく末ろ国の南で陸路一月、水行十日の地点にあり、南の方向である。都のあった所は地図ら古都の地名で残っていたのである。
 古代に鋤が剣と共に福ノ神族の独占時代があったから鉄の道、吉井川が誕生した。

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2008.12.12

鋤  page—47

福の神族の存在を先の二つの書籍は別の面から証明してくれた。稲作はイギリスの産業革命に比すべき農業革命だが日本の古代の歴史にも革命を起こした。
 大量の移民も、もちろんだが、重要な役割をはたしたのは鋤だったと考えたい。国立博物館の古代の鋤には難しい名前がつけられている。しかし高千穂の付近や外に鋤の地名がつけられた以上鋤でよいのではないか。
 展示品は二種あり、一つは鉄板の一端が柄をつける様に曲げられてつくられている。この鉄は鍛造してある以上スサノオの命の占領した大呂の良質の鉄だったのである。
 タタラ製鉄はフイゴを使用する。この多大な労働力は権力者が出来て食糧を他の人が生産する様になって可能になる。
 出雲は貧しかったので他人の食糧まで心配できないので自然通風の煙道が必要だった。この煙道が八俣の大蛇の胴だつたと〝神々のふるさと〟で明らかにしておいた。
 この鋤が物々交換の原資となって道が必要になる。

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2008.12.10

児島  page—45

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
児島  page—45
  古事記に記された中で一番小さい島が児島である。如何に重要な島であったか。この島にも浦島の地名が残されている。
 高島時代に如何に大量の移住民が呼びよせられたかは国土地理院の岡山北部、岡山南部、和気、西大寺の地図をトレースすれば驚かれるだろう。
 旭川や吉井川のデルタ地帯は芦が繁っていた筈である。吉備先住の焼畑農業の人達に取っては全く住むことの出来ない所であった。
 新住民がやってきても、事を構える必要もなかったのである。福ノ神族ゆかりの地名がいくら誕生しても、飽和するまでは良かった。
 偶然ここで出版された許りの〝山陽の古代遺跡〟を入手した。これは高地性集落の記述がなされていた。又〝古代日本人の謎を解く〟でも大量移住を予見されている。
 新住民の侵入を防ぐために、先住民の武器を準備したと考えれば、問題の解決は容易だ。

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2008.12.07

宣戦の詔直

天皇による開戦の宣言を「宣戦の詔直」と呼んでいます。たとえば、明治38年10月16日に、露国に対して宣戦布告したものが残っています。
〔日露戦争宣戦詔書]http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/nitirosennsenn.htm
〔露国に対する宣戦の詔勅〕
http://www.jacar.go.jp/nichiro/sensen.htm
ところが、第二次世界大戦の時は、宣戦布告はなく、日本はアメリカを騙し打ちにしたとされ、それが正しいことになっています。いわゆるハワイの真珠湾を奇襲したことを指します。
 一旦、アメリカがそのように、日本に抗議し、殆どの日本人もそのように考えていますが、田母神空幕長の論文をきっかけに、もう一度考え直しても良いのではないかと思います。
その理由は、田母神空幕長が論文を発表したときの政府とメディアの反応の仕方があまりにも、異常だったからです。世論が、気が狂ったように、片寄るときは、なにか、隠し事を暴露されそうになった人が、それを蔽い隠そうとすることが多いからです。

第二次世界大戦のときに、終戦の詔直は、有名です。ラジオで何度聞かされたことでしょう。
開戦も1941年12月8日11時40分に発表されたとされています。
この発表に先立ち、同日、午前7時に、大本営が「帝国陸軍ハ本8日未明、西太平洋ニ於テ米英軍ト戦闘状態ニ入レリ」とラジオで国民に開戦を報せています。

時間的に、天皇の「宣戦の詔直」の方が、遅いことになっています。

戦争を始めてから、「宣戦の詔直」を作ったのか、戦争には、国としての宣戦布告は、必ず必要なものなのか、知らないことだらけです。
 少しずつ、考えたことを書いてみます。    

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2008.12.04

高島  page—43

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
高島  page—43
  神武天皇はタケリの宮に七年、吉備の高島に十五年かかって東すなはち近畿の大平野に行く準備をしたのである。屯田兵と食糧が必要だったのである。
 稲作は古代における最大の技術革新であって、しかも水田は人の住んで居らない所に新しく人をつぎこめばよい。この人達を華南からいくらでも呼びよせられたのである。
 赤城毅彦著〝古代日本人の謎を解く〟に大量の人が動いたと指摘されている。実はこの大量の人達は十五年間に呼びよせられた人でなかったのか。受入態勢のないのに大量の移動はかんがえられない。
 神武天皇は後方の安全基地に居つた筈ではないか。吉備の高島を児島湾口の小さな高島とした解説はおかしい。
 笠岡の南の神島のとなりの高島であるべきだ。神島の名前もふさわしいし、福浦の港もそろっている。芦田川の川口まで8キロで、この地方に足跡を残したと思はれる。

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2008.12.03

タケリの宮 〝ヒルゼン古事記〟で解明 -P—41

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
タケリの宮 〝ヒルゼン古事記〟で解明 -P—41 神武天皇は九州の岡田宮に一年居って次に移った所がタケリの宮で七年滞在した。
 この場所は解説では広島市の東の府中町となっている。地図では開発が住んで仲々調べるのが困難だ。地名に対する解説は間違っていることが多い。
岡田宮から広島湾の奥まった所に進駐することは賛成しかねる。むしろ柳井市の南の上関がふさわしい。
 港は福浦でうしろの山は皇座山ではないか。耕地がないから先住民は居らなかった筈だ。岡田宮に一年の間に倉吉、米子から、上関の北に大移動を行ったと思われる。
 川のつく地名が少ないのが、その理由である。
 タケリの宮七ヶ年の間に太田川の下流と吉井川、旭川の流域に華南から呼寄せしたから年数を要した筈である。食糧の貯えがないことには戦はできない。移住民自体の米まで心配するのだから年数のかかるのは当然だ。東征だからとて実は民族移動ではないか。


私から一言---41ペーシの前のページに上関町の地図が掲載されています。ここに皇座山が掲載されています。
 その下に、「柳井の屯田兵基地 タケリの宮があったらしい。と書かれています。

そして、もう少し、下の方に、
「タケリの宮は古事記に誤りがありました。安岐ではなく、吉備とすべきでした。」
と書かれています。
田村氏は、毎日、わくわくしながら、新しいことを発見されたようです。

私の調べたところでは、安芸の国には、タケリの宮に関係する伝承がいっぱいありましたので、やはり、安芸にあったのではないかと考えています。では、どうして、内陸まで行かなければならなかったのか等 まだまだ検討する必要があります。

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