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2008.12.23

第二話 格言 page—55

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
第二話 格言 page—55
  古事記は解説が間違っていたために神話として歴史とは
別扱いにされた。しかし国土地理院の地図に現はされた地名で歩いた限りにおいて、お隠岐な間違いはなかった。
 神武東征も正確な記述だった。更に〝ぎ志倭人伝〟もも邪馬台や伊都国で論争が、くりかえされが西大寺と、福知山を中心とした国であった。これも地図が解いてくれたのである。
 支那からなぜ使いが来たのか、金印の謎も解けた。弥生時代が突然始まった理由も明らかになった。
 人種の混血が近畿に著しかった理由も、大量移住の問題で片付くのである。
 弥生時代の初期に始まって後期にはなくなった高地性集落の問題もはっきりした。
 九州と支那より、米子の方が近かったのである。
 出雲は貧しかったので歴史がいくらながくても、大帝国は形成出来なかった。貯蔵できるだけ兵糧がなかったのが理由である。

 美保崎から西大寺までの大縦断ルートが弥生時代にあったことは歴史をふりかえる上で重大な出来事である。しかも、このルートが広い意味での支那の人々によって守られて来たのである。
 海上には地図が不要な位点々と福浦と福江の地名で福建省までルートが出来ていたことも明らかになった。
 地図を歩く動機を与えてくれたのは佐竹淳如遺稿〝神代遺蹟考〟である。昭和三年に高天原は日留山高原だったの原稿が不敬の罪にあたるとして勝山中学の教頭から、京城中学の平教員に左遷された。週末をヒルゼンに過すようになって、この書簡内容に同感できる点が多々あったのである。
 佐竹先生の卓見とこの遺稿をまとめられた人々に厚くお礼を申上げたい。
 終りに地名は時には古墳以上に永に歴史を伝えるものである。新住所表示は古墳破壊以上の悪法だから過ちをあらたむるにはばかるなかれと申添えて筆をおく次第である。
                                            昭和50年12月20日

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